メッセージ - 201408のエントリ

ハガル - サライの女奴隷(創世記16:1-16)
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前回の箇所で、主はアブラムの子孫を、空の星のように数多くすると仰せられ、燃える炉として現れてその約束の確かな事を示されたが、それでも、すぐに子が与えられる、というわけではなかった。
主ははっきりと「あなたから生まれる子がこの地を継ぐ」と仰せられたのに、中々子が与えられない。
サライはその事に焦りを感じたのか、女奴隷を自分の身代わりとして主人に子を産ませ、それを正妻の子としようという”当時の風習”を用いて、神の未だ成就されていない約束を「こじつけ」的に補完しようと提案した。アブラムは、サライのその提案に、乗ってしまった。
神の言葉に身勝手な解釈を施し、それを夫に薦めて、夫の方は、神より妻の声を優先させてしまう。
ここにアダムとエバの失敗と同じパターンを見る。このパターンは、後々、苦い根が長くつきまとうものだ。

サライは「たぶん」と言った。世では皆もやっているからと、軽く考え、それがいかに主の力を無視する行為か、また、実際ハガルが身ごもった時、自分がどんな惨めになるか、あまり考えていなかったかもしれない。
実際、女奴隷ハガルは、すぐに身ごもった。そしてハガルは、女主人であるサライを見下げるようになった。
サライは、女として、若さや子を宿す力など多くの面で、ハガルに劣っている事が、浮き彫りにされてしまい、ますます惨めになってしまった。彼女は、世の解決法に従って行動してしまった結果、世の価値基準に従って嘲られ、世の側から見下げられてしまったのだ。
自分由来の何かに頼る事を「肉のわざ」と言うが、彼女がそれに頼った結果、「ねたみ、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い」という肉の実(ガラテヤ5:19-21)が見事、結ばれてしまったのだ。
御国の子らが、御国の方法を退け、世の方法・肉の方法に服従するなら、やがてはそれによって見下げられ嘲られてしまうものだ。世の子らは、世の事については、光の子らよりも抜けめがないからだ。(ルカ16:8)
サライは言った。『わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見下げます。』(5節)
サライが考案して勧めておきながら、アブラムのせいにするのは不当と思うかもしれないが、確かに彼にも責任がある。妻が御言葉を「超」解釈して薦めてきたなら、主人たる者は、御言葉を根拠に妻をたしなめなくてはならないし、また、女奴隷が正妻を押しのけるような「管理不行き届き」は、容認すべきでない。
『 アブラムはサライに言った、「あなたのつかえめはあなたの手のうちにある。あなたの好きなように彼女にしなさい」。そしてサライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた。』(6節)
アブラムが受胎を聞いた時は、彼には喜びだったかもしれない。しかし、肉に由来する幸いは、ほんのつかの間であり、結局、人間由来の思いつきは、そこにいる全ての人に、苦々しい思いをさせるだけなのだ。

ハガルは、シュル(エジプト方面)へ逃げていく途上、主の使いに見つけられ、声をかけられる。
「”サライの女奴隷ハガル”よ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」
主の使いは、ハガルに「サライの女奴隷」と呼び、彼女の本来の立ち位置を思い起こさせたのだろう。
彼女は「”私の女主人サライ”のところから逃げている所です」と、身をわきまえた、正しい答えをした。
主の使いは、あなたの女主人の元に帰り身を低くしなさいと諭し、そればかりでなく「あなたの子孫は大いにふやす」と、祝福の約束まで与えられた。柔和な者、身を低くしへりくだる者は、地を相続する。
私達も、立つべき立ち位置はどこか、本来仕えるべきお方は誰かを、正しく受け入れ、告白するなら、祝福をいただける。しかし、アダムやカインのように、自分のよかれを主張し、他人を訴えるなら、呪われてしまう。
主は、生まれて来る子に、イシュマエル(「神は聞かれる」の意味)という名をつけるよう命じられた。
そしてハガルは、主を、「あなたはエル・ロイ(神は見ておられる)」と呼んだ。
荒野で学んだ彼女は、主の言葉どおり、本来あるべき立場・本来あるべき女奴隷としての態度に戻った。
戻った時、彼女は、この荒野での出来事を、アブラム達に報告しただろう。そして夫婦ともども、「エル・ロイ(神は見ておられる)」「イシュマエル(神は聞かれる)」という名を聞き、自分の身勝手を恥じ入っただろう。
結局の所、今回の騒動は、サライやアブラムの身勝手な判断と行動から出たのだが、その全てを超えて、主は生きておられる方、見ておられ、聞いておられるお方であると、ハガルを通して教えられたのだ。
肉的なやりくりに頼らず、ただ主に信頼し、過ち無く歩む皆さんでありますように!

