メッセージ - 201410のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:間違った誓願(士師記11:29-40):右クリックで保存

『エフタは主に誓願を立てて言った、「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」。』(士師記11:30-31)

エフタは、余計な誓願を立ててしまった。
前回の箇所で、エフタは信仰を混ぜた真理のことばの宣言によって、真理の面では勝利は既に確定している。
だから、あとは審判者であられる主に任せておけば、そのまま難なく主が勝利を与えて下さるはずだ。
ちょうどダビデが、ゴリアテとの対決の前に、信仰を混ぜた真理のことばによって主の戦いと宣言し、そのまま実際に難なく勝利したように。

彼は恐らく、自分の覚悟の表明のために「わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」と、誓願を立てたのであろうが、人間を燔祭(全焼のいけにえ)としてささげるような事は、律法のどこにも書いていない。
むしろ、『あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。』(申命記18:10) と書いてある。
もしかしたら、イスラエルが18年の間色々な神々に仕えている内に、人間を捧げる事が、何か困難かつ高尚な捧げものであるかのような価値観が、彼の信仰に混じってしまったのかもしれない。

『エフタはアンモンの人々のところに進んで行って、彼らと戦ったが、主は彼らをエフタの手にわたされたので、アロエルからミンニテの附近まで、二十の町を撃ち敗り、アベル・ケラミムに至るまで、非常に多くの人を殺した。こうしてアンモンの人々はイスラエルの人々の前に攻め伏せられた。』(士師記11:32-33)
アモン人との戦いの勝利は、わずか2節で、実にあっけなく完結している。この」勝負は、エフタの真理の御言葉の宣言によって、既についていたからだ。
聖書はむしろ、エフタのその後の行動や心理描写のほうに、紙面を割いている。
エフタは、アンモン人という”外敵”に苦しめられる事は無かったが、自分の口から出たことば、自分の誓った内容によって、苦しめられる。
目に見える外敵よりも、むしろ、自分達の内にある思い込みや不信仰という”内なる敵”こそ、やっかいなのだ。

『やがてエフタはミヅパに帰り、自分の家に来ると、彼の娘が鼓をもち、舞い踊って彼を出迎えた。彼女はエフタのひとり子で、ほかに男子も女子もなかった。エフタは彼女を見ると、衣を裂いて言った、「ああ、娘よ、あなたは全くわたしを打ちのめした。わたしを悩ますものとなった。わたしが主に誓ったのだから改めることはできないのだ」。娘は言った、「父よ、あなたは主に誓われたのですから、主があなたのために、あなたの敵アンモンの人々に報復された今、あなたが言われたとおりにわたしにしてください」。』(士師記11:34-36)
よりによって彼を出迎えたのは、最愛の、ひとり娘だった。
彼が主に誓った言葉によると、最愛の娘を全焼のいけにえとして捧げなくてはならなくなってしまった。
最愛の娘を全焼のいけにえとして捧げれば、主は喜ぶのだろうか?
否、子供を全焼のいけにえとして捧げるなど、主が命じることではなく、定めたことでもなく、主が思いもしなかったことである。(エレミヤ19:5)

主は全能なるお方だから、最愛の娘でない人物を迎えに出した事ができたであろうし、エフタも躊躇なくその者を捧げたであろう。
しかしもしそうであったなら、人間を主に全焼のいけにえとして捧げればエフタのように大活躍が出来、何でも願い事が叶う、といった、誤った価値観が広まってしまっただろう。

誰か他の人間を捧げる事よりも、もっと大事な事がある。まずは自分自身がへりくだり、砕かれたたましいとなって、主の前に霊とまことの礼拝を捧げる事である。
『あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。』(詩篇51:16-17)
『「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもって/そのみ前に行くべきか。主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。』 (ミカ6:6-8)

イエス様も言っている。
『『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。』(マタイ9:13)
イエス様は、どんな金持ちの多額の献金よりも、わずか2レプタを捧げたやもめにこそ目を留められた。
私達は、何をいくら捧げるかという事より、まずは自分を下ろし、へりくだった心をもって、霊とまことによる礼拝をこそ主に捧げるべきだ。

