メッセージ - 201405のエントリ
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
花婿が一緒にいるなら(マタイ9:14-15):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
二人は一人にまさる(伝道者の書4:7-16):右クリックで保存
【概要】
伝道者の書4章7-16節を基に、一人でいることの虚しさと、互いに助け合うことの大切さを説く説教。
【聖書箇所】
伝道者の書4:7-16、創世記2:18、第1サムエル記25章
【励ましの言葉】
二人は一人よりも勝っています。互いに助け合い、支え合うことで、より強くなれます。
【戒めの言葉】
人の忠告を聞かず、頑固になることは愚かです。謙虚な心を持ち、他者の言葉に耳を傾けましょう。
【勧めの言葉】
キリストの体である教会の一部として、有機的につながり合いましょう。
【***詳細***】
今日、私たちが恵みをいただく御言葉は、伝道者の書4章7節から16節までです。
ソロモンは晩年、非常に虚しい日々を送りました。彼は好き放題のことをし、主の教えを捨て、預言者の忠告も聞き入れませんでした。その結果、彼の後の世代でイスラエルは分断され、ダビデの家はユダ族とベニヤミン族の二部族しか従わなくなってしまいました。
ソロモンは冒頭で、**「一人ぼっちで仲間もなく、子も兄弟もない人がいる」**と述べています。確かに、物理的に一人きりの人もいれば、家族や仕事があっても孤独を感じる人もいます。しかし、一人ぼっちになる理由は、多くの場合その人自身に問題があると言えるでしょう。
13節で**「貧しくても知恵のある若者は、もう忠言を受け付けない年取った愚かな王に勝る」**と言われています。人の言うことを聞かなくなった頑固な人は、救いようがありません。そのような人は、周りの人々から見放されていきます。
神様は創世記2章18節で、**「人が一人でいるのは良くない。私は彼のために、彼にふさわしい助け手を作ろう」**と仰せられました。神様は人が一人でいることを良しとされなかったのです。確かに、一人でいる方が気楽で自由かもしれません。しかし、年を重ねるごとに虚しさと寂しさが増していくでしょう。
私たちは、キリストの体である教会の一部分として、有機的につながり合うべきです。夫婦であれば、さらにイエス様を加えた三者で家庭を築き上げるべきです。聖書は**「三つより合わせた糸は簡単には切れない」**と言っています。
第1サムエル記25章に登場するナバルという人物は、人の言うことを聞かない愚かな人でした。彼はダビデから受けた恩を忘れ、助けを求めに来たダビデを追い返しました。このような態度は人々から嫌われます。一方、ナバルの妻アビガイルは聡明で美しく、知恵のある女性でした。彼女の機転のおかげで、ナバルの家は救われました。しかし、ナバルは結局、主に討たれて死んでしまいました。
私たちは互いに助け合うものとして造られました。兄弟姉妹が何か諭し、注意してくれたら、謙虚な心でそれを受け入れるべきです。頑なな心を続けていくと、ナバルやサウル王のように悲惨な最後を迎えてしまいます。
イエス様は私たちのために取り成してくださいます。ペテロが三度イエス様を知らないと言った時も、イエス様はあらかじめ彼のために祈っておられました。
私たちは一人になることなく、2人また3人の交わりの中にしっかりといるべきです。御言葉に耳を傾け、兄弟姉妹の忠告に従い、決して切れることのない強い絆を持った教会として、キリストを土台として建て上げられていくべきです。
【結論】
一人でいることの虚しさを認識し、互いに助け合い、支え合う関係を築きましょう。謙虚な心で他者の言葉に耳を傾け、キリストの体である教会の一員として、共に成長していきましょう。
礼拝説教メッセージ音声:指導者ヨシュアの最初の指示(ヨシュア記1:10-18):右クリックで保存
主はヨシュアに再三、強く、雄々しくあるようにと励ましたが、彼はそれを受けて、早速、指導者として”初の”アクションを起こした。
『そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った。「宿営の中を巡って、民に命じて、『糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから。』と言いなさい。」』(ヨシュア記1:10-11)
主は、アブラハムの時以来、何百年もの前から、このカナン人の地を与える事を約束しておられたが、もう、その地はすぐそこに迫っている。
そして、もうあと数日もすれば、そこに突入する所に来ている。
ヨシュアは民のつかさたちに、食料を整え、いつでも出立できるよう、必要な備えをしておくよう命じたが、その地に突入する際には、真っ先に進み行かなくてはならない人々がいた。
『ヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、こう言った。「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主は、あなたがたに安住の地を与え、あなたがたにこの地を与える。』と言ったことばを思い出しなさい。
あなたがたの妻子と家畜とは、モーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側の地に、とどまらなければならない。しかし、あなたがたのうちの勇士は、みな編隊を組んで、あなたがたの同族よりも先に渡って、彼らを助けなければならない。主が、あなたがたと同様、あなたがたの同族にも安住の地を与え、彼らもまた、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側、日の上る方にある、あなたがたの所有地に帰って、それを所有することができる。」』(ヨシュア記1:12-15)
かつてルベン人、ガド人、およびマナセの半部族は、ヨルダン川の東側で既に勝ち得ている領土を、先んじて与えてください、という事を、モーセに願っていた。
彼らの当初の願いは、「もし、あなたの恵みを得られますなら、どうぞこの地をしもべらの領地にして、われわれにヨルダンを渡らせないでください。」(民数記32:4)という、自己中心的なものだったが、それをモーセに咎められたため、その要望を変えた。
すなわち、自分達は相続地を先にいただく代わりに、他の部族が戦いに出る時は、一緒になって、それも、先頭に立って戦い、全部族が相続地を受ける時までは帰らない、と。(民数記32:16-19)
今、ヨシュアは、彼らがかつてモーセにしたその約束を、果たすように命じたのだ。
この時も、ヨシュアは、もしかしたら恐れがあったかもしれない。
果たしてこの民は、自分のこの初の命令を、聞くだろうか、と。
果たして彼らは、ヨシュアに答えた。
『彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じるどんなことばにも聞き従わない者があれば、その者は殺されなければなりません。ただ強く、雄々しくあってください。」』(ヨシュア記1:16-18)
ヨシュアには、期待以上の答えだったろう。
彼らは、自分達はモーセに聞き従ったように、ヨシュアの命令にも、何でも聞き従う、と。
もし命令に逆らう者があれば、その者は殺されなければならない、と。
しかも、「主が共におられますように」という祝福をしてくれたばかりでなく、主が再三、励まして下さったのと全く同じ言葉、「強く、雄々しくあるように」という言葉まで、返って来たのだ。
これでヨシュアは、指導者としての自信を得、自分に与えられた主のミッションを心置きなく遂行できる、と、安心しただろう。
ヨシュアには元々、恐れなど無かったのかもしれないが、そうだとしても、あるいはその逆で大いに恐れていたとしても、主は、その働き人には、必ず必要な励ましと、勇気の源となるしるしと、部下を統率する権威とを、与えてくださるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:強く、雄々しくある根拠(ヨシュア記1:7-9):右クリックで保存
『ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。』(ヨシュア記1:7)
「強くあれ、雄々しくあれ」という励ましは、キリスト教会ではよく語られるが、実際にその言葉の通りに、強く雄々しく快進撃して行けるかどうかは、本人次第である。
ソロモンも、ヨシュアと全く同じ祝福を受けた。
「あなたは強く、男らしくなければならない。あなたの神、主のさとしを守り、その道に歩み、その定めと戒めと、おきてとあかしとを、モーセの律法にしるされているとおりに守らなければならない。そうすれば、あなたがするすべての事と、あなたの向かうすべての所で、あなたは栄えるであろう。また主がさきにわたしについて語って『もしおまえの子たちが、その道を慎み、心をつくし、精神をつくして真実をもって、わたしの前に歩むならば、おまえに次いでイスラエルの位にのぼる人が、欠けることはなかろう』と言われた言葉を確実にされるであろう。」(1列王記2:2-4)
ソロモンは最初は御旨に適った歩みをしていたため、確かに、どの王にも勝る栄華を極めた。
しかし、後にはおごり高ぶり、御言葉に背き、主から離れたため、人生の終わりの時には、全てが虚しく、うつろなものとなってしまった事は、伝道者の書に記されているとおりである。
御言葉への従順なしの「強くあれ、雄々しくあれ」は、ただのむなしい空文である。
強さ、雄々しさの根拠たるお方、主を、しっかり敬い、主の御言葉をことごとく守り行い、それを離れて右にも左にも逸れずに歩まない事には。
『この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。』(ヨシュア記1:8)
律法の書、それは現代で言うところの聖書の御言葉だが、御言葉は何も、礼拝中や教会の中だけで取り交わされる「非現実」の言葉ではない。
職場、家庭、学校など「現実」の生活の場において、信仰をもって語りだす時、それは「現実」の力となり、問題の解決となり、祝福の根拠となる。
御言葉を日々の生活においても口ずさみ、その内容に心を留めてそれを守り行う人は、流れのそばに植えられた木のように、どんなに日照りのような時でも、しっかり実を結び、その葉は枯れず、何をしても栄える事が出来るのだ。(詩篇1:2-3)
『わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。』(ヨシュア記1:9)
主が「強く、また雄々しくあれ」とヨシュアに仰せられたのは、これで三度目である。
ヨシュアには、最初から強く雄々しい、というイメージがあるが、もしかしたら彼にも恐れがあったのかもしれない。
ヨシュアは、偉大な指導者・モーセの従者として、長年彼の傍で仕えて来たため、モーセの偉大さも、民の頑なさも、十分に知っている。
その偉大な指導者・モーセがいなくなり、これからは、自分が直接、神様から示しを頂きながら、この60万以上の民を、導いて行かなくてはならない。
どれ程のプレッシャーを、彼は感じただろうか。
先代があまりに偉大であるなら、二代目は、すぐに潰れてしまうというパターンは多いが、ヨシュアは見事、モーセが成し得なかった事を為し、イスラエルを約束の地へと導き入れた。
絶対に失敗しないコツ、それは実にシンプルである。
それは、申命記で幾度も聞かされてきた通り、主の御声に聞き従い、御言葉を守り行う事だ。
そして、決して変わる事の無い主の愛の中に、とどまり続けるなら、世の何者も恐れる必要は無くなる。
『だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。』(ローマ8:35-39)
御言葉から右にも左にも逸れる事なく、祝福の王道の真ん中を歩んで行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
「何者も立ちはだかる者なし」という特別パス(ヨシュア記1:5-6)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨシュア記
- 執筆 :
- pastor 2014-5-22 22:40
礼拝説教メッセージ音声:「何者も立ちはだかる者なし」という特別パス(ヨシュア記1:5-6):右クリックで保存
『あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。』(ヨシュア記1:5-6)
一生涯の間、誰一人、立ち向かう者はいない・・・とても魅力的な言葉である。
人は、ドラマや映画のヒーローのように、向かう所、敵なし、という姿に憧れがちだが、主がその特権をヨシュアに与えられたのは、彼らに勝利のいい気分を味わわせるためではなく、彼が為さなくてはならない責務のため、すなわち、イスラエルを約束の地へと導き入れるという、主のご計画を成就するために、彼を「向かう所、敵なし」状態にする必要があったからである。
私達は何かと、ヒーローになりたがるが、もし、主がその人をヒーローのようにするとするならば、主の栄光のため、天の御国の拡大のための責務がある事を、忘れてはならない。
神の国の働き人が為すべき責務とは、以下のイエス様の命令である。
「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのであるとの名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ28:18-20)
私達・キリスト者の責務は、行って、あらゆる国の人々を弟子とし、父と子と聖霊との名によってバプテスマを授け、主の命令を守り行うように命じる事である。
一国の大使には、様々な特権が与えられているように、主の奉仕者、神の国の働き人には、向かう所敵なしという”特別パス”や、万軍の主がいつも共にいるという”セキュリティ”も与えられているため、世の何者に対しても、強く雄々しく、大胆に、主から与えられた責務を行使する事が出来るのだ。
パウロも、コリントの宣教地で、反対者が現れた時、主が現れて言われた。
「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる。」(使徒18:9-10)
パウロはその主の命と承認を得たため、一年六か月の間、コリントに腰をすえて伝道し、多くの人々を救った。
主は、御言葉を伝える神の国の奉仕者を、プライドをかけて、守られる。
なぜなら御言葉は、主イエスキリストご自身であり、世の何者にも勝る、計り知れない宝だからだ。
『わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。』(2コリント4:7-12)
礼拝説教メッセージ音声:既に与えられている所へ踏み出せ(ヨシュア記1:3-4):右クリックで保存
人は、初めから強く雄々しくあるわけではない。
強くなるにはそれなりの鍛錬が必要だし、雄々しくなるには、それなりの根拠が必要である。
聖書の中の、ヨシュアの言動は、まことに強く雄々しいが、彼はどのようにして強さを身に着け、何を根拠にして雄々しくなれるのだろうか。
彼が雄々しくなれる根拠、それは、主にある。
そして彼の強さは、日々、御言葉を信じ従順する事によって、鍛え上げられたものである。
『あなたがたが、足の裏で踏む所はみな、わたしがモーセに約束したように、あなたがたに与えるであろう。』(ヨシュア記1:3)
主はモーセに、そこを既に「与えている」と約束した。
しかし、その約束されたものを、実体として受け取るには、主の言葉を信じ、実際にそこへ行って、「足の裏で踏」むという行動が必要である。
主の約束という「真理」の中では、その地は、既に彼らに「与えられている」。
なのに「現実」は、そこには強大なカナン人達が占拠しており、城壁は彼らに敵対して高くそびえ、城門も堅く閉ざしている。
このように、御言葉の「真理」と、「現実」とが敵対している時、人は、二通りの行動を取る。
すなわち、現実を取って、御言葉の真理を捨てるか。
それとも、御言葉の真理を信じて、現実に戦いを挑むか。
40年前のイスラエルも、全く同じチャレンジが与えられていた。
向きを変えて出発せよ、その地に行って占領せよ、そこは既に、あなた方に与えている、と。(申命記1:6-8)
しかし、40年前のイスラエルは、その地には強大な敵が住んでいる「現実」を見て、自分達はそこに入っていけないではないか、主は自分達を憎んでいるのではないか、だから、その地の住人を用いて自分達を殺させようとしているのではないか、と、「真理」とは真逆の「不信仰告白」をし、そうして、彼らの信じた通りに、彼らは滅んでしまった。
それから40年後のヨシュア達も、あの時と全く同じチャレンジを受けたのだが、ヨシュア達は見事、御言葉の真理を信じ、戦いを挑み、そして信じた通りに、真理で示されていた通りの祝福を勝ち得た。
私達は、いかにすれば「現実」を「真実」で塗り替えるのか。
それは、信じて、行う事によって、である。
信仰の通りに実行するなら、約束されていたものを勝ち取る事ができる、という原理は、現代も、将来も、全く同じである。
主は御言葉において、既に、様々な良き祝福を約束しておられるが、それを実体として手に入れるためには、まず、私達の側が信じてアクションする必要があるのだ。
『あなたがたの領域は、荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテからヘテびとの全地にわたり、日の入る方の大海に達するであろう。』(ヨシュア記1:4)
主が約束された地の範囲は、大川ユフラテからヘテびとの全地にわたる、広大な地域である。
ところが、イスラエルの歴史では、今に至るまでも、大川ユフラテまでを領地とした事は、いまだに無い。
なぜなら彼らは、ある程度占領したら、もうこれでいいや、と、途中で妥協してしまい、信仰の戦いをする事を、止めてしまったからだ。(士師記1章)
主が示した占領すべき地を、いつまでも攻めず落とさずに残しておくと、その未占領地域はかえって敵対する力を得、ゆくゆくは仇となって、攻め寄せて来るものだ。
手付かずの宿題を先延ばしにしていると、日毎にそれらの存在が重荷となり、ついにはその人を責めるまでになってしまうように。
だから、主が示されたなら、すぐに、その通り実行しないと、ゆくゆくはそれが敵対して攻めて来ることとなる。
皆さんは、主から示されている為すべき事を、途中で止めて、妥協してはいないだろうか。
御言葉を信じて、それに服従し、実行する時、その「服従」は、要塞をも破る力のあるものとなり(2コリント10:4)、そうして信仰によって日々、小さな要塞を打ち破って行くなら、皆さんの自由な領域は、日々、拡大して行くものである。
引き篭もっている人は、実体の無い恐怖、すなわち、社会に出るなら、自分はよくわからない事で怒られてしまう、親以外の大人はみんな怖いものだ、何をするにもあざけられ、恥ずかしい思いをさせられてたりするものだ、などと恐れ、いつまでも狭い領域の中で窮屈に暮らしているものだ。
皆さんも、霊的に狭い領域の中で、窮屈に暮らしていないだろうか?
御言葉に記されている通り、主に聞き従って、進み行くならば、あっさりと勝利するものだ。
なぜなら、主が共にいて下さるからだ。
引き篭もっている人が、少しずつ勝利を積み重ねていくなら、仕事も出来るようになり、それが楽しくなり、コミュニケーションできるようになり、それを楽しむようになり、今まで狭い領域だけで過ごしていたのが、より広い領域へと踏み出すようになり、外国にさえも自由に行き来できるようになり、ますますその人の「領域」は増し加わって行くものだ。
しかし、主が「行け」と言われている領地を勝ち取っていく事に、妥協してしまったり、いつまでも恐れて引き篭もっているなら、何の進展も無く、ただ若さと時間ばかりを浪費し、意欲も萎えてしまい、その分、敵に力を与えてしまうのだ。
礼拝説教メッセージ音声:ヨシュアという人(ヨシュア記1:1-2):右クリックで保存
聖書は、神が人を救うための全容が記された書物である。
最初の人アダムは、エデンの園で神の命令に背き、そうして人には罪と死が入り、滅ぶ存在となってしまった。
神は人類を救うために、一人の人・アブラハムを選び、神の基準である「律法」をモーセを通して与え、アブラハムの子孫であるイスラエルが、それを守り行う事により、全人類に主の栄光を伝えさせるため、彼らを約束の地・カナンへと導き入れようとした。
以上が、創世記から申命記までのいわゆる「モーセ五書」の内容であり、約束の地へ入る直前、モーセの死の場面でその内容が終わった。
続くヨシュア記以降は、イスラエル民族が入る約束の地で、主と共にいかに歩んだか、という歴史が記されており、ヨシュア記以降エステル記に至るまでの聖書は、「歴史書」という区分で分けられている。
その、歴史書の始まりであるヨシュア記は、モーセの死と、モーセの後継者・ヨシュアへに対する主の命令で始まる。
『主のしもべモーセが死んだ後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた、「わたしのしもべモーセは死んだ。それゆえ、今あなたと、このすべての民とは、共に立って、このヨルダンを渡り、わたしがイスラエルの人々に与える地に行きなさい。』(ヨシュア記1:1-2)
ヨシュアは、モーセ五書の中でも何度か登場したが、彼のそれまでの歩みは、まさに、信仰の歩みだった。
ヨシュア記の学びを始める前に、まず、彼の人となりを見ておきたい。
ヨシュアは、モーセの「従者(シャーラス:アテンド、ミニスター)」であり、いつもモーセの近くに仕え、従っていた。
彼が聖書で最初に登場するのは、イスラエルが出エジプトして間もない頃、レフィディムにて、アマレクが戦いを仕掛けて来た時だった。(出エジプト記17章)
その時、モーセの従者だったヨシュアは、前線に出て戦い、モーセは背後で彼らを祝福し、その結果、イスラエルは勝利をおさめた。
ヨシュアは、モーセが丘の上に立ち、主に執り成して祈るその姿を見て、安心して戦う事が出来た。ヨシュア達が肉体で格闘したように、祝福の祈りもまた、重要な格闘なのである。
その次に彼が登場するのは、主が契約の石板をモーセに授けるために、モーセひとりを山へ呼び出された場面である。(出エジプト記24:13)
モーセは四十日四十夜、山で主とともにおり、降りて来なかった。
イスラエルの民は、モーセがあまりに山で手間取るので待ちきれなくなり、アロンとフルも民を正しく導く事ができず、金の子牛を作って早速主に背いてしまったが、ただ一人、ヨシュアだけは、民から離れた場所で、モーセが降りてくるのを忠実に待っていた。(出エジプト記32:17)
またヨシュアは、モーセが会見の幕屋から帰った後でも、幕屋から離れずにいた。(出エジプト記33:11)
このように、彼はいつもモーセから離れず、主の幕屋から離れず、モーセが戦いに行けといえば行き、待てと言われれば、他の誰よりも待った。
主が、長老たち七十人にも霊を分与した時、長老として登録された人達のうち二人は集うべき場に集っていなかったのに、その二人にも主の霊が注がれて預言した。
『若い時からモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った、「わが主、モーセよ、彼らをさし止めてください」。モーセは彼に言った、「あなたは、わたしのためを思って、ねたみを起しているのか。主の民がみな預言者となり、主がその霊を彼らに与えられることは、願わしいことだ」。』(民数記11:28-29)
ヨシュアが「止めさせて下さい」と願ったのは、指示に不忠実だった長老達にさえ、預言の霊が与えられた事を、不服に思ったからかもしれない。
しかし、約束の地に入る事が出来たのは、預言が与えられた指示に不忠実な長老達ではなく、預言は与えられずとも、いつでも指示に忠実に従ってきたヨシュアのほうであった。
そして、民数記13章では、ヨシュアはイスラエル各部族の代表である十二人の斥候のうちの一人として、約束の地を探ってくるという、大役が任される事となる。
ヨシュアは元々、ホセアという名だったが、この時、モーセは彼に「ヨシュア」という新しい名を付けた。
ホセアの名前は「救い」という意味、ヨシュアは「主は救い」という意味である。
そして、ヨシュアは、ギリシヤ語読みでは「イエス」、あの、イエスキリストと同じ名である。
ヨシュアの親が「ホセア」と名付けたのは、自分で自分を「救う」者になって欲しいと願ったのかもしれないが、モーセは、主こそ救いの拠り所であるとして、ヨシュアと名づけて、斥候の任務に遣わしたのかもしれない。
そして実際ヨシュアとカレブは、カナン人は強くその町は堅固であるのを見たにもかかわらず、その信仰は衰えず、かえってその良き地を得たいと考え、主が救って下さるなら必ず勝利できる、だから是非、攻め上りましょう、と、皆に進言した。
しかし、他の十人の斥候は、その土地について悪い噂を言い広め、その「臆病」がイスラエル全体に伝染してしまい、結局、イスラエルはのその不信仰の故に、荒野での四十年の放浪が、確定してしまった。
この四十年の間、あの時不信仰にならった世代は、ヨシュアとカレブ以外は全員死に絶え、その世代では、ただ、ヨシュアとカレブだけが生きて約束の地に入る事が許された。
モーセ五書の中心人物であり、律法の代表的存在とも言えるモーセは、多くの実績と功労を残したのに、たった一つの過ちを犯したが故に、主の約束された安息の地には、入れなかった。
一つでも過ちを犯してしまうと、どんなに功績を残しても、安息には入れない。
その事は、律法の性質をよく表している。
律法は、たった一つの違反を犯しても、律法の全体を犯したと、みなされてしまう。(ヤコブ2:10)
そして律法の致命的欠陥は、単に「人には違反がある」という事を示すだけで、いのちを与える事ができない、という点である。(ガラテヤ2:21, 3:21)
『いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。』(ガラテヤ3:10-11)
モーセは、約束の地の手前までは導く事は出来ても、約束の地そのものへ人々を導き入れる事は、できなかった。
人々を約束の地へと導き入れるのは、モーセではなく、ヨシュアである。
この事は、イエス・キリスト(ヨシュア)と、旧約律法(モーセ)との関係を、よくあらわしている。
『律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。』(ガラテヤ3:24)
律法は、イエス・キリストへと導く事はできても、実際に安息の地へは入れない。律法は、キリストへと連れて行く養育係に過ぎないのだ。
私達を真の約束の地、すなわち天の御国へと導き入れる事ができるは、モーセに示される律法ではなく、ヨシュアに示されるイエスキリストである。
ヨシュア記は、勝利に満ちているが、同時に、少しでも不信仰に陥ったり、滅ぼしつくすべきものを滅ぼさないのなら、いかに、ヨシュアの軍団の中にいようとも、すぐに負けてしまうという法則が相変わらず存在する事も、忘れてはならない。
私達はただ、イエスキリストを信じる信仰によって、世に勝利し、死をいのちで飲み込み、サタンに勝利して、神の安息に入る事が出来るのだ。
『もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。』(ヘブル4:8-11)
ヨシュア記のヨシュアが勝ち取ったカナンの地は、真の安息の地ではない。
真の安息の地は天であり、それは私達・信じる者達に残されているのだ。
だから私達は、その安息に入るために、この地上の歩みを、キリストにあって強く雄々しく、信じて、大胆に歩もうではないか。
ノア - 闇の時代に輝く新しい希望(創世記6章)
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かつて全人類は、神の御前に甚だ悪くなり、一つの家族を除く、全てが滅ぼされてしまった事があった。
その、唯一生き残った一つの家族が、ノアの家族である。今回より、邪悪な世代において神の御前に正しく信仰を貫き、新しい世代へと多くの命をつないだ、ノアについて、何度かに渡って見て行きたい。
アダム以降、ノアの時代に至るまで、人はどんどん増えていったが、その邪悪さも増していった。
『人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。』(創世記6:1-2)
「神の子たち」という言葉は、御使いを指す事もあるし、神に従う人達を指す事もあるが、私達キリスト者を含む「神の子達」が、人の娘が美しいからと好き勝手に選んで妻にしてしまうと、良くない事が起こる。
神の霊は、もはやその人には留まらなくなり、肉に過ぎない存在となり、齢も縮められてしまうのだ。(3節)
神の子が、人の娘と結婚した結果、生まれるのは、ネフィリム(原意:伐採者。巨人、いじめっ子、暴君の意味)である。「彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。」人の価値観では、より強く大きい事、より有名な事、より美しい事は、望ましい事であるが、神から離れてそれらを追求する結果、引き起こされるのは、人の悪が増大する事、人の心に思い量る事は、いつも悪い方へ傾いてしまう事である。
その結果、この世代はノア以外、全員が邪悪になってしまった。全人口が一億人だとしたら、一億総殺人鬼時代である。神の似姿であるはずの人々がそうなってしまったので、神は、目も当てられなかっただろう。
「しかし、ノアは主の前に恵みを得た。」(創世記6:8)
全被造物は、ノアの故に滅ぼし尽くされなかった、と言っても過言ではない。
神は一人の義人でもその町、その国、その世界、その宇宙にいるなら、神はそれを滅ぼさない。
神は人を身勝手に創造して、また身勝手に滅ぼすお方ではない。
創世記1章から6章まで読むまでに私たちは1時間もかからないが、その間、時間的には千年以上の月日が流れており、その間、神はずっと人が悔い改めて立ち返るのを望まれ、エノクやノアのような義の宣伝者を送り、彼らを通して全人類を立ち返らせようと、忍耐して待っておられた。
「(神は)古い世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された。」(2ペテロ2:5) ノアは五百歳の時に3人の子を産み、箱舟を造るよう指示を受け、六百歳で洪水が起きるまでの、およそ100年の間、箱舟を造りながら人々に義を説いて来たのだが、結局救われたのは、ノアの家族だけだった。立ち返る者は誰もいなかった、という事である。
ノアが建造したのは、全長135m、幅22.5m、高さ13.5mの巨大な船である。
横浜大さん橋にも時折、100mを超える船が停泊するが、そのような巨大船を、なんと500歳以上の老夫婦と、その子達の3組の夫婦、合計8人が、およそ百年がかりで仕上げた訳である。
一体どれほど大変だっただろう。それを実際に実行してしまう信仰は偉大だが、そればかりでなく、邪悪な価値観の世界の中で、子供達や嫁たち全員にもそれを行わせる信仰は、どれほど大きなものであろうか。
ノアが多くのいのちを救うことができたのは、神から命じられた事を、全てその通り忠実に行ったからである。
わずか8人で、100年がかりで、巨大船を建造するという、人の目から見たら気違い沙汰とも思える事業を実際に成し遂げ、その箱舟が完成した時、ノアのそれまでの見えなかった信仰が、実体となったのである。
箱舟は50mではだめで、きっかり示された寸法でなくてはならなかったし、子供たちに信仰生活の苦労をかけさせる事を躊躇していたら、彼らへの救いも無かったのだ。もしノアが、神様に言われた事があまりにも途方も無いという事で、少しでも妥協していたなら、家族の救いも、動物たちの救いも、無かったのだ。
ノアの名前は「慰め」「新しい希望」という意味である。ノアがその世界にとって慰めとなり、滅ぼさない事の原因となったように、私達も信仰によって、その地域、その国にとって慰めとなり、新しい希望となる事が出来るのだ。そして、ノアが信仰によって、古い世界から新しい世界へと生きのびたように、私達も、信仰によって来るべき世へと入り、宣教によって、多くのいのち達を御国へと継がせる事が出来るのである。