メッセージ - 201505のエントリ
いのちの水が川々となって(エゼキエル47:1-12)
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聖霊が臨む時、私達は力を受ける。聖霊は、いのちの君なるお方・キリストをあらわし、表現し、証する霊であり、それが私達の内に宿る時、キリストのいのちが、腹の奥底から、泉のようにこんこんと湧き上がる。
それによって根源的な霊の渇きは癒され、潤され、いのちの水は周囲へと溢れ 流れ出し、周りも潤すものだ。主は、泉が溢れ潤す如く「いのちの君」であり、それは旧約でも、新約でも、永遠の天国でも、同じだ。
前回、新約・ヨハネの福音書からその事を学んだが、今回は旧約・エゼキエル書から学びたい。
エゼキエルは、バビロン捕囚下のイスラエルの民に、主の言葉を伝える預言者として用いられた。
この時代、ソロモンが建てた豪華絢爛な神殿は、イスラエルが代々犯して来た罪の故に、異邦人に破壊され尽くした後だった。神殿が打ち壊されてから十四年後、彼は、主が見せられた幻の内に、非常に高い山の上に建てられた、人のものならぬ神殿へと上げられた。(エゼキエル書40章)
『神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。 ・・・その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。』(3-5節) この、主の使いが持つ測りは、世の測りとは違う。
40章以降、この、人のものならぬ測りざおを用い、主が示された新しい神殿、すなわち罪ある人間が建てたものではない神殿を、主の測りで測って行くのだが、その内、色々な示しや預言が与えられて行く。
そうして神殿の入り口に連れ戻されると、水が神殿の敷居の下から流れ出していた。(47章)
人のものならぬ主の建てた神殿を、主の測りに従って測って行くなら、いのちを潤す水が流れ出して来る。
まことの神殿は、イエス様であり(ヨハネ2:21)、この神殿を、主の示す物差し、すなわち御言葉によって正しく測り、寸法もきっちり正しく調べて行くなら、行く程、いのちの水、潤す水が内から流れ出して行くのだ。
そして、流れ出したいのちの流れを、主の測りで測る毎に、その潤す水、いのちの水は、どんどんかさが増していく。最初は足首ほどから、次にひざ程、次に腰ほどに、そして、渡る事にできない川にまで至る。
『彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。』(6節) 私達も、流したら流しっぱなしではなく、結果、どんな実を結んだか、見に戻るべきだ。
水は、神殿の聖所から流れ出ている。まことの神殿はイエスキリストであり、私達もイエス様を信じる時、「腹(コイリア:下腹、子宮、知情意の座)」の奥底から、生ける水が川々となって流れ出るようになる。(ヨハ7:38)
その”水”が入るなら、その水は良くなるため、生き物が群がるようになり、非常に多くの魚がいるようになる。
この水が流れこむなら、死海さえいのちが多くなり、海岸には漁師達が住むようになり、網を引く場所となる。
死海のようだったサマリヤの女も、イエス様を受けた時、いのちが湧き出し、いのちが群がるようになった。
『ただし、その「沢(ビツサァー:沼地、湿地帯)」と「沼(ゲベー:貯水池、プール)」とは清められないで、塩地のままで残る。』(11節) 水が流れず留まっている所、人為的に水を貯めこむような所は、良くならず、塩のまま残ってしまう。どんなに良質の御言葉が流れて来ても、どんなにイエス様の魅力を教えられても、ただ受けるばかり・頂くばかりで、流し出さないなら、塩のまま残り、死海のように、いのちがいなくなってしまう。
御言葉のいのちが流れこんで来たなら、それが口まで溢れているなら、留めて置いてはならない。御言葉も、ただ暗記するだけで、宛先が明確でないなら、宛先不明の手紙のように、どこぞに落ちてしまうのだ。
『川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。』(12節) 毎月実が成る・・・一体どれだけ多産で、いのちに溢れているのだろうか。
私達の内に、キリストという、生ける水のいのちの泉を据えるなら、御霊の実は何も頑張らずとも、自然と、絶える事なく、実らせ続けるものである。そしてそれは自分ばかりでなく、周囲も潤し、癒やすものとなる。
人の建てた神殿を、人の物差しで測っても、ただ疲れるしか無いが、人のものならぬ、主の建てた神殿・イエス様を、主の物差しである御言葉に従って測って行くなら、いのちを潤す水がどんどん流れ出して来る。
この、いのちの源・イエス様を御言葉で正しく測り、泉を湧き出させ、湧き出る水を測って、ますます流し出し、多くのいのちと実りを獲得して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主の前で脱ぐべき2つの靴(伝道者の書5:1-7):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存
早天祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ダビデの目から見たアビガイルの魅力(1サムエル記25:32-35):右クリックで保存
マタイによる福音書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
もう一つのぶどう園のたとえ(マタイ21:33-46):右クリックで保存
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
暗黒を照らすひとりのみどりご(イザヤ9:1-7)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書9章1-7節を基に、闇から光へ、苦しみから喜びへと導かれる救いについてのメッセージ。
【聖書箇所】
イザヤ書9:1-7
【慰めの言葉】
苦しみのあったところに闇がなくなり、光栄を受けるようになる。
【励ましの言葉】
神は沈黙の後も必ず語りかけ、光を与えてくださる。
【戒めの言葉】
罪を悔い改めず、立ち返らないと、長く苦しむことになる。
【勧めの言葉】
イエス・キリストという一人の男の子に頼り、その主権と平和のうちに生きよう。
【悔い改めの促しの言葉】
罪に染まった生活から速やかに立ち返り、光の中を歩もう。
【***詳細***】
今日、私たちが恵みをいただく御言葉は、イザヤ書9章1-7節です。ここでは、闇と苦しみの中にいた人々に光が照らされ、喜びが与えられるという希望に満ちたメッセージが語られています。
まず1節を見てみましょう。「しかし、苦しみのあったところに、闇がなくなる。先には、ゼブルンの地とナフタリの地は、恥ずかしめを受けたが、後には、海沿いの道、ヨルダン川の向こう、異邦人のガリラヤは、光栄を受けた。」
ここで言及されているゼブルンとナフタリの地は、イスラエルの北部に位置し、異教の影響を最も受けやすい地域でした。彼らは最初に罪に染まり、また最初に敵の攻撃を受けるような場所だったのです。しかし、神は彼らに光を与えると約束されました。
これは私たちにとって大きな慰めとなります。たとえ私たちが罪に染まり、世の影響を強く受けていたとしても、神は私たちを見捨てず、光を与えてくださるのです。
2-3節では、「闇の中を歩んでいた民が、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が照らした。あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられました。」と続きます。
ここで注目すべきは、光が照らされた後の変化です。人々は増え、喜びが増し加えられたのです。これは、神の光が私たちの人生に入ってくると、それまでの苦しみや闇が一掃されるだけでなく、積極的な祝福と喜びがもたらされることを示しています。
4-5節では、「彼らの重くのしかかったくびきと、肩の杖と、彼らを虐げる者の杖を、あなたはミディアンの日のようにお破りになりました。戦場でとどろく靴、血にまみれた着物はみな、焼かれて火の燃料となります。」とあります。
ここでは、神の光がもたらす解放と勝利が描かれています。私たちを縛っていた罪のくびきが打ち砕かれ、私たちを虐げていた敵が打ち負かされるのです。そして、戦いの道具や血に染まった衣服が燃やされるという描写は、神がもたらす平和を象徴しています。
そして6-7節で、この救いと光をもたらす方について語られます。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」
ここで預言されている「ひとりのみどりご」こそ、イエス・キリストです。イエスは、単なる人間ではなく、神の主権を持ち、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれるお方なのです。
イエス・キリストの支配は増し加わり、その平和には限りがありません。彼は正義と公平によって国を治め、それは永遠に続くのです。
このメッセージから、私たちは二つの道を選ぶことができます。一つは、ゼブルンやナフタリの地のように、主に立ち返らず、自分の好むことをし続け、結果として奪われ、搾取され、奴隷化されていく道です。もう一つは、イエス・キリストを受け入れ、光の中を歩み、イエスの主権のうちに生きていく道です。
私たちは、イエス・キリストという一人の男の子により頼み、いつでもこの不思議な助言者に救いを求め、力を得るべきです。イエスの支配を永遠に受け入れ、幸いと祝福と栄えのうちに過ごしていくことができるのです。
【結論】
今日のメッセージを通して、私たちは神の驚くべき恵みと救いの計画を見ました。たとえ私たちが深い闇の中にいたとしても、神は光をもたらすことができるのです。その光は、イエス・キリストを通してもたらされます。私たちは、このイエス・キリストに頼り、その主権のもとに生きることで、真の平和と喜びを見出すことができます。今日から、私たちの人生の主権をイエス・キリストに委ね、その光の中を歩む決意をしましょう。
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イザヤ8章ではイスラエルの王アハズのかたくなさによって、主が何度も立ち返りなさいと言っているのに、それでも全く立ち返らない「かたくなさ」を見た。
アハズは預言者イザヤによってしずかにして信頼しなさい、と言われていたのに、アッシリアの王に勝手に頼って、しかも、偶像の設計図まで取り寄せる余計な「走り回り」をしていた。
そんな中で、主はイザヤをはじめ主を畏れ敬う民に対して言われた事は、かたくなな世の者に見習うな、という事であり、おしえとあかしに尋ねなければならない、と勧めた。
主に対し徹底的にかたくなを貫き通し、あくまで主に聞かない、徹底して、御言葉を軽んじる、者に対し、備えられている事は、法則的に、8章の最後の通りである。
イザヤ8:21 彼らはしえたげられ、飢えて国の中を経あるく。その飢えるとき怒りを放ち、自分たちの王、自分たちの神をのろい、かつその顔を天に向ける。
8:22 また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり、彼らは暗黒に追いやられる。
神が人を罰する、という場合、必ず、次の順番である。それは、
人が神を無視して自分勝手なことをする → 神が人を罰する
という順番がある。だから私達は、罪が私達を打って、神に打たれる、という事を十分注意して、そうならないように未然に防がなくてはならない。
主に従わない人を、苦しい目に合わせる。主はあらかじめ、預言者イザヤを通して立ち返るように促したが、立ち返らない。それなら苦難が重くされる。それでも立ち返らないなら、さらに苦難が重くされる。しかし、主はいつまでも人を打っておられるお方ではない。
9:1 しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
ゼブルンの地とナフタリの地、イスラエルの北であり、真っ先に異邦人と和合し、染まってしまった地である。
同時に、罪ゆえの災いも真っ先に受けてしまう地でもある。
世と和合し、罪と和合し、聖なるおもむきを失ってしまったイスラエルに対し、罪のゆえのとばっちり、悲しみ、闇、それを主は、無くしてくださる。
ゼブルンとナフタリ、主の宮からはなれていた。
主の御言葉から、遠くはなれていたら、真っ先に異邦の教え、異邦の拝むもの、異邦の価値観にすぐに感染して、染まってしまう。だから、宮から離れる事ないように気をつけるべき。
9:2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
この箇所はマタイでも引用されている。イエス様がガリラヤで宣教を始めた時に。
闇が最も深い時に、光があらわれる。
アッシリア、バビロン、メディア、ペルシア、ギリシヤ、ローマ.
光が登ったのは、ローマの時、だから、罪にどっぷり浸かりきっているなら、何世代に渡っても光は上らない。
力ある者が来ては踏みにじられ、してきた。
私達には既にイエス様が来られ、何か起きた時、イエス様に助けを求めるなら、速やかにイエス様が助けに来てくださるが、しかし、立ち返らない、という事であれば、(主は確かにあわれんではくださるが)、しかし、その助けは、蹂躙され奪われ下敷きにされた、さらにその、ずっとずっと後に、である。だから、私達の側が悔い改めて立ち返るほうが、よほど立ち直りの近道である。
イエス様が現れる時、全ての闇は光へ、全ての死は、いのちへと飲み込まれていく。
イエス様が来られる前までは、本当に暗闇だった。人は絶望し、マラキから預言が絶えて400年、ずっと空白の期間を過ごし、人々がメシヤを求める声、その呼び声をかける人々の上に、大きな光が照った。
9:3 あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。
死を待ち望む以外にないような人々n上に、光を照らしてくださる。
主が与えてくださった豊かな実り、主が育てて下さったもの、、、主が光を照らしてくださると、いのちが育って、多くの実りがもたらされる。
このような祝福お受けた人は、やることなす事、全て健やかに祝福されてしまう。あまりに利益が、あまりに収穫が多くされ、あたかも、戦争して勝ってぶんどりができるかのようになる。
この「ぶんどり」、戦争で勝利した側がする事であるが、この箇所の「敵」は悪魔サタンである。
つまり、悪魔サタンにとらわれていた人達、悪魔サタンが不当に占拠していた数多の良いもの、それを、私達が分捕ったという喜び楽しみ。主が与えてくださる実りと、主が勝ち取らせてくださるこのぶんどりに、私達は喜び楽しむのである。
9:4 これはあなたが彼らの負っているくびきと、その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、ミデアンの日になされたように折られたからだ。
9:5 すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。
まことの光なるイエス様が、太陽としてのぼり、死の陰の地に住んでいた彼らの重荷、また、彼らを打っていた鞭や杖、それらは、ミデヤンの日になされたように、粉々に砕かれる。
御言葉に背く事には、ひたいの汗と労苦があり、罪の刑罰、すなわち鞭とつえが、必ずともなう。
9:5 すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。
罪の飲み食いや取引をする内に、人の血を流したり、返り値をあびたり、あるいは、自分が、より強い者から血を流されたりする。そうした血に汚れたふくやくつ、義の太陽なるキリストが昇る時、火のえじきとなり、もやは罪穢れは焼かれて清められる。
自分も相手も傷を与え、傷つけ合い、罪を犯しあい、血を流したり流させたり、、、神の目から見れば私達の姿は、みんな、血を流しているように見える。その様を、「すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣」、それを、わらのように燃やす。わらに火がつけられると、たちまち一瞬にして燃えて灰になるように。
主はどのようにして、死の影の地に住んでいた人達に、光を照らしてくださるのか。。。
それは、ひとりのみどりごによって、である。
9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
このイエス様が来て、1-5節の全てを解消する!
