メッセージ - 201503のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:信仰の二人は万を打つ(1サムエル記14:6-15):右クリックで保存

『ヨナタンはその武器を執る若者に言った、「さあ、われわれは、この割礼なき者どもの先陣へ渡って行こう。主がわれわれのために何か行われるであろう。多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては、なんの妨げもないからである」。武器を執る者は彼に言った、「あなたの望みどおりにしなさい。わたしは一緒にいます。わたしはあなたと同じ心です」。』(1サムエル14:6-7)

ヨナタンは、主が何かをして下さると期待して、出て行った。
主が御業をなされる上では、人の頭数の多さより、むしろ、その集まりの、主を信頼する純粋さこそが、重要な鍵となる。

不信仰な人間の頭数の多さは、逆に邪魔だ。
実際主は、エジプトを出た男子六十万全部を約束の地へ導き入れたのではなく、純粋な信仰を保ったヨシュアとカレブの二人だけを入れたし、また、ギデオンの時は32000人を、主は「多すぎる」として、300人へと絞った。
集いの中に、不信仰の者が混ざると、信仰者の足を引っ張る。
だからヨナタンは、祭司を呼び寄せても何もしない父サウルや、サウルと一緒にただ震えて待っているだけの人々には何も告げずに、出て行ったのだ。

『こうしてふたりはペリシテびとの先陣に、その身を現したので、ペリシテびとは言った、「見よ、ヘブルびとが、隠れていた穴から出てくる」。先陣の人々はヨナタンと、その武器を執る者に叫んで言った、「われわれのところに上ってこい。目に、もの見せてくれよう」。ヨナタンは、その武器を執る者に言った、「わたしのあとについて上ってきなさい。主は彼らをイスラエルの手に渡されたのだ」。』(1サムエル記14:11-12)
大軍の敵を前に、姿を現した若者二人。
信仰なき者達には、命知らずの自殺行為であろうが、ヨナタンにとってはたとえ二人であろうと、イスラエルを代表した戦いであり、そして、敵の嘲りの言葉は、彼には「主は彼らをイスラエルの手に渡されたのだ」という勝利のしるしだった。

『そしてヨナタンはよじ登り、武器を執る者もそのあとについて登った。ペリシテびとはヨナタンの前に倒れた。武器を執る者も、あとについていってペリシテびとを殺した。ヨナタンとその武器を執る者とが、手始めに殺したものは、おおよそ二十人であって、このことは一くびきの牛の耕す畑のおおよそ半分の内で行われた。』(1サムエル記14:13-14)
岩をよじ登って来る者を迎え撃つ。それは、赤子の首をひねるよりも簡単と思われるが、どういう戦いが展開されたのか、なんと、よじ登っていったヨナタンのほうが、ペリシテを二十人も打ったのだ。
「一くびきの牛の耕す畑のおおよそ半分」、それは英語聖書では半エーカー、すなわちおよそ60mx30mほどの場所である。
ちなみに、ギリシャ語「エーカー」は「くびき」を意味する言葉で、ひとくびきの牛が一日間で耕すことが可能な土地の広さを一エーカーとして定めたとされている。

『そして陣営にいる者、野にいるもの、およびすべての民は恐怖に襲われ、先陣のもの、および略奪隊までも、恐れおののいた。また地は震い動き、非常に大きな恐怖となった。』(1サムエル記14:15)
こうして、たった二人の信仰ある者の行動が、ペリシテの陣営全体を、震えおののかせた。
また、地は震い動き(the earth quaked)、非常に大きな恐怖(原文では、神(エローヒム)の恐れ)が沸き起こった。

モーセは言っている。
「彼らの岩が彼らを売らず、/主が彼らをわたされなかったならば、/どうして、ひとりで千人を追い、/ふたりで万人を敗ることができたであろう。彼らの岩はわれらの岩に及ばない。われらの敵もこれを認めている。」(申命記32:30-31)
そう、彼らは「岩」であられる主に信頼したから、二人で万人を破る事が出来たのだ。

