メッセージ - 201502のエントリ
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”珍しく”悔い改めて主に立ち返るイスラエル(1サムエル記7:1-6)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-2-21 16:16
礼拝説教メッセージ音声:”珍しく”悔い改めて主に立ち返るイスラエル(1サムエル記7:1-6):右クリックで保存
当初はイスラエル人にもペリシテ人にも軽んじられたような扱いをされた主の箱だが、主は、そのように軽んじた者達全てに災いを降し、誰の目にも明らかな形で主の栄光が現され、皆、恐れるようになった。
主の箱はベテ・シェメシュの住人からも恐れられ、そこからさらに移される事になる。
『キリアテ・ヤリムの人々は、きて、主の箱を携え上り、丘の上のアビナダブの家に持ってきて、その子エレアザルを聖別して、主の箱を守らせた。その箱は久しくキリアテ・ヤリムにとどまって、二十年を経た。イスラエルの全家は主を慕って嘆いた。』(1サムエル記7:1-2)
この時以降、ダビデ王がエルサレムへ主の箱を導き入れるまで、長らくそこに留まる事になる。(1歴代誌13章)
イスラエルは、これら一連の事を通して、主の栄光と自分達の不実とを思い知り、主を慕って嘆く心が湧き起こって来た。
災い遭う事は、実は幸いである。
それによって自分の中の正すべき事を正し、主に立ち返るからである。
『苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを/学ぶことができました。』(詩篇119:71)
そこでサムエルは、全イスラエルに、悔い改めを促す。
『その時サムエルはイスラエルの全家に告げていった、「もし、あなたがたが一心に主に立ち返るのであれば、ほかの神々とアシタロテを、あなたがたのうちから捨て去り、心を主に向け、主にのみ仕えなければならない。そうすれば、主はあなたがたをペリシテびとの手から救い出されるであろう」。そこでイスラエルの人々はバアルとアシタロテを捨て去り、ただ主にのみ仕えた。』(1サムエル記7:3-4)
彼らは、あれほどの目に遭っておきながら、いまだに、他の神々を持っている状況だった。
あの神もこの神も仲良くあわせて持つのに何の抵抗も感じない日本人のように、当時のイスラエルは、主の聖の基準から長らく離れていたため、何が主に喜ばれ、何が喜ばれないかを知らなかったのかもしれない。
サムエルは、全て他の神々を除き去って、ただ主にのみ仕えるよう促した。
そしてイスラエルは、素直にそれに従った。
『サムエルはまた言った、「イスラエルびとを、ことごとくミヅパに集めなさい。わたしはあなたがたのために主に祈りましょう」。人々はミヅパに集まり、水をくんでそれを主の前に注ぎ、その日、断食してその所で言った、「われわれは主に対して罪を犯した」。サムエルはミヅパでイスラエルの人々をさばいた。』(1サムエル記7:5-6)
彼らは実に「珍しい事」をしている。
それは、一つに集まり、心を主に向けて悔い改めの集会を開いた事だ。
悔い改めて主の前に出るのが「珍しい」というのも、情けない話である。
しかし、ヨシュアが死んで以降、イスラエルはずっとそのような霊的状態であり、また、悔い改めて主の前に出るのが「珍しい」というキリスト者も、実は多いのだ。
皆さんは、そのような状態に、なっていないだろうか。
災い続きではないだろうか。
主の救いと立て直しは、悔い改めて主に立ち返る所から始まり、それをするなら、主は豊かに恵みを施して下さる。
『わたしがあなたがたの前に述べたこのもろもろの祝福と、のろいの事があなたに臨み、あなたがあなたの神、主に追いやられたもろもろの国民のなかでこの事を心に考えて、あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。』(申命記30:1-4)
誰がこの聖なる主の前に立ち得よう(1サムエル記6:13-21)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-2-19 23:50
