メッセージ - 201407のエントリ
礼拝説教メッセージ音声:マナセ族の積極的な信仰(ヨシュア記17:1-13):右クリックで保存
ヨシュア記17章には、マナセ族への相続地の割り当てが記されている。
『マナセの部族が、くじによって獲た地は、次のとおりである。マナセはヨセフの長子であった。マナセの長子で、ギレアデの父であるマキルは、軍人であったので、ギレアデとバシャンを獲た。』(ヨシュア記17:1)
マキルは軍人であった(戦士であった)と記されているが、このマキルの子孫達が積極的にカナンの地を占領した活躍の様は、民数記に記されている。
イスラエルがまだヨルダン川を渡っていなかった時、ルベン、ガド族に相続地が先行して与えられたのを見たマナセは、それに便乗し、積極的にヨルダン川北東地域を攻め取ってそこに自分達の名をつけ、モーセ公認の元、堂々とそこを得たのだ。
『マナセの子マキルの子孫はギレアデに行って、そこを取り、その住民アモリびとを追い払ったので、モーセはギレアデをマナセの子マキルに与えてそこに住まわせた。またマナセの子ヤイルは行って村々を取り、それをハオテヤイルと名づけた。またノバは行ってケナテとその村々を取り、自分の名にしたがって、それをノバと名づけた。』(民数記32:39-42)
マナセ族は、男のみならず、女達も、主が約束された相続地を求める事に、積極的であった。
『マナセの子マキル、その子ギレアデ、その子ヘペル、その子であったゼロペハデには、女の子だけで、男の子がなかった。女の子たちの名は、マヘラ、ノア、ホグラ、ミルカ、テルザといった。彼女たちは、祭司エレアザル、ヌンの子ヨシュアおよび、つかさたちの前に進み出て、「わたしたちの兄弟と同じように、わたしたちにも、嗣業を与えよと、主はモーセに命じおきになりました」と言ったので、ヨシュアは主の命にしたがって、彼らの父の兄弟たちと同じように、彼女たちにも嗣業を与えた。』(民数記17:3-4)
彼女達は、まだヨルダン川を渡っていない時、父の世代が恐怖したカナン人が、まだヨルダン川の向こう側で跳梁跋扈していた時から、既に、自分達はその者共を追い出し、そこを勝ち取る事を前提に考えていた。
その地を勝ち得た暁には、自分達には男性の相続者がいないゆえ、相続地がもらえなのではと憂慮し、モーセや祭司達、全会衆を前にして、以下の事を主張したのだ。
「わたしたちの父は荒野で死にました。彼は、コラの仲間となって主に逆らった者どもの仲間のうちには加わりませんでした。彼は自分の罪によって死んだのですが、男の子がありませんでした。男の子がないからといって、どうしてわたしたちの父の名がその氏族のうちから削られなければならないのでしょうか。わたしたちの父の兄弟と同じように、わたしたちにも所有地を与えてください。」(民数記27:3-4)
主は、彼女たちの訴えを「もっとも」とされた。
なぜなら彼女たちの主張は、御言葉に叶っているからである。(申命記25:6)
主は、御言葉に叶った訴えは、正面から受け止めてくださるのだ。
思えば、彼女たちのようなケースは、イスラエルの中には他に多くあっただろう。
女の子が生まれる確率が1/2なら、五人子供がいる家庭のうち、五人全員が女の子である確率は、三十二家庭に一つある事になる。
イスラエルには、およそ六十万家庭あるので、その中で、女の子供しか生まれなかった家庭は、かなりの数あっただろう。
それでも、このツェロフハデと娘たちの名が、永遠の書物・聖書に記されたのは、彼女たちは信仰を持って進み出て、主に期待したからであり、その他多くは、期待もせず、勇気をもって訴え出もしなかったのだ。
「主から頂けない」などと言って泣き寝入りしてはならない。
間違った「謙遜」に陥ってはならない。
主はどうせ聞いて下さらない、主は蒔かない所から刈り取りをなさる方だなどと、ねじ曲がった神観を持ってはならない。
期待しない事、ねじまがった神観を持つ事は、罪であり、主はそのような人の持っているものを取り上げ、信仰をもって進み出る人に与えられる。(マタイ25:14-30)
彼女たちは、親の世代の罪の故に、荒野での放浪に四十年間付き合わされるはめになってしまった。
同じように私達も、親や同僚、上司などの罪で、とばっちりを喰らってしまうことがある。
それでも主の約束を保ち続け、それを盾にとって進み出るなら、主はいずれ豊かに報いてくださるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:エフライム族への相続地(ヨシュア記16:1-10):右クリックで保存
ヨシュア記16-17章は、ヨセフ族の二部族への相続地の割り当てが記されており、エフライム族への割り当ては16章に、マナセ族への割り当てが17章に記されている。
ヨセフ族は、父イスラエル(ヤコブ)の祝福の故に、エフライム・マナセの二部族へと枝分かれして行った。
その祝福の次第は、創世記に記されている。
『イスラエルはヨセフの子らを見て言った、「これはだれですか」。ヨセフは父に言った、「神がここでわたしにくださった子どもです」。父は言った、「彼らをわたしの所に連れてきて、わたしに祝福させてください」。』(創世記48:8)
父イスラエルがヨセフの子達を祝福してくれる、というので、彼としては、長男のマナセに、より大きな祝福を与えたいので、マナセを父の右手側、エフライムを左手側に連れて来たのだが、父イスラエルは、意外な行動を取った。
『すると、イスラエルは右の手を伸べて弟エフライムの頭に置き、左の手をマナセの頭に置いた。マナセは長子であるが、ことさらそのように手を置いたのである。』(創世記48:14)
右手は力や権力をあらわすため、普通なら長男を右手で祝福するものだが、父イスラエルはわざわざ手を交差させ、意図的に、長男マナセを左手で、次男エフライムを右手で祝福したのだ。
父イスラエルは、弟のほうが兄よりも祝福されるという自分の人生経験から、そのようにしたのかもしれない。
しかし、その後の歴史は、彼が祝福した通りに、エフライムのほうがマナセよりも祝福されたかというと、そうでもなかった。
民数記には、イスラエルの人口調査の記録が、二回あり、一回目は、エジプトを出たばかりの時に行われ、二回目は、それからおよそ四十年を経た後、約束の地カナンに攻め込む直前に行われた。
その第一回目の人口調査では、マナセ部族は32200人、エフライム部族は40500人で、ヤコブの祝福どおり、エフライムのほうが多かった。
しかし、二回目の人口調査(26章)では人数は逆転し、マナセ部族は52700人、エフライム部族は32500人である。
エフライム部族の数は、12部族中、ワースト2位になってしまった程に、その四十年で減ってしまったのだ。
このように、親からより優れた祝福や預言をせっかくいただいていたのに、主の御声を軽んじ、御言葉に反して、身勝手に生きるとしたなら、主は、その与えようとしていた祝福を取り上げ、別の人にその祝福を移してしまうのだ。
確かに、親が祝福する事・牧師が祝福する事には、大きな意義がある。しかし、その人がその祝福の実体を受けるかどうかは、結局、本人次第なのだ。
『このほかにマナセの子孫の嗣業のうちにも、エフライムの子孫のために分け与えられた町々があって、そのすべての町々と、それに属する村々を獲た。』(ヨシュア記16:9)
マナセの嗣業(相続地)の内に、エフライムのために分けられた町々がある、、、実際、聖書地図を見ると、エフライムの相続地は、ヨルダン川西側のマナセ族の土地の下方に、ちょこんと付け足されたような形で、存在している。
また、聖書地図などを見ると気付くと思うが、イスラエル12部族全体への相続地は、面積的にはユダ族とマナセ族だけで、半分以上が占められて、その他の部族への割り当ては、それに比べて遥かに狭いのだ。
なぜこんなにも、相続地の広さに格差があるのか。
それは、前回学んだ通り、主が与えて下さる相続は、御約束を望み見て、積極的に攻め取る者が多くを勝ち得るものなのだ。
ユダ族やマナセ族は、相続地を積極的に攻めに行って多くを勝ち得たが、エフライムや他の部族は、積極的に攻めに行った記録は、特に無い。
私達がやがて相続する天の国も、同じである。
地上で生きている間、霊的に積極的に攻めて行かない者には、わずかな割り当てしか与えられず、積極的に攻めに行く者には、多くが与えられるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:多くを勝ち得たユダ族(ヨシュア記15:1-63):右クリックで保存
ヨシュア記中、もっとも節数の多い15章は、ユダ族への相続地の明細である。
1-12節には相続地の範囲が、13-19節にはカレブとオテニエルについての挿話が、20節から63節までは、勝ち得た町々・村々のリストが記されており、その100を超える地名のリストが延々と続くので、読むのも一苦労だが、それだけユダ族は多くの戦いを積極的に仕掛け、勝ち得たリストを読み上げるのが大変な程、分捕って来たわけである。
ユダ族が積極的に多くを勝ち取って行くの様は、彼らの父祖・ヤコブが預言した通りである。
『ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。あなたの手は敵のくびを押え、/父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。ユダは、ししの子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。彼は雄じしのようにうずくまり、/雌じしのように身を伏せる。だれがこれを起すことができよう。つえはユダを離れず、/立法者のつえはその足の間を離れることなく、/シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。』(創世記49:8-10)
ユダ族を、このように獅子のように攻め入って勝ち取るよう導いたのは、カレブである。
カレブは、45年来憧れてきた領地をヨシュアに求め、彼が信じた通りに見事勝ち取り、アブラハムゆかりの良き地・ヘブロンを得たが、その地へと侵入した彼は、さらに他をけしかけて、積極的に分捕るスピリットを奮い立たせている。
『カレブは言った、「キリアテ・セペルを撃って、これを取る者には、わたしの娘アクサを妻として与えるであろう」。ケナズの子で、カレブの弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを、妻として彼に与えた。』(ヨシュア記15:16)
ここでオテニエルは、単にその地を勝ち取ってカレブの娘を得たばかりではない。
彼はさらにカレブの娘をけしかけ、さらに求めている。
『彼女がとつぐ時、畑を父に求めるようにと、オテニエルに勧められた。そして彼女が、ろばから降りたので、カレブは彼女に、何を望むのかとたずねた。彼女は答えて言った、「わたしに贈り物をください。あなたはネゲブの地に、わたしをやられるのですから、泉をもください」。カレブは彼女に上の泉と下の泉とを与えた。』(ヨシュア記15:18)
ここでオテニエルが彼女に求めさせたのは、「畑(KJV: a field、一つの畑)」であったが、彼女は、一つの畑どころか、「泉(KJV: springs of water:数々の泉)」を父カレブに求め、そうして見事、上の泉と下の泉とを彼らは得た。
世の滅ぼし尽くすべき物をむさぼったり、手に入れてはならない隣人の物をほしがる事は、律法で禁じられているが、私達は御言葉につながっているなら、御言葉が約束している祝福を求めるべきであり、また、主が与えると約束して下さったものは、どんどん求めて良いのである。
『あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。』(ヨハネ15:7)
ユダ族は、次の御言葉をよく体現した一族であると言えるだろう。
『バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。』(マタイ11:12)
現代を生きる私達も、同じである。
天の御国の良きものは、ユダ族のように、激しく襲って奪う者にこそ、沢山与えられるのだ。
主は、地上のものや、罪深きものを貪欲に追求する事を、忌み嫌われる。
しかし、神の国の事柄に関しては、大いに主に求め続けるよう、聖書では推奨されている。
『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。・・・このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。』(マタイ7:7-11)
『イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた。ところが、その同じ町にひとりのやもめがいて、彼のもとにたびたびきて、『どうぞ、わたしを訴える者をさばいて、わたしを守ってください』と願いつづけた。彼はしばらくの間きき入れないでいたが、そののち、心のうちで考えた、『わたしは神をも恐れず、人を人とも思わないが、このやもめがわたしに面倒をかけるから、彼女のためになる裁判をしてやろう。そしたら、絶えずやってきてわたしを悩ますことがなくなるだろう』」。
そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。』(ルカ18:1-8)
ヨシュア記のこの章の、分捕った地のリストを全部読み上げるのは、ちょっと大変であるが、私達もユダ族のように、積極的に主に求め、勝ち取り、得たもののリストを読み上げるのが少し大変になる程、多くを勝ち得たいものである。
ロト - 祝福のおこぼれにあずかっていた人(創世記13章)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
今回は、アブラムの甥であるロトという人物について見て行きたい。
ロトの父であり、アブラムの兄弟であるハランは、他の兄弟に先んじて息子・娘たちを生み、そして早くしてカルデヤのウルで死んだ。ロトの祖父であり、アブラムの父であるテラがカナンを目指すためにウルを出た時には、ロトもアブラムと共に同行し、テラがカランに留まってカナンへの歩みをやめてしまった時には、ロトはテラの元を離れて、アブラムと共にカナンの地へと行った。
カナンに到着した時には、彼もアブラムと共に礼拝したであろうし、共に主の御名によって祈ったろう。
アブラムのような主の召命はロトには無かったが、アブラムと行動を共にした結果、ロトも祝福を受けたのだ。
たとえ祝福を受ける器ではなくとも、ちゃっかりと祝福にあずかれる人がいる。それは、ロトのように、主に祝福されている人について行って、共に交わり、共に主の御名を呼び、共に礼拝する事である。
アブラム達はエジプトに行って、信仰的には失敗を経験したが、金銀や家畜は非常に多くなって戻った。
このエジプトで得た多くの富は、実は、後にロトにとって罠となり、また、アブラムにとっても罠となってしまう。
とにかくカナンに帰った彼らは、初心に返り、当初、祭壇を築いて礼拝した場所へ戻って、改めて主の御名を呼んで礼拝した。アブラムは今回の失敗で、ますます謙虚に、柔和な者となったようである(後述)。
ロトも、アブラムに勝るとも劣らない物持ちとなったが、互いの持ち物が増えるにつれ、それぞれの家畜を飼う者たちの間に争いが起きはじめた。このような場合、互いが自分の権利を主張し喧嘩別れになる事が多いが、アブラムは身内同士で争いが起こるくらいなら、いっそ離れたほうが良いと考え、ロトに提言する。
「あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう。」(9節)
彼らのいるパレスチナ地方は水が貴重であるため、水のある所を所有できるかどうかは死活問題であった。
本来、目上であるアブラムの方が、目下であるロトに「あなたがあちらに行け」と指示できるはずなのに、彼は一切主張せず、自己義を押し通さず、文句を言わず、自分の事は全てを祝福して下さる主に委ねた。
柔和な者は幸いである、その人は地を受け継ぐ(マタイ5:5)という御言葉の通り、結局、地を相続する者は、最終的にはアブラムのような柔和な人、平和の人なのだ。
『ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた・・・ ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。』(創世記13:10-13)
ロトが住む所を選んだ基準は、主の約束よりも自分の「目」の判断を重要視し、主の御旨がそこにあるかどうか、霊的に清いかどうかよりも、そこが物質的に潤っているかどうか、栄えているかどうかであった。
それに対し、アブラムは、主が「この地を子孫に与える」と約束しておられた地を、離れなかった。
こうしてロトはアブラムと別れたが、実は、アブラムと分かれる直前が、ロトにとって祝福のピークであった。
後の彼は、霊的にも、財産的にも、どんどん落ちぶれて行ってしまう。
当初のロトのように、主に祝福されている人と共に行動し、共に礼拝し、共に主の御名を呼び求めるなら、確かに祝福のおこぼれにあずかれるが、後のロトのように、世の栄えに目を向け、主の約束よりも自分の好む事を優先させ、主の交わりから離れてしまうと、とたんに、人生の奈落を転げ落ちて行く。
故郷を出て、異郷の地を放浪していたアブラムは、ついに最後の血縁・ロトと別れた。長らく一緒に行動して来たロトと別れたアブラムは、どれほど悲しく心細かった事だろう。しかし、ロトと別れた直後、アブラムに主が現れ、よりバージョンアップしより具体化した祝福の約束が与えられた。(14-18節)
そこでアブラムは、ヘブロンへと天幕を移し、そこで主のために祭壇を築いて礼拝した。
ロトがいなくなった事は、確かに悲しい事だったかもしれない。しかしそれは、アブラムにとって、実は幸いだった。争いの元が無くなり、また、主の約束よりも世の享楽や自分の好む事を優先させる者がいなくなったため、その礼拝はより純化し、より御声が具体的に、より深く聞けるようになったからだ。
主の約束を堅く握りしめ、祝福の交わりから離れず、より高度な祝福にあずかる皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:45年憧れ続けた地を得たカレブ(ヨシュア記14:6-15):右クリックで保存
14章後半は、ユダ族がヘブロンの地を勝ち得た際の逸話が記されている。
『時に、ユダの人々がギルガルのヨシュアの所にきて、ケニズびとエフンネの子カレブが、ヨシュアに言った、「主がカデシ・バルネアで、あなたとわたしとについて、神の人モーセに言われたことを、あなたはごぞんじです。』(ヨシュア記14:6)
カレブを覚えているだろうか。
彼はこの45年前の若かりし頃、ヨシュアと共に12人の斥候の一人としてカデシュ・バルネアから遣わされ、彼らが今いるこのカナンの地を偵察し、信仰をもって「是非とも攻め入るべきだ」とモーセとイスラエルの民に進言した者である。
彼も、確かにその地に住む民が強いのを見た。
町々は堅固で大きく、アナクの子孫がいるのも、カレブは見たが、主が共におられるなら、そんなものは恐れる必要はなく、むしろ、その者共はえじきとなって、自分達はこの素晴らしい乳と蜜の流れている良き地を受け継ぐことが出来るのだ、と、ヨシュアと共に胸躍ったものだ。
『そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。』(民数記13:30)
ところが、カレブがこの地を勝ち得るまでに、あと45年も待たねばならなかった。
それは、民の不信仰の故である。
45年前、他の民は、この地の住人は強いという報告を聞いて、弱気になってしまった。
『「ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。この荒野で死んでいたらよかったのに。なにゆえ、主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされるのであろうか。エジプトに帰る方が、むしろ良いではないか」。彼らは互に言った、「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。』(民数記14:3-4)
モーセとアロンは、イスラエル六十万全部が、なし崩し的に弱気へと、不信仰へと落ち込んで行くのを見て、ひれ伏して主に執り成し、ヨシュアとカレブは、なお必死に説得し訴えたが、民は彼らを石打にしようとした。
その時、主の臨在が現れ、介入が入り、その地について悪く言いふらした者達は主に打たれ、不信仰に陥った民六十万には、約束の地には入れず、荒野で死んでしまう事と、40年で荒野の放浪とが確定してしまった。
しかし、信仰を貫き通したカレブは、その地を継ぐ事ができると、約束された。
『わたしの栄光と、わたしがエジプトと荒野で行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞きしたがわなかった人々はひとりも、わたしがかつて彼らの先祖たちに与えると誓った地を見ないであろう。またわたしを侮った人々も、それを見ないであろう。ただし、わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう。彼の子孫はそれを所有するにいたるであろう。』(民数記14:22-24)
あれから45年経、85歳になったカレブは、40歳の当時と変わらぬ生気と力を湛えてヨシュアの前に現れた。
『主がこの言葉をモーセに語られた時からこのかた、イスラエルが荒野に歩んだ四十五年の間、主は言われたように、わたしを生きながらえさせてくださいました。わたしは今日すでに八十五歳ですが、今もなお、モーセがわたしをつかわした日のように、健やかです。わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな働きにも、戦いにも堪えることができます。』(ヨシュア記14:10)
