メッセージ - 201406のエントリ

セム・ハム・ヤペテ - 晒す者と覆う者(創世記9:18-29)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

洪水以前の罪深い人々は滅び去り、神の御前に正しいノアの家族から、人類は新たに増え広がって行ったが、早速、罪の性質が現れ始めた。今回はそのノアの3人の息子に焦点を当てて見てみたい。
『ノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。』酒に酔う事は、長たる者のする事ではない。さばきを曲げるかもしれないからであり(箴言31:4-5)、酔って聖所に入るなら、死んでしまう危険があるからだ。(レビ10:9)
『カナンの父ハムは父の裸を「見て(ラアー)」、外にいるふたりの兄弟に告げた。』(創世記9:22)
この「見る」のヘブル語「 ラゥアゥ 」は、じっくり見る、楽しみつつ見る等の意味がある。
父は一家の長であり、一家を祝福する祭司の立場である事を前回学んだが、ハムは、その父の天幕にずかずか入って行き、父が酔って裸で寝ている様を見つけると、それをじっくり見、楽んだばかりでなく、その光景を、兄弟たちと一緒に見て楽しむために誘ったのだ。
セムとヤペテは確かにそこに来たが、それはハムと一緒に父の裸を見るためではなく、覆うためだった。
ハムは、普段から父を敬わず、隙あらば弱みを握ってやろうと思っていたのだろう、父の恥を見た時、待ってましたとばかりに、そのような行動に至ったわけである。それに対しセムとヤペテは、普段から父を一家の長として敬い、祝福を祈り執り成していたからこそ、とっさの時に、その行動を起こしたのだろう。

『彼は言った、「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、/その兄弟たちに仕える」』(25節)
事実、カナンの子たちは、ノアが呪った通りの歴史となった。
エブス人やエモリ人、ソドムやゴモラ等、カナンの子孫たちは、不品行や同性愛、魔術や偶像礼拝など、神の前に悪を重ねたため、神はセムの子孫であるユダヤ人を通して滅ぼされる対象となってしまった。
また、ハムは黒色人種の祖先であると言われているが、歴史を見るに、まさにノアの呪い通りになっている。
ここから私達が学ぶべきは、父、あるいは祝福を授ける立場の人の、プライベートへ踏み込んで、露わな様をじっくりと見て楽しんだり、周りの兄弟たちに言いふらし、一緒に来て見るように招いたりするような者は、子々孫々とも呪われ、奴隷とされてしまう、という事である。
もちろん、父が呪ったからと言って(あるいは祝福したからと言って)宿命的にその通りになるわけではなく、本人自身が祝福に相応しい行動をとるなら祝福され、呪われるに相応しい行動をとるなら呪われるものだ。
ただ、はっきりしている事は、他人の裸や秘密や性的なスキャンダルが大好きで、それを探し、見つけ、他に共有しようとする者、そういう情報で盛り上がる者達の集いは、ソドムやゴモラのように不品行と暴虐に満ちて行き、呪いに相応しいものとされ、やがては、炎の裁きによって永遠の滅びへと至ってしまうのだ。

『セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。』(創世記9:23) 
敬うべき父が裸をあらわにしていたなら、目を向けず、かえって覆ってあげる人こそ、祝福される人である。
「セムの神、主はほむべきかな、/カナンはそのしもべとなれ。」(26節) 事実この祝福のとおり、セムの子孫からはアブラハムが出て、イスラエル民族となり、カナン人を滅ぼし、全人類の救い主イエスが出た。
「神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」(27節)
ヤペテはヨーロッパ系の白色人種の祖先と言われており、イスラエルに対しては異邦人であったものの、キリスト以降、福音が最も普及し発展した民族であり、「セムの天幕に住まわせ」の預言はまさに実現した。

兄弟姉妹が裸なのを見て着せてやるなら、それは主に対してそうした事であり、着せないであざ笑うなら、それも主に対してした事である。(マタイ25:31-46)
キリストの体の中で、かっこうの悪いと見られる器官があるなら、かっこうの良い器官がそれを覆い、そうしてキリストのからだ全体が調和を保ち、共に建て上げられていくのである。(1コリント12:22-27)
主にある兄弟姉妹のプライベートに入って、裸なのを見て楽しみ、あざ笑い、言いふらすハムのような者は、奴隷となり、呪いを産み、滅びを刈り取る者である。ハムのような者ではなく、セムやヤペテのように、兄弟姉妹の恥を覆い、憐れみ、祝福を受け継ぐ性質の皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主は避け所(詩篇91篇):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
収穫は多いが働き手が少ない(マタイ9:35-38):右クリックで保存

【概要】

イエス様の宣教と憐れみの心、そして働き手の必要性について

【聖書箇所】

マタイによる福音書9章35-38節

第1コリント12章27-30節

【励ましの言葉】

神の国の働き手として、私たち一人一人が与えられた賜物を用いて奉仕することの大切さ

【勧めの言葉】

羊飼いのいない羊のような人々を憐れむ心を持ち、収穫の主に働き手を送ってくださるよう祈ること

【***詳細***】

今日恵みをいただく御言葉は、マタイによる福音書の9章35節から38節までです。

「それからイエスは、すべての町や村をめぐって、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、あらゆる病気、あらゆる患いを治された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」