川越純福音教会断食聖会メッセージ

カテゴリ : 
その他音声
執筆 : 
pastor 2014-8-17 1:09

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
川越純福音教会断食聖会メッセージ1(ルツ記1章):右クリックで保存
川越純福音教会断食聖会メッセージ2(ルツ記2章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主に帰るなら祝福が帰ってくる(ルツ記1章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
安息日の主(マタイ12:1-8):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悪者が百度悪事を犯してもなお平気な事がある理由(伝道者の書8:9-17):右クリックで保存

【概要】

神の憐れみと裁きについての説教。悪者が栄えるように見える状況での正しい生き方を教える。

【聖書箇所】

伝道者の書8:9-17

黙示録20:11-15

第二ペテロ3:8-9

【慰めの言葉】

神は一人も滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。

【励ましの言葉】

イエス・キリストを信じ、招き入れるならば、そこは天の御国となります。

【戒めの言葉】

地上の人間の行いにばかり目を向けず、信仰の創始者であり完成者であるキリストに目を向けましょう。

【勧めの言葉】

御言葉を守り行い続けることで、人生から茨やアザミが取り除かれ、清められていきます。

【悔い改めの促しの言葉】

悪者が栄えているように見えても、その道に従わず、神の子として光の子どもとして歩みましょう。

【***詳細***】

今日の箇所は伝道者の書8章9節から17節までです。ここでソロモンは、この世で悪者が栄え、正しい者が苦しむという現実を目にして、そのむなしさを語っています。

「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行う思いで満ちている。」(伝道者の書8:11)

この状況は、私たちの周りでも見られることでしょう。しかし、これは地上での一時的な状況に過ぎません。聖書は、最終的な裁きが必ず来ることを教えています。

黙示録20章11-15節には、最後の白い御座の裁きについて記されています。

「また私は死んだ人々が、大きな者も小さな者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは命の書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」(黙示録20:12)

この箇所は、すべての人が最終的に自分の行いに応じて裁かれることを明確に示しています。では、なぜ神は今すぐに悪を裁かないのでしょうか?それは神の憐れみのゆえです。

第二ペテロ3章8-9節にこうあります。

「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

神は、悪者たちが悔い改めて立ち返る機会を与えておられるのです。これは神の憐れみの表れです。しかし、多くの人々はこの憐れみを誤解し、「神は悪いことをしても許してくれる」と思い、さらに悪を重ねてしまいます。

私たちクリスチャンは、この世の状況に目を奪われるのではなく、イエス・キリストに目を向け続けるべきです。イエスを信じ、御言葉に従うことで、私たちの人生から罪という茨やアザミが取り除かれていきます。

「私は快楽を賛美する。日の下では食べて飲んで楽しむより、ほかに人にとって良いことはない。」(伝道者の書8:15)

ソロモンはここで、人生を楽しむことを勧めています。しかし、私たちクリスチャンにとっての真の喜びは、神との関係の中にあります。イエス・キリストを信じ、御言葉に従う生活こそが、最高の喜びをもたらすのです。

ソロモンは、人間の知恵や努力では神の御業を完全に理解することはできないと結論づけています。しかし、だからといって求めることをやめてはいけません。むしろ、御言葉に従い続け、聖霊の導きを求め続けることが大切です。

【結論】

この世では悪者が栄えているように見えても、最終的な裁きは必ず来ます。しかし、神は憐れみ深く、すべての人が悔い改めることを望んでおられます。私たちは地上の状況に惑わされず、イエス・キリストに目を向け、御言葉に従う生活を送りましょう。そうすることで、私たちの人生は清められ、神の栄光を現す器となるのです。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
地を相続する事のしるし(創世記15:7-21):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:必ず成就する主の約束(ヨシュア記21:43-45):右クリックで保存