『主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。』(1ペテロ2:4-6)
岩なる主は、寄り頼む者には、決して揺るがされる事の無い救いである。
しかし、寄り頼まない者には、全く逆の作用を及ぼす。
『この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。』(同7-8節)

主イエス・キリストという救いの岩に信頼を置く私達には、次の特権が与えられている。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。』(同9-10節)
主を信頼する私達は、選ばれた種族、王のような祭司、聖なる国民、神の民であり、あわれみを受けた者となっているのだ。

神の国、すなわち「神の支配領域」は、神の子が、神の御言葉を信じて、その通り行動する所に、現れる。
そしてそこは、物理法則さえ凌駕する神の力、神の業がなされる。ヨシュアが祈りで地球の自転を停止させたように、エリヤとやもめのパンが尽きなかったように、また、ペテロが少しの間だが水の上を歩いたように。

皆さんの家、職場、行く先々は、神の国となっているだろうか。
私達が、御言葉に信頼して行動するなら、そこは、神の支配が行き届く所となるのだ。
神の国は、神の子とされた者が、神のことばを信頼し、行使する所に現れる。
行く先々において、神の国を興し、闇を光に、死をいのちに塗りつぶして行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

十字架の前の宴 - 弟子達の足を洗う(ヨハネ13:1-20)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ベタニヤのマリヤは、高価なナルドの香油の壺を割って、イエス様に注ぎ尽くし、女の冠である髪でイエス様の「足」をぬぐって、主の葬りの前に最高の「宴」を王の前に設けた事を、前回見た。
彼女の捧げた香油には、イエス様に対する愛と尊敬と信仰も混ざり、その高貴な香りは、部屋いっぱいに満ちたばかりでなく、天にも香り高く立ち登り、永遠の記念として全世界へと広がって行った。
しかしそこには、イエス様を裏切ろうとするイスカリオテのユダも同席していた。彼は、彼女の捧げる心とは真逆の心を持ち、その香油を値踏みし、彼女の捧げ方を「無駄」と評価して、表向きは正論を言っているようでも、内心は彼女の捧げた香油をカネに変え自分のものにしたかったのだ。イエス様はそんなユダの思いを見透かしていたが、そんなユダに対しても、あくまで平和に、愛と赦しの眼差しをもって、さとした。
今回、イエス様の受難を前に、ユダや弟子たちに自ら「愛の宴」を設けたイエス様の言動を見て行きたい。

『過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを「最後まで(テロス:極限まで,徹底的に,完全に)」愛し通された。』(ヨハネ13:1)
肉体にあって弟子たちと接する事の出来る時間は、もう僅かしか残っていない。そう悟ったイエス様は、世に残って主の働きをしなくてはならない弟子たちに、愛(アガペー)を極限まで余すところ無く示された。
マリヤがイエス様の足を髪で拭ったように、イエス様ご自身、弟子達の足を洗われ、宴を設けられたのだ。
『ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる。」』(8節)
私達は、イエス様を主とし、血潮の洗いによって清くされたが、この肉体にはまだ罪の刺がささっており、世を歩く歩みにおいて、どうしても汚れを受けてしまう。主はそれを洗い、拭って下さる。イエス様がそうして下さるからこそ、私達とイエス様は親密な関係を保てるが、それを拒むなら、何の関係も無くなってしまう。

足を洗った相手には、当然、イエス様を売り渡そうという気のあるイスカリオテのユダも含まれている。
皆さんは、聖徒の尊い捧げものに、汚物を塗ったような者に、しかも、サタンに心奪われて自分を裏切ろうという心を孕んでいるのを知りながらにして、その相手の足元に座し、足を洗って拭えるだろうか。
これは裏切ろうとしている彼への当て付けではない。愛(アガペー)を極限まで余すところ無く示される故だ。
イエス様は、肉体におけるお別れの前、愛する弟子達だけでなく、裏切ろうとするユダにさえ、足を洗うという「宴」を設けられた。ユダはこの時、裏切ろうという心はあったものの、具体的行動をまだ起こしておらず、永遠の救いの可能性は充分あったし、イエス様もそうなる事を望んで、足を洗われたのだろう。
私達の主であり、師であるイエス様がそうされたからには、私達も、互いに足を洗い合うべきだ。(14節)