まことにこの世の中は、患いに満ち、頼るべき指導者もなく、またガイドとするべきガイドラインもなく、人々はそれらを知らず、弱り果て、迷い出て、羊飼いのない羊のように、それぞれが滅びへと向かっています。主はあなたこそが、まことの羊飼い。この世は働き手を必要としています。神の国の働き手を必要としています。

イエス様は、この福音書の時、人の体をとってこの世に来られ、そして人の体をもって福音の伝道師、宣教をされました。イエス様は、何か人間でないような、大きな御使いのような霊的な存在として、一人のままに、しるしと不思議をもって、圧倒的な権威をもって現れたのではなく、一人の人として、そして人として宣教し伝道されました。それほど人であることを大事にされたのです。

なぜなら宣教の業は、見つからないとか大きな超自然的な霊的な存在として、そういうような形で広められるのではなく、神様は人間の宣教の愚かさを通して人々に救いの福音を告げ知らせることを人に委ねられたからです。

神の国の福音は、人間の唇を通して伝えられるものです。それはもうずっと、2000年前からずっと、今日に至るまでずっとそうなのです。何か圧倒的なパワーでもって人々を屈服させるようなことは主はなさらず、人間の唇を通してイエス様を信じなさいと。そういうことを通して、主は宣教を人間に託されたのです。そしてイエス様はその先駆けとして私たちにその模範を示してくださいました。

イエス様はこのわずか3年半の間に本当に多くの人々の心を変え、影響を及ぼしました。イエス様は人間の体、私たちと同じ人間の体を持っているのですが、それでも多くの奇跡を行いました。信じる者はその世に力が与えられるのです。

イエス・キリストを信じる人はイエス様がこの地上において行われたのと同じ業を行うことができます。でもあいにく、この世に働き人が少ないですね。そのようなことができる働き人がいないというのがこの世の中の実情です。

イエス様はこの地上において働かれたとき、「すべての町や村をめぐって、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、あらゆる病気、あらゆる患いを治された。」それは何もイエス様自身が大活躍したいからとか、有名人になりたいからというわけではなく、むしろ憐れみの心を持っていたからです。

36節を見ますと、「かわいそうに思われた」とあります。腹わたがちぎれるような思いという直訳です。イエス様が人の倒れている様を見るとき、腹わたがちぎれるような思いに駆られるのです。そして何とかしてあげたい、助けてあげたいという心になるのです。

この時、群衆はどのようなありさまであったでしょうか。イエス様がご覧になると、「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている」とあります。これは霊的なことを指しています。世の中は、霊的な面において本当に羊飼いのない羊のようなありさまになっているのです。

羊飼いがいない羊はどうなるでしょうか。導き手がいない羊はどこに行くべきかを知りません。それぞれが好き勝手な方向に行こうとするのですが、羊はあいにく方向音痴で目も視力も弱く、10メートル先も見えないほどの弱視です。それで羊たちはどのようにしていいのかさっぱりわからない。迷子になる。傷を受けます。そしてある羊たちは狼に襲われて食いちぎられたりすることにもなってしまいます。

そのような羊飼いのない羊のような有様、それが当時のイスラエルの霊的な状況だったわけです。群衆を見て羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らを、イエス様はかわいそうに思われました。

今の時代もそうですね。当時もパリサイ人とか律法学者とか、民の指導者たちは確かにおりました。民の指導者たち、確かにいたのですが、でも群衆は羊飼いのいない羊のように言われ果てていたのです。要するにパリサイ人や律法学者たちは、導き手にはなることはできなかったのです。

今現在も似たような状況ではないでしょうか。世の中のクリスチャンと言われている人たち、御言葉を知らない、何年も教会に通っているのに、聖書のこの箇所を初めて見ましたという人を本当によく見かけます。弱り果てていて、本当に指導者を知らない、患いを身に負っている、どこに行くべきか道を知らない、道を示してくれる羊飼いがいない、緑の牧場へと、憩いの水のほとりへと導いてくれる羊飼いがいない、そういう状況です。

イエス様はそれを見てどう思われるでしょうか。心引き裂かれる思いがあるのです。彼らをかわいそうに思われる、腹わたがちぎれるような思いで彼らをかわいそうに思われるのです。

ではイエス様はどうされるでしょうか。イエス様ご自身が、天使のような大きな栄光の姿をとって、しるしを示して、大勢の目の前で、大いなることをされたでしょうか。そうではありません。むしろ、イエス様はこう言われるのです。「収穫は多いが、働き手が少ない」と。

なんと、イエス様ご自身、一人で、イエス様の神格たるパワーを持ってすれば、何も人に頼らずとも、完全に、効率的に伝道とか、宣教ができるでしょうが、でも、イエス様はなんと、働き手が欲しいと言われるのです。収穫を得るには、働き手が必要だと言われるのです。

神様は、人間の手に、宣教の業を委ねられたのです。収穫は多い、しかし働き手が少ない。「だから収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われます。

イエス様は深く深く憐れまれるお方です。人々が傷ついている様、本当にどこに行っていいのかわからない。御言葉には書いてあるのだけど、この御言葉は何を意味しているのか。一体御言葉とどのように向き合えばよいのか。それを示してくれる指導者、働き手が少ない。だからそのような働き手が起こされるように、あなた方も祈りなさいと言われます。

実際、弟子たちも働き手になるべきなのです。イエス様はこのことを言われた後に、10章の始めのところでイエスは12弟子を任命されます。そしてこの12弟子に汚れた霊や悪霊を追い出す、病気を癒す、あらゆる患いを治す権威をお与えになられました。ですから弟子となる人たち、彼らはイエス・キリストから権威を授けられたものでなくてはならないのです。

