メッセージ - 201503のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主は真実を、人は不真実を、尽くして来た(1サムエル記12:6-15):右クリックで保存

前回のところでは、サムエルが今までイスラエルをいかに真実に導いて来たかを証し、人々もそれに同意したが、今回の所では、主がイスラエルに対しいかに真実を尽くして導いてこられたかを、思い起こさせている。

『サムエルは民に言った、「モーセとアロンを立てて、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出された主が証人です。それゆえ、あなたがたは今、立ちなさい。わたしは主が、あなたがたとあなたがたの先祖のために行われたすべての救のわざについて、主の前に、あなたがたと論じよう。』(1サムエル記12:6-7)

私達も、主がいかに良くしてくださったかを、事あるごとに思い起こす必要がある。
主は、私達のために、いかに良い事をはからい、私達を愛され、贖いの御業を為してくださったか。
主はそれを為し遂げるために、十字架上でどれほど傷まれ、うめかれ、苦しまれたか。
主が私達に為して下さった事は、ことごとく真実であったと、私達も証するべきなのだ。

『ヤコブがエジプトに行って、エジプトびとが、彼らを、しえたげた時、あなたがたの先祖は主に呼ばわったので、主はモーセとアロンをつかわされた。そこで彼らは、あなたがたの先祖をエジプトから導き出して、この所に住まわせた。』(1サムエル記12:8)
主は、エジプトで苦しめられているイスラエルを助けられた。
彼らが主に向かって叫び、助けを求めたからだ。
主は当初からイスラエルにいつも真実を尽くして来られたが、そのイスラエルは、主に対して不真実で答えて来た。

『しかし、彼らがその神、主を忘れたので、主は彼らをハゾルの王ヤビンの軍の長シセラの手に渡し、またペリシテびとの手とモアブの王の手にわたされた。そこで彼らがイスラエルを攻めたので、民は主に呼ばわって言った、『われわれは主を捨て、バアルとアシタロテに仕えて、罪を犯しました。今、われわれを敵の手から救い出してください。われわれはあなたに仕えます』。主はエルバアルとバラクとエフタとサムエルをつかわして、あなたがたを周囲の敵の手から救い出されたので、あなたがたは安らかに住むことができた。』(1サムエル記12:9-11)
申命記においてモーセが口を酸っぱくして言った事は、主の御声に聞き従い、それを守り行いなさい、という事であり、もし聞き従わずに主を捨てるなら、必ず災いが起こるという事も、何度も言って来た。
しかし彼らは、「してはならない」と言われた事を敢えて「して」、「行ってはならない」と言われていたの所に敢えて「行った」ため、当然のごとく、災いが身に降り掛かった。

しかし彼らが『われわれは主を捨て、バアルとアシタロテに仕えて、罪を犯しました。今、われわれを敵の手から救い出してください。われわれはあなたに仕えます』と言った時、彼らが主に為して来た所業にも関わらず、主は豊かに赦し、主は士師を遣わしてイスラエルを助けられた。
御言葉はまさに、法則そのものである。
御言葉に従って歩むなら、主守りの内に幸いに栄えるが、主と主の御言葉に背き、してはならないと言われている事を敢えてするなら、必ず災いを受ける。
しかし、そこからさらに立ち返るなら、主は豊かに許してくださる。
主こそまさに、憐れみ深いお方である。

そして12節以降で、サムエルは、イスラエルがまさに「している」事について言っている。
『ところが、アンモンびとの王ナハシが攻めてくるのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、あなたがたはわたしに、『いいえ、われわれを治める王がなければならない』と言った。それゆえ、今あなたがたの選んだ王、あなたがたが求めた王を見なさい。主はあなたがたの上に王を立てられた。』(1サムエル記12:12)

イスラエルはかつて、王を求めた事は無かった。主が王であったからだ。
しかしこの度、イスラエルは、今まで真実に導いて来られた主を無視し、人間の王を求めたのだ。
たとえるなら、心砕いて養って来てくれたお母さんを目の前にして、「いや、自分には養ってくれるお母さんが必要なのだ」などと言っているようなものである。
イスラエルは、主を無視して王を求める、という罪を犯した、にも関わらず、主は彼らを見捨てず、真実を尽くして下さる。

『もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕えて、その声に聞き従い、主の戒めにそむかず、あなたがたも、あなたがたを治める王も共に、あなたがたの神、主に従うならば、それで良い。しかし、もしあなたがたが主の声に聞き従わず、主の戒めにそむくならば、主の手は、あなたがたとあなたがたの王を攻めるであろう。』(1サムエル記12:14-15)
イスラエルは、王が自分達を正当に守り導いてくれると夢見ていたが、王たる者や指導者たる者が必ずしも間違えずに正当に導くとは限らないし、彼らが主に真実に従うとは限らない。
牧師や教職者といえども、人は皆、間違った道へと人々を導いてしまう可能性を秘めているのだ。

確かに地上には、服すべき指導者や王がいる。
しかし、私達が最も優先して服すべきは、御言葉であられるキリストだ。

ベタニヤの兄弟姉妹 - 永遠の記念の宴会(ヨハネ12:1-8)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

イエス様はエルサレムからさほど遠くないベタニヤのマルタ・マリヤ・ラザロの家に好んで出入りしていた。
エルサレムでは、パリサイ人や律法学者などを相手にする、対決的な働きが多かったのに対し、きっとベタニヤの家は、イエス様にとっては安心してくつろげる場所だったのだろう。
イエス様によみがえらせてもらったラザロの話を前回少し見たが、それ以降、彼らはそれ以降、前にも増してイエス様を純粋に愛し、より真心と愛を込めた「宴会」を、王なるイエス様に設けるようになった。
マルタはかつて、イエス様の足元で御言葉に聞き入っているマリヤを指して自分の手伝いをするようイエス様に指図して逆にたしなめられたが、ラザロをよみがえらせて頂き、イエス様こそ全ての全てであり、彼のなさる事は何もかもが素晴らしいと知って、彼女は、そのもてなしの賜物をより純粋に発揮するようになった。
ラザロも、死んでいた所を蘇らせていただき、今、イエス様と、仲の良い兄弟姉妹達と、食事を共にして、死から救われたいのちを喜び噛み締めつつ、宴会を楽しんでいた。
そして、いつもイエス様の足元で御言葉に聞き入っていたマリヤは、高価なナルドの香油を彼に捧げた。

死から救い出して下さった。いのちの喜びを教えて下さった。よみがえりであり、いのちであられるこのお方の、何もかもが素晴らしい。しかし、そのイエス様が言うには、もうすぐ人々から捨てられ、十字架につけられてしまうという。彼女はだから、葬りのために、自分が取っておいたものの中で一番高価なナルドの香油を自分には一滴も残さず、捧げ尽くし、主が働き歩んできた「足」に塗って、女の冠である髪でぬぐった。
尊くてやまないイエス様には、持てるものを注ぎ尽くしても、足りない。それが成熟した信仰者の姿である。
彼女の、主への尊敬と愛、信仰を、そのナルドに混ぜて注ぎ尽くしたその香りは、主の御前にいっそう高価で尊くなり、その香りは家全体に満ち、天に登り、そして、永遠の記念として全世界に広がった。
それはまさしく、主に捧げられる最高の宴会であり、私達も、尊くてやまないイエス様に愛と尊敬を混ぜ、持てる最高のものを捧げる時、それはナルドの香りとなって天に立ち昇り、永遠の記念として残るのだ。

しかし、主に宴会を捧げる時、敵もまた、そこに”いる”事を、私達は今年学んでいる。
イエス様を裏切るイスカリオテ・ユダが、しゃしゃり出て来て言った。 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか。」 彼が言った事は尤もらしく聞こえるが、彼は貧しい人を心にかけていたのではなく、聖徒の捧げ物をいつも横領し、その三百デナリも、自分のものにしたかったのだ。
主ではなく、聖徒の礼拝や交わりを見て、分析し、値定めし、口出しするような者は、要注意だ。
このような者はイエス様が主ではなく、イエス様にひっついて活躍する自分が主人公であり、もしイエス様が自分の思い通りに動かないとするなら、平気でイエス様を銀貨30枚に替えて売り飛ばすのだ。

この、香り高いベタニヤの宴会をかき乱したユダの下心も、あさましい動機も、当然イエス様は知っていた。
永遠の記念となる聖なる宴会にドロを塗った事に、怒りを露わにしてもいいとも思えるが、そんな事をしたら、マリヤ達のせっかくの尊い奉仕にドロを塗ってしまう事となり、悪魔サタンの思うツボである。
イエス様は、平和のおもむきでユダに諭した。「わたしはいつも共にいるわけではない」(8節)
確かにこの時、ユダも同席しているが、ユダやハマンなどの敵がいつまでも宴会に同席する訳ではない。
彼らが、聖徒の催した宴会の聖なる空気に触れられ、悔い改め、邪悪で汚れた性質を捨て去るなら、新しく造り変えられた者として、いのちを得る。主はそれを望まれる故に、敢えて彼らの同席を許される。
しかしあくまで自分の行いを改めず、相変わらず宴会を汚す役に徹するなら、その者はやがて追い出されて行く。それは私達がどうこうする事ではなく、主がなさる事であり、私達はただ、ベタニヤの兄弟姉妹のように、主の喜びとなる最高の宴会を設けるのみである。ユダのような浅ましい人間が、聖なる香り高い礼拝や奉仕に、汚物を塗るような事は、確かにあるが、私達はそれに対し、怒りや悪で報いてはいけない。
『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。・・・悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ12:17,21)
自分を裏切る者を前にしても怒らず、悪で悪に報いなかったイエス様の品性を私達も身につけ、敵の面前で幸いな宴会を主から設けていただく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主を記念し覚える集まり(1コリント11:23-26):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
七を七十倍するまで赦しなさい、とは?(マタイ18:21-35):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主が耐えられない程忌み嫌う礼拝(イザヤ1:10-20)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

この説教は、イザヤ書1章10-20節を基に、主に喜ばれる真の礼拝について語っています。

【聖書箇所】

イザヤ書1章10-20節

【戒めの言葉】

虚しい礼拝や見せかけの信仰を捧げることを戒めています。

【勧めの言葉】

主の前に出て、主と論じ合い、悔い改めて清められることを勧めています。

【悔い改めの促しの言葉】

罪を認識し、主の前に出て悔い改め、清められることを促しています。

【***詳細***】

この説教は、イザヤ書1章10-20節を基に、主に喜ばれる真の礼拝について語っています。説教者は、イスラエルの民がソドムやゴモラと同じように罪深くなっていたことを指摘し、彼らの礼拝が主に喜ばれないものとなっていたことを説明します。

まず、10-11節で、主は彼らの多くの生贄を喜ばないと述べています。「あなた方の多くの生贄は、私に何になろう、と主は仰せられる。私は、お羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。」これは、形式的な礼拝や儀式が主の心を満たさないことを示しています。

12-15節では、主は彼らの礼拝や祭りを重荷に感じ、彼らの祈りを聞かないと言っています。「あなた方の新月の祭りや礼祭を私の心は憎む。それは私の重荷となり、私は担うのに疲れ果てた。」これは、心からの悔い改めや信仰がない状態での礼拝や祈りは、主に受け入れられないことを示しています。

特に15節では、「あなた方が手を差し伸べて祈っても、私はあなた方から目をそらす。どんなに祈りを増し加えても聞くことはない。あなた方の手は血まみれだ。」と厳しく述べられています。これは、罪を悔い改めずに捧げる祈りは聞かれないことを意味しています。

しかし、16-17節で主は解決策を提示します。「洗いきよめよ。自らを清くせよ。わたしの目の前から、あなたがたの悪い行いを取り除け。悪を行うのをやめ、善を行うことを学べ。」これは、悔い改めと善行の実践を求めるものです。

18節は非常に重要な約束を含んでいます。「さあ、来たれ。共に論じ合おう。─主は言われる─ たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」この箇所は、真摯な悔い改めと主との対話を通じて、どんな大きな罪も赦されうることを示しています。

説教者は、この「論じ合う」ということの重要性を強調しています。単に形式的に教会に来るのではなく、主と真剣に向き合い、対話することの必要性を説いています。

19-20節では、従順さの重要性が語られています。「もし、すすんで聞き従うなら、あなたがたは地の良い物を食べることができる。しかし、もし拒んで逆らうなら、剣に食べられる。」これは、主の言葉に従順であることの祝福と、不従順の結果を明確に示しています。

説教の結びでは、私たちが「ミミズ」のような罪深い状態から、主の赦しによって「羊」のように清められ、主に導かれる者となることができると励まします。

この説教全体を通じて、形式的な礼拝や祈りではなく、心からの悔い改めと主との真摯な対話、そして従順な生活の重要性が強調されています。

【結論】

真の礼拝は、形式的なものではなく、心からの悔い改めと主との真摯な対話、そして従順な生活から生まれます。私たちは自分の罪を認識し、主の前に出て清めを求め、主に喜ばれる生き方を実践していくべきです。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つくばエクレシア礼拝(1列王記17:17-24):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
義人の祈りは働くと力がある(ヤコブ5:13-20):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:霊的指導者の引き際(1サムエル記12:1-5):右クリックで保存

モーセも、ヨシュアも、引退する時には全イスラエルを呼び集めて、最後のメッセージをしたが、サムエルもこの章で引退メッセージをしている。

とは言っても、サムエルはそれで引退してめでたく隠居生活に入ったわけではなかった。
サウルが主の道を正しく歩まないために、色々と世話しなくてはならない事がまだまだ起こってしまうからである。
なにしろサウルは、サムエルが死んだ後さえ、口寄せを呼び寄せてまでサムエルから助言を得ようとしたほどだった。

『サムエルはイスラエルの人々に言った、「見よ、わたしは、あなたがたの言葉に聞き従って、あなたがたの上に王を立てた。見よ王は今、あなたがたの前に歩む。わたしは年老いて髪は白くなった。わたしの子らもあなたがたと共にいる。わたしは若い時から、きょうまで、あなたがたの前に歩んだ。』(1サムエル記12:1-2)
サムエルは、子供の時から主の言葉を伝える者として働き、イスラエルを導いてきたが、今や、サウルが油注がれ、イスラエルを導く王となった。

この時、サムエルが後継者として立てた彼の子達は、指導者の座から降りて一般人のようになっていたようだ。
サムエルは、子がわいろを取り、指導者として相応しくない行動を取ったとあれば、彼らをその座から降ろして、主に油注がれたサウルへと支配権を渡したのだろう。
サムエルは確かに子を霊的に純潔に育てる事はできなかったかもしれないが、祭司エリとは違い、子をそのまま支配の座につかせて続けて、罪を犯させる事を、させなかった。
私達もそのような潔さが必要である。

『わたしはここにいる。主の前と、その油そそがれた者の前に、わたしを訴えよ。わたしが、だれの牛を取ったか。だれのろばを取ったか。だれを欺いたか。だれをしえたげたか。だれの手から、まいないを取って、自分の目をくらましたか。もしそのようなことがあれば、わたしはそれを、あなたがたに償おう」。彼らは言った、「あなたは、われわれを欺いたことも、しえたげたこともありません。また人の手から何も取ったことはありません」。』(1サムエル記12:3-4)
サムエルは、もし自分に何か不正や責められるべき所があるなら、言ってみなさいと、堂々と言えたし、民もまたそれを見出さなかった。。
パウロも、死を覚悟した時、エペソの長老たちを呼び寄せて最後のメッセージしたが、その内容はサムエルのメッセージと重なる所が多い。

『わたしはいま信じている、あなたがたの間を歩き回って御国を宣べ伝えたこのわたしの顔を、みんなが今後二度と見ることはあるまい。だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。神の御旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。』(使徒20:25-27)
霊的指導者の責任は、主の御心をあます所なく伝えるまでである。
だから、キリスト者が為すべきは、慈善活動よりも、むしろ御言葉をあます所なく伝える事であり、その伝える中には当然、何が罪であり、罪を続ける結果の裁きや永遠の滅びなど、人が聞いて痛いような事も含まれ、そして、それからの救いは、主イエス・キリスト以外には誰もいない事を、はっきり伝えるべきである。

『だから、目をさましていなさい。そして、わたしが三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。』(使徒20:31-32)
主にある弟子訓練とは、一緒にいる時は御言葉をしっかり伝え、分かれるべき時が来たなら御言葉にその人をゆだねる事であり、決して自分色や教団色に染める事ではない。言ってみればキリスト色に染める事であり、それには御言葉への従順が不可欠である。

牧師や教職者など、霊的指導する立場にある人は、次のように断言出来るだろうか。
『わたしは、人の金や銀や衣服をほしがったことはない。あなたがた自身が知っているとおり、わたしのこの両手は、自分の生活のためにも、また一緒にいた人たちのためにも、働いてきたのだ。わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。』(使徒20:33-35)

私達はいつも主にあって走るべき道のりを熱心に走り、引くべき時には潔く引き、その時は、堂々と次のように言える者でありたい。
『サムエルは彼らに言った、「あなたがたが、わたしの手のうちに、なんの不正をも見いださないことを、主はあなたがたにあかしされる。その油そそがれた者も、きょうそれをあかしする」。彼らは言った、「あかしされます」。』(1サムエル記12:5)

礼拝説教メッセージ音声:確立されたサウル王朝(1サムエル記11:1-15):右クリックで保存

神と人との前で王の任命を受けたサウルだったが、王とはまだ名ばかりで、本人も民も、実体と心は全然伴なっていなかった。

そこで主は、彼を名実ともに王として整える出来事を起こされる。
それは、アモンという敵国の侵略だった。

イスラエル領内のヤベシュ・ギルアデに、アモンは大軍で攻め囲んで来たため、そこの人々は降伏を申し出るのだが、アモンの王ナハシュは言った。
『次の条件であなたがたと契約を結ぼう。すなわち、わたしが、あなたがたすべての右の目をえぐり取って、全イスラエルをはずかしめるということだ。』(1サムエル記11:2)
降伏を受け入れる条件に、人々の「右の目をえぐり出す」という残忍な事を要求し、その屈辱をさせて全イスラエルをはずかしめようとしたのだ。

『ヤベシの長老たちは彼に言った、「われわれに七日の猶予を与え、イスラエルの全領土に使者を送ることを許してください。そしてもしわれわれを救う者がない時は降伏します」。こうして使者が、サウルのギベアにきて、この事を民の耳に告げたので、民はみな声をあげて泣いた。』(1サムエル記11:3-4)
神の民イスラエル、随分となめられたものである。
アモン人は、イスラエルは自分達を恐れて、誰もヤベシュの人々を助けに来ないとたかをくくっていたのか、あるいは、たとえ助けが来たとしても、自分達はそれを圧倒できると思っていたのか、ともかくアモンは、ヤベシュの人々がイスラエル全土に使者を送るための七日の猶予を与えてやった。

近隣の敵国に、ここまで平然となめた行動を取られてしまう程に、イスラエルは、落ちぶれていたという事だ。
イスラエルは、自分達の一領土が異邦人に蹂躙されても何も出来ず、その知らせを受けても、ただ泣くしか無いほどに、無力、無能だったのだ。

この知らせをサウルが受けた時、彼は何をしていたか。
『その時サウルは畑から牛のあとについてきた。そしてサウルは言った、「民が泣いているのは、どうしたのか」。』(1サムエル記11:5)
サウルはなんと、王としての任職を受けたというのに、人々の先を進み行くのではなく、畑で牛のあとについて行っていたのだ。
何と情けない、と思うかもしれないが、私達もあながち、彼と同じような事をしているかもしれない。

ペテロとヨハネも、主が復活された後、宣教者として福音を届ける神の使者として任命され、聖霊の息を吹きこまれたはずなのに、一度手放した漁師の網を再び取って、元の生活に戻ろうとした。
私達も、せっかく任職を受けても、何をして良いのか分からない時は、以前の仕事に戻ってしまうような所があるかもしれない。
しかし主は、そんな私達に、聖なる任務を思い起こさせ、主の尊い働きへと導いて下さる。

『サウルがこの言葉を聞いた時、神の霊が激しく彼の上に臨んだので、彼の怒りははなはだしく燃えた。彼は一くびきの牛をとり、それを切り裂き、使者の手によってイスラエルの全領土に送って言わせた、「だれであってもサウルとサムエルとに従って出ない者は、その牛がこのようにされるであろう」。民は主を恐れて、ひとりのように出てきた。』(1サムエル記11:6-7)
ペテロやヨハネは、主に再び触れられた時、自ら網を捨て、宣教者として出て行ったが、サウルも同じように、それまで大事にして追っていた牛を、自らほふって切り刻んだばかりでなく、それを全イスラエルに送りつけて「だれであってもサウルとサムエルとに従って出ない者は、その牛がこのようにされるであろう」と、非常にシンプルかつ分かりやすいメッセージの道具とした。

サウルは、神の霊が激しく臨んだ時、怒りがはなはだしく燃えたが、聖なる神の集いが汚れた者にそしられ、なぶられている事に怒りを燃やすのは、正当である。
むしろ「忍耐します」「ゆるします」などとうそぶいて、聖なるものが蹂躙されてしまうのを許してしまう事こそ、不当である。
ダビデも、生ける神の陣がなぶられたのを見た時、また、なぶられ続けているイスラエルの情けない様を見た時、聖なる憤りに駆られ、じっとしていなかった。(17章)

サウルのこの知らせが届いた先では、「主」への恐れが生じ、彼らは「ひとりの人のように」サウルの元に出てきた。
『サウルはベゼクでそれを数えたが、イスラエルの人々は三十万、ユダの人々は三万であった。そして人々は、きた使者たちに言った、「ヤベシ・ギレアデの人にこう言いなさい、『あす、日の暑くなるころ、あなたがたは救を得るであろう』と」。使者が帰って、ヤベシの人々に告げたので、彼らは喜んだ。』(1サムエル記11:8)
彼らは、わずか七日以内に、全イスラエルから集まって来たのだ。
それまで、てんでバラバラだったのに、驚くべき一致の仕方である。

『そこでヤベシの人々は言った、「あす、われわれは降伏します。なんでも、あなたがたが良いと思うことを、われわれにしてください」。明くる日、サウルは民を三つの部隊に分け、あかつきに敵の陣営に攻め入り、日の暑くなるころまで、アンモンびとを殺した。生き残った者はちりぢりになって、ふたり一緒にいるものはなかった。』(1サムエル記11:10-11)
こうして、イスラエルは救いを得、サウルの見事な王としての導きに、全イスラエルが認めざるを得なくなった。
こうして皆、主が確かにサウルを王として立てられたと知ったのだ。

『その時、民はサムエルに言った、「さきに、『サウルがどうしてわれわれを治めることができようか』と言ったものはだれでしょうか。その人々を引き出してください。われわれはその人々を殺します」。しかしサウルは言った、「主はきょう、イスラエルに救を施されたのですから、きょうは人を殺してはなりません」。そこでサムエルは民に言った、「さあ、ギルガルへ行って、あそこで王国を一新しよう」。こうして民はみなギルガルへ行って、その所で主の前にサウルを王とし、酬恩祭を主の前にささげ、サウルとイスラエルの人々は皆、その所で大いに祝った。』(1サムエル記11:12-15)
このようにしてイスラエル最初の王朝、サウル王朝が成立されたが、その王朝はわずか一代で終わってしまった。
サウルはその後、主に従順してイスラエルを統治して行くのではなく、不従順となって主を退けたからだ。
私達も、従順して永遠の栄光を勝ち得るか、それとも不従順となってサウルの道を行くか、それは私達の「これから」にかかっている。

礼拝説教メッセージ音声:公に王となったサウル(1サムエル記10:14-27):右クリックで保存

『サウルのおじが、サウルとそのしもべとに言った、「あなたがたは、どこへ行ったのか」。サウルは言った、「ろばを捜しにいったのですが、どこにもいないので、サムエルのもとに行きました」。サウルのおじは言った、「サムエルが、どんなことを言ったか、どうぞ話してください」。サウルはおじに言った、「ろばが見つかったと、はっきり、わたしたちに言いました」。しかしサムエルが言った王国のことについて、おじには何も告げなかった。』(1サムエル記10:14-16)


サウルはそれまで、父の家畜の面倒を見るだけの者だったのが、いきなり、イスラエル全体の面倒を見る王へと、主が任命されたのだ。
あまりの突拍子無さ故に、サムエルが言った事を、中々言い出せなかったのだろう。
私達にも、そのようなふしが、あるかもしれない。
私達もキリストにあっては、サウルのように、聖霊の油が注がれ、新しい者に造り変えられ、王族の祭司とされ、聖なる国民とされた。
『あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』(1ペテロ2:9)
この素晴らしい特権が与えられておきながら、その事を家族に黙っていて、相変わらず以前のような生き方をするようなキリスト者がいるとするなら、それは速やかに改めなくてはならない。

主からの「召命」を受け、それが確かに主から出た事であるという「しるし」を受け、「聖霊」も与えられたのであるのなら、いかなる事であっても、主が示して下さった道を歩むべきであり、また、他に対してもそれを明示していくべきである。
いかに主からの召命を「聞かなかった事」にしようとしても、それは隠すことは出来ず、いかに今までどおりの生活を続けようとしたところで、それは維持できなくなり、主の召された通りに歩まなくては、どうにもならなくなってしまうのだ。

サムエルはイスラエル全体を召集して、イスラエルに新しく王が誕生した事を、公然と示した。
『「それゆえ今、あなたがたは、部族にしたがい、また氏族にしたがって、主の前に出なさい」。こうしてサムエルがイスラエルのすべての部族を呼び寄せた時、ベニヤミンの部族が、くじに当った。またベニヤミンの部族をその氏族にしたがって呼び寄せた時、マテリの氏族が、くじに当り、マテリの氏族を人ごとに呼び寄せた時、キシの子サウルが、くじに当った。』(1サムエル記10:19-21)

サウルは王である事の召命を「個人的に」受けてはいたが、今度は「くじ」によって公に、彼が王である事を明らかにされた。
くじで王を選出する、というのは、常識では考えられないかもしれない。しかし当時のイスラエルでは、主の御名の元に投げられる「くじ」は、主の御心そのものを示すものであり(民数記26:55-56、34:13、箴言16:33)、くじの結果は100発100中の、御心を示すものだった。
実際、ヨシュアの時代には、聖絶のものを隠し持っている者を、イスラエル六十万の中からピンポイントで示したし、またこの時も、サウルを多くの群衆の中からピンポイントで示した。
ちなみに、くじが聖書で最後に用いられたのは、12使徒の補欠を補う時であり、その直後、ペンテコステの出来事で聖霊がしもべにもはしためにも注がれるようになったために、もはやくじで決める事はなくなり、主の働き人たちは、聖霊の導きによって主の働きを進めて行くようになって行った。

『しかし人々が彼を捜した時、見つからなかった。そこでまた主に「その人はここにきているのですか」と問うと、主は言われた、「彼は荷物の間に隠れている」。』(1サムエル記10:21-22)
サウルが王である事は、既に何度も主が示した事で、サウルはもはや隠れている場合ではないはずであるが、彼は隠れた。
しかし主は、その彼が隠れている場所さえピンポイントで示した。

主がヨナに、ニネベへ行って預言するよう命じた時、彼はその任務から逃げ、人混みにまぎれて、船の奥底に隠れたが、主はそれを露わにて引き出し、彼に与えた任務を遂行させた。
主が任命したからには、逃げ隠れしても、引きずり出されてしまうのだ。
私達も、王である祭司、聖なる国民という地位を頂いて、召し出して下さった方の御業をのべ伝えるという任務が与えられておきながら、逃げ隠れしたり、聞かなかったふりをしたり、今までどおり生活を続けようとしても、引きずり出されて、その任務へと戻されてしまうのだ。

『人々は走って行って、彼をそこから連れてきた。彼は民の中に立ったが、肩から上は、民のどの人よりも高かった。サムエルはすべての民に言った、「主が選ばれた人をごらんなさい。民のうちに彼のような人はないではありませんか」。民はみな「王万歳」と叫んだ。その時サムエルは王国のならわしを民に語り、それを書にしるして、主の前におさめた。こうしてサムエルはすべての民をそれぞれ家に帰らせた。』(1サムエル記10:23-25)
彼は美しくて背が高く、人受けする外見であったため、人々から、王と認められやすい人だった。
人々は王を望み、そののぞみどおりに王が与えられたというのに、それでも反対者が出た。
『サウルもまたギベアにある彼の家に帰った。そして神にその心を動かされた勇士たちも彼と共に行った。しかし、よこしまな人々は「この男がどうしてわれわれを救うことができよう」と言って、彼を軽んじ、贈り物をしなかった。しかしサウルは黙っていた。』(1サムエル記10:26-27)

神が示され、任命された王である。
それを拒否するような者は、本来許してはならないものだが、サウルはこの時、黙っていた。まだ王として未熟であり、権力を遂行する勇気も自覚も無かったからであろう。
未熟であるが故に、あるいは無知である故に、御胸どおりに行えないのであるなら、主は憐れみ深く、赦して下さり、さらにフォローさえして下さる。
しかし、そのようなフォローを受け続け、主がたしかにその道を守り、祝福しておられる事を沢山体験しておきながら、それでもなお意図的に主の御胸に反し続けるなら、それは許されない事であ。

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