メッセージ - 201501のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:真の落ち着き所へ入るための整え(ルツ記3:1-5):右クリックで保存

『時にしゅうとめナオミは彼女に言った、「娘よ、わたしはあなたの”落ち着き所(原意:家庭、憩いの場所、休みの場所)”を求めて、あなたをしあわせにすべきではないでしょうか。』(ルツ記3:1)

女性にとって落ち着き所、憩いの場所は、男性の左腕の下(雅歌2:6)、脇腹の所(創世記2:21-22)である。
当時、女性の落ち着き所である男性へと導く事は、親や、霊的指導者など、信仰的にしっかりしている人に任せるのが通例だった。

現代のいわゆる”婚活”は、いかに自分好みの、いかに条件の良い相手を見つけ、そのような人との結婚へといかに持っていくかという、自分主体な駆け引き的なものがあるが、”神の国の婚活”は、その真逆である。
神の国の婚活は、イサクの結婚のように、自分の意図や駆け引きは一切なく、霊的指導者や親に一任し、そして何より、主の御心を求めて行うものである。(創世記24章)
自分の好みや、目の慕わしさに従って結婚相手を選ぶとしたら、聖書では、大体良くない結末となってしまうからだ。(創世記6章、士師記14:3)
だから、自分よりも霊的見地が優れた親や指導者がいるなら、その指示を仰いだほうが良い。

『あなたが一緒に働いた女たちの主人ボアズはわたしたちの親戚ではありませんか。彼は今夜、打ち場で大麦をあおぎ分けます。それであなたは身を洗って油をぬり、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。ただ、あなたはその人が飲み食いを終るまで、その人に知られてはなりません。そしてその人が寝る時、その寝る場所を見定め、はいって行って、その足の所をまくって、そこに寝なさい。彼はあなたのすべきことを知らせるでしょう」。』(ルツ記3:2-4)
独身の女性が、男性の寝ている所をまくって、そこに入って寝る。
それは神の民である私達が聞くなら、眉をひそめるような事と思われるが、どういう事だろうか。

ナオミが指示したのは「足の所をまくってそこに寝なさい」「そうすれば、後に為すべき事を彼から教えてもらえる」であり、決して体で誘惑しなさい、というような事ではなかった。
ナオミは知っていたのだ。ボアズは分別を失うような男性ではない、むしろ、律法にかなった事を求めたルツに、その後彼女が為すべき事を、きっと教えてくれるだろう、と。
そして律法においては、ルツが、買い戻しの権利のある男性・以外の所へ行くほうが、不真実なのだ。

クリスチャンである私達には、積極的に飛び込んでいくべき「買い戻しの権利のある御方」がいる。それは、キリストである。
私達も、キリストが寝ている所に、すなわち、十字架の死の眠りについているキリストへと寄り添い、彼の死と一体化するべきだ。
そうするなら、キリストの復活と共に、私達も復活するのだ。(ローマ6:5)

ルツはナオミから「身を洗って」「油をぬり」、「晴れ着をまとって」、買い戻しの権利のある人・ボアズの所へ行くようにと指示したが、私達も、キリストという真の買い戻しの権利のあるお方の御前に出るために、「身を洗って」「油をぬり」、「晴れ着をまとって」行くべきである。
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26)
私達は御言葉の水によって心と霊とを洗い清め、そして聖霊の油を塗り、キリストが与えて下さった贖いの衣、すなわち、キリストの裂かれた体を身にまとって、キリストの元へと行くのだ。
ヤコブが父イサクから祝福を受ける時、兄のふりをして、動物の毛衣をまとったように、また、エステルが王の元へ行く時、王妃の衣装を身にまとったように。
身に何もまとわないで、そのまま行くとしたら、外の暗闇に放り出されてしまう。(マタイ22:11-13)

『ルツはしゅうとめに言った、「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう」』(ルツ記3:5)
ルツは、霊的指導者であるナオミの言う事に従った。
それで彼女は、ますます幸いを得ていく。