そのような神の国の働き手が、起こされるようにと、イエス様はそのように祈りなさいと言われます。収穫は多いのですが、しかし働き手が少ない。本当に羊飼いのように導き手となる人がこの世界は必要ですが、でも正しく導く人たちは少ない。むしろ羊飼いのいない羊のように倒れて、食い物にされて、傷ついて、お腹をすかせて、もう霊的に渇いて渇いて、霊的にお腹をすかせてすかせて身動きも取れないような倒れている羊たちがこの世界には多いのです。

彼らのために働き手が与えられますようにと祈るべきです。彼らを正しく養うために、私たちも本当に御言葉を手に取って、御言葉を伝える働き人として整えてくださいと祈るべきです。

キリストは教会に、いろいろな奉仕者を任命されました。キリストの体、それが教会です。そして教会はキリストの体の各部分によって成り立っております。すなわち皆さん一人一人です。皆さん一人一人にそれぞれ違った賜物が与えられております。

第1コリント12章27-30節にこうあります。

「あなたがたはキリストのからだであって、一人一人はその部分です。神は教会に、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師を立てられました。次に奇跡を行う者、次に癒しの賜物を持つ者、助ける者、管理する者、異言を語る者などを置かれました。みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇跡を行う者でしょうか。みなが癒しの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かすでしょうか。」

教会の中に、いろいろな人がいます。そしてそれぞれ賜物を与えられており、賜物は違います。皆が皆奇跡を行うわけではありませんし、皆が皆、預言するものでもありません。一人一人に与えられている賜物があり、そしてそれぞれの役割を果たして、教会全体の機能、教会とはすなわちキリストの体、キリストの機能を皆さん一人一人が果たしていくというところが教会なのです。

働き人か、それとも生徒か。働き人と生徒はどう違うのですかと聞かれたことがありますが、基本的に一緒です。生徒であるならば、働き人であるべきです。なぜなら、ただ教会にいて、ただ恵みをいただくだけ、癒しをいただくだけ、それで神の国の働きは何もしない。これは生きた信仰ではありません。ですから、生徒イコール働き人であるべきです。

私たちは「教会からのサービスを受けるだけのもの」「あなたたちが教会にお菓子を持ってきて、私は食べるもの」「あなた方が教会を掃除する、私は好き放題、散らかし放題していいもの」そういうことではないのです。皆さん一人一人がキリストの体の一部分として、キリストのために仕えるものであるべきなのです。

そして、教会全体は、神の言葉を伝道します。宣教します。御言葉を語り継ぎます。御言葉を語るという、また知恵や啓示の賜物が与えられていない人は、しっかりと教会の中で養いをいただき、そして何かしら主のために役に立つことをするべきです。

 

サービス。礼拝のこと英語でサービスと言いますね。サービスを受ける側は一体どなたですか。神様です。皆様サービスを捧げる側です。神様に仕える側です。ですから教会すなわちキリストの体の一人一人は働き人であるべきです。そして私たちはさらに、収穫の主に、働き手がさらに与えられるようにと祈り求めるべきです。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神からの賜物とは(伝道者の書5:12-20):右クリックで保存

【概要】

世の富と神の国の義を対比し、永遠の命の価値を説く。

【聖書箇所】

伝道者の書5:12-20

ヘブル人への手紙4:1-3, 10

【戒めの言葉】

富を追い求めることの虚しさと危険性

【勧めの言葉】

神の国とその義を第一に求めることの重要性

【***詳細***】

ソロモンは多くの富と知恵を手に入れましたが、その人生の終わりは虚しさで満ちていました。伝道者の書5章12節で彼は言います。「働く者は少し食べても多く食べても心地よく眠る。富む者は満腹しても安眠をとどめられる。」

富める者は、その富ゆえに安眠が妨げられるのです。多くの人は富を得ようとして悪に手を染め、大切な人を裏切ることさえします。しかし、その富を得ても安眠が妨げられ、心配事が増えるだけなのです。

13節には「所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。その富は不幸な出来事で失われる。」とあります。人は自分を守るために富を蓄えますが、その富が逆に害を加えることがあるのです。富を多く持てば持つほど、それを守る力も必要になります。時には、その守る力が小さいと、富によって縛られ、滅ぼされてしまうこともあります。

悪いことをして富を得る人は、その富によって滅ぼされる可能性が年々高まっていきます。悪い集団に入り、互いに騙し合って生きていくうちに、多くの敵を作ってしまいます。そして、ある時突然の恐怖や滅びによって滅ぼされてしまうのです。

私たちクリスチャンはどのように生きるべきでしょうか。イエス様は言われました。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って心配するのはやめなさい。むしろあなた方は神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすればそれに加えてこれらのものは全て与えられる。」(マタイ6:31-33)

神の国とその義を第一に求めるならば、世の富のことで心配する必要はありません。主が必要なものを備えてくださるのです。この世で蓄えた富を来世に持っていくことはできません。しかし、私たちクリスチャンは最も大切なものを持っていくことができます。それは永遠の命です。

「人はたとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを損じたら、何の得になろうか。」(マルコ8:36)とイエス様は言われました。永遠の命を得て、それを来世に持っていくことこそが最も大切なのです。

ヘブル人への手紙4章3節には「信じた私たちは安息に入るのです」とあります。信仰によって神の安息に入った者は、自分の業を終えて休むことができます。しかし、信じない人、御言葉を信仰によって結びつけない人は安息に入れません。