礼拝説教メッセージ音声:偽りの主張への対処方法(士師記11:12-28):右クリックで保存

元々はごろつきの首領だったエフタだが、主によって召しだされ、イスラエルを率いる士師とされた。
彼は長老達から任命を受けた後、さっそく戦いに出て行くのではなく、まずはアンモンに使者を送った。
『エフタはアンモンの人々の王に使者をつかわして言った、「あなたはわたしとなんのかかわりがあって、わたしのところへ攻めてきて、わたしの国と戦おうとするのですか」。アンモンの人々の王はエフタの使者に答えた、「昔、イスラエルがエジプトから上ってきたとき、アルノンからヤボクに及び、またヨルダンに及ぶわたしの国を奪い取ったからです。それゆえ今、穏やかにそれを返しなさい」。』(士師記11:12-13)
アンモンからこのように主張をされると、なんだか、こちらが不当な事をしていたかのような気分になるが、実際はそうではない。
相手の主義主張をそのまま丸呑みしてはならない。必ず真理の光に照らし出すべきである。

エフタは元々ごろつきの首領だったのだが、使者を通して返事した内容から、彼はかなりの知性派で、イスラエルの歴史に通じた信仰者である事がわかる。
エフタはエモリ人に、イスラエルがエジプトから出て後に歩んだ道のりを、正確に述べた。
すなわち、イスラエルがエジプトから出て、今いる地へと入った際、アモン人やモアブ人、エドム人など、アブラハムゆかりの子孫達の国には一切手出しせず、むしろ平和に通行しようと許可を求めたのに尽く断られてしまい、仕方なしに、死海南側の迂回ルートを通って行て、そうしてモアブとエモリ人の国境であるアルノン川まで来た所、アルノン川の北に住んでいたエモリ人達は、故なく武力で攻めてきたために、イスラエルは返り討ちにし、そうしてこのアルノン川以北の地は、正当防衛的な形でイスラエルのものとなったのだ。
つまり、アモン人らが所有権を主張しているアルノン川からヤボクに至る土地は、元々、エモリ人の土地であり、彼らの「アルノン川以北は元々自分のものだったから返せ」という主張は、偽りのあつかましい主張なのだ。

そのような偽りの主張は、そのまま看過して良いものではない。
偽りを黙認し、放置しておくなら、それが既成事実化してしまい、やがては実際的に奪われてしまう。いわゆる「言った者勝ち」の論理である。
サタンのやり口も全く一緒だ。
偽りの所有権を身勝手に主張し、その主張の勢い飲まれたり無抵抗だったりしていると、図に乗ってもっと侵入して来るため、そのような偽りに対しては、必ず対処しなくてはならない。

サタンが仕掛けて来る偽りの所有権主張への対処は、自分の力や議論で勝とうとする事よりも、御言葉の真理を突きつけ、上の権威に戦いを委ねるほうが確実である。
社会では、暴力団が不法な脅迫や暴力で訴えて来るなら、弁護士を呼んで、法を盾に取って守ってもらうのが通例であり、また、会社組織では、自分の手に負えない案件が来たなら、上司に振って任せるのが通例であるが、霊の戦いも、全く同じである。
敵である悪魔やサタンが何か訴えて来たなら、御言葉という最高の法を盾にとって弁護者である主に守ってもらい、また、自分の手に負えない案件が来たなら、上の権威であるキリストに振るものである。

エフタは、相手の偽りに対して、真理で返したばかりでなく、この争いを、最高の上司であるイスラエルの神、主へと持って行った。
『イスラエルの神、主はその民イスラエルの前からアモリびとを追い払われたのに、あなたはそれを取ろうとするのですか。あなたは、あなたの神ケモシがあなたに取らせるものを取らないのですか。われわれはわれわれの神、主がわれわれの前から追い払われたものの土地を取るのです。』(士師記11:23-24)

偶像の神ケモシュ対、天地を創られたまことの神、主。この戦いに持っていったなら、もう勝負は見えた。
『イスラエルはヘシボンとその村里に住み、またアロエルとその村里およびアルノンの岸に沿うすべての町々に住むこと三百年になりますが、あなたがたはどうしてその間にそれを取りもどさなかったのですか。わたしはあなたに何も悪い事をしたこともないのに、あなたはわたしと戦って、わたしに害を加えようとします。審判者であられる主よ、どうぞ、きょう、イスラエルの人々とアンモンの人々との間をおさばきください』」。しかしアンモンの人々の王はエフタが言いつかわした言葉をききいれなかった。』(士師記11:26-27)

