メッセージ - 201403のエントリ
礼拝説教メッセージ音声:主の会衆に加わってはならない者なのに(申命記23:1-8):右クリックで保存
今回の箇所では、主の会衆に加わってはならない者の特徴が示されているが、これを見ると、主の会衆に本来加わる事が出来る人は、非常に限られている事が分かる。
『すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない。』(申命記23:1)
そのような傷のあるレビ人の祭司も、御前で奉仕する事は禁じられているし、そのような傷のある動物も、主に捧げるいけにえにしてはならないと定められている。(レビ記21,22章)
だから、異邦人の宦官は、御前に出る事が出来ない”筆頭”と言えるだろう。
『私生児は主の会衆に加わってはならない。その子孫は十代までも主の会衆に加わってはならない。アンモンびととモアブびとは主の会衆に加わってはならない。彼らの子孫は十代までも、いつまでも主の会衆に加わってはならない。』(申命記23:2-3)
私生児は、親の権威に対しての認識や、性的な認識において、傷を負っている事が多いからかもしれない。
また、アンモン人やモアブ人は、アブラハムの親戚(すなわちイスラエル民族の親戚)であるにもかかわらず、イスラエルが荒野を放浪している時、「助け」ではなく「呪い」を与えようとしたからであり、彼らに対しては、『あなたは一生いつまでも彼らのために平安をも、幸福をも求めてはならない。』(6節)とまで命じられている。
以上のように、宦官や私生児、モアブ人などは、主の会衆に加われない事が分かったが、聖書を見ると、このような人たちが、なぜか、主の会衆に加えられているケースを多く見る。
異邦人の中で最初に洗礼を受ける栄誉にあずかったのは、エチオピア人の宦官であったし(使徒8章)、エフタは私生児で本家から追い出されていたのに、主は彼を士師として用いられたし(士師記11章)、ルツはモアブ人であるのに主の集会に加えられ(ルツ記)、ダビデは彼女の十代以内の子孫なのに、イスラエルの王とされている。
一体なぜ、このように、律法に矛盾するような事がまかり通っているのか。
一体なぜ、神の民から疎外されるべき者が受け入れられ、恵みを受けるに相応しからぬ者が、相応しいとされるのだろう。
その理由を探っていくと、私達のような、主の前に全く相応しからぬ者が、主に受け入れられる事の答えが見えてくる。
結論から言えば、この矛盾を一気に飛び越え、矛盾を矛盾でなくするものは、信仰である。
エフタはアンモン人に対して立派な信仰告白をしているし(士師記11章)、ルツもナオミに対して立派な信仰告白をした。(ルツ記1:16)
ダビデは、まだ紅顔の少年だった時に、イスラエルの誰よりも主に信頼し、巨人ゴリアテを打ち倒した。(1サムエル17章)
エチオピア人の宦官の、主を求める心は、並々ならぬものだった。(使徒8章)
彼のような異邦人はエルサレム神殿に詣でても、神殿の「異邦人の庭」より先には入れないし、宦官であるため、イスラエルの民に加えられる事は律法によって禁じられている。
そして彼は、高い地位の忙しい身であるにもかかわらず、エチオピアから、はるばる礼拝のため上り、しかもその帰り道、彼はサスペンション無しの馬車で、舗装されていない道を走りながらでも、イザヤ書を朗読し、思い巡らしていたのだ。
彼は普通のユダヤ人に比べ、一体幾つのハンディキャップがあっただろう。にもかかわらず、どれほど熱心に主を求めていた事だろう。
主は、こう言われる。
『主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。
また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は―― わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の/祈の家ととなえられるからである」。』(申命記イザヤ56:3-7)
このように、主を求める人は、いかに異邦人の宦官であっても、神に受け入れられる。
しかし、自分は既に神の民である事に安住し、悔い改める事をしない者は、かえって、神の民から除外されてしまうのである。
『イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。』(マタイ21:31-32)
今を生きる私達が、主の集会に加われたのは、ただ、イエス様の恵みである。
『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。』(ローマ5:6-10)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
預言者としての分(エレミヤ1章):右クリックで保存
主よ、主よ、と言えば良いというものではない(マタイ7:21-23)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2014-3-15 2:54
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主よ、主よ、と言えば良いというものではない(マタイ7:21-23):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
伝道者の書概要(伝道者1:1-3):右クリックで保存
【概要】
人類最高の知恵を与えられたソロモンが、神から離れた結果たどり着いた結論は「空の空、すべては空」という虚しさであった。キリスト抜きの人生がいかに虚しいか、そして主にあってこそ満ち満ちた人生を歩めることを、伝道者の書を通して学ぶ。
【聖書箇所】
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伝道者1:1-3
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第一列王記3:3-14
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第一列王記11:1-13
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詩篇127編
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コロサイ2:8-10
【戒めの言葉】
礼拝を軽んじて世の仕事に明け暮れることの愚かさ。神から離れて得た知恵や富は、結局虚しさに終わってしまう。
【勧めの言葉】
キリストにあって歩むなら、人生は満ち満ちたものとなる。主が建てる家、主と共に歩む人生こそが真の祝福である。
【***AIによる文字起こし***】
今まで水曜のこの時間は黙示録でしたけれども、それが終わりました。今日からは伝道者の書に入りたいと思います。今日の箇所は、伝道者の書1章1節から3節です。
