メッセージ - 201406のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
荒野でのハネムーン(雅歌8:5-7):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
人によっては災いとなるイエス様の奇跡(マタイ9:27-34):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
金銭を愛する事は災いの根源(伝道者の書5:8-11):右クリックで保存

【概要】

この世の富の虚しさと、神の国の富の尊さについてのメッセージ

【聖書箇所】

伝道者の書5:8-11

出エジプト記3:5-10

ヤコブの手紙5:4-6

1テモテ6:8-10

イザヤ書58:6-11

【戒めの言葉】

金銭を愛することは、あらゆる悪の根です。富を追い求めるあまり、信仰から迷い出てしまう危険性があります。

【勧めの言葉】

神の国とその義を第一に求めるなら、必要なものは与えられます。この世の富ではなく、天に宝を積む生き方をしましょう。

【***詳細***】

ソロモンは、世のあらゆる富を集め、権威のトップに座りました。しかし彼は、貧しい者が虐げられ、権利と正義がかすめられているのを見ました。そして彼は言います。「ある州で貧しい者が虐げられ、権利と正義がかすめられるのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもう一人の上役がおり、彼らよりももっと高い者たちもいる。」(伝道者の書5:8)

この世界では、貧しい人々が強いられ、絞り取られ、上に上がることもできずにどうしようもない状況があります。これは昔からあった状況です。しかし、主は見ておられるのです。

出エジプト記3:7-8で神は言われます。「私はエジプトにいる私の民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。私は彼らの痛みを知っている。私が下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいるところに彼らを上らせるためだ。」

主は虐げられている人々の叫びを聞き、彼らの痛みを知っておられます。そして、主は救いをもたらすために来られるのです。

ヤコブの手紙5:4でも同様のことが語られています。「見よ、あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声を上げています。そして、刈り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。」

主は、虐げられている人々の声に耳を傾けられます。未払いの賃金さえも主に向かって叫んでいるのです。私たちは決して絶望してはなりません。主が生きておられ、主に叫び求めるなら、主が応えてくださるからです。

しかし、富を追い求めることの虚しさについても、ソロモンは語ります。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた虚しい。財産が増えると、それを食い尽くす者も増える。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。」(伝道者の書5:10-11)

この世の富は、人を不幸に陥れます。たとえ雇用者になったとしても、人は貧しい人たちから搾取するような、そういう罪深い行為に走ってしまいます。それでも人々は富を追い求めます。なぜなら、アダム以来の呪いにより、人は額に汗して食べ物を得なければならないからです。

しかし、私たちキリスト者は、もはやそのアダムの系列の呪いの下にいるものではありません。イエス・キリストによって神の民とされ、神の国とその義とを第一に求めるなら、必要なものがすべて与えられるのです。

パウロは1テモテ6:8-10で警告しています。「衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」

お金を持ちたがる人、金持ちになりたがる人は、多くの誘惑と罠に陥ってしまいます。世の中の多くの人たちは金銀を愛し、より多く持とうとしますが、満足することがありません。そして、キリスト者の中にも、金を追い求めたために信仰から迷い出てしまう人がいるのです。

しかし、神は私たちに別の生き方を示しておられます。イザヤ書58:6-11では、こう語られています。

「わたしの選ぶ断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわをほどき、しいたげられている者を自由にし、すべてのくびきを砕くことではないか。また、飢えた者に、あなたのパンを分け与え、家のない貧しい人を家に入れ、裸の人を見たら、これを覆い、自分の肉親に身を隠さないことではないか。そうすれば、あなたの光が暁のようにさし出て、あなたの傷はすみやかにいやされ、あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光があなたのしんがりとなる。」

神は、持っている者が持っていない者に分け与えることを定めておられます。初代教会では、富んでいる人も貧しい人も、一切不足を覚えている人はいませんでした。なぜなら、持っている人が貧しい人に分け与えていたからです。

【結論】

この世の富は虚しく、それを追い求めることは危険です。しかし、神の国の富は永遠に続くものです。私たちは、この地上では旅人のように、寄留者のように歩み、真の故郷である天に宝を積むべきです。神の言葉に従い、貧しい人を助け、神の国の価値観に基づいて生きる時、私たちは本当の満足と祝福を経験することができるのです。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
わたしの証人となるため(使徒1:4-11):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:主の栄光と賛美と御言葉で占拠せよ(ヨシュア記6:1-7):右クリックで保存

