メッセージ - 201406のエントリ
信仰によって癒された娘と蘇らせてもらった娘(マタイ9:18-26)
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- 執筆 :
- pastor 2014-6-7 2:22
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
信仰によって癒された娘と蘇らせてもらった娘(マタイ9:18-26):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神に誓願を立てる時は(伝道者の書5:4-7):右クリックで保存
【概要】
伝道者の書5章4-7節に基づき、神への誓いと約束を果たすことの重要性について語る説教。
【聖書箇所】
伝道者の書5章4-7節
【戒めの言葉】
神に誓願を立てたら、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。
【励ましの言葉】
神と人の前で正直に告白し、約束を果たす人を主は義と認めてくださる。
【悔い改めの促しの言葉】
もし主の前に果たすべきことがあるなら、速やかに果たすべきである。
【***詳細***】
今日の箇所は伝道者の書5章4-7節です。ここでは特に、神の前に誓願を立てる時はそれをしっかりと果たすべきだと教えられています。
「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは、誓わない方がよい。」
聖書には素晴らしい誓いを立て、それを果たすことで信仰を成就した人々がいます。例えばアブラハムは、ソドムの王に対して「天地の創造者である神にかけて誓う」と言い、分捕り品を一切受け取らないと宣言しました。これにより、自分を豊かにしたのは世俗の王ではなく神であることを明確に示しました。
一方で、愚かな誓いをして周囲に迷惑をかけた例もあります。ペテロはイエスを知らないと誓いましたが、すぐに鶏の鳴く声を聞いて自分の過ちを悟りました。サウル王も兵士たちに不適切な断食の誓いをさせ、戦いの勝利を妨げてしまいました。
イエスは「誓ってはならない」と教えましたが、これは軽々しく誓うことを戒めたものです。むしろ重要なのは、神と人の前で約束したことを確実に果たすことです。
使徒行伝5章のアナニアとサッピラの話は、神と教会を欺くことの危険性を示しています。彼らは財産の一部を隠し持ったまま全てを捧げたと偽り、その場で命を落としました。これは初代教会に大きな衝撃を与え、神を欺くことの恐ろしさを教えました。
「あなたの口があなたに罪を犯させないようにせよ。死者の前で、あれは過失だと言ってはならない。」
私たちは時に、自分の約束や誓いを「過失だった」「そういう意味ではなかった」などと言い訳しがちです。しかし神の前ではそのような言い逃れは通用しません。神は私たちの心の奥底まで見通しておられるのです。
ヨシュア記7章のアカンの罪の物語も、隠し事の危険性を教えています。アカンは神への違反を隠し持ち続けたことで、最終的に家族もろとも滅ぼされてしまいました。
大切なのは、自分の罪や誤りに気づいたら、速やかに神と人の前に出て正直に告白することです。ルカの福音書18章に登場する、「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈った取税人のように、謙虚に自分の罪を認める人を神は義と認めてくださいます。
もし私たちが何かを隠し持ち続けるなら、それは次第に私たちを孤立させ、神との交わりや兄弟姉妹との交わりを損なわせてしまいます。しかし、正直に告白し、悔い改めるなら、神は赦し、祝福の窓を開いてくださるのです。
【結論】
神と人の前での誓いや約束は軽々しく行うべきではありませんが、一度立てた誓いは必ず果たすべきです。また、罪や過ちに気づいたら速やかに告白し、悔い改めましょう。そうすることで、神との豊かな交わりと祝福に生きることができるのです。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
雲と虹(創世記9:12-17):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:信仰の記念碑(ヨシュア記4:11-24):右クリックで保存
イスラエルの全員がヨルダン川を渡り終え、十二人の代表が記念の石を川底から取りに戻った後、主は、川床に留まっている祭司に上がって来るよう、ヨシュアに指示した。
祭司たちが上がって来ると、川の水は元どおりに、以前のように川岸いっぱいにまでなった。(ヨシュア記4:16-18)
普段は、川岸まで水があふれているはずの川が一時的に枯れ、人が渡れるようになる。
