メッセージ - 201505のエントリ

聖霊を受ける時(ヨハネ7:37-39)
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週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

本日は聖霊降誕日、約束の聖霊が弟子達に注がれ、大胆に造り替えられた事を記念する日である。
聖霊はイエス・キリストをあかしする霊であり、聖霊が私達に臨む時、力を受ける。
なぜならイエスキリストを受け入れた時、根本的な渇きは癒され、潤され、その「キリストをあかしする霊」は、泉のように腹の奥底からこんこんと湧き上がり、その溢れたものが、さらに周りへ流れだして行くからだ。

『イエスは立って叫んで言われた、「誰でもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。」』(ヨハネ7:37)
人は、世の何者も潤す事の出来ない渇きがある。イエス様抜きで生きていた時、何かおかしい、何かが不足している、今生きている現実より、もっと真実な世界があるのではないか、と求めていたのではなかろうか。
世の楽しみで暫く渇きを紛らわそうとしても、それは一夜限りの祭のように、終わりには、虚しさだけが残る。
イエス様抜きで生きていくなら、必ず渇く。人はなぜ死ぬ存在となったか。それはエデンの園において、御言葉なるお方、いのちの源なるお方に背き、離れ、自分の善悪判断で生きるようになったからだ。
以来、人は木から切り離された枝のように、そのまま放置するならやがて干からび死ぬ者となってしまった。
故に、人が生きるようになるためには、再び、このいのちの源なるお方に、接合される他は無い。
イエス様こそまことの葡萄の木であり、私達は枝である(ヨハネ15章)。このお方に繋がっていない人には、いのちの水は流れて来ず、実を結べないまま、やがて枯れ、永遠の火に投げ込まれてしまう。

イエス様は、祭りの終わりに、大声で叫んで言われる。「渇く者はわたしの所に来て飲むがよい」と。
「イエス様から飲む」とは、イエス様を信じる事。すなわち彼はいのちの君であり私達を死から救う事のできるお方であると信じ、彼に助けを求め、決して渇く事のない水を、わたしにも下さい、と、願う事である。
『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。』(ヨハネ7:38-39)
イエス様を信じる人は、腹の奥底から、生ける水が湧き上がり、溢れ、イエス様を伝えずにおれなくなる。
その最たる例が、同じヨハネ4章に記されている、サマリヤの女だ。
彼女はかつて、5人の男と結婚してことごとく失敗し、6人目の男と同棲している”負の実績”故、人と出会う事を避けるため、わざわざ正午の最も暑い時間を選び、水を汲みに行き来する毎日を送っていた。
いつまで続くとも知れぬ日々の中、いつものように井戸に来ると、イエス様があの井戸のそばで待っていた。
イエス様は言われる。『わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。』(ヨハネ4:14)
彼女も、ひどく渇いていた。過去、失敗して来た自分自身に、毎日人目を憚って暑い日差しの中、汲みに来なければならない毎日に。今一緒にいる男との将来への不安に。そこで彼女はイエスに言った。
「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい。」
彼女のこの言葉が、彼女の永遠の転機となった。彼女はイエス様に助けを求め、イエス様から飲んだのだ。

イエス様は彼女の問題の本質に、直球を投げる。「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」
私達の問題の本質も、真の夫・キリストがいない事。真の夫でない者を次から次へと取り替えつつ、恥と失敗の負けパターンを繰り返している事だ。異性、結婚、金銀、仕事など、「偽の夫」を求めれば求める程、渇いて行く。求めれば求める程、ますます渇き、その過程で失敗や恥という”負の実績”も積み上げて行く。
もはやそのような的外れの失敗パターンは、イエス様の足元に置き去り、真の夫・イエス様に求めるべきだ。

彼女がイエス様から飲んだ時、イエス様のいのちが、彼女の腹の奥底から溢れて来た。それは湧き上がって留め置けず、今までの水がめはイエス様の足元に置き捨て、人々にイエス様を伝えに走って行った。
それはキリストを証する霊、聖霊によってであり、彼女は内から湧いて来る水を周りへと流し出し、もはや渇く事がなくなった。人の祭りの虚しい盛り上がりや笑い、掛け声は渇くもので、今まで徹底的に渇かされた。
今、祭りを終えるこの時、イエス様の前に進み出て「あなたが与えて下さる水を飲ませてください」と願い求め、生ける水を得て、川々となって流れ出て、自分ばかりでなく、周りをも潤す皆さんでありますように!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
真に潤いを与えるお方(ヨハネ7:37-39):右クリックで保存