礼拝説教メッセージ音声:買い戻しの権利のあるお方(ルツ記2:19-23):右クリックで保存

ナオミは、ルツが持ってきた23リットルという分量の大麦と、彼女が持って来た炒り麦とを見て、驚いた。

このようなものは、誰の助けも借りずに得られるものではない。
『しゅうとめは彼女に言った、「あなたは、きょう、どこで穂を拾いましたか。どこで働きましたか。あなたをそのように顧みてくださったかたに、どうか祝福があるように」。そこで彼女は自分がだれの所で働いたかを、しゅうとめに告げて、「わたしが、きょう働いたのはボアズという名の人の所です」と言った。ナオミは嫁に言った、「生きている者をも、死んだ者をも、顧みて、いつくしみを賜わる主が、どうぞその人を祝福されますように」。』(ルツ記2:19-20)

ナオミは一見、何も人の役に立てない一老婦人に見えるかもしれない。
しかし彼女は、ルツ記中、最も偉大なものを多くの人々に惜しみなく与えた事に、気づいているだろうか。
その偉大なものとは「祝福」である。
実際ルツもボアズも、貧しく弱々しい時のナオミが祝福したその祝福の言葉通りになっている。

ナオミは、1章8-9節で、嫁達に「主があなたがたに恵みを賜わり、あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように。」と祝福した通りに、ルツはその後、ボアズという素晴らしい夫を得て、平和な暮らしができるようになった。
またナオミは、今回の箇所でもボアズを2度祝福したが、ボアズはその子孫からダビデ王が生まれ、王族の家系となり、さらに後には、キリストという偉大な王さえ生まれ出た。

ナオミが祝福した、その言葉どおりに嫁もボアズも祝福され、その祝福の恩恵の内にナオミは後生を過ごした。
いかに何も出来ないかのように見えても、また何も持っていないかのように見えても、そのくちびるから祝福の言葉を惜しみなく出すなら、その言葉どおりにその人自身が祝福されるのだ。
私達もぜひ、祝福の挨拶を自分のものとしたいものである。

『ナオミはまた彼女に言った、「その人はわたしたちの縁者で、最も近い親戚(原文:ゴエル)のひとりです」。モアブの女ルツは言った、「その人はまたわたしに『あなたはわたしのところの刈入れが全部終るまで、わたしのしもべたちのそばについていなさい』と言いました」。』(ルツ記2:20b-21)
このゴエルというヘブライ語は、「買い戻しの権利のある親類」「家を絶やさぬ責任のある人」とも訳す事が出来る言葉である。
律法では、身代を持ち崩してしまった人、落ちぶれてしまった人などを救うために、近親者が「買い戻しの権利のある親類」「家を絶やさぬ責任のある人」となって、救わなければならない事が定められている。(レビ記25:23-34)

この、「買い戻し(あるいは「贖い」)」というキーワードは、ルツ記だけでなく、聖書全体を通じて非常に重要なキーワードであり、現代を生きる私達一人ひとりにも関わってくる、重要な言葉である。
現代の私達をも「買い戻して」くださるお方がおられる。
『あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。あなたを”あがなわれる者(ゴエル)”は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる。・・・あふれる憤りをもって、しばしわが顔を隠したけれども、とこしえのいつくしみをもって、あなたをあわれむ」とあなたを”あがなわれる(ゴエル)”主は言われる。』(イザヤ54:5,8)

主が律法で、買い戻しを律法で制定されたように、主は、全世界すべての人々の買い戻しをも、ご自身で定められた。
全世界すべての人々は、一体何から買い戻されなくてはならないのか。
それは、全人類重くのしかかっている「罪」と「死」という負債からである。
主は一体、何を代価として買い戻しをされるのか。
それは、神の御子・キリストの尊い命によって、すなわち、彼の十字架上の身代わりの死によって、である。

主キリストこそ、まことに私達を「あがなわれる者」であり、私達の家を絶やさぬ責任のある方、買い戻しの権利のある方である。

礼拝説教メッセージ音声:恵みの深みへと立ち入らせてくれるボアズ(ルツ記2:14-18):右クリックで保存

ルツはボアズに謙虚な返事をし、その好意にあずかりたいと求めて来たため、ボアズはさらにねんごろに(親密に)、彼女を食事に招く。

『「ここへきて、パンを食べ、あなたの食べる物を酢に浸しなさい」。彼女が刈る人々のかたわらにすわったので、ボアズは焼麦を彼女に与えた。彼女は飽きるほど食べて残した。』(ルツ記2:14)