このように、エフタは見事、真理の言葉によって相手の不真実を暴き出し、さらに、この戦いをアモン人の神対イスラエルの神へと持って行った。
私達もこのように、真理による対決方法を身につけるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:人からは捨てられても主が用いる器(士師記11:1-11):右クリックで保存

『さてギレアデびとエフタは強い勇士であったが遊女の子で、エフタの父はギレアデであった。ギレアデの妻も子供を産んだが、その妻の子供たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して彼に言った、「あなたはほかの女の産んだ子だから、わたしたちの父の家を継ぐことはできません」。』(士師記11:1-2)


主が今回、イスラエルを救うために立てた士師は、遊女の子・エフタだった。
エフタのような非嫡出子は、本来、主の集会に加わる事はできない。(申命記23:2)
しかし彼は、イスラエルを救うために、主から白羽の矢が立てられた。これはどういう事か。

本来、神の民にはなれない者・なってはならない者が、神の民に加えられ、しかも、神の国のため有用に用いられる。
それは、その人の主を信じる「信仰」の故であり、また、それが信じる者にとっての醍醐味である。
エフタには主を畏れ敬う純粋な信仰があった故に、主に用いられたのだ。
私達も同じである。
私達は元々は異邦人であり、救いから遠い、罪人であったのに、主イエスを信じる信仰の故に神の民に入れ、そればかりでなく、主の御用のために用いられる者とされたのだ。

『それでエフタはその兄弟たちのもとから逃げ去って、トブの地に住んでいると、やくざ者がエフタのもとに集まってきて、彼と一緒に出かけて略奪を事としていた。』(士師記11:3)
エフタは異母兄弟から追い出されていたため、やくざ者の頭として略奪をしていたが、略奪する相手は、イスラエルから略奪していたのではなく、アモン人からだったと思われる。
なぜなら、もし彼がイスラエルから略奪しているとしたら、長老達からの申し出も無かっただろう。しかしもし彼がアモン人にいつも損害を与えていたのなら、長老達が彼に助けを求めて来たのもうなずける。
それに、彼自身は主を恐れ敬う信仰者であるので、神の民イスラエルから略奪するのは考えにくい。

エフタは、長老達からの申し出を一旦は断ったものの、長老たちは食い下がる。
『ギレアデの長老たちはエフタに言った、「それでわたしたちは今、あなたに帰ったのです。どうぞ、わたしたちと一緒に行って、アンモンの人々と戦ってください。そしてわたしたちとギレアデに住んでいるすべてのものとのかしらになってください」。エフタはギレアデの長老たちに言った、「もしあなたがたが、わたしをつれて帰って、アンモンの人々と戦わせるとき、主が彼らをわたしにわたされるならば、わたしはあなたがたのかしらとなりましょう」。』(士師記11:8-9)
エフタは「主が彼らを私に渡されるなら」と言った。
ここに、勝利は主からのものであるという、彼の正当な信仰が垣間見られる。

『ギレアデの長老たちはエフタに言った、「主はあなたとわたしたちの間の証人です。わたしたちは必ずあなたの言われるとおりにしましょう」。そこでエフタはギレアデの長老たちと一緒に行った。民は彼を立てて自分たちのかしらとし、大将とした。それでエフタはミヅパで、自分の言葉をことごとく主の前に述べた。』(士師記11:10-11)
彼は、自分が大将となって、アモン人と戦う事を、真っ先に主に報告した。
その事からも、彼の信仰の純粋である事を、伺い知る事が出来る。

人々は、彼が遊女の子である事を理由に軽んじ、一度は捨てたが、主は、御目をもってあまねく全地を見渡し、心が主にひとつとなっている人を探され、その物をもちいられる。(2歴代誌16:9)
神はこのように、人から軽んじられている人を、あえてよく用いられる。
なぜなら、救いは人の力や知恵によるのではなく、ただ神によるものであると、人々が知るためだ。
『兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。』(1コリント1:26-29)