マタイによる福音書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
イエスは何の権威によって物事を為すのか(マタイ21:23-32):右クリックで保存

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
頑なに主を頼みとしない者が受ける分(イザヤ8章)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書8章を中心に、神への信頼と人間の不信仰について語られたメッセージ。

【聖書箇所】

イザヤ書8章2-4節、5-10節、11-16節、17-22節

【励ましの言葉】

主を聖なる方とし、恐れおののく者には、主が聖所となり守りとなってくださる。

【戒めの言葉】

人々が恐れるものを恐れず、主のみを恐れよ。占い師や霊媒に頼らず、神の教えと証しに尋ねよ。

【***詳細***】

今日のメッセージは、イザヤ書8章を中心に、神への信頼と人間の不信仰について語られています。

まず、2-4節で、イザヤは息子の名前を「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(分捕りは早く、略奪は速やかに)と名付けるよう命じられます。これは、ダマスコとサマリアが滅ぼされることを預言するものでした。

「それは、この子がまだお父さん、お母さんと呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリアの分取り物がアシリアの王の前に持ち去られるからである。」(イザヤ8:4)

この預言は、アハズ王が恐れていたアラムとイスラエルの王が速やかにアッシリアによって滅ぼされることを示しています。神は、まだ生まれていない子供の名前を用いて預言することで、アハズ王に神への信頼を促そうとしました。

しかし、5-10節では、ユダの民が神を信頼せず、アッシリアに頼ろうとしたことが批判されます。

「この民が緩やかに流れるシロアの水をないがしろにして、レツィンとレマリアの子を喜んでいる。」(イザヤ8:6)

神は、彼らが頼ろうとしたアッシリアが逆にユダを滅ぼすことを預言します。これは、人間の力に頼ることの愚かさを示しています。

11-16節では、イザヤは神から特別な警告を受けます。

「この民が謀反と呼ぶことを、あなたがたは謀反と呼んではならない。彼らの恐れるものを恐れてはならない。おののいてはならない。」(イザヤ8:12)

ここで神は、イザヤに人々の恐れや陰謀に巻き込まれないよう警告しています。代わりに、万軍の主を聖なる方とし、主のみを恐れるよう命じています。これは、困難な時代にあっても、神のみに信頼を置くべきことを教えています。

17-22節では、イザヤの決意と、不信仰な者たちへの警告が語られます。

「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に望みをかける。」(イザヤ8:17)

イザヤは、たとえ神が御顔を隠しておられるように見えても、主を待ち望む決意を表明しています。一方で、占い師や霊媒に頼る者たちは、真の光を見出せないと警告しています。

「もし、この言葉に従って語らなければ、その人には夜明けがない。」(イザヤ8:20)

このメッセージ全体を通して、神は私たちに次のことを教えておられます:

  1. 人間の力や知恵ではなく、神に信頼を置くこと。

  2. 世の中の恐れや陰謀に惑わされず、神のみを恐れること。

  3. たとえ困難な時代であっても、神の言葉に従い、主を待ち望むこと。

  4. 占いや霊媒など、神以外のものに頼らないこと。

これらの教えは、現代を生きる私たちにも大きな示唆を与えています。世界が混沌とし、不安が広がる時代にあっても、私たちは神の言葉に立ち返り、主に信頼を置くべきです。

「教えと証しとに尋ねよ。もし、彼らがこの言葉に従って語らなければ、その人たちには夜明けがない。」(イザヤ8:20)

この御言葉に従って生きる時、たとえ周りが暗闇に包まれていても、私たちの内には光が輝き続けるのです。

【結論】

困難な時代にあっても、人間の知恵や力ではなく、神のみに信頼を置き、御言葉に従って生きることが重要である。そうすることで、私たちは世の光として輝き、神の守りの中に留まることができる。

つくばエクレシア礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ペニンナとハンナ - 小狐と鳩の性質(1サムエル記1:1-18):右クリックで保存

火曜早天祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
岩の裂け目にいるわが鳩よ(雅歌2:8-17):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:サウルには忍耐できてもナバルには忍耐できなかったダビデ(1サムエル記25:1-13):右クリックで保存