礼拝説教メッセージ音声:誰がこの聖なる主の前に立ち得よう(1サムエル記6:13-21):右クリックで保存
『時にベテシメシの人々は谷で小麦を刈り入れていたが、目をあげて、その箱を見、それを迎えて喜んだ。』(1サムエル記6:13)
神の箱は、わずか七ヶ月でイスラエルに戻って来る事となった。
この町の人達は、牛車がひとりでに運んで来たものが「神の箱」であると認知していたが、このベテ・シェメシュという町は、ナフタリ族へくじによって割り当てられた相続地であり(ヨシュア記19:38)、そして、大祭司アロンの子孫達へと放牧地が割り当てられた町でもある。(ヨシュア記21:16)
つまり、神の箱の正当な扱い方を知っていた(はずの)奉仕者たちが住む町であり、この町に神の箱が帰って来たのは、まさに導きといえる。
『ペリシテびとが、とがの供え物として、主に償いをした金の腫物は、次のとおりである。すなわちアシドドのために一つ、ガザのために一つ、アシケロンのために一つ、ガテのために一つ、エクロンのために一つであった。また金のねずみは、城壁をめぐらした町から城壁のない村里にいたるまで、すべて五人の君たちに属するペリシテびとの町の数にしたがって造った。主の箱をおろした所のかたわらにあった大石は、今日にいたるまで、ベテシメシびとヨシュアの畑にあって、あかしとなっている。』(1サムエル記6:17-18)
ペリシテの五つの町の内、ガザとアシュケロンには、主の災いが降った記述は無いが、もしかしたらそこにも災いが降っていたのかもしれない。
とにかくペリシテの祭司や占い師達は、ペリシテの領主の数・都市の数に従い、五つの金のはれ物の像と、五つの金のねずみの像を作らせて、それをイスラエルの神に「償い」として捧げさせた。
『車はベテシメシびとヨシュアの畑にはいって、そこにとどまった。その所に大きな石があった。人々は車の木を割り、その雌牛を燔祭として主にささげた。レビびとは主の箱と、そのかたわらの、金の作り物をおさめた箱を取りおろし、それを大石の上に置いた。そしてベテシメシの人々は、その日、主に燔祭を供え、犠牲をささげた。ペリシテびとの五人の君たちはこれを見て、その日、エクロンに帰った。』(1サムエル記6:14-16)
彼らは最初、主の箱がこのように戻って来た事を喜び、ペリシテ人もまた、災いの元凶が自分達の元から去った事に胸をなでおろした事だろう。
これで一件落着、かというと、そうではなかった。
この神の箱は、そこベテ・シェメシュの町にも、災いをもたらす事となってしまうのだ。
『ベテシメシの人々で主の箱の中を見たものがあったので、主はこれを撃たれた。すなわち民のうち七十人を撃たれた。主が民を撃って多くの者を殺されたので、民はなげき悲しんだ。』(1サムエル記6:19)
撃たれた人の数は、口語訳では「七十人」となっているが、別の訳では「五万七十人」(新改訳、KJV)、さらに別の訳では「五万のうち七十人」(新共同訳)となっている。
どうしてこんなに訳が分かれるかというと、ここのヘブライ語原典を字義通りに並べると「七十人、五十千人」、これをどのように訳出すれば良いのか分からないからだ。
いずれにせよ、ベテ・シェメシュの人達は非常に大きな痛手を受け、イスラエルの神・主への大きな恐れが沸き起こった事は確かである。
なぜこのような災いがイスラエルにも起こったのか。
それは、神の箱を正当に扱う術を知っているはずの人達がそれをせず、主の箱の中を見るような不敬を犯したからである。
『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。』(ガラテヤ6:7)
神はまさに聖なる神、義なる神であり、イスラエルに対してだけでなく、異邦人に対しても公平にさばきを行われる方である。
私達は、主の「親しさ」を「馴れ馴れしさ」と勘違いし、主を軽んじてはならない。
また、主があまりに憐れみ深い故に「赦され慣れ」して、自分たちはただ赦される側、何をしても良い側、そして主はただ身代わりの痛みを受けてもらう側として怠慢に陥ってはならない。