主に信頼し、主と共に歩む者は、わしのように若々しく、新たにされるのだ。(詩篇103:5、イザヤ40:31)
私達の信仰の父であるアブラハムも、100歳の時に子が生まれたし、また、私達の信仰の母であるサラも、90歳の時に子を産む力が与えられ、異邦の王アビメレクに召し入れられてしまう程に美貌も取り戻した。
モーセが主に召しだされたのも、80歳の時で、彼は120歳まで目がかすまず、気力も衰えなかった。
天声の聖徒の中にも、以前より若々しくなった姉妹達もいるし、白髪が後退して黒髪になった聖徒も、髪の毛が増えた聖徒もいる。
『それで主があの日語られたこの山地を、どうか今、わたしにください。・・・主がわたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを追い払うことができるでしょう。』(ヨシュア記14:12)
カレブは、45年間、ずっと憧れて来たあの山地を、今こそ下さい、と、ヨシュアに願い出た。
『そこでヨシュアはエフンネの子カレブを祝福し、ヘブロンを彼に与えて嗣業とさせた。』(同13節)
ヨシュアはそれを祝福し(ほめ称え)、そこを彼のものであると、宣言した。
ヨシュアが宣言した時点で、ヘブロンのアナク人が一斉に倒れた訳ではない。
カレブはその言葉を頂いたら、実際に行動したのだ。
武装し、信仰をもってその地へと出向いて、アナク人を追い払い、勝利したのだ。
キリストにある神の聖徒が、この地上で主イエスの名によって宣言した事は、天においても繋がれており(マタイ18:18)、その宣言された真理を実体化するためには、信仰に基づく行動が必要なのだ。
『こうしてヘブロンは、ケニズびとエフンネの子カレブの嗣業となって、今日に至っている。彼が全くイスラエルの神、主に従ったからである。ヘブロンの名は、もとはキリアテ・アルバといった。アルバは、アナキびとのうちの、最も大いなる人であった。こうしてこの地に戦争はやんだ。』(ヨシュア記14:14-15)
主の約束を信じて行動するなら、いかに85歳の老人であっても、2〜3メートル級の巨人の軍隊を相手に戦って勝利し、いかに紅顔の少年であっても、3メートル近いゴリアテを相手に、石一つで勝利するのだ。
『神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を安全にされました。神はわたしの足をめじかの足のようにされ、わたしを高い所に安全に立たせ、わたしの手を戦いに慣らされたので、わたしの腕は青銅の弓をもひくことができます。』(詩篇18:32-34)
『わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。』(ピリピ4:13)
主は、信じて行動する私達には、鷲のように若くして下さり、青銅の弓をも引く力も与え、サラのように、女としての力と美貌を与えて下さる事のできるお方なのだ。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
鹿が水を慕いあえぐように、主を慕いあえぐ(詩篇42篇):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
天国は激しく求める者のもの(マタイ11:1-15):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
人の愚かさに目を留める事の愚かさ(伝道者の書7:21-25):右クリックで保存
【概要】
人の愚かさを見つめるのではなく、神の真実と愛に目を向けることの大切さを説く。
【聖書箇所】
伝道者の書7章21-25節
コリント人への手紙第一13章4-7節
【戒めの言葉】
人の語る言葉にいちいち心を止めてはならない。
【勧めの言葉】
神の真実と愛にのみ目を向け、それを見つめ続けることで、人の愚かさに対する正しい対処が身につく。
【***詳細***】
今日の箇所は、伝道者の書7章21-25節です。
「人の語る言葉にいちいち心を止めてはならない。あなたの下僕があなたを呪うのを聞かないためだ。あなた自身も他人を何度も呪ったことを知っているからだ。私はこれらの一切の知恵によって試み、そして言った。『私は知恵あるものになりたい』と。しかし、それは私の遠く及ばないことだった。今あることは、遠くて非常に深い。誰がそれを見極めることができよう。私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、探し求めた。私は、愚かな者の悪行と、狂った者の愚かさを、学び取ろうとした。」
人には何も、人を見つめても、何も良いものは見つかりません。ただ、愚かさと悪行とが目につくばかりです。そして神にこそ目を向けるとき、私たちは平安が与えられ、また清められ、有益なものになっていきます。
人のことをじっと見つめると、人の悪い点ばかり目についてしまうものです。なぜなら、人はすべて不完全であり、罪を負うものだからです。そしてある程度の愚かさがあるからです。人のことをじっと目を凝らして、どこかに間違いがないかと探すとき、まず自分自身がそのように目を凝らして、自分自身が良くないことをしていることにまず気づくべきです。そしてそのようなことをしていると、自分自身がどんどん汚れていってしまいます。
ソロモンは、「私は知恵あるものになりたい」と求めておりました。しかし、それは彼の遠く及ばないことだったと書いております。ソロモンは、人類史上誰よりも知恵あるものとなることはできたのですが、でもそれでも、それは彼の遠く及ばないことだったと言っています。
ソロモンは、良いことも悪いことも、低めて全部、何でもかんでも、知恵を持って見極めようとしました。この世界の知恵。そして、ソロモンは非常に造詣が深かったのです。岩とか鉱物とか、またそれに入る動物の類から、全ての種類の生き物や、また物、それら全てについて知識が深かったのです。またそればかりでなく、正しく裁判をすることにおいても知恵が深かったのですが、同時に人の愚かさもまた、よく知ろうとしたのです。
ここに過ちの原因があります。「愚かな者の悪行と、狂った者の愚かさを学び取ろうとした。」これが、ソロモンが間違いに陥った、そもそもの原因です。愚かな者の悪行をつぶさに見て、じっと見て、調査して、それを分析して、この人はこれこれ、そういう風に見定めようとしたのです。
現在を生きる私たちも、誰か人のことをじっと見つめて、この人の愚かさを学び取ろうとすると、その人自身が愚かになってしまうのです。人間というのは、人間の愚かさ、他人の愚かさ、また罪に対して無防備なのです。何の力もありません。
ソロモンは知恵ある者になりたいと願いました。しかしそれは、彼の遠く及ばないことだったと言っております。それは、人は有限な存在だからです。他人の愚かさを見極めようとしても、見極めようとしたらどうしても嫌な気分が湧いて出てしまう。嫌な感覚になってしまう。
では、知恵を身につけるためにはどうすればよいのでしょうか。人の愚かさに対抗するために、人の愚かさをじっと見て分析することは最も良くない方法です。むしろ私たちが身につけるべきは、人の愚かさではなく、神の真実です。神の真実にのみ目を向けてじっと見つめているならば、人の愚かさに対する対処も自然と身についてくるのです。
偽札捜査官の例を考えてみましょう。彼らは偽札を見極めるために、膨大な量の偽札を調べたりはしません。むしろ本物だけをじっくりと見つめるのです。本物だけをじっくりと、手にとって、手触りを感じ、色を見極め、その細部まで観察します。本物ばかりをじっくりと見つめることで、偽物が来た時にすぐにわかるのです。
私たちも同じです。聖書という本物をじっくりと見つめ、味わい、その一節一節に隠されている思いや感情を読み取ろうとすることが大切です。神様はどんな思いを私たちに込めておられるのか、どんなことを今日私に示しておられるのかを考えながら、じっくりと一節一節を見ていくうちに命が増え、広がっていくのです。そして、本物の感覚を身につけていくのです。
人の愚かさが来た時、それに心を乱されるのではなく、イエス様がどのようなお方であったのかに目を向けるべきです。イエス様は罪人の悪行をしのばれました。罵られても罵り返さず、ただすべて正当に裁いてくださる主にお委ねしました。
コリント人への手紙第一13章4-7節を見てみましょう。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
これが愛の性質です。私たちがもし知恵あるものになりたいと思うのであれば、ソロモンのように愚かさを身につけようとするのではなく、この愛を求めるべきです。
【結論】
人の愚かさや悪行に目を留めるのではなく、神の真実と完全なる愛に目を向けましょう。そうすることで、私たち自身が汚れから離れ、主の真実に向かって進み、ますます主イエス様の姿へと作り変えられていくのです。