メッセージ - 201501のエントリ
礼拝説教メッセージ音声:マラ(苦い)になってしまったナオミ(ルツ記1:19-22):右クリックで保存
ナオミには10年ぶりの故郷ではあるが、この帰郷は、彼女にとって懐かしさよりも苦々しさに満ち満ちたものだった。
『そしてふたりは旅をつづけて、ついにベツレヘムに着いた。彼らがベツレヘムに着いたとき、町はこぞって彼らのために騒ぎたち、女たちは言った、「これはナオミですか」。』(ルツ記1:19)
彼女たちの故に街中がこぞって騒ぎ立った、という事は、エリメレクの家はベツレヘムでも有名な、そして有力な一家だったのかもしれない。実際、エリメレクの一族に属するボアズの家も、町の中で有力者であった。
女たちは「これはナオミですか(KJVでは、Is this Naomi? )」と言っている。
それもきっと、彼女が10年前、ベツレヘムを出て行く前の状況から比べ、変わり果ててしまったのを驚いたからだろう。
『ナオミは彼らに言った、「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです。わたしは出て行くときは豊かでありましたが、主はわたしをから手で帰されました。主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされたのに、どうしてわたしをナオミと呼ぶのですか」。』(ルツ記1:20-21)
10年前、彼女は、満ち足りて出て行った。他の人達よりも先んじていたような立場だったのに、今や彼女は、夫に先立たれ、息子達も財産も失ってしまった。
10年前、ナオミよりも乏しく、苦労していたような人達が、今や生活を持ち直し、子供達を産んで、彼らも成長しきている。
それに引き換え、今の自分は、ただ人の憐れみにすがるしかない。もはや、人と会う事もしたくない状況だっただろう。
しかし彼女は、「主がわたしを悩ました(KJVでは、「主が自分に敵対して証言している」)」と言っているので、彼女は、自分は主から敵対されるような事をされても仕方がない、という自覚があったのだ。
彼女たち一家は、神の定められた場所で主からの懲らしめを受ける事を避け、異邦の地へパンを求めて出て行ったがために、この災いが降った、と理解しているのだ。
私達も、この事から戒めを受けるべきである。
エリメレク一家が、パンを求めるがゆえに、神の定められた場所を離れ、わずか10年で人が驚く程落ちぶれてしまったのと同じように、キリスト者の中にも、教会での養いをつまらなく思ったり、金銀を求めるがゆえに、教会を離れ、10年も経たずに、落ちぶれてしまった、というような事を、周りで見ていないだろうか。
そのような事は、実に、ありうる話なのだ。
家族やパン、お金などで「満ち足りている」という快さ(ナオミ)を追求しても、それらは、いつ苦々しさ(マラ)になってもおかしくはない。
神の国を度外視して、世の金銀やパンを求めて、神の国を出て行くなら、なおさらだ。
神は、ご自身以外のものによって快くなろうとする「ナオミ」は、「マラ」にされる。
それは、ただ単にその人を苦しめるためではなく、その人が懲らしめを受けて、神の国へと戻し、ついには、決して色褪せる事の無い「ナオミ」へと、その人を造り替えるためなのだ。
『見よ、神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない。彼は傷つけ、また包み、/撃ち、またその手をもっていやされる。彼はあなたを六つの悩みから救い、/七つのうちでも、災はあなたに触れることがない。』(ヨブ5:17-19)
『こうしてナオミは、モアブの地から帰った嫁、モアブの女ルツと一緒に帰ってきて、大麦刈の初めにベツレヘムに着いた。』(ルツ記1:22)
ナオミは「主はわたしをから手で帰された」と言った。
しかし主は、彼女を決して手ぶらで帰していない。彼女は実は、七人の息子にも勝る、ルツを、連れ帰っている。
その事は彼女自身も、またルツ自身も、この時には分からなかった。
しかし、主を信頼し全能者の陰に拠り所を求めて来る人というものは、いかに頼りなく、力なく見えたとしても、主の前には何よりも尊く、世のいかなる力ある者のそばにいるよりも、安全なのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
「何でも求めよ」と言われるためには(ヨハネ15:5-8):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:あなたの神はわたしの神(ルツ記1:15-18):右クリックで保存
『そこでナオミは言った、「ごらんなさい。あなたの相嫁は自分の民と自分の神々のもとへ帰って行きました。あなたも相嫁のあとについて帰りなさい」。』(ルツ記1:15)
ルツの弟嫁・オルパが帰って行った先は、自分の民・自分の神の所であった。
モアブの神はケモシュという神であり、自分の願い事をかなえてもらうためには、自分の子を全焼のいけにえとしてささげさせるような神である。(2列王3:27)
オルパは確かに自分の生まれ故郷・モアブに帰り、イスラエルの家へ嫁ぐ以前のような、ある程度の安定した生活を得られたかもしれない。
しかし、永遠における彼女の記録は、ここでおしまいである。
『しかしルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。』(ルツ記1:16)
ルツは、実に素晴らしい信仰告白をしている。
彼女がエリメレクの家へ嫁いで共に過ごした10年弱、イスラエルの神はナオミ達に、幸いではなく、むしろ懲らしめばかりをもたらして来たのを見て来たはずであり、こんな恐ろしい、幸いをもたらさない神は願い下げだ、と思っても仕方無かったかもしれない。
なのに彼女は、このイスラエルの神を選んだ。
主から災いと懲らしめを受けている最中であっても、神の栄光を嫁達に証するナオミの信仰は、本物である。
ナオミは、自分達が背いた結果、このような災いに遭った事を知っていた。
それだからこそ、ルツは、このイスラエルの神こそ真実なお方だと認めたのだろう。
『あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください」。ナオミはルツが自分と一緒に行こうと、固く決心しているのを見たので、そのうえ言うことをやめた。』(ルツ記1:17-18)
この「もし・・・ならば、主が幾重にも罰して下さるように」という言い回しは、イスラエル独特の強調表現であり、ルツはナオミがそのように言うのを何度も聞いて、まねしたのだろう。
ルツは、このイスラエル人の家に嫁いで以来、ケモシュの神よりも遥かに真実で力強い神に触れ、モアブでは見たこのと無い素晴らしい風習と、その神を信じているナオミの人柄に捕らえられ、この民へと入っていく決意をしたのだろう。
私達も、この真実な神にあって新しく生まれ変わりたいのであるなら、ルツのように、自分の家で信じて来た宗教、家の神、神抜きでやりくりして来た思考パターンなどを、捨て去る決意をしなくてはならない。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(2コリント6:14-18)
ルツは、生来の家、国、神を捨て、全く新しい、イスラエルの神の国へと入っていく決意をした。
主は、真実な神である。
主に信頼して御元に来る人は、決して失望させられる事は無い。
エステル - 王の喜びのために宴会を整えよ(エステル5:1-5)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
イスラエル民族が訴えられ、民族が皆殺しにされてしまうかもしれない危機の時、王妃エステルは、王に直訴するために、イスラエル全民族から断食して祈られ、そして彼女自身も、三日三晩の断食と祈りをして整えて、王妃の衣装を身に帯びて、王の御前に出た。通常なら、王の許し無く御前に出るなら、死刑であるのに、彼女は王の好意を受けて、笏が差し伸べられた。
多くの人々に祈られ、命がけで王の前に出たのは、イスラエルの救いを訴えるためだった筈なのに、彼女が王の好意を得、「何でも願い求めよ」とまで言われて、真っ先に願った事は、王のために宴会を設けるので来て下さい、という事だった。しかも、あのイスラエルを訴える者・ハマンも一緒に。(エステル5:3-4)
彼女が最も優先させた事は、願いをくどくど訴える事ではなく、イスラエルの救いという大義名分でもなく、まして、自分達を訴える者を訴え返す事でもなかった。ただ、王の喜びとなる事だった。
今年最初の主日にあたり、どのように歩むべきかを求めた所、エステルのように、王なるキリストの御前に出るに相応しく、まずはキリストの花嫁としての衣装をしっかり身にまとい、そして、王なるキリストの喜びとなる宴会を彼のために設けよ、という事だった。
昨年は、一人ひとりの御言葉の領域が格段に広がった一年であり、ノアにオリーブの若枝を届けたの鳩のように、色々な地域へと御言葉というオリーブを届けるべく、羽ばたいて行った一年であった。
御言葉(ロゴス)に信仰を混ぜ、宣言したことばは「いのち」となり、そのいのちが進み入る所では、死がいのちへと塗りつぶされて行く事を多く見たが、今年は、それをさらに成熟させて行く年であろう。
主は、御言葉に留まるなら何でも欲しいものを求めなさい、と、確かに言われた。(ヨハネ15:7)
私達は欲しいものを求めなさいと言われたなら、何かと、あれを下さい、敵を退けて下さい、などと求めがちだが、ここはエステルに習い、まずは私達の側が、王なるキリストの喜びとなる事を求めるべきである。
エステルは最初、王妃の衣装を身に帯びたように、私達も「キリストの花嫁」という正確なアイデンティティをまず身に帯びる所から始めるのである。その花嫁衣装とは、聖徒たちの正しい行ないである。(黙19:8)
私達は日々、キリストと共に歩んで行く事によってのみ、「正しい行い」を積み立てる事が出来、その一歩一歩が「花嫁衣装」を、一織り一織り紡いで行くことになる。
エステルが王の好意を得、王妃とされたのは、女達の監督官・ヘガイのアドバイスに従い、彼が勧めたものの他は、何一つ求めなかったからであり、それによって彼女は全ての人から好意を受けた。(エス2:15)
私達も日々、聖霊の導きとアドバイスに従い、ただキリストの好まれる飾りを身に帯びるのだ。
その飾りとは、「柔和で穏やかな霊という隠れた人柄」であり、これこそ御前に価値あるものだ。(1ペテ3:4)
エステルは三十日間、王に呼び出されていなかった所を行ったが、私達も、主から忘れられてしまっているように感じる時、正しい行いを身にまとい、柔和で穏やかな霊を飾りとして身に帯びる所から始めるのだ。
そうして王の喜びとなる宴席を用意するのだが、主の喜ばれるごちそうは、御父の御心を行いその御業を成し遂げる事である。(ヨハ4:34)主は、主の御声に聞き従う事ほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれない。御声に聞き従う事、耳を傾ける事こそ、何にも勝る主のごちそうである。(1サム15:22)
主はベタニアの家に好んで行かれたが、主が好まれたのは、マリヤの「御元に座って話に聞き入る事」であって、マルタの忙しい給仕ではなかった(ルカ10:41)。また、主がザアカイの宴席で最も喜ばれたのは、彼が悔い改め、財産の半分を貧しい人達に施し、だまし取った物を四倍にして返す告白をした時だった。
私達という教会を、主をお招きするための「宴会場」とするためには、「主の御声に聞く」という食物を用意し、「悔い改め」、「主の御心を行う」というごちそうを用意する事である。そのようにするなら、主がベタニアの家を好まれ、ザアカイの家に泊まる事に決められたように、主は好んでその教会の「宴会」に来て下さる。
エステルがハマンも宴会に招いたように、その宴会には、私達を訴える者も、同席しているかもしれない。
しかしそのようなハマンを気にしてはならず、ただ王なるキリストに喜んでいただく事を求めるなら、主は荒野に、そして、敵の前で宴を設けて下さる。(イザヤ25:6、詩篇23:5)
主の好まれる宴を設け、そうして主から、荒野で、そして敵の前で宴を設けられる一年でありますように!
礼拝説教メッセージ音声:ナオミの信仰と人柄(ルツ記1:8-14):右クリックで保存
ナオミ達3人は、モアブの野を出立し、100キロ離れたベツレヘムへの帰途にあったが、進み行くにつれ、ナオミの心に重くのしかかってくるものがあった。
義理の娘達とは別れなくない。
しかし、このままこの若き未亡人たちを見ず知らずの土地へ連れて行っても、彼女たちの幸せは、全然見えて来ない。
『ナオミはふたりの嫁に言った、「あなたがたは、それぞれ自分の母の家に帰って行きなさい。あなたがたが、死んだふたりの子とわたしに親切をつくしたように、どうぞ、主があなたがたに、いつくしみを賜わりますよう。どうぞ、主があなたがたに夫を与え、夫の家で、それぞれ身の落ち着き所を得させられるように」。こう言って、ふたりの嫁に口づけしたので、彼らは声をあげて泣き、ナオミに言った、「いいえ、わたしたちは一緒にあなたの民のところへ帰ります」。』(ルツ記1:8-10)
彼女たちは、ナオミからの別れの促しを、泣きながら断っているので、恐らく彼女たちは、自ら進んでナオミと一緒にイスラエルへ行こうとしたのだろう。
なんと麗しい嫁姑関係だろうか。
普通、嫁と姑の関係は、悪くなる事のほうが多く、しかも、義理の娘たちが外国の女であるなら、尚更のはずなのに。
ナオミは、よほどの人格者だったのだろう。
彼女のその人格の秘訣は、どこにあるのだろうか。
それはやはり、主への信仰にあると思われる。
サムソンは、苦しくなった時になってやっと「主(エホバ)」を呼び求めたものだが、ナオミはそれとは大違いで、「主(エホバ)がいつくしみを賜りますように」「主(エホバ)が落ち着き所を得させられるように」と、主(エホバ)の御名を何度も用いて、嫁達を祝福している。
彼女自身、この10年に起きた事を見ると、大切な人を取り上げてられてばかりで、むしろ主からの災いのほうが多いのに、主を悪く言う事も、恨む事も、決してしておらず、むしろ、「主の御手がわたしに臨んだ」と告白しているため、彼女は、悪いのは神の国を離れた自分達の側であり、主のさばきこそ正しいと認めているのだ。
主は、そのような信仰者を、決して悪いままにはしておかれない。
『しかしナオミは言った、「娘たちよ、帰って行きなさい。どうして、わたしと一緒に行こうというのですか。あなたがたの夫となる子がまだわたしの胎内にいると思うのですか。
娘たちよ、帰って行きなさい。わたしは年をとっているので、夫をもつことはできません。たとい、わたしが今夜、夫をもち、また子を産む望みがあるとしても、そのためにあなたがたは、子どもの成長するまで待っているつもりなのですか。あなたがたは、そのために夫をもたずにいるつもりなのですか。娘たちよ、それはいけません。主の手がわたしに臨み、わたしを責められたことで、あなたがたのために、わたしは非常に心を痛めているのです」。』(ルツ記1:11-13)
嫁たちは、ナオミの人柄に感銘を受け、イスラエルにはナオミのような人がたくさんいると思ったのかもしれない。
しかし律法では、モアブの者は、たとえ10代後の子孫でも、主の会衆に加わってはならない、と書いてあるし(申命記23:3)、このまま娘たちがイスラエルへ来るとしたなら、そこで幸いを得る望みは乏しい。
だから、彼女たちの幸いを思うなら、このままモアブへ戻した方が良いとナオミは思ったのだ。
『彼らはまた声をあげて泣いた。そしてオルパはそのしゅうとめに口づけしたが、ルツはしゅうとめを離れなかった。』(ルツ記1:14)
こうしてオルパは分かれて行ったが、ルツはすがりついて離れなかった。
主は、主の民の最も小さな者、弱い者のうちの一人にした事は、わたしにした事である、と言われる。(マタイ25:34-40)
その報いに漏れる事は、無い。
士師記の荒んだ時代の中、ひときわ輝く珠玉のような信仰者たちは、弱く、無名で、人から見ればつまらない者達だったかもしれない。
しかし主は、そのような彼女達をしっかりと見ておられ、主は彼女たちを通して、イスラエルの王を、ひいては、全世界の救い主を立てられる事に用いられるのだ。