礼拝説教メッセージ音声:憐れみの扉を開いていただくには(士師記10:1-18):右クリックで保存

『アビメレクの後、イッサカルの人で、ドドの子であるプワの子トラが起ってイスラエルを救った。彼はエフライムの山地のシャミルに住み、二十三年の間イスラエルをさばいたが、ついに死んでシャミルに葬られた。彼の後にギレアデびとヤイルが起って二十二年の間イスラエルをさばいた。彼に三十人の子があった。彼らは三十頭のろばに乗り、また三十の町をもっていた。ギレアデの地で今日まで、ハボテ・ヤイルと呼ばれているものがそれである。ヤイルは死んで、カモンに葬られた。』(士師記10:1-5)

アビメレクの荒んだ統治の後、主はトラとヤイルという士師を任命し、イスラエルをさばかせた。
その合計45年間、平和だったようであるが、彼らが死んだ後、イスラエルはさっそく主を捨て去り、不従順の時代に逆戻りした。

『イスラエルの人々は再び主の前に悪を行い、バアルとアシタロテおよびスリヤの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモンびとの神々、ペリシテびとの神々に仕え、主を捨ててこれに仕えなかった。主はイスラエルに対して怒りを発し、彼らをペリシテびとの手およびアンモンびとの手に売りわたされたので、彼らはその年イスラエルの人々をしえたげ悩ました。すなわち彼らはヨルダンの向こうのギレアデにあるアモリびとの地にいたすべてのイスラエルびとを十八年のあいだ悩ました。』(士師記10:6-8)
彼らは今までに無いほど多くの種類の神々を拝むようになってしまっている。
今回、イスラエルを悩ませるために主が用いられたのは、ペリシテ人とアンモン人であるが、イスラエルはペリシテ人やアンモン人の神を頼りにした結果、そこの人々によって苦しめられた。皮肉なものである。
人が主を捨てて、別のものに頼るなら、主はその人を立ち返らせるため、その頼りにしたものを用いて懲らしめられる。
例えば主よりもお金に頼るなら、主はその人をお金によって苦しめられ、主よりも異性のほうを取るなら、主は異性を用いて懲らしめられるものだ。

『またアンモンの人々がユダとベニヤミンとエフライムの氏族を攻めるためにヨルダンを渡ってきたので、イスラエルは非常に悩まされた。そこでイスラエルの人々は主に呼ばわって言った、「わたしたちはわたしたちの神を捨ててバアルに仕え、あなたに罪を犯しました」。』(士師記10:9-10)
イスラエルは、自分たちが罪を犯した、と告白している。
今回は18年目にしてやっとである。
しかし、主の返事はつれない。

『主はイスラエルの人々に言われた、「わたしはかつてエジプトびと、アモリびと、アンモンびと、ペリシテびとからあなたがたを救い出したではないか。またシドンびと、アマレクびとおよびマオンびとがあなたがたをしえたげた時、わたしに呼ばわったので、あなたがたを彼らの手から救い出した。しかしあなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。それゆえ、わたしはかさねてあなたがたを救わないであろう。あなたがたが選んだ神々に行って呼ばわり、あなたがたの悩みの時、彼らにあなたがたを救わせるがよい」。』(士師記10:11-14)
せっかく人々が自分の罪を告白しているのに、何故、主はそんなにつれないのか。
それは彼らは、口先では自分達が悪かったと告白しているものの、実はまだ偶像の神々を手放していなかったからだ。

もし彼らが、主のつれない返事に引き下がっていたならば、災いはまだ続いていただろう。
しかしイスラエルの民は、主に食い下がった。
『イスラエルの人々は主に言った、「わたしたちは罪を犯しました。なんでもあなたが良いと思われることをしてください。ただどうぞ、きょう、わたしたちを救ってください」。そうして彼らは自分たちのうちから異なる神々を取り除いて、主に仕えた。それで主の心はイスラエルの悩みを見るに忍びなくなった。』(士師記10:15-16)

彼らは今まで頼りにしていた神々を捨ててて、主に願い求めた。
そこで、主は彼らをあわれまずにはいられなくなった。
私達も同じである。
主の忌み嫌われるものを手放さないまま、口先でいくら自分が悪かったと告白しても、主からつれない返事を受けるだけである。
しかし、それらを手放して主に憐れみを願うなら、主は私達を憐れまずにはおられない。