16節以降、イエス様は「遣わす」という言葉を何度か使っている。
『僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。』(16節)
私達の主は当然イエス様であり、イエス様に「遣わされる者」だ。しかし、全ての者がそうではない、と言われる。(18節) イエス様のパンを食べ、イエス様に足を洗ってもらった人が全てイエス様を「主」とするわけではなく、逆に、かかとを上げるような者も、いるのだ。ユダだけは、イエス様を取り替え可能な「師」とした。
弟子達はこの時点、これから何が起こるのか、自分達がこれからどうなって行くのかを、まだ知らない。
イエス様は、もうすぐこの世の肉体を離れるが、弟子達はまだ、艱難あるこの世にしばし残らなくてはならない。この後、イエス様は渡され、彼らは散らされ、ある者は裏切り、ある者は主を知らないと三度、宣言する。
そして十字架を経た後、主に留まった弟子達には、聖霊が与えられ、主イエスの使徒として働く事になる。
ある者は苦難が、ある者は殉教が定められている。それら全ての前に、そんな彼らを愛しいとおしむ心が溢れたからこそ、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って彼らの足を洗い、汚れを落とし、拭われたのだろう。
世において、私達は主がおられる天の故郷を望みつつ、また、その天に多くの魂たちを救い入れるべく、多くの働きが残っているが、主はそんな私達に、愛を余すところ無く、完全に注いでおられる。その働きの前に、主は私達にも宴を設けられ、私達の足を洗ってくださる。主に全てを洗い清められ、世に遣わされ、御国のために多くの働きをする皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
聖所の庭を不当に踏みにじる罪(イザヤ1:10-20)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主は離婚を憎む(マタイ19:1-12):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
不純物は精錬されて消え失せる(イザヤ1:21-31):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書1章21-31節を基に、イスラエルの堕落と主の裁き、そして悔い改めと贖いについて語られたメッセージ。

【聖書箇所】

イザヤ書1:21-31

【戒めの言葉】

教会に通いながら罪を悔い改めず、同じ罪を繰り返す者は、不純物として取り除かれる危険がある。

【勧めの言葉】

真の悔い改めと、それにふさわしい実を結ぶことが求められている。

【悔い改めの促しの言葉】

自分の罪を認識し、胸を打ち叩き、涙を流して悔い改め、二度と同じ罪を犯さないと決心することが必要。

【***詳細***】

今日の御言葉は、イザヤ書1章21節から31節までです。この箇所は、イスラエルに対する主の失望と、悔い改めへの促しから始まっています。

主は、かつて正義と公正が宿っていたエルサレムが、今や不義に満ちた街となってしまったことを嘆いています。「かつては忠信であった町、どうして遊女となったのか。昔は公平で満ち、正義がそのうちにやどっていたのに、今は人を殺す者ばかりとなってしまった」(21節)と主は言われます。

主は、イスラエルの堕落を具体的に指摘されます。「お前の銀は金かすになった。お前の良い酒も水で割ってある」(22節)。これは、純粋なものの中に不純物が混ざってしまった状態を表しています。本来は良いはずの銀や葡萄酒が、混ぜ物によって価値を失ってしまったのです。

さらに主は、指導者たちの腐敗を非難されます。「お前のつかさたちは反逆者、盗人の仲間。皆、賄賂を愛し、報酬を追い求める」(23節)。正義を守るべき立場にある者たちが、逆に不正を働いているのです。

このような状況に対し、主は厳しい裁きを宣言されます。「ああ、私のあだに思いを晴らし、私の敵に復讐しよう」(24節)。主は、イスラエルの中にある敵、つまり主に逆らう者たちを裁かれるのです。

しかし、主の目的は単なる破壊ではありません。「しかし、お前の上に再び我が手を伸ばし、お前の金かすをあくのように溶かし、その浮きかすを皆のぞこう」(25節)。これは、純粋な銀を得るために不純物を取り除く精錬の過程を表しています。主は、イスラエルを清めて、本来あるべき姿に戻そうとされているのです。