パンに酢を浸して渡す行為は、特別な親しみ・親愛の情を示す表現である。
イエス様は最後の晩餐の席で、裏切り者は誰かと弟子達に問われた時、それは自分がパン切れを浸して渡す人だと言ってから、イスカリオテのユダにパンを渡した。
状況的に、ユダが裏切り者だと示しているのは明白なはずなのに、弟子達はなぜか「祭りに必要な物を買いなさい」とか、「貧しい人に何か施すように」とか、ユダに言われたのだと思った。(ヨハネ13章)
きっとその時のイエス様の所作は、裏切り者を示す行為だとは到底思えない程、ユダへの親愛の情に満ちていたからであろう。

ボアズはルツに、パンだけでなく、炒り麦もたくさん与えた。
その量は食べきれない程だったため、彼女はその残りをナオミのために取っておいた。
私達もルツのように、まことのボアズである主の御前に、謙虚でいるなら、主は更にねんごろに語りかけ、食事を共にし(黙示録3:20)、家族も養えるようにと、押入れ揺すり入れして与えてくださるのだ。

『そして彼女がまた穂を拾おうと立ちあがったとき、ボアズは若者たちに命じて言った、「彼女には束の間でも穂を拾わせなさい。とがめてはならない。また彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。しかってはならない」。』(ルツ記2:15-16)
穂束が積まれている所は、落ち穂がたくさん落ちているが、他人にはあまり立ち入らせたくない領域である。
しかしボアズは、彼女をそこへ立ち入らせる事をゆるしたばかりでなく、わざと穂を落として、彼女が拾えるようにしてやった。

まことのボアズである私達の主も、謙虚でいる人には、さらに恵みが落ちている領域へと入らせて下さる。
そして、天の御蔵に入っている諸々の良きもを、わざと抜き取って、私達のために落として下さるのだ。
なぜこんなにも、恵みを下さるのだろうか。

ボアズ自身、異邦人としての苦労を、沢山味わってきただろう。
彼は、ルツの境遇の労苦をよく知っていたため、母のために頑張って働いている彼女のために、進んで便宜を計ってやりたかったのだろう。

ボアズがルツのそばに来て、ねんごろに語りかけ、良くしてくれたように、私達の主も、人となって私達の所に降りて来られ、人の弱さを知り、理解しておられる。
『この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。』(ヘブル4:15-16)
主はボアズのように、恵みの御座へと大胆に入ってきていいよ、そして時にかなった助けを受けに来なさい、と、招いて下さるのだ。

『こうして彼女は夕暮まで畑で落ち穂を拾った。そして拾った穂を打つと、大麦は一エパほどあった。彼女はそれを携えて町にはいり、しゅうとめにその拾ったものを見せ、かつ食べ飽きて、残して持ちかえったものを取り出して与えた。』(ルツ記2:17-18)
大麦1エパは、23リットルである。ナオミは驚いただろう。
ナオミは、自分は何もかも失って、何も残っていない、と思ったかもしれない。
しかし彼女が異邦の地で生み出した信仰の娘は、7人の息子にも勝るものなのである。

エステル - 言葉をつぐむべき時と言うべき時(エステル5:6-14)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

今年最初のメッセージとして、私達の礼拝や日常の場が王なるキリストの喜ばれる「宴会」となるために、それに相応しく、身支度を整える事、すなわち、キリストの花嫁というアイデンティティをしっかり身にまとい、「悔い改め」「主の御声に聞き」「主の御心を行う」という、主の喜ばれる「ごちそう」を用意して備えるべき事を、学んだ。そのようにするなら、どんな結果が待っているのか。エステル記から続けて学びたい。

エステルは、ハマンのユダヤ人虐殺の企てからイスラエルを救うために、多くの人々に祈られつつ、命がけで王の前に進み出た。王はそんな彼女に金の笏を伸べ、願い事は何でも叶えるとまで言った。
しかし彼女の願いは意外にも、王のために宴会を設けるのでハマンと一緒に来て下さい、というものだった。
王はその宴会の席上で、再び「願い事は何か、王国の半分でも叶えられる」と彼女に問いかけるのだが、エステルは、大事な願いごとを言う事なく、またしても、「自分の願いは、明日再び宴会を設けますので、そこにハマンと一緒に来て下さい、その時、おっしゃった通りにします」と言った。
彼女はイスラエルの存亡に関わる大事な申し立てをしようとしているのであり、その成否は、彼女の立ち居振る舞いにかかっていた。だから、軽々しく言動する事を控えたのだろう。

言葉には、言うべき時と、言ってはならぬ時とがある。人は何かと、言いたい事が言えなかった時は、それをぐるぐると思い巡らし、その「思い巡らし」を熟成させた挙句、相応しくない時に、とんちんかんな言葉を発して恥をかき、そして、それが何度も続くなら、変人扱いされ、誰にも相手にされなくなってしまうものだ。
エステルは、またもあのハマンが調子づいて何も言えなかった、訴えたい重要な事を伝える時機を逃してしまった、と、焦りはあったかもしれない。しかし私達は、主が言うべき時を備えて下さるのを、待つべきだ。
実際、一日先延ばしになったおかげで、その夜、とても大事な二つの出来事が起こる。それは、イスラエルを訴える者・ハマンが決定的に失脚するため、また、モルデカイが大昇進するために必要な出来事だった。

エステルはハマンに対し心中穏やかではなかった筈だ。しかし怒りや訴えはまだ言う時ではないとし、あくまで王妃として優雅に、しとやかに王とハマンに接し、宴会へ誘った。それでハマンは上機嫌になった。
そしてその帰り、ハマンはまたもモルデカイと会う。モルデカイが彼を見ても敬礼せず、少しも恐れていない様を見て、憤りに満たされた。彼は、王の権威を自由に行使できる程、昇進しており、輝かしい富を持ち、子供も多く、沢山祝福されているのに、たった一人、モルデカイの故に、その全てがかすんでしまった。
私達も、主から多くの幸いを頂いているというのに、たった一人の言動によって、それら全てがかすんでしまい、怒りで居ても立ってもいられない事もあるが、それは、ハマンに似た、滅ぼされるべき性質である。
私達もモルデカイのように、義を行って動じないなら、彼の存在そのものが、悪人には滅びの元となり、いかに悪人が子宝や昇進に恵まれ、幸いが100あっても、義人の1の義の行いに飲み込まれてしまうのだ。
彼の妻ゼレシュや友人たちは、22mの柱を立て、その上にモルデカイをかけさせる事を、王に進言してみてはと勧め、ハマンはそれを大いに気に入る。
それでハマンは、早速、この事を進言しに、王の所へ出て行く。普通の人が寝ている、深夜だと言うのに。
悪者は憎しみを露わにし、憎い相手の滅びを思い立ったら時をわきまえずにそれをしに訴えに行くものだ。

以上が、ハマンが貶められ、モルデカイが引き上げられるために重要な、一つ目の出来事である。
この出来事だけで見るなら、モルデカイがますます危機に陥り、ハマンはますます栄えているかのように見える。しかし実は、それが主による重要な布石だったのである。
詩篇73編にある通り、一見、悪人はいつまでも栄え、弱い人達はいつまでも虐げられているかのように見えるが、私達が悪人の所業を思い巡らす事を止め、神の聖所に入る時(同17節)、彼らの最後を悟る。
人間の悪のはびこりや悪人の所業を思いめぐらす時、苦痛で、主の御前で獣のようになってしまう(22節)。
しかし、神の聖所に入り、心をただ主に向ける時、世の何にも勝る神の平安に満たされ、主のご計画を知る事が出来るのだ。ハマンのように悪を思い巡らす事を止め、エステルやモルデカイのように善をもって悪に打ち勝ち、悪人の地位に取って代わる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
バプテスマの種類と実(マタイ3:5-17):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
与えられるしるしはヨナのしるしのみ(マタイ16:1-12):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
花嫁は閉じられた秘密の園(雅歌4:9-16):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:落ち穂を拾うルツと、ルツを拾うボアズ(ルツ記2:5-13):右クリックで保存

ボアズとルツの出会いは、はからずも、意図せずして始まった。

ルツが落ち穂を拾うために畑に入ったのは、傷心のナオミを支え養いたかったからだったが、その畑に入った事が、彼女自身の人生を大きく動かし、そればかりでなくイスラエルを、ひいては、世界史を大きく動かす事となった。

『ボアズは刈る人たちを監督しているしもべに言った、「これはだれの娘ですか」。刈る人たちを監督しているしもべは答えた、「あれはモアブの女で、モアブの地からナオミと一緒に帰ってきたのですが、彼女は『どうぞ、わたしに、刈る人たちのあとについて、束のあいだで、落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。そして彼女は朝早くきて、今まで働いて、少しのあいだも休みませんでした」。』(ルツ記2:5-7)
ルツはその畑で落ち穂を拾い始める時、偽らず、自分はモアブの娘で、ナオミと一緒に帰ってきた事を自己紹介したのだろう。
彼女を見ていた人も、彼女は朝から立ち働いている事を、ボアズに証言した。
ボアズは、親戚のナオミと一緒に来たモアブの女が、ナオミに真実を尽くした事は、あらかじめ聞いており、その彼女が実際目の前で、朝から休まず働いて来たのを見て、声をかける。

『ボアズはルツに言った、「娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。人々が刈りとっている畑に目をとめて、そのあとについて行きなさい。わたしは若者たちに命じて、あなたのじゃまをしないようにと、言っておいたではありませんか。あなたがかわく時には水がめのところへ行って、若者たちのくんだのを飲みなさい」。』(ルツ記2:8-9)
落ち穂拾いと言えば、ミレーの絵画の中で、婦人たちが何か畑仕事をしている、のどかな田園風景を思い出すが、あまりのどかなものではない。
「じゃまをしないように」と命じなくてはならない程、人から意地悪をされやすく、また、いじめの対象にされやすい行為である。(22節)
ボアズは、そんな彼女の成り立ちを全て心に留め、じゃまされたり、いじめられたりしないよう、便宜を図ってやり、しかも、若者たちの汲んだ水を自由に飲んで良い、とまで言ってくれた。

私達の毎日も、落ち穂を拾いに出かけて行くような日々であり、いじめられたり、邪魔されたりしながらでも、将来の自分や家族を養うために、恥ずかしさを忍びつつ、落ちている恵みを拾って行くようなものである。
しかし、全てを支配しておられる主は見ておられ、全能者の御翼の影に助けを求めて入る人に対しては、まことのボアズの所へと引き合わせて下さり、恵みの落ち穂が豊かに落ちている畑へと導かれ、そして周りの者達には「じゃましてはならない」と、きつく命じて下さるのだ。
ルツは落ち穂を拾っていた時にボアズに声をかけられたが、同じように私達も、主の恵みを拾っている内に、主によって拾われるのである。

『彼女は地に伏して拝し、彼に言った、「どうしてあなたは、わたしのような外国人を顧みて、親切にしてくださるのですか」。』(ルツ記2:10)
彼女は別に、好き好んでモアブで生まれたくて生まれたわけでなかったが、自分は生まれながらにして恵みを受けるには相応しくない者とわきまえていた。
私達も、別に好き好んで、こんな罪や災いの性質を持って生まれたかった訳ではない。
しかし、主はそんな私達にも、一方的な恵みを注がせて下さったという感謝を、いつまでも忘れてはならない。
クリスチャンの親切さにいつまでもぶらさがり、恵みを施してくれて当然とばかりに、あれもこれも要求し続ける者はいるが、そのような、いつまでも悔い改めの実を結ばない者は、やがて切り落とされ、火の中に投げ込まれてしまう。私達はクリスチャンだから大丈夫だ、などと、心の中で思っていてはならない。神は、こんな石ころからでもアブラハムの子孫をお造りになる事ができるからだ。(マタイ3:7-10)

『ボアズは答えて彼女に言った、「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」。』(ルツ記2:11-12)
ボアズはすっかり聞いている。彼女が父母を離れ、偶像崇拝の国を離れて来た事を。
また、新しく入った神の家族に対し真実を尽くし、イスラエルの神を自分の神とした事を。

新しい家へと嫁ぐ条件は、まず、父母を離れる事であるが、私達も、神の国へと嫁いで行くために、古き父母を離れなくてはならない。
すなわち、今まで過ごして来た世から離れ、サタンに属する罪深い性質を、捨て去る決心をしなくてはならない。
『イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。』(ルカ18:29)
報いは、死んだ後に天国でようやく受けるものではなく、この世にあって、幾倍も受けるものである。
私達は、世とサタンから離れているだろうか。新しい神の家族に対し、真実を尽くしているだろうか。
主はすっかり見ておられ、聞いておられる。そして真実を尽くした人には、豊かに報いられるようにと祝福して下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:ボアズの家の成り立ち(ルツ記2:1-4):右クリックで保存

『さてナオミには、夫エリメレクの一族で、非常に裕福なひとりの親戚があって、その名をボアズといった。』(ルツ記2:1)

このボアズが、後にルツをめとり、ダビデの王族の家系を生み出して行くのだが、今回は彼の成り立ちを見ていきたい。

ボアズの父は、サルモン(名の意味は「平和を好む」)。母は、カナン人の元遊女・ラハブである。
ラハブはカナンに生まれ、悪しき価値観・悪しき習慣の中、遊女としてそれまでの人生を過ごして来た。
彼女はイスラエルのどの女性より、御言葉の知識は少ないはずであるし、子育てをするにしても、御言葉に従って正しくできる自信は無かったであろう。
士師記の荒んだ社会情勢の中、それでもこの一家は着実に栄え、ボアズは立派な信仰者、町の有力者として育って行った秘訣は、何だろうか。
それはやはり、主から多くを赦されたため、人一倍、多く主を愛したからではないだろうか。(ルカ7:41-48)

彼女は他のどのイスラエル人女性よりも律法を知らなかったし、そのような「たしなみ」を、身につけてこなかった。
しかし彼女は、こんなに罪深く汚れた自分が、こんなにも素晴らしい恵みに預かり、きよく秩序ある生活へと入れられたために、誰よりもその恵みに感動し、実感し、主に従って歩みたいと心底願う気持ちが誰よりもあったからこそ、下手なイスラエル人女性より、遥かに優れた子育てが出来たのだろう。
御言葉の知識も、たしなみも大切だが、主を愛する心のほうが、何より大事である。

『その時ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、「主があなたがたと共におられますように」。彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。』(ルツ記2:4)ボアズは、雇い入れている従業員との間で「主が共におられるように」「主が祝福して下さるように」という、祝福の挨拶を交わしている。
という事は、家庭の中で、この祝福の挨拶が日常的に取り交わされて、育っていたのだろう。

家庭内、あるいは従業員の間で、祝福の挨拶を取り交わす事は、有力者となる重要なコツの一つである。
逆に、文句や呪いの言葉を取り交わす事は、廃れてしまう原因となってしまう。
「人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる」からだ。(箴言18:20)

ボアズの母・ラハブは、在留異国人であった故、弱い立場の人には「憐れみのわざ」をするようにと、息子によく教えた事だろう。
実際ボアズは、在留異国人ルツに、喜んで恵みを落としている。
在留異国人や、孤児、やもめを憐れむのは、主のわざである。
「主のわざ」を「自分のわざ」とし、「主の思い」を「自分の思い」とする人は、主から祝福を受けないはずが無い。
その人が、さらにそのわざを為せるようにと、主がさらに増し加え、押入れ揺すり入れして与えられるからである。

士師記に登場する人達の荒んだ有り様に比べ、ルツ記に出てくる人々は、なんと幸いな人達だろうか。
イエス様は山上で言われた。
『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。』(マタイ5:3-9)

『モアブの女ルツはナオミに言った、「どうぞ、わたしを畑に行かせてください。だれか親切な人が見当るならば、わたしはその方のあとについて落ち穂を拾います」。ナオミが彼女に「娘よ、行きなさい」と言ったので、ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。』(ルツ記2:2-3)
この、ルツとボアズの「はからずも(意図せず)」の邂逅は、将来、ナオミやルツにとって救いとなり、またイスラエルにとって、いや、全世界にとって救いの元となる。
その事はこの時、誰も知る由もない。
主は、人の「はからずも」を用い、人々の救いを紡ぎ出して行かれるのだ。

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