全世界を覆っていた、ながらく覆っていた分厚い、しつこい闇、死、その中へと投じられたひとつの光。
その光によって救われる「光」とは、ひとりのみどりご。
主イエス様は、ひとりのみどりごとして私達のために生まれて下さった。
主の御名を呼ぶ個人にも生まれ、主の御名を呼ぶ集団に生まれ、また、主の御名を呼ぶ国にも生まれてくださる。
どういう方か。
9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
Isa 9:6 For unto us a child is born, unto us a son is given: and the government shall be upon his shoulder: and his name shall be called Wonderful, Counsellor, The mighty God, The everlasting Father, The Prince of Peace.
主権は、英語でガバメント、すなわち政府。つまりイエス様の肩に政府が置かれる。
日本の政府は国会議事堂や内閣府に置かれているが、神の国の支配権は、イエス様の肩に置かれている。
国に申請する時は、いつも役所に行ってしなくてはならないが、神の国においてはそんな面倒は無い。イエス様の御名によっていつでもどんな時でも、まどろむ事なく、眠ることのないイエス様に申し上げる事ができる。
全ての権威、点においても地においても、イエス様の肩にあるから、どこかに行ってやる事もない。したい事を、したい時間に、移動する事なく、全部できてしまう。
なぜなら、大祭司の肩には、イスラエルの名を負って記念としている。大祭司は、イスラエル十二部族の名を肩に負いつつ主の御前に出て執り成しのつとめを為すのだ。(出エジプト記28:9-12)
「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」 英語では、「Wonderful, Counsellor, The mighty God, The everlasting Father, The Prince of Peace.」
主は、どんな悩み、問題、しつこい解決不能な事さえ、解決へと導いてくださる Wonderful, Counsellorであり、力ある神。仕事で忙しくてなかなか助言を求められなくても、私達の主イエス様は、いつでも、求めて、いつでも助言を求める事ができる。この、神の国のガバメントは、月曜から金曜の9時から17時まで、などという限定は無いし、なになにの書類を整えなければ受理しません、も無い。いつでも、永遠の父の求め、不思議な助言が与えられ、力ある神の力が行使され、平和の君、そのあらゆる善き事を、いつでも、求める事ができるのだ。
イエス様はまた、平和の君、プリンス・オブ・ピースである。あらゆる不和、あらゆる争いごと、それはイエス様の元に行けば、平和へとつくりかえられる。
9:7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
Isa 9:7 Of the increase of his government and peace there shall be no end, upon the throne of David, and upon his kingdom, to order it, and to establish it with judgment and with justice from henceforth even for ever. The zeal of the LORD of hosts will perform this.
これを行うのは、私達の努力ではなく、主の熱心が、この事を行ってくださる。
イエス様の主権、ガバメントは、どんどん増し加わって、そしてそれは、平和であり、限りなく、ダビデの王座につき、その王国を、とこしえまで。エバーラスティング。終わりが無い。それが、闇の中に住んでいる人達の上に照り渡る光。それが、彼の威光であり、力であり、ご性質である。
私達には、2つの道がある。
ゼブルンやナフタリ、のように、ずっと立ち返らないで、自分の好むことをやり続けて、ひたすら、ほかの強い人から奪われ、搾取され、奴隷化され、ずっと続けるか。その一つの道を選ぶか。
それとも。もう一つの道、イエス様を受け入れて、イエス様の主権の内に歩んでいくか。
イエス様すなわち、ひとりのみどりごに依り頼んで、いつでも不思議な助言を得て、力を得て、支配を得て、幸いへと祝福へと栄の内にとこしえまで生きる皆さんでありますように。
つくばエクレシア礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
聖霊を受ける時(ヨハネ7:37-39):右クリックで保存
火曜早天祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主の宮から流れ出るいのちの水(エゼキエル47:1-12):右クリックで保存
素晴らしい夫の元へと導かれる女性の性質(1サムエル記25:36-44)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-5-29 23:50
礼拝説教メッセージ音声:素晴らしい夫の元へと導かれる女性の性質(1サムエル記25:36-44):右クリックで保存
『こうしてアビガイルはナバルのもとにきたが、見よ、彼はその家で、王の酒宴のような酒宴を開いていた。ナバルは心に楽しみ、ひじょうに酔っていたので、アビガイルは明くる朝まで事の大小を問わず何をも彼に告げなかった。』(1サムエル記25:36)
ナバルは、アビガイルが彼の愚かさを身代わりに引き受け、ダビデに執り成していたその時、王のような宴会をしていた。
彼は、与えられてた富や素晴らしい人材、赦され続けて来た赦しを、極度のぜいたくで浪費していた。
人は、どんなに富んでいても、神の前で富まなくてはどうしようもない。
ぜいたくを極めたソロモンは言っている。
『人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。』(伝道者2:24-26)
ソロモン王は、統治の前半は与えられた知恵と富を神と人とのために用いたが、後半は主を忘れ、自分の欲望を満足させる事に、富と権力を用いた。
神の国の事柄が見えなくなった彼は、世における最高の良い楽しみは「飲み食い」にしか見い出せない、全てがむなしい、という価値観になってしまった。
彼は26節で言っている。罪人が一生懸命働いて富を積み立てても、それは実は御心に適った人に渡すために蓄えているものだ、と。
ナバルに、まさに、それが実現してしまう。
『朝になってナバルの酔いがさめたとき、その妻が彼にこれらの事を告げると、彼の心はそのうちに死んで、彼は石のようになった。十日ばかりして主がナバルを撃たれたので彼は死んだ。』(1サムエル記25:37-38)
ナバルはそれまで、普段から行状が悪いのを直さず、ほしいままに突き進んでは、周囲にとばっちりを負わせ、悲しませ続ける事が、今まで許されていたが、主はその「周囲」の悲しみ・叫びをも、聞いておられる。
主からの憐れみ・赦しの時を、浪費し尽くしてしまう時、突然の滅びが訪れるのだ。(詩篇73編)
人から、神から、同じ事を注意され続けても、いつまでも許されると思って突き進んでいてはならない。
やがて、その刈り取りをする事になるからだ。
ナバルにとって、ダビデの使者が遣わされた時が、最後のチャンスだったが、彼は普段どおり愚かな対応をしてしまい、結局、主に打たれることとなってしまった。
『ダビデはナバルが死んだと聞いて言った、「主はほむべきかな。主はわたしがナバルの手から受けた侮辱に報いて、しもべが悪をおこなわないようにされた。主はナバルの悪行をそのこうべに報いられたのだ」。』(1サムエル記25:39)
ダビデはこの経験を通して、確信した。主は、悪を行う者に必ず報いて下さるという事を。
そして、自分の手で悪者に仕返しをする事は、悪の道であり、何の益ももたらさない事を。
善を行ない続ける事が、もしかしたらとても無駄であるかのように、自信が揺らいでいたが、それはやはり正しかった、その道を進んで良いのだ、その先には大きな報いがあるのだと、自信を取り戻した。
それで彼は、確信をもって詩篇37編を記したのだろう。
『主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。』(詩篇37:7-11)
『ダビデはアビガイルを妻にめとろうと、人をつかわして彼女に申し込んだ。ダビデのしもべたちはカルメルにいるアビガイルの所にきて、彼女に言った、「ダビデはあなたを妻にめとろうと、われわれをあなたの所へつかわしたのです」。』(1サムエル記25:39)
ダビデは、アビガイルとたった一度しか会っていなかったのに、夫ナバルが死んだと聞いて、早速結婚を申し込んだ。
たった一度のあの会話で、彼女が素晴らしい信仰者である事を悟ったのだ。
彼女は、主の御名と柔和な言葉によってダビデの荒んでいた心を慰め、弱っている信仰を奮い立たせ、罪を犯す事から、彼を守ってくれた。
彼女を伴侶として共に歩むなら、信仰にあって共に助け合い、罪や悪に走りそうな時、助けてくれてくれるだろう、と踏んだのだ。
愚かで行状の悪い夫が死に、はるかに優れた男・ダビデにプロポーズされたアビガイルは、どうしたか。
『アビガイルは立ち、地にひれ伏し拝して言った、「はしためは、わが君のしもべたちの足を洗うつかえめです」。アビガイルは急いで立ち、ろばに乗って、五人の侍女たちを連れ、ダビデの使者たちに従って行き、ダビデの妻となった。』(1サムエル記25:41-42)
彼女は、素晴らしい男性から告白されたとたん、傲慢がそそり立つような女性ではなく、彼女が真っ先に起こしたリアクションは、地にひれ伏し拝する事、真っ先に言った言葉は「はしためは、わが君のしもべたちの足を洗うつかえめです」だった。
妻が夫に仕える。それは、結婚生活において主の御前に正しい事であり(エペソ5:22-24)、そのようにする家庭には、権威の正しい秩序が形成され、健全な家庭となる。
ダビデの先の妻・アヒノアムの子・アムノンも、後の妻・マアカの子・アブシャロムも、共に問題を起こしたが、アビガイルの子・キルアブについては、特に問題を起こした事は記されていない。
サウルの娘・ミカルは、自分の価値観を押し付ける目でダビデを見下ろし、それに則さない夫に嫌味を言う性質だったためだろうか、生涯、子が無かった。
アビガイルは、ナバルという愚かな夫の妻だった時から、既に、いつも主の御名を呼び、主にあって正しく仕えていた。
だからこそ彼女は、ダビデとばったり会った時、主エホバの御名を七度も用いて彼をなだめる事が出来たのであり、いざ、彼女がダビデに迎えられた時、「はしためは、わが君のしもべたちの足を洗うつかえめ」になるつもりだと告白したのだ。
『妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。』(1ペテロ3:1-4)
アビガイルは既に「成熟した妻」として整えられていた。
だから主は、彼女をさらに優れた夫・ダビデの元へと、しかも、イスラエルの王となる「途上」の、ダビデにとって重要な時期に、妻として送られたのだ。
私達も、普段、愚かなナバルに仕えるような日々を通らされているかもしれない。
しかし、アビガイルのように、主にあって忠実にその時期を過ごし、学ぶべき事をしっかり学び、誠実を養い、御前に不要な性質を取り除くなら、主はちょうど良い時期に引き上げて下さるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:アビガイルの信仰と執り成し(1サムエル記25:25-35):右クリックで保存
アビガイルのダビデに執り成した内容から分かる事は、彼女は、卓越した信仰の持ち主だ、という事である。
なぜなら、24節から31節の彼女の言葉には、「主(エホバ)」の御名が七もあり、また彼女は、ダビデがこれから主によって王とされ、その後ダビデが受ける祝福をかなり正確に言い当てるからだ。
『わが君よ、どうぞ、このよこしまな人ナバルのことを気にかけないでください。あの人はその名のとおりです。名はナバルで、愚かな者です。あなたのはしためであるわたしは、わが君なるあなたがつかわされた若者たちを見なかったのです。』(1サムエル記25:25)
彼女は決して、自分の夫・ナバルの悪口を言って、ダビデの機嫌を取ろう、としているのではない。
夫婦は一体であり、彼女は、夫がした事は「自分がした」事として、執り成しているのだ。
事実、彼女は「このとがをわたしだけに負わせてください。」と言い(24節)、「どうぞ”はしためのとが”を許してください。」(28節)と願っている。
「わが君よ、どうぞ、このよこしまな人ナバル(であり自分)のことを気にかけないでください。」
自分達の側が犯した罪咎を、どうぞ気にかけないで下さい・・・随分都合の良い要求のように見えるが、ダビデ自身も、同じような「都合のいい」事を主に求めている。
『主よ、あなたのあわれみと、いつくしみとを/思い出してください。これはいにしえから絶えることがなかったのです。わたしの若き時の罪と、とがとを/思い出さないでください。主よ、あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを思い出してください。』(詩篇25:6-7)
私達も、まことのダビデである主イエス様に、「主よ、わたしの罪咎を思い出さないでください」「あなたの恵み、あなたのいつくしみに従って、わたしを思い出してください。」と、実に都合の良い祈りが出来る事は、本当に幸いである。
『それゆえ今、わが君よ、主は生きておられます。またあなたは生きておられます。主は、あなたがきて血を流し、また手ずから、あだを報いるのをとどめられました。どうぞ今、あなたの敵、およびわが君に害を加えようとする者は、ナバルのごとくになりますように。』(1サムエル記25:26)
彼女は聡明である。
ダビデが自分から人の血を流す事を「主(エホバ)は」「既にとどめた」、と、言葉において既成事実化しており、同時に、ナバルに災いが降る事、そして、ダビデの敵もナバルのようになると、「既に成った」事としている。
主にあって信仰深く歩もうと、常に気をつけているダビデとしては、この言葉は、飲まざるをえないだろう。
『どうぞ、はしためのとがを許してください。主は必ずわが君のために確かな家を造られるでしょう。わが君が主のいくさを戦い、またこの世に生きながらえられる間、あなたのうちに悪いことが見いだされないからです。』(1サムエル記25:28)
驚くことに彼女は、預言者ナタンに先んじて、「主は必ずわが君のために確かな家を造られる」と、ダビデの将来を正しく予見している。(2サムエル記7章)
彼女がこの事を言ったのは、決して「おだて」でなく、根拠がある。それは、ダビデが「主のいくさを戦」っている事だ。
ダビデがゴリヤテやペリシテ人と戦い、ケイラを救ったのも、「主の戦い」には違いないが、彼は、霊においても「主の戦い」を戦っている。
彼が油注がれた王・サウルを、いつでも殺してしまえる「誘惑」と戦ったのも、「主の戦い」であり、その、常人ではとても勝利できないような誘惑に、彼は勝利した。
私達も常時、ダビデのように、信仰において「主の戦い」を戦っている。
罪や穢れ、悪と戦う時、また、私達の内に込み上げてくる怒りや恐れ、不安に対し「主にあって」戦う時、それは主の戦いである。
『怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。』(箴言16:32)
ダビデはサウルに対する恐れと戦い、部下達を養わなくてはならない不安と戦い、逃亡生活中であってもケイラを救うために戦い、ナバルの羊飼いに良くしてやるという「信仰の戦い」もして来た。
そして今回、恩を仇で返したナバルへの「怒り」という、ダビデの内なる敵に負けそうになったが、主は助け手としてアビガイルを送り、助けて下さった。
『たとい人が立ってあなたを追い、あなたの命を求めても、わが君の命は、生きている者の束にたばねられて、あなたの神、主のもとに守られるでしょう。しかし主はあなたの敵の命を、石投げの中から投げるように、投げ捨てられるでしょう。』(1サムエル記25:29)
彼女のこの言葉は、どれほどダビデにとって慰めとなっただろう。
彼はこの時、一国の王から追われている身だ。
いかに主から油を注がれた、と言っても、現実は、右も左も見えず将来も全く見えない。
第三者が見れば、いつ命を落とされるか、いつのたれ死んでしまうか分からない状況である。
主を信頼してずっと善を行って来たはずなのに、恩を仇で返され、怒り、落胆し、剣で報いようとして向かう途中、という、荒み切った心のダビデに、この言葉は、どれほど慰めとなったただろう。
『そして主があなたについて語られたすべての良いことをわが君に行い、あなたをイスラエルのつかさに任じられる時、あなたが、ゆえなく血を流し、またわが君がみずからあだを報いたと言うことで、それがあなたのつまずきとなり、またわが君の心の責めとなることのないようにしてください。主がわが君を良くせられる時、このはしためを思いだしてください」。』(1サムエル記25:30-31)
アビガイルは、将来、あなたは必ず王になるから、今、主が約束されているそのキャリアに汚点を残す事が無いようにして下さい、そして、王となった暁には、わたしを思い出して下さい、と願った。
彼女は、まだ見ていない事を、信仰によって、見ていた。
目の前のダビデは、一介の逃亡者である。しかしダビデは主の戦いを今戦っており、彼はやがてイスラエルの王となるべき器である事を。
イエス様と共に十字架につけられた強盗も、その信仰を持っていた。
彼の目の前にいたイエス様は、十字架につけられ、人々から罵られ、あと数時間もすれば、死んでしまうような死刑囚であったのに、彼はイエス様の中に、生死を超越した永遠の王の性質を見たのだ。
だから彼は「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と願ったのだ。(ルカ23:42)
事実、彼はその日、イエス様と共にパラダイスに行って、永遠に共に生きるようになった。
アビガイルも、ナバルが死んだ後、ダビデに結婚を申し込まれ、後には王妃となり、ダビデと共に王宮で暮らす事となった。
目に見える所によらず、信仰によって永遠の王・キリストを見、彼に「わたしを思い出して下さい」と申し出るなら、私達もパラダイスへ行き、キリストの花嫁となり、永遠の御住まいで共に生きるのだ。
アビガイルが、この素晴らしい執り成しを終えると、ダビデは真っ先に、主を誉めたたえた。
『ダビデはアビガイルに言った、「きょう、あなたをつかわして、わたしを迎えさせられたイスラエルの神、主はほむべきかな。あなたの知恵はほむべきかな。またあなたはほむべきかな。あなたは、きょう、わたしがきて血を流し、手ずからあだを報いることをとどめられたのです。』(1サムエル記25:32-33)
この言葉の中に、バラーフ(祝福、膝をつく)という言葉が、三度使われている。
ダビデは、主にひざをつき、アビガイルの知恵に、そしてアビガイル自身を祝福した。
『わたしがあなたを害することをとどめられたイスラエルの神、主はまことに生きておられる。もしあなたが急いでわたしに会いにこなかったならば、あすの朝までには、ナバルのところに、ひとりの男も残らなかったでしょう」。』(1サムエル記25:34)
ダビデの優れた所は、ひとたび彼自身が誓った事でも、それが主に対して罪を犯すような内容であったと気づいたら、すぐさまそれを取り降ろした所だ。
身勝手な誓いを連発し、最功労者であり息子のヨナタンさえ殺そうとしたサウルとは、大違いである。
『ダビデはアビガイルが携えてきた物をその手から受けて、彼女に言った、「あなたは無事にのぼって、家に帰りなさい。わたしはあなたの声を聞きいれ、あなたの願いを許します」。』(1サムエル記25:35)
ダビデはアビガイルに、無事に(シャロームの内に)帰りなさいと、平安の内に帰した。
信仰の友・ヨナタンとも会えず、荒んでいたダビデにとって、この素晴らしい信仰の女性・アビガイルとの邂逅は、大きな慰めとなっただろう。
信仰者は、素晴らしい信仰者と新しく出会う時、慰めを受け、そこから新たないのちの繋がりが生まれて来るのだ。
ナバル家を代表して執り成すアビガイル(1サムエル記25:14-24)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-5-25 23:50
礼拝説教メッセージ音声:ナバル家を代表して執り成すアビガイル(1サムエル記25:14-24):右クリックで保存
ナバルとダビデの使者とのやりとりを見ていた若者がいた。
彼はナバルの無礼な対応を見て、明らかに、これから自分たちに災いが降りかかる事を知った。
それで彼はナバルの妻・アビガイルに相談する。
『ダビデが荒野から使者をつかわして、主人にあいさつをしたのに、主人はその使者たちをののしられました。しかし、あの人々はわれわれに大へんよくしてくれて、われわれは少しも害を受けず、またわれわれが野にいた時、彼らと共にいた間は、何ひとつ失ったことはありませんでした。われわれが羊を飼って彼らと共にいる間、彼らは夜も昼もわれわれのかきとなってくれました。』(1サムエル記25:14-16)
この、ナバルに仕えている若者も、ダビデの事を認めている。
ダビデ達は、サウルに追われていて大変であるにもかかわらず、自分達に良くしてくれ、自分達を守ってくれていた事を。
『それで、あなたは今それを知って、自分のすることを考えてください。主人とその一家に災が起きるからです。しかも主人はよこしまな人で、話しかけることもできません」。』(1サムエル記25:17)
この、名も無き若者のほうが、ナバルよりも賢い。
自分達の主人ナバルが、誰に一体何をしたか。そのため、どんな事がこれから起ころうとしているのかを、悟っている。
社長がどうしようもなく愚かなのに、その会社が良い業績を上げているとするなら、愚かな社長をフォローしている有能な部下たちがいるのだろう、と、推測できる。
同じように、ナバルは今までずっとこんな愚行をして改めていないのに、事業が立ちまわっているのであるなら、ナバルが愚行を犯す都度、有能な彼の周りがフォローしてくれていたのだろう、と、推測できる。
しかし、物事には限度がある。
今回、ナバルがしてしまった事については、ナバルのしもべ達には何のフォローもしようがないし、また、ナバルに何を言っても聞かない事は、既に分かっていた。
だから彼は、ナバルの妻・アビガイルに申し出たのだ。
『その時、アビガイルは急いでパン二百、ぶどう酒の皮袋二つ、調理した羊五頭、いり麦五セア、ほしぶどう百ふさ、ほしいちじくのかたまり二百を取って、ろばにのせ、若者たちに言った、「わたしのさきに進みなさい。わたしはあなたがたのうしろに、ついて行きます」。しかし彼女は夫ナバルには告げなかった。アビガイルが、ろばに乗って山陰を下ってきた時、ダビデと従者たちは彼女の方に向かって降りてきたので、彼女はその人々に出会った。』(1サムエル記25:18-20)
彼女の、ダビデをなだめるための行動は、素早かった。
贈り物として彼女が用意したものは、ダビデ達六百人に対しては、少ないかのように見える。
きっと、ナバルには内緒で準備したために、用意できるものは限られてはいても、精一杯整えたのだろう。
『さて、ダビデはさきにこう言った、「わたしはこの人が荒野で持っている物をみな守って、その人に属する物を何ひとつなくならないようにしたが、それは全くむだであった。彼はわたしのした親切に悪をもって報いた。もしわたしがあすの朝まで、ナバルに属するすべての者のうち、ひとりの男でも残しておくならば、神が幾重にもダビデを罰してくださるように」。』(1サムエル記25:21-22)
ナバルのダビデに対する無礼な対応を、怒る気持ちは、分からないでもない。
しかし、ナバルだけでなく彼に属する全ての人達を殺すのは、明らかにやり過ぎである。
それは「ダビデは」してはならない事である。
普通の人なら普通にして許されるような事でも、主に油注がれた者、すなわち、主から特別に任職された者には、許されない事もあるのだ。
多くの人の命を預かるパイロットは、飛行機を操縦している間、決して酒を飲まないのと同じように、多くの人々の魂を預かる主から任職された器の人は、怒りに酔って人々を殺すような事は、してはならない。
主は、主が用意された特別な器を訓練する。
そして、罪を犯させないように守り、助ける人を遣わしてくださる。
『アビガイルはダビデを見て、急いで、ろばを降り、ダビデの前で地にひれ伏し、その足もとに伏して言った、「わが君よ、このとがをわたしだけに負わせてください。しかしどうぞ、はしために、あなたの耳に語ることを許し、はしための言葉をお聞きください。』(1サムエル記25:23-22)
アビガイルのダビデに対する執り成しが始まる。
彼女がそれをしたのは、彼女の主人・ナバルのためであり、またナバルに仕える大勢の人々のためだった。
彼女はこの事を知らなかったし、また、もし彼女が最初に応対していたとするなら、絶対ナバルのような対応は取らなかった。
それでも彼女は「このとがをわたしだけに負わせてください。」と言った。
ダニエルも、彼自身は罪を犯していなかったのに、『”われわれは”罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。』と言ってイスラエルを執り成した。(ダニエル9:5)
イエス様も、罪無きお方であったのに、全人類に代わって罪とされ、身代わりとなって、十字架上で刑罰を受けて下さった。
アビガイルが、自分の属しているナバル家を救うために、ダビデをなだめる行動を起こしたように、私達も、私達が属している国、団体、会社のトップ達のために、主に執り成し、祈るべきである。
私達の国は、まことのダビデであるキリストに、数々の無礼を働いているため、そのままでは災いが来る事は、目に見えている。
日本では少数のキリスト者である私達が、主をなだめるために祈る祈りは、たかが知れているかもしれない。それでも、主をなだめ祈るべきだ。
『そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。』(1テモテ2:1-2)
私達は、取り成し祈る事によって、敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごす事が出来るが、もしそれをしないなら、私達が属している国や集団、会社などが犯してきた罪や愚かさの報いを、一緒に受けてしまう。
そうならないためにも、私達は破れ口に立ち、執り成し祈るべきなのだ。
『これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。』(1テモテ2:3-4)