メッセージ - 201410のエントリ
礼拝説教メッセージ音声:神を恐れない者に現れる特徴(士師記9:26-40):右クリックで保存
アビメレクがイスラエルを治めるようになって以来、アビメレクとシェケムの人々との間に、争いが続いていたが、そこに、ガアルという者が来た。
『さてエベデの子ガアルはその身内の人々と一緒にシケムに移住したが、シケムの人々は彼を信用した。人々は畑に出てぶどうを取り入れ、それを踏み絞って祭をし、神の宮に行って飲み食いしてアビメレクをのろった。』(士師記9:26-27)
神の宮、といっても、それは偶像の宮であり、ガアルはそこでシェケムの人々と一緒に飲み食いしながら、アビメレクの悪口に花を咲かせた。
シェケムの人々は、ガアルのアビメレク叩きに、そうだそうだと言って持ち上げたのだろう。
ガアルは気が大きくなって「アビメレクに向かって『おまえの軍勢を増して出てこい』と言うであろう。」と大言壮語した。(士師記9:28-29)
上司の面前では言えない大口を、陰の酒の席で互いに言い合っているようなものである。
しかし、それを聞いていたアビメレクの役人ゼブルは、彼らに反乱の心がある事を、アビメレクに告げ口する。
『町のつかさゼブルはエベデの子ガアルの言葉を聞いて怒りを発し、使者をアルマにおるアビメレクにつかわして言わせた、「エベデの子ガアルとその身内の人々がシケムにきて、町を騒がせ、あなたにそむかせようとしています。それであなたと、あなたと共におる人々が夜のうちに行って、野に身を伏せ、朝になって、日ののぼるとき、早く起き出て町を襲うならば、ガアルと、彼と共におる民は出てきて、あなたに抵抗するでしょう。その時あなたは機を得て、彼らを撃つことができるでしょう」。』(士師記9:30-33)
アビメレクはこれを聞いて、先手を打ち、ゼブルの言うとおりに備えて、この反乱を未然に防いだ。
そうしてガアルは追い出され、多くの人々が刺殺され、倒れた。
こうしてアビメレクは反乱分子を平定した、はずだが、彼はなおシェケムを徹底的に攻撃して行く。
このように彼らが憎みあい、骨肉の争いをするのは、神がそのようにしているためである。
神を恐れず、人を人とも思わず、そして自分の欲望を遂げるためには、手段を選ばないような者達を、神はさらに良くない思いへと引き渡され、自滅して行くに任せられる。
『彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。』(ローマ1:28-31)
この、神を恐れない者に現れる特徴のリストを見ていると、実に、アビメレクやガアル、シェケムの人々の性質そのものであると分かる。
これらの良くない思いは、ひとえに、神を恐れない所から来る。
そしてその特徴は、特に、偶像礼拝者に顕著である。
『なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。』(ローマ1:21-25)
私達はいつも神への畏れを持ち、御言葉に親しみ、自らをきよく保つべきである。
そうするなら、さらにさらに良き性質を身に帯びるようになり、主に愛され、守られるようになって行くからだ。
礼拝説教メッセージ音声:主が悪霊を送られる時(士師記9:22-25):右クリックで保存
『アビメレクは三年の間イスラエルを治めたが、神はアビメレクとシケムの人々の間に悪霊をおくられたので、シケムの人々はアビメレクを欺くようになった。これはエルバアルの七十人の子が受けた暴虐と彼らの血が、彼らを殺した兄弟アビメレクの上と、彼の手を強めてその兄弟を殺させたシケムの人々の上とに報いとなってきたのである。シケムの人々は彼に敵して待ち伏せする者を山々の頂におき、すべてその道を通り過ぎる者を略奪させた。このことがアビメレクに告げ知らされた。』(士師記9:22-25)
主は、敢えて邪悪な事を行う者や、御言葉を退けて肉欲に従って歩むような者達には悪い霊を送り、その者を災いへと向かわせる事がある。
イスラエルの最初の王・サウルは、主の御声に聞き従わず、御言葉を退け続けたので、主は彼を王位から退けて悪い霊を送り、彼は狂気へと走って行ったし、イスラエル最悪の王・アハブの時も、主は彼に惑わす霊を送り、滅びへと導いた。
サウル王も、アハブ王も、共通している事は、預言者の言う事を聞かず、自分に都合の良い事を言ってもらう者を身近に囲って、真実である主の言葉を退けた事だ。
真理から目をそむけ、自分に都合の良い「偽り事」にばかり目を向けている者には、主から悪い霊を送られてしまうのだ。
『不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。』(2テサロニケ2:8-12)
霊だからと言って、何もかも信じてはならない。