そのような事を敢えてし続けるなら、主はその者を懲らしめ、強制的に正しい立ち位置へと戻される。
『ベテシメシの人々は言った、「だれが、この聖なる神、主の前に立つことができようか。主はわれわれを離れてだれの所へ上って行かれたらよいのか。』(1サムエル記6:20)
まさに、聖なる神・主の御前に立つ事ができる者は、誰もいない。
主は、神の箱が奪われそうになった時タイミングでペリシテ人を打つ事は出来たであろう。
あるいは、イスラエルが神の箱を縁起物でも持ち出すかのように軽々しく聖所から運び出そうとしたタイミングで打つ事も出来たであろう。
しかし主は敢えて人々の為すがままにし、この4章以降の一連の出来事を起こさせ、その上で、イスラエルにもペリシテにも、ご自身の聖を燦然と表されたのだ。
その結果、イスラエルもペリシテも、神である主は恐るべき方であり、正当に敬う事をしないなら、こんなにも恐ろしい目に遭う、という事を、徹底的に思い知らされた。
こうしてイスラエルの心は、神を正当に恐れ敬う健全な心へと、造り変えられてゆくのだ。
礼拝説教メッセージ音声:主に栄光を返したペリシテ人(1サムエル記6:1-12):右クリックで保存
『主の箱は七か月の間ペリシテびとの地にあった。』(1サムエル記6:1)
ここは、主の箱はペリシテ人の「野」にあったとも訳す事ができる。
七ヶ月の間に少なくとも2回は移動させた、という事は、災いはそれだけ誰の目にも明確で、主の箱を「町」に置けなかったのだろう。
『ペリシテびとは、祭司や占い師を呼んで言った、「イスラエルの神の箱をどうしましょうか。どのようにして、それをもとの所へ送り返せばよいか告げてください」。彼らは言った、「イスラエルの神の箱を送り返す時には、それをむなしく返してはならない。必ず彼にとがの供え物をもって償いをしなければならない。そうすれば、あなたがたはいやされ、また彼の手がなぜあなたがたを離れないかを知ることができるであろう」。』(1サムエル記6:2-3)
主の「聖」に対して不実を犯した場合は、償いをしなくてはならない事は、確かに律法に記されている。(レビ記5:15-16)
ペリシテ人がイスラエルの律法を調べたのか、それとも、ただで返す事は失礼に値すると考えたのか、ともかく彼らは、降りかかった災いの故に、主に対する恐れ敬いが芽生えた事は確かだ。
『人々は言った、「われわれが償うとがの供え物には何をしましょうか」。彼らは答えた、「ペリシテびとの君たちの数にしたがって、金の腫物五つと金のねずみ五つである。あなたがたすべてと、君たちに臨んだ災は一つだからである。それゆえ、あなたがたの腫物の像と、地を荒すねずみの像を造り、イスラエルの神に栄光を帰するならば、たぶん彼は、あなたがた、およびあなたがたの神々と、あなたがたの地に、その手を加えることを軽くされるであろう。』(1サムエル記6:4-5)
ペリシテ人達は、腫物だけでなく、ねずみによってもかなりの災いを受けたようだ。
彼らは、自分たちはこれらのものによって災いを受けました、その事はイスラエルの神・主がなされた事であり、ここにあなたの栄光を表します、と、主に敬意を表するなら、この災いは軽くされるだろう、と考えたのだ。
『なにゆえ、あなたがたはエジプトびととパロがその心をかたくなにしたように、自分の心をかたくなにするのか。神が彼らを悩ましたので、彼らは民を行かせ、民は去ったではないか。』(1サムエル記6:6)
主がエジプトに対して為した災いはかなり昔であるが、当時、主が為された事は、イスラエル周辺諸国にとどろき渡った。
そのイスラエルの神・主は、今も健在である、と、彼らは恐れており、この主に対して頑なになってはならないと警告している。
『それゆえ今、新しい車一両を造り、まだくびきを付けたことのない乳牛二頭をとり、その牛を車につなぎ、そのおのおのの子牛を乳牛から離して家に連れ帰り、主の箱をとって、それをその車に載せ、あなたがたがとがの供え物として彼に償う金の作り物を一つの箱におさめてそのかたわらに置き、それを送って去らせなさい。』(1サムエル記6:7-8)