 こうして、あなたのさばきびとをもとのとおりに、あなたの議官を初めのとおりに回復する。」(26節a)。主は、イスラエルの指導者たちを正しい者に立て直そうとされています。

そして、清められたイスラエルの将来について、主は希望に満ちた約束を与えられます。「その後あなたは正義の都、忠信の町ととなえられる」(26節b)

この箇所から、私たちは重要な教訓を学ぶことができます。私たちもまた、教会に通い、クリスチャンとして生活しているつもりでも、知らず知らずのうちに不純物を混ぜてしまっているかもしれません。純粋な信仰が、世俗的な考えや行動によって汚されてしまう危険性は常にあるのです。

主は、「シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる」(27節)と言われます。ここで重要なのは、「悔い改める者」という言葉です。単に教会に通うだけでなく、真に悔い改め、主の前に立ち返る者が贖われるのです。

バプテスマのヨハネの言葉を思い出しましょう。「悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ3:8)。悔い改めは単なる言葉だけではなく、具体的な行動の変化を伴うものでなければなりません。

私たちは、自分の罪を認識し、胸を打ち叩き、心を裂き、涙を流して悔い改めなければなりません。そして、二度とその罪を犯さないと決心し、主の助けを求めて歩む必要があります。

主は、「背く者は、罪人と共に破滅し、主を捨てる者は、失せ果てる」(28節)と警告されます。悔い改めない者、主を捨てる者には厳しい裁きが待っているのです。

しかし、主の目的は私たちを滅ぼすことではありません。主は、私たちを清め、純粋な信仰を持つ者としたいのです。「 あなたがたは、みずから喜んだかしの木によって、はずかしめを受け、みずから選んだ園によって、恥じ赤らむ。 」(29節)。ここでの「樫の木」や「園」は、偶像礼拝の場所を指していると考えられます。主は、私たちが頼りにしている偽りの神々や世俗的な価値観が、実は何の役にも立たないことを示されるのです。

つわものがあさくずに、そのわざはひばなになり、そのふたつとももえたってこれをけすものがいない」(31節)。ここでの「つわもの」は、自分の力を頼みにする者を表しています。しかし、主の前では、人間の力など何の価値もありません。

私たちは、自分の中にある不純物、主の御心に反するものを取り除いていただく必要があります。それは時に痛みを伴う process かもしれません。しかし、それによって私たちは純粋な信仰を持つ者となり、主に用いられる器となることができるのです。

【結論】

今日の御言葉は、私たちに厳しい警告と同時に、希望に満ちた約束を与えています。私たちは、自分の罪を認識し、真摯に悔い改め、主の清めを受け入れる必要があります。そうすることで、私たちは「正義の街、忠心な都」の住民として、主に喜ばれる者となることができるのです。主の恵みによって、私たちが日々、悔い改めと信仰の歩みを続けていくことができますように。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つくばエクレシア礼拝(ヨハネ12:1-8):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ユダとイエス様 - 光と闇との極み(ヨハネ12:4-8):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:圧倒的不利な状況下で、一人、信仰によって立ち向かうヨナタン(1サムエル記13:15-14:5):右クリックで保存

『こうしてサムエルは立って、ギルガルからベニヤミンのギベアに上っていった。サウルは共にいる民を数えてみたが、おおよそ六百人あった。サウルとその子ヨナタン、ならびに、共にいる民は、ベニヤミンのゲバにおり、ペリシテびとはミクマシに陣を張っていた。』(1サムエル記13:15-16)

サムエルは、サウルを置いて行ってしまった。
サムエルが来ていけにえを捧げるまで待て、と言われていたのに待ちきれず、身勝手に自分でいけにえを捧げ、主にそむいてしまったためだ。