主からのものでない霊は、その人を滅びに導き、神の民を惑わし、混乱させ、滅びへと導いてしまうからだ。
『愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。』(1ヨハネ4:1-3)
私達はむしろ、あらゆる偽りや悪しき霊に対し、また、戦いを挑んでくる肉欲に対し、対抗するべきである。
いつもキリストと交わり、いつも御言葉によく親しんでいるなら、そのような「偽り」が来た時にはすぐに分かるし、どのように対処すれば良いのかも判る。
人々が健全な教えから離れ、勝手気ままな道に歩んでいこうとするような時代こそ、真理の御言葉に目を向けるべきである。
『御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。』(2テモテ4:2-5)
礼拝説教メッセージ音声:主を差し置いて王を求める事の災い(士師記9:7-21):右クリックで保存
イスラエルに誠実を尽くしたギデオンすなわちエルバアルの七十人の子達は、アビメレクの野心によって虐殺され、その惨劇の唯一の生き残りであるヨタムは、ゲリジム山に登って、その事をした者達に呼ばわった。
『ある時、もろもろの木が自分たちの上に王を立てようと出て行ってオリブの木に言った、『わたしたちの王になってください』。しかしオリブの木は彼らに言った、『わたしはどうして神と人とをあがめるために用いられるわたしの油を捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう』。』(士師記9:8)
この「もろもろの木」は、アビメレクをかついだシェケムの人々をあらわしているのだろう。
たとえの中で、その木々は、自分達を治める王になって欲しいと、オリーブの木、いちじくの木、ぶどうの木に求めているのだが、次々と断られる。
オリーブの木からは『わたしはどうして神と人とをあがめるために用いられるわたしの油を捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう。』と、またいちじくの木からは『わたしはどうしてわたしの甘味と、わたしの良い果実とを捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう。』と、ぶどうの木からは、『わたしはどうして神と人とを喜ばせるわたしのぶどう酒を捨てて行って、もろもろの木を治めることができましょう。』と言って断られた。
自分の分をわきまえている人は、敢えて王となる事は望まないものであり、ただ、神様から与えられた賜物を用いて、神と人とを喜ばせる良き実を結ばせる事で満足するものである。
しかし、どうしても自分たちが好むように治めて欲しいと願う者達は、どうしても王を求めるものであり、そして彼らはその事が主を退けている事に気づいていない。(1サムエル8章)
結局、彼らが王になって欲しいと行き着いた最終先は、いばらであった。
『そこですべての木はいばらに言った、『きてわたしたちの王になってください』。いばらはもろもろの木に言った、『あなたがたが真実にわたしを立てて王にするならば、きてわたしの陰に難を避けなさい。そうしなければ、いばらから火が出てレバノンの香柏を焼きつくすでしょう』。』(士師記9:14-15)
この「いばら」はアビメレクを指している。彼らは、最も愚かなものを、王に立ててしまったのだ。
そこでヨタムは言う。
『あなたがたがアビメレクを立てて王にしたことは、真実と敬意とをもってしたものですか。あなたがたはエルバアルとその家をよく扱い、彼のおこないに応じてしたのですか。わたしの父はあなたがたのために戦い、自分の命を投げ出して、あなたがたをミデアンの手から救い出したのに、あなたがたは、きょう、わたしの父の家に反抗して起り、その子七十人を一つの石の上で殺し、その腰元の子アビメレクをあなたがたの身内の者であるゆえに立てて、シケムの人々の王にしました。』(士師記9:16-18)
シェケムの者達は、エルバアルの恩を、仇で返して来た。
自分達に都合よくしてもらいたいがために、恩ある人々を平気で殺して、都合よく王を仕立てる。そのような者には、呪いがもたらされる。
『あなたがたが、きょう、エルバアルとその家になされたことが真実と敬意をもってしたものであるならば、アビメレクのために喜びなさい。彼もまたあなたがたのために喜ぶでしょう。しかし、そうでなければ、アビメレクから火が出て、シケムの人々とベテミロとを焼きつくし、またシケムの人々とベテミロからも火が出てアビメレクを焼きつくすでしょう」。』(士師記9:19-20)
ヨタムはこのように宣言したが、最終的にはその通りに、彼らは互いを火で焼き合うような事になって行く。
ヤコブは言う。
『わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。・・・舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。』(ヤコブ3:1-6)
私達は、いたずらに人の上に立って教師のようになろうとしたり、まことの王であるキリストを差し置いて、自分が王のようになろうとすると、その高慢が、自分自身を焼きつくし滅ぼしてしまう元となる。
私達はただ、与えられている賜物に従って、神と人とを喜ばせる実を結んでいくべきである。
アブラハムとイサク - 自らを捧げる礼拝(創22:1-18)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
念願の子イサクもすくすくと成長して行き、楽しく順風満帆な生活を送っているかのようなアブラハムだったが、主はそんな彼に、最大の試練を与える。その試練とは、彼の愛している独り子イサクを捧げる事である。
神は、伊達や酔狂で「捧げよ」と命じているのではない。アブラハムがどれだけイサクを愛しているのかを知らない訳ではないし、神は、ひとり子を捧げるとはどんなに重く辛い事であるかを、知っておられる。
それでもアブラハムはイサクを捧げる必要があったのだ。それは、イサクも、それ以降生まれ出てくる子孫達も、神のものとされ、その子孫から救い主キリストをもたらし、全人類を彼にあって救うため(18節)である。
イエスキリストは救い主、神のひとり子である。神はそのひとり子を、世を救うための身代わりの犠牲とし、彼を救い主として信じる者には、罪の赦しと、神の子としての特権と、永遠の命が与えられるのだ。
『アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。』(創世記22:3) 彼は間髪入れず準備し、翌朝出発した。
彼には大勢の僕もいたが、連れて行ったのは二人の若者だけだった。アブラハムは若者たちにも、恐らくサラにも、「イサクをささげに行く」と具体的に言ってはいなかっただろう。主から示された事が、信仰の弱い人のつまづきになってしまうような場合は、全てを明らかにせず、隠しておいたほうが良い事もあるのだ。
そしてこの場面には、一切、アブラハムの感情表現が記されていない。イシュマエルを追い出すべき時は非常に悩んだ(創21:11)し、サラが死んだ時もアブラハムは嘆いて泣いた(創23:2)のに、この、彼の人生最大とも言える試練の時、聖書はなぜか、彼の心理描写を一切記述していない。
ただ彼は、二つの言葉を言っているのみである。その一つ目は、『あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます。』(創22:5)
彼と息子は礼拝して、また戻ってくる、と、彼は告白した。真の礼拝は、霊とまことによるもの、すなわち、「いのち(原意は「魂」。ギリシア語の”プシュケー”、すなわち思い・意志・感情)」を、主に捧げるものである。
アブラハムは、思い・意志・感情を捧げ尽くしたからこそ、心理描写は一切記される必要は無かったのだ。
彼の二つ目の言葉は「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう。」(創世記22:8)である。
アブラハムはただ、火と剣とを持ち、子にたきぎを背負わせて、主が示された山「モリヤ(主が備える地)」に登って行った。神は、犠牲の小羊を必ず備えて下さる。彼にはその「期待する信仰」があったのだ。
私達も礼拝において、霊(ニューマ)と魂(プシュケー)を切り分ける御言葉の剣(ヘブル4:12)と、自分の最も大事なものを焼きつくす火と、自分自身を燃やし尽くすたきぎを背負い、神は新しいいのちを備えて下さるという期待を持って、主の定められた所へ行く時、霊とまことによって捧げる礼拝の準備が整うのである。
アブラハムはイサクを実際に縛り、刃物を取り、ほふって神に捧げようとしたその時、「アブラハム、アブラハム。」と呼び声があった。2度呼びかけている所に、主の慌てぶり(?)が垣間見られる。
主はアブラハムに、愛する子を刃物で殺させ、その子をご自身に捧げさせようと、思われたのだろうか?否、彼の心を試みたのである(12節)。そしてアブラハムは、イサクは自分の手で殺され、二度と戻って来ないと思っていたのだろうか?否!彼と息子は、生きて、また戻ってくる事を、彼は信じ告白していた。(5,8節)
彼は、神は死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。(ヘブル11:19)
そして主は、イサクの代りとして捧げるべき一頭の雄羊を備えられた。『それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。』(14節)
神が私達に備えて下さる備えの羊は、まことの小羊キリストであり、神は私達の身代わりとして捧げられた。
神は私達にも、捧げる事を求められる。それは奪うためではなく、遥かに優れたものに置き換える為だ。
私達が大切に握り締めて来た思い、意志、感情の、一つ一つを、少しずつ主に手放して行く時、その手放して行った領域は、主のものとなり、私達が手放したものに遥かに勝る優れたものを備えて下さるのだ。
主はアブラハムに、ご自身をさして誓われた。すなわち、彼を大いに祝福し、子孫を天の星、浜べの砂のように増やし、その子孫は敵の門を打ち取り、全世界は、その子孫によって祝福される事を。
私達も、主の言葉に従って、自らの魂を降ろし、主に捧げるなら、主は、捧げたものをさらに優れたものによって置き換え、私達もアブラハムの子孫として与えられている約束と祝福に、あずからせて下さるのだ。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
天国と地獄は確かにある(ルカ16:19-31):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
毒麦のたとえの解釈(マタイ13:36-43):右クリックで保存
衰えて行く世の人、新しくされていく神の国の人(伝道者の書12:1-8)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 伝道者の書
- 執筆 :
- pastor 2014-10-18 19:24
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
衰えて行く世の人、新しくされていく神の国の人(伝道者の書12:1-8):右クリックで保存
【概要】
伝道者の書12章1節から8節を通して、若い日に創造者を覚えることの重要性と、年老いることの意味を考察し、キリストにある希望を説く。
【聖書箇所】
伝道者の書12章1節から8節
【慰めの言葉】
「イエス・キリストにある人は死んだ後、復活して新しい体が与えられる。」
【励ましの言葉】
「主を待ち望む者は新しく力を得、わしのように翼をかって登ることができる。」
【戒めの言葉】
「若い日にあなたの創造者を覚えよ。」
【勧めの言葉】
「この地上のものを思うべきではなく、むしろ天のものを思うべきです。」
【悔い改めの促しの言葉】
「自分の唇がどれだけ悪しきものかを認識し、主の前で改めるべきです。」
【***詳細***】
今日の御言葉は伝道者の書12章1節から8節です。「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ」とあります。年を取ると、目がかすみ、耳が遠くなり、力が衰えていくことが記されています。ソロモンは、老いを迎える前に創造者を覚えることを勧めています。年を取ると、人生の経験が増し、それに対する信頼が増してしまうため、福音を受け入れにくくなる傾向があります。だからこそ、若い日に福音をしっかりと受け入れることが重要です。
しかし、キリストにある者は、年を取ることを恐れる必要はありません。イエス・キリストにある人は、死んだ後に復活し、新しい体が与えられるという希望があります。パウロは第二コリントの手紙で、「私たちの住まいである地上の幕屋が壊れても、神のくださる建物があることを私たちは知っています」と述べています。この地上の肉体は衰えていくものですが、天において新しい体が与えられるという希望があります。
イザヤ書40章には、「主を待ち望む者は新しく力を得、わしのように翼をかって登ることができる」とあります。わしは40歳で転機を迎え、くちばしや爪を新しくし、再び力強く飛ぶことができるようになります。私たちも、古い自分を脱ぎ捨て、新しくされる必要があります。まずは言葉を新たにし、主を賛美し、御言葉を語る唇をいただきましょう。
この地上の幕屋はやがて廃れていきますが、私たちは天において新しい体が与えられるという希望を持っています。ソロモンは「すべては空」と言いましたが、キリスト者は希望を持ち続けることができます。イエス様の愛によって、私たちは日々新たにされ、若々しくされていきます。
【結論】
私たちはこの地上のものに囚われることなく、天のものを思い、日々新たにされることを求めましょう。イエス・キリストの愛によって、私たちは希望を持ち続け、若々しくされていくことができます。主の御名によって祝福し、お祈りいたします。アーメン。