「エルサレムの王、ダビデの子、伝道者の言葉。空の空、伝道者は言う。空の空、すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」(伝道者1:1-3)
この伝道者の書という書物は、その冒頭の言葉がそのまま書名になっています。ヘブライ語で「ディブレイ・コヘレト」という言葉で始まります。ですから、カトリック訳の聖書は「コヘレトの言葉」という名前でこの書が記されています。コヘレト、それは伝道者、あるいは宣教者、教えを伝える者という意味です。
誰が書いたかについては、長らくダビデの子ソロモンが記した言葉ではないかと言われていました。しかし、宗教改革のルターは別の人だと言い、あるいはバビロン捕囚の後に書かれたという説もあります。いろいろな解釈はあるのですが、この伝道者の書を書いた本人がどういう人物であるかを見ると、エルサレムの王でダビデの子であること、多くの知恵が与えられた者であること、また多くの女たちを囲み、多くの事業をして、たくさんの輝かしい実績を残したということから、これを記したのはソロモン以外の何者でもないと、多くの人たちに言われています。
この書を記している人は、本当に命を何も知らない、神様のもとにある命を知らないなという印象をよく受けます。そしてこの書が聖書の他の箇所と比べてすごく違って異色なものであること、これは誰が読んでも分かるのですが、要するに虚しさで満ちているのです。
伝道者の書のキーワードは「むなしい」ということです。空の空、すべては空である、と。面白いことに、この「むなしい」という言葉、ヘブライ語で「ヘーベル」と言うのですが、旧約聖書全体で検索すると64回出てきます。そして、その「むなしい」という言葉が、伝道者の書では38回も使われているのです。半数以上、聖書全体の「むなしい」の半分以上が、この伝道者の書で使われています。
新約聖書の方で日本語で「むなしい」という言葉で検索すると、全部で16箇所出てきます。新約聖書全体で16です。でも伝道者の書では、新約聖書全体の中の「むなしい」という言葉の数をはるかに上回る38も、この1書で使われているのです。
もうひたすら「むなしい、むなしい、むなしい」。ちなみに新約聖書の方では、この世が虚しいとか、そういう人生とか、この世とか、神様の御業とかを「むなしい」という言葉で表現しているものは一つも出てきません。むしろ新約聖書で「むなしい」という言葉が使われているのは、「行いのない信仰はむなしい」とか、「騙し事の哲学、むなしい哲学に惑わされるな」とか、そういう積極的な意味で「むなしい」という言葉が使われています。
でもこの伝道者の書に限っては、すべてはむなしい、この世はすべてむなしい、すべて空の空だと言っているのです。
伝道者の書1章12節のところでは、「伝道者である私はエルサレムでイスラエルの王であった」と書いてあります。要するにイスラエルの王であった、と過去形が使われており、これを記した時点で既に王ではないことを示しています。ですから、おそらくソロモンがこれを記したのは、若かりし頃ではない、栄華を極めた時でもない、王で亡くなった後に記されているのではないかと言われています。
ソロモンは確かに知恵が与えられました。多くの良いもの、良い書、詩篇も記しましたし、箴言も記しました。箴言では本当に多くの良い言葉が示されているのですが、でも、ひるがえってこの伝道者の書は、その成れの果てと言いますか、本当に書いていることが全てが虚しい、希望が一切ないということです。箴言を読んだ後に伝道者の書を見ると、本当に同じ人が書いた書物なのだろうかと思うほどです。人生の途中で神様から離れて、その人の行き着く先は結局、虚しいものしかないわけです。
そして3節を見ますと、「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」とあります。これは、この人生、私たちは労苦しても何にも益にならないんだ、全部が虚しいんだ、そういう風に生きなくてはならないのかって思う人もいるかもしれませんが、でも、これよく見ると、3節、「日の下で」って書いてあるんですよ。これは新約聖書における「この世」ということを意味しています。
ですから「この世で」言い換えると、「この世でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」ということです。日の下、日というのは太陽とか大きな輝きを意味しているのですが、その下において、この地上における太陽の下において、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。これは真実ですね。この太陽の下でどんなに労苦しても、この太陽の下に何を積み立てようとしても、どんな大きな事業を起こしても、それは何の益にもならない。
ちなみにこの「益」という言葉は、ヘブライ語では会計の貸借対照表の余剰金、会計用語の余剰金を意味しています。要するに、その余剰金、自分の手元に残らない資産、余分なもの、この伝道者の書の中において、私がどんなに事業を起こして拡大して多くの資産を手に入れても、それは結局他の人に渡ってしまう。余剰金だ。虚しい、そういう風に言っているのです。
そういうわけで皆さん、この太陽の下においてどんなに労苦して働いて糧を得たとしても、それは余剰金です。一旦自分の手元にあったかと思えるものとしても、それは結局、主にある人ではないもの、主にないものは余剰金として他の人の手に渡ってしまうわけです。だから、礼拝を軽んじて、主一にこの世の仕事に明け暮れている人は本当に、まさしくこれですね。「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろうか」。
礼拝を軽んじる人の大先輩がこのソロモンです。その大先輩がこういう風に言ってるんですよ。「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」。それは余剰金に過ぎない。結局は、その持て余したお金、それで心配しなくてはならない。その持て余したお金が何か責められる対象になってしまう、そういうものになってしまうわけです。
私たちはこの伝道者の書を学んでいく上で、前提意識として持っていなくてはならないのは、それは確かに神様のことを知っている人であるけれども、でも神様から離れた成れの果てはこうなるよっていう、そういう書物であるという、そういう意識を持ってこれを読むべきです。
ソロモンがまずどういう人か。第一列王記の3章を開きたいと思います。第一列王記の3章のところに、ソロモンが王になったばかりの時に、主からどのようなことをいただいたか知らされています。
まず第一列王記の3章3節のところを見ますと、「ソロモンは主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいたが、ただし彼は高き所で生贄を捧げ、香を焚いていた」とあります。
「王は生贄を捧げるためにギブオンへ行った。そこは最も重要な高き所であったからである。ソロモンはそこの祭壇の上に、千頭の全焼の生贄を捧げた。その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。『あなたに何を与えようか。願え』」
それでソロモンは知恵が与えられるように、この全イスラエル、もうおびただしく栄えているこのイスラエル、多くの人々がおり、多くの事業が行われており、その全イスラエルを、自分はまだ若い。だから正しくこれを治めるための知恵を与えてくださいということを願います。
3節を読みますと、この時点でまだソロモンは主を愛して、それで父ダビデの掟に歩いていたんですね。まだ何も知らぬ頃、知恵がまだない頃、力がなく、また経験もまだまだ浅かった頃。この時点ではソロモンはまだ素晴らしかったのです。まだ主の御教えに従って歩んでおり、主に喜ばれていたからこそ、何でも欲しいものを願いなさいと主から言われていたのです。
そこでソロモンは知恵が与えられるように願いました。すると10節、「このことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵の命も求めず、むしろ自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今わたしはあなたの言った通りにする。見よ、わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先にあなたのような者はなかった。また、あなたの後にあなたのような者も起こらない。その上、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きている限り、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいないであろう」
「また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう」
この時はまだまだ希望に満ちていましたね、ソロモン。そして祝福の命令も与えられていました。14節のところで、「あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう」。
ソロモンは、今日読んだ伝道者の書で、「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」になっちゃいました。なぜなら、ソロモンはダビデの道に歩んでいなかったからです。ソロモンには知恵の心と判断する心が与えられました。そして、あなたの先にも、あなたの後にも、ソロモンを凌駕するような者は起こらない。ですから、今2014年に生きていますけれども、2014年、これからもずっとでしょうね、ソロモンに勝るような者は起こらないわけです。
その人類全てをひっくるめて豊かな知恵が与えられ、また知恵ばかりでなく、富と誉れが与えられた。ソロモンなんですよ。そのソロモン、人類のあらゆる英知を集結したソロモンがたどり、神様から離れてたどり着いた結論が、「空の空、すべては空」であるわけです。
ソロモンはそのうちどういう風になったか、第一列王記の11章を開いてください。第一列王記の11章1節からお読みします。
「ソロモン王は、ファラオの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヒッタイト人の女を愛した。この女たちは、主がかつてイスラエル人に、『あなた方は彼らの中に入っていってはならない。彼らをもあなた方の中に入れてはならない。さもないと彼らは必ずあなた方の心を転じて彼らの神々に従わせる』と言われたその国々の者であった。それなのにソロモンは彼女たちを愛して離れなかった。彼には700人の王妃としての妻と300人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた」
「ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心を他の神々の方へ向けたので、彼の心は父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。ソロモンはシドン人の神アシュタロテとアモン人の憎むべきミルコムに従った。こうしてソロモンは主の目の前に悪を行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。当時ソロモンはモアブの憎むべきケモシュとアモン人の憎むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。彼は外国人の自分のすべての妻のためにも同じようなことをしたので、彼女たちは自分たちの神々に香を焚き、生贄を捧げた」
「主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現れ、このことについて他の神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。それゆえ主はソロモンに仰せられた。『あなたがこのように振る舞い、わたしが命じたわたしの契約と掟とを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いてあなたの家来に与える。しかしあなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中はそうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。ただし王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデとわたしが選んだエルサレムのために一つの部族だけをあなたの子に与えよう』」
本当にこのモレクとか、またミルコム、子供を火に投げ込んで生贄に捧げるあの邪教の神ですよ。ソロモンはそれにその前にひれ伏してその像を建てて、そればかりでなく、この女たち、エジプトとかエドムとかシドンとかヒッタイトとかアモン人、モアブ人のその神々の像までもエルサレムの中で作って、それで彼女たちはその神々にエルサレムの中、イスラエルの中でそういう香を焚いて生贄を捧げたという、本当に恐ろしい悪、神様への反逆、それを行ったのです。これがソロモンが王であった時期、そういう風になりました。
そしてひるがえって伝道者の書では、もう「私はイスラエルの王であった」と過去形で、昔そこで王だったけども、今は王ではない。私が伝道者として言う、「空の空だ。日の下で行われることはどんなに苦労してもそれが何の益にもならない」。
皆さん、知恵を得ればいいってものじゃありません。頭良くなればいいってものじゃありません。主から離れたのであれば、その知恵は逆に災いとなって跳ね返ってきてしまいます。イエス様抜きのこの人生はただ辛いものだらけです。
ですからこの世の知恵者、キリスト抜きのIQだけがやたら高い人が行き着く先がこの伝道者の書です。だからある人たちはこの伝道者の書はなんか最高の知恵の書だって言う人がいます。確かにイエス様抜きの最高の知恵はこれです。「空の空、全ては虚しい」。虚しいってこの伝道者の書では38回も、このわずか何ページにも満たないところで、聖書中最も「虚しい」が多い書になってしまうわけです。
イエス様抜きの人生、礼拝を軽んじて世のビジネス、世の仕事に邁進していく人の成れの果てはこれです。あのソロモンでさえ、人類のあらゆる英知を獲得したソロモンでさえ、皆さんの何倍も頭がいいあのソロモンでさえ、キリスト抜きではこうなってしまうんです。ましてや皆さんはどうなるでしょうね。礼拝よりも世のビジネス、世の仕事の方に邁進して世の富を得ようとすることがいかに愚かであるか、ここを見ただけでも分かりそうですね。
伝道者の書を学ぶ上で、私たちが前提意識として持っていなくてはならないのは、それは確かに神様のことを知っている人であるけれども、でも神様から離れた成れの果てはこうなるよっていう、そういう書物であるという、そういう意識を持って、これを読むべきです。
だから、「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になろう」という言葉が出てきたとしても、これは確かに日の下で、要するにこの世において労苦しても、そう、何の益になるだろう、というのは真実でしょう。しかし、主イエス・キリストを持っている私たちは、労苦も、でも、それは益になるんです。
全てのことを益としてくださるという言葉がローマ書にありますね。私たちはどんなに罪を犯しても、どんなに失敗しても、イエス・キリストにある人は、その全てが益になる。ですから伝道者の書の学びをするときには、それに対するカウンターの言葉で返すということを私たちはしています。「日の下で、どんなに労苦しても、何の益になろう」。
詩篇127篇を見ますと、伝道者の学びであるある姉妹が、ここを読んで、なんかすごい違和感を覚えて、でも詩篇の127篇にはこう書いてあるよということで、そのカウンターを示してくれました。詩篇127篇、これは都上りの歌、ソロモンによると。ソロモン自身がまだ主を敬って、主を礼拝するために主に通っていた時代に詠んだ詩篇が、この127篇です。
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きは虚しい。主が町を守るのでなければ、守る者の目覚めは虚しい。早く起き、遅く休み、辛苦の糧を食べる、これは虚しい。主はその愛する者には、眠っている間にこのように備えてくださる。見よ、子供たちは主の賜物。胎の実は報酬である。若い時の子らは、まさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ、矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは門で敵と語る時にも恥を見ることがない。アーメン」
その後ソロモンは言いますね、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きは虚しい」と。でも、その者は主抜きで家を建てて、虚しさに落ち込んでしまったのです。主抜きで家を建てるのは虚しいです。皆さんの家庭、皆さんの家族、家族構成、家族計画、そうしたものを主が建てるのでない家は、虚しさで終わってしまうんです。いくらその人が財産を貯め込んだとしても、その財産、その人が死んだときに、いろいろと奪われてしまうんです。いろいろな人に、多くの人たちの手によって引き裂かれてしまうんですね。主が成すのでないことは全て虚しいんです。
早く起きて、遅く休んで、早朝から夜遅くまで残業して働いても、主抜きで働くのは虚しいものです。「主はその愛する者には、眠っている間にこのように備えてくださる」と書いてあります。
ですから伝道者の書を読んで読み進めていく上で、それをそのまま鵜呑みにするのではなく、聖書の他の箇所と比べて、いかに神様抜きの人の知恵が虚しいか、いかにイエス様とともにある人生が潤いで満ちているか、それを対比しながら読み進めていくと、本当にこの伝道者の書は喜びと幸い、祝福で満ち満ちたものとなっていきます。
コロサイ書の2章にこう書いてあります。コロサイ書の8節から10節までのところをこう書いてあります。
「この虚しい騙し事の哲学によって、誰の虜にもならぬよう注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そして、あなた方はキリストにあって満ち満ちているのです。キリストは全ての支配と権威の頭です。アーメン」(コロサイ2:8-10)
ソロモンが記した伝道者の書、それはキリスト抜き、神様から離れた人が行き着いた知恵の書として、反面教師としてこの聖書に残されています。そういったものだと思います。ただ伝道者の書に書いてあることは、この地上で生きる人々にとって真実です。そして私たちもキリスト抜きで歩めば、この伝道者の書の通りになることが起こります。ですからこれは真実です。聖書であることには変わらないのですけれども、しかしキリスト抜きで行くものは幼稚な教えです。この世に属するものです。
キリストのうちにこそ神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っております。どうか皆さんは虚しく歩むのではなく、皆さんは命にあって歩んで、キリストにあって歩んで、そうして私たちのこの人生、キリスト抜きではただ虚しいだけです。でもキリストと共に歩むのであれば満ち満ちております。どうか皆さんは満ち満ちた人生を歩みますように。
他に知恵を蓄えたところで、キリスト抜きで蓄えた知恵はキリストに行き着きません。人間が、人間がいかにIQが何百あろうと何千あろうとも、キリストに行き着かないんです、人の知恵は。ただ虚しさに行き着くんです。でも、キリストは信仰によって皆さんのものとされました。IQそんなに必要ありません。皆さんは力もそんなに必要ありません。ただキリストに留まっているだけで、全ての満ち満ちた祝福が皆さんのものとなります。どうかその祝福の人生を歩み、虚しさ、それらは御言葉によって覆い尽くし、死は命で覆い尽くして、そして勝利の人生を歩んでいく皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
伝道者の書は、人類最高の知恵を得たソロモンが、神から離れた結果たどり着いた「空の空、すべては空」という虚しさの書である。この書は反面教師として、キリスト抜きの人生がいかに虚しいかを私たちに教えている。どんなに知恵があっても、富があっても、主から離れたなら全ては余剰金に過ぎず、虚しさに終わる。しかし、キリストにある者は、どんな労苦も益とされ、満ち満ちた人生を歩むことができる。私たちはキリストに留まり、主と共に歩む祝福の人生を選び取るべきである。
礼拝説教メッセージ音声:一人の異性にコミットする(申命記22:22-30):右クリックで保存
聖書の示す所では、肉体関係を結んで良い相手は、ただ一人、結婚した相手のみであり、それ以外は許されていない。
つまり結婚は、結婚相手に対し、自分を排他的に”唯一の異性”として、コミットする事である。
具体的には、女性であれば、相手の男性にとって唯一の専属的な「女性」となる事、また、男性であれば、相手の女性にとって、唯一の専属的な「男性」となる事だ。
そして、コミットした相手以外の異性に対しては、性的な目で見る事や、他の異性に対して”色目”をつかう事を、もはや止めるのだ。(マタイ5:28)
『もし夫のある女と寝ている男を見つけたならば、その女と寝た男およびその女を一緒に殺し、こうしてイスラエルのうちから悪を除き去らなければならない。もし処女である女が、人と婚約した後、他の男が町の内でその女に会い、これを犯したならば、あなたがたはそのふたりを町の門にひき出して、石で撃ち殺さなければならない。これはその女が町の内におりながら叫ばなかったからであり、またその男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたはこうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。』(申命記22:22-24)
イスラエルにおいて「婚約」は、その、男女のコミットの関係に入るものであり、相手に対して純潔を守る事の責任は、結婚と代わりは無い。
独身者は、特別な異性がいる事に憧れを持つものだが、特別な異性がいる、という事には、相手に対しての責任も生じる事を忘れてはならない。
その責任は、厳粛に、そして日々地道に果たして行くべきものだ。
だから、もし相手のある身であるにもかかわらず、それとは別の相手に自ら進んで体を明け渡す事は、してはならない。
もし、自分には特別な相手がいるのに、肉体関係を求めて言い寄ってくる者がいたとしたら、うやむやでどっちつかずな返事はしてはならず、明確に抵抗し、叫んででも止めさせるべきなのだ。
『しかし、男が、人と婚約した女に野で会い、その女を捕えてこれを犯したならば、その男だけを殺さなければならない。その女には何もしてはならない。女には死にあたる罪がない。人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件だからである。これは男が野で女に会ったので、人と婚約したその女が叫んだけれども、救う者がなかったのである。』(申命記22:25-27)
このような強姦事件の場合は、「人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件」と言われている。
つまり、男が力づくで女性を犯す行為は、その女性を殺したも同然の行為であり、その女性の貞潔や人格、将来を殺すばかりでなく、その女性がコミットした相手の心をも、ぐちゃぐちゃに踏みにじる行為なのだ。
『まだ人と婚約しない処女である女に、男が会い、これを捕えて犯し、ふたりが見つけられたならば、女を犯した男は女の父に銀五十シケルを与えて、女を自分の妻としなければならない。彼はその女をはずかしめたゆえに、一生その女を出すことはできない。』(申命記22:28-29)
婚約前の状態で、肉体関係を持った男女は、死刑ではなく、一生涯、相手に対しコミットする責任が生じる。
これらの事から、婚前交渉より、むしろ、コミットした相手を裏切る肉体関係こそ、重大な罪である事が分かる。
今、私達キリストには、コミットすべき特別な相手がいる。それは、キリストである。
私達は、以前はキリストから離れ、神の国から除外され、この世にあって望みもなく、神もない者だった。
しかしキリストは私達を、ご自身の血で買い取って下さり、以前は遠く離れていた私達も、今や、キリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって、神に近い者とされた。
『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。』(エペソ2:14-15)
今や、キリスト者である私達は、キリストを「主人」として、コミットした者達である。
婚約関係に入ると、女性は、相手の男性に唯一専属的な「女性」となるように、キリストは、私達にとって、唯一の専属的な「主人」である。
そして、人が浮気したらねたみを引き起こすように、主も、私達の霊的な浮気を、ねたまれる。
『私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。』(1コリント10:22)
キリストに対してコミットしたからには、もはや、キリスト以外に霊的な”色目”を使う事は止めるべきである。
礼拝説教メッセージ音声:結婚前の純潔を保つ事(申命記22:13-21):右クリックで保存
神は、創造の初めから人を男と女とに造られた。人はやがて父母を離れ、結婚すると、彼らはもはやふたりではなく、一つの肉となる。(マルコ10:16-19)
聖書が示している所では、肉体関係を結んで良い相手は、ただ一人、結婚相手のみであり、それ以外の肉体関係は不当としている。
『もし人が妻をめとり、妻のところにはいって後、その女をきらい、『わたしはこの女をめとって近づいた時、彼女に処女の証拠を見なかった』と言って虚偽の非難をもって、その女に悪名を負わせるならば、その女の父と母は、彼女の処女の証拠を取って、門におる町の長老たちに差し出し、そして彼女の父は長老たちに言わなければならない。
『わたしはこの人に娘を与えて妻にさせましたが、この人は娘をきらい、虚偽の非難をもって、「わたしはあなたの娘に処女の証拠を見なかった」と言います。しかし、これがわたしの娘の処女の証拠です』と言って、その父母はかの布を町の長老たちの前にひろげなければならない。』(申命記22:13)
ここでは、結婚した男が、妻が気に食わず、妻を非難する理由として「処女でなかった」と訴えて来た場合の対処が示されている。
『その時、町の長老たちは、その人を捕えて撃ち懲らし、また銀百シケルの罰金を課し、それを女の父に与えなければならない。彼はイスラエルの処女に悪名を負わせたからである。彼はその女を妻とし、一生その女を出すことはできない。』(申命記22:18-19)
もし、男が手前勝手に、妻の「貞潔さ」について、虚偽の訴えをするとしたら、その罰は重い。
その訴えは、女性を死刑にするかどうかの訴えであるからだ。
律法では、虚偽の訴えをして相手を陥れようとするなら、「目には目、歯には歯」の法則で裁かれる。(申命記19:18-21)
例えば、気に食わない男性に、痴漢の嫌疑をかぶせて、拘束させようとしたり、慰謝料を取ろうとしたりする場合、その訴えが偽りだと分かった際には、彼にかぶせようとした拘束や罰金が、そのまま自分の身に振りかかる事になる。
妻の貞潔さについて偽りの嫌疑をかけた場合の報いは、石打ちではなく、むち打ちと、百シケルの罰金と(奴隷の値段は三十シケル、花嫁料は五十シケルであるから、百シケルはかなりの額)、生涯、彼女の面倒を見なくてはならない責任が生じる。
『しかし、この非難が真実であって、その女に処女の証拠が見られない時は、その女を父の家の入口にひき出し、町の人々は彼女を石で撃ち殺さなければならない。彼女は父の家で、みだらな事をおこない、イスラエルのうちに愚かな事をしたからである。あなたはこうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。』(申命記22:20)
もし、彼女が訴えの通り処女でなかった場合、彼女は、父の家の門で石打ちの刑に処せられる。
そこまで重い刑罰の理由は、「父の家で、みだらな事をおこない、イスラエルのうちに愚かな事をしたから」である。
もしそうなった場合、父は、とてもつらいであろう。
しかし、それ程までに、イスラエルでは、結婚における純潔さは重要だという事だ。
なぜ、そんなに純潔さが重要なのか。
結婚して夫婦となる事は、産んで増えて地に満ちていくという、主の祝福の命令を遂行する事であり、一つの家を、家系を、氏族を、新しく築き上げていく一つの事業である。
もし、妻あるいは夫の「貞潔さ」が失われてしまうとしたら、人の営みの中で最も親密であるべき「夫婦」の関係さえ、信頼できないものとなってしまい、夫婦関係だけでなく、親子関係もバラバラになってしまい、家族全員に深い傷を残す事となってしまう。
自分の結婚相手が、あるいは、自分の父や母が、息子や娘が、性的な不貞を犯すとしたなら、ひどく打ちのめされるだろうし、少なくとも、不快な思いにはなるだろう。
その事は誰も否めないはずだ。
だから、自分の貞潔さを守る事は、自分自身のためというより、結婚する相手のため、そして、これから築いて行く家や、生まれて来る子供達、孫達のためにこそ、重要なのだ。
そしてまた、聖書は言っている。
結婚関係は、キリストと教会の関係をあらわしており、その関係においては、やはり純潔さが求められる事を。
果たして私達は、キリストの花嫁として、相応しく振る舞って来ただろうか。
キリストに対して、純潔を保って来ただろうか。
私達は皆、罪の故に堕落し、自らを汚し、キリストの花嫁としては、とてもではないが、相応しくない者であった。
しかしキリストは、そんな私達を清めるために、自らのいのちを犠牲にして下さった。
『夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:25-27)
私達は、キリストの御言葉によって汚れた心と体は清められ、聖なるものとされ、しみや、しわや、その類の一切無い、清くて傷のない者として、御前に迎えられるのである。
キリストは、私達を愛するがために、ご自身を捧げられたのだ。
いのちを投げ出して下さってまで、私達を清めて下さったキリストの愛を、私達は、決してないがしろにしてはならない。
『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。・・・神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)
礼拝説教メッセージ音声:主の定めた秩序に従って(申命記22:5-12):右クリックで保存
今回の箇所には、種々の命令が示されているが、これらは全て、主が秩序をもって創造されたいのちを、大切にするべき事の命令である。
『女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。あなたの神、主はそのような事をする者を忌みきらわれるからである。』(申命記22:5)
神は人を、神のかたちに、男と女とに創造された。(創世記1:27)
その創造の有り方から外れて、男が女のようになったり、女が男のようになったりする事を、主は忌み嫌われる。
それは主の創造の御胸に反逆する事である。
『もしあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣のあるのを見つけ、その中に雛または卵があって、母鳥がその雛または卵を抱いているならば、母鳥を雛と一緒に取ってはならない。必ず母鳥を去らせ、ただ雛だけを取らなければならない。そうすればあなたはさいわいを得、長く生きながらえることができるであろう。』(申命記22:6)このようにする事が、なぜ「さいわいを得て、長生きする」事なのか。
主は、いのちの主であり、特に、いのちの養いを大切にされるお方である。
母が子のいのちを養っている最中なのを見ても、憐れまず、いのちの養いを軽んじ、損得勘定だけで動く者は、いのちそのものからそっぽ向かれ、嫌われてしまう。
だから、このようにするなら、いのちそのものに愛され、「さいわいを得、長く生きながらえることができる」のだ。
『新しい家を建てる時は、屋根に欄干を設けなければならない。それは人が屋根から落ちて、血のとがをあなたの家に帰することのないようにするためである。』(申命記22:8)
ここも、いのちを大切にすべき事の命令である。
イスラエルにおいて、屋上は、生活の上で色々な営みをする場所であり、それら日常生活の営みの内に、うっかり命を落としてしまうという事が無いように、その配慮を初めのうちに行っておきなさい、という事である。
『ぶどう畑に二種の種を混ぜてまいてはならない。そうすればあなたがまいた種から産する物も、ぶどう畑から出る物も、みな忌むべき物となるであろう。牛と、ろばとを組み合わせて耕してはならない。羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない。』(申命記22:9)
ここでは、異なった種のいのちを混合する事を禁じている。
主は、創造のはじめから、色々の種類にしたがって、動物や植物を創られた。
実際、創世記1章には「種類にしたがって」という言葉が、何回も出てくる。主は、全生物を、実にバラエティに富んだ形で創られたのだ。
人は、「これは劣っている種だから絶滅させよう」とか、「こちらは優れているから、掛けあわせてより優れた種で統一させよう」などと、種といのちをさえ合理化させようとする。
いのちは、主のものである。主が創られたいのちを、人が勝手に操作してはならないのだ。
人は、白黒をグレーにしたり、清さと汚れを混合しようとしたりするが、主は、光と闇とを、天と地とを、そして聖と俗とを、はっきり区別された主である。
私達も、自らをきよく保つために、世と汚れから分離すべきである。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。』(2コリント6:14-17)
自分達は主の民である事を、いつも思い起こすために、主は、『身にまとう上着の四すみに、ふさをつけなければならない。』(申命記22:12)と命じられた。
『イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四すみにつけさせなさい。あなたがたが、そのふさを見て、主のもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたが自分の心と、目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。こうして、あなたがたは、わたしのもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたの神に聖なる者とならなければならない。』(民数記15:38-40)
つまりイスラエルでは、互いの衣服についている青いふさを見る度に、自分達は天に属する者達、神の民である事を思い起こさせ、誘惑に陥ったり、堕落しないために、、この事を定められたのだ。
私達にとっての救いのしるしは、十字架である。
パリサイ人は、この”しるし”を形骸化させ、衣のふさの青いしるしを、互いに戒め合うためではなく、自分の清さを人にアピールし飾るためのものとしてしまった。(マタイ23:5-7)
現代の私達は、十字架を、自分を飾るアクセサリーに貶めてはならず、イエス様の痛みを覚えるしるしとして、そして、自我を死に明け渡す”死刑の道具”として覚え、自分達は天に属する者である事を、いつも覚えるべきなのだ。
礼拝説教メッセージ音声:神の民に、見て見ぬふりは無し(申命記22:1-4):右クリックで保存
『あなたの兄弟の牛、または羊の迷っているのを見て、それを見捨てておいてはならない。必ずそれを兄弟のところへ連れて帰らなければならない。もしその兄弟が近くの者でなく、知らない人であるならば、それを自分の家にひいてきて、あなたのところにおき、その兄弟が尋ねてきた時に、それを彼に返さなければならない。』(申命記22:1-2)
イスラエルの同族の家畜が迷子になっているのを見たら、それを放っておいてはならない。
たとえ、その持ち主が、たとえ憎たらしい相手であっても、その家畜は見捨てず、持ち主の元に無事返すよう命じられている。(出エジプト記23:4)
それは家畜に限らず、着物などの物であった場合も同様である。(申命記22:3-4)
神の民の中では、見て見ぬふりは無いのだ。
イエス様も、困っている人は助けてやるよう、次のたとえを話された。
『ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。』(ルカ10:30-32)
祭司やレビ人は、神と人との間に立って、執り成しをする人であり、かつ律法を教える人であるが、その人を見ると、道の反対側へと避けて、通り過ぎて行った。
人間である祭司やレビ人には、弱さがあり、もし心や体に汚れを受けたなら、神の前で奉仕できないため、どうしても、人を助け切れない事がある。
牧師であれ有名な先生であれ、人間である働き人なら、皆そうである。
クリスチャンである皆さんも、この、強盗に襲われた旅人のような体験をした事は、無かっただろうか。
世の旅路を平穏に歩んでいるある時、突然強盗に襲われ、傷を受け、資産や大切な人を奪われてしまった事は。
もしかすると、その強盗は、突発的な事故や、自然災害だったかもしれないし、特定の人間だったかもしれない。
傷を受け、打ちひしがれ、もうどうにも動けなかった時、あの宗教者、この人格者に助けを求めても、何の助けにもならず、ただ素通りされ、置いて行かれたような事は。
『ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。』(ルカ10:33-35)
この襲われた旅人を、実際的に助けたのは、意外な人だった。
いわゆる人格者や、立派な人ではなく、罪人として蔑まれている、サマリヤ人だった。
そもそもイエス様は、なぜこのたとえを話しだされたのか。
それは、ある律法学者が『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』の、「隣人」とは、誰の事か、と、質問して来たからである。
では、この律法学者が愛するべき隣人とは、誰だろうか。
そして、私達が愛するべき隣人とは、一体誰だろうか。
その答えは、ただ一つ。
いつも私達の隣にいる、イエス様である。
イエス様は、世の旅路で強盗に襲われて、傷を負った私たちを、気の毒に思い、近寄ってきて、その傷に聖霊の油を塗って下さった。
イエス様の血であるぶどう酒を注いで消毒して下さり、イエス様が十字架上で裂いて下さった、御体という包帯で、覆って下さった。
イエス様は、その乗り物であるロバから降りて、そこに私たちを乗せて下さり、教会という霊的に憩いの場所へと連れて行って下さり、介抱して下さった。
そしてイエス様は、傷を負った人を教会に託される時、その人を介抱するのに必要な銀貨を、教会に置いて行って下さり、足りないならば、さらに必要分を支払って下さるのだ。
「行ってあなたも同じようにしなさい」(同37節)
キリストが、私達に為して下さったように、私達も同じように、傷ついた人の隣人となるよう命じられている。
私達はたとえ、サマリヤ人のように見下されているとしても、イエス様に癒され、イエス様に養われ、イエス様のご性質を帯びる事ができるのだ。
まことの隣人・イエス様に「隣人としてのもてなし」をして頂いた人ならば、心からイエス様を愛し、イエス様と同じ性質を帯び、心から隣人を愛する事が出来るようになる。
そうなると、もはや、下手な宗教心を喚起しなくても、自然とイエス様のご性質を帯びてくるようになる。
祭司やレビ人は、見て見ぬふりをして避けて通って行き、本性が露わにされたが、イエス様の愛に浸されるなら、そういう人を見てしまえば、憐れみが溢れだして、なりふりかまわず駆け出してしまうのである。
イエス様のご性質は、たとえ羊を99匹野に残してでも、失われた1匹を探しだす。
そして、失われた一匹を得たなら、天において大きな喜びが沸き起こる。
だから私達も、イエス様の愛に浸されこそ、はじめて、このサマリヤ人のように、主の愛を注ぐ事ができるのである。
アベル - 神にリスペクトされる捧げ物(創世記4:1-5)
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『彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。』(創世記4:1-2)
カインの名前には「得た」「所有」の意味があり、アベルは「吐息」「虚しい」の意味がある。
あまりパッとしないアベルだが、新約で彼は「義人」として数えられている。(マタイ23:35、ヘブル11:4)
彼について記されている情報は、僅かである。カインは、語ったセリフも、神様からの語りかけも多いのに、アベルには、全く無い。それなのに、なぜアベルは義人として有名なのか。僅かな情報から辿ってみたい。
「時が経って次の事が起こった、カインは、地の実りから主へのささげ物を持って来た。また、アベルも彼の群の中から、初子の、それも最も肥えたものを主に持って来た。主は、アベルと、そのささげ物とに、リスペクトした。しかし、カインと、その捧げ物とに、彼はリスペクトしなかった。」(創世記4:3-4、KJVから翻訳)
主に捧げ物を捧げる時、カインは、ただ地の実りを、ただ持ってきた、のに対し、アベルは、自分の群れの中から「どれが一番良いものだろうか」と悩み、初子達の中から、最も肥えたものを選び出して、主に持って行ったのだ。 アベルは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」神を敬っていたのが分かる。
主は今、生きておられ、今この瞬間も、私たちの心の成り行きを見て、知っておられる。それ故、主を敬う心こそ礼拝で最も必要であり、形だけの礼拝では、主から御言葉も恵みも答えも祝福も頂く事は出来ない。
主に捧げているのに、主からそっぽ向かれている感じがしたり、仕事や人間関係がうまく行っていない、祝福から遠い、と感じる事は、あるだろうか。私達は、ある捧げ物は主にリスペクトされ、ある捧げ物はそっぽ向かれてしまう、という事が厳然としてある事を、知るべきである。
また、アベルの捧げ方は、神様がよしとされる方法にのっとっていた。
神様がよしとされる方法とは何か。それは前回見たように、”犠牲”がある事である。カインの捧げ物には、命の犠牲は無かったが、アベルは、自分の手で育てた最も良いいのちを、犠牲にして主に捧げた。
私達は、勝手に考え編み出した礼拝形式を人に、そして神に、押し付けてはならず、神の側が提示された方法に、私達の側が従うべきであり、御言葉の根拠なき礼拝や奉仕、御心から外れた「自分流の礼拝」を捧げても、主を怒らせるだけである。
「主への祭り」と称して金の子牛を造って飲み食いし戯れたイスラエルの民は、それで主に仕えているつもりだったが、主は彼らを怒り、滅ぼそうとされた。(出エジプト記32章)
示されていた御言葉を読んだなら、それは、とんでもない反逆だと容易に判るはずなのに、彼らには、御言葉に聞く心が無かったため、「礼拝を捧げている」と 大真面目に 思いつつ、逆に、主に滅ぼされる寸前までの怒りを買っていたのだ。
主に仕えているつもりでいながら、主を悲しませ怒らせている、という事も、厳然としてある。それを防ぐために、私達は常に御言葉の真理に照らし合わせ、主の道を正しく歩んでいるかチェックすべきである。
またアベルは、その名前からして、自分を誇らない、砕かれた、悔いた心を持っていたはずである。「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても、あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:16-17)
たとえ、アベルがどんな豪勢な焼き尽くす捧げ物をささげても、彼の心が砕かれていなかったなら、その捧げ物は受け入れられなかったのだろう。それに対し、カインの心は砕かれてもおらず、悔いてもいなかった。
カインとその捧げ物に、神からのリスペクトが得られなかった時、彼は憤り、顔を伏せたが、その行動から、彼は明らかに自分の方法や自分の気分を、神よりも高い位置に置いていた事が分かる。
『信仰によって、アベルはカインよりも勝ったいけにえを神に捧げ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。』(ヘブ11:4)
もし私たちが、正しく行っていないとしたら、神に受け入れられない。思い通りに行かない事で、怒りが込み上げてくるとしたら、罪は戸口で私達を慕っている。その時、私達はそれを治めるべきである。
もしそれをしなければ、どうなるか。それは次回詳しく見ていきたい。
礼拝説教メッセージ音声:親に逆らう事の呪い(申命記21:18-23):右クリックで保存
『もし、わがままで、手に負えない子があって、父の言葉にも、母の言葉にも従わず、父母がこれを懲らしてもきかない時は、その父母はこれを捕えて、その町の門に行き、町の長老たちの前に出し、町の長老たちに言わなければならない、『わたしたちのこの子はわがままで、手に負えません。わたしたちの言葉に従わず、身持ちが悪く、大酒飲みです』。そのとき、町の人は皆、彼を石で撃ち殺し、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば、イスラエルは皆聞いて恐れるであろう。』(申命記21:18-21)
イスラエルにおいては、両親の言う事に逆らう事への罰は大きい。父母をのろう者は、死ななければならない、とまで言われている。(レビ記20:9)
イスラエルでは、父母は、神の御言葉を子々孫々に伝えなくてはならないため、子供にとって、父母は神の預言者であり、権威を代理で行使する立場である。
だから、その権威に逆らう事は、神に逆らうに等しいのだ。
また父母は、従うべき権威の最も基本であり、それに逆らうとするなら、その人には「権威」という概念が無くなり、そのような人達がはびこるなら、社会が、国家が、そして、神の権威まで軽んじられてしまう。
だから、父と母を「のろう」事は、それだけ大きな罪であると、主は定めておられるのだ。
私達も当然、肉の父母を敬うべきである。それは、祝福の約束が伴われている。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
権威には、順序がある。
親子関係においても忘れてはならない事は、1節にあるとおり「主にあって」両親に従う事であり、権威の第一は主である。
両親が主と主の御言葉に反する事を命令して来るなら、敬いの心を持ちつつ、諭すべきである。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
そうした以外の事であれば、両親に服従すべきである。そうするなら、約束通り幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。
『もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない。』(申命記21:22-23)
木に架けられた者が、呪われた者として扱われるのは、天と地の間に宙吊りにする事で、天からも地からも切り離され見捨てられた者とするためのようである。
ダビデの子アブシャロムは、父の王座を強奪し、公の前で父の妾と白昼堂々寝るという、呪われるべき行為をしたが、神は彼をどのようにされたか。
『アブサロムはダビデの家来たちに行き会った。その時アブサロムは騾馬に乗っていたが、騾馬は大きいかしの木の、茂った枝の下を通ったので、アブサロムの頭がそのかしの木にかかって、彼は天地の間につりさがった。騾馬は彼を捨てて過ぎて行った。』(2サムエル18:9)
彼は木に架けられている間に、槍で刺し貫かれ、こうして、神と人との前に公に呪われた者とされたのだ。
公の前で父母に逆らう者は、やがて、神によって公に呪われる時が来るのだ。
人は皆、まことの父である神に逆らったため、呪われるべき者であった。
しかし、イエス様が私達の身代わりに木にかけられ、呪われた者となって下さった。
イエス様が私達の呪いを、全部引き受け、負って下さり、木に架けられて下さったから、私達はいのちを得たのだ。
赦された者である以上、私達は父なる神に服従し、地上での父母を敬い、健やかで幸いな歩みをして行くべきなのだ。