これから何を為すべきか、という示しを何も頂けないまま、サムエルに去られてしまったが、それでもペリシテ人は容赦なく迫ってくる。
ペリシテ人達は、三組に分かれて、イスラエル領土内を荒らしに来ていたが、サウルに付き従う人々は既に大勢逃げてしまい、今や、六百人ほどになってしまった。
しかも、武器を持っているのは、サウルとヨナタンだけだった。なぜなら、ペリシテ人はイスラエルに武器を作らせないようにと、鍛冶を禁じていたからだ。
イスラエルに敵するペリシテは、戦車3万に、騎兵6千、歩兵は海辺の砂粒のように多い。
誰がどう見ても、イスラエルに勝ち目が無い状況である。

この時、再びヨナタンが行動を起こす。
『ある日、サウルの子ヨナタンは、その武器を執る若者に「さあ、われわれは向こう側の、ペリシテびとの先陣へ渡って行こう」と言った。しかしヨナタンは父には告げなかった。』(1サムエル記14:1)
この戦いが始まったのも、そもそも彼がペリシテの守備隊長を打ったのが発端だった。

彼は、父サウルには黙ってペリシテ人の先陣へと行った。
なぜ父サウルに黙って行ったのだろう。
後の箇所を見るとわかるが、サウルは民に無意味な制約を科したり、いらぬ所で変な命令を出したり、あるいはそれを翻したりして、民を右往左往させる事をしきりに行うのだが、すでにその徴候があったのかもしれない。それでヨナタンは、父に何も知らせずに行ったのかもしれない。

『サウルはギベアのはずれで、ミグロンにある、ざくろの木の下にとどまっていたが、共にいた民はおおよそ六百人であった。またアヒヤはエポデを身に着けて共にいた。アヒヤはアヒトブの子、アヒトブはイカボデの兄弟、イカボデはピネハスの子、ピネハスはシロにおいて主の祭司であったエリの子である。民はヨナタンが出かけることを知らなかった。』(1サムエル記14:2-3)
アヒヤは、かの悪名高きエリの子ピネハス、聖徒の捧げ物をかすめ奪って聖所でみだらな事をした、あの祭司・ピネハスの孫で、ピネハスが死んだ日に生まれたイカボテ(栄光なしという意味)の兄・アヒトブの子であり、エリの「ひ孫」にあたる。
サウルは、神に伺いを立てる祭司を近くに呼び寄せていたが、それはサウルには、あまり意味をなしていない事が後に明らかになる。

サウルは、ざくろの木の下で、何の手立てもなくただじっとして、民がこっそり逃げて行くにも手をこまねいているだけの状況だったが、ヨナタンの心には、サウルとは別の思いがあった。
こんな時機に、父サウルと一緒に手をこまねいていても、主は何も働かれない、自分で信仰による行動した方がいい、そう思って、父に黙って出かけたのだろう。
不信仰の愚かな者が、支配権を握っている時、その配下の信仰者が、不信仰の者に黙って行動する、という事は、確かにある。ナバルに対してのアビガイルもそうだった。(1サムエル記25章)

ペリシテの略奪隊は、既に三組に分かれて、イスラエルをなぶり始めている。
ヨナタンは彼らを「割礼なき者ども」と見、主は神の民をなぶる者達を必ず滅ぼしてくださると、信頼して出て行った。
それは、信仰なき者が見るなら無謀以外の何者でも無い。父が聞くなら、当然止める事だろう。
だから、父に内緒で行ったのだ。

主を知らず、生まれながらの感性や価値観で生きている「生まれながらの人」は、「霊の人」の信仰の行動を、愚かと見なす。
『生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。』(1コリント2:14-16)
御霊にある人は、肉にある人には想像もできないような事業を為し、そしてそれは成功し、その全ての行程において、神が栄光をお受けになるのだ。

ヨナタンのその信仰の行動が、再び、イスラエルと敵とを、大いに揺り動かす。
世を支配しておられるのは主であるが、主はどういうわけか、主を畏れ敬う人達の、信仰にある行動を用いて、世界を動かして行く。
信仰によって御言葉に従順し、主の御胸を行い、いのちで満たしていく事に用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:待つ事が出来なかったサウル(1サムエル記13:1-14):右クリックで保存

『サウルは三十歳で王の位につき、二年イスラエルを治めた。』(1サムエル記13:1)