『さてエリコは、イスラエルの人々のゆえに、かたく閉ざして、出入りするものがなかった。主はヨシュアに言われた、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている。』(ヨシュア記6:1-2)

エリコは彼らに対し、固く城門を閉ざしているが、主は、そこを既に彼らの手に渡した、と言われる。
この時点、現実には、城壁は相変わらずそびえ立ち、その中ではエリコの王や大勇士達がイスラエルに徹底抗戦しようと、待ち構えている。
しかし、ヨシュアが御言葉の剣の前にひれ伏し、聞き従う姿勢を取った時、真理の面において、既にエリコは彼らのものとなっているのだ。
それを現実へと引き出すためには、主から伝授される攻略方法を、そのとおり信じて実践するだけなのだ。

主に言われた通りに信じて実践するならば、真理の面において既に得たものが、現実の面へと引き出されて行く。
それはちょうど、通帳に記されている残高の数字を信じて疑わず、銀行に行って、現金を下ろす「行動」に出る事によって、お金が実際に引き下ろされて、手元に入るのと同じように、御言葉に記されている真実を信じ、そこに記されている通りに行動するなら、望んでいる事柄が実体となって、自分の手元に引き下ろされるのだ。(ヘブル11:1)
しかし、40年前の不従順な世代のように、真実の面で既に得ている事を信じず、実践しないなら、それは他人のものとなってしまい、滅んでしまうのだ。

さて、主の軍の将から伝授されたエリコ攻略方法は、世の将軍や知者が見るには、あまりにナンセンスな方法だった。
『あなたがた、いくさびとはみな、町を巡って、町の周囲を一度回らなければならない。六日の間そのようにしなければならない。七人の祭司たちは、おのおの雄羊の角のラッパを携えて、箱に先立たなければならない。そして七日目には七度町を巡り、祭司たちはラッパを吹き鳴らさなければならない。そして祭司たちが雄羊の角を長く吹き鳴らし、そのラッパの音が、あなたがたに聞える時、民はみな大声に呼ばわり、叫ばなければならない。そうすれば、町の周囲の石がきは、くずれ落ち、民はみなただちに進んで、攻め上ることができる」。』(ヨシュア記6:3-5)

この情景を想像するなら、かなり奇妙な光景である。
60万の大軍勢が、城の周囲を黙々と一周する事を六日間行い、七日目は七回周り、祭司は雄羊の角笛を吹く。そうするなら、城壁は崩れる、というのだ。
人は何かと、具体的な手段を主に求めたがる。この位置に弓隊を、そこに伏兵を配置して、何時に戦いを仕掛けなさい、といった、手段の指示なら、人は従いやすいだろう。
しかし、主が示される霊的戦いの手段は、人の目に愚かに見える事が多いものだ。

霊における戦いは、剣や馬などの「血肉の力」によるのではなく、「小羊キリストの栄光」と「賛美」、「御言葉」と「神の約束」で、その場を占領するものだ。
祭司たちは「雄羊の」角笛を吹き鳴らすように命じられた。
雄羊はキリストを意味し、角は栄光をあらわす。すなわち祭司たちは、キリストの栄光を吹き鳴らし、キリストを誉めたたえ賛美するのである。
そして、彼らが担ぐ契約の箱に入っているのは「御言葉」であり、「神の約束」がいっぱい詰まったものである。

現代の私達の戦いも、自分の血肉の力によるのではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者に対するものであり(エペソ6:12)、それは「小羊キリストの栄光」と、「賛美」と、「御言葉」と、「神の約束」によってその場を占領するものである。
それをするなら、その場所を占拠している暗闇の力は、足場を失って出ていき、その場の霊的支配権は暗闇から光へと移り、そうなったら、現実世界もどんどん変わっていくのである。

ヨルダン川を渡る時、人々は、祭司が担ぐ契約の箱の後ろ二千キュビトの距離をあけなければならなかったが、今回は、雄羊の角笛を吹き鳴らす祭司も、戦士たちも、契約の箱の「前」を進み行くよう命じられた。
私達は、信仰にあって歩む時は、御言葉の後ろを正しい距離感をもって、歩調を合わせて歩むものだが、霊的戦いを仕掛ける時、すなわち、積極的に世に出ていき御言葉を伝える時は、私達が、御言葉と主の約束を担いで「前」を進み行き、小羊キリストの栄光と賛美を振り撒いて行くものである。
なぜなら、主は御言葉を人に委ねられ、宣教の愚かさによって、福音が世界に伝えられて行くよう委ねられたからだ。(1コリント1:21)
『宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。』(ローマ10:14-15)

私達も日々、滅ぼすべきエリコがあり、崩さなければならない城壁が、打ち破らねばならない城門がある。
それらに対する戦いは、剣や弓など人間的な力によるものではない。主の約束を信じ、御言葉を担ぎ、小羊キリストの栄光を讃えて行くものである。
それも、一日や二日すれば良いというものではなく、完全数の七が満ちるまで、である。
いかに難攻不落と見える城壁でも、主の約束を信じつつ、御言葉を掲げて歩むなら、それらは、やがて崩れ落ちるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:御言葉の剣が立った時(ヨシュア記5:13-15):右クリックで保存

エリコの城壁は、ヨシュア達を前にそびえ立ち、城門は、彼らに対して固く閉ざされていた。
荒野にそびえ立つこの城壁は、今まで見たことも無いような、強大なものである。
普通に攻め込むとしたら、多くの犠牲が出るだろう。
ヨシュアはこの堅固な城塞都市を見上げて、どうすれば良いか、思い巡らしていたかもしれない。

『ヨシュアがエリコの近くにいたとき、目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか」。彼は言った、「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。』(ヨシュア記5:13-14a)
巨大な壁と相対する時、その壁をどうにかする事に頭がいっぱいとなって、何者も「自分の味方か、それとも敵か」に選別し、等級づけし、自分の損得の秤にかけてしまう事がある。
しかし主は、人の自分中心な等級付けに対しては「いや」と応え、ご自分の聖なる立場をお示しになる。

ヨシュアが相対していた相手が、実は主であると分かった時、彼は実に正しい態度を取った。
『ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である」。ヨシュアはそのようにした。』(ヨシュア記5:14a-15)

彼はまず地にひれ伏して拝した。
主と対峙していたのだと気づいた時、御言葉がこう言っていると分かった時に、最も先にすべきは、ひれ伏して自分を低くする事である。
彼は続いて「わが主は」「この僕に」と言って、主従関係を明確にし、そして「何をお言いつけになるのですか」と言って、自分はただ聞く立場、命じられる立場である事を告白したが、これこそ、主を前にした時、御言葉の剣を前にした時に取るべき正しい態度である。

すると主の軍の将は、「あなたの足から履物を脱げ。」と命じる。
私達も、世を渡り歩いて来ると、それまでの経験や思い込み、世の価値観というほこりを、歩むその足に付着させ、世の欲やしがらみといった汚れが、どうしても付着してしまう。
そのような”履物”は脱ぎ捨て去り、同時に、主さえ自分の損得勘定で計算してしまう自分中心の考え方を捨て、主の御言葉に服従する心構えで、御前に出る時、主は、立ちはだかっている城壁を攻略する方法を教えてくださるのである。

御言葉が目の前に立つ時、私達は試される。
『神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。』(ヘブル4:12)
ヨシュアは主の軍の将に「あなたはわれわれにつくのか、それとも敵につくのか」と問うたが、御言葉が私達に示される時、私達の側こそ「あなたは御言葉につくのか、それとも御言葉でないものにつくのか」と迫られるのだ。

主の軍の将から授けられる御言葉は、およそ世の知者には、あまりにナンセンスな内容であり、それを聞かされた時、それでも御言葉に頼るか、それとも、自分の経験や思い込みに頼るかが、試される。
最終的に、ヨシュアは、御言葉の通りに忠実に実行して、大勝利を収めたが、もし、御言葉に従うのではなく、自分の思い込みや経験に、あるいは、手放したくない欲望や不義な事に従うなら、御言葉の剣は逆に自身を滅ぼす剣となってしまう。

私達も、欲望に従って御言葉を乗り越えて行こうとする時、御言葉は、抜身の剣となって立ちはだかる。
かつて、ベオルの子バラムは、イスラエルを呪うよう雇われた時、主は「行ってはならない」と御言葉で示されたのに、それでも不義の報酬を愛た彼は、ろばをけしかけて行き、御使いが抜き身の剣を持って、彼を殺そうと待ち構えた。(民数記22章)
また、ダビデが王国の兵力を知りたいと思った時、ヨアブが「なぜイスラエルに対し罪過ある者となられるのですか」と制止したにもかかわらず、それでも強引に数えた所、主の使いが抜き身の剣を持って立ち、エルサレムに剣を差し伸べ、7万人が疫病に倒れた。(1歴代21:16)
主の御言葉が立ちはだかっているにもかかわらず、不義の報酬を愛したり、神様からの祝福を、あたかも我が物のように数え、御言葉を乗り越えて行くと、主の剣は災いとなって差し伸べられてしまうのだ。

バラムは、ろばによっていのち拾いをしたにもかかわらず、それでも不義の報酬を愛し、イスラエルの人々の前につまずきの石を置き、不品行を行なわせた結果、kれは剣で倒された。(ヨシュア13:22)
それに対し、ダビデは、すぐに悔い改めたため、御使いが剣を持って立ったその場所は、後に神殿となった。

皆さんは御言葉を前に、ヨシュアのように初めから御言葉に従うだろうか。
それともダビデのように一度逆らって悔い改めるだろうか。
それともバラムのように、御言葉の剣が立っても敢えてそれを乗り越え、自ら剣に倒されに行くだろうか。

礼拝説教メッセージ音声:約束の地における新しい歩み(ヨシュア記5:10-12):右クリックで保存

『イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕暮、エリコの平野で過越の祭を行った。そして過越の祭の翌日、その地の穀物、すなわち種入れぬパンおよびいり麦を、その日に食べたが、その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。』(ヨシュア記5:10-12)

今までのイスラエルの歩みをおさらいすると、彼らは奴隷の国・エジプトから脱出した後、荒野でマナと岩からの水による主からの100%の養いを受け、そしていよいよヨルダン川を渡って、約束の地へと入り、割礼を受けた。
そしてその三日後、過越祭を祝い、過ぎ越しの食事を食べた。
その時以降、それまで四十年間続いたマナが降るのが止み、彼らはその翌日から、その土地の産物を食べるようになった。

この、彼らが通った一連の経験は、私達・キリスト者が救われた時の経験に、よく似ている。
私達も、かつては世(エジプト)において、サタン(パロ)の奴隷状態となっており、罪の結果である呪いと重労働に悩んでいた。
しかし、憐れみ豊かな主は私達を世から呼び出し、罪と死の奴隷状態から脱出させて下さり、そして主の直接的な養いを受け、水のバプテスマ(ヨルダン川)を経た後、神の支配領域(約束の地)へと入った。
新しく神の支配へと入った人に、真っ先に必要な事は、今までの自分中心の生き方は切り捨て(割礼)、死に明け渡し、信仰によって主に頼って生きる歩みを始めるのである。
そして、水のバプテスマにあずかった人には、聖餐(過越祭)にあずかる資格が与えられる。

過越祭は、傷の無い小羊を、自分達の身代わりとしてほふり、その血を家のかもいと門柱に塗り、その血潮のしるしの内側で、身代わりとしてほふられた小羊の肉を共に食し、滅びをまぬがれ救われた事の喜びを、共に味わうものであるが、この小羊は、全世界の人々の身代わりとなってほふられた、まことの小羊である主キリストを表している。
聖餐式でいただくパンは、十字架上で裂かれた主の御体を覚え、それをいただく事によって主のいのちへと接ぎ合わされ一つとなる恵みを記念するものであり、聖餐式でいただく盃は、十字架上で流された主の血潮を覚え、それをいただく事によって死と呪いが過ぎ去る印が与えられた事を記念するものである。
このように、過越祭は、聖餐式の予表でもある。

イスラエルの民が過越祭を祝ったその時点から、マナが降るのが止み、その土地の産物を収穫して食べるという、新しい歩みが始まった。
今まで食料については100%、自分の手で労する事なく主からいただいていたが、この時点から自分で種をまき、自分で刈り入れをしなければならなくなった。
しかしその代わり、荒野では味わう事のできなかったバラエティ豊かな色々な産物を、それも労する事なく、摂ることができるようになった。
『あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。
もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。』(申命記11:10-15)

しかし、両手放しでその素晴らしい特典が得られる訳ではない。記されている通り、主の御声に聞き従い、御言葉を守り行わなければならないのだ。
御言葉を忠実に守り行い続けるなら、この素晴らしく良き地で末永く、豊かな生活を送る事ができる。
しかし、もし守り行わないなら、神を知らない人々よりも悲惨な事になってしまう。
『あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう。』(申命記11:16-17)

私達信仰者も、同じである。
御言葉によく聞き、守り行うキリスト者は、あらゆる面で守られ、祝福される。
しかし、御言葉を軽んじ、聞き従わない中途半端なキリスト者は、神からもサタンからも責められる状態であるため、あらゆる面で呪われ、世の人よりも悲惨な事になってしまうのだ。
主の御声によく聞き従い、主の御言葉を守り行う事によって、あらゆる面で祝福に入る皆さんでありますように!

何のために聖霊を求めるのか(使徒1:8)
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第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

本日ペンテコステは、イエス・キリストの弟子達が、聖霊に満たされ、力を受けた事を記念する日である。
聖霊が主のしもべにもはしためにも与えられる事は、旧約の預言者達によって預言されており(ヨエル2章)、それを求めるように、また、待ち望むようにと、イエス様も命じられた。(使徒1章、ルカ11:9-13)
聖霊を与えて下さい、聖霊充満を下さい、と求めるクリスチャンは多いが、そもそもなぜ聖霊を求めるべきなのか、いざ聖霊が与えられたら、どうすべきなのかを知らない人が多い。
そこで、私達は何の為に聖霊を求め、その力を何のために用いるべきなのかを、今日、学びたい。

「聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは”力”を受け、、、地の果てまでわたしの証人となる」(使徒1:8)
力(デュナミス)。それはダイナマイトの語源で、ダイナマイトのような莫大なパワーを持つものであり、その力が与えられる目的は、地の果てまでイエス様の証人となる事である。
聖霊に満たされた弟子達は、何を伝え、表現したのか。それは始終一貫して、イエス様の事である。
そもそも聖霊は、イエスキリストをあかしする霊である。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26) 「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」(1ヨハ4:2-3)
また、誰でも聖霊によるのでなければ、イエスは主であると告白できない。(1コリント12:3)

皆さんは、何のために聖霊を求めているだろうか。
特殊能力が与えられて大活躍したいとか、人の上に立って偉くなりたいとか、エキサイティングでスリリングな人生送りたいとか、そういう動機で聖霊を求めていないだろうか。聖霊が与えられるのは、まさにイエス・キリストをあかしするためであり、イエス様が抜けながら聖霊を求めるのは、全くのお門違いである。
聖霊は、その人を栄光化するのではなく、イエス・キリストを栄光化する霊であり、自分から語るのではなく、父なる神から聞くままを話す(ヨハネ16:13)。この「自分から語るのではなく、聞くままを話す」という特徴は、イエス様の特徴でもあり(ヨハネ12:49、14:10)、聖霊に導かれるキリスト者も、自分由来の事は一切語らず、ただ上から与えられるままに語り、行動する。
弟子達は、ペンテコステ前は自分から語って色々な失敗をした。しかし、ペンテコステ以降は、自分由来の事は一切語らず、ただ聖霊に導かれるままを話した。(使徒4:1-21)

ペテロもパウロも、どの弟子達も、迫害されつつも王や高官達に命がけで伝え、弁明した内容は、イエス様の誕生と生涯、イエス様の人格と品性、イエス様の十字架の死と復活、昇天、そして再臨についてだった。
聖霊が与えられるためには、まず、キリストの証人となる事の願いと情熱が必要である。
聖霊に満たされたいと願う人は、イエス様の誕生を、生涯を、イエス様の人格や品性を、イエス様の十字架を、死を、復活を、昇天を、そして再臨を、余すところなく伝えることができますように、地の果てにまで行けますように、迫害や死をも恐れずに、大胆にキリストの証をさせてください、と、祈るべきなのだ。
『主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばして癒しをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。』(使4:29)
また、聖霊は聖なる霊である。自らをきよくする努力をしない者にどうして聖なる霊が宿って下さるだろうか。
『自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。』(ヘブル12:14)
そして、弟子達のように、聖徒達と共に集まり、神の都エルサレム(平和の土台)から離れず、共に熱心に祈って聖霊を求めるのである。それも、求め、探し、叩く気構えで、祈り続けるのだ。
『天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。』(ルカ11:13)
聖霊を求め、それも豊かに与えられ、迫害を恐れず地の果てにまで出て行き、主イエスの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、手で蛇をつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置いて癒し、イエス様に栄光を大いに捧げる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:約束の地での必須事項 - 割礼(ヨシュア記5:1-9):右クリックで保存