普通、くびきをつけた事のない牛に、くびきをつけるなら、牛はそれを振りほどくはずだ。
牛にとって、くびきは不快なものであり、それを初めてされたなら、抗するはずだ。
また、子に乳を飲ませている母牛が、子を置き去りにして行く、という事も、自然の摂理に反する。
その、通常ではあり得ない行動を牛が取るり、神の箱をイスラエルへと運んで行くとすれば、これは主が為さった事だと知る事が出来る、というのだ。
『人々はそのようにした。すなわち、彼らは二頭の乳牛をとって、これを車につなぎ、そのおのおのの子牛を家に閉じこめ、主の箱、および金のねずみと、腫物の像をおさめた箱とを車に載せた。すると雌牛はまっすぐにベテシメシの方向へ、ひとすじに大路を歩み、鳴きながら進んでいって、右にも左にも曲らなかった。ペリシテびとの君たちは、ベテシメシの境までそのあとについていった。』(1サムエル記6:10-12)
乳牛が鳴きながら子から離れて行き、イスラエルへの道を、くびきを負いながら進んで行くのを、彼らは見て驚いただろう。
まさにイスラエルの神は、生きて働いておられる。
この神は、自分達の神々を倒し、ひれ伏させ、腫物やねずみによって自分達を打ち、行く所どこも死の恐怖に怯えさせた。
そして、自分達がこの神である主に栄光を帰すために、償いの備えをしたなら、主はあり得ない形でその栄光を受け取られた様も、彼らは見た。
あのペリシテ人でさえ、主に打たれ懲らしめられたなら、主を恐れたのだ。
私達も主からの懲らしめを受けたなら、速やかに悔い改めて主に栄光を帰すべきである。
しかし、喉元過ぎれば熱さを忘れるの言葉通り、彼らはその恐れと尊敬を持続させず、相変わらずダゴンの神を礼拝し続け、そして神の民・イスラエルを打つのをやめなかった。
だから彼らは結局、主の民を懲らしめる器としてしか用いられず、ペリシテ人という”民族”は現在、残っていない。アレクサンドロス大王の支配下で滅んでしまったのだ。
私達も、ひと度主から懲らしめを受け、主を畏れ敬う者となっておりながら、その主への恐れ敬いを持続させないなら、ただ良くない事にのみ用いられ、そして滅んでしまうのだ。
私達は主への恐れをキープし、祝福を受け続ける者でありたい
敵国内でひとりでに栄光をあらわす神の箱(1サムエル記5:1-12)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-2-16 23:30
礼拝説教メッセージ音声:敵国内でひとりでに栄光をあらわす神の箱(1サムエル記5:1-12):右クリックで保存
イスラエルから奪われてしまった契約の箱だが、その箱には、全能の神とイスラエルとの間に結ばれた契約が入っている。
人の手で担がれなくては何も出来ない偶像とは、全くわけが違う。
『ペリシテびとは神の箱をぶんどって、エベネゼルからアシドドに運んできた。そしてペリシテびとはその神の箱を取ってダゴンの宮に運びこみ、ダゴンのかたわらに置いた。』(1サムエル記5:1-2)
ダゴンとは、頭部が魚、体が人間の、ペリシテ人の偶像神である。
そのそばに安置したという事は、彼らは今回の戦勝に浮かれ、イスラエルの神は自分の神ダゴンよりも劣っていると考えたのかもしれない。
しかし聖書をみると、神の箱はあまりに聖であるため、ケハテ族のレビ人以外は運んではならず、ダビデの時代も、牛車で運ばせたら、その御者が主に打たれて死んでしまった程のものである。
それ程、取り扱いには気をつけなくてはならないものであるのに、なぜか今回、ペリシテ人が運んでも何の害も受けなかった。
この契約の箱は、イスラエル人が神の契約を畏れ敬う心をもって、イスラエルの中で正当に取り扱ってこそ、意味があるものである。
それなのに、本来安置されるべき聖所からお手軽に運び出され、縁起物か何かのように戦いの場へ持っていかれてしまう程に、軽んじられてしまったのであるから、主はそれを正すために、敢えてイスラエルから取り上げ、ペリシテ人の領地へと運ばせたのだ。
契約の箱がどこにあるかよりも、その契約の内容を守る事こそ、神の民としての意義があるように、私達も、何処どこの教会に通っているとか、キリスト教的なアイテムを持っているといった事より、むしろ、キリストそのものであられる御言葉を「わたし」の内に留め、それを守り行ってこそ、信仰者としての意義があるのだ。
『アシドドの人々が、次の日、早く起きて見ると、ダゴンが主の箱の前に、うつむきに地に倒れていたので、彼らはダゴンを起して、それをもとの所に置いた。その次の朝また早く起きて見ると、ダゴンはまた、主の箱の前に、うつむきに地に倒れていた。そしてダゴンの頭と両手とは切れて離れ、しきいの上にあり、ダゴンはただ胴体だけとなっていた。それゆえダゴンの祭司たちやダゴンの宮にはいる人々は、だれも今日にいたるまで、アシドドのダゴンのしきいを踏まない。』(1サムエル記5:3-5)
最初は地震か何かでたまたま倒れたのだろう、くらいに思っていたかも知れないが、翌日には、ダゴンの頭と手が胴体から切り離され、敷居の所にあり、しかも、神の箱の前に向かってひれ伏す形となっていた。
この事から、イスラエルの神のほうが優位で、ダゴンは無力である事を示しているのに、ペリシテ人は、イスラエルの神を敬うのでなく、ダゴンを敬い、今後、ダゴンが伏していた敷居を踏まない事にした。
しかし起きたことは、そればかりではない。
『そして主の手はアシドドびとの上にきびしく臨み、主は腫物をもってアシドドとその領域の人々を恐れさせ、また悩まされた。アシドドの人々は、このありさまを見て言った、「イスラエルの神の箱を、われわれの所に、とどめ置いてはならない。その神の手が、われわれと、われわれの神ダゴンの上にきびしく臨むからである」。
そこで彼らは人をつかわして、ペリシテびとの君たちを集めて言った、「イスラエルの神の箱をどうしましょう」。彼らは言った、「イスラエルの神の箱はガテに移そう」。人々はイスラエルの神の箱をそこに移した。』(1サムエル記5:6-8)
もはや明らかにイスラエルの神は力があり、ダゴンは無力である事は明らかなのに、ペリシテ人は、イスラエルの神を「恐れ」はしても、敬わず、神の箱を縁起の悪いものとして移動させる。
『彼らがそれを移すと、主の手がその町に臨み、非常な騒ぎが起った。そして老若を問わず町の人々を撃たれたので、彼らの身に腫物ができた。そこで人々は神の箱をエクロンに送ったが、神の箱がエクロンに着いた時、エクロンの人々は叫んで言った、「彼らがイスラエルの神の箱をわれわれの所に移したのは、われわれと民を滅ぼすためである」。そこで彼らは人をつかわして、ペリシテびとの君たちをみな集めて言った、
「イスラエルの神の箱を送り出して、もとの所に返し、われわれと民を滅ぼすことのないようにしよう」。恐ろしい騒ぎが町中に起っていたからである。そこには神の手が非常にきびしく臨んでいたので、死なない人は腫物をもって撃たれ、町の叫びは天に達した。』(1サムエル記5:9-12)
彼らは、明らかにこの箱が災いの元であると認めた。
それなのに彼らは、自分たちの力なき神ダゴンから離れてイスラエルの神に立ち返ろうという気にはならなかったし、イスラエルを虐げる事も止めなかった。
またイスラエル人も、こんなにも力ある神が自分たちにおられるのに、自分たちの内から別の神々を捨て去ろう、という気も起きなかったようである。(1サムエル記7:3)
人とは何と愚かで盲目な、そして、自分の好む事を捨てない頑なな者であろうか。
偶像の神は、自分で自分の世話をする事もできず、担がれなくては移動も出来ない、ただ人々の重荷となるばかりであるが、主は私達が罪に陥っている時でも、世話をし、義の道へと立ち返らせて下さり、そして私達が白髪頭となっても、主は私達を運んで下さる。
『ベルは伏し、ネボはかがみ、彼らの像は獣と家畜との上にある。あなたがたが持ち歩いたものは荷となり、疲れた獣の重荷となった。彼らはかがみ、彼らは共に伏し、重荷となった者を救うことができず/かえって、自分は捕われて行く。
「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。』(イザヤ46:1-4)