この1節の原文は、どう訳して良いのか難解な文となっており、訳し方が多岐に分かれる所である。
口語訳や新改訳では、三十歳で王の位についた、とあるが、脚注にある通り、それは「推定」であって正確ではない。
ちなみに原文をそのまま並べると、「子(血筋) 年 サウル 中で 統治する と 二つの 年 統治する 上に イスラエル」となっており、どのように意味を汲んで良いのか正確な所が分からない。

サウルが何年王として統治し影響力を振るったのかは、正確な所は分からないが、ひとつ明らかな事は、彼の統治は「短かった」事だ。
なぜなら、サウルは主の道を歩まなかったからである。
この箇所では、サウルはまだ王となったばかりであるが、早速、主の道に歩まない性質が現れはじめる。

『さてサウルはイスラエルびと三千を選んだ。二千はサウルと共にミクマシ、およびベテルの山地におり、一千はヨナタンと共にベニヤミンのギベアにいた。サウルはその他の民を、おのおの、その天幕に帰らせた。ヨナタンは、ゲバにあるペリシテびとの守備兵を敗った。ペリシテびとはそのことを聞いた。そこで、サウルは国中に、あまねく角笛を吹きならして言わせた、「ヘブルびとよ、聞け」。』(1サムエル記13:2-3)
神の民の敵・ペリシテに、最初に戦いを挑み、そして勝利したのは、サウルの子・ヨナタンだった。彼は手勢の1000人を引き連れ、守備兵を破った。
その事は、イスラエルにも、敵にも、動きを起こさせる事となった。

それにしても、サウルはなぜこの時、「イスラエルよ」と呼びかけずに、「ヘブルびとよ」と呼びかけたのだろう。
14:21を見ると分かるが、ヘブル人でありながら、神の民イスラエルに逆らい、ペリシテについた者もいた。だから、いわゆる「神の民イスラエル」へ限定した呼びかけではなく、ヘブル語がわかる者なら誰であっても聞け、という事だったのかもしれない。

『イスラエルの人は皆、サウルがペリシテびとの守備兵を敗ったこと、そしてイスラエルがペリシテびとに憎まれるようになったことを聞いた。こうして民は召されて、ギルガルのサウルのもとに集まった。 』(1サムエル記13:4)
ペリシテの守備兵を破ったのは、ヨナタンだったはずだが、なぜか「サウルがペリシテびとの守備兵を敗った」事が、イスラエル中に広まった。
後のサウルの言動を見ると分かるのだが、彼は、人の手柄は自分のものにし、自分の都合が悪い事は人のせいにする性質がある。

『ペリシテびとはイスラエルと戦うために集まった。戦車三千(原文:三万)、騎兵六千、民は浜べの砂のように多かった。彼らは上ってきて、ベテアベンの東のミクマシに陣を張った。イスラエルびとは、ひどく圧迫され、味方が危くなったのを見て、ほら穴に、縦穴に、岩に、墓に、ため池に身を隠した。また、あるヘブルびとはヨルダンを渡って、ガドとギレアデの地へ行った。しかしサウルはなおギルガルにいて、民はみな、ふるえながら彼に従った。』(1サムエル記13:5-7)
イスラエルの軍隊は、三千。それに比べ、ペリシテが戦うために出てきたのは、戦車の数だけで、イスラエルの数を上回っている。
それで人々は、逃げ隠れした。
サウルが守備隊を破った、というだけ取り上げていたなら、サウルの(本当はヨナタンの)手柄で沸き立っていたであろうが、それがペリシテを怒らせ、大軍を呼び覚ましてしまった、となっては、大変な事になったと思っただろう。
人々はこの大軍を前に、震えるしかなかった。

しかし今まで、神の民・イスラエルに対して敵が圧倒的勢力で攻めて来た事は、幾度もあった。
例えばギデオンの時は、わずか三百人で、十三万五千の敵を圧倒した。
神の国の戦いは、兵力や装備による戦争ではなく、神ご自身が戦われるか、闘われないか、によって、勝敗が決まってきた。だからサウルに必要な事は、兵や装備をつのる事ではなく、ただ勝利の主に信頼する事だけだった。
しかしサウルは誤った事をしてしまう。