それを、自然現象の一つとして片付ける人もいるが、契約の箱をかつぐ祭司たちが足を踏み入れた途端、水が引き、全イスラエルが渡り終え、十二人の代表も川底まで石を取って戻り、それら全てを終えた後、祭司たちが陸地に上がった途端に、水が元通りに戻るという、この出来事を、単に「起こりうる自然現象」として片付けようとするなら、あまりにも、御業を為して下さった主に対して、失礼というものだ。
主は確かに、自然現象を用いられる。それはそうだ。
なにしろ、川を造られたのも、川が流れる場所を自由に変えるのも、主であるし、それら一切合切を含む全地を創られたのも、主だからだ。
ただ、聖書が明示している事は、主は確かに生きておられ、主に寄り頼む人には、必ず応えて下さり、そして、彼らが主にあって体験する事は、尽く「良い事」であり、自然現象や常識を遥かに超えた、素晴らしい事である。
『民は正月の十日に、ヨルダンから上がってきて、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。そしてヨシュアは、人々がヨルダンから取ってきた十二の石をギルガルに立て、イスラエルの人々に言った』(ヨシュア記4:19-21)
このギルガルは、イスラエル人がヨルダン渡河後に最初に宿営した地で、カナン征服の軍事的根拠地となった。
また、後の時代には、サウル王の軍団が戦いの時に集結する場所となった。
このギルガルの地は、主がヨルダンの水を枯らし、確かにこの地を与えて下さったという、しるしの場所であり、主は必ず守り導いて下さる、という、信仰の拠り所となった場所なのだ。
聖書には、彼らが建てたような”信仰の記念碑”が多く出てくる。
アブラハムは、主があらわれて下さった場所に祭壇を建てたし、ヤコブも、夢の中で主があらわれて下さった場所の枕石を、記念に建てた。
それらは、その人自身にとって信仰のマイルストーンであり、また、子々孫々に対する信仰のあかしでもある。
『「後の日にあなたがたの子どもたちが、その父に『これらの石は、どうしたわけですか』とたずねたならば、『むかしイスラエルがこのヨルダンを、かわいた地にされて渡ったのだ』と言って、その子どもたちに知らせなければならない。すなわちあなたがたの神、主はヨルダンの水を、あなたがたのために干しからして、あなたがたを渡らせてくださった。それはあたかも、あなたがたの神、主が、われわれのために紅海を干しからして、われわれを渡らせてくださったのと同じである。
このようにされたのは、地のすべての民に、主の手に力のあることを知らせ、あなたがたの神、主をつねに恐れさせるためである」。』(ヨシュア記4:21-24)
主が為して下さった素晴らしい御業を、イスラエルの民が忘れないために、十二の記念の石をわざわざ川床へ取って来て、信仰の記念碑を建てるように命じたように、私達も、主が為して下さった御業の数々を忘れないように、記念のしるしを建てて行くべきである。
例えば、主が与えて下さった御言葉の聖書箇所に、その時の年月日と、その時の状況を簡単に書き記すなら、それも立派な信仰の記念となる。
聖書に直接書き込む事を好まない人なら、別途、ノートや日記帳を用意して、主から与えられた御言葉と、その時に主から示された事、勇気づけられた事、必要が満たされたその内容、あるいは戒められた内容などを記すなら、それは、後々に素晴らしい宝となる。
あるいは、その時その時の祈り課題を記し、それが叶えられた次第や、応えられた内容などを記すなら、それは、主との交換日記となる。
それらを後に読み返した時、気付くだろう。主は確かに自分の人生を導き、いつでも共に歩んで下さった事を。
そしてそれは、子々孫々や友人知人に対し、あるいは、自分が経験したのと同じ艱難や誘惑の只中にいる人に対して、素晴らしいあかしが出来るものとなる。
皆さんの人生には、どんな信仰の記念碑が建っているだろうか。
礼拝説教メッセージ音声:背負うべき十二の石(ヨシュア記4:1-10):右クリックで保存
主が流れを止めてくださったヨルダン川を全イスラエルが渡り終えた時、主は言われた。
『民のうちから、部族ごとにひとりずつ、合わせて十二人を選び、彼らに命じて言いなさい、『ヨルダンの中で祭司たちが足を踏みとどめたその所から、石十二を取り、それを携えて渡り、今夜あなたがたが宿る場所にすえなさい』。』(ヨシュア記4:2)
この十二人は、ひと度渡り終えた川の中に再び戻って、石を取って来なければならない。
いつ川が激流に戻るか分からないような中、戻って行く十二人も、ずっとそのまま川の中に留まっていた祭司たちも、多少の恐れはあったかもしれないが、それでも、そのようにする必要があった。
『これはあなたがたのうちに、しるしとなるであろう。後の日になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石は、どうしたわけですか』と問うならば、その時あなたがたは彼らに、むかしヨルダンの水が、主の契約の箱の前で、せきとめられたこと、すなわちその箱がヨルダンを渡った時、ヨルダンの水が、せきとめられたことを告げなければならない。こうして、それらの石は永久にイスラエルの人々の記念となるであろう」。』(ヨシュア記4:6-7)
彼らがわざわざ川床へ戻って、石を持って来なくてはならない理由は、それを子々孫々への「しるし」とするためであり、「水が、主の契約の箱の前で、せきとめられた」事を記念とするためである。
「契約の箱」、それは英語の聖書では「アーク」であり、原文では、ノアの「箱舟」と同じ単語が用いられている。
だからここは、「水が、主の箱舟の前で、せきとめられた」とも訳す事が出来る。
実際、ノアの時代も、全く同じように、死の大水は箱舟の前には無力で、箱舟の中にいた人々は、水に流される事なくいのちを長らえた。
主は、滅びの川から救い出して下さる。
『主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました。わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。』(詩篇18:2-6)
そのように主は、死の水、滅びの水がいかに押し迫ろうとも、主に信頼する人を、いつの時代でも、必ず救い出してこられた。
『イスラエルの人々はヨシュアが命じたようにし、主がヨシュアに言われたように、イスラエルの人々の部族の数にしたがって、ヨルダンの中から十二の石を取り、それを携えて渡り、彼らの宿る場所へ行って、そこにすえた。ヨシュアはまたヨルダンの中で、契約の箱をかく祭司たちが、足を踏みとどめた所に、十二の石を立てたが、今日まで、そこに残っている。箱をかく祭司たちは、主がヨシュアに命じて、民に告げさせられた事が、すべて行われてしまうまで、ヨルダンの中に立っていた。』(ヨシュア記4:8-10)
彼らが運んできた石は、担ぐほどの大きなもので、記念として残るものとなった。
現在の私達も、自らを死へと明け渡し、死のただ中から復活のしるしを”担いで”来なくてはならない。
私達が担いで行くべき復活のしるしとは、「十字架」である。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(ルカ9:23-24)
自らのしたい事を、死へと明け渡し、キリストに服従させる日々は、死の連続かもしれない。
しかし、日々、そのようにして自分の十字架を負って、主に明け渡して行くなら、必ず復活がある。
そして日々、世の何者にもまさる平安と守りと必要の満たしがあり、やがては、永遠にしぼむ事の無い栄光を受けるのだ。
パウロも、日々自分を死に明け渡し、多くのいのち達を、死からいのちへと引き戻し、信仰の記念碑を日々積み上げていった。
『兄弟たちよ。わたしたちの主キリスト・イエスにあって、わたしがあなたがたにつき持っている誇にかけて言うが、わたしは日々死んでいるのである。・・・
というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
』(1コリント15:31, 52-55)
私達も、イスラエルの12人の代表のように、パウロのように、日々背負っていくべき十字架をしっかり背負うべきだ。
その積み重ねは、信仰のしるしとなって、後に続く子々孫々へと語り継がれていくのだから。
主が敢えて不可能と思える事を指示する時(ヨシュア記3:14-17)
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- pastor 2014-6-2 18:24
礼拝説教メッセージ音声:主が敢えて不可能と思える事を指示する時(ヨシュア記3:14-17):右クリックで保存
『こうして民はヨルダンを渡ろうとして天幕をいで立ち、祭司たちは契約の箱をかき、民に先立って行ったが、箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に、――ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが、―― 上から流れくだる水はとどまって、はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりで、うず高く立ち、アラバの海すなわち塩の海の方に流れくだる水は全くせきとめられたので、民はエリコに向かって渡った。』(ヨシュア記3:14-16)
大麦の刈り入れ時期(3−4月)のヨルダン川は、ヘルモン山からの雪解け水のために、年中で最も水位が高い時期である。
水は冷たく川岸まで満ちており、流れは早い。
人は思う。
なぜよりによって、一年で最も困難な時期に?と。
別に敵が追ってくる訳でもないし、ヨルダン川のこちら側でも、既に、そこそこの良い土地を得たのに、なぜ、危険を冒してまで、向こう岸へ行かなくてはならないのだろうか?
