メッセージ - 201407のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:連戦連勝の理由(ヨシュア記10:28-43):右クリックで保存

28節から39節までは、「ヨシュア達は**の町を攻め寄せ、主がそこを手に渡されたので全ての住人を聖絶した」といった記述が7回続き、じつに、とんとん拍子に勝ち進んで行った事がわかる。
行く町々を聖絶していく、というのは、残酷なように思えるかもしれないが、一体なぜ神は、こんなにもイスラエルに味方し、徹底的にこの地の住人を滅ぼさせたのだろうか。

ヨシュア記の戦いは、力づくで他国を自分色に塗り替えたり、富や利権を分捕ったり、欲しいままに略奪したり殺したりして、所有欲や破壊欲を満足させるような「世の戦争」とは、全く違う。
主が「約束の地」「乳と蜜の流れる地」と示した地は、主の御心が常に注がれている地であるにもかかわらず、その地に住んだ住人は、端から端まで暴虐や不品行に満ちており、その町々の叫びは天にまで届き、ついにのそ悪は、主の憐れみの目盛りを超えてしまったために、主は、イスラエルの民を用いて、その地の悪い者達を滅ぼされたのだ。(創世記15:16、申命記9:4)

『あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。』(申命記7:6)
主は、主の民を「聖なる民」「自分の宝の民」とされた。
聖なる主の宝の民であるからには、先住民がそこで行っていた汚れに染まってはならず、その痕跡を、残してはならなかったのだ。
それはキリストにある私達も同じであり、以前の暗闇の生き方を捨て去るべきだ。

私達の内から滅ぼし尽くすべきものは、肢体に宿る、主に敵対する欲望である。
『地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。』(コロサイ3:5-6)

私達の内に巣食う、とめどもない情欲や、頑固に定着してしまった罪深い行動パターンを見るに、これらと戦っても、絶対にかないそうにない、と思うかもしれない。
ちょうど、イスラエルの民が当初、先住民を見て「絶対かなわない」と、しりごみしたように。
しかし、私達がまことのヨシュア(イエシュア)であるイエス様に従順し、その御声に聞き従い続けるなら、御霊が働いて下さり、私達の内に巣食う情欲や不品行などを殺し、今まで自分には到底入れなかったような、きよい、安息の領域へと、やすやすと入って行けるのである。
「もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:13)

私達の人生の中に巣食って来た邪悪な強敵、不品行と暴虐の”カナン人”を打ち取るためには、私達自身も自ら信仰の戦いに参加する必要がある。
ちょうど、ヨシュア達の軍隊が、剣を実際に手に取り、敵陣へと足を用いて走って行ったように。
御言葉に聞き従って行動を起こすなら、敵陣に石を降らせ、太陽や月の動きを止めてまで、イスラエルに味方して下さった主が、私達にも味方して下さり、私達の内外で苦しめて来た邪悪な”カナン人”と戦って、勝利して下さるのだ。

『イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたので、ヨシュアはこれらすべての王たちと、その地をいちどきに取った。』(ヨシュア記10:42)
ヨシュア記10章の快進撃を読んでいると、とても弱い敵と戦っていたかのように見えるが、決してそうではない。
これら7つの民は、イスラエルよりも数多く、強かったし、実際に40年前、彼らの父の世代は「こんな強い民とは戦えない」と恐れ、夜通し泣き明かし、エジプトに帰ろうとまで言い出した程だった。
しかし、父たちの世代があんなに恐れたカデシュ・バルネア以北の国々は、いとも簡単に制圧された。
それは「イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われた」(42節)おかげである。

『そしてヨシュアはイスラエルのすべての人を率いて、ギルガルの陣営に帰った。』(ヨシュア記10:43)
このギルガルは、主がヨルダンの水を枯らして下さった所を、ヨシュア達が渡って最初に降り立った地であり、そこには、川底から持ってきた12の石の記念碑が建てられている。
そして、40年来、無割礼だった状態を脱却し、割礼を受けて、肉を切り捨てた所であり、最初の過越祭を祝った地でもある。
ギルガルはいわば、信仰の原点の地である。

主が大勝利させて下さった後、彼らは勝利に浮かれる事なく、分捕りに奔走してむさぼる事なく、すぐに信仰の原点へと帰ったのだ。
私達も、大勝利した直後こそ、初心に帰るべきである。

礼拝説教メッセージ音声:敵を足の下に踏ませて下さる主(ヨシュア記10:16-27):右クリックで保存

今回の戦いは、主ご自身が直接戦って下さり、敵の上に石を降らせて下さったばかりでなく、地球まで動かして、敵を追撃する事を助けて下さった。
敵にとってはさんざんな、味方にとってはまことに頼もしく喜ばしい戦いだったろう。

『かの五人の王たちは逃げて行って、マッケダのほら穴に隠れたが、五人の王たちがマッケダのほら穴にかくれているのが見つかったと、ヨシュアに告げる者があったので、ヨシュアは言った、「ほら穴の口に大石をころがし、そのそばに人を置いて、守らせなさい。ただし、あなたがたは、そこにとどまらないで、敵のあとを追い、そのしんがりを撃ち、彼らをその町にはいらせてはならない。あなたがたの神、主が彼らをあなたがたの手に渡されたからである」。』(ヨシュア記10:16-19)

この戦いは、敵の王将を討ち取れば、それで終わり、というものではない。
主の命令は、元々、この地の者達を聖絶し、邪悪な神々の像を破壊し尽くして、平定する事にある。
だからヨシュアは、その王達はそこに閉じ込めておき、他の皆で残りの敵を追撃するようにと命じたのだ。

この戦いの始まりは元々、偽って同盟を結んできたギブオン人が「襲われているので助けて欲しい」と嘆願して来たのが発端で、イスラエル人からすれば、なんでギブオン人なんかのために、という思いもあったかもしれない。
また、ギルアデからギブオンまでの、およそ35kmの道のりを、夜通し急行して戦い、しかも、太陽は一昼夜沈まず、その間もずっと戦っていたため、彼らには確かに疲れはあったかもしれないが、彼らは倒れる事は無かった。
何より、地球の動きを止めてしまう程の偉大な主が、自分達を助けて下さるためにそれを為して下さり、その主が味方となって戦って下さるとは、どれ程の栄誉、どれ程の幸いだろうか。
私達は、日々の主との歩みにおいて、そのような栄誉と幸いを、果たして感じているだろうか。

私達は、時に疲れを覚え、今為している事の働きの意味を見失ってしまうことがあるかもしれない。
「なんでこんな人のために、休まずに働かなくてはならないのか」と思える時も、あるかもしれない。
しかし、今働いている事が、神の国のための働きであり、着実に御霊の実を結び続けているのであるなら、たゆまずそれを続けるべきである。
『人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。
わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。』(ガラテヤ6:5-10)

『ヨシュアとイスラエルの人々は、大いに彼らを撃ち殺し、ついに彼らを滅ぼしつくしたが、彼らのうちのがれて生き残った者どもは、堅固な町々に逃げこんだので、民はみな安らかにマッケダの陣営のヨシュアのもとに帰ってきたが、イスラエルの人々にむかって舌を鳴らす者はひとりもなかった。』(ヨシュア記10:20-21)
一体誰が想像しただろうか。
この広大な死海西岸地域を、わずか数日で、一気に平定してしまう事を。
もはやこの戦いは、当初の、ギブオン人を助けるという小さな枠組みを超え、主の偉大な御旨を一気に成就させるためのものであり、主の栄光が一気に広まるものとなった。

『かの五人の王たち、すなわち、エルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシの王、およびエグロンの王を、ほら穴から彼のもとにひき出した。この王たちをヨシュアのもとにひき出した時、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、自分と共に行ったいくさびとの長たちに言った、「近寄って、この王たちのくびに足をかけなさい」。そこで近寄って、その王たちのくびに足をかけたので、ヨシュアは彼らに言った、「恐れおののいてはならない。強くまた雄々しくあれ。あなたがたが攻めて戦うすべての敵には、主がこのようにされるのである」。
そして後ヨシュアは彼らを撃って死なせ、五本の木にかけて、夕暮れまで木の上にさらして置いたが、日の入るころになって、ヨシュアが命じたので、これを木からおろし、彼らが隠れていたほら穴に投げ入れ、ほら穴の口に大石を置いた。これは今日まで残っている。』(ヨシュア記10:23-27)

主がイスラエルのために戦い、石を降らせ、太陽まで止めて、この5人の王に打ち勝たせ、足の下に踏ませて下さった。
イスラエル人達は、どれほど勇気づけられ、敵は、どれ程恐れおののいた事だろうか。
私達も、御言葉に従順となり、善にさとく、悪にうとくあるなら、主は速やかに、私達の足を用いて、悪しき者どもを足の下に踏ませて下さるのだ。
『あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。』(ローマ16:19)

主の敵は、どんなにおごり高ぶっていようとも、必ず滅ぼされ、主に信頼して歩む者は、驚くべき主の御力によって守られるのだ。
「全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります。」(黙示録15:3-4)

アブラム - 主と共に歩む人(創世記12:1-9)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

アブラム、後のアブラハムは、聖書の中の最重要人物の一人であり、彼は、肉においてはイスラエル民族・アラブ民族の父であり、霊的には、信仰によって救われる全ての人の父であり、信仰の父と呼ばれている。
アブラムの名は「父が高められる」という意味であり、後の名、アブラハムは「多くの国民の父」の意味である。
今回から、アブラムと、彼をとりまく周囲の人物とに焦点を当てて見て行きたい。

『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう』(創世記12:1-2)
主は、アブラムを「祝福」すると仰せられた。この1-3節に、祝福という言葉が5回も出てくる。
祝福には条件がある。すなわち、まず父の家を「出る(ハーラフ)」事、そして、主が示す地へと行く事だ。
この「(ハーラフ:歩む、歩き回る)」という語は今回の箇所(1-9節)だけで5回用いられている。(1,4,5,9節)
アブラム、すなわちアブラハムの人生について回る重要なキーワードは、「祝福」と「ハーラフ」である。

神と共に「歩む(ハーラフ)」、それは神の民の必須条件であり、祝福に必要不可欠な行動である。
アダム系図の中で、エノクとノアの二人は「神と共に歩んだ(ハーラフ)」と記されており(創世記5:22-24, 6:9)、アダム系図の中で、特に際立った信仰の持ち主であるこの二人に、共通した性質である。
主はエデンの園を「歩き回られた(ハーラフ)」(創世記3:8 )。 私達も、主と共に歩きまわるなら、そこはエデン(「歓喜の場所」という意味」)であり、たとい死の陰の谷を「歩む」としても、主と共に歩んでいるなら、そこには慰めがあり、敵の前で宴を設けられ、杯は溢れ、恵みといつくしみが追って来るのだ。(詩篇23編)
そして、アブラムに「アブラハム」という新しい名が与えられる時も、主は「ハーラフ」を命じている。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に「歩み」、全き者であれ。」(創世記17:1)
アブラムが身勝手に自分の考え・自分の力で奴隷女ハガルとの間に子供イシュマエルをもうけた後、13年もの間、霊的空白期間が続いてしまったが(創世記16:16-17:1)、いよいよアブラムの肉の力が尽き、生殖機能はもう死んだも同然の99歳の時、主が特に強調して命じられた事が、(自主的に)主の前に歩む事、全き者となる事だった。
ここの「歩み」なさいという要求には、ヘブル語の強意形ヒットパエル態(再帰態)が使われており、すなわち、自ら、主体的に、自覚的に、自発的に「歩みなさい」、と命じられているわけである。
私達も、自ら、主体的に、自覚的に、自発的に、主と共に歩もうとする事こそ、重要である。
「あなたはわたしの前に「歩み」、全き者であれ。」私達も、自発的に主と共に歩むなら、「全き者」となる。
その「全き者」とは、道徳基準における完全さの事ではない。私達は罪があり、義において完全な者など、一人もいないが、アブラハムのように、ただ信仰によって、神と共に歩む事によってのみ、「全き者」となる事が出来るのである。頑張って良い子になるよりも、神と共に歩む事こそ、主が望んでおられる事なのだ。
『だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。・・・このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。・・・律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。』(ガラテヤ3:7-11)

『アブラムは主が言われたように「いで立った」。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを「出た」時七十五歳であった。アブラムは妻サライと、弟の子ロトと、集めたすべての財産と、ハランで獲た人々とを携えてカナンに行こうとして「いで立ち」、カナンの地にきた。』(4-5節、「」内がハーラフ。)
アブラムの信仰のはじめの歩みは、神と共に「歩む」事の連続だった。失敗も当然あったが、彼は神と共に歩む道から離れなかった。それに対し、彼の父テラは、共に歩む事を途中で止めてしまった。
「テラは・・・カナンの地へ「行こうと(ハーラフ)」カルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。」(創世記11:31) 神と共に歩む事を止めてしまうと、その人にとっての「永遠の時」はそこでストップしてしまう。しかし、神と共に歩むなら、その人は永遠に生きるのだ。(黙示録21:3)
アブラハムのように主と共に歩み、主の前に全き者となり、主と共に永遠に生きる皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:宇宙をも動かしたヨシュアの祈り(ヨシュア記10:8-15):右クリックで保存

ヨシュア達からすれば、気乗りしない戦いだったかもしれないが、それでも、彼らが主の前に立てた誓いの故に行動を起こした時、主は言葉をかけて下さった。
『その時、主はヨシュアに言われた、「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手にわたしたからである。彼らのうちには、あなたに当ることのできるものは、ひとりもないであろう」。』(ヨシュア記10:8)
人が主に対して忠実に行動するなら、主はそれを全面的にバックアップして下さる。
それも、人々があっと驚くような形で。

『ヨシュアは、ギルガルから、よもすがら進みのぼって、にわかに彼らに攻めよせたところ、主は彼らを、イスラエルの前に、恐れあわてさせられたので、イスラエルはギベオンで彼らをおびただしく撃ち殺し、ベテホロンの上り坂をとおって逃げる彼らを、アゼカとマッケダまで追撃した。
彼らがイスラエルの前から逃げ走って、ベテホロンの下り坂をおりていた時、主は天から彼らの上に大石を降らし、アゼカにいたるまでもそうされたので、多くの人々が死んだ。イスラエルの人々がつるぎをもって殺したものよりも、雹に打たれて死んだもののほうが多かった。』(ヨシュア記10:9-11)

イスラエル人達が夜通しギブオンまで急行した所、主ご自身が戦って下さった。
天から雹の石を降らせる事によって。
しかも、イスラエルの人達が倒した数より、雹で打たれて死んだ数の方が多かったのだ。
あまりに出来過ぎた話であり、人はこれを「うそだ」とか「たまたまだ」と言うかもしれないが、主は、主に信頼して御言葉に従って歩む人には、自然現象を通しても、あるいは自然を超越した現象を通しても、働かれるのだ。

『主がアモリびとをイスラエルの人々にわたされた日に、ヨシュアはイスラエルの人々の前で主にむかって言った、/「日よ、ギベオンの上にとどまれ、/月よ、アヤロンの谷にやすらえ」。民がその敵を撃ち破るまで、/日はとどまり、/月は動かなかった。これはヤシャルの書にしるされているではないか。日が天の中空にとどまって、急いで没しなかったこと、おおよそ一日であった。
これより先にも、あとにも、主がこのように人の言葉を聞きいれられた日は一日もなかった。主がイスラエルのために戦われたからである。』(ヨシュア記10:12-14)

これは、聖書の中でも、最も大いなる奇跡ランキングのトップスリーに、紛れも無く入る出来事だろう。
日が沈まずにそのまま留まる、という事は、その時だけ地球の自転が停止したか、地軸が傾いて白夜のようになったか、とにかく、宇宙規模の何かが起こったわけである。
実は、この出来事は、NASAの科学者達によって、実証されている。

人工衛星を打ち上げるにあたり、過去や未来の太陽・月・惑星などの位置を計算するのだが、太陽や地球が一日の例外もなく、普通に回って来た事を前提として計算すると、どうしても、計算が合わなくなってしまうのだ。
そこで、科学者の一人が、聖書の中のこのヨシュア記から、一日太陽が沈まなかったという記述を発見して、一日太陽と月の動きが止まった事を計算に入れた所、計算結果はかなり精度が良くなったという。
しかし、まだ誤差があって、計算が合わない。
そこで、さらに聖書の記述を調べた所、ヒゼキヤの時代に、神がヒゼキヤの祈りを聞いて日時計が10度傾いた記述(2列王記20:9-11)も発見し、それも計算に代入した所、全てのつじつまがぴったり合ったというのだ。

一人の人の祈りが、地球を動かす。人はそれを到底信じられないかもしれない。
しかし神様は、人が御心に適った祈りをするなら、いかに地球を動かすような宇宙規模の内容であれ、聞いて下さるのだ。

それはひとえに、主が栄光をあらわすためである。
なぜなら、全被造物は、主の栄光のために創られているからだ。
『日よ、月よ、主をほめたたえよ。輝く星よ、みな主をほめたたえよ。いと高き天よ、天の上にある水よ、主をほめたたえよ。・・・火よ、あられよ、雪よ、霜よ、み言葉を行うあらしよ、・・・彼らをして主のみ名をほめたたえさせよ。そのみ名は高く、たぐいなく、その栄光は地と天の上にあるからである。』(詩篇148編)

私達は、太陽や月が明日も必ず上って沈む事を、何の疑いもなく信じているが、よくよく考えると、それも不思議だとは思わないだろうか。
何万年、何億年と、太陽や月が毎日、たがわず律儀に上ったり沈んだりして来たのだ。しかも、たった2回の例外を除いて。
それも、それらの例外は、ちょうどヨシュアの軍団にとって都合よく、神の民の敵に対して都合悪いタイミングに。また、ちょうどヒゼキヤが祈り願ったタイミングに。
実に不思議であるが、もっともっと不思議な事は、この地球や太陽を含む森羅万象の源であられ、それら全てを支配しておられるイエス・キリストが、こんなちっぽけな私達の内に、宿っておられる事だろう。
『その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。』(ヨハネ14:20-21)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主がお入用なのです(ルカ19:29-40):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
生まれた日と死ぬ日、どちらが勝るか(伝道者の書7:1-14):右クリックで保存

【概要】

生まれる日より死ぬ日が勝る理由と、知恵ある者の生き方について教える説教。

【聖書箇所】

伝道者の書7:1-14

【戒めの言葉】

愚かな者の笑いや楽しみを追い求めるのではなく、知恵ある者の叱責を聞くべきである。

【勧めの言葉】

日々永遠を念頭に置きながら生き、知恵を求めて歩むべきである。

【***詳細***】

今日の箇所は、伝道者の書7章1-14節です。ここで語られている重要な教えは、「良い名声は良い香油に勝る。死の日は生まれる日に勝る」という言葉に集約されています。

私たちには誰しも死ぬ日が訪れます。人生は長いと思われがちですが、その終わりの時があります。日本人の平均寿命は約80歳ですが、その長い人生の中で何をしたのかが、永遠の未来を決定する上でとても重要です。

イエス・キリストを信じた人は誰でも天国に入れるというのは真実です。しかし、イエス様を信じてからも不品行の道を歩み続けた人と、以前の行いを悔い改めて歩んだ人とでは、その終わりはまったく違います。コリント人への手紙第二や黙示録にも記されているように、私たちは地上で行ったことによって裁かれるのです。

ソロモンは「宿縁の家に行くよりは、喪中の家に行く方が良い。そこにはすべての人の終わりがあり、生きているものがそれを心に留めるようになるからだ」と述べています。死を意識して歩むことの大切さを教えているのです。

また、「知恵ある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのに勝る」とあります。私たちは二通りのタイプに分かれます。知恵ある人の叱責を聞こうとする人と、愚かな者の歌声を聞きに行く人です。皆さんは、どちらの道を選びますか?

しかし、知恵も注意が必要です。「しいたけは知恵ある者を愚かにし、マイナイは心を滅ぼす」とあります。ここでのマイナイは賄賂のことです。知恵を学んでいても、悪しき者がその知恵を取り除こうとすることがあります。また、賄賂によって心が滅ぼされることもあります。

「軽々しく心を苛立たせてはならない。苛立ちは愚かな者の胸にとどまるから」という教えもあります。怒りに駆られることは良くありません。平安であることが知恵ある人の道なのです。

「どうして昔の方が今より良かったのかと言ってはならない。このような問いは知恵によるのではない」という言葉もあります。過去を懐かしむのではなく、今を大切にし、未来をより良いものにしようと努力することが大切です。

パウロは第二テモテ4章で、自身の人生の終わりについて語っています。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは義の栄冠が私のために用意されているだけです」と述べています。私たちも、パウロのように人生の終わりに自信を持って語れるような歩みをしたいものです。

【結論】

私たちには生まれる日と死ぬ日があります。どちらが勝っているかは、その人の日々の歩みによります。生まれた日よりも死ぬ日の方が勝っていると言えるような人生を送りましょう。信仰の戦いを走り抜き、義の栄冠を受け取れるよう、日々知恵を求めて歩む者となりましょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イエス様の弟子たる者の特典(マタイ10:16-33):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
テラの性質(創世記11:31-32):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:救われた途端に来る敵からの攻撃(ヨシュア記10:1-7):右クリックで保存

『アモリびとの五人の王、すなわちエルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシの王、およびエグロンの王は兵を集め、そのすべての軍勢を率いて上ってきて、ギベオンに向かって陣を取り、それを攻めて戦った。』(ヨシュア記10:5)
ギブオン人達は、欺いた事によって曲がりなりにもイスラエルと和平を結び、神の民からは滅ぼされない、という確約を手に入れたが、早くも敵は、そのギブオンに向かって攻撃を仕掛けて来た。

罪深い不品行の者達から離れ、神の民と和平を結び、救いに入った途端、元々属していた罪深い者達から攻撃を受ける。
それは、今を生きる私達も、救われた時によく経験する事である。
キリストにあって神と和解し、暗闇の王国から神の光の王国へと救われた途端、以前属していた暗闇の勢力が歯ぎしりし、再び暗闇へ引きずり戻そうと攻撃を仕掛けて来る。
『過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない。』(1ペテロ4:3-5)

以前属していた暗闇の者達が攻撃を仕掛けて来た時は、まことのヨシュア(イエシュア)であるキリストに助けを叫び求めるべきである。
『ギベオンの人々は、ギルガルの陣営に人をつかわし、ヨシュアに言った、「あなたの手を引かないで、しもべどもを助けてください。早く、われわれの所に上ってきて、われわれを救い、助けてください。山地に住むアモリびとの王たちがみな集まって、われわれを攻めるからです。」』(ヨシュア記10:6)
ギブオン人達は、ヨシュアに助けを求めた。

イスラエルからすれば、ギブオンは元々、和を講じるつもりのないカナン人で騙された形で和を講じたので、心情的には、救いたくはなかったかもしれない。
そのギブオンが、今、敵であるカナン人によって攻め立てられている。
このまま放置して、自分達の手を汚さず厄介払いする、という選択肢も、あったかもしれない。
しかしヨシュア達はそうせず、戦士達を率いて、ギブオン人達を助けに上って行った。(7節)

ヨシュア達のいるギルガルからギブオンまでは、およそ35km、傾斜地を登って行く形となる。
骨折れる行軍であり、気が進まない戦いかもしれないが、それでもヨシュア達は、一度立てた誓いに忠実に従って、戦闘に行った。
一度立てた誓いは変えない、それが、主の民たる品性であり、性質だからである。
『主よ、あなたの幕屋にやどるべき者はだれですか、あなたの聖なる山に住むべき者はだれですか。直く歩み、義を行い、心から真実を語る者、その舌をもってそしらず、その友に悪をなさず、隣り人に対するそしりを取りあげず、その目は神に捨てられた者を卑しめ、主を恐れる者を尊び、誓った事は自分の損害になっても変えることなく、利息をとって金銭を貸すことなく、まいないを取って/罪のない者の不利をはかることをしない人である。これらの事を行う者は/とこしえに動かされることはない。』(詩篇15:1-5)

ギブオン人のように、ついこの間まで罪深い敵だったのに、だまされて、和平を結んでしまったような相手を、骨折って助けに行くのは、心が進まないだろう。
しかし、そんな人であっても、彼らが主の元に助けを求めて来るのであるなら、いくら気乗りしなくても助けるべきである。

ひと度、主の御前で約束した事が、後になって損だと思うようになり、後悔し、やりたくない役回りに奔走するような事があるかもしれない。
しかし御前で約束した事を、忠実に従う聖徒を、主は、全面的にバックアップして下さり、大いなる御業を見させて下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの中で主に守られたギブオン人達(ヨシュア記9:16-27):右クリックで保存

イスラエルの人達は、盟約を結んで3日後、実はこの者達は、盟約を結んではならないカナンのギブオン人であった事が分かった。
『長たちは皆、全会衆に言った、「われわれはイスラエルの神、主をさして彼らに誓った。それゆえ今、彼らに触れてはならない。われわれは、こうして彼らを生かしておこう。そうすれば、われわれが彼らに立てた誓いのゆえに、怒りがわれわれに臨むことはないであろう」。長たちはまた人々に「彼らを生かしておこう」と言ったので、彼らはついに、全会衆のために、たきぎを切り、水をくむものとなった。長たちが彼らに言ったとおりである。』(ヨシュア記9:19-21)

欺かれたとはいえ、イスラエルは彼らに手を出さない、と、主の御前に誓いを立ててしまった故に、彼らは手を出せなかった。
主の前で立てた誓いを翻して主の怒りが降る事を、恐れたからである。

『ヨシュアは彼らを呼び寄せて言った、「あなたがたは、われわれのうちに住みながら、なぜ『われわれはあなたがたからは遠く離れている』と言って、われわれをだましたのか。それであなたがたは今のろわれ、奴隷となってわたしの神の家のために、たきぎを切り、水をくむものが、絶えずあなたがたのうちから出るであろう」。』(ヨシュア記9:22-23)
カナン人からすれば、奴隷となる事は「呪い」に見えるかもしれない。
しかし、彼らの命は救われ、神の民の中に住む事が出来、そして、真の神の家に仕える事ができるのは、むしろ、幸いではなかろうか。

欺いてまで盟約を結んだ理由を、ギブオン人達は以下のように説明している。
「あなたの神、主がそのしもべモーセに、この地をことごとくあなたがたに与え、この地に住む民をことごとくあなたがたの前から滅ぼし去るようにと、お命じになったことを、しもべどもは明らかに伝え聞きましたので、あなたがたのゆえに、命が危いと、われわれは非常に恐れて、このことをしたのです。われわれは、今、あなたの手のうちにあります。われわれにあなたがして良いと思い、正しいと思うことをしてください。」(24-25節)

彼らは確かに「うそ」をついてイスラエルの中に入ってきた、しかし彼らがそれをしたのは、主への恐れがあったからだ。
そして彼らは、自分達の生殺与奪の権を、ヨシュア達にゆだねた。
『そこでヨシュアは、彼らにそのようにし、彼らをイスラエルの人々の手から救って殺させなかった。しかし、ヨシュアは、その日、彼らを、会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれる場所で、たきぎを切り、水をくむ者とした。これは今日までつづいている。」(26-27節)

ギブオン人は確かに、最初は「うそ」でイスラエルの中に入ってきた。
しかし彼らは、少なくとも、以前の不品行や偶像礼拝などは、捨て去ったはずだ。もしイスラエルの会衆の中で、相変わらず不品行や偶像礼拝など主の忌み嫌われる事を続けたとしたなら、誰であれ、イスラエルから即刻絶たれると律法にあるからだ。
そして彼らは日々、神の家のために、イスラエルの会衆のために奉仕をし続けた結果、良い方向へと造り変えられて行ったようだ。

主は後の時代、正当にギブオン人達の側に立って、イスラエルをさばいている。
『ダビデの世に、年また年と三年、ききんがあったので、ダビデが主に尋ねたところ、主は言われた、「サウルとその家とに、血を流した罪がある。それはかつて彼がギベオンびとを殺したためである。」そこで王はギベオンびとを召しよせた。ギベオンびとはイスラエルの子孫ではなく、アモリびとの残りであって、イスラエルの人々は彼らと誓いを立てて、その命を助けた。ところがサウルはイスラエルとユダの人々のために熱心であったので、彼らを殺そうとしたのである。』(2サムエル21:1)

神は、ヨシュアの時代に結ばれた誓いをずっと覚えておられ、手前勝手な熱心によって盟約違反をしたサウル王をさばき、ギブオン人をかばった。
主に対して忠実な者は、ギブオン人であれ、誰であれ、主はかばって下さり、その忠実な人を害した者は、いかにイスラエルの王であっても、主は害する。

『ダビデはギベオンびとに言った、「わたしはあなたがたのために、何をすればよいのですか。どんな償いをすれば、あなたがたは主の嗣業を祝福するのですか」。』(2サムエル21:3)
ダビデ王は、このききんの原因が、ギブオン人による、主に対する叫びが元であったと判明したので、「どんな償いをすれば、あなたがたは主の嗣業を祝福するのですか」と、丁重にギブオン人に聞いている。
『ギベオンびとは彼に言った、「これはわれわれと、サウルまたはその家との間の金銀の問題ではありません。またイスラエルのうちのひとりでも、われわれが殺そうというのでもありません」。・・・「われわれを滅ぼした人、われわれを滅ぼしてイスラエルの領域のどこにもおらせないようにと、たくらんだ人、その人の子孫七人を引き渡してください。われわれは主の山にあるギベオンで、彼らを主の前に木にかけましょう」。王は言った、「引き渡しましょう」。』(2サムエル記21:4-6)

ギブオン人達は、金銀のつぐないを求めるではなく、命に対して命を取る事を求めるのでもなく、「主の山にあるギベオンで、彼らを主の前に木にかけましょう」と、あくまで「主」の問題である事を言っている。
ここに、彼らの主に対する信仰が、いかにイスラエルの中で培われたかを見ることができる。
だから、この時代に至るまで彼らはイスラエルの中で守られ、主から、正当なさばきを行使していただけたのだ。

キリスト者の中にも、はじめは「うそ」をついて、教会の集まりへと入ってくる人はいる。
表向きは信仰を装っておきながら、実は、外国人と会話がしたいとか、教会の中の女性が目当てだとか。
しかし、最初の動機がどうあれ、教会のために、聖徒のために奉仕をしていく内に、きよい性質へと造り変えられ、真に救われて行く人は多い。
重要なのは以前の事ではなく、主の交わりの中において、いかに以前の邪悪な性質を捨て去り、いかに主への奉仕を忠実に行ったか、である。

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