私たちは富に気をつけながら向き合うべきです。最も幸いな人は神の国とその義を第一に求める人です。そのような人には、朽ちることのない天の財宝が与えられます。「地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫が食ったり、さびたりして、盗人が穴を開けて盗みます。天に宝を蓄えなさい。そこでは虫が食うことも、さびることもなく、盗人が穴を開けて盗むこともありません。」(マタイ6:19-20)

【結論】

この地上の富や栄華、快楽ではなく、天の富、天の栄光、イエス・キリストの栄光を蓄え積み立てる者となりましょう。人生の終わりに「虚しかった」と言うのではなく、感謝と祝福に満ちた人生を送り、天の財宝を待ち望む喜びの時を迎えられますように。

礼拝説教メッセージ音声:立て、そして清めよ(ヨシュア記7:10-15):右クリックで保存

『主はヨシュアに言われた、「立ちなさい。あなたはどうして、そのようにひれ伏しているのか。』(ヨシュア記7:10)
困難に当たった時は、主の御前にひれ伏し、悔い改め、導きを求める事は、キリスト者であるなら必須の事である。
しかし、御言葉から何も教わる事なしに、ただ、何時間も泣いたり叫んだりして、それですっきりして、また以前と全く変わらぬ行動をするとしたら、無益である。
主が私達に求めておられる事は、何十時間も悔い改め文句をぶつぶつと告白したりする事よりも、立って、為すべきことをきっちりと為し、取り除くべき悪を自分達の中から除き去るという、実際的な行動だ。

『イスラエルは罪を犯し、わたしが彼らに命じておいた契約を破った。彼らは奉納物を取り、盗み、かつ偽って、それを自分の所有物のうちに入れた。それでイスラエルの人々は敵に当ることができず、敵に背をむけた。彼らも滅ぼされるべきものとなったからである。あなたがたが、その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから滅ぼし去るのでなければ、わたしはもはやあなたがたとは共にいないであろう。』(ヨシュア記7:11-12)

主の御前に聖絶すべきものを抱え込んでいるならば、決して敵の前に立つことは出来ず、いつまでも、堂々巡りの敗北と失敗をするものである。
皆さんは、「主が共におられる」という感覚があるだろうか。
どうしても敵に勝てない、主の祝福の御言葉からは程遠く感じる、主に祈り求めているのに中々答えが無い、そういった事は、ないだろうか。
そのような場合は、疑うべきである。
聖絶すべきものを、ずっと大層に抱え込んではいなかったか、と。

『立って、民を清めて言いなさい、『あなたがたは身を清めて、あすのために備えなさい。イスラエルの神、主はこう仰せられる、「イスラエルよ、あなたがたのうちに、滅ぼされるべきものがある。その滅ぼされるべきものを、あなたがたのうちから除き去るまでは、敵に当ることはできないであろう」。』(ヨシュア記7:13)
主は、再び、言われる。「立て」と。清めよ、と。
そして、除き去るべきものを、除き去れ、と。

『それゆえ、あすの朝、あなたがたは部族ごとに進み出なければならない。そして主がくじを当てられる部族は、氏族ごとに進みいで、主がくじを当てられる氏族は、家族ごとに進みいで、主がくじを当てられる家族は、男ひとりびとり進み出なければならない。そしてその滅ぼされるべきものを持っていて、くじを当てられた者は、その持ち物全部と共に、火で焼かれなければならない。主の契約を破りイスラエルのうちに愚かなことを行ったからである』」。』(ヨシュア記7:14-15)

私達も滅ぼし尽くすべきものを主から具体的に示していただき、そしてそれが明らかにされたなら、自らの中から滅却するべきである。
皆さんにとっての、聖絶すべきものは、何であろうか。
不品行だろうか、汚れだろうか、好色だろうか、偶像礼拝、魔術だろうか、敵意だろうか、争い、そねみ、憤りだろうか、党派心だろうか、分裂、分派だろうか、ねたみだろうか、酩酊、遊興だろうか。(ガラテヤ5:19-21)
主は、皆さんの中から、そのようなものと、それに属するものを、主イエスにあって、実際的に棄却する事を、求めておられる。

もし、そのような聖絶すべきものを抱え込んでいるとしたなら、本人だけでなく、家族も、ひいては、属している宿営全体が、迷惑をこうむってしまう事になる。
主は求めておられる。
手放せ、と。聖絶のものに、なるな、と。
そうしたものを投げやるなら、速やかに勝利が回復し、祝福の扉は開かれ、滞っていた天的な祝福の手続きは、速やかに流れるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:一度の敗北で学ぶもの(ヨシュア記7:1-9):右クリックで保存

イスラエルがエリコに大勝利できたのは、主が導いて下さったからであったが、イスラエルは、この大勝利で早速慢心した。
『しかし、イスラエルの人々は奉納物について罪を犯した。すなわちユダの部族のうちの、ゼラの子ザブデの子であるカルミの子アカンが奉納物を取ったのである。それで主はイスラエルの人々にむかって怒りを発せられた。』(ヨシュア記7:1)