主は、敢えて、最も困難な、最悪な状況へと導き、そして、人の目には不可能だと思えるような事を指示される時がある。
その時、信仰をもってその指示に従うならば、主は必ず御業を働かせ、人の手では100%成し得ない、大いなる事を為してくださる。
ギデオンの時は、13万5千人に対してわずか300人で勝利したし、ヨナタンの時は、戦車3万、歩兵は数え切れない程の敵に対し、わずか信仰者の二人が立ち向かい、イスラエル全体を勝利へと導いた。(1サム13-14章)
祭司が進んだのは、目の前の川の流れがせき止められたからではなく、川がまだたっぷりと水を湛えている時だった。
しかし、祭司達が足を進めて行き、足が水に浸ると、川は堰き止められたのだ。
私達は様々な見込みを計算する。
しかし、そのような「はかりごと」をとりこにして御言葉に服従させ、信じて進むならば、川は堰き止められ、障害の山は海に移るのである。
冷たい水が目の前を流れているヨルダン川へと、一歩ずつ、奥深くへと足を踏み入れて行く祭司は、恐れたかもしれない。
しかし、彼らが担いでいるのは、主の契約の箱である。彼らは、主の御言葉そのものを担いでいるのであり、人の必要を全て満たして下さる主の約束を担いでいるのであり、死からいのちへと贖いだして下さる主の御約束を担いでいるのだ。絶対に、安全なのである。
私達も、主の御言葉をかつぎ、主の約束を信頼して進み行くなら、その行く先には、祝福しか待っていないなのだ。
神様が指示をされた時、私達には二つに一つの道以外には無い。
それに従順して、祝福を勝ち取るか、それとも、従わないで呪いを受けるか。
主が「行け」と言うなら、行くべきである。それを嫌がった出エジプトの民は、荒野で40年彷徨った挙句、屍と化して、荒野に置いて行かれた。
また、主が「留まれ」と言うなら、留まるべきである。
『「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。かえって、あなたがたは言った、「否、われわれは馬に乗って、とんで行こう」と。それゆえ、あなたがたはとんで帰る。また言った、「われらは速い馬に乗ろう」と。それゆえ、あなたがたを追う者は速い。ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに/山の頂にある旗ざおのように、丘の上にある旗のようになる。』(イザヤ30:15-17)
また、滅ぼしつくせと言われたものは、滅ぼしつくさなくてはならない。もしそれをしないなら、後に学ぶアカンのように、その人自身が聖絶のものとして、持ち物も家族もろとも滅ぼし尽くされてしまう。
『だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。「もうしばらくすれば、/きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、/わたしのたましいはこれを喜ばない」。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。』(ヘブル10:35-39)
ノア - 神をなだめ平和を実現した礼拝者(創世記8章)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
かつて、ノアとその家族を除く全人類は主の御前に甚だ悪くなり、主はノアの家族と、全生物のつがいとを取って、箱舟の中にかくまい、それ以外の全生物は、全て水によって滅ぼされた。
地球全体が大いなる死の水で覆われ、その上にぽつんと浮かぶノアの箱舟はとても心もとない存在である。
その中の狭い空間に閉じこもり、外の状況は全く見えず、箱舟の内壁しか見えない状況でただじっと待つ日々は、神様に見捨てられてしまったかのように思えたかもしれないが、神は、箱舟の中で息をひそめているノアと、生き物たち全てをしっかり心を留めておられ(8:1)、地のおもてに「風(ルアッハ:息吹、霊)」を吹き巡らせ、死の水を「引かせ(シャカク:中止する、なだめる、和らげる)」られた。
