メッセージ - 201505のエントリ

母の日礼拝: 王達に油を注いだサムエルの母・ハンナ(1サムエル記1:1-18)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

本日は母の日である。今回、サムエルの母・ハンナを中心として、どのような人々がイスラエルの歴史を紡いで来たかを見て行きたい。「サムエル記」では、サムエルの活躍が記されているのは最初の8章のみで、あとはサウル王やダビデ王が主役として活躍しているため影が薄いが、サムエルこそ、サウルに油を注いでイスラエルの初代王とし、あの偉大なダビデ王にも任職の油を注いで王としたのだ。
彼は士師の最後であり、イスラエル全体を導く預言者としての最初であり、そして、王たちを任職するキングメーカーとして、とても重要な役割りを担った。その彼を生んだのが、ハンナである。
サムエルの誕生は、ハンナの言葉にならない、人に聞かれない密かな祈りに、由来する。
彼女のような、弱い立場の女性達の祈りによって、イスラエルの歴史を動かす重要な家系や人物が生み出される記事は、聖書に多い。イスラエル民族の母サラも、ルツも、バプテスマのヨハネの母エリサベツも、イエスの母マリヤも、皆立場が弱く、あるいは子が生まれる望みの無い女性だったが、彼女たちの祈りと信仰により神の大いなる力が働き、その子たちが、イスラエルの歴史を大きく動かした。(イザヤ54:1-5)
聖書に偉大な人物は多いが、その全ての背後に、母の祈りとうめきと、信仰による子育てがあったのだ。

『エフライムの山地のラマタイム・ゾピムに、エルカナという名の人があった。・・・エルカナには、ふたりの妻があって、ひとりの名はハンナといい、ひとりの名はペニンナといった。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。』(1サムエル記1:1-2) 時代は士師記の荒んだ時代であるが、そんな時世でもこの一家は、主への礼拝を欠かさない健全な信仰の一家だった。
しかしこの年ごとの礼拝は、ハンナにとっては心痛い日だった。ペニンナには息子・娘達がいたので、彼女自身の分、さらに息子娘達の人数分の犠牲も与えられたが、ハンナには子がなく、ひとり分しか与えられなかった。そして”主がハンナの胎を閉じていた”点をついて、ペニンナはハンナをいじめていたからだ。
礼拝や奉仕、捧げ物について誰かを悩ませる事、ことに「主が与えてくださらない」点を突いて兄弟姉妹を悩ませるのは、悪い事だ。礼拝の場やクリスチャンの集いという場において、そういった類の悩みやいじめを受ける事があるが、それを人にではなく主に持っていくなら、主が顧みて下さり、幸いを得させてくださる。
ハンナはペニンナに何かで仕返しをする事も、言い返したりする事もなく、夫にぶちまける事もせず、ただ自分の中で押さえ、一人泣き、食事も取らずにいた。そして彼女はついに、この事を主に持っていく。
『万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生の間主にささげ、かみそりをその頭にあてません」。』(11節)
彼女は悩みと憂いに満ちていたため、眉間に皺が寄り、目を赤く腫らし、苦しみに震えつつ、唇だけが動いていたのだろう、祭司はそんな彼女を「酔っ払っている」と勘違いしたが、主は何もかもご存知だった。
彼女が人知れず、声に出さずに誓った内容も、そしてそれを果たす気でいる事も、主はご存知だった。

彼女は今まで幾度も男の子が与えられるよう祈って来たであろうが、この祈りは、特別だった。
子が与えられるなら、その子を主に捧げます、という誓願をしたのだ。
悩み苦しむ時こそ、自分を手放して主に全てを捧げる時であり、それをするならサムエルを生み出すのだ。
ハンナは祭司からの「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」という言葉を、信じ受け止めた瞬間から、表情も行動も変わった。状況は変わっていないのに、あたかも目の前の問題が解消されたかのような平安に満たされる。私達キリスト者もそのような瞬間を経験する。
聖書に記されている内容を信じ、その内容どおり実行するなら、記されている良き事が現実に起こるのだ。
こうして、時の指導者・サムエルは、一人の不妊の女の、言葉にならない人知れぬ祈り、しかも、祭司さえ「酔っぱらい」と勘違いするような、呻きの祈りによって、生み出される事になる。

ハンナのように、主しか頼りどころがなく、主にのみ必死にすがる人の祈りを、主はよく聞かれる。
私達も心から主を信じて頼り、主に捧げる心をもって祈るなら、時の指導者を生み出す事さえ可能なのだ。
全てを主に委ね、主に捧げ、主に信頼して祈り、サムエルを生み出し、そして愛と御言葉の教育によって、彼らを健全に育てて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
地上には安息の地はなく(申命記34:1-5):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存

マタイによる福音書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
礼拝の場で売り買いする者の座をひっくり返される主(マタイ21:12-17):右クリックで保存

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
くちびるに炭火を当てられて(イザヤ6章):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書6章を中心に、預言者イザヤの霊的体験と唇の清めについて語られた説教。

【聖書箇所】

イザヤ書6章

【励ましの言葉】

神様の前に出て、自分の罪深さを知り、唇を清めていただくことで、主に用いられる者となれる。

【戒めの言葉】

私たちの唇は火であり、不義の世界である。言葉で多くのことを失敗するので、唇を制御することが大切。

【悔い改めの促しの言葉】

イザヤのように、自分こそが贖われる必要があると気づき、唇を清めていただく必要がある。

【***詳細***】

今日の聖書箇所は、イザヤ書6章です。この章では、預言者イザヤが神の御前で霊的な体験をし、自身の罪深さを悟り、唇が清められる出来事が描かれています。

イザヤは、それまでイスラエルに対する災いの予言をしてきましたが、この6章の経験を通して、自分こそが災いを受けるにふさわしいものであったと悟ります。「ああ、私はもうだめだ。私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」(イザヤ6:5)

この体験は、主を見ること、主の聖なる有様を見てしまうこと、その圧倒的聖に触れるときに起こります。人は本当に絶望しかなくなってしまいます。イザヤは、自分が唇の汚れた者であることを認識し、神の前に立つことができないと感じたのです。

私たちの唇、言葉の力についても語られました。**「私たちは言葉で非常に多くのことを失敗するものですけれども、この唇を立派に制御できる人は、完全なものだ」**とヤコブの手紙にあるように、唇を制御することの重要性が強調されました。

また、唇は火であり不義の世界であるとも言われています。一言で人の人生を台無しにしたり、他人の人生を傷つけたりすることがあります。言葉の力の大きさを認識し、慎重に使う必要があります。

預言者イザヤの経験から、私たちも自分の罪深さを認識し、神の前に出て清めを求める必要があることが語られました。イザヤの唇が清められたように、私たちも清められる必要があります。

「すると、私のもとにセラフィムの一人が飛んできたが、その手には祭壇の上から火ばさみでとった燃え盛る炭があった。彼は私の口に触れて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』」(イザヤ6:6-7)

この箇所は、イエス・キリストの贖いの予型として解釈されました。祭壇の炭火は、私たちの罪の身代わりとなったイエス・キリストを表しています。イエス様は十字架上で私たちの罪を負い、私たちの身代わりとなって処罰を受けてくださいました。

そのため、イエス様を信じる人々は、肉体的な処罰を受けることなく、罪が取り除かれ、清められるのです。これは、連帯保証人の例えで説明されました。イエス様は私たちの罪の連帯保証人となり、私たちが返済できない罪の借金を支払ってくださったのです。

この恵みを知ることで、私たちはイエス様への感謝と、主に用いられたいという思いを持つようになります。イザヤのように、自分の罪深さを認識し、主に清めを求めることが大切です。

そして、清められた唇で主を賛美し、主の言葉を宣べ伝える者となることができるのです。説教者は聴衆に向けて、イザヤのように主の御前に出て、唇を清めていただくように促しました。

【結論】

私たちは皆、イザヤのように神の聖さの前に立ち、自分の罪深さを認識する必要があります。そして、イエス・キリストの贖いによって清められ、主に用いられる者となることができます。日々、自分の言葉に気をつけ、主を賛美し、人々を励ます言葉を語る者となりましょう。

こどもの日祈祷会

カテゴリ : 
その他音声
執筆 : 
pastor 2015-5-9 16:32

こどもの日祈祷会:右クリックで保存
迫害下にある兄弟姉妹のための祈祷集会:右クリックで保存

つくばエクレシア賛美集会:右クリックで保存

早天祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
決して裂ける事の無い復活の主の網(ヨハネ21:11-14):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:養うべき人を養う内に、実は養われていたダビデ(1サムエル記22:1-5):右クリックで保存

ダビデは、自分のいのちを守るために、逃げ隠れしたり、本心でない行動を取ったりして、本当にみじめな思いが続いただろう。
そして彼自身、真実から外れた言動を続ける事に、良心の咎めを感じ、このままでは良くないと思っていた事だろう。
そんな彼に、主は、助けを送られる。

『こうしてダビデはその所を去り、アドラムのほら穴へのがれた。彼の兄弟たちと父の家の者は皆、これを聞き、その所に下って彼のもとにきた。』(1サムエル記22:1)
一人逃避行中のダビデの元に、彼の家族や血縁者が集まって来た。
なぜ集まって来たのかは、大体想像できる。
ダビデは、何も悪い事はしていないとは言え、一国の王・サウルから執拗につけ狙われており、しかも、サウルは最近、見境の無い暴君のようになってしまったから、ダビデの家族も、何をされるか分からなくなってきた。
それで彼らもダビデと一緒に逃げるようになったのだろう。

どんな理由であれ、ひとり心萎えていたダビデは、家族が来たことで、慰めを得ただろう。
そしてダビデの元に来たのは、血縁の人達だけでなかった。

『また、しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々も皆、彼のもとに集まってきて、彼はその長となった。おおよそ四百人の人々が彼と共にあった。』(1サムエル記22:2)
ダビデは別に、軍団の長になりたくて人を募ったわけでなく、人々のほうから来たのだが、その400人の内訳は、「しえたげられている人々、負債のある人々、心に不満のある人々(原意:苦い魂を持つ人)」だった。
ダビデはキリストのご性質を、実によくあらわしている。
キリストを慕い求めて来た人達も、当時の世において虐げられている人々、負債がある人々、苦い魂を持った人達だった。

それにしても、400人という大所帯である。
彼らが一日行動するにしても、かなりの食料や物資を調達しなくてはならないし、しかも彼らは、王に追い回されている身だ。
ダビデはそれまで、自分自身の悩みで手一杯だった所に、彼に助けを求めて来た人々が集まってきた。

”わたし”が助けられたい身なのに、なぜか、”わたし”に助けを求めて人が集まって来る。
実はそれが、主が”わたし”を助ける方法だったのだ。
人は、守らなくてはならない人、養わなくてはならない人を持つようになると、強く、健全になるものだ。
ダビデはそれまで、自分のいのちを救うために、本意ではないにしても、真実でない行動をして来た。
しかし400人の長となった今、彼らの前で偽りの行動はする訳にはいかなくなり、真理に立つようになっていった。
それは、彼の後の言動から知れる。

『ダビデはそこからモアブのミヅパへ行き、モアブの王に言った、「神がわたしのためにどんなことをされるかわかるまで、どうぞわたしの父母をあなたの所におらせてください」。』(1サムエル記22:3)
モアブは、ダビデのひいおばあさん・ルツの故郷である。
ダビデは、彼のひいおじいさん・ボアズが、ルツと結婚する前に言った言葉、「あなたがその翼の下に身を寄せて来た主が、豊かに報いて下さいますように」という言葉を思い起こしただろう。

しかし、モアブもペリシテのように、異教の神を拝する異邦の国であったが、ダビデはもはや、媚びる事も逃げ隠れもせず、堂々と「神が」自分をどのように導かれるか分かるまで、いさせて下さい、と頼んだ。
ダビデは、まことの神に導かれる者として、堂々と振る舞うようになった。ペリシテの時と比べて、ダビデはなんと変わっただろう。

『そして彼はモアブの王に彼らを託したので、彼らはダビデが要害におる間、王の所におった。』(1サムエル記22:4)
モアブの王は、申し出を受け入れた。
主は、正当に信仰告白をする人を守り、あらゆる便宜を図ってくださるのだ。

こうしてダビデは、しばしモアブに留まる事になった。
ひいおばあさん・ルツのゆかりの地で、いのちの安全が確保され、400人の長として、ある程度の平和の生活を送る事が出来るようになった。
もはやサウルの事は忘れて、モアブで新しい人生を再出発できるかも、という気分だったかもしれないが、それは主の御心ではない。

『預言者ガドはダビデに言った、「要害にとどまっていないで、去ってユダの地へ行きなさい」。そこでダビデは去って、ハレテの森へ行った。』(1サムエル記22:5)
預言者を通して神に示されたダビデは、すぐに預言者の言葉に従順し、危険ではあるけれども神の御心の地・イスラエルの地に帰った。
ダビデは主から、特別な任職の油を注がれた。だから彼は、一生を安穏として生きるべきではないのだ。
私達キリスト者にも、主から聖霊の油を注がれたからには、単に安穏とした一生を生きるものではなく、神の国の働き人として働かなくてはならない。それは安穏の逆、ダビデのように冒険の日々である。

ダビデは、任された400人のいのちを養う内に、清められ、整えられ、そしてイスラエルの王としての特別な養いを、この苦難の期間に受けた。
女王蜂を育てるためには、ローヤルゼリーという特別な蜜で育てられるように、ダビデを王として育てるために、この苦難の期間が、主からのローヤルゼリーだったのだ。
主は私達キリスト者にも、王族の祭司となるために、特別な御言葉のローヤルゼリーで養って下さる。

主はそれぞれに、どんなご計画を持っておられるか、人には分からない。
しかし、主が私達にご計画しておられるか、分かるまでは、私達は主に任されている事を忠実に行ない、また、任されているいのち達を忠実に養うべきなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:最もみっともない場面でも賛美したダビデ(1サムエル記21:11-15):右クリックで保存

サウルを避けてペリシテのガテに逃れたダビデは、ペリシテ人に捕らえられ、ペリシテの王アキシュの所に連れて行かれた。

『アキシの家来たちはアキシに言った、「これはあの国の”王”ダビデではありませんか。人々が踊りながら、互に歌いかわして、/『サウルは千を撃ち殺し、/ダビデは万を撃ち殺した』/と言ったのは、この人のことではありませんか」。』(1サムエル記21:11)
イスラエルの女達が歌った『サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した』の歌は、異邦の地にも鳴り響いており、しかもイスラエルの王はサウルであるのに、ダビデも「王」として認知されていた。
ダビデのほうが異邦の国でも認められているのだ。
しかし今は、その事を喜べる状況ではなく、その事がまずい状況である。

『ダビデは、これらの言葉を心におき、ガテの王アキシを、ひじょうに恐れたので、人々の前で、わざと挙動を変え、捕えられて気が変になったふりをし、門のとびらを打ちたたき、よだれを流して、ひげに伝わらせた。』(1サムエル記21:12)
それまで全くもってペリシテ人を恐れなかったダビデだったが、この時、彼はペリシテ人を恐れるあまり、命を救うために、気が変になったふりをした。
そんな事をしなくても、主はきっと彼を守ったでろう。しかし彼は、恐れたのだ。

彼にはあまりに色々な事が起こり過ぎた。
ダビデは何も悪くないどころか、サウルやイスラエルのため最も貢献した筈なのに、そのサウルから逃げざるを得ないために、ペリシテの地に逃れて、そこで捕らえられてしまったのだ。
もっと、怒ったり悲しんだり、自暴自棄になっても不思議でないが、彼はこの時の経験を通して、主との関係が親密に深まり、信仰が鍛えあげられた。
彼はこの時の出来事を、詩篇に記している。

『ダビデがアビメレク(アビメレクはペリシテの王の称号)の前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌
私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。』(詩篇34:1-2)
彼は、気の触れた者を装って危機を逃れるような、恥かしさの極みのような時さえも、まさに「あらゆる時に」主をほめたたえている。
彼の口には、いつも賛美があった。だからこそ主は、彼を守ったのだ。
主は聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられるからだ。

私達も人生の危機の場面において、命を救うために、恥も外聞もかなぐり捨てるような事があるかもしれない。
ダビデも、そこを通って来たのだ。
そして彼は、そんな時ですら、主を誉めたたえたのだ。
だからこそ、主は彼を引き上げたのである。

『私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。』(詩篇34:4-7)
ダビデは、知っていた。
彼が気が触れた者を装って、ひげによだれを流し、壁を打ち叩いていたまさにその時さえも、主は、彼の周りに御使を遣わして陣を張り、彼を守って助けだされた事を。
私達も、罪の故に、あるいは弱さの故、望まない行動をしてしまう時があっても、いつも主に助けを求める心を持っているなら、まさにその時、主は御使を遣わして陣を張り、罪や悪から、誘惑から、そして災いや死から守ってくださるのだ。

『主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。』(詩篇34:8-10)
皆さんも、実感がないだろうか。
今までの人生の、あの時この時、仕事や生活やもろもろの活動の中において、主に訪ね求めて来た自分には、何一つ欠けるものがなく、必要がいつも満たされていた、という事に。
主に信頼して歩む人は、その経験を多くしているはずである。
なぜなら主は生きておられ、御言葉は真実だからだ。

『来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。主を恐れることを教えよう。』(詩篇34:11)
ダビデは、弱さの極みを経験し、恥ずかしさの極みも通った。
しかしその都度、主に感謝し、主を誉めたたえたからこそ、王として高められたのだ。
私達も、いかに人生のどん底に落ちたとしても、共におられる主に信頼して歩むなら、主の素晴らしさを味わう事が出来、私達もダビデのように主の証を大胆にできるようになり、人生の低い所に落とされている人を慰め助ける事ができるようになるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:恐れませんと告白しつつも恐れてしまう時(1サムエル記21:7-10):右クリックで保存

サウル王に命を狙われ、着の身着のまま逃げてきたダビデが行った先は、ダビデ自身が最も頼りにしていた、イスラエルの神・主の、その宮だった。
彼はそこで、具体的な助けをいただいた。
『ダビデはまたアヒメレクに言った、「ここに、あなたの手もとに、やりかつるぎがありませんか。王の事が急を要したので、わたしはつるぎも武器も持ってこなかったのです」。祭司は言った、「あなたがエラの谷で殺したペリシテびとゴリアテのつるぎが、布に包んでエポデのうしろにあります。もしあなたがこれを取ろうとおもわれるなら、お取りください。ここにはそのほかにはありません」。ダビデは言った、「それにまさるものはありません。それをわたしにください」。』(1サムエル記21:8-9)

彼は主の宮で、食料のみならう武器も入手する事ができたが、その主の宮にはある男がいて、彼らのやり取りを見ていた。
『その日、その所に、サウルのしもべのひとりが、主の前に留め置かれていた。その名はドエグといい、エドムびとであって、サウルの牧者の長であった。』(1サムエル記21:7)

このドエグという者はエドム人、すなわち、一杯の食物と引き換えに尊いものを売った、あの、エサウの子孫である。
彼がそこにいたのは、主を慕うゆえではなく、何かの訳があって、主の宮に留め置かされていたのだ。
彼には、主を敬う心は全く無い。
その証拠に、彼は後に、ダビデとアヒメレクのこのやり取りをサウルに告げ、そしてサウルに命じられて主の祭司たちを彼は虐殺する。
主の宮に留められてはいても、その心は主に無く、主の祭司を敬う事も無く、兄弟姉妹を糾弾する材料を見つけたなら平気で告発し、売り飛ばし、殺める事に躊躇しない者は、昔も今もいるのだ。

『ダビデはその日サウルを恐れて、立ってガテの王アキシのところへ逃げて行った。』(1サムエル記21:10)
ダビデは、このドエグを気にしていたので、すぐにそこから離れて行ったが、ダビデが逃げて行った先は、ペリシテ人のガテ、ダビデが殺したゴリヤテの故郷であった。
彼は、国家指名手配犯のよう立場だったため(彼自身は何も悪い事してはいないが)、イスラエルの国外へ逃亡したのだ。

実に皮肉な運命である。
ダビデはそれまで、主にあって戦っていたので、どんな屈強なペリシテ人も、恐れていなかった。
自分の倍以上もあるゴリヤテにも、主にあって平気で向かっていったし、サウルからペリシテ人の陽の皮100枚を求められたところ、200枚も揃えた
そのダビデが、なぜこんなにもみじめに、ペリシテ人の国へと逃げ惑わなくてはならなかったのだろう。
それは、彼をつけねらっているサウルが、曲がりなりにも、主に油注がれた王だからだ。
ダビデは、主が油を注がれた王であるサウルに、手をかけるわけには行かなかった。それは、ダビデが主を愛する故であり、その主が油注がれた王を敬う故である。
だから彼は、サウルからは逃げるしか無いのだ。

ダビデはペリシテのガテで、ペリシテ人たちに捕えられてしまったようである。
詩篇56編の表題には、次のように書かれてある。
『聖歌隊の指揮者によって、「遠き所におる音をたてぬはと」のしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデがガテでペリシテびとに捕えられたときによんだもの』

ダビデは、敵地で一人、捕らえられてしまったが、彼は、彼ととともにおられた神に呼びかけた。
『神よ、どうかわたしをあわれんでください。人々がわたしを踏みつけ、あだする人々がひねもすわたしをしえたげます。わたしの敵はひねもすわたしを踏みつけ、誇りたかぶって、わたしと戦う者が多いのです。』(詩篇56:1)
まさに四方八方敵だらけの状態だが、主にその事を訴えている。

『あなたはわたしのさすらいを数えられました。わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。これは皆あなたの書に/しるされているではありませんか。』(詩篇56:8)
ダビデが「わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください」と言ったように、私達も、「主のゆえに」「神の国のゆえに」流して来た全ての涙は、主の皮袋に、たくわえられているのだ。
迫害の故に、聖徒の故に、また、自分の罪や弱さを嘆き、御胸に従えない事を悲しんで流した涙も、含めて。

『わたしが呼び求める日に、わたしの敵は退きます。これによって神がわたしを守られることを知ります。わたしは神によってそのみ言葉をほめたたえ、主によってそのみ言葉をほめたたえます。わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。人はわたしに何をなし得ましょうか。』(詩篇56:9-11)
ダビデは「恐れません」と、主に申し上げ、自分にも言い聞かせている。
しかしこの直後、ダビデは、恐れゆえに、きちがいのふりをしてその場を乗り切る行動に出てしまう。
恐れに憑かれて、弱くなってしまったのだ。

主にあって自らを御言葉でふるい立たせ、「恐れません」と告白しても、実際には恐れてしまい、恐れ故の行動をしてしまう、というのは、私達にもある事であり、ダビデでさえ、そこを通って来たのだ。
しかしダビデは、その事を神と人とに打ち明け、その時の心境と祈りをこうして詩篇に56編にしたため、彼が編成した聖歌隊にその内容を賛美させたのだ。
彼は、主の素晴らしさを伝え主の栄光を誉め讃えるために、自分の恥さえ、喜んでさらし、主を賛美する道具としてくれた故に、この詩篇と同じ困難と苦しみにある多くの聖徒達を励まし続けて来たのだ。

『神よ、わたしがあなたに立てた誓いは/果さなければなりません。わたしは感謝の供え物をあなたにささげます。あなたはわたしの魂を死から救い、わたしの足を守って倒れることなく、いのちの光のうちで神の前に/わたしを歩ませられたからです。』(詩篇56:12-13)
彼は最後を、感謝でくくっている。
私達もダビデのように、ゆえなく、苦しい所や恥ずかしい所を通らされる場面は、人生において確かにある。
しかし私達も主を信頼し、御言葉を握り締めて歩むなら、主がダビデを引き上げてくださったように、私達も引き上げてくださるのだ。

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