いよいよ、イスラエル全軍団はヨルダン川を渡り、モーセが入る事の許されていなかった、あの、約束の地に入った。
その地に足を踏み入れて、真っ先に主が命じられた事は、割礼であった。
『その時、主はヨシュアに言われた、「火打石の小刀を造り、重ねてまたイスラエルの人々に割礼を行いなさい」。そこでヨシュアは火打石の小刀を造り、陽皮の丘で、イスラエルの人々に割礼を行った。』(ヨシュア記5:2-3)

神の民であるならば、割礼は避けて通れない。
なぜなら以下の契約が、主とアブラハムの子孫との間で締結されているからである。
『神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に代々わたしの契約を守らなければならない。あなたがたのうち男子はみな割礼をうけなければならない。これはわたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あなたがたの守るべきものである。あなたがたは前の皮に割礼を受けなければならない。それがわたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなるであろう。・・・
こうしてわたしの契約はあなたがたの身にあって永遠の契約となるであろう。割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」。』(創世記17:9-14)

契約を取り交わす際、契約書にサインを記して、初めてその契約は有効化されるが、神がアブラハムと契約を交わした際に、その契約に同意したというサインに相当するものが「割礼」である。
だから、人々の側が割礼のしるしを身に受ける事無しに、祝福の約束は、有効化されないのだ。

割礼とは、男性器の包皮を切り取るものである。
男は自力で支配し、自立して治める者であるが、その、男性のシンボルたる部位の肉を切り捨てる事、それが、神の民・イスラエルのしるし。それは非常に象徴的である。

イスラエル、その名は、イスラエル十二部族の父祖・ヤコブが、神の使いと格闘し、腰の近くのもものつがいを打たれた後に与えられた「神と戦う」「神に支配される」という意味の、ヤコブに新しく与えられた名である。
つまり、自分の力に頼らず、ただ神の力に頼り、神の支配の内に生きる事、それが、神の民「イスラエル」のアイデンティティであり、また、私達キリスト者のアイデンティティでもある。

『ヨシュアが割礼を行ったのは、この人々についで起されたその子どもたちであった。彼らは途中で割礼を受けていなかったので、無割礼の者であったからである。すべての民に割礼を行うことが終ったので、民は宿営のうちの自分の所にとどまって傷の直るのを待った。その時、主はヨシュアに言われた、「きょう、わたしはエジプトのはずかしめを、あなたがたからころがし去った」。それでその所の名は、今日までギルガルと呼ばれている。』(ヨシュア記5:7-9)

もし、ヨシュアの軍団がこの時、割礼を受けていなかったら、どうなっていたか。
おそらく彼らは、敵の前にも神の前にも立つ事はできず、滅ぼされていただろう。なにしろ、あのモーセでさえ、割礼抜きに主から命じられた働きに入ろうとしたなら、殺されそうになった程なのだ。(出エジプト記4:24-31)
自分の内にそびえ立つ”男”を、滅ぼし尽くす事なしに、肉を切り捨てる覚悟と痛みを経る事なしに、主の働きに入る事は、出来ないのだ。

私達キリスト者も、信仰によってアブラハムの子孫とされたからには、割礼は避けて通れない。
もっとも、私達キリスト者が受けるべき割礼は、刃物による肉の割礼ではなく、御言葉の剣によって受ける「心」の割礼である。
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって「心」に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ローマ2:28)

ここの「心」とはカルディア、すなわち思い、意志、感覚である。
肉の割礼は、感覚の敏感な所を切り取るために、相当の覚悟と痛みを伴うが、同じように私達も、自分自身を御言葉の剣の前に差し出し、自分の肉的な思いや感情を切り取られる時には、覚悟と痛みを伴う。

しかし、それを通り越した先には、エルシャダイ(全能の神)の神が、いつも共におり、いつも守って下さる祝福が待っている。
アブラムは割礼を受ける時、アブラハム(多くの者の父)という名に変えられ、いのちを産まない者が産む者となり、多くの国民の父とされる約束が与えられ、また、サライは、サラ(王女)という新しい名に変えられ、多くの人々、多くの王達の母となり、素晴らしく良き土地を永久の所有として与えられる約束が与えられた。(創世記17章)
それと同じ祝福を、キリストにあって心の割礼を受ける私達にも、約束されているのである。

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