『このように、主が、イスラエルに与えると、その先祖たちに誓われた地を、ことごとく与えられたので、彼らはそれを獲て、そこに住んだ。主は彼らの先祖たちに誓われたように、四方に安息を賜わったので、すべての敵のうち、ひとりも彼らに手向かう者はなかった。主が敵をことごとく彼らの手に渡されたからである。主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つとしてたがわず、みな実現した。』(ヨシュア記21:43-45)
今回の箇所をもって、500年ほど前より主が約束しておられた事、彼らの先祖・アブラハム、イサク、ヤコブに対して「この地を与える」と約束されていた事が、成就した。

主は、個人や家族、その子孫に、あるいは、国や人類全体に与える約束があるが、聖書は、人類全体に与えられた”契約”であり、それも「旧契約聖書」と「新契約聖書」から成る。
そして、この聖書に記されている内容から、逃れる人は、誰もいない。
アブラハムやヨシュアのように、与えられた契約を信じて、そのとおり実行するなら、約束されている「良いこと」は必ずその人や家族、子孫、国に、必ず実現するが、主の約束を信じず、その言葉を軽んじるなら、聖書に記されている「呪い」が、その人や家族、子孫、国に、必ず実現する。
『天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。』(イザヤ55:9-11)

『主は彼らの先祖たちに誓われたように、四方に安息を賜わったので、すべての敵のうち、ひとりも彼らに手向かう者はなかった。主が敵をことごとく彼らの手に渡されたからである。』(ヨシュア記21:44)
主は、土地を与えて下さったばかりでなく安息を、そして、敵を、彼らの手に渡して下さったと記されている。
しかし、イスラエル十二部族は、必ずしも、この領地内の全ての敵を打ち滅ぼした訳ではなかった。例えば、ヨセフ族は谷間に住むカナン人が鉄の戦車を持っている事を理由に攻め入っていないし、またベニヤミン族も、難攻不落に見えるエルサレムの要害を、手つかずのままにしてしまっている。

主は、鉄の戦車の装備を持つ敵も、難攻不落の要害も、全て彼らの手に渡している事には変わりはない。
つまり、真理の上では、主は既にそこの敵を彼らの手に渡しており、それを信じて攻め入るなら、信じた事が実体化して、彼らの手に実際に渡るのである。
ヨシュアも「カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます」と言っている(ヨシュア記17:18)。
しかし彼らは、主の約束を信じるよりも、鉄の戦車の強そうな様や、要害の堅固そうな様のほうを信じてしまい、主に言われた事を実行しないまま、放置してしまっているのだ。
それが後になって、彼らの罠となってしまう。

『それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。』(ヘブル4:1-3)
安息に入れる者と、入れない者とが、厳然として”いる”事が記されている。
御言葉の約束が与えられていて、それを信じて進み行くなら、その信仰の実体を手に入れて安息するが、しかし、せっかく御言葉が与えられているのに、恐れて進み行かないなら、手に入れる事は出来ないまま滅んでしまう。

『そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、/「きょう、み声を聞いたなら、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」/とダビデをとおして言われたのである。もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。』(ヘブル4:6-8)
ヨシュアは、確かにイスラエルの民を約束の地・カナンに導き入れたが、そこは真の安息の地ではない。
私達にも用意されている真の安息があり、そこは、御言葉を自らの信仰へと混ぜ込み、自分のわざをやめる人のみが入れる領域である。

『こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。』(ヘブル4:9-11)

礼拝説教メッセージ音声:レビ族が受けるべき土地の割り当て(ヨシュア記21:1-9):右クリックで保存

『時にレビの族長たちは、祭司エレアザル、ヌンの子ヨシュアおよびイスラエルの部族の族長たちのもとにきて、カナンの地のシロで彼らに言った、「主はかつて、われわれに住むべき町々を与えることと、それに属する放牧地を、家畜のために与えることを、モーセによって命じられました」。それでイスラエルの人々は、主の命にしたがって、自分たちの嗣業のうちから、次の町々と、その放牧地とを、レビびとに与えた。』(ヨシュア記21:1-3)

イスラエル十二部族への相続地の割り当てが終わり、のがれの町も制定された後、主の宮で奉仕する部族・レビ族が住むべき町や放牧地の配分が行われた。
この事は、かつて、主がモーセに命じた事だった。
『イスラエルの人々に命じて、その獲た嗣業のうちから、レビびとに住むべき町々を与えさせなさい。また、あなたがたは、その町々の周囲の放牧地をレビびとに与えなければならない。その町々は彼らの住む所、その放牧地は彼らの家畜と群れ、およびすべての獣のためである。・・・
あなたがたがレビびとに与える町々は六つで、のがれの町とし、人を殺した者がのがれる所としなければならない。なおこのほかに四十二の町を与えなければならない。すなわちあなたがたがレビびとに与える町は合わせて四十八で、これをその放牧地と共に与えなければならない。あなたがたがイスラエルの人々の所有のうちからレビびとに町々を与えるには、大きい部族からは多く取り、小さい部族からは少なく取り、おのおの受ける嗣業にしたがって、その町々をレビびとに与えなければならない。』(民数記35:2-8)

イスラエル人は、主に十分の一を捧げる事が命じられているが、神の働き人であるレビ人は、イスラエル人が捧げる捧げ物によって養われる特権も与えられている。
レビ人が住む場所も同様で、その場所は、それぞれの部族が提供しなくてはならず、大きい部族も、小さい部族も、必ず捧げるべき事を、主は命じており、それは、富める者も貧しき者も、必ず罪のためのいけにえを捧げなくてはならないのと、同じである。

また、前回学んだ「のがれの町」は、全てレビ族の町である。
誤って人を殺してしまった殺人者たちは、時が来るまで、主の働き人であるレビ人の町で住みこみ、レビ人と共に住み、食べ、生活するのだ。
私達も、誤って罪を犯している事が示されたなら、主の宮に駆け込み、主の働き人達と行動を共にして、霊的な養いを受けるべきである。

イスラエル十二部族の中からは、レビ族に町を提供しない部族は、一つも無かった。
という事は、レビ族は、イスラエル全領土へとまんべんなく散っている、という事である。
それは、主の働き人は、世界においても日本においても、まんべんなく散って、それぞれの場所で御言葉の務めをなし、主の奉仕に勤しむ事が望ましいのと同様である。

レビ人や祭司は、100%、一般の主の会衆が主に捧げる捧げ物によって生活が成り立っている。
だから、民が主に捧げる事、レビ人達を養う事がコンスタントに続けられているなら、レビ人や祭司たちは主の奉仕に専念でき、神と民との関係が健全に保たれる。
しかし、民が捧げる事を止めてしまうと、レビ人達は主の宮を手放して自分達の農地に逃げるしかなくなり、神の宮はおろそかにされ、民全体が祝福を受けられなくなってしまう。(ネヘミヤ記13:10)
それは、現代を生きる私達も同じである。
捧げる人には、幸いと祝福が増し加わり、捧げない人は、わずかな刈り取りしか出来ない事は、昔も今も変わりないのだ。

礼拝説教メッセージ音声:イエス様という「のがれの町」(ヨシュア記20:1-9):右クリックで保存

前章で既にイスラエル十二部族への相続地の配分は全て終わったが、まだ補足的な事で、為すべき事が残っている。
『主はヨシュアに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『先にわたしがモーセによって言っておいた、のがれの町を選び定め、あやまって、知らずに人を殺した者を、そこへのがれさせなさい。これはあなたがたが、あだを討つ者をさけて、のがれる場所となるでしょう。』(ヨシュア記20:1-3)
モーセが生きていた時に、主が何度か命じておられた「のがれの町」を、実際に制定しなさい、と、主は言われた。

「のがれの町」とは、誤って人を殺してしまった殺人者が、復讐者の手から守られるための町である。
人殺しが起きた場合は、被害者の近親者がその殺人者を殺しても良い事になっていたが(民数記35:19-21)、故意にではなく人を殺めてしまう場合もある。
例えば、敵意や悪意もなく人を突いてしまったり、気がつかないで人を死なせるほどの石を人の上に落としてしまったり(民数記35:22-23)、あるいは、木を切るために斧を振り上げたところ、その頭が抜け、それが隣人に当たってその人が死んでしまう場合(申命記19:5)、など。
そういった場合の救済措置として、その人は「のがれの町」に逃れる事が出来るよう、主が定められたのだ。

『その人は、これらの町の一つにのがれて行って、町の門の入口に立ち、その町の長老たちに、そのわけを述べなければならない。そうすれば、彼らはその人を町に受け入れて、場所を与え、共に住ませるであろう。たとい、あだを討つ者が追ってきても、人を殺したその者を、その手に渡してはならない。彼はあやまって隣人を殺したのであって、もとからそれを憎んでいたのではないからである。』(ヨシュア記20:4-5)
この町にのがれる事が出来るのは、誤って人を殺した場合のみである。わざと殺したのであるなら、その町で保護はできない。
だから、この町に逃れてくる人は、まずその町の長老達にそのわけを述べ、正当に保護されるべきかの判断を受けなくてはならず、よしと認められるなら、その町に保護され、住む事が出来る。
『しかし、もし人を殺した者が、その逃げて行ったのがれの町の境を出た場合、血の復讐をする者は、のがれの町の境の外で、これに出会い、血の復讐をする者が、その人を殺した者を殺しても、彼には血を流した罪はない。』(民数記35:26-27)

『その人は、会衆の前に立って、さばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。そして後、彼は自分の町、自分の家に帰って行って、逃げ出してきたその町に住むことができる』」。』(ヨシュア記20:6)
その人は、その時の大祭司が死ぬ時まで、そこにいなくてはならないが、大祭司が死んだ後は、罪を咎められない者として自由の身となり、自分の町に帰れる。

のがれの町は既にヨルダン川の東側に3つ制定されていたが、今回、ヨルダン川西側にガリラヤのケデシ、エフライムの山地にあるシケム、およびユダの山地にあるキリアテ・アルバすなわちヘブロンが、のがれの町として選び分かたれた。
これらの町々は、イスラエル全領土のどこからも、その内のどれか一つに行きやすい距離として制定されている。
また、この権利は、イスラエル人のみならず、寄留する外国人にもあずかる事ができる。(ヨシュア記20:9)

この権利は、意図せずして人を殺めてしまった人への保護措置であるが、私達は、世の中を生きていく上で、色々な場面において、意図せず人を傷つけたり、あるいは心の中で殺人を犯したり、心の中で姦淫を犯したり、罪を犯してしまうものである。
なぜなら、人は生まれながらにして、その肢体の内には、罪のとげが刺さっているからだ。

しかし、主イエス様は、そんな私達が「のがれの町」に逃げこんで保護を受けられるように、十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と叫んで、父なる神様に執り成して下さった。(ルカ23:34)
人は元々、何をしているのか、自分で分からないものだ。
造り主である主に対して、どんなに無礼を働いて来たか、どんなに殺人に等しい罪々を、主に対して犯して来たか。
それをイエス様は、御父に執り成して下さったために、私達はイエス様を信じる信仰によって、罪の裁きからのがれる権利が与えられたのだ。

大祭司が死ぬ時、のがれの町にかくまわれていた人は、罪の責めを負う事の無い自由の身となるが、イエス様はまことの大祭司として、死んで下さった。
だから、イエス様を信じる人、イエス様の十字架の元に隠れ処を求めて来ている人は、誰でも、御前で犯して来た罪については無罪放免、自由の身とされたのだ。
この「のがれの町」にあずかる権利は、イスラエル人のみならず、寄留する外国人にもあずかる事ができるものであったように、イエス様という「のがれの町」には、どの国の人であってもその権利にあずかる事が出来るのだ。

しかし、のがれの町から一歩出てしまうなら、復讐者が追いついてしまうならどうしようもないように、イエス様という救いの囲いからは出てしまうなら、滅びが追いついてしまっても、どうにもならない。
また、ひと度十字架の血潮によって清められ、イエス様というのがれの町でかくまわれたのに、それを軽んじ、汚れたものとするなら、もはや救いの道は残されていない。
『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)

終わりの日まで、しっかりイエス様という「のがれの町」の中に留まり、あらゆる面から守られ、安全に匿われ、罪と死からは自由の身となり、サタンは一切手出し出来ない者として保たれる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

アブラムの子孫 - 地の砂から天の星々へ(創世記15:1-6)
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ソドム地方に攻め入ってきた4人の強力な王達を信仰によって撃退し、甥のロトを救い出したアブラムは、ソドムの王からの褒美は一切辞退し、永遠の祭司メルキゼデクからパンとぶどう酒をもって祝福を受けた。
そんなアブラムに再び主が現れ、祝福の約束はさらに具体化しバージョンアップする。「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう。」(創世記15:1)
主はまず、恐れるな、と言われた。そして、ご自身を「盾」であると。盾は敵の攻撃を防ぐものであり、アブラムを4人の王から守り、勝利させて下さった主は、主の民を攻撃するあらゆるものから、彼らを守って下さる。
続く日本語聖書の言葉は「あなたの受ける報いは、はなはだ大きい」であるが、原文のニュアンスは違う。
KJVでは「I (am) thy shield, (and) thy exceeding great reward. 」、つまり神は、「わたしがあなたの盾、そしてあはたへの飛び抜けて素晴らしい報酬だ。」と言っておられるのだ。
主を信じたなら、その報いとして、莫大な富や栄誉を得られる、などとというレベルの話ではない。
”主ご自身が莫大な報い”であり、それは、世のいかなる栄光や富よりも、はるかに勝る報酬なのである。
エジプトのパロや4人の王の生殺与奪の権を持ち、アブラムに多くを与えるも与えないも、全てを自在に支配しておられる主、天地を創られた主、そのお方が、私達・キリストを信じる信仰者の群れ(エクレシア:教会)が受ける”相続”でもある。(エペソ1:20-23、1コリント3:22-23)それは何と素晴らしい事であろうか!

アブラムは主に答えた。自分にはまだ子供がいない、たとえ自分に多くのものが与えられても、このままでは全部、家で生まれた僕のものになるだけだ、と。主はそれに対し、「あなたの身から出る者が」あなたの跡を継がなければならない、と、明確に言われた。あなたにはこれから必ず、子が与えられる、と。
『そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。 』(創世記15:5)
アブラムは、闇に塗られた夜空に、数え切れないほどの星々が、ちりばめられた宝のように輝いているのを、仰ぎ見た。暗闇の空に輝く星々。大きな星もあれば小さな星もあり、色とりどりの星が無数にきらめいている。
自分に与えられる子は、このようである! アブラムは、主の言葉を信じた。信じて、喜び踊った事だろう。
もう死んだも同然のような自分に、これから子が与えられ、その子孫は夜空の星々のようになる。それを信じて喜び踊る。それは信仰無き者には理解出来ない喜びである。そして主は、これを彼の義と認められた。
主の言葉を信じる事。それこそ、不義なる人が、義とされる、唯一の手段である。私達もイエスを死人の中からよみがえらせて下さったお方を信じる信仰によって、義とされるのだ。(ローマ4:16-25)

さて、アブラムは以前、最後の血縁であるロトと別れた直後にも、子孫が「地のちりのように」多く与えられると約束が与えられたが、それが今回、「空の星のように」へとバージョンアップしている。
自分の生来の生き方、地に属する生き方を離れるなら、その人もその子孫も、確かに地において栄え、増えて行く。しかし、主の約束を信じ、さらに進み出て勝利する人、ソドムのような汚れた富は一切断る人には、まことの大祭司メルキゼデクからのパンとぶどう酒が待っており、その子孫は、地において栄えるばかりか、より優れた「天に属する子孫」となり、その子孫は、漆黒に塗られた暗闇の時代においても、光となって輝き渡るのだ。そしてまた、アブラムに約束された「子孫」には、さらなる意味がある。

アブラムに与えられると約束された”子孫”は単数形であり、この「単数形の子孫」は、キリストの事である。(ガラテヤ3:16) エバも、ノアも、そしてアブラムも、ダビデも、神が約束されたこの「単数形の子孫」、すなわち、蛇の頭を砕くキリストを望み、信じ、希望を託したのだ。(創世記3:15、9:9、15:5、2サムエル12:2)
旧約の偉人達は、その「子孫」をまだ見ていなくても、はるか未来に仰ぎ見、信じて義と認められ、また私達も同様に、キリストを見ていなくても信じており、栄えに満ちた喜びに満ち満ちている。(1ペテロ1:8)
現代を生きる私達も、この単数形の子孫であるキリストを宿し、この暗闇の世代の中において、キリストのいのちを灯す世の光として輝いている。アブラムが空を見上げた時、その星の中に、現代を生きる私達も見えたのではないだろうか。この闇の時代にあって、光の子としてますます輝き、光の子孫をさらに生んで増やして行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

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