殺意をもって追って来たサウルに、憐れみによって見事勝利したダビデだったが、今回、ダビデは俗的な一般人のように戻ってしまう一面を見る。


『マオンに、ひとりの人があって、カルメルにその所有があり、ひじょうに裕福で、羊三千頭、やぎ一千頭を持っていた。彼はカルメルで羊の毛を切っていた。その人の名はナバルといい、妻の名はアビガイルといった。アビガイルは賢くて美しかったが、その夫は剛情で、粗暴であった。彼はカレブびとであった。』(1サムエル記25:2-3)
ナバルの名の意味は「愚か」、また「カレブ」は「犬」の意味があり、七十人訳聖書は「彼は犬のような男であった」と訳されている。

ナバルはカルメルの事業家で裕福となり、優秀な人材にも恵まれているのに、頑迷で、行状の悪さを改めず、身内の人々からも「よこしまな者(17,25節)」と呼ばれていた。
その素行の悪さにもかかわらず、彼が今まで守られて来たのは、ひとえに、彼の周りの優秀な人達が、彼の素行の悪さカバーしていたためだろう。
このナバルに、ダビデはかつて、良くしてやった事があった。

『ダビデは荒野にいて、ナバルがその羊の毛を切っていることを聞いたので、十人の若者をつかわし、その若者たちに言った、「カルメルに上って行ってナバルの所へ行き、わたしの名をもって彼にあいさつし、彼にこう言いなさい、『どうぞあなたに平安があるように。あなたの家に平安があるように。またあなたのすべての持ち物に平安があるように。』(1サムエル記25:4-6)
ダビデは「平安(シャローム)」という祝福の挨拶を三度も送っている。
ダビデは、彼がどのような人物であるか知っていたであろう。
そのような者に対しては、威圧的にならず、へりくだって平和の挨拶をする方が良いと、今までの経験で身に付けたのかもしれない。

イエス様は弟子達に言われた。
『その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。』(マタイ10:12-13)
結論を言うと、ダビデがナバルに発した「シャローム」は、ナバルにはとどまらず、ダビデに帰って来る事になる。

『わたしはあなたが羊の毛を切っておられることを聞きました。あなたの羊飼たちはわれわれと一緒にいたのですが、われわれは彼らを少しも害しませんでした。また彼らはカルメルにいる間に、何ひとつ失ったことはありません。あなたの若者たちに聞いてみられるならば、わかります。それゆえ、わたしの若者たちに、あなたの好意を示してください。われわれは祝の日にきたのです。どうぞ、あなたの手もとにあるものを、贈り物として、しもべどもとあなたの子ダビデにください』」。』(1サムエル記25:7-8)
この事から、ダビデ達がサウルから逃げていた時、彼らは山賊のように、無作為に人のものを奪って食を得ていたのではなく、正当な事をして、正当な報酬を得ていた事が分かる。
ダビデたちがナバルの羊飼い達に、そのように良い事をした事は、後にナバル達の羊飼い達も証言しているし、その事はナバルの耳にも届いていたはずだ。
そんな実績のある彼らが、羊の毛の刈り取り祝いの贈り物として食料を求めるのは、正当な事であるし、ダビデも至極丁重に申し出ている。
しかしナバルは、ダビデ達の「丁重」に対し、「粗野」で返して来た。

『ダビデの若者たちは行って、ダビデの名をもって、これらの言葉をナバルに語り、そして待っていた。ナバルはダビデの若者たちに答えて言った、「ダビデとはだれか。エッサイの子とはだれか。』(1サムエル記25:9-10)
ペリシテの王でさえ「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」という歌を知っている。ましてイスラエルの民である彼が、ダビデの活躍を知らないはずが無い。
彼はダビデの名声を聞いていながらにして、取るに足らない者として、見下したのだろう。

『このごろは、主人を捨てて逃げるしもべが多い。』(1サムエル記25:10)
確かに、ナバルのこんな性格なら、彼の周りから逃げだす奴隷は多いだろうが、一体なぜ、彼は唐突にそんな事を言い出したのか。
もしかすると彼は、ダビデを、サウルという主人から逃げだした、卑劣な逃亡奴隷と見做したのかもしれない。
なにが「ダビデは万を打った」だ、結局は主君を裏切ってみじめに逃げて食料を求めている逃亡奴隷ではないか、というように。
近視眼で、自分が上に立って威張り散らしたい者は、他人の名声を聞いても、些細な所をつまんで貶め、大した事ない奴、と、自他に言い聞かせるものなのだ。

『どうしてわたしのパンと水、またわたしの羊の毛を切る人々のためにほふった肉をとって、どこからきたのかわからない人々に与えることができようか」。』(1サムエル記25:11)
結局のところ、彼は、自分の持ち物を、少したりとも誰かにやりたくなかったのだろう。

『ダビデの若者たちは、そこを去り、帰ってきて、彼にこのすべての事を告げた。そこでダビデは従者たちに言った、「おのおの、つるぎを帯びなさい」。彼らはおのおのつるぎを帯び、ダビデもまたつるぎを帯びた。そしておおよそ四百人がダビデに従って上っていき、二百人は荷物のところにとどまった。』(1サムエル記25:12)
ダビデは普通人のように怒り、罵倒した無礼者に対して、剣で報いようと、部下たちに戦いの用意をさせた。
前回、あんな見事に、柔和な性質をサウルに対してあらわしたダビデだったが、この、つまらない粗野な者の一言で、ただの普通の人に戻ってしまっている。
善を仇で返されたばかりでなく、罵倒までされたのである。怒るのはもっともだが、ナバルだけでなく、罪も無い一族郎党までも、怒りに任せて皆殺しに行くとするなら、まるで、サウルと一緒ではないか。

ダビデは、主が油を注がれた上の権威に対しての従順は、この上なく素晴らしかった。
しかし、下位の、粗野な、面識のない者の、あさってな大風呂敷と、無礼な罵倒に対しては、忍耐と憐れみを示す事は全く頭によぎらず、あたかも下等な犬畜生を殺しに行くかのように、剣を皆に持たせ、出て行った。

粗野な無礼者に、剣で報いる。
それは、この時代は普通に行われていたかもしれないが、ダビデの場合、彼はこれから神の国・イスラエルの王となっていく者である。
神の国の王としての器のものが、それでは、神の国が困るのだ。
私達も、神の国の、王のような祭司である(1ペテロ2:9)。それでいては、困るのだ。

主は、そのダビデの「弱さ」を扱ったのではなかろうか。
そんなダビデを、その性質から救うため、そして王として整えるために、主は一人の助け手、アビガイルという女性を彼に送り、罪を犯させないよう守られる。

私達の中にも、この時のダビデのような性質が、あるのではなかろうか。
貴人に対しては、忍耐もするし、柔和にもなるけれど、見知らぬ粗暴な者から、いきなり無礼極まるあしらいをされたら、人とも思わず犬畜生のように虐殺してやりたい、というような性質が。
あるいは私達に、ナバルのような性質もあるのではなかろうか。
まことのダビデであるイエス様が、人生のあの時この時に盾となり、城壁となって守って下さり、事業を成功させて裕福にもさせて下さったのに、そんなイエス様をないがしろにし、恩を仇で帰したりするような。

私達は、それをこそ主に扱って頂くべきである。
そして、そんな弱い私達にも、アビガイルのような、罪を犯させないよう執り成してくれる助け手を送ってくれるよう、祈るべきである。

礼拝説教メッセージ音声:悪者の口は血を求め、正しい人の口は人を救う(1サムエル記24:8-22):右クリックで保存

無防備のサウルに手をかける事なく、そのまま行かせたダビデは、サウルについていった。

『ダビデもまた、そのあとから立ち、ほら穴を出て、サウルのうしろから呼ばわって、「わが君、王よ」と言った。サウルがうしろをふり向いた時、ダビデは地にひれ伏して拝した。』(1サムエル記24:8)
ダビデのサウルとの対話は、サウルから罵倒されつつ槍を投げつけられて、逃げて以来であろう。
それ以来、ダビデは長い間サウルから命を狙われ続けてきたが、そんなサウルへの最初の言葉は、「わが君、王よ」であり、王への尊敬と礼節を込めたものであった。

ダビデはサウルに、「どうしてあなたはわたしを狙うのですか」とは言わず、『どうして、あなたは「ダビデがあなたを害しようとしている」という「人々の言葉」を聞かれるのですか。』と言った。(1サムエル記24:9)
つまりダビデは、サウルの心にある「ダビデは自分を害そうとしている」という思いは、サウル自身から出たものではなく、サウルではない別者の言葉である事、そしてサウルは、その”偽り”を信じこまされており、自分は全くサウルを責める気は無いと表明している。

実際ダビデの言う通り、サウルは、サウル由来でない別者の言葉を信じ込んでおり、それに従ってダビデを害そうとしているのだ。
サウル由来でない別者の言葉・・・それは、サタンの言葉である。
サタンは偽りの父であり、人の心に偽りを吹きこませ、「サウル、ダビデはお前の王座を狙っているぞ」「今ダビデを殺しておかないと、一族もろとも殺されてしまうぞ」などと、サウルの心に語りかけていたのだ。
常に何かに狙われているような感じがする人、誰も彼も信じられないような、根拠なき恐れに脅えている人は、大体、暗闇から語りかけられる「別者」の言葉を頭に吹き込まれ、それに従って行動してしまうのだ。

ダビデはサウルを責めず、サウルの内に聞こえてくる偽りの声こそ真の敵であり、サウル自身を本来的な真理に気付かせ、立ち返らせようとしたのだ。
なんという配慮であろうか。
まさにキリストの十字架上の執り成し「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」を思い出す。

『わが父よ、ごらんなさい。あなたの上着のすそは、わたしの手にあります。わたしがあなたの上着のすそを切り、しかも、あなたを殺さなかったことによって、あなたは、わたしの手に悪も、とがもないことを見て知られるでしょう。あなたはわたしの命を取ろうと、ねらっておられますが、わたしはあなたに対して罪をおかしたことはないのです。』(1サムエル記24:11)
サウルの上着のすそは刃物で切り取っても、サウルの命には刃を向けなかった。
その行いによって、ダビデは、サウルのいのちを狙うつもりなぞ一切無い事を示した。
さらにダビデは、サウルに、彼自身のおるべき立ち位置を思い起こさせている。

『イスラエルの王は、だれを追って出てこられたのですか。あなたは、だれを追っておられるのですか。死んだ犬を追っておられるのです。一匹の蚤を追っておられるのです。』(1サムエル記24:14)
ダビデはサウルを「イスラエルの王」と呼んだ。
イスラエルの「王」であるなら、もっと他にするべき事はあるでしょう、こんな無害な「死んだ犬」のような者を追う事に、時間とエネルギーを使うよりは、困っている人のためにさばきをしてやるとか、実際の敵であるペリシテ人への防護を強化するなど。

悪霊に憑かれている人を、健全に立ち返らせるためには、「主イエスの名によって悪霊よ出て行け」と声を張り上げるよも、もっと効果的な方法がある。
それは、本人に真理を思い起こさせ、真理における自分の立ち位置に気付かせ、それを口で告白させる事だ。
ダビデはサウルに、彼は「神の国・イスラエルの王」である事を思い起こさせた。私達も、主イエスを信じる信仰によって、神の子であり、王族の祭司であり、聖なる国民であるという真理の立ち位置に立つ時、卑屈だった心、汚れた思い、罪の悩みは霧散するのである。

『ダビデがこれらの言葉をサウルに語り終ったとき、サウルは言った、「わが子ダビデよ、これは、あなたの声であるか」。そしてサウルは声をあげて泣いた。』(1サムエル記24:16)
ダビデの言葉によって、サウルは「人の心」を取り戻した。
『悪しき者の言葉は、人の血を流そうとうかがう、正しい人の口は人を救う。』(箴言12:6)
『正しいくちびるは王に喜ばれる、彼は正しい事を言う者を愛する。王の怒りは死の使者である、知恵ある人はこれをなだめる。』(箴言16:13)

『サウルはまたダビデに言った、「あなたはわたしよりも正しい。わたしがあなたに悪を報いたのに、あなたはわたしに善を報いる。きょう、あなたはいかに良くわたしをあつかったかを明らかにしました。すなわち主がわたしをあなたの手にわたされたのに、あなたはわたしを殺さなかったのです。人は敵に会ったとき、敵を無事に去らせるでしょうか。あなたが、きょう、わたしにした事のゆえに、どうぞ主があなたに良い報いを与えられるように。』(1サムエル記24:17-19)
ダビデはまことに、イエス様のご性質を表している。
人はイエス様に対して悪をはかり、ののしり、十字架につけたのに、イエス様はののしられてもののしり返さず、悪で返す事なく、赦し、執り成し、十字架の死に至るまでも従順を貫き通し、全てのさばきを全能者に委ねられた。

『今わたしは、あなたがかならず王となることを知りました。またイスラエルの王国が、あなたの手によって堅く立つことを知りました。それゆえ、あなたはわたしのあとに、わたしの子孫を断たず、またわたしの父の家から、わたしの名を滅ぼし去らないと、いま主をさして、わたしに誓ってください」。』(1サムエル記24:20-21)
サウルは、今まで心の中で何となく思っていた事が、確信となった。
すなわち、ダビデこそ王の器であり、やがてダビデこそイスラエルの王座につき、イスラエルを正当に建て上げていくという事を。
サウルはその事を「確信」したために、ダビデが王となった際に、自分の子孫を断つ事はしないでほしい、と願ったのだ。

『そこでダビデはサウルに、そのように誓った。そしてサウルは家に帰り、ダビデとその従者たちは要害にのぼって行った。』(1サムエル記24:22)
こうしてダビデはサウルと和解したのだが、サウルと一緒に宮殿へ帰ることは、しなかった。
昨日まで主の嫌われる事に埋没していた人が、悔い改めの言葉を発し、和解したからと言って、両手放しに彼を信頼して身を委ねるのは、早計である。
その前に、彼が日々悔い改めにふさわしい実を結ばようと努力し、その「実」を積み立てるかどうかを、見極める必要があり、彼がしっかり主にあって自制できるようになるまで、しっかり見届けるべきだ。
次章以降のサウルを見ると、残念ながら彼は、悔い改めに相応しい実を結ばせず、以前の悪い状態へと戻ってしまう事になる。

いずれにせよ、サウルに一時的に人の心が戻ったのは、ダビデの愛の行動ゆえである。
私達もダビデのように、与えられた権威に対して、愛と真実をもって接し、多くの人を悪から立ち直らせる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:無防備なサウルに手をかけなかったダビデ(1サムエル記24:1-7):右クリックで保存

前回、サウルはあと一歩の所までダビデに追い迫ったが、ペリシテのために追う事を中断せざるを得なくなり、そうしてダビデは一命をとりとめた。

しかしペリシテ人の件が一段落つくと、サウルはまたもダビデを追いはじめた。

『サウルがペリシテびとを追うことをやめて帰ってきたとき、人々は彼に告げて言った、「ダビデはエンゲデの野にいます」。そこでサウルは、全イスラエルから選んだ三千の人を率い、ダビデとその従者たちとを捜すため、「やぎの岩」の前へ出かけた。』(1サムエル記24:1)
サウルの元にいる兵は、精鋭3000、対するダビデと一緒にいる兵は、雑多なはみ出し者たち600人。
明らかにダビデ達が不利であり、ダビデの危機である。

それでダビデ達は、サウル達を避け、洞穴の一つに隠れ入っていた。
エンゲディという場所は、死海湖岸の洞窟が多い地帯で、死海文書が発見されたクムラン洞窟もある。
ダビデは、洞窟で隠れていた時の心境を、詩篇57編と詩篇142編とに記している。

『聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデが洞にはいってサウルの手をのがれたときによんだもの
神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます。滅びのあらしの過ぎ去るまでは/あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。わたしはいと高き神に呼ばわります。わたしのためにすべての事をなしとげられる神に/呼ばわります。』(詩篇57:1-2)
洞窟の中で隠れていたダビデは、決して積極的な心境ではなく、恐れおののいていおり、主の御翼の影に宿りたい一心を、主に吐露していた。
主はそんなダビデに、唐突に、立場逆転のチャンスを与えられた。

『途中、羊のおりの所にきたが、そこに、ほら穴があり、サウルは足をおおうために、その中にはいった。その時、ダビデとその従者たちは、ほら穴の奥にいた。』(1サムエル記24:3)
口語訳では「足をおおう」と直訳しているが、それが「用を足す」「安楽する」「落ち着く」などの意味がある。
いずれにしても彼は、洞窟内で一人、非常に無防備な状態となり、ダビデ達がいとも簡単に命を取れる状況となったのだ。

主がサウルを自分の手に渡して下さった・・・ダビデも思ったであろうし、部下たちもそう思い、すすめた。
『ダビデの従者たちは彼に言った、「主があなたに告げて、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは自分の良いと思うことを彼にすることができる』と言われた日がきたのです」。そこでダビデは立って、ひそかに、サウルの上着のすそを切った。しかし後になって、ダビデはサウルの上着のすそを切ったことに、心の責めを感じた。』(1サムエル記24:4-5)

無防備なサウルを前に、ダビデの心には、嵐があった。
主は確かに、彼を自分の手に渡してくれた。しかし、サウルに手をかけようとすると、どうしてもできなかった。
ダビデは、無防備状態のサウルのすそを、ひそかに切ったのだが、その事で、ダビデは心の責めを感じた。
部下たちは、一体何をやっているのだ、と、じれったく思っただろう。

『ダビデは従者たちに言った、「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない」。ダビデはこれらの言葉をもって従者たちを差し止め、サウルを撃つことを許さなかった。サウルは立って、ほら穴を去り、道を進んだ。』(1サムエル記24:6-7)
ダビデは決して、部下たちを前に、善人ぶってそうしたのではない。
さっさとサウルを殺して、部下たち共々、逃げ隠れの生活から脱却しようと思えば簡単にできる状況なのに、サウルをみすみす逃がすなど、デメリット以外に思い浮かばない。
それは、主を知らず、生まれつきの行動原理で歩んでいる人には、決して理解できない行動だ。

ダビデは心底、サウルを殺すなど、出来なかったのだ。「主が油を注がれた」「わが君」に、手をかけるなど。
ダビデはサウルを愛していた、というよりも、「サウルに油を注がれた主」を愛していた。だからサウルは、ダビデにとって、主が任命された「上司」であり、主に油注がれた聖なる者である。
いかに、狂ったような素行をしているサウルと言えど、そんなサウルに刃を向けるというのは、主に対して刃を向けるような心境だったのだろう。
だから彼は、すそを切っただけでも、心の責めを感じたのだ。

ダビデは今後、主に油注がれたサウルを、わざとのがした事によって、サウルから命を奪われてしまうのだろうか。
いや、ダビデは主のゆえにこの事をした以上、主が、ダビデの命が奪われる事を許さない。
主を主を重んじる者は、主から重んじられるのだ。
私達も、主が立てて下さった権威に従い、どんなに小さな事でも、主に対してするように、心からするべきである。
そうするなら、主はちょうど良い時に引き上げて下さるからだ。

『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ12:17-21)

礼拝説教メッセージ音声:見知らぬ者にも売られたダビデと、彼を守られる主(1サムエル記23:19-29):右クリックで保存

主はダビデを、あらゆる災いから守り、彼が心萎えた時にはヨナタンを遣わして慰めてくださった。

しかし、彼に敵する者もまたいた。
『その時ジフびとはギベアにいるサウルのもとに上って行き、そして言った、「ダビデは、荒野の南にあるハキラの丘の上のホレシの要害に隠れて、われわれと共にいるではありませんか。それゆえ王よ、あなたが下って行こうという望みのとおり、いま下ってきてください。われわれは彼を王の手に渡します」。』(1サムエル記23:19-20)

ダビデはジフ人を元々知らないし、ジフ人もダビデに何か恨みがあったわけでもなかっただろう。
それなのにダビデを密告したのは、彼らはダビデを差し出す事によって、時の権力者・サウルに気に入られ、地位なり富なりを得たかったのだろう。
ダビデはこの時の心境と祈りを、詩篇54編に記している。
『聖歌隊の指揮者によって琴をもってうたわせたダビデのマスキールの歌。これはジフびとがサウルにきて、「ダビデはわれらのうちに隠れている」と言った時によんだもの
神よ、み名によってわたしを救い、み力によってわたしをさばいてください。神よ、わたしの祈をきき、わが口の言葉に耳を傾けてください。「高ぶる者(ズーア:見知らぬ者、異邦人)」がわたしに逆らって起り、あらぶる者がわたしのいのちを求めています。彼らは神をおのが前に置くことをしません。』(詩篇54:1-3)

ジフ人たちは、ダビデを利用してサウルから地位なり富なりを引き出そうとした事に対し、ダビデは、どこから助けを引き出そうとしたか。
『見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです。神はわたしのあだに災をもって報いられるでしょう。あなたのまことをもって彼らを滅ぼしてください。わたしは喜んであなたにいけにえをささげます。主よ、わたしはみ名に感謝します。これはよい事だからです。あなたはすべての悩みからわたしを救い、わたしの目に敵の敗北を見させられたからです。』(詩篇54:4-7)
私達もダビデのように、見知らぬ者の「ネタ」にされ、不利な状況へと追いやられてしまう事があるかもしれない。
そのような時、私達もダビデのように、主に祈り求めるべきである。
自分を陥れようとした者達は、主の手に明け渡し、自分自身は、主に喜びと感謝のいけにえを捧げるのだ。

『サウルは言った、「あなたがたはわたしに同情を寄せてくれたのです。どうぞ主(エホバ)があなたがたを祝福されるように。』(1サムエル記23:21)
主エホバの祭司を虐殺させたサウルは、そのあさましい者達を、主エホバの名によって祝福している。
「あなたがたはわたしに同情を寄せてくれた」という理由で。

サウルは前章では、みんなが自分に謀反を企んでいて、誰も自分の事を思ってくれない、と、被害妄想極まる事を言っていたが、もはや、サウルを心底好き好んで関わり、心から彼に同情してくれる人は、いなくなっていたのだろう。
彼の周りに集まって来るのは、彼にへつらって、地位を得ようとするような浅ましい人達だけしか、集まって来なくなってしまっていたのだろう。

『あなたがたは行って、なお確かめてください。彼のよく行く所とだれがそこで彼を見たかを見きわめてください。人の語るところによると、彼はひじょうに悪賢いそうだ。それで、あなたがたは彼が隠れる隠れ場所をみな見きわめ、確かな知らせをもってわたしの所に帰ってきなさい。その時わたしはあなたがたと共に行きます。もし彼がこの地にいるならば、わたしはユダの氏族をあまねく尋ねて彼を捜しだします」。』(1サムエル記23:22-23)
サウルはダビデを「ひじょうに悪賢い」と言った。
おそらく、ダビデがなかなかサウルの思い通りに行動してくれないから、そう言ったのであろうが、ダビデは悪賢さによってサウルから逃れていたのではなく、主が、ことごとくダビデを助けて下さったからであり、そしてサウルのやる事なす事がうまく行かないのは、彼が御心に反する事ばかり行っているため、主に敵対されているからだ。

『そしてサウルとその従者たちはきて彼を捜した。人々がこれをダビデに告げたので、ダビデはマオンの荒野にある岩の所へ下って行った。サウルはこれを聞いて、マオンの荒野にきてダビデを追った。』(1サムエル記23:25)
サウルは今や、ダビデを助ける者であるなら、たとえ祭司であっても、その一族を虐殺するような者である。
ダビデを助ける事には、いのちの危険が伴うのに、それでも、ダビデにサウルが来た事を知らせてくれる「人々」がいた。

サウルは圧倒的権威を持ち、金銀も持っていたのに、彼の元には心から慕って来る人はいなくなり、ただ、サウルに気に入られて権威や金銀を得ようとする人しか来ない。
他方、ダビデには権威も金銀も無いのに、またダビデに味方するなら危険しか無いというのに、彼を慕い、彼を助ける人達が、自然と集まって来た。
主を恐れる人は、主に助けられ、また良き人々からも助けられる。
しかし、主を軽んじる者からは良き人々は逃げていき、その者を利用しようとたくらむ人々だけが集まって来る。
そして、その者がいかに主を恐れる人を憎み、いのちを狙おうとも、主は思い通りにはさせないのだ。

ダビデはイエス様のご性質をよく表している。
イエス様も、世の権威を求め世を愛する者達からは、疎まれ、売られ、あざけられた。
しかし、彼を慕い求める者は、世のものでない御国の幸いを得るのだ。

『サウルは山のこちら側を行き、ダビデとその従者たちとは山のむこう側を行った。そしてダビデは急いでサウルからのがれようとした。サウルとその従者たちが、ダビデとその従者たちを囲んで捕えようとしたからである。』(1サムエル記23:26)
ダビデとサウルは、山ひとつしか隔てが無い程までに、肉薄した。
ダビデ、危機一髪であるが、またもや彼は助かる。

『その時、サウルの所に、ひとりの使者がきて言った、「ペリシテびとが国を侵しています。急いできてください」。そこでサウルはダビデを追うことをやめて帰り、行ってペリシテびとに当った。それで人々は、その所を「のがれの岩」と名づけた。ダビデはそこから上ってエンゲデの要害にいた。』(1サムエル記23:27-29)
ダビデは、実に良いタイミングで救われた。

この「のがれの岩」となって下さったのは、主である。
主はタイミングよくペリシテ人を送って下さり、ダビデが助かるように使者を送って下さったのだ。

主は、全能なるお方である。
そこまでベストのタイミングでダビデを助けられた主は、すぐにでもダビデに平和を与え、王座につかせる事は簡単に出来るが、主があえてそうされないのは、この時期、ダビデを特別に王としての「高等教育」を受けさせておられるからだ。
主は、その愛する者には、このような高等な教育を与えて下さり、守り、敵の前で宴を設けてくださるのだ。

『あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。
あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。』(1ペテロ1:5-9)

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