奉納物、すなわち主に捧げ尽くすべき聖絶のものについて、実際に罪を犯したのは、アカンという一人物であったが、「イスラエルの”人々は”奉納物について罪を犯した」と記されている通り、これは、イスラエル全体の罪となってしまっている。
聖絶すべきものをイスラエルの宿営に招き入れるなら、たとえ、彼ら自身が気づいていないとしても、宿営全体が聖絶の対象となってしまうのだ。
そうなってしまっている以上は、たとい敵がどんなに弱くても、その前に立つことはできない。

イスラエルの民は、自分達が”負け戦モード”にある事に気づいていないまま、主に伺いを立てもせずに、さっさと次の戦いに出て行ってしまった。

もし、あらかじめ主に伺いを立てていたなら、主は必ず、何かしらの形でそれを示していたはずであるが、ヨシュアは主に伺いを立てるのではなく、斥候に情報収集させた。
『ヨシュアはエリコから人々をつかわし、ベテルの東、ベテアベンの近くにあるアイに行かせようとして、その人々に言った、「上って行って、かの地を探ってきなさい」。人々は上って行って、アイを探ったが、ヨシュアのもとに帰ってきて言った、「民をことごとく行かせるには及びません。ただ二、三千人を上らせて、アイを撃たせなさい。彼らは少ないのですから、民をことごとくあそこへやってほねおりをさせるには及びません」。』(ヨシュア記7:2-3)

前回、エリコ攻略の際に、二人の斥候がもたらした情報は、「ほんとうに”主は”この国をことごとくわれわれの手にお与えになりました。この国の住民はみなわれわれの前に震えおののいています。」(2:24)と、エリコの城壁や装備や兵員の数ではなく、霊的状態を報告した。
それでヨシュアは勝利を確信したはずだ。
しかし、アイを偵察した斥候達の報告は、相手の大体の数と人間的な評価しかなく、しかも「人々をほねおらせるには及ばない」と、人の事は思っていても”主”を思っていない、主を綺麗に抜かしてしまっているものだった。

アイの住人は、男女合わせると、約一万二千人であり、男だけなら六千人、それなら戦闘できる人員は、およそ二、三千人、と算出したのかもしれない。
それだから、こちらも、二、三千人で十分だ、と。前回あれだけ大勝利したのだから、今回は、この数でも十分行ける、と。
『そこで民のうち、おおよそ三千人がそこに上ったが、ついにアイの人々の前から逃げ出した。アイの人々は彼らのうち、おおよそ三十六人を殺し、更に彼らを門の前からシバリムまで追って、下り坂で彼らを殺したので、民の心は消えて水のようになった。』(ヨシュア7:4-5)

三千人が戦いに行き、こちらの被害は三十六人。戦死者は、およそ百人に一人という事になる。
一回の戦闘の被害としては、少ない方にも見えるが、しかし、この敗北の意味は非常に大きい。

『ヨシュアは言った、「ああ、主なる神よ、あなたはなにゆえ、この民にヨルダンを渡らせ、われわれをアモリびとの手に渡して滅ぼさせられるのですか。われわれはヨルダンの向こうに、安んじてとどまればよかったのです。ああ、主よ。イスラエルがすでに敵に背をむけた今となって、わたしはまた何を言い得ましょう。カナンびと、およびこの地に住むすべてのものは、これを聞いて、われわれを攻めかこみ、われわれの名を地から断ち去ってしまうでしょう。それであなたは、あなたの大いなる名のために、何をしようとされるのですか」。』(ヨシュア記7:7-9)
あの、強く雄々しいはずのヨシュアが、なんと、ヨルダンを渡らなかったら良かった、カナン人は自分達を断ち去ってしまうだろう、主はなぜそのように仕向けたのですか、と、彼とは思えないような弱音を吐いている。
イスラエルの軍団は、まだ六十万以上残っており、しかも、三千人にたいし三十六人の被害である。
ヨシュアのこの嘆きようは、大げさすぎはしないだろうか。
いや、ヨシュアは主のご性質を良く知っていたからこそ、ここまでうろたえたのだ。
主が共におられる戦いには、負けなどあり得ない。それが、負けてしまった。
ということは、主は今や、自分達にはおられない。主が共におられないという事は、自分達はただ、滅びるしかない。それをヨシュアは良く知っていたため、そこまでうろたえたのだ。

『そのためヨシュアは衣服を裂き、イスラエルの長老たちと共に、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、ちりをかぶった。』(ヨシュア記7:6)
鈍いの霊的指導者なら、自分達の被害はまだまだ少ない、と言って、さらに兵員を増やし、いたずらに敗北と犠牲者を増やしていただろうが、一度の敗北の、三十六人の犠牲者が出た時点で、あれだけうろたえ、悔い改めの集会をさせたヨシュアはさすが、と言える。

私達も、失敗をした時、主に見捨てられたように感じる事がある。
しかし、そのような時こそ、御言葉と御約束の前に、ひれ伏すべきであり、ちりをかぶって自らを低くし、自分達の内にこそ、何か間違いは無かったかを点検すべき時である。

エリコに勝利したのは、人々の口から余計な言葉を止めさせ、ただ黙々と主の軍の将の指示どおりに動いたからだった。
勝利の秘訣は、御声に聞き従い、御言葉に従順する事にある。
もし、御声に聞き従わず、御言葉に従順しないなら、主は沈黙し、彼らがいかに十万や二十万でアイに対抗したとしても、負けは確定しているのだ。
『ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに/山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる。それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵を施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。主は公平の神でいらせられる。すべて主を待ち望む者はさいわいである。』(イザヤ30:17-18)