『サウルは、サムエルが定めたように、七日のあいだ待ったが、サムエルがギルガルにこなかったので、民は彼を離れて散って行った。そこでサウルは言った、「燔祭と酬恩祭をわたしの所に持ってきなさい」。こうして彼は燔祭をささげた。』(1サムエル記13:8-9)
サウルはここで、二つの罪を犯している。
祭壇で主にいけにえを捧げる行為は、レビ族しか許されていないはずだが、それを行ってしまった事、そして、サムエルを待たずに自分勝手に行動してしまった事だ。

『その燔祭をささげ終ると、サムエルがきた。サウルはあいさつをしようと、彼を迎えに出た。その時サムエルは言った、「あなたは何をしたのですか」。サウルは言った、「民はわたしを離れて散って行き、あなたは定まった日のうちにこられないのに、ペリシテびとがミクマシに集まったのを見たので、わたしは、ペリシテびとが今にも、ギルガルに下ってきて、わたしを襲うかも知れないのに、わたしはまだ主の恵みを求めることをしていないと思い、やむを得ず燔祭をささげました」。』(1サムエル記13:10-12)

サウルは、民は彼を離れて散って行くのを見て、これ以上民が離れて行かないようにするため、アピール目的でいけにえを捧げたのだ。
燔祭とは全焼のいけにえであり、自分の全てを捧げます、という主に対する意思表示のはずだが、彼の場合、主に対する信仰は一切無く、ただ人をつなぎとめるための「動物焼きパフォーマンス」に過ぎなかった。
それは、主の御前に悪でしか無い。

『サムエルはサウルに言った、「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。しかし今は、あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」。』(1サムエル記13:13-14)

サムエルがかつてサウルに命じたのは、『あなたはわたしに先立ってギルガルに下らなければならない。わたしはあなたのもとに下っていって、燔祭を供え、酬恩祭をささげるでしょう。わたしがあなたのもとに行って、あなたのしなければならない事をあなたに示すまで、七日のあいだ待たなければならない」。』(1サムエル記10:8) であった。
サムエルが来ていけにえを捧げたなら、サウルがその後しなければならない事が、主から告げられる、はずだった。
しかし、彼が主を待たず、身勝手な事をしてしまった今となっては、次なる主の示しは与えられない。

しかし、このただ一度の失敗で、もはや永遠に手遅れ、という訳ではない。
サムエルが言ったのは「今は、あなたの王国は続かない」であって、「もう決して、あなたの王国は続かない」ではない。
実際、サウルは敗者復活のチャンスが後に与えられる。

終わりの時代、患難の時がやって来る。
その時、主を忍耐して待たなければならないが、それは人が思っているよりも遅い事が、あらかじめ主から示されている。(2ペテロ3:9)
主を待ち望め、それは旧約でも新約でも共通する命令である。
いかに「遅い」と思えるようであっても、主が「待ち望みなさい」と言われたからには待つべきであって、サウルのように焦って、ひとりよがりの行動してはならない。

礼拝説教メッセージ音声:不真実な民を養う事を止めないサムエルと主(1サムエル記12:16-25):右クリックで保存

サムエルは、イスラエルがモーセの時以来、いかに主に対して不真実に歩んできたかを指摘し、それに加えて、王を求めるという罪まで犯した事を指摘した。

『それゆえ、今、あなたがたは立って、主が、あなたがたの目の前で行われる、この大いなる事を見なさい。きょうは小麦刈の時ではないか。わたしは主に呼ばわるであろう。そのとき主は雷と雨を下して、あなたがたが王を求めて、主の前に犯した罪の大いなることを見させ、また知らせられるであろう」。そしてサムエルが主に呼ばわったので、主はその日、雷と雨を下された。民は皆ひじょうに主とサムエルとを恐れた。』(1サムエル記12:16-18)

イスラエルには雨季と乾季があり、小麦の刈り入れ時、すなわち、6月頃は雨は降らないはずなのだが、サムエルが祈り求めると、主は雷と雨がくだされた。
それは、あり得ない天気である。
サムエルがありえない時期に雷と雨を呼び求め、そして主がそれに応えられたのは、イスラエルの民がいかに主を無視し、主に罪を犯したかを示すためであり、また、主は呼び求めるなら答えてくださるお方であると示すためでもある。

『民はみなサムエルに言った、「しもべらのために、あなたの神、主に祈って、われわれの死なないようにしてください。われわれは、もろもろの罪を犯した上に、また王を求めて、悪を加えました」。』(1サムエル記12:19)
イスラエルの民は恐れ、自分達が主の御心を損ねた事を明確に告白した。
そして、主から災いが降されないよう祈り求めるように、サムエルに願った。

私達も、罪が示された時、具体的にそれを告白して悔い改めているだろうか。
そして、それを改めるための行動を起こしているだろうか。
私達は、主の愛の広さ、高さ、長さ、深さをますます理解できるよう、その理解力が与えられるように祈る必要があるが、それと同時に、自分達がいかに主を悲しませ、御旨を損ねて来たかも理解できるよう、祈り求める必要がある。

『サムエルは民に言った、「恐れることはない。あなたがたは、このすべての悪をおこなった。しかし主に従うことをやめず、心をつくして主に仕えなさい。むなしい物に迷って行ってはならない。それは、あなたがたを助けることも救うこともできないむなしいものだからである。』(1サムエル記12:20-21)
サムエルは、恐れてはならない、と言った。
民は確かに罪を犯した。しかし主に従って歩むなら、主は赦してくださる、と。

主はなぜ赦して下さるのか。
それは、自分達が主に対して罪を犯し、御心を損ねた事を正確に認知し、具体的にそれを告白し、救われたいと願ったからだ。
このように、罪の赦しと、神との和解とは、無条件のものではない。自分の罪を告白し、悔い改めの意思表示をして、はじめて与えられるものである。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。』(ルカ17:3-4)
悔い改め無き赦しは、ありえない。
しかし、もし「悔い改めます」と言って一日に七度でも来るなら、七度でも赦すべきなのだ。

『主は、その大いなる名のゆえに、その民を捨てられないであろう。主が、あなたがたを自分の民とすることを良しとされるからである。』(1サムエル記12:22)
主は、主の御名のプライドにかけて、イスラエルの民を捨てる事をされない。
確かにイスラエルはかたくなな民であり、主に罪を犯し続ける事も、かたくなに止めないものだが、それでも主が捨てられないのは、「主が、あなたがたを自分の民とすることを良しとされるから」である。

『また、わたしは、あなたがたのために祈ることをやめて主に罪を犯すことは、けっしてしないであろう。わたしはまた良い、正しい道を、あなたがたに教えるであろう。』(1サムエル記12:23)
サムエルもまた、イスラエルのために、執り成し祈る事を止めて「主に罪を犯す」わけにはいかない、と言った。
サムエルからすれば、イスラエルはずっと主に罪を犯し続けてきたのを、彼は若い時からずっと見て来て、もううんざりしていた事だろう。
もうそろそろ、投げ出してしまいたい、と思っていたかもしれないが、それでも、祈りをやめる事はしなかった。祈る事を止めるのは、主に罪を犯すことである、として。
私達も、家族や仕事場、友人知人のため、そしてこの国のために、祈る事をストップするべきではない。

『あなたがたは、ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕えなければならない。そして主がどんなに大きいことをあなたがたのためにされたかを考えなければならない。しかし、あなたがたが、なおも悪を行うならば、あなたがたも、あなたがたの王も、共に滅ぼされるであろう」。』(1サムエル記12:24-25)
ここに、二つの道が示されている。
「ただ主を恐れ、心をつくして、誠実に主に仕え」るか。それとも、「なおも悪を行う」か。
主に誠実に心を尽くして仕えるなら、末永く幸いを得る。しかし「なおも悪を行うならば、あなたがたも、あなたがたの王も、共に滅ぼされる。」

もはや主を悲しませる歩みを止めて、主を喜ばせる歩みをし、主が喜んで祝福を注いで下さるような者へと変えられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest