メッセージ - 201408のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
水の上を歩く(マタイ14:22-36):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
知恵は顔を輝かせる(伝道者の書8:1-8):右クリックで保存

【概要】

知恵の大切さと、神の命令に従うことの重要性について語られたメッセージ。

【聖書箇所】

伝道者の書8:1-8

イザヤ書28:14-19

【勧めの言葉】

神の知恵を求め、それに従って生きることで、人生と永遠をうまく渡り合えます。

【戒めの言葉】

死や悪と同盟を結ぶのではなく、イエス・キリストという礎石に寄り頼むべきです。

【***詳細***】

今日、恵みをいただく御言葉は伝道者の書8章1節から8節までです。

「誰が知恵ある者にふさわしいだろう。誰が事物の意義を知り得よう。人の知恵はその人の顔を輝かし、その顔の硬さを和らげる。」(伝道者の書8:1)

知恵を身につけること、それこそが、この人生を、また永遠をうまく渡り合っていくためのコツです。知恵を得ることは、まず、主を恐れること、主の命令を守り行うことから始まります。そうする者には何も恐れることも、また慌てることもありません。

「人は言う。王の命令を守れ。神の制約があるから、王の前から慌てて退出するな。悪事に加担するな。王は自分の望むまま何でもするから。王の言葉には権威がある。誰が彼に『あなたは何をするのですか』と言えようか。」(伝道者の書8:2-4)

ここでソロモンは王について語っていますが、私たちが王と仰ぐべきはイエス様です。イエス・キリストこそ私たちの王です。ですから、ここをキリストに読み替えて読むならば、本当にふさわしい言葉が私たちに与えられます。

「命令を守る者は災いを知らない。知恵ある者の心は時と裁きを知っている。」(伝道者の書8:5)

王なる主イエス様の命令、すなわち御言葉を守る人は災いを知りません。そして知恵が増し加わります。御言葉に親しむうちに知恵が増し加わっていき、知恵ある人の心は時と裁きを知るようになります。

「すべての営みには時と裁きがある。人に降りかかる災いが多いからだ。何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかを誰も告げることはできない。」(伝道者の書8:6-7)

確かに何が起こるか、いつ起こるか、それはわかりません。しかし、知恵ある人は、いつ何が起きても怖くありません。なぜなら知恵に従って行動しているから、災いをもたらすような行動を初めから避けているからです。

「風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救い得ない。」(伝道者の書8:8)

人間はいつも毎日が死と対抗する戦いを戦っています。日々食べたり飲んだり働いたりすること、それは死なないためです。しかし、この戦いから免れる人は誰もいません。やがて人は死にます。

ここで、イザヤ書28章14-19節を見てみましょう。

「それゆえ、あざける者たち、エルサレムにいて、この民を物笑いの種にする者たちよ。主の言葉を聞け。あなたがたはこう言ったからだ。『私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとえにわか水が溢れ押し寄せて来ても、それは私たちには届かない。私たちはまやかしを避けどころとし、偽りに身を隠してきたのだから。』」(イザヤ書28:14-15)

これらの人々は、まやかしを避けどころとし、偽りに身を隠しています。彼らは死と同盟を結び、よみと契約を結んでいると言います。しかし、主はこう言われます。

「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の貴い隅石。信じる者は、慌てることがない。」(イザヤ書28:16)

主は、シオンに一つの礎石を据えられました。イエス・キリストという礎石です。この礎石により頼む人、これを信じる人は慌てることがありません。

「あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水が押し寄せて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。」(イザヤ書28:18)

まやかしを避けどころとしている者は、にわか水が溢れて押し寄せてくると、それによって踏みにじられます。偽りやまやかしに身を隠してきた者は、やがてにわか水が溢れ、それに押し寄せられ、踏みにじられるのです。

【結論】

私たちは死やよみ、まやかしといったものと同盟を結ぶのではなく、イエス・キリストという礎石に寄り頼むべきです。知恵あるものとなり、知恵にふさわしく歩むならば、私たちの顔は輝き、表情は柔らかくなります。どんな状況にあっても、イエス・キリストという知恵に満たされ、御言葉という知恵によって養われ輝かされる者となりましょう。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
メルキゼデクとは(詩篇110編):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:アシェル、ナフタリ、ダン、そしてヨシュアに割り当てられた相続地(ヨシュア記19:24-51):右クリックで保存

五番目に相続地を”くじ”によって受けたのは、アシェル族であった。
『第五に、アセルの子孫の部族のために、その家族にしたがって、くじを引いた。・・・それから、その境はラマに曲り、堅固な町ツロに至る。』(ヨシュア記19:24-29)
このアシェル族について、ヤコブは次のように預言している。
『アセルはその食物がゆたかで、/王の美味をいだすであろう。』(創世記49:20)
彼らの食物は豊かで、王の美味を生み出す、これはどういう事だろう。

彼らの相続地の中には、海沿いに堅固な町”ツロ”があり(29節)、この町は、海洋貿易によって多くの富がもたらされる所で、「食物は豊かで、王の美味を生み出す」にふさわしい所であった。
しかし、ダビデの時代には、その地はフェニキヤ人の国となってしまっている。ダビデはこのツロの王ヒラムと同盟を結び、ソロモンの時代には、神殿建設のために必要な材木を取り寄せるよう要請した。(1列王記5章)
アシェル族は、ツロを一旦占領したのに奪還されてしまったのか、あるいは、最初から占領できていなかったのか、とにかく、ツロは本来アシェルが占領して、彼らが神の神殿のために必要な資材を提供すべき地であったはずのに、その役回りを、異邦の王ヒラムに取って代わられてしまったようである。
せっかく良き地が与えられたのに、除き去るべき敵を徹底して除き去らずに、かえってその場所が奪われてしまい、栄誉ある仕事の役回りも、他に奪われてしまって残念である。

『第六に、ナフタリの子孫のために、その家族にしたがって、くじを引いた。』(ヨシュア記19:32)
ヤコブはナフタリについて、次のように預言している。『ナフタリは放たれた雌じか、/彼は美しい子じかを生むであろう。』(創世記49:21)
この「子じか」には、「歌」や「ことば」の意味もあり、「彼は美しい歌(ことば)を生む」とも訳せる。
ナフタリの地、それは、イエス様が住まわれた所であり、宣教を開始した所でもある。(マタイ4:12-17)
ヤコブはナフタリを、美しい歌、美しい言葉を生み出す地として祝福し、モーセも、恵みと祝福に満ちた地として祝福した。
それは彼らは、メシヤのおとずれを、ナフタリに見ていたからなのかもしれない。

『第七に、ダンの子孫の部族のために、その家族にしたがって、くじを引いた。その嗣業の領域には、ゾラ、エシタオル、イルシメシ、・・・メヤルコン、ラッコン、およびヨッパと相対する地域があった。』(ヨシュア記19:40-46)
ダン族の相続地は、エフライムとユダの相続地の間、海沿いに得たが、聖書地図をよく見てみると、ダンの相続地は、海沿いのその場所と、北側とに2箇所ある事に気づく。
彼らは、くじで割り当てを受けた部族にしては珍しく、北方へと攻め入って、領地を獲得したからだ。
『ダンの子孫の領域は、彼らのために小さかったので、ダンの子孫は、上って行き、レセムを攻めてそれを取り、つるぎにかけて撃ち滅ぼし、それを獲てそこに住み、先祖ダンの名にしたがって、レセムをダンと名づけた。これがダンの子孫の部族の、その家族にしたがって獲た嗣業であって、その町々と、それに属する村々とである。』(ヨシュア記19:47-48)
士師記をみると、ダン族は、さらに積極的に他に攻め行っていっているが、後には、ならず者が暴力に任せて他を奪うような、邪悪な性質となってしまった。(士師記18章)
ヤコブが預言した通りである。
『ダンはおのれの民をさばくであろう、/イスラエルのほかの部族のように。ダンは道のかたわらのへび、/道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、/乗る者をうしろに落すであろう。』(創世記49:16-17)

『こうして国の各地域を嗣業として分け与えることを終ったとき、イスラエルの人々は、自分たちのうちに、一つの嗣業を、ヌンの子ヨシュアに与えた。すなわち、主の命に従って、彼が求めた町を与えたが、それはエフライムの山地にあるテムナテ・セラであって、彼はその町を建てなおして、そこに住んだ。』(ヨシュア記19:49-50)
全イスラエルへの相続地の割り当ては、こうして終了した。
しかしその最後に、ヨシュアへの相続が与えられている。
テムナテ・セラの名前の意味は、有り余るほどの部分、という意味である。主ご自身が、彼に報いて、有り余る程に与えて下さったのだ。

ヨシュアが求めたのは「山地」であるが、信仰の偉人たちは、どうやら山地が好きなようだ。
カレブも「あの山地を下さい」と願ってヘブロンを得たし、そのヘブロンは、アブラハムが甥のロトと分かれた後に定住した地である。
ロトはアブラハムと別れた後、低地の潤った所、ソドムという不品行で栄えた都へと住居を移してしまい、そのうち、アブラハムと共に歩んだ時に得た財は全て失って、後には身一つで命からがら山地へと逃げる事になってしまった。
私達も、この終わりの時代には、ソドムのような邪悪さによって潤った低地に住むのではなく、むしろ、信仰者が住む山地に住居を構えるものでありたい。

礼拝説教メッセージ音声:シメオン、ゼブルン、イッサカル族に割り当てられた相続地(ヨシュア記19:1-23):右クリックで保存

相続地を二番目に”くじ”によって受けたのは、シメオン族であった。
『シメオンの子孫の嗣業は、ユダの子孫の領域のうちにあった。これはユダの子孫の分が大きかったので、シメオンの子孫が、その嗣業を彼らの嗣業の中に獲たからである。』(ヨシュア記19:9)
彼らはユダ族の領地のまっただ中に相続地を受けており、聖書地図を見ると、ユダ族の領地の中に、あたかもドーナツの”輪”の部分のような形で立地している。
これは、イスラエル十二部族の父・ヤコブが、次のように預言した通りである。
『シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。』(創世記49:5-7)
シメオンとレビは、シェケムの男に妹ディナが汚された事の復讐のために”割礼”という主の聖なる契約を利用して、シェケムの男たちを欺き、彼らが割礼を受けて弱っている時に、男達を皆殺しにし、女子供や家畜を分捕るという蛮行を行った。(創世記34章)
それ故ヤコブは、彼らのその激しい怒りを呪い、その言葉の通りにシメオン族はユダ族の中へと”散らされる”形となってしまった。

シメオン族の次に割り当てを受けたのは、ゼブルン族であった。
『第三にゼブルンの子孫のために、その家族にしたがって、くじを引いた。その嗣業の領域はサリデに及び・・・、そしてカッタテ、ナハラル、シムロン、イダラ、ベツレヘムなど十二の町々と、それに属する村々があった。これがゼブルンの子孫の、その家族にしたがって獲た嗣業であって、その町々と、それに属する村々とである。』(ヨシュア記19:10-16)
ヤコブの彼らに対する預言を見ると、「ゼブルンは海べに住み、/舟の泊まる港となって、/その境はシドンに及ぶであろう。」(創世記49:13) となっているが、しかし彼らが実際に得た領地は、海沿いではないし、また、シドンからもかけ離れている。
そして、未だにゼブルン族が海沿いの地を勝ち取ったという歴史は、存在しない。
このような、預言の”未成就”は、どうして起こるのか。

それは、預言を受けた本人が、主から与えられた「こうすれば、こうなる」という条件を無視し続けたり、あるいは、祝福に見合わない行動をし続けたりする時、そのようになってしまう。
例えば、主はヤロブアムに対して、ダビデのように長く続く堅固な王家を建てる約束を与えられたが、それは実現せず、結局、彼の二代目の時に、一族郎党皆殺しにされてしまった。
なぜなら、彼はせっかく主から祝福の約束が与えられたというのに、それに見合わない事を行い続け、主を怒らせ続けたからだ。
彼は、金の子牛像を礼拝対象にさせたり、勝手に考案した月日を礼拝の日として定たりと、主の忌み嫌われる事をし続けて止めず、預言者からしるしを伴う警告が与えられても、なお悔い改める事をしなかったのだ。

主は元々、アブラハムに、エジプトからユーフラテス川に至るまでの広大な地を与えると約束されたが、実際のイスラエルは、それら全てを勝ち取っていく行動を、しなかった。
ゼブルン族も、海沿いの地、シドンを攻めて行く事を、ついぞしなかったため、結局、彼らにはヤコブの祝福は実現しなかったのだ。

『第四にイッサカル、すなわちイッサカルの子孫のために、その家族にしたがって、くじを引いた・・・。その境はタボル、シャハヂマ、ベテシメシに達し、その境はヨルダンに至って尽きる。十六の町々と、それに属する村々があった。』(ヨシュア記19:17-22)
イッサカルは、ヤコブから以下の預言をもらっている。
『イッサカルはたくましいろば、/彼は羊のおりの間に伏している。』(創世記49:14)
彼はその預言の通り、マナセ族の二つの領地という”羊のおり”の、ちょうど間に相続地を得ている。

イッサカルは五男であるのに、そのはるか下の弟、十一男であるヨセフの子・マナセの相続地の間に住まわせてもらっている形となっている。
また、シメオンは次男であるのに、これまた四男の弟であるユダが勝ち得た多くの中から、余り物をもらった形となった。
ゼブルン族も、本来的には海沿いの領地を勝ち得るはずが、それをせずじまいになってしまった。

現代を生きるキリスト者も、何もせずに、ただ手をこまねいているような人は、かろうじて、他の積極的な聖徒の傘下で養われるしかない。
与えられている賜物、与えられている力は積極的に活用し、地上において多くのタラントを稼ぎ、永遠の天においては、さらに多くを任される皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:ベニヤミン族に割り当てられた領地(ヨシュア記18:11-28):右クリックで保存

ヨシュア記18章の後半以降、残り7部族への相続地の割り当てが記されている。
その中で、真っ先にくじが割り当てられたのは、ベニヤミン族であった。
『まずベニヤミンの子孫の部族のために、その家族にしたがって、くじを引いた。そしてそのくじによって獲た領地は、ユダの子孫と、ヨセフの子孫との間にあった。』(ヨシュア記18:11)

モーセは死ぬ時、ベニヤミン族を次のように祝福している。
「主に愛される者、/彼は安らかに主のそばにおり、/主は終日、彼を守り、/その肩の間にすまいを営まれるであろう」(申命記33:12)
モーセが「その肩の間にすまいを営まれる」と預言した通り、彼らはユダ族とヨセフ族という”両肩”の間に相続地を得た。

彼らへの相続地は、あまり広い地域ではないが、後のイスラエルにとっての要所がいくつかある。
『またギベオン、ラマ、ベエロテ、ミヅパ、ケピラ、モザ、レケム、イルピエル、タララ、ゼラ、エレフ、エブスすなわちエルサレム、ギベア、キリアテ・ヤリム。すなわち十四の町々と、それに属する村々。これがベニヤミンの子孫の、その家族にしたがって獲た嗣業である。』(ヨシュア記18:25)

ギベオンやラマは、ベニヤミンの母・ラケルが死んだ所とされ、その付近に彼女の墓があったと考えられており、エレミヤは、その地方が後にバビロンによって滅ばされる事を「嘆き悲しみ、いたく泣く声がラマで聞える。ラケルがその子らのために嘆くのである。」(エレミヤ31:15)と預言している。
ラケルは、ベニヤミンを産む時、とても難産で苦しんだため、その子を「ベン・オニ(私の苦しみの子)」と名づけたが、父ヤコブは「ベニヤミン(右手の子)」と名づけた。(創世記35:16-20)
ベニヤミンは、生まれたと同時に母が死んだので、母との思い出が無かったであろうが、彼の子孫は、その母が死んだ場所、墓のある場所が、主から相続地として与えられたわけである。

また、ミツパという場所は、後に、イスラエルが戦いや集会の時に集う場所として、よく用いられた。(士師記10:17、20:1、1サムエル記7:5)
そしてなんと、エルサレムも、ベニヤミンの相続地の中に含まれている。
エルサレムはダビデの町として、代々ユダ族の王が住んで来たため、ユダ族にくじが当てられたと思われがちだが、元々は、ベニヤミン族にくじが当てられた土地である。
なぜそこはユダ族が住む所となったのか。

ベニヤミン族はいつまでもエルサレムに住むエブス人を追い出さずにいた。
また、ベニヤミン人サウル王の時代になってもそこは手付かずのままであったため、結局、その後のダビデ王が、そこに住んでいるエブス人を追い払ったために、結局ダビデの町となったのだ。(2サムエル5:5-9)
そして、後にはこのエルサレムに神殿が建設され、ベニヤミン族は、神殿に礼拝しに行くのに近いというメリットが与えられた。
また、ソロモンの後の時代にイスラエルが北と南に分割された後も、ベニヤミン族はユダ族の側についたため、「主に愛される者、/彼は安らかに主のそばにおり、/主は終日、彼を守り」というモーセの預言が成就したのだ。

ベニヤミン族は、ヤコブの祝福によって、大きな力が与えられているのに(創世記49:27)、積極的に攻めて行かず、結局この狭い地域しか与えられなかった。
また、エルサレムという素晴らしい地が与えられているのに、そこも長らく攻め落とさずにいたため、ユダ族のダビデによって、先取りされてしまった。
私達は、主から与えられた力をもって、積極的に祝福を勝ち取っていくものでありたい。

礼拝説教メッセージ音声:いつまで行かないのか(ヨシュア記18:1-10):右クリックで保存

『イスラエルの人々の全会衆は、その地を征服したので、シロに集まり、そこに会見の幕屋を立てた。』(ヨシュア記18:1)
シロという場所は、イスラエル全領土のほぼ真ん中、エフライムの相続地の中に位置し、ここに会見の天幕が設置されて以降、ダビデの時代までそこは人々がいけにえを捧げに来る礼拝の場所となった。
ヨシュアはそこで、イスラエル全体を呼び寄せ全体会議を開いた。

『その時、イスラエルの人々のうちに、まだ嗣業を分かち取らない部族が、七つ残っていたので、ヨシュアはイスラエルの人々に言った、「あなたがたは、先祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのですか。』(ヨシュア記18:2-3)
カナンの相続地は、順番待ちして得る類のものではなく、積極的に進み行く人が、早い順に獲得するものである。
事実、ルベンやガド、マナセの半部族は、早期に求めたために早く得たし、また、ユダ族やヨセフ族は、積極的に攻め行ったために、広く良い地を得た。

これら五部族が、先に占拠してしまったから、もう残りは無かった、というものでもない。
なにしろ、主がアブラハムに約束された土地は、「エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。」(創世記15:18)という、広大な地である。
だから、もしこれら七部族が、ユダ族達のように積極的に攻め行っていたなら、聖書の巻末等にあるイスラエル十二部族の相続地図は、もっともっと広いものとなっていただろう。

しかしこの七部族は、ヨシュアが老年になったこの時まで、ずっと手をこまねいて、獲得しに行かなかった。
だからヨシュアは「主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのか」と叱責したのだ。

キリスト者の中にも、天の御国の働きのために、積極的に自ら動いて働く聖徒もおれば、自分の手は動かさず、ただ他の兄弟姉妹が働いて得た恩恵に乗っかるのみの人もいる。
しかし自分の手を動かさない者は、着実に貧しくなって行き、努めて働く人は、確かな報いを主から得られる。(箴言10:4)
『なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、”自分の行ったことに応じて”、それぞれ報いを受けねばならないからである。』(2コリント5:10)

私達は、少しでもラクしようと考えたり、いかに手を動かさないかを思案したりするような、”けち”な考えではなく、むしろ、ユダ族やマナセ族のように積極的に多くを勝ち取り、得たものは気前よく他の聖徒達に引き継がせ、さらに積極的に勝ち得て行くものでありたい。
『人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。 あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。 』(エペソ6:6-8)
『見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。 』(黙示録22:12)

メルキゼデク – 永遠の祭司(創世記14:14-24)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

今回はメルキゼデクという人物について見て行きたいが、彼はとても特異的な存在である。
メルキゼデクが登場するのは創世記14章のみで、突如アブラムに現れ、彼を祝福し、それ以降は姿を現さないが、その名は詩篇に1回、ヘブル書に8回、永遠の大祭司として登場する。

メルキゼデクが現れた創世記14章には、アブラムの第二の信仰の試練と、そして大勝利が記されている。
シヌアル(現・イラク周辺諸国)の4人の王達が集結し、現・イスラエル周辺諸国の5人の王達に戦いを挑んで、勝つのだが、その時、ソドムの中に住んでいたアブラムの甥のロトも、捕らえられてしまった。
それを聞いたアブラムは、彼の家で生まれたしもべ318人を率いて、その4人の王達に戦いを挑んだ。
今回彼は、エジプトで得た奴隷には一切頼らず、ただ自分の家で生まれたしもべだけの、信仰の小数精鋭部隊をもって相対して、見事勝利し、ロトを救い出したばかりでなく、多くの分捕り物も得たのだ。
かつて、第一の試練である飢饉が彼に襲った時、彼はエジプトに下り、愛する妻サライがパロの元に連れて行かれても、ただ指を咥えて見ているだけだったが、今回のアブラムは、信仰によって進み出た。
アブラムは、神が「あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。」と言われたからには、この王達の方が呪われていると信じ、神が「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」と約束されたからには、自分は戦死せず、生きて、勝利し、そして必ず子孫を残す、と、信じた事だろう。
彼が相対した王達は、各国を打ち破り、略奪しながら下ってきたのだから、相当の気勢・軍勢であったろう。
それを、わずか318人で戦って勝利し、かなりの距離を追跡して多くの分捕りをしたのは、人間業ではなく、主のわざである。エジプトでの時、彼は自分の力を見て失敗したが、今回彼は自分を見ず、主の約束に信頼したため、主はその信仰に応じ、勝利を得させたのだ。メルキゼデクが彼に現れたのは、その時である。

メルキゼデクはサレムの王である。14章には今回の戦争に関わった王達の名や地名が沢山出て来るが、メルキゼデクも、サレムも、どこにも無い名であり、14章に登場する王達はその場限りの脇役だが、メルキゼデクは、詩篇でダビデが記し、ヘブル書の記者が詳細に記している。
いと高き神の祭司として突如現れ、アブラムを祝福し、彼でさえ十分の一を捧げた彼は一体何者だろうか。
「その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。そこで、族長のアブラハムが最もよいぶんどり品の十分の一を与えたのだから、この人がどんなにすぐれた人物であったかが、あなたがたにわかるであろう。」(ヘブル7:2-4)
義の王、平和の王であり、いと高き神の祭司として、信仰の父祖アブラハムを祝福し、彼でさえ十分の一を捧げたお方。父もなく母もなく、系図もなく、また、生涯の初めも命の終わりも無いお方。
彼は永遠の祭司であり、キリストの性質そのものである。彼こそ受肉前のキリストではないだろうか。
メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持ってアブラムを出迎えたが、それは単なる食料の差し入れではない。
パンはイエスの裂かれた体、ぶどう酒はイエスの流された血潮を意味する。イエス様は、信仰をもって御前に近づく私達にも、裂かれた御体と、流された血潮をもって迎えて下さり、その流された血潮の印によって定められた滅びは過ぎ越し、罪は清められ、その裂かれた体によって、真の聖所に入る事が出来るのだ。

勝利したアブラムを迎えた王が、もう一人いる。それは、主の御前に非常に罪深い、ソドムの町の王である。
ソドムの王は「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と持ちかけたが、アブラムは、いと高き神にかけてそれを辞退し、ソドムのものは一切、靴紐一本さえ取らない事を宣言した。
世の富、ことさら、ソドムのような神の前に罪深い者の富は、受けてはならない。私達は、ただメルキゼデクからいただくパンとぶどう酒を、すなわち、イエスキリストの御体と血潮のみを望むべきである。
アブラムは、世の力に頼らず主の約束のみに頼って戦い、勝利し、世の報酬は一切求めずに、ただメルキゼデクのパンとぶどう酒のみを受けた。そして彼はいと高き祭司に祝福され、十分の一を捧げた。
同じように私達も、御言葉の約束を信頼して進み出て戦うならば、主は勝利を与えて下さり、キリストご自身の裂かれた御体と、流された血潮をもって迎えて下さり、そして祝福して下さるのである。

礼拝説教メッセージ音声:言い訳をして戦いに行かない一部のヨセフ族達(ヨシュア記17:14-18):右クリックで保存

『ヨセフの子孫はヨシュアに言った、「主が今まで、わたしを祝福されたので、わたしは数の多い民となったのに、あなたはなぜ、わたしの嗣業として、ただ一つのくじ、一つの分だけを、くださったのですか」。』(ヨシュア記17:14)
ヨセフ族、すなわちエフライム・マナセ族には、既に広大な土地が与えられており、その領地の広い境界線も、既に定められている。
それなのに、ヨセフ族の”ある人達”は、ヨシュアの所に来て、くじは”ただ一つ”しかもらえなかったと、不服を申し立てている。

御心にかなった事や、御約束の成就を「求める」事は、大いに推奨されるものではあるが、今回の彼らの要求は、それとは異なるものである。
なぜなら、彼らには既に広大な良き地が約束として与えられ、あとは、彼らがそれを手に入れるための行動を起こすだけなのに、彼らはそれをせず、約束として与えられたものにケチをつけているからだ。

『ヨシュアは彼らに言った、「もしあなたが数の多い民ならば、林に上っていって、そこで、ペリジびとやレパイムびとの地を自分で切り開くがよい。エフライムの山地が、あなたがたには狭いのだから」。ヨセフの子孫は答えた、「山地はわたしどもに十分ではありません。かつまた平地におるカナンびとは、ベテシャンとその村々におるものも、エズレルの谷におるものも、みな鉄の戦車を持っています」。』(ヨシュア記17:15-16)
彼らが自分の口で告白した通り、主に祝福され、多く増え、また多くの力も与えられているのだから、その力を用いて、まだ敵がのいる相続地を切り開いて行きなさい、と、ヨシュアは言っているのだが、彼らは、いえ、相手は鉄の戦車を持っているから、できません、と言うのだ。
『ヨシュアはまたヨセフの家、すなわちエフライムとマナセに言った、「あなたは数の多い民で、大きな力をもっています。それでただ一つのくじでは足りません。山地をもあなたのものとしなければなりません。それは林ではあるが、切り開いて、向こうの端まで、自分のものとしなければなりません。カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます」。』(ヨシュア記17:17-18)

現代のキリスト者の中にも、このヨセフ族の”ある人達”のように、「主が与えた」という御言葉の約束を頂いておきながら、そして、あとは行ってそれを勝ち得るだけでありながら、色々な言い訳ばかりをして、それをせず、かえって文句を言ったり、別のものを求めたりする”霊的怠け者”の信仰者がいる。
『なまけ者は、「道にししがいる、ちまたにししがいる」という。・・・なまけ者は手を皿に入れても、それを口に持ってゆくことをいとう。』(箴言26:13)

私達の内には、生まれながらの肉なる性質や、過去の傷、抱えている病といった、滅ぼすべき”ペリジびと”や”レパイムびと”、鉄の戦車を持った”カナン人”がいる。
しかしそれらは、私達の内におられる、まことのイエシュアであるイエス様と共に「滅ぼし可能」なのだ。

それなのに、「自分の病は鉄のようだ」とか、「自分のトラウマは戦車級だ」とか言い訳して、他人には「自分に合わせてくれ」と要求ばかりしている人は、いつまでも改善されない。そればかりか、やがてはそれらに飲み込まれてしまうのだ。
事実、士師記1章を見ると、ヨセフ族はヨシュアから言われていた通りに敵を滅ぼさなかったため、その者達は後々、力をつけてしまい、苦々しい事になってしまった。

パウロは言っている。
『こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。』(2テモテ1:6-7)
ヨシュアも、ヨセフ族に言った。あなたには既に大きな力が主から与えられている、それをもって、鉄の戦車を制圧せよ、と。

そして主イエスは、私たちに言っている。
『これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。』(ヨハネ16:33)
『全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる。』(マルコ16:15-18)
『わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、/わたしのたましいはこれを喜ばない」。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。』(ヘブル10:38-39)

私達に与えられた聖霊は、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊である。
それを奮い立たせ、私達の内に元から住んでいる滅ぼすべきもの、すなわち、病や過去のトラウマなどの”鉄の戦車”を、信仰によって戦いを仕掛け、追い払い、勝利し、私達の内には、ますます広大な安息の地を得て行く皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

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