メッセージ - 201404のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:いのちと死、祝福とのろい - あなたはいのちを選べ(申命記30:15-20):右クリックで保存

『見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。・・・わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。』(申命記30:15-19)

主は、聖書全体を通して、人に、究極の二択を提示している。
すなわち、命か、死か。幸いか、呪いか。従順か、反逆か。
そして、どちらを選んだら、どんな結果が待っているのかも、あらかじめ明示しておられる。

『すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。
 しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。』(申命記30:16-18)

ここで人に提示されている命令は、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守る事、である。
それに服従した人に待ち受けている幸いは、長く生き、子孫は多くなり、主が与えて下さる地で祝福される事である。
そして、命令にそむき、主を捨てて他の神に向かう者に与えられる結果は、これから入って行こうとしている地で、長生きできない事、必ず滅びる事である。

クイズ番組では、よく、正解した場合に与えれる賞品と、間違えた場合に受けるべき罰ゲームとが予め示されるが、神が全人類に示された二択クイズには、なんと、はじめから正しい答えが公に知らされており、しかもなんと、正解した場合に与えられる賞品は、永遠のいのちの祝福、そして、間違えた場合に受けるべき罰は、永遠の火による苦しみなのだ。
ところが、最初の人アダムは、神から提示された最初のクイズ、いのちの木か、善悪の知識の木か、という二択において、神から示されていた正解を退け、悪しき者から受けたアドアイスに従ってしまい、「善悪の道」を選んでしまったために、定められていた死と呪いという罰が、科せられてしまった。

それで人は、永遠に退場し、永遠に罰を受けなくてはならなくなったのか、というと、そうではない。
神は人を、限りなく憐れまれ、敗者復活戦のチャンスを用意されたのだ。
その敗者復活クイズとは、御子キリストを信じるか、それとも、信じないか、である。

『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。』(ヨハネ3:16-18)
この敗者復活のクイズに正しく答えた人、すなわち、御子イエス・キリストを信じ、彼を救い主とした人に与えられる賞品とは、最初のクイズで間違えた事の罰ゲーム、すなわち、永遠の火というさばきをまぬがれ、むしろ神の子とされ、永遠のいのちを受ける事である。
そこまでのチャンスが与えられているのに、それをないがしろにし、あくまで正当な答えをしない人には、もはや敗者復活は無い。
『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)

主は、この永遠を左右する二択クイズに、あらかじめ正しい答えを示し、しかも、そちらを選べと命じている。
『わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。』(申命記30:19)
いのちを捨てる程の愛で迫り、御子の犠牲によって私達に正しい答えを用意し、いのちの道を示して下さった主に対し、私達はどうしてそれをないがしろにし、間違った答えを選択できるだろうか。

礼拝説教メッセージ音声:御言葉はあなたの遠くには無く間近にある(申命記30:11-14):右クリックで保存

『わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。』(申命記30:11)
モーセが命じた”戒め”は、「**しなさい」「**してはならない」という単純明快なもので、それは本来、守る・守らないの二つに一つしかないのに、御言葉をそのままいただくという事をしない人、自己主張が大好きな人は、パリサイ人や律法学者のように、単純明快な主の戒めに身勝手な解釈を付け足したり、あるいは差し引いたりして、複雑怪奇なものにしてしまい、神の国に入ろうとしないばかりか、入ろうとしている人の邪魔さえしている。(マタイ23章)
彼らは、「解釈」という隠れ蓑に隠れて、一見、御言葉を守っているかのように見えるが、実は、守っていなかったりするのである。

『パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。』(マタイ16:1-4)

主が私達に何を求めておられるのかを知るために、また、神のみわざを見るために、なにも、天からのしるしを求める必要はない。
それらは、空模様の見分け方と同じである。
夕焼けが真っ赤であるなら、明日は晴れると容易に予想できるように、主イエスを信じるなら、あなたもあなたの家族も救われると、容易に予想できるはずだし、空が曇っているなら天気は荒れると予想できるように、与えない者や物惜しみする者には、押入れゆすり入れして与えられる恵みにはあずかれないと、容易に予想できるはずだ。
御言葉を実践する事は、大掛かりな、非日常的な、仰々しいものではなく、空模様の見分けと同じくらいに、日常的・身近なものなのだ。

むしろ、私達が主イエスに期待するべきしるしは、ヨナのしるし、すなわち、死と復活である。
つまり、「自己主張」や「身勝手」は、十字架の死へと渡して、キリストにあるいのちの祝福に息吹かれる事を求めるべきである。

『これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。』(申命記30:12-13)

神の御言葉を得るために、何も、海の彼方へと船を乗り出さなくても良いし、ロケットに乗って天に行く必要も無い。
なぜなら、神ご自身が人となって、天を押し曲げて降りて来て下さり、私達の身近に来て、御言葉を示して下さったからだ。
『言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。』(ヨハネ1:14)
肉として私達の間に宿って下さった、御言葉ご自身なるキリスト。
私達はこの御方にあって、神の栄光を見る事が出来るのだ。

『この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。』(申命記30:14)
今やキリストにあって、神の言葉は石の板にではなく、私達の心に直接刻みつけられる。
『すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。』(エレミヤ31:33-34)

だから私達は、御声を聞くために、大層な事をしでかす必要な無い。
いつも私達の内に生き、いつも共にいて下さるキリストに聞き、手元にある聖書にたずね、示された御言葉に従って行けば良いのである。

十字架上の七つの言葉 1 (イザヤ53:10-12)
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第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

本日はイースター、イエス様の復活を記念する日である。
イエス様は十字架の苦しみと死を経られ、復活された。イエス様が通られた一連の十字架の経験と、十字架上で為して下さった業は、私達キリスト者には最も大切な事である。なぜなら、彼が十字架上でなされたその一つ一つの故に、私達は執り成され、全ての贖いが成され、パラダイスへの道が開かれたからである。
イエス様が十字架上で発された言葉は、7つあり、それらは、御父に、私達に、そして、全被造物のために語られた。それら7つの言葉を、今回と次回とで見て行きたい。

まず一つ目の言葉は、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)である。これはイエス様が二人の犯罪人と共に十字架につけられた時に語られた。
この言葉は、他の誰にでもない、父なる神へ語った言葉であり、父の大切な、尊いひとり子を、このようにあざけり、罵り、十字架につけた事を、子自身がなだめた言葉である。
もし皆さんが父親で、愛する独り子が、邪悪な者達にあざけられ、罵られ、十字架に釘付けにされたなら、一体どうするだろうか。すぐに飛んでいってその者達を打ち倒し、子を救い出すのではなかろうか。
しかしイエス様は、父をなだめた。彼らをお赦し下さい、何をしているのか自分で分かっていないから、と。
全人類は、自分が何をしているのか分かっていない。神に対して、御子に対して、どんなに無礼を働き、自分自身に災いを積み重ねているか。しかしイエス様は十字架上で、全ての人のため執り成して下さった。
この時、彼を十字架につけているユダヤ人も、ローマ兵も、一緒になってイエス様を罵っている強盗も、そして、後に生まれてくる世界の人々、すなわち、私達も含め、全ての人がこの時、執り成されたのである。
確かにこの時、全人類は執り成されたのだが、それで全ての人が自動的にパラダイスに入れる訳ではない。
パラダイスに入れるのは、自分の罪を悔い改めて、イエス様を主とした人である。

イエス様が十字架上で語られた言葉の二つ目は、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23:43)である。
これは、イエス様と共に十字架につけられている強盗に語られた言葉だ。死刑執行中の重罪人である。
パラダイスという、彼のような罪人は到底入る望みの無い、いや、入ってはならない所に、入る権利が与えられる事の宣言だ。なぜそのような大逆転が彼に与えられたのか。それは悔い改めと信仰告白の故である。
彼は、自分が今受けている苦しみは、自分の罪の当然の報いで、イエス様は罪なきお方だと告白した。
そしてイエス様は、彼と同じく、死刑の真っ最中で、あと数時間で死ぬはずなのに、その先の話をしている。
なんと、十字架刑という最高の苦しみと恥辱の死の向こう側で、イエス様は栄光の御国の座に着くというのだ。つまり彼は、イエス様は、生死を越えた王であると認め、告白したのだ。
そして、「私の事を思い出してください」と言ってイエス様に個人的に関わって欲しい事を申し出た。
これが、イエス様と共にパラダイスに入れる人の特徴である。

十字架上の言葉の 三つ目は、イエスの母マリヤと、愛する弟子のヨハネへ語られた言葉、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です。」「ごらんなさい。これはあなたの母です。」である。
イエス様は、血の繋がった母マリヤに対して「婦人よ」と声をかけている。まるで血のつながった母ではないかのように。そして、これまた血の繋がっていないヨハネに、マリヤを「あなたの母です」と定めている。
キリストの血は、血の繋がっていない聖徒同士を、主にある兄弟姉妹を、血の繋がり以上の繋がりとするものであり、隔ての壁を打ち壊す。そのようにして、キリストの血によって結ばれた者たちは、もはや異国人でも旅人でもなく、天の国籍の者であり、聖徒であり、神の家族である。(エペソ2:11-20)
『このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。』(エペソ2:21-22)
イエス様は十字架上で、このように産みの苦しみをされ、そして私達は赦され、癒され、聖徒とされ、神の家族、聖なる国民とされたのだ。私達は決して、イエス様の十字架上での苦しみを軽んじてはならない。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
十字架を負って(ルカ23:26-27):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエス様を先生と呼ぶか主と呼ぶか(マタイ8:18-22):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
虚しい労苦に満ちた生き方(伝道者の書2:18-26):右クリックで保存

【概要】

今日のメッセージは、伝道者の書2章18節から26節を通して、人生の労苦とその虚しさについて考えます。ソロモンの経験を通して、神様抜きの労苦がいかに虚しいかを学び、キリストにあって働くことの意義を見出します。

【聖書箇所】

伝道者の書2章18節から26節

【慰めの言葉】

イエス様が共にいるならば、どんな労苦も無駄ではなく、慰めと喜びに満ちたものとなります。

【励ましの言葉】

キリストにあって働くことは、命を育む働きであり、永遠の価値を持つものです。

【戒めの言葉】

神様抜きでの労苦は虚しいものであり、後に残るのは絶望だけです。

【勧めの言葉】

キリストを中心にして働き、後継者たちに良きものを譲り渡すことを喜びとしましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

神様を忘れ、自己中心的に生きてきたことを悔い改め、キリストに立ち返りましょう。

【***詳細***】

今日、私たちがいただく御言葉は、伝道者の書2章18節から26節です。この箇所では、ソロモンが人生の労苦を振り返り、その虚しさを嘆いています。「私は、火の下で骨折った一切の老苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。」(伝道者の書2:18)とあります。ソロモンは、自分が知恵を尽くして得たものが、後に愚かな者に渡ることを憂いています。

ソロモンの後継者であるレハブアム王は、民の重税を軽くするように求められましたが、彼はそれを拒み、さらに重くしました。その結果、イスラエルは北と南に分裂し、争いが続きました。このように、愚かな後継者に渡ることの虚しさをソロモンは感じていたのです。

しかし、私たちはキリストにあって、労苦は無駄ではないことを知っています。「たとい私が、あなた方の信仰の備え物と、礼拝とともに、注ぎの備え物となっても、私は喜びます。」(フィリピン人への手紙2:17)とパウロは言いました。彼は、自分の労苦が他者の信仰を育むことを喜びとしました。

私たちも、キリストにあって働くことは、命を育む働きであり、永遠の価値を持つものです。ソロモンは、「人には食べたり飲んだりし、自分の老苦に満足を見出すより他に何も良いことがない。」(伝道者の書2:24)と言いましたが、キリストにあって飲み食いすることは、命の喜びに満ちたものです。

イエス様は、「私はあなた方に自分で労苦しなかったものを刈り取らせるためにあなた方を使わせました。」(ヨハネ4:38)とおっしゃいました。私たちは、イエス様が成してくださった良き業を受け継ぎ、他者に譲り渡すことができます。

【結論】

ソロモンのように、神様抜きでの労苦は虚しいものです。しかし、キリストにあって働くことは、命を育む働きであり、永遠の価値を持つものです。私たちは、キリストを中心にして働き、後継者たちに良きものを譲り渡すことを喜びとしましょう。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:いつでも敗者復活のある恵み(申命記30:1-10):右クリックで保存

29章では、御声に聞き従わず、御言葉を守り行わない者達が受ける呪いが、示されていた。
物を手から放したら床に落ちるよに、そのような者が呪いを受けるのは、法則である。
そして同時に、御声に聞き従い御言葉を守り行う人には、幸いな祝福が与えられる事もまた法則である。
幸いな事に、一度不従順によって呪いに陥ってしまった人であっても、悔い改めて立ち返るなら、再び幸いが与えられるというのも、また、法則である。

『わたしがあなたがたの前に述べたこのもろもろの祝福と、のろいの事があなたに臨み、あなたがあなたの神、主に追いやられたもろもろの国民のなかでこの事を心に考えて、あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。』(申命記30:1-3)
ひと度罪を犯し主に反逆したら、もう未来永劫赦されない、敗者復活は無し、というものではない。
主は、人がいかに御言葉に反逆しても、立ち返って悔い改めるなら、再び憐れんで下さり、御言葉を守り行う者としての祝福を返してくださるのだ。

『たといあなたが天のはてに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう。あなたの神、主はあなたの先祖が所有した地にあなたを帰らせ、あなたはそれを所有するに至るであろう。主はまたあなたを栄えさせ、数を増して先祖たちよりも多くされるであろう。』(申命記30:4-5)
自分の罪の故に、どんなに遠く最果ての地に追いやられたとしても、また、どんなに時間が経っていたとしても、万軍の主が熱心をもって憐れみを成し遂げて下さる。(イザヤ37:22)
その事は、現在のイスラエルを見れば、主は本当にそうして下さるお方である事が理解できる。

現在存続しているイスラエルは、およそ2000年前、ローマ帝国に攻撃を受け、そこの人々は、世界各地に散り散りにされてしまい、イスラエルという国家は、事実上、消滅したはずなのに、なんと、およそ2000年の時を経て、再びその土地に、イスラエルという国が復活したのだ。
そのような驚くべき国は、未だかつて無かった。
まさに、永遠なる神、万軍の主ががおられ、熱心をもってその事を成し遂げた、としか、言いようが無い。
その事を為して下さった真実な神は、今まさに生きておられ、なんと、この私達に関わって下さり、イエスキリストを信じる信仰を通して、神の民としての幸いと祝福の人生へと導いて下さるとは、なんという幸い、なんという恵みだろうか。

『そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。』(申命記30:6)
割礼とは、ユダヤ人のしるしとして生後8日目に男子の包皮の肉を削ぎ落とす事であるが、そのような肉体的な割礼よりも、むしろ心の割礼のほうが重要であり、それはユダヤ人だけでなく、現代を生きる私達にも必要な事である。
『というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。』(ローマ2:28-29)

私達には、心の割礼こそ必要である。
というのは、心に罪や肉の覆いがかかっているなら、神の国の事柄がさっぱり理解出来ないため、聖徒たちが交わりの中で、御言葉に感動し、喜びを分かち合っていても、何が面白いのか、何をそんなに感動しているのか、さっぱり分からず、一人だけ恵みに入れずに、置いてけぼりをくらってしまうからだ。
だから、御言葉が理解できないとするなら、また、神の国の事柄が分からないとするなら、心の覆いが取りのけられるよう、主キリストに求めるべきである。
主キリストこそ、私達に、心の割礼を施して下さるお方である。

『あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。
あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。』(コロサイ2:11-15)

さて、イスラエルは確かに、奇跡的に国が再興しているが、以下のモーセの預言は、まだ完全に成就していない、と言える。
『あなたの神、主はまた、あなたを迫害する敵と、あなたを憎む者とに、このもろもろののろいをこうむらせられるであろう。しかし、あなたは再び主の声に聞き従い、わたしが、きょう、あなたに命じるすべての戒めを守るであろう。そうすればあなたの神、主はあなたのするすべてのことと、あなたの身から生れる者と、家畜の産むものと、地に産する物を豊かに与えて、あなたを栄えさせられるであろう。』(申命記30:7-8)

イスラエルは2014年現在、ここに記されている程に祝福されていないし、むしろ今、イスラエルを憎む国々に囲まれて危機的な状況にある。
それは、イエスをメシヤとして受け入れておらず、正当な信仰に立っていないからだ。
しかし、やがて、ここで示された預言が成就する時が来る。
『すなわち主はあなたの先祖たちを喜ばれたように再びあなたを喜んで、あなたを栄えさせられるであろう。これはあなたが、あなたの神、主の声に聞きしたがい、この律法の書にしるされた戒めと定めとを守り、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に帰するからである。』(申命記30:9-10)

イスラエルがかたくなにされているのは、異邦人の救いの成就する時まで、であり、そうして後、全てイエスを主とする人は、イスラエルも、全世界の民族も、皆、救われるのである。(ローマ11章)
イスラエルは今、かたくなな心の故に、呪いを受けているが、彼らは私達にとって、霊的に、長男の国である。
長男が好き勝手にいたずらした所を、親に打ち叩かれ、懲らしめを受け、それを弟達が見ていて恐れおののき、正しく歩み、懲らしめを免れているかのように、イスラエルのかたくなさの故に、私達異邦人は、彼らにあって恩恵に預かっているのだ。
だから私達は、イスラエルが一日も早く、かたくなさを捨て去り、救われるよう執り成し祈るべきである。

礼拝説教メッセージ音声:御言葉を理解した事で生じる責任(申命記29:22-29):右クリックで保存

『後の代の人、すなわちあなたがたののちに起るあなたがたの子孫および遠い国から来る外国人は、この地の災を見、主がこの地にくだされた病気を見て言うであろう。・・・すなわち、もろもろの国民は言うであろう、「なぜ、主はこの地にこのようなことをされたのか。この激しい大いなる怒りは何ゆえか。」』(申命記29:22-24)
神の民であるなら、アブラハムの子孫であるなら、教会に通っているクリスチャンであるなら、もうそれで安心で、一切災いに遭わないかと思ったら、大間違いである。
既に何度も聞かされている通り、主の御声に聞き従わず、御言葉を守り行わないなら、呪われ、災いが下されてしまうからだ。
そして、神の民に下される災いの有り様は、あまりにも非道いので、人々はそれを見て語り合う。

『彼らはその先祖の神、主がエジプトの国から彼らを導き出して彼らと結ばれた契約をすて、行って彼らの知らない、また授からない、ほかの神々に仕えて、それを拝んだからである。それゆえ主はこの地にむかって怒りを発し、この書物にしるされたもろもろののろいをこれにくだし、そして主は怒りと、はげしい怒りと大いなる憤りとをもって彼らをこの地から抜き取って、ほかの国に投げやられた。今日見るとおりである。』(申命記29:25-28)

実際、イエス様を十字架につけたすぐ後、イスラエルはローマ帝国に包囲され、最終的には極度の食料不足の故に凄惨を極め、ローマが進入した際には、イスラエルのあまりの惨状を見て、イスラエルには確かに神がおられる事を実感したそうである。
「主の御声に聞き従わず、御言葉を守り行わないなら、呪われ、災いが下されてしまう」という法則は、万民も容易に理解できるシンプルな法則であり、まことの神を捨てる事が、どれ程罪深く、災いな事であるかを、神を知らない異国人でも実感するのだ。

イエス様も、同じ事を言っている。
『それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。』(マタイ7:24-27)
イエス様の御言葉を聞いておきながら、それを守り行わない人は、やがて倒れるが、それは、ただの倒れ方ではない。ひどい倒れ方なのだ。
『なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。そのわけは、律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法のもとで罪を犯した者は、律法によってさばかれる。なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。』(ローマ 2:11)

御言葉が与えられた民であるからこそ、御言葉を与えられていない民よりも、非道い災いに遭う事がある、というのは、確かだ。
なぜなら、せっかくいのちを与える尊い御言葉が与えられたのに、それをないがしろにし、守り行わないからである。
『隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。』(申命記29:29)
ある人にとって、御言葉のある部分が覆い隠されていて分からないのであるなら、それは主のものであり、その部分についての責任は生じない。
しかし、その部分がその人に光当てられ、あらわにされ、その人が理解したからには、それはその人に属するものであり、それを守り行うか、行わないかという責任が発生する。
そしてそれを守り行うなら、他の人には味わえない素晴らしい祝福があるが、守り行わないなら、他の人よりも深刻な状況に陥るのである。

御言葉を聞いて、理解したからには、それに従うか、従わないかという、二者択一の責任が生じ、聞いておきながらそれを守り行わない人に降りかかって来る災いは、大勢で助走つきで飛び込んで来るような、大々的なものであり、御言葉を知らない人に下される災いに比べて、その酷さや深刻さの度合いは、はるかに違う。
しかし、御言葉に聞き従い、それを守り行う人に与えられる幸いもまた、大勢で助走つきで飛び込んで来るような、大々的なものであり、御言葉を知らない人に与えられる幸いよりも、質においても量においても永続する面においても、はるかに大きいのである。

礼拝説教メッセージ音声:主を恐れない者への裁き(申命記29:19-21):右クリックで保存

主の御声に逆らう人は大抵、「自分は大丈夫だ」という、根拠不明の自信があり、自分で自分を祝福し、自分の道を行くのだが、主は、そのような者がどんなに栄えていようと、あるいは元々貧しかろうと、同じように滅ぼされる。

『そのような人はこの誓いの言葉を聞いても、心に自分を祝福して『心をかたくなにして歩んでもわたしには平安がある』と言うであろう。そうすれば潤った者も、かわいた者もひとしく滅びるであろう。』(申命記29:19)
この19節は、訳が分かれる所である。
潤った者も、渇いた者も、ひとしく滅びるのなら、自分は心のままに歩んでも大丈夫だ、というい風にも訳す事は出来るが、いずれにしても、そのような考え方の持ち主を、主は等しく滅ぼされる事には変わりはない。
御言葉を聞いても退けて、自分の道を行こうと自分を祝福するような者も、御言葉の堅苦しい所やのろいの所ばかりを見て、どのみち自分には滅びしか待っていないのだったら自分の好きに生きよう、と言うような者も、等しく、申命記28章で示されている呪いの明細が、待っている。

『主はそのような人をゆるすことを好まれない。かえって主はその人に怒りとねたみを発し、この書物にしるされたすべてののろいを彼の上に加え、主はついにその人の名を天の下から消し去られるであろう。主はイスラエルのすべての部族のうちからその人を区別して災をくだし、この律法の書にしるされた契約の中のもろもろののろいのようにされるであろう。』(申命記29:20-21)
バプテスマのヨハネも、当時の地位の高い宗教指導者に、躊躇なく言い放った。まむしの子らよ、悔い改めにふさわしい実を結べ、と。
外見や言っている事がいかに立派に見えても、悔い改めにふさわしい”実”を結んでいないなら、切り倒す斧は、木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は、ことごとく切られて、火の中に投げ込まれてしまうのだ。

『あなたがたは言った、「神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない。」』(マラキ3:14-15)
主を恐れない者は大体、そのように豪語をする。

『そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。「万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。』(マラキ3:16-19)
主は、主を恐れない者の豪語も、主を恐れている人の言葉も、等しく聞いておられ、それら全てを、主の前の覚え書き(韓国語:主の記念の書)に記しておられ、それぞれ御言葉に応じて、報われる。

主に逆らう者に対して、真実と光で返す聖徒には、主は次の報いをして下さる。
『万軍の主は言われる、彼らはわたしが手を下して事を行う日に、わたしの者となり、わたしの宝となる。また人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。』(マラキ3:17)
そうして主は、救いの器と滅びの器とを、区別されるのだ。(同19節)

裁きは、神の国から始まる。
彼らの中から、御蔵に納められる麦と、火で焼かれる毒麦とを選り分けられるが、成長し切る時までは、伸びるがままにされるのだ。

私達は、神に召しだされた者、聖徒として歩み、そのような者から離れるべきである。
『不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。・・・すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。だから、彼らの仲間になってはいけない。・・・
実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、/「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。』(エペソ5:3-14)

礼拝説教メッセージ音声:契約の民は、誰で、どんな人か(申命記29:10-18):右クリックで保存

イスラエルの民は、これから主と契約を結ぼうとしているが、具体的に誰と契約するのかが明確化されている。
『あなたがたは皆、きょう、あなたがたの神、主の前に立っている。すなわちあなたがたの部族のかしらたち、長老たち、つかさたちなど、イスラエルのすべての人々、あなたがたの小さい者たちも、妻たちも、宿営のうちに寄留している他国人も、あなたのために、たきぎを割る者も、水をくむ者も、みな主の前に立って、あなたの神、主が、きょう、あなたと結ばれるあなたの神、主の契約と誓いとに、はいろうとしている。・・・
わたしはただあなたがたとだけ、この契約と誓いとを結ぶのではない。きょう、ここで、われわれの神、主の前にわれわれと共に立っている者ならびに、きょう、ここにわれわれと共にいない者とも結ぶのである。』(申命記29:10-15)

主と契約を結ぶ人、それは、神の民であるイスラエル部族で、上は部族の長から、下は薪拾いや水汲みに至るまで、あらゆる人種、あらゆる身分の人の全部と、そればかりでなく、あの時あの場にいなかった人も、この契約の対象者として、含まれているのだ。
遊女ラハブやルツは、あの時代あの場に立ち会っていなかったのに、イスラエルの神、主の翼の陰に救いを求める事の、信仰告白によって、神の民の交わりに入って来て、あたかも、あの契約をあの場で結んだかのような恩恵にあずかった。
それと同様に、現代を生きる私達も、キリスト・イエスを信じる信仰によって、救いの契約へと入る事ができるのである。

『これは主がさきにあなたに約束されたように、またあなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立てて自分の民とし、またみずからあなたの神となられるためである。』(申命記29:13)
主の救いの契約に入ると、人は神と共に住む特権にあずかり、神自らが、その人の神となって下さる。
創世の当初、人は元々そうであったが、人が御言葉に反し、神から離れてしまったために、その特権にあずかれなくなってしまった。
神と人とが共に住み、人は神の民となる。それは、黙示録21章でも示されている、人が本来あるべき姿であり、人が戻るべき究極の目標でもある。

神との契約関係において、最先に禁じられている事は、まことの神以外のものを、神としてしまう事である。
『われわれがどのようにエジプトの国に住んでいたか、どのように国々の民の中を通ってきたか、それはあなたがたが知っている。またあなたがたは木や石や銀や金で造った憎むべき物と偶像とが、彼らのうちにあるのを見た。』(申命記29:16-17)

イスラエルの民は、エジプトの中に住んでいた時も、またそこから脱出して約束の地へ向かう途中でも、異国の偶像を見てきたが、それを慕い求めてはならないと命じられている。
この国にも、そのような偶像は神社仏閣などにあるが、私達が気をつけるべき”偶像”は、そうした類のものばかりでない。
私達が注意すべき”偶像”は、より多くを持とうとする所有欲であり、また、この肢体に宿っている汚れた肉欲、すなわち不品行、汚れ、情欲、悪欲の類である。
『だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。』(コロサイ3:5-6)

ソロモンは、主から与えられた素晴らしい知恵や地位、富では満足せず、酒に酔う事や、快楽、愚かさをも所有しようとしてしまった。(伝道者の書1-2章)
彼は、その貪欲にどっぷりとはまってしまい、実際の偶像礼拝者になってしまい(1列王記11章)、何もかもが虚しくなってしまったばかりでなく、自分が治めている国や、自分の子孫たちにも、大きな災いを相続させてしまった。
いかに人類最もIQが高いソロモンと言えども、貪欲に妥協してそれを追求してしまったら、その誘惑に勝つことは出来なかった。とするなら、ましてや、私達などが貪欲を追求したりするら、勝てるわけが無いのだ。
だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲は、私達の内に生かして置く事なく、殺してしまうに限る。

『あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。』(コロサイ3:7-11)

イスラエルの民が偶像を投げ捨てたように、私達は、キリストを知る以前に夢中になっていた世の事、肉欲、怒りや憤り、口から出る恥ずべき言葉の類を、投げ捨てるべきである。
古き肉にまみれた自分自身は、キリストと共に十字架の死へと明け渡し、キリストにあって新しく造られた者として歩むのである。
キリストにあっては、人種差別も、身分差別も、一切無い。ただキリストこそ、全てである。

『それゆえ、あなたがたのうちに、きょう、その心にわれわれの神、主を離れてそれらの国民の神々に行って仕える男や女、氏族や部族があってはならない。またあなたがたのうちに、毒草や、にがよもぎを生ずる根があってはならない。』(申命記29:18)
雑草は、根こそぎ取り除かないなら、再び茂って来てしまうように、主から離れた罪の苦い根も、根こそぎ取り扱わないと、やがて茂って、そえrは多くの聖徒を汚してしまう。
だから私達は、聖徒の交わりを清く保つために、日々互いに励まし合って、清くなる事を求め、互いに教え戒め合うべきである。

『自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。』(ヘブル12:14-17)
聖徒の交わりは確かに楽しく麗しいものである。しかし同時に、そこには互いに戒めあう事が無ければ、その楽しい交わりは、たちまち苦くなってしまう。
私達の内には、一杯の食物で長男の権利を売り渡したエサウのような、銀貨30枚でイエス様を売り渡してしまったような、俗悪な者を好き放題させてはならない。
そのような性質が出ないよう、日々互いに励まし合って、交わりを清く保つ皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

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