主の忌み嫌われるもの、それは、容易には手放せないものかもしれない。習慣的なくせや、性格的な問題、あるいは、依存性のものなど。
そのような場合は、それに対し、「イエス様の名前によって」断ち切る事を、自らに宣言するとよい。
イエス様の名前は何も、誰か他人の病や悪霊を追い出すだけのものではない。
自分自身の手放すべき性質や、自分の人生の呪われている領域に対し、死をいのちに飲み込む事をイエスの名によって宣言するなら、今まで固く縛られていた領域は解放され、それまで閉じていた祝福の窓は開かれて行くのである。

私達も、主以外のものに頼っていたものを捨て去り、主に立ち返るなら、主は憐れみの扉を開いて下さるのだ。

イサクの嫁探しを託されたアブラハムの老僕(創24:1-10)
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アブラハムがイサクを捧げて以来、主はあらゆる面で彼らを祝福しておられた。イサクは成長し、嫁を迎えるべき歳になった。イサクが結婚した時は40歳だったが、彼はなぜ、その歳まで結婚しなかったのか。
それは、彼に「相応しい助け手」が見つからなかったからである。相応しい結婚相手とは、家柄でも資産でも、まして美しさでもない。主を敬う信仰がある事である。彼らが住んでいたカナン地方は、偶像礼拝や不品行がはびこり、イサクをそのカナンの女と結婚させるなど、アブラハムは断じて許さなかったが、サラは死んでしまったし、アブラハムも老い、イサクも40歳になろうとしている。そろそろ結婚相手を見つけなくてはならないが、周りはカナン人ばかり。セムの子孫の神を敬う女性は身近にいないし、訪ねにも来ないし、主の具体的な指示も、特に無い。そこで彼は、待ちの姿勢を止め、信仰による攻めの行動に出た。
私達には諸々の選択において、何でもかんでも、具体的な指示が主から与えられる訳ではない。
アブラハムには「あなたの子孫にこの地を与える」(7節)とは言われていたが、イサクにいつ、誰と結婚させよ、などと、具体的な指示まではなかった。将来像は御言葉によってはっきりしているのに、そこに進めず途中で留まってしまっている。そして主の具体的な示しは無い。そういう場合は、どうすべきだろうか。
サラはかつて、自分に中々子が生まれないのに焦り、自ら考案した世の方法を採用して、失敗した。
アブラハムは今回、与えられている約束の御言葉を軸にし、それを元に、今、どう動くべきかを逆算した。
物事が中々進まない時、静かに御言葉を思い起こし、今、主が自分に求めておられる事は何かを見極め、自主的に主と共に歩む(ハーラフする)事を選択し、行動を取る事を、主は望んでおられるのだ。

そこでアブラハムは、最年長の最も信頼の置ける僕を呼び寄せた。この僕は、かつてアブラハムの財産相続の候補だった、ダマスコのエリエゼルと思われる。エリエゼルは「神は助け」「慰め主」という意味で、新約で言う「助け主」と同じ言葉であるが、彼はイサクの嫁探しにおいて、その名前の通りの事を為す事になる。
アブラハムは、手を腿の間に入れる「最も厳かな誓い」を彼にさせたのだが、誓いの内容は成功確率の極めて低いものであった。すなわち、彼の故郷カルデヤのウルに行き、親族の中からイサクに相応しい嫁を連れて来なさい、というのだ。もし皆さんが未婚女性だとしたら、千キロ程むこうの、一度も行った事のない国・一度も会ったことのない男性に、信仰によって嫁ぎに行けるだろうか。
老僕は、イサクをそこに連れて行っても良いかを聞く。実際に面と向かって会っている男性となら、結婚する気も起きるかもしれない、と、考えたのであろうが、アブラハムの答えは、NOであった。(8節)
ロトがソドムやエジプトを見て、悪い価値観に染められてしまったように、イサクが異国の有り様に魅了され、今まで育んできた信仰生活から離れてしまうような事があってはならない、とアブラハムは思った事だろう。
どんな人と結婚するかを、おろそかにしてはならない。ノアの時代、神の子たちは人の女が美しいのを見て妻にして人類を滅びに招いてしまったし、ソロモン王やアハブ王、サムソンも、不信仰な妻によって惑わされ、その身に滅びを招いてしまった。

アブラハムは、約束が中々成就されないからというので、手近なカナンの女から選ぶ事は無く、またイサクをこの約束の地から離れさせる事も無く、人間的に見れば確率の最も低い方法、かつ、御心に最も近い方法を選び、この僕に行動させた。それは主への全き信頼があったからだ。
主は今までの人生を、ずっと導いて下さった。だから、イサクの嫁探しにおいても、主が御使いを使わして導いて下さるに違いない。そう信じたからこそ、しもべに堂々と指示する事が出来たのだ。
結婚に限らず、人生の重要な場面において、望むものが中々与えられないような時、そして主からの具体的な導きが無い時は、与えられている御言葉から逆算し、積極的に信仰の行動を取り、主の守りと導きに従って、祝福を勝ち取るのだ。
今、進もうとしている道が、御心にかなっており、御言葉の裏付けもあるならば、どんなに確率が低いように見えても、主が為して下さると信じ、進んで良いのである。逆に、御言葉の裏付けが無い単なる世の方法であるならば、いかに成功確率が高いように見えても、一旦止めて、御言葉を思い巡らすべきである。
アブラハムのように主への信頼を積み上げ、主の確かなご性質を経験し、ますます信仰によって行動し祝福を勝ち取って行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
十字架につけられたキリストの福音の力(使徒18:24-28):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
天の御国の弟子となった学者(マタイ13:44-52):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
結局のところ、神を恐れその命令を守れ(伝道者の書12:9-14):右クリックで保存

【概要】

伝道者の書12章9-14節を基に、知恵の真の源と、神を恐れ命令を守ることの重要性について説く。

【聖書箇所】

伝道者の書12章9-14節

【戒めの言葉】

知恵を持つだけでなく、それを実践することが重要である。

【勧めの言葉】

神を恐れ、その命令を守ることが人間にとって最も大切である。

【悔い改めの促しの言葉】

多くの知識を得ても、それを守り行わなければ意味がない。

【***詳細***】

今日、私たちが学ぶみ言葉は伝道者の書12章9節から14節です。この箇所は、ソロモンが書き残したものです。

ソロモンは知恵が与えられた人でした。人類で最も知恵が与えられたと言っても過言ではありません。彼は多くの箴言をまとめ上げました。聖書の中に箴言が記されていますが、ソロモンが本当にたくさんの知恵の言葉をまとめ上げました。その中に記されていることは本当にためになり、また人生の知恵で満ちています。それを守り行うならば、確かに成功して幸いを受けるでしょう。

しかし、知恵を持っているか、あるいは知恵の書を書き記したかどうかよりも、その知恵をその人本人も守って行ったかどうか、それが重要なのです。11節には「知恵あるものの言葉は牧畜のようなもの、編集されたものはよく打ち付けられた釘のようなものである。これらは一人の羊飼いによって与えられた。」と書かれています。

この「一人の羊飼い」とは、主なる神のことです。ダビデも「主は私の羊飼い」と言っています。この羊飼いが、ソロモンに知恵を与えたのです。ソロモン自身がいろいろ本を調べたり勉強したりして知恵を身につけたのではなく、主が誰にも勝る知恵を与えてくださったから、ソロモンはこのような知恵者となったのです。

私たちは、すべての知恵の源である主を求めるべきです。知恵と刑事の例は主から来るものです。そしてその知恵にあって、歩むもの、そして知恵が与えられたのであるならば、その知恵を用いて、確かに知恵を人に伝えること、それも重要です。でも、人に伝えても自分自身がその知恵に記されていることを守り行わないなら、一体何になるでしょうか。

ソロモンは知恵が与えられて、それを書き記して多くの人々に伝導しました。宣べ伝えました。でも結局のところ、彼は彼自身を救ったわけではありませんでした。12節には「我が子よ。これ以外のことにも注意せよ。多くの本を作ることには限りがない。多くのものに熱中すると体が疲れる。」と書かれています。

彼自身、多くの本を作りました。多くのものに熱中しました。でも結局それは彼自身の体を疲れさせるだけでした。神様抜きで、また御言葉を守り行うこと抜きでいろいろなことをしても、それはただただ体が疲れるだけなのです。御言葉を除いたところで空回りしてもどうしようもありません。

本当に滅びる人、あるいは幸いを得られない人の共通する特徴というのが、自分の中が忙しい、頭の中が自分の言いたいこと、自分の訴えたいことでいっぱいいっぱいの人です。そういう人は聞く耳を持たないのです。自分の口で何かを教えたい、自分で何か言いたい、自分で編み出したことを伝えたいという、そういうことだけで思いが塞がれて、唇からベラベラと出すのです。

そういう人は、御言葉が語られている時や、誰か人が話している時に、その話している言葉に耳を傾けません。むしろ思いの中でぐるぐる巡らして、それで、その話している人の話が途切れた途端、その自分の中に思い巡らしていたことをバーッとぶちまけるのです。

ソロモンはその羊飼いの声をないがしろにして、みことばが語られているとき、それを書き記して、本にして、編集するということをしました。確かに与えられた恵みを書き記すことは良いことですが、でも、その聞いている時間を紛らわすために書いているような人もまたいるのです。与えられた言葉「ああ、ありがたい、ありがたい」と言ってノートに書き記しはするのですが、でも翌日たっても、その翌々日になっても、その書き記された言葉を思い出すことなく、もう書き記したら、もうページの狭間に埋もれさせるだけで、そういう人は本当に災いが多いものです。

皆さん、どうかそのようなものにならないで、書き記されているみ言葉はしっかりと守り行うこと、それにて幸いを得るべきです。ソロモンは結論として言います。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ、神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」

結局のところ、多くの書物を書き記すことはただ疲れるだけです。むしろ、書き記すことよりも、守り行うことをしなさいということが肝心です。ソロモン自身、本当に書き記してきた、また多くの知恵を人々に伝えた。それだけでは、ただ単に疲れるのです。むしろ自分自身が神様を恐れて神様の命令を守り行うことが大切なのです。

教会においては、もう耳にタコができるほど聞いてきたことですね。神様の命令を聞いて守り行いなさい。旧約聖書にも何度も何度も耳にタコができるほど書いてあることですが、でも人は何かと、もう耳にタコができることほど守り行うということをしないのです。そういう性質があるのか、それとも神様の命令を守り行うことが、よっぽど耳にタコができるほど言っても言っても聞かない性質が人間にあるのか。とにかく幸いの法則、それは主のみ言葉を聞いて守り行うことであるのですが、でもそれをしないのです。

【結論】

皆さん、どうか守り行ってください。神様を恐れ、敬い、御言葉に記されていることを守り行うならば、皆さんは幸いを得ます。ソロモンは本当に多くの箴言や、また知恵の言葉を記してきました。皆さんも多くのことを記したりするでしょう。でもそれも確かにある程度は有益ですが、最も大事なのは、皆さんの心の板に書き記して、それを守り行うことです。紙のノートに書くよりも、皆さん自身の心の板に記して、そして皆さん自身が御言葉を守り行うということ、これを実践すること、これがすべてのすべてです。どうか皆さんはこの幸いの法則、御言葉を聞いて守り行うということ、もうこの聖書には何度も何度も記されていることをしっかりと守って、そして幸いの人生を歩んでいく皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福いたします。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
愛しあう故に与え合う(創世記22:1-2):右クリックで保存

 

礼拝説教メッセージ音声:アビメレクという茨から火がのぼり(士師記9:41-57):右クリックで保存

『こうしてアビメレクは引き続いてアルマにいたが、ゼブルはガアルとその身内の人々を追い出してシケムにおらせなかった。翌日、民が畑に出ると、そのことがアビメレクに聞えた。アビメレクは自分の民を率い、それを三組に分け、野に身を伏せて、うかがっていると、民が町から出てきたので、たちあがってこれを撃った。』(士師記9:41-43)


アビメレクは、ガアルを追い出しただけでは飽きたりなかった。
シェケムの人々は、畑仕事をするために町から出てきた。
アビメレクはもうガアルが追い出された事で「気が済んだ」と彼らは思っていたのだろう、日常生活に戻ろうとしていたた所を、アビメレクは待ち伏せして、殺戮し、また、町を襲って住人を殺し、破壊した後、塩をまいた。(士師記9:43-45)
塩をまいたのは、その町が汚れたものである事を示し、それを自分達”正規軍”が懲罰して清めた、という事を内外に示すためであろう。
それで彼はさらに勢いづき、別の所を攻め取るために、進んで行った。

『シケムのやぐらの人々は皆これを聞いて、エルベリテの宮の塔にはいった。』(士師記9:46)
ここで「塔」と口語訳で訳された言葉は、元来、戦いの時に立て篭って抗戦するために用いる「とりで」のようなものの意味で、新改訳では「地下室」、新共同訳では「地下壕」と訳されている。
また、「エルベリテの宮」を直訳するなら「ベリテの神の家」、つまり彼らは、偶像礼拝施設の中の、敵がうかつに攻め込めないような所に、立て籠もったのである。

『アビメレクは自分と一緒にいた民をことごとく率いてザルモン山にのぼり、アビメレクは手におのを取って、木の枝を切り落し、それを取りあげて自分の肩にのせ、一緒にいた民にむかって言った、「あなたがたはわたしがしたことを見たとおりに急いでしなさい」。そこで民もまた皆おのおのその枝を切り落し、アビメレクに従って行って、枝を塔によせかけ、塔に火をつけて彼らを攻めた。こうしてシケムのやぐらの人々もまたことごとく死んだ。男女おおよそ一千人であった。』(士師記9:48-49)
アビメレクは、逃げ場の無い彼らを、火攻めという残酷な方法で殺し、それでも飽きたらず、さらに次の所を攻めに行く。
彼は一見、勝利に勝利を重ね、快進撃しているように見えるが、それは一時的であり、彼がもっと傲慢になって自ら滅びへと邁進して行くように、主がしておられるのである。

『ついでアビメレクはテベツに行き、テベツに向かって陣を張り、これを攻め取ったが、町の中に一つの堅固なやぐらがあって、すべての男女すなわち町の人々が皆そこに逃げ込み、あとを閉ざして、やぐらの屋根に上ったので、アビメレクはやぐらのもとに押し寄せてこれを攻め、やぐらの入口に近づいて、火をつけて焼こうとしたとき、ひとりの女がアビメレクの頭に、うすの上石を投げて、その頭骸骨を砕いた。
アビメレクは自分の武器を持つ若者を急ぎ呼んで言った、「つるぎを抜いてわたしを殺せ。さもないと人々はわたしを、女に殺されたのだと言うであろう」。その若者が彼を刺し通したので彼は死んだ。』(士師記9:50-54)

将軍シセラがヤエルに殺された時のように、将軍や王などが女に殺されて死ぬは、かなりの恥であった。
それでアビメレクは、そのそしりを受けないようにと、道具持ちの若者に自分を殺させるという”工夫”をしたものの、のちの時代には、彼は「女によって殺された」と語り継がれており、しかも、城壁にうっかり近づき過ぎると、アビメレクのように女にも殺されかねない、と、注意喚起の象徴のようにされたようである。(2サムエル記11:20-21)

『イスラエルの人々はアビメレクの死んだのを見て、おのおの去って家に帰った。このように神はアビメレクがその兄弟七十人を殺して、自分の父に対して犯した悪に報いられた。また神はシケムの人々のすべての悪を彼らのこうべに報いられた。こうしてエルバアルの子ヨタムののろいが、彼らに臨んだのである。』(士師記9:55-57)
エルバアルの血の唯一の生き残りであるヨタムは、こう預言していた。
『アビメレクから火が出て、シケムの人々とベテミロとを焼きつくし、またシケムの人々とベテミロからも火が出てアビメレクを焼きつくすでしょう。』(士師記9:20)
彼が預言した通り、アビメレクという”いばら”は、シェケムを焼き、アビメレク自身も、相手に”火”をつけようとしている最中に、女によって脳天を割られ、火の滅びは自分の頭上に返った。

血を流すものは血を流され(創世記9:6)、剣を取る者は剣によって滅びる。(マタイ26:52)
『あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。』(ヤコブ2:13)
私達は神を恐れつつ、御言葉に従い、柔和な者、地を相続する者として、安全に歩んでいきたい。

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