メッセージ - 201505のエントリ
ペニンナとハンナ - 小狐と鳩の性質(1サムエル記1:1-18)
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前回はハンナの性質を見たが、今回、同じ箇所からハンナだけでなくペニンナの性質も詳しく見てみたい。
『こうして年は暮れ、年は明けたが、ハンナが主の宮に上るごとに、ペニンナは彼女を悩ましたので、ハンナは泣いて食べることもしなかった。』(7節) 一家が年に一度、主の宮に上って礼拝する度に、ペニンナは「主がハンナに子を与えて下さらない点」を突いて苛立たせ、共に主の前で喜び食べる事を邪魔させた。
当時、主への捧げものは動物のいけにえであったが、主は、捧げる「もの」より、礼拝者の心こそ見られる。
「礼拝」は英語では「サービス」と言うように、私達の側から主に「お捧げする」心こそ第一だ。
主は、捧げ物は「傷の無いまったきもの」を求められる。なのに、礼拝者の心をあえてかき乱し、傷つけ、礼拝者を「キズモノ」にするようなペニンナの行為は、花盛りのぶどう園を荒らす小狐のようなものだ。
『われわれのためにきつねを捕えよ、ぶどう園を荒す小ぎつねを捕えよ、われわれのぶどう園は花盛りだから。 』(雅歌2:15) この小狐は、ぶどうが実る時期ではなく、実になる前の、花ざかりの時に来て、荒らす。
花より実の方がおいしいであろうに、花をわざわざ荒らすのは、ただ荒らし、実らせない事が目的なのだ。
花婿が「ぶどう園を荒す小狐を捕えよ」と言っているように、小狐捕らえる責任は、私達の側にある。
私達の内に、この小狐の性質、ペニンナの性質が現れた時、それをしっかり捕らえなくてはならない。
ある兄弟姉妹を憎む余り、その人の礼拝さえ阻害しようとする心は、すぐキリストへと捕縛するべきだ。
また、私達の内に、御言葉に歩もうとする花や、主に喜ばれる性質の花が開花しようとした時、あるいは、最高の礼拝を捧げようとする花が、咲こうとするのを妨げる「小狐」には、よくよく注意すべきである。
悔い改めて生まれ変わる決心をしても、三日坊主になるような人は、この「小狐」を対処しないからだ。
この小狐を放置してしまうと、自分自身が主に喜ばれる実を結べないばかりか、礼拝の場で他の礼拝者の邪魔をしたり、交わりの場で他の兄弟姉妹の心を逆撫でするような事を無意識的にしてしまったりするのだ。
花婿主イエスが「小狐を捕らえておくれ」と言われているからには、私達はそれを捕まえ、主にあるぶどうの実が豊かに実るまで、しっかりと心のぶどう畑を、また、教会というぶどう畑を、ガードすべきだ。
ハンナの場合、心が掻き乱されても、しっかりガードし、ペニンナ達の礼拝を掻き乱すような事は、しなかった。彼女は、仕返ししたり、夫にぶちまけたりする事なく、ぐっと堪え、全部主に持っていった。
雅歌書で、花婿が「小狐を捕らえておくれ」と言う直前、花嫁にこう言っている。
『岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。』(雅歌2:14)
聖書では、鳩の「くくぅ」という鳴き声を、「呻く」声としている。(イザヤ38:14,59:11、ナホム2:7)
ハンナは、世の方法や、世の何者かに頼る事なく、まっしぐらに、主という岩へと飛んで行き、声にもならない呻きの祈りを主に捧げた。その顔は、祭司には酔っているかのように見えたかもしれないが、主の御前には愛らしく、美しいのだ。真の花婿であられる主は、鳩のどんな小さな呼び声も聞き漏らさず、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のように、飛び跳ねて来て下さるのだ。
ハンナはやはり、御国において、とても高貴な性質の持ち主である。
なぜなら彼女は、心の状況いかんによって、破壊的な言葉や態度で聖なる食卓を汚さず、そして最高の捧げ物である「砕かれたたましい、悔いた心を、主の前に捧げたからだ。(詩篇51:16-17)
そして彼女は、具体的に、女性にとっての最高の報酬・初めに生まれてくる子を、主に捧げる事を誓った。
もし彼女に子が生まれたなら、乳離れしたら主の宮へ預ける気でいたのだ。
おおよそ、赤ちゃんが乳離れし、立って歩き出し、言葉を覚え、かわいらしい仕草で物事を覚えて行く、その期間の子は、母親にとって、最も喜び楽しむ期間だろう。その最もおいしい期間を、主に捧げたのだ。
それ故主は、彼女が捧げたその子サムエルを尊く用い、イスラエルの歴史で重要なターニングポイントを果たす者、王達に油を注いで任職するキングメーカーとして用いられたのだ。
さらに主は、将来、ハンナにさらに子を産むようにされ、ペニンナよりも満ち足りるようにされた。
私達自身もハンナのように尊く捧げ、幸いな者とされますように、イエス様の名前によって祝福します!
金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
聖霊を悲しませないために(エペソ4:17-32):右クリックで保存
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実が無く葉ばかりのいちじくの木を枯らされた主(マタイ21:18-22)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
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- pastor 2015-5-16 8:04
マタイによる福音書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
実が無く葉ばかりのいちじくの木を枯らされた主(マタイ21:18-22):右クリックで保存
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
主に期待しない・求めないアハズ王(イザヤ7章):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書7章を基に、アハズ王の不信仰と、神の憐れみ、そしてインマヌエルの預言について説かれたメッセージです。
【聖書箇所】
イザヤ書7:1-25
第二列王記16:5-16
【戒めの言葉】
主を信頼せず、世の力に頼ることの愚かさを戒めています。
【励ましの言葉】
主に信頼して歩む者には、主が安らかな眠りを与えてくださいます。
【***詳細***】
今日のメッセージは、イザヤ書7章1節から25節を中心に展開されます。この箇所は、ユダの王アハズの時代に起こった出来事を描いています。
まず、1-2節を見てみましょう。
「アラムの王レツィンとイスラエルの王レマルヤの子ペカがエルサレムに攻め上ったが、これを攻め取ることはできなかった。ダビデの家に、『アラムがエフライムと同盟を結んだ』という知らせが入ると、王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように動揺した。」
この状況下で、神はイザヤを通してアハズに語りかけます。3-9節で、神はアハズに恐れないよう命じ、敵対する二つの国は「くすぶる燃えさし」に過ぎないと言います。そして、「もし、あなたがたが信じないなら、長く続くことはできない」(9節)と警告します。
さらに神は、アハズに印を求めるよう促します。「あなたの神、主に、しるしを求めなさい。深い所のものでも、高い所のものでも求めなさい」(11節)。しかし、アハズは偽善的な態度で拒否します。「私は求めません。主を試みません」(12節)。
この拒否に対し、イザヤは有名な預言を宣言します。「見よ。おとめが身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(14節)。この預言は、はるか後の時代に、処女マリアを通して生まれるイエス・キリストを指し示しています。
イザヤは続けて、アッシリアの侵攻と、それに伴う荒廃を予言します(17-25節)。これらの預言は、アハズの不信仰にもかかわらず、神が依然としてユダの民に語りかけ、未来を示していることを表しています。
しかし、アハズは神の警告を無視し、アッシリアの王に助けを求めます。第二列王記16章では、アハズがアッシリアの王に贈り物を送り、「私はあなたのしもべ、あなたの子です」(7節)と言ったことが記されています。さらに、アハズはダマスコで見た異教の祭壇の模型を作らせ、エルサレムの神殿に設置しました。
このアハズの行動は、神への不信仰と、世俗の力への依存を如実に示しています。彼は神の約束を信じるのではなく、自らの知恵と世の力に頼ることを選びました。
私たちもしばしば、アハズのような態度をとることがあります。困難に直面したとき、神の約束を信じるのではなく、世の知恵や力に頼ろうとします。しかし、聖書は私たちに、「主に信頼して歩む者には、主は安らかな眠りを与えてくださる」と教えています。
詩篇127篇1-2節は次のように語ります。
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起き、おそくまで座り、労苦の糧を食べることは、むなしいことだ。主は、愛する者には、眠っている間に必要を満たしてくださる。」
私たちは、世の設計図ではなく、神の設計図に従って生きるよう召されています。神の言葉には、私たちの人生のための完全な設計図が含まれています。例えば、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」(マタイ5:8)という御言葉があります。これは、心の清さを追求することで、神との親密な関係を経験できるという設計図です。
【結論】
今日のメッセージから、私たちは次のことを学びます:
-
困難な時こそ、神に信頼することの重要性
-
世の知恵や力ではなく、神の約束に頼ることの必要性
-
神の言葉に含まれる人生の設計図を見出し、それに従うことの大切さ
私たち一人一人が、アハズの失敗から学び、どんな状況でも主に信頼し、主の道に歩む者となりますように。アーメン。
つくばエクレシア礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
王達に油を注いだサムエルの母ハンナ:1サムエル記1:1-18:右クリックで保存
火曜早天祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ハンナの性質(1サムエル記1:1-11):右クリックで保存
滅びを積み立てるサウルと王の整えを積み立てるダビデ(1サムエル記23:6-18)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-5-15 23:50
礼拝説教メッセージ音声:滅びを積み立てるサウルと王の整えを積み立てるダビデ(1サムエル記23:6-18):右クリックで保存
『アヒメレクの子アビヤタルは、ケイラにいるダビデのもとにのがれてきた時、手にエポデをもって下ってきた。』(1サムエル記23:6)
祭司皆殺しを命じたサウルからは、祭司はいなくなり、その唯一の生き残り・アビヤタルがダビデの元に逃げてきたので、彼は祭司を得た。
以後、アビヤタルがダビデの専属的な祭司となる。
『さてダビデのケイラにきたことがサウルに聞えたので、サウルは言った、「神はわたしの手に彼をわたされた。彼は門と貫の木のある町にはいって、自分で身を閉じこめたからである」。そこでサウルはすべての民を戦いに呼び集めて、ケイラに下り、ダビデとその従者を攻め囲もうとした。』(1サムエル記23:7-8)
色々と的外れなサウルである。
そもそも、神はサウルを王から退け、ダビデに油を注がれたのに、サウルは「神は」「わたしの手に彼(ダビデ)をわたされた。」と喜んでいる。
サウルがもし自分を国王と名乗るなら、ケイラが襲われた時、その町を救うべきは、彼のはずだったのではないか。
しかしその町を救ったのは、国王から追われているダビデだった。
それなのに、サウルはそれを聞いて、国敵ペリシテは放置して、国を救ったほうのダビデを追い、しかも、自国の町であるケイラを襲ってまで、ダビデを滅ぼそうとしているのだ。
『イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。』(マタイ12:25)
サウルはなぜこんなにも、的を外してばかりいるのだろう。
ギリシア語で「的外れ」はハマルティア、それは「罪」と訳される言葉であるが、御言葉こそ「的」であり、サウルのように、真の「的」である御言葉を退け、自分の好む事をごり押しばかりしているなら、このような的外れの数々を演じてしまうのだ。
的外れから来る報酬は死であり(ローマ6:23)、サウルはやがて、その報酬を受け取ってしまう事になる。それはどんな人にも当てはまる事だ。
私達も、サウルのように、真に憎むべき敵・サタンを怒らず、怒りの矛先は主にある兄弟姉妹に向けたりしていないだろうか。
滅ぼすべき「自分の罪」に御言葉の矛先を向けず、主にある兄弟姉妹を、言葉の剣で切り裂いたりしていないだろうか。
神の国のために貢献したダビデを妬んで追い回したサウルに主が敵対したように、主に貢献し活躍している人を妬んで貶めるなら、その人は主から敵対される。
『ダビデはサウルが自分に害を加えようとしているのを知って、祭司アビヤタルに言った、「エポデを持ってきてください」。』(1サムエル記23:9)
エポデに結び付けられている「さばきの胸当て」には、御心を求める道具「ウリムとトンミム」がある。(出エジプト記28:30)
ダビデは祭司を得て、早速、御心を伺った。
『そしてダビデは言った、「イスラエルの神、主よ、しもべはサウルがケイラにきて、わたしのために、この町を滅ぼそうとしていることを確かに聞きました。ケイラの人々はわたしを彼の手に渡すでしょうか。しもべの聞いたように、サウルは下ってくるでしょうか。イスラエルの神、主よ、どうぞ、しもべに告げてください」。主は言われた、「彼は下って来る」。ダビデは言った、「ケイラの人々はわたしと従者たちをサウルの手にわたすでしょうか」。主は言われた、「彼らはあなたがたを渡すであろう」。
そこでダビデとその六百人ほどの従者たちは立って、ケイラを去り、いずこともなくさまよった。ダビデのケイラから逃げ去ったことがサウルに聞えたので、サウルは戦いに出ることをやめた。』(1サムエル記23:10-13)
主のこたえは、サウルは来る、その時、ケイラの住人はダビデを引き渡す、であった。
それら二つの事は、ダビデがすぐに逃れた事によって、実際は起こらなかったが、主はご存知だった。
ダビデがケイラにいる限り、サウルはケイラごとダビデを滅ぼそうという心がある事、そして、サウルが全部隊を率いてケイラに攻め込んだら、ケイラの住民は、恩人であるダビデを引き渡してしまう「弱さ」がある事を。
主は、人が罪を犯してしまう弱い存在である事を、罪を犯す前から、既にご存知である。
イエス様も、ペテロが三度主を否む前から、既にご存知だった。そのため、ペテロの信仰がなくならないようあらかじめ祈り、立ち直ったら兄弟たちを力づけるようアドバイスを下さっていた。(ルカ22:32)
主は、私達の弱さを先回りして執り成しておられ、また、弱さ故に罪を犯した後も、フォローして下さるお方だ。(ヨハネ21章)
『ダビデは荒野にある要害におり、またジフの荒野の山地におった。サウルは日々に彼を尋ね求めたが、神は彼をその手に渡されなかった。』(1サムエル記23:14)
主はダビデを、あらゆる災いから守って下さった。
主は、主に依り頼む者を守り、助け、必要を備えて下さるばかりでなく、弱っている心をも力づけて下さる。
『さてダビデはサウルが自分の命を求めて出てきたので恐れた。その時ダビデはジフの荒野のホレシにいたが、サウルの子ヨナタンは立って、ホレシにいるダビデのもとに行き、神によって彼を力づけた。そしてヨナタンは彼に言った、「恐れるにはおよびません。父サウルの手はあなたに届かないでしょう。あなたはイスラエルの王となり、わたしはあなたの次となるでしょう。このことは父サウルも知っています」。こうして彼らふたりは主の前で契約を結び、ダビデはホレシにとどまり、ヨナタンは家に帰った。』(1サムエル記23:15-18)
恐れていたダビデは、ヨナタンの訪問と力づけによって、どれほど慰めを得ただろう。
サウルは、国家権力を駆使してもダビデに接触できなかったのに、ヨナタンは、いとも簡単に接触できた。
主がダビデのため、またヨナタンのために導いてくださったからだ。
主には、そこまで出来るのなら、どうして主はすぐにでもサウルを消し去って、即座にダビデを高めてくださらないのだろうか。
主は、全ての人の心に隠されているものが「実を結ぶ」のを待っておられる。(マタイ13:36-43)
人々の意思決定と行動によって、心の内が露わにされ、実を結び、その結んだ実に応じて、主は報いを与えられるのだ。
サウルはこの時点であっても、御言葉に立ち返って悔い改め、救いを得る事も出来たであろうが、彼はあくまで、我が道を行く事を選び続け、滅びの火の燃料を積み上げて行った。
ダビデはこの時点、主に従う事を放棄して、邪悪な行動に出る事も出来たであろうが、彼はあくまで御旨に従う事を選び通し、そうして王としての整えを積み上げて行った。
ヨナタンは、ダビデを力づけたいと願い、主はそれをよしとして、あらゆる都合をつけてダビデに引き会わせ、ヨナタンを通して、ダビデを慰めて下さった。
主は、全て人の自由意志を尊重され、ダビデやヨナタンのように、御旨に叶う事をする人を助け、サウルのように、御旨に適わない事をあくまでする者を、退けられるのだ。
みんなの常識的な意見が主の導きと相対する時(1サムエル記23:1-5)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-5-14 23:50
礼拝説教メッセージ音声:みんなの常識的な意見が主の導きと相対する時(1サムエル記23:1-5):右クリックで保存
逃亡中のダビデ達の所に、一つの知らせが届いた。
『「ペリシテびとがケイラを攻めて、打ち場の穀物をかすめています」。そこでダビデは主に問うて言った、「わたしが行って、このペリシテびとを撃ちましょうか」。主はダビデに言われた、「行ってペリシテびとを撃ち、ケイラを救いなさい」。』(1サムエル記23:1)
ダビデ一行は、サウル王の軍隊から追われている状況だ。
ケイラを助けるのは、もっとゆとりのある人に任せる事ができるだろうし、何より、それはサウル王の仕事であろう。
にも関わらず、「わたしが行くべきでしょうか」と主に尋ねるのが、ダビデのダビデたる所以である。
彼はゴリヤテの時も、生ける神の陣がなぶられる事を許しておけなかったし、羊の一頭でも、ライオンに持っていかれるのを許しておけなかった。
彼は、キリストのように、一人の魂でも、滅んで行く事を許していられない性格だったのだ。
主の御心は、「行け」だった。
ダビデは早速、部下達に伝達しただろう。これから我々はケイラを救いに行く、だから準備せよ、と。
『しかしダビデの従者たちは彼に言った、「われわれは、ユダのここにおってさえ、恐れているのに、ましてケイラへ行って、ペリシテびとの軍に当ることができましょうか」。』(1サムエル記23:3)
常識的に考えるなら、彼らの言う事のほうが、もっともである。
今、自分たちはそんな場合ではない、むしろ、自分たちの身を案じるべきだ、と。
私達も信仰生活を送る上で、このようなジレンマに陥る事がある。
主の御心は「行け」なのに、常識や世の人は「行くな」と言い、そのはざまに揺れる事が。
せっかく、なけなしの信仰を奮い立たせて実行しようとしたのに、周りが早速「NO」をつきつけてくる事が。
人目を気にするサウルなら、迷わず、主の御旨を退け、人の意見を採用していただろう。
しかし、ダビデは違った。
彼は、もう一度、主に伺った。
『ダビデが重ねて主に問うたところ、主は彼に答えて言われた、「立って、ケイラへ下りなさい。わたしはペリシテびとをあなたの手に渡します」。』(1サムエル記23:4)
主の意見は、同じであった。
しかも今度は、より明確に、勝利の約束まで与えて下さった。
主は、一度導きを与えたなら、もう二度とは言わないようなお方ではなく、不安だったらもう一度問うて良いのだ。
ギデオンも、最初はそうだった。
しかし、何度も尋ね、何度もgoサインをいただき、しるしまで頂いておきながら、結局、行かないような者は、主はそのうち御顔を背けてしまう。
出エジプトの民やバラム、そしてサウルがそうだった。
『ダビデとその従者たちはケイラへ行って、ペリシテびとと戦い、彼らの家畜を奪いとり、彼らを多く撃ち殺した。こうしてダビデはケイラの住民を救った。』(1サムエル記23:5)
戦果は、大勝利だった。
彼らの集いは既に六百人に増えていたので、一日を過ごすだけで、かなりの食料が必要であろう。しかし、この戦いをしたお陰で、必要を満たす事が出来た。
ダビデは、「主に伺う」事をいつもしており、苦境にある聖徒たちや兄弟姉妹のためには、自分の考慮をせず、ただ助け出さずにおれない性質である。
彼のように、自分の心配をする以前に、主に伺い、主の御旨どおり行動する人は、いつも大勝利し、またいつも必要が満たされるのだ。
自分には今、あの兄弟姉妹、あの教会を助ける余裕など無い、というような時でも、主は「行け」「助けよ」と言われる事がある。
そのような時こそ、行くべきである。
主は、救う力も必要な資力も与えて下さり、行って、勝利し、救ったなら、全以前よりも富む者とされ、関わった全ての人達が主の栄光を見るのだ。
アマレクではなく祭司たちを滅ぼし尽くしたサウル(1サムエル記22:17-23)
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- pastor 2015-5-13 23:53
礼拝説教メッセージ音声:アマレクではなく祭司たちを滅ぼし尽くしたサウル(1サムエル記22:17-23):右クリックで保存
私達は常時、何かしらを「思っている」ものだが、その「思い」の出所元には、いつも気をつけるべきだ。
なぜなら私達は、常日頃浸っている「思い」の「出処」に似てくるからである。
サウルは、健全な主の言葉から思いをそむけ、かえって、「妬み」や「怒り」「殺意」といった、サタンを出処とする悪しき思いを、いつも巡らしていたため、彼はどんどん、サタンの性質を帯びるようになって行ってしまった。
人は、ねたみや好色、汚れた思いに委ねているのは、肉的にはラクである。
人にはそうした罪の性質が「刺さって」いるため、ねたみや好色などをネタにする雑誌が、国を問わず、売れているのだ。
しかし私達のように、キリストにあって聖徒とされた者が、聖なる言葉に馴染もうとせず、肉的にラクな道ばかりを選び、汚れた思いに浸り続けているなら、どんどん聖なる感覚は鈍って行き、ついには、恐るべき悪行をも、無感覚的に平気で実行するようになってしまうのだ。
近衛兵たちは、誰も、このサウルの命令、「主(エホバ)の祭司たちを殺せ」には、従えなかった。(1サムエル記22:17)
主エホバをおそれる民であるなら、主の祭司を殺すなど、決してできないものだ。
「主の祭司たちを殺す」という”望み”を果たしてくれる人は、神の民イスラエルの中には誰もいない、というのを見て取ったサウルは、神を恐れぬ邪悪な者をもって、その”望み”を果たさせようとする。
『そこで王はドエグに言った、「あなたが身をひるがえして、祭司たちを殺しなさい」。エドムびとドエグは身をひるがえして祭司たちを撃ち、その日亜麻布のエポデを身につけている者八十五人を殺した。彼はまた、つるぎをもって祭司の町ノブを撃ち、つるぎをもって男、女、幼な子、乳飲み子、牛、ろば、羊を殺した。』(1サムエル記22:18-19)
剣で殺したのだから、返り血も浴びただろう。
エポデを着た祭司達の、血まみれの死体八十五体が累々と横たわる様を見ても、サウルの心は全く動かず、かえってドエグに、そこ(ギブア)からわざわざ祭司の町・ノブまで出向かせ、祭司たちの女、子供、乳飲み子ばかりでなく、家畜までも、殺させ尽くしたのだ。
この祭司たちは、エポデを着ていた。
エポデとは、祭司が務めを為す時の服であり、その両肩部分には、イスラエル十二部族の名が刻まれた宝石が結び付けられ、また、胸の所には、イスラエル十二部族の名が彫り込まれた十二種の宝石がはめ込まれている「さばきの胸当て」を結びつけられる。
祭司たちはエポデを着る事によって、イスラエルの名を両肩に背負い、またイスラエルの名を胸に収めつつ、聖所を出入りして、イスラエルの罪の贖いをしているのだ。(出エジプト記28章)
サウルは、神と人との間に立って罪を身代わりに背負ってくれる祭司たちを、自分から抹殺したのだ。
一体誰が、サウルの身代わりに罪の贖いをしてくれるというのだろうか。
それは彼には、もはや無い。
だから、サウルがこれから危機に陥った時、彼を救ってくれるものは、何もなくなってしまったのだ。
私達ももし、私達の罪を身代わりに背負って罪を購ってくださった主イエス・キリストをあなどり、拒否し、抹殺するとするなら、もはや罪の贖いは何も残っておらず、ただ恐ろしいさばきを待っている他ないのだ。
『しかしアヒトブの子アヒメレクの子たちのひとりで、名をアビヤタルという人は、のがれてダビデの所に走った。そしてアビヤタルは、サウルが主の祭司たちを殺したことをダビデに告げたので、ダビデはアビヤタルに言った、「あの日、エドムびとドエグがあそこにいたので、わたしは彼がきっとサウルに告げるであろうと思った。わたしがあなたの父の家の人々の命を失わせるもととなったのです。』(1サムエル記22:20-22)
ダビデも、まさかサウルがそこまでするとは思っていなかった事だろう。
しかし実をいうと、このエリの子孫達が剣で絶たれてしまう事は、主によってあらかじめ警告されていた事だった。(1サムエル記2:31-36)
『イスラエルの神、主は仰せられる、『わたしはかつて、「あなたの家とあなたの父の家とは、永久にわたしの前に歩むであろう」と言った』。しかし今、主は仰せられる、『決してそうはしない。わたしを尊ぶ者を、わたしは尊び、わたしを卑しめる者は、軽んぜられるであろう。見よ、日が来るであろう。その日、わたしはあなたの力と、あなたの父の家の力を断ち、あなたの家に年老いた者をなくするであろう。』(1サムエル記2:30-31)
エリとその息子達は、この警告を受たが、軽んじ、行状を改めなかった。
『しかしあなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。またあなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬであろう。あなたのふたりの子ホフニとピネハスの身に起ることが、あなたのためにそのしるしとなるであろう。すなわちそのふたりは共に同じ日に死ぬであろう。』(1サムエル記2:33-34)
エリも、彼の息子ホフニとピネハスも、この警告の通り、同じ日に死んだ。
そしてこの度、その一族郎党の祭司たち八十五人も、女子供も、乳飲み子までも、剣によって絶やされてしまった。
こうして、「あなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬ」という預言は、成就した。
ここで、アヒメレクの子・アビアタルだけが逃れて来たのだが、結局彼も、ソロモン王の時代、ダビデに敵する側についたゆえに、祭司職から罷免され、彼の代わりに、ツァドクの家(ピネハスの子孫)が大祭司の家系となっていく。(1列王記2:35)
こうして「あなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。」「そのとき、あなたは災のうちにあって、イスラエルに与えられるもろもろの繁栄を、ねたみ見るであろう。」という預言も、エリの家に成就する事となった。
『あなたはわたしの所にとどまってください。恐れることはありません。あなたの命を求める者は、わたしの命をも求めているのです。わたしの所におられるならば、あなたは安全でしょう」。』(1サムエル記22:23)
このようにしてサウルは、主に伺う事のできる祭司を自ら抹殺し、彼自身、みずから主に伺う事を断絶してしまった。
しかしお陰で、ダビデは、祭司を得る事になった。
滅ぼし尽くすべきアマレクは滅ぼす事を惜しみ、代わりに、神と自分との間に立って執り成してくれる祭司を滅ぼし尽くしたサウル。
サウルのように、罪の性質を滅ぼす事を惜しみ、健全な御言葉を踏みにじり続けるなら、その内、手をかけてはならない恩人をあやめるようになり、ついには、まことの大祭司であるイエスキリストを殺してしまうようになってしまうのだ。
憎しみを思い巡らす人は主の祭司も平気で殺す(1サムエル記22:6-16)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
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- pastor 2015-5-11 21:52
礼拝説教メッセージ音声:憎しみを思い巡らす人は主の祭司も平気で殺す(1サムエル記22:6-16):右クリックで保存
『サウルは、ダビデおよび彼と共にいる人々が見つかったということを聞いた。サウルはギベアで、やりを手にもって、丘のぎょりゅうの木の下にすわっており、家来たちはみなそのまわりに立っていた。』(1サムエル記22:6)
サウルは、息子・ヨナタンに槍を投げつけて以来の登場であるが、彼の人格の崩れ度合いは、さらに進んでいる。
戦時でもないのに、いつも彼が槍を手にしているのは、人々を威圧するためか、あるいは最悪、気に食わない者に槍を投げつけるためなのかもしれない。
『サウルはまわりに立っている家来たちに言った、「あなたがたベニヤミンびとは聞きなさい。エッサイの子もまた、あなたがたおのおのに畑やぶどう畑を与え、おのおのを千人の長、百人の長にするであろうか。』(1サムエル記22:7)
サウルは、イスラエル全体の王のはずだ。なのに、彼の周りにはベニヤミン人しかいない。
もしかすると、凶暴化して来た彼から人々が逃げ、もはや身内のベニヤミン人しかいなくなってしまったのかもしれないし、あるいは、サウルの猜疑心が強くなりすぎて、自分の身内しか信用できなくなってしまったからかもしれない。
サウルは、「エッサイの子」すなわちダビデは、はたして、あなたがたにぶどう畑や昇進などの褒美を取らせるだろうか、と言っている。
しかし本来、神の民は、畑を人から褒美として与えられるべきものではないし、また本来、千人隊や百人隊の長や兵士などを、人間の制度によって徴用されるべきものではない。
王である主が、相続地を人に与えておられ、そして主が、それぞれの人に賜物を与え、それぞれおの志に働きかけるのだ。
だから、神の国の人は、主から与えられた賜物を自由に生かし、ある人は隊長になり、ある人は畑を豊かにさせる者となったりするのだ。
サムエルはかつて、人々が王を求めた時、あらかじめ宣言していた。
『あなたがたを治める王のならわしは次のとおりである。彼はあなたがたのむすこを取って、戦車隊に入れ、騎兵とし、自分の戦車の前に走らせるであろう。彼はまたそれを千人の長、五十人の長に任じ・・・また、あなたがたの畑とぶどう畑とオリブ畑の最も良い物を取って、その家来に与え・・・あなたがたは、その奴隷となるであろう。そしてその日あなたがたは自分のために選んだ王のゆえに呼ばわるであろう。しかし主はその日にあなたがたに答えられないであろう」。』(1サムエル記8:11-18)
イスラエルは、サウルを王に任じた事を、既に後悔していたであろう。
『あなたがたは皆共にはかってわたしに敵した。わたしの子がエッサイの子と契約を結んでも、それをわたしに告げるものはなく、またあなたがたのうち、ひとりもわたしのために憂えず、きょうのように、わたしの子がわたしのしもべをそそのかしてわたしに逆らわせ、道で彼がわたしを待ち伏せするようになっても、わたしに告げる者はない」。』(1サムエル記22:8)
サウルは、ものすごい被害妄想に憑かれている。
誰も教えてくれない、誰も心配してくれない、みんなが共に計って自分に敵対している、と思っているのだ。
サウルは「あなたがたは逆らっている」と言ったが、真に逆らっているのは、一体誰だろう。
サウルは、はるか前、サムエルを通して、主から言われていた。
『あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』(1サムエル記15:23)
サウルは既に王位から退けられており、彼に代わって、主はダビデに王としての油が注がれた。
サウルにはその事が知らされていなかったのかもしれないが、少なくともヨナタンは、ダビデがこれから王として栄え、サウルの家は衰えていく事が分かっていた。
それなのにサウルは、相変わらず王位にしがみつき、ダビデを殺そうと付け狙っている。
神の民の「王」というものは、人間の王が唯一絶対の権力者ではなく、その上に王の王、主の主であられる神がおられるものだ。
だからもし、人がおとなしくその「王座」から降りて、神に明け渡さないでいるなら、やがて、強制的に降ろされてしまう事になる。
ベニヤミン人の部下たちは、サウルに何も言えないでいたが、ただ一人一人、サウルに応えた者があった。
『その時エドムびとドエグは、サウルの家来たちのそばに立っていたが、答えて言った、「わたしはエッサイの子がノブにいるアヒトブの子アヒメレクの所にきたのを見ました。アヒメレクは彼のために主に問い、また彼に食物を与え、ペリシテびとゴリアテのつるぎを与えました」。そこで王は人をつかわして、アヒトブの子祭司アヒメレクとその父の家のすべての者、すなわちノブの祭司たちを召したので、みな王の所にきた。』(1サムエル記22:9-11)
先にも見た通り、ドエグはエドム人、一杯の食物で尊いものを売り渡したエサウの子孫であるが、彼も、地位や名誉欲しさに、神の祭司を告げ口する。
『サウルは彼に言った、「どうしてあなたはエッサイの子と共にはかってわたしに敵し、彼にパンとつるぎを与え、彼のために神に問い、きょうのように彼をわたしに逆らって立たせ、道で待ち伏せさせるのか」。』(1サムエル記22:13)
アヒメレクとしては、唐突にこんな事を言われて、暫く、わけが分からなかっただろう。
サウルのような、いつも被害妄想で怯え、良くない思いを脳内で巡らしているような者は、唐突に意味不明な事で人を責め立て、凍りつかせるものだが、それが王で、絶対的権力を持っているなら、その王の下にいる人々は悲惨である。
サタンは歴史上、幾度もこのような手段を用いて、多くの国を悲惨に陥れて来た。
そもそも、神の国の王たるものは、祭司に何か物申す事はできないはずで、王のほうが、祭司の示して来る御言葉に服従しなくてはならない。(申命記17:14-20、2歴代誌26:16-23)
それなのに、サウルの中では、完全にサウルが上で、主と主の言葉と主の祭司は、その下になっている。
サウルはなぜ、王から退けられたか。それは、彼が御言葉を退けたからだった。
『アヒメレクは王に答えて言った、「あなたの家来のうち、ダビデのように忠義な者がほかにありますか。彼は王の娘婿であり、近衛兵の長であって、あなたの家で尊ばれる人ではありませんか。彼のために神に問うたのは、きょう初めてでしょうか。いいえ、決してそうではありません。王よ、どうぞ、しもべと父の全家に罪を負わせないでください。しもべは、これについては、事の大小を問わず、何をも知らなかったのです」。』(1サムエル記22:14-15)
祭司は極めてもっともな事を言っているし、また事実である。
『王は言った、「アヒメレクよ、あなたは必ず殺されなければならない。あなたの父の全家も同じである」。』(1サムエル記22:16)
サウルは既に、脳内で、祭司アヒメレクは死ぬべき反逆者として、憎しみを混ぜつつ思い巡らしてしまった後なので、アヒメレクが事実を言ったかどうか、そして彼が主の祭司であるかどうかは一切関係なく、彼を殺せ、と命じてしまう。
もはやサウルは、主を恐れる心も、祭司を敬う心も無くなってしまった。
こうしてサウルは、主に伺う事のできる祭司を自ら抹殺し、彼自身、主に伺う事を断絶してしまったが、この事がきっかけで、ダビデは主に伺う事ができる祭司を得る事になる。
サウルは「王座」をしがみついて、離さない故に、「王座」に支配され、「王座」に振り回され、やがては「王座」によって滅ぼされてしまう。
「王座」は、人間が座るものではなく、唯一、主が座すべき所であり、人がそこに座そうとするなら、必ず滅びが待っている。
『あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。』(詩篇32:9-11)
私達の王は、誰だろうか。
それは唯一、王の王、主の主であるイエス様であるべきだ。