人は、過去の経験や、うわべの人数、規模の大小を見るが、主は、小さな事でも忠実に従い通す心を求めておられる。
だから私達は、特に、大成功を収めた時や、大勝利した後こそ、気をつけるべきなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:エリコの崩壊と救われる人々(ヨシュア記6:22-27):右クリックで保存

エリコの城壁が崩れ落ちた時、遊女ラハブたちは、とても恐ろしい思いをした事だろう。
なにしろ、自分達の周りの城壁は、ことごとく大音響を立てながら崩れ落ち、あの赤い印がついた窓から外を見ると、神の国の軍団が一斉に剣を手に持って攻め寄せて来たのだから。
しかしその軍団は、自分達のいる家は過ぎ越し、その周りだけを打ち滅ぼして行った。
それは彼女が、斥候に命じられた事を守り、赤い印を窓に結びつけ、その中から離れなかったからである。

『その時ヨシュアは、この地を探ったふたりの人に言った、「あの遊女の家にはいって、その女と彼女に属するすべてのものを連れ出し、彼女に誓ったようにしなさい」。斥候となったその若い人たちははいって、ラハブとその父母、兄弟、そのほか彼女に属するすべてのものを連れ出し、その親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外に置いた。』(ヨシュア記6:22-23)
かつて、彼女がエリコの王からかくまったあの二人は、今度は、彼女たちをかくまう番となり、その赤い印のつけられた部屋の中にいた人たちを全員連れ出し、安全な所へと導いた。
私達もこの地上において、神の国の使者が伝える福音を受け入れるなら、世が裁かれる日、御使い達の号令とラッパの響きの内に、安全に天の御国へと導かれ、主と共に永遠の救いへと入れられるのだ。
『すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。』(1テサロニケ4:16-17)

この世には、神の国から使わされて来る使者がいる。
福音を伝える人は、誰でも、神の国から遣わされた使節である。
『神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。』(2コリント5:18-20)

そして、世の人は、その使者をいかに扱うかによって、永遠の行き先が変わってくる。
遊女ラハブのように、神の国からの使者を受け入れる人は、その報いに漏れる事は決して無い。
『あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。』(マタイ10:40-42)
しかし、エリコの住人のように、使者を捕らえて殺そうとする者は、裁きの日に滅ぼされてしまう。

こうして、エリコという邪悪な町は、滅ぼしつくされた。
先祖代々補強し、神に敵対してそそり立った城壁は崩され、福音に対して堅く閉ざした門は、粉々に砕かれた。
その町の中にあって、救いの赤い印の内にかくまわれていた人達は、滅びの向こう側へと、すなわち救いへと渡り行き、そして、その町の中で遊女だったラハブは、神の国の栄光の家系へと嫁いで行ったのである。(マタイ1:5)

『ヨシュアは、その時、人々に誓いを立てて言った、「おおよそ立って、このエリコの町を再建する人は、主の前にのろわれるであろう。その礎をすえる人は長子を失い、/その門を建てる人は末の子を失うであろう」。』(ヨシュア記6:26)
実際に後の時代、エリコを再建した人の上に、このヨシュアののろいは成就した。
それは、イスラエルの中で最悪の王、アハブの時代である。
『彼の代にベテルびとヒエルはエリコを建てた。彼はその基をすえる時に長子アビラムを失い、その門を立てる時に末の子セグブを失った。主がヌンの子ヨシュアによって言われた言葉のとおりである。』(1列王記16:34)
エリコのように、人々に遊女である事や、身売りする事を強要し、弱者から時間やエネルギー、若さを搾取して、甘い汁を吸い続けるシステムを再建しようとするような者は、呪われてしまうのだ。
この邪悪な時代にあっても、弱者から搾取して自分の地位を保とうとする人はいるが、その人は、安泰なように見えていて実は滑りやすい所におり、やがては、またたく間に滅ぼされてしまうのだ。(詩篇73篇)

礼拝説教メッセージ音声:七が七度を満たす時(ヨシュア記6:16-21):右クリックで保存

神の国の軍は、エリコの町を攻める事なく、祭司たちが神の御言葉と約束のしるしの入った箱をかついで、角笛の音を響かせながら、ただ静かに、黙々と、六日間行進した。
そして第七日目は、七度周った。
『七度目に、祭司たちがラッパを吹いた時、ヨシュアは民に言った、「呼ばわりなさい。主はこの町をあなたがたに賜わった。』(ヨシュア記6:16)
その時、主の時は成就し、神の国の軍は大声を上げて、その町は主のものとなる。

この「世界」という、大きなエリコの町が終わる時も、これと同じことが起きる。
『第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。』(黙示録11:15)
終わりの時が近づけば、近づくほど、主の警告は頻繁になり、七が七度を満たす時、さばきの準備が整い、大きなラッパの音と声々が起こり、この世のものは全て、主キリストのものとなるのだ。

『そこで民は呼ばわり、祭司たちはラッパを吹き鳴らした。民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした。』(ヨシュア記6:20-21)
エリコの終わりの日、それまで何世代にも渡って積み上げてきた城壁も、不品行も、罪深さも全て崩れ落ち、それらを頼りとしていた人々は、逆にそれらによって押しつぶされてしまった。
同じように、この世の終わりの時も、それまで積み上げてきた神に敵対する文明の利器は、全て滅び失せ、それぞれが積み上げてきた罪や不品行の報いが、それぞれの頭上に降りかかり、天からの警告を無視し、福音宣教者を迫害してきた人々は、その日その時、御言葉の光の剣に刺し貫かれ、滅ぼされてしまうのだ。
しかしその日、滅びをまぬがれ、神の国って救いを得る人々も、確かにいる。

『この町と、その中のすべてのものは、主への奉納物として滅ぼされなければならない。ただし遊女ラハブと、その家に共におる者はみな生かしておかなければならない。われわれが送った”使者”たちをかくまったからである。』(ヨシュア記6:17)
ヨシュアはここで、「斥候」とは言わず、「使者」と言った事は興味深い。彼らは、表向きは斥候であっても、実は、エリコに遣わされた、神の国からの使者であったのだ。
神の国の使者を穏やかに受け入れた遊女ラハブは、神の国から特別扱いされ、使者を捕らえて殺そうとした者達は、滅ぼされる。
この世も同じである。

『また、あなたがたは、奉納物に手を触れてはならない。奉納に当り、その奉納物をみずから取って、イスラエルの宿営を、滅ぼさるべきものとし、それを悩ますことのないためである。』(ヨシュア記6:18)
救いに入った私達も、主の忌み嫌われるもの、滅ぼし尽くすべきものは、大切に抱え持っていてはならない。
そうでないと、自分自身だけでなく、自分の家族、ひいては、教会という宿営全体に災いを持ち込む事になってしまいかねないからだ。

『ただし、銀と金、青銅と鉄の器は、みな主に聖なる物であるから、主の倉に携え入れなければならない」。』(ヨシュア記6:19)
遊女ラハブとその属する者以外にも、エリコの町から取り出され、主の宝物庫に入れられるものがあった。
それは、銀と金、青銅と鉄の器である。
『神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。「主は自分の者たちを知る」。また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。』(2テモテ2:19-21)
私達も、この地上において、汚れを離れ、自らを清めるなら、主の尊いわざに間に合うものとされ、かの日には、主の宝物倉に納められるのだ。

父の日礼拝 – 聖書における父親像(エペソ6:1-4)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

本日は父の日である。そこで今日は、聖書の中では父は本来、どのような存在であるのかを学びたい。
父は一家の長である。なぜなら聖書には、子は父母を敬う事が命じられており(出20:12)、夫は妻の頭であると定められているからである。(エペソ5:23) それ故、父は、家族の長として、家族を霊的に正しく治める義務が、主から与えられており、家族もそれをわきまえて、父に接するべきなのだ。

聖書の中で、父親は、主の教育と訓戒によって子供を育てる事が命じられている。
『父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。』(エペソ6:4)
近年、日本では「友達親子」の風潮により、親子は上下関係より、友人のようなフラットな関係が良いという価値観が蔓延していたが、その結果、親の権威が失墜してしまった。年頃の女の子が、公の場で、平気で「おやじキモい」などと言っているのは、海外の人が聞けば驚き呆れるし、一昔前ではあり得ない事だ。
模範とすべき父親像が不在のまま、誤ったガイドラインで親の世代も子の世代も育ってしまった結果である。
この「主の薫陶と訓戒」は、御言葉というガイドラインに添って行うものであり、御言葉を知れば知るほど、主の教育は正しく行う事が出来、一家の長たる確信と権威が増し加わって行く。
父の最たる模範は、父なる神であり、ガイドラインは御言葉だ。それを自覚する一家は、祝福される。

天の父なる神の愛は、センチメンタルな愛ではなく、ストロングな愛である。
近年の日本の家庭で、特に無くなっているのは、子にむちを加える事である。それは今や体罰という名のタブーとなっているが、聖書は明確に、子から愚かさを除くためには、むちを加えるように記されている。
『むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。』(箴言13:24)
『むちと戒めとは知恵を与える、わがままにさせた子はその母に恥をもたらす。』(箴言29:15)
愛には痛みが伴う。その痛みを乗り越えた向こう側の、さらに優れたいのちを得るために、一時の痛みを辞さない愛を、父なる神は、ひとり子を与えて下さった愛によって示して下さった。
アブラハムもそうである。今の日本では、アブラハムはあまりいい父とは言えないかもしれない。なにしろ、一人息子のイサクを縛って、薪の上に載せ、刃を向けたのだから。しかし、そのひとり子の死を辞さないほどの御言葉への従順が、イサクのその後の人生に、この上ない祝福をもたらしたのだ。

また、祝福される家庭となるために、父親は何より主を恐れるべきであり、一家の中で祭司となるべきある。
アブラハムも、イサクも、ヤコブも、信仰の父祖達は、例外なく主を恐れ、一家を祝福する祭司であった。
大富豪であるヨブは、子供達の誕生日の祝いが一巡する度に、彼等を呼び寄せ聖別することにしていた。
『彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。』(ヨブ1:5) このように、いつも子を覚えて祝福する一家は、大富豪一家の特徴である。
また、ダビデも家族を祝福していた(2サムエル記6:20)が、妻の一人ミカルは、彼を心の中でさげすみ、軽んじたため、一生、子が無かった。(2サムエル記6:16-23)
また、ノアの息子・セム、ハム、ヤペテのうち、ハムは、恐れ敬うべき父の天幕に入って行き、そこで見つけた父の裸をじっくりと見、兄弟たちに言いふらし、来て一緒に見るよう招いたため、父から呪いを受けてしまった。それに対しセムとヤペテは、父の裸を見ないよう後ろ向きに歩いて裸を覆ったため、祝福を受けた。
以上のように、祝福をさずける立場である「父」を蔑んだり、軽んじたり、その秘密をあげつらって、他に言いふらすような者は、子々孫々呪われるが、父を敬う人は、子々孫々とも祝福される。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
子にとっては、父母を敬うことが幸福の秘訣であり、妻は夫に従う事が御心であり、父は、父なる神に見習い、御言葉のガイドラインに従って一家を正しく治める事。それが、その家が繁栄する秘訣である。

礼拝説教メッセージ音声:黙るべき時と語るべき時(ヨシュア記6:8-15):右クリックで保存

『ヨシュアが民に命じたように、七人の祭司たちは、雄羊の角のラッパ七本を携えて、主に先立って進み、ラッパを吹き鳴らした。主の契約の箱はそのあとに従った。武装した者はラッパを吹き鳴らす祭司たちに先立って行き、しんがりは箱に従った。ラッパは絶え間なく鳴り響いた。』(ヨシュア記6:8-9)

ヨシュアは主の軍の将から命じれれた言葉を、そのまま民に実践させた。
しかし、人の目にナンセンスとも思える事を、七日間も、六十万の民に実践させ続ける事は、簡単な事ではない。
もし、わずかな人数でも「こんな事に意味があるのだろうか」と、信仰に疑いを投げかけるようなつぶやきをするなら、会衆全体に、その不信が伝染してしまうとも限らない。
実際、四十年前はそうだった。
僅かな人々の、不信なつぶやきや、肉欲の煽りなどが、多くの民に伝染し、結果、イスラエルの民全体がその思いに汚され、荒野での四十年の放浪となってしまった。

そこでヨシュアは、以下のように命じた。
「あなたがたは呼ばわってはならない。あなたがたの声を聞えさせてはならない。また口から言葉を出してはならない。ただ、わたしが呼ばわれと命じる日に、あなたがたは呼ばわらなければならない。」(ヨシュア記6:10)

ヨシュアは、よく知っていたのだ。”群衆”というものの性質を。
そして、くちびるの言葉は、いかに「火」のように災いをもたらすかを。
『舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。』(ヤコブ3:6)
だから、群衆に一言も口を聞いてはならないと命じたその命令は、実に的確なのだ。
私達は、「口の結ぶ実によって腹を満たし、その唇による収穫に満たされる」(箴言18:20)とある通り、たとえ疑う心があったとしても、唇という境界線を越えずに命じられた事を淡々と行うなら、行った結果の実は必ず実るのである。

この時、絶え間なく聞こえていたのは、イスラエルが行進する足を踏む音と、祭司たちが吹き鳴らす雄羊の角笛の音だけであった。
これは、私達が信仰の戦いをする時に取るべき態度でもある。
悲観的になりそうな時、御言葉がどうしても信じられない時、先行きが見えず不信仰に陥りそうな時こそ、人間的な言葉を放つ「口」は閉ざし、ただ、小羊キリストの栄光を誉めたたえる賛美だけを響かせつつ、「足の裏で踏む所はことごとく与えた」という御言葉を信頼しながら、その場所を足踏みするのだ。

もちろん、何でも黙れば良い、というものではない。
真理の言葉を語らなくてはならない時は、黙っていないで真理を語るべきである。
ヨシュアとカレブは、四十年前、彼ら以外の斥候十人が放った、神様が約束して下さった地に対する悪いうわさを煽って、民全体を不信仰へ傾いた時、彼等は衣を裂きながら約束の地の良き事を叫び、主が共におられるから恐れてはならない事を叫んだ。
結果的には、民はそんなヨシュア達を殺そうと言い出し、そして、まさに殺されそうになったその時、主の栄光が現れ、彼らは打たれずに守られたが、民を扇動した10人は打たれ、扇動されて不信仰に陥った民は、四十年の間に荒野で死に絶えた。(民数記15章)

主の御言葉に反する不信仰な言葉や、人間由来の言葉が唇から出てきそうな時は、黙っているべきだが、語るべき真理の言葉を語らないとしたら、その真理は逆に自分自身を焼き尽くす火となってしまうのだ。
『わたしは言った、「舌をもって罪を犯さないために、わたしの道を慎み、悪しき者のわたしの前にある間は/わたしの口にくつわをかけよう」と。わたしは黙して物言わず、むなしく沈黙を守った。しかし、わたしの悩みはさらにひどくなり、わたしの心はわたしのうちに熱し、思いつづけるほどに火が燃えたので、わたしは舌をもって語った。』(詩篇39:1-4)

不真実がはびこる時は、真理を語るべきであり、正しくない事がはびこる時は、正しい事を語るべきであり、人間語がはびこる時は、御言葉は語るべきである。
もし語った真実な言葉を、相手が拒否するとしたなら、彼を扱って下さるのは主ご自身である。
たとえ、不信仰な相手が六十万であろうとも、神は真理を曲げない二人のほうを守り、不信仰な六十万のほうを滅ぼされるのだ。

『七日目には、夜明けに、早く起き、同じようにして、町を七度めぐった。町を七度めぐったのはこの日だけであった。』(ヨシュア記6:15)
七は、完全数である。
御言葉に従順するべき日数を、従順によって満たした時、霊の世界では、物事が動く準備が整えられたのである。
その時が満ちるまでの間、見た目がいかに変わりが無いように見えたとしても、御声に聞き従い続けるなら、見えない世界では、確実に物事が進行しているという事を忘れてはならない。

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest