メッセージ - 201406のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主のおびきよせ作戦(ヨシュア記8:10-17):右クリックで保存

『アイの王はこれを見て、すべての民と共に、急いで、早く起き、アラバに行く下り坂に進み出て、イスラエルと戦った。しかし、王は町のうしろに、すきをうかがう伏兵のおることを知らなかった。ヨシュアはイスラエルのすべての人々と共に、彼らに打ち破られたふりをして、荒野の方向へ逃げだしたので、その町の民はみな呼ばわり集まって彼らのあとを追い、ヨシュアのあとを追って町からおびき出され、アイにもベテルにも残っているものはひとりもなく、みな出てイスラエルのあとを追い、町を開け放して、イスラエルのあとを追った。』(ヨシュア記8:14-17)

主がともにおられ、主の守りがあるはずの、ヨシュアとその軍勢が、神を恐れぬ罪深い敵の前から逃げる。
それは、ヨシュア達にとっては、屈辱的な時かもしれないが、それは敵を徹底的に殲滅するために必要であり、また、わずかな期間である。
私達も時に、敢えて、敵の前から逃げるような屈辱的な所を通らされるかもしれない。
しかしそれは、滅ぼされるべき者達の罪が明らかとされ、彼らに為される処罰が当然の結果であると、誰の目にも明らかにされるためである。
『わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。
それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。』(2テサロニケ1:4-9)

主はよく「おびきよせ作戦」をされる。
敵をおびきよせている間は、敵はいい気になって、勢いづくが、最終的には、おびきよせた敵を根絶するために、敢えて、そのように泳がせているのである。
主がなされたおびきよせ作戦の中で有名なのは、主が紅海でエジプト軍を滅ぼした場面だろう。

『主はモーセに言われた、イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない。』(出エジプト記14:1-2)
主はイスラエルに、来た道を引き返して海のかたわらに宿営せよと命じられ、あたかも、道に迷っているかのような行動を取るよう指示を与えられた。
あちらこちらを迷走し、片側は海という逃げられない所で宿営している状況である。
それは、襲う者からすれば絶好のチャンスであり、自分達からすれば絶体絶命な立場に身を置きに行く行動だが、主はその先を見越しておられ、わざとそう命じられたのだ。

『パロはイスラエルの人々について、『彼らはその地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言うであろう。わたしがパロの心をかたくなにするから、パロは彼らのあとを追うであろう。わたしはパロとそのすべての軍勢を破って誉を得、エジプトびとにわたしが主であることを知らせるであろう」。彼らはそのようにした。』(出エジプト記14:3)
主はこの行動によって、パロがどう思うかも、どのような企みを持って指示をするのかも含めて、全てをモーセにあらかじめ伝えた。
パロの心をかたくなにするのも主がなさる事であり、そうする理由は、イスラエルに主がおられ、主は力強く偉大である事を、エジプト人だけでなく全世界に示すためである。

主の導きに沿って歩む私達も、人の目から見たら、愚か極まりない状況、危険極まりない状況へと、あえて主が導くことがある。
それは、私達の側に力強い主がおられ、私達を愛し、確かに守り、導いておられる事を世が知るためであり、ゆくゆくは主の民である私達に安息を与え、思いもよらなかった程の富や名誉を与えるためである。

今のこの世は、天的な、大々的なおびきよせ作戦の真っ最中とも言える。(ダニエル9:24-27、マタイ13:24-30、黙示録16章)
定められた時が来た時、主に敵対し、好き放題に聖徒を虐げていた者達は、一気に裁かれ、そして、忍耐して主を拠り所として歩んできた人達に、主は、豊かに報いて下さるのである。

ニムロデ − 神に敵対する狩猟者(創世記11:1-9)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

洪水以降、聖書はセムの家系を中心に展開されて行く。ノアの長子・セムの子孫から、全人類の霊的長子であるイスラエル民族が生まれ、さらに、全て信じて救われる者達の長子・イエスキリストが現れるのだ。
そのセムの系図の間に、人類にとって重要なバベルの塔の事件が挿入されている。
この事件の故に、人の言葉は混乱させられ、一処に集まろうとしていた人は、全地へと散って行った。
このバベルの事件の立役者は、ハムの孫・ニムロデ(名前の意味:反逆者)である。
『このニムロデは世の権力者となった最初の人である。彼は主の前に力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。彼の国は最初シナルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。』(創世記10:8-10)
聖書では、他の生物を思うままに狩って食する狩猟者は、良い者ではない。イシュマエルも、エサウも、狩猟者だった。しかもニムロデは、主の「前に(パウニム: 敵対して)」、力ある狩猟者だった。
彼の性質は、力で人々の上に登りつめ、平和に暮らしている他の生物を狩って食いものにする狩猟者であり、主の前に敵対的に立つ者であった。彼が建造しようとしたバベルの塔は、どのようなものであったか。

セムの子孫達は、東の高原地帯を定住地としていた。(創10:30) しかし彼らは東のほうから移動して来て、ハムの子孫達が住んでいるシヌアルの地に定住した。シヌアル(追放する、撒き散らす)の地は、メソポタミア平原、すなわち後のバビロン、今のイラク地方に位置するが、この地は代々、神の民を誘惑し(ヨシュア7:21)、神の国のものを奪って来(ダニエル1:2)、罪悪が安置される所(ゼカリヤ5:11)である。
『彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。』(創世記11:3-4)
神に従う一族が、自分の所を出て、神に敵対する者達の力や知恵に魅了され、思想を一致させ、結託してしまうと、良くない事が起きる。ちょうど洪水前に、神の子達が人の女の美しさに魅了されて結婚したように、また、ロトがソドムやゴモラの地方にいざなわれて行ったように。
彼らは「全地に散らされる事を免れよう」としたが、それは「地に満ちよ」というノアへの祝福に反する。
また、神を脇に置いて「名を上げよう」という欲求は、まさにサタンの欲求である。サタンは、真に高められるべき神を差し置いて、自らが高い所に座をしめようとした結果、地に投げ落とされた。(イザヤ14:12-15)
人は高い建造物を作りたがるが、その背後には、自らが高くなりたいという高慢の他、洪水などの神の罰に対抗したい、という思いもあるのだろう。
かつて不従順のために洪水が起こった、だから神に従順しよう、という発想にはならず、だから高い建造物を造って対抗しよう、という発想になるのは、神に従順するのが嫌な者の思考パターンである。

『民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事も「とどめ得ない(バウツァー:restain、抑制が効かない)」であろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう。』(創世記11:5-7)
人が思いと心を一致させ、何事かに突き進む時、抑制が効かなくなる。
特に、欲望に従って突き進む、あるいは神に敵対して進む結果、人は、滅びを刈り取ってしまう。ちょうど、ノアの時のように。人は再びその過ちを繰り返そうとしたのだ。神はそれを防ごうとされたのだ。
神を離れて高ぶろうと結託する結果、もたらされるものは、混乱(バラル=バベルの語源)である。
人が、ニムロデのように力づくで他を支配し、神の座につこうと高慢になる時、そこには混乱があり、一人の人間の元に一団となって神に敵対するなら、神が直接介入し、その者どもを滅ぼされる。(黙示録20章)
神は混乱の神ではなく、平和の神である。(1コリント14:33) 人が神に服従し、神の栄光を伝えようとする時、聖霊が働いて下さり、言葉の混乱はなくなる。ペンテコステの時まさにそれが起きた。(使徒2章)
私達が一つとなる事ができるのは、ただキリスト・イエスによるのみである。(コロサイ3:9-11)
人の力づくによってではなく、主義主張やイデオロギーによるのでもなく、ただイエスというお方にあって一つとなる皆さんであるように、イエスの名によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
映画「ノア - 約束の舟」 聖書からの検証と反論(創世記6:5-12):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
再建を邪魔する者の性質と対処法(ネヘミヤ記4:1-6):右クリックで保存

祈祷会音声

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエスの弟子達(マタイ10:1-4):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
富と誉れを自分の楽しみに使う人(伝道者の書6:1-7):右クリックで保存

【概要】

永遠の命の重要性と、富や名誉よりも神の言葉に従うことの大切さを説く説教。

【聖書箇所】

伝道者の書 6:1-7

【戒めの言葉】

富や名誉、子孫を得ても、それらを神のために用いなければ虚しい。

【励ましの言葉】

イエス・キリストを信じ、御言葉に従って生きることで、永遠の命を得られる。

【***詳細***】

今日、私たちが恵みをいただく御言葉は、伝道者の書の6章1節から7節です。

「私は日の下でもう一つの悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。神が富と財宝と誉れとを与え、彼の望むもので何一つ欠けたものがない人がいる。しかし神はこの人がそれを楽しむことを許さず、他国人がそれを楽しむようにされる。これはむなしいことで、それは悪い病だ。」(伝道者の書6:1-2)

ソロモンは、富と財宝と誉れを得ても、それを楽しむことができなければ何にもならないと言っています。彼自身、望むものをすべて手に入れましたが、それでもむなしさを感じていました。ソロモンの財宝は外国人の手に渡り、異教の神殿を建てるのに使われてしまいました。

「もし人が百人の子供を持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う。死産の子の方が彼よりはましだと。」(伝道者の書6:3)

これは厳しい言葉ですが、真理です。たとえ多くの子孫を持ち、長寿を全うしても、神なき人生は虚しいのです。死産の子のほうがましだと言われるのは、その子が少なくとも罪を犯さなかったからです。

私たちは永遠を生きるものです。永遠に主とともに喜び楽しむか、それとも永遠に炎で焼かれて苦しむかのどちらかなのです。イエス・キリストを信じてこのお方を得た人は永遠の命を得ますが、このイエス・キリストを捨て去って自分の好き勝手に生きる者は、永遠の火の中で焼かれ続けます。

「人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。」(伝道者の書6:7)

これは、パンだけで生きようとする人の虚しさ、愚かさを表しています。イエスは言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と。私たちは単に食欲を満たすために生きているのではありません。イエス・キリストによって生きているのです。

悪魔は私たちを誘惑しようとしますが、イエスが示されたように、私たちも御言葉によって対抗することができます。自分の考えや論理ではなく、御言葉の剣を用いることで、悪魔は逃げ去っていくのです。

ソロモンは自分の楽しみのために知恵を用いてしまい、愚かに陥ってしまいました。私たちは御言葉から離れてはなりません。人間の欲望や快楽に対して弱いものであることを知り、しっかりと御言葉にとどまるべきです。

【結論】

私たちは、この世の富や名誉、子孫を得ることよりも、永遠の命を得ることを第一に考えるべきです。そのためには、イエス・キリストを信じ、御言葉に従って生きることが大切です。神の栄光のために与えられたものを用い、永遠の誉れを手に入れる者となりましょう。

礼拝説教メッセージ音声:戻って来た勝利の約束(ヨシュア記8:1-9):右クリックで保存

『主はヨシュアに言われた、「恐れてはならない、おののいてはならない。いくさびとを皆、率い、立って、アイに攻め上りなさい。わたしはアイの王とその民、その町、その地をあなたの手に授ける。』(ヨシュア記8:1)
主から「恐れてはならない、おののいてはならない。」の言葉が、久しぶりに返ってきた。
自分達の中に、滅ぼし尽くすべきものを隠し持っている間は、主の側からの御声は無いし、強くあれという励ましも、主が共におられるというセキュリティも、無い。
主と私達との間に隔ての壁があるとしたなら、それは、私達自身が握りしめている罪である。
しかし、それらを自分達の中から除き去るなら、主の励ましとセキュリティは帰って来て、どんな敵でも、私達の手中に渡されるのだ。

『あなたは、さきにエリコとその王にしたとおり、アイとその王とにしなければならない。ただし、ぶんどり物と家畜とは戦利品としてあなたがたのものとすることができるであろう。あなたはまず、町のうしろに伏兵を置きなさい」。』(ヨシュア記8:2)
この戦いは、エリコの戦いの時とは色々と違う。
主の指示は「町のうしろに伏兵を置きなさい」と、現実的であり、また、分捕り物と家畜は、戦利品にする事が出来る。

エリコの戦いは、ヨルダン川を渡って最初の戦闘、約束の地に入っての初仕事である。
そしてその戦いは、神の契約の箱を担いで七度周るという、一切の人間力なしに、ただ、神の命令へ従順した事によって、勝利した。
つまり、言ってみればエリコはその全てが主への初物の特別なものであり、民はその初物の中から何一つ取ってはならなかったのだ。
私達も、新しい仕事に入る時、新しい生活に入る時、その初物を主に捧げるなら、主はその手のわざを祝福して下さる。(箴言3:9)

『ヨシュアは立って、すべてのいくさびとと共に、アイに攻め上ろうとして、まず大勇士三万人を選び、それを夜のうちにつかわした。ヨシュアは彼らに命じて言った、「あなたがたは町に向かって、町のうしろに伏せていなければならない。町を遠く離れないで、みな備えをしていなければならない。』(ヨシュア記8:3-4)
ヨシュアが主から受けた指示は、町のうしろに伏兵を置く、という戦術だけで、それ以外の細やかな方法は、指示されなかった。
後はヨシュアの自由裁量に任されていたからだ。

私達も、日常生活を送る上で、何から何までいちいち主の意向を伺うわけではない。
私達に必要な事は、まず、私達の内から取り除くべき罪や汚れを除き去り、次に、主のおしえに聞き従う事である。それをするなら、あとの事は私達の自由裁量に任されていて、何をしても栄えるのだ。
詩篇1篇にある通りである。
『悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。』(詩篇1:1-3)

この言葉は、主がヨシュアに下さった命令と約束と、ほぼ同じである。
『この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。』(ヨシュア記1:8-9)

私達も、悪者の考え方を捨て去り、主の教えを愛し、それを喜びとして、昼も夜も御言葉を思い巡らすなら、何をしても栄えるのだ。
しかしアカンのような悪者は、正しい人の集いに立つことは出来ず、そこから除外され、風に吹き飛ばされるもみがらのように、主の息吹によって弾かれてしまうのだ。(詩篇1:4-6)

礼拝説教メッセージ音声:アコルの谷(ヨシュア記7:22-26):右クリックで保存

『そこでヨシュアは使者たちをつかわした。使者たちが天幕に走っていって見ると、それは彼の天幕に隠してあって、銀もその下にあった。彼らはそれを天幕の中から取り出して、ヨシュアとイスラエルのすべての人々の所に携えてきたので、それを主の前に置いた。』(ヨシュア記7:22-23)
主はこの時、くじによって聖絶のものを示した。
ヨシュアはイスラエルがアイに負けた時、明確におかしいと感じ、すぐに悔い改めの集会を開いて、御心を求めたために、主は彼に、イスラエルの中に聖絶のものがある事を示し、それを「くじ」という手段で明らかにするよう示し、そして、全てが明らかにされたならどのようにすべきかも示して下さった。

霊的に何かがおかしいと感じた時は、すぐ悔い改め、何が物事をおかしくさせているのかを、主に祈り求めるべきである。主は隠れた事を明らかにする方法を示して下さり、それが示されたなら、すぐにその元を取り除くべきだ。
それは痛みを伴うかもしれないが、それをしないと、いつまでも負けパターンから脱却できず、やがては、取り返しのつかない事になってしまう。

『ヨシュアはすべてのイスラエルびとと共に、ゼラの子アカンを捕え、かの銀と外套と金の延べ棒、および彼のむすこ、娘、牛、ろば、羊、天幕など、彼の持ち物をことごとく取って、アコルの谷へ引いていった。そしてヨシュアは言った、「なぜあなたはわれわれを悩ましたのか。主は、きょう、あなたを悩まされるであろう」。やがてすべてのイスラエルびとは石で彼を撃ち殺し、また彼の家族をも石で撃ち殺し、火をもって焼いた。』(ヨシュア記7:24-25)
手に入れてはならない滅ぼし尽くすべき物を抱え持ってしまうなら、抱え持った本人だけでなく、その息子や娘たち、家畜にまでも、滅びの災いが及んでしまうのだ。

『そしてアカンの上に石塚を大きく積み上げたが、それは今日まで残っている。そして主は激しい怒りをやめられたが、このことによって、その所の名は今日までアコルの谷と呼ばれている。』(ヨシュア記7:26)
アコルは、「わざわいをもたらす」という意味の語源「アカル」の派生語である。
彼はイスラエル全体にわざわいをもたらしたため、家族もろとも、わざわいがもたらされた。
この石くれの山は後々、イスラエルにとって、しるしとなっただろう。手に入れてはならないものを隠し持つと、アカンとその家族のようになるぞ、と。
そしてこのアコルの谷は、後には、悔い改めた人が幸いを得る場所となった。(ホセア2:14-15、イザヤ65:8-12)

私達の内からは、聖絶すべきものを取り除き、悔い改めるなら、幸いになる。
しかし、聖絶すべきものを捨てずに、大切に抱え込むなら、やがて災にが追いついてしまい、その時になってしまったら、もう遅いのだ。
『わたしはヤコブから子孫をいだし、ユダからわが山々を受けつぐべき者をいだす。わたしが選んだ者はこれを受けつぎ、わがしもべらはそこに住む。シャロンは羊の群れの牧場となり、アコルの谷は牛の群れの伏す所となって、わたしを尋ね求めたわが民のものとなる。
しかし主を捨て、わが聖なる山を忘れ、机を禍福の神に供え、混ぜ合わせた酒を盛って運命の神にささげるあなたがたよ、わたしは、あなたがたを/つるぎに渡すことに定めた。あなたがたは皆かがんでほふられる。あなたがたはわたしが呼んだときに答えず、わたしが語ったときに聞かず、わたしの目に悪い事をおこない、わたしの好まなかった事を選んだからだ」。』(イザヤ65:9-12)

皆さんの周りに、滅ぼし尽くすべきものをいつまでも抱え続けてしまったが故に、滅ぼされ、石くれの山となってしまった者はいないだろうか。
私達は日々、自分の中の”アコルの谷”を意識し、いつでも悔い改めて主に立ち返る事を忘れずにいたいものである。

礼拝説教メッセージ音声:手に入れてはならぬ物をほしがる事の災い(ヨシュア記7:19-21):右クリックで保存

『その時ヨシュアはアカンに言った、「わが子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、また主をさんびし、あなたのしたことを今わたしに告げなさい。わたしに隠してはならない」。』(ヨシュア記7:19)

罪を示すくじで示された者は、所有物全部と一緒に火で焼かれなければならない、と、主から命じられていた。(ヨシュア記7:15)
ヨシュアは、くじで取り分けられた彼に「わが子よ」と声をかけ、せめて最後は神と人との前に正しく告白する事によって、主に栄光を帰し、主を「さんび(トダー:感謝)」するようにさせた。
神と人との前で正しく告白する事。それは、主に栄光を帰し、賛美をささげ、感謝をささげる事なのだ。

『アカンはヨシュアに答えた、「ほんとうにわたしはイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。わたしがしたのはこうです。わたしはぶんどり物のうちに、シナルの美しい外套一枚と銀二百シケルと、目方五十シケルの金の延べ棒一本のあるのを見て、”ほしくなり(カゥマド)”、それを取りました。わたしの天幕の中に、地に隠してあります。銀はその下にあります」。』(ヨシュア記7:20)
この「ほしくなる」の原語、カゥマドは、「むさぼり」とも訳せ、十戒で禁じられている事の一つである。
『あなたは隣人の家を”むさぼって(カゥマド)”はならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものを”むさぼって(カゥマド)”はならない。』(出エジプト記20:17)
この言葉が聖書で最初に出て来るのは、創世記3章6節であり、エバが善悪を知る知識の実を”ほしがった(カゥマド)”ため、全人類は罪と死と滅びが招き入れられてしまったのだ。

アカンが自分の元に入れたのは、シヌアルの美しい外套と、銀と、金であった。
主の命令は、外套を含め全ての”物”は聖絶すべきものであり、しかし銀や金は、主に捧げる物として主の倉に入れなければならない、という事だった。(ヨシュア記6:18-19)
つまり彼は、聖絶すべき忌み嫌う物と、主に捧げる聖なる物とを、一緒に自分の天幕に掻き込んだのだ。

彼が持っていた外套の出処であるシヌアルは、どういうところか。
シヌアル(追放する、撒き散らす)の地は、メソポタミア平原、今のイラク地方に位置するが、この地は代々、神とその民に敵対して来た所だ。
そこは最初の権力者・ニムロデが、バベルの塔を建てた所であり(創世記10:8-10)、後のバビロンであり、神の宮の器具が奪われ保管された場所である。(ダニエル1:2)

傲慢と罪悪の地シヌアルで作られた美しい外套、それは、神の民が着飾って良いものではない。
それは、アダムとエバが裸を覆ったいちじくの葉の延長であり、それでもって自分の裸や恥、弱さを到底覆えるものではない。そのようなものは、主の御前に滅ぼし尽くすべきものなのだ。
そして、彼が抱え込んだ銀と金は、主に納めるべきものであって、自分の手元に置いておくべきものではない。
これら二つを、同時に、自分の中に抱え込む事は、聖なる物と汚れた物を混在させる事であり、主に対して罪を犯すことである。

手に入れてはならないものを欲しがる(カゥマドする)事は、自分自身を滅ぼすだけでなく、自分の家族を、共同体を、国を、そして、人類全体を滅びへと導いてしまう元である。
『だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また「貪欲(むさぼり)」を殺してしまいなさい。「貪欲(むさぼり)」は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。』(コロサイ3:5-6)
ここで、なぜむさぼりが偶像礼拝と言われているのか。
かつてイスラエルは、聖なる神の神殿の中に、異教の神々の偶像を入れて偶像礼拝の罪を犯したが、現代、私達こそが神の神殿であり、その私達の中に、主に忌み嫌われる汚れたものを入れ込む事は、偶像礼拝に他ならないからだ。
『子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。』(1ヨハネ5:21)

礼拝説教メッセージ音声:狭くなっていく罪の報いの当選範囲(ヨシュア記7:16-18):右クリックで保存

『こうしてヨシュアは朝早く起き、イスラエルを部族ごとに進み出させたところ、ユダの部族がくじに当り、ユダのもろもろの氏族を進み出させたところ、ゼラびとの氏族が、くじに当った。ゼラびとの氏族を家族ごとに進み出させたところ、ザブデの家族が、くじに当った。ザブデの家族を男ひとりびとり進み出させたところ、アカンがくじに当った。アカンはユダの部族のうちの、ゼラの子、ザブデの子なるカルミの子である。』(ヨシュア記7:16-18)

罪を示すくじの当選範囲は、どんどんアカンに対して狭まっていき、ついには当選してしまった。
人はみな、等しく、神の御前に罪を犯し、いずれはその罪の刈り取りをしなくてはならない。
人は生きる中で罪を重ねて行き、その実を刈り取る当選日はどんどん近くなっていくが、その前に、主イエス・キリストが私達の罪の身代わりとなって死んで下さった事を信じ、この方を救い主として受け入れるなら、救われる。そして、罪の報いである永遠の死を免れる。
しかし、いつまでも罪の内に歩む事を離れず、悔い改めを先延ばしにして行くなら、やがて”当選”してしまい、その時、罪の支払う報酬を受け取らなくてはならない。
『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。』(ローマ6:23)

その”くじ”の当選が、早ければ早い人ほど、罪深い、というものではない。
悔い改めない者は、皆、同じように滅びるのだ。

『それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。』(ルカ13:2-5)
異邦人の地ガリラヤは、エルサレムの住人よりも罪深い者とされていたが、どこに住んでいようと、どの国の人であろうと、悔い改めないなら、等しく滅びてしまうのだ。
イエス様は、これに続いて、次のたとえ話をしている。

『ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。』(ルカ13:6-9)

園丁は、実を結ばないいちじくのために、執り成した。あと一年猶予を下さい、肥料をやって様子をみてみましょう、それで実を結ぶかもしれません、と。
私達を執り成して弁護して下さるお方がある。聖霊である。
『御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。』(ローマ8:26-27)
全ての人には、悔い改めるための猶予期間が与えられている。
今こうして生きている期間こそ、恵みの時、憐れみの時なのだ。

しかし、聖霊の執り成しを無視し、罪を犯してもいつまでも許されると思って、悔い改めにふさわしい実を結ばないとしたら、いつ切り倒されても止むをえない。
『だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。 』(ルカ3:8-9)
『人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。』(ヨハネ15:6)
悔い改めとは口先だけのものにあらず、実という実体を伴ったものなのだ。

滅ぼし尽くすべき聖絶のものを持っていたアカンは、罪を示す”くじ”の当選範囲が、自分に向かって狭められて来るのが、気が気でなかったろう。
しかしそれでも彼は、最後の最後まで名乗り出る事も手放すこともせず、いよいよくじが当たって、罪が暴かれてしまった。
多くの人は、罪の刈り取り、すなわち、滅びというくじの当選が回ってくるのを、何となく恐れてはいても、罪の飲み食いを止めないで生きている。
”当選”が来る前に、悔い改めて、救われるための手続きを取るべきである。
悔い改めの手続きとは、自分が罪人であり救われる必要がある事を認め、イエス・キリストを全ての事から救って下さる救い主である事を信じ、受け入れる事なのだ。

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