いかに全地に死の水が溢れていようとも、いかに傍らに万人が倒れようとも、神は、その御心に留めておられる全ての人は、陰府に捨ておかず、復活へと導いて下さるのだ。(詩91:7,16:10)
箱舟は、第七の月の十七日に、アララテの山の上にとどまったが、この日は、キリストが復活された日と同じ日である。同じようにノアと全生物も、いわば、死からの復活を経たのだ。『あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。』と書いてある通りである。(詩篇16:10)
ノアは、鳩が持ち帰ったオリーブの若枝によって、水が地から引いたのを知り、さらに、箱舟のおおいを取り除けて、地の面が乾いた事を知ったが、彼は自分の判断で出ることはせず、主が命じられるまでは忍耐して箱舟の中にとどまり、神の命令があってから、初めて箱舟を出た。
私達も、目で見る所によって判断してはならない。救いの箱舟の扉を閉めるのは主であり、その扉を開けるのも、主ご自身である。私達も、主の命じられる時を待つべきなのだ。
ノアが箱舟から出て、新天新地へ降り立った時、一番最初に行った事は、礼拝だった。『ノアは主に祭壇を築いて、すべての清い獣と、すべての清い鳥とのうちから取って、燔祭を祭壇の上にささげた。』(20節)
彼のささげたこの礼拝は、その後の全生物にとって、とても重要な意味を持つものだった。『主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。』(21節)
彼は水という死を経、復活の後、神をなだめる全焼のいけにえによって神をなだめ、全生物を執り成した。
これは、キリストの予表である。キリストはご自分の血によってただ一度まことの聖所に入り、傷のないご自身を神に捧げ、その香りによって父なる神を完全に宥め、永遠の贖いを成し遂げた。(ヘブル9:11-15)
「神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」(9:1)
このノアへの祝福は、創世記1章の祝福に似ているが、違う所がある。1章では人の食べ物は草木だけだったのが、ノア以降は、生きて動いているものも、食物として許され、また、1章では、全生物にとって、人間は正当な支配者だったのに、ノア以降、全生物にとって、人は、恐れおののく対象となってしまった。
ノアが降り立った新世界は、洪水以前の世界と比べて、大いに違っていた事だろう。
「大空の上」の水という表現は消え、代わりに「雲」が登場するようになり、また、人の寿命はどんどん短くなり、生物にとっては、より過酷な世界となったのだろう。しかし主は、新しい希望の契約も定められた。
「わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水とは決してならない。」(9:14-15)
ノアはこうして、信仰によって箱舟を造り、多くのいのちを救って新天新地へとながらえさせ、新しい地に降り立った時には、真っ先に礼拝し、なだめの供え物を捧げて神をなだめ、平和の契約を得た。
主は、虹を見られるたびに、平和の契約を思い起こされるが、私達は忘れてはならない。
当時の世界は水によって滅んだが、今の天地は火で滅ぼされるために取っておかれ、不信心な者達が裁かれ滅ぼされる日まで、そのままにしておかれる事を。(2ペテロ3:6-7)
だから私達も、ノアのように、全ての事を礼拝によって始め、キリストにあって人々を執り成し、祈り、神から遣わされた使節として、キリストにあって神と和解する福音を宣べ伝え、多くのいのちを新天新地へと生き長らえさせる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!