メッセージ - 201505のエントリ
礼拝説教メッセージ音声:聖なるパンにあずかれる特権者とは(1サムエル記21:1-6):右クリックで保存
ダビデはヨナタンと別れて以来、サウル王という国家権力から追われる「逃亡生活」が本格的に始まり、それ以降、サウルが死ぬ時までそれは続く。
彼は着の身着のまま逃げたが、そこで真っ先に行った先は、祭司アヒメレクが仕えている「主の宮」であった。
人は、いざとなった時、真っ先に助けを求めに行く先をどこにするかによって、普段からどこに拠り所を置いているかを知れるが、ダビデの場合、それは主だった。
『ダビデはノブに行き、祭司アヒメレクのところへ行った。アヒメレクはおののきながらダビデを迎えて言った、「どうしてあなたはひとりですか。だれも供がいないのですか」。』(1サムエル記21:1)
アヒメレクは、彼が一人で来た状況に、ただならぬものを感じたのだろう、それで、おののきながらダビデに尋ねた。
『ダビデは祭司アヒメレクに言った、「王がわたしに一つの事を命じて、『わたしがおまえをつかわしてさせる事、またわたしが命じたことについては、何をも人に知らせてはならない』と言われました。そこでわたしは、ある場所に若者たちを待たせてあります。ところで今あなたの手もとにパン五個でもあれば、それをわたしにください。なければなんでも、あるものをください」。』(1サムエル記21:2-3)
ダビデは、祭司に心配をさせまいとしたのだろう、真実を伏せた。
彼は、着の身着のまま逃げてきたため、とてもひもじかったので、パンを求めたのだが、あいにく「普通の」パンは無かった。
『祭司はダビデに答えて言った、「常のパンはわたしの手もとにありません。ただその若者たちが女を慎んでさえいたのでしたら、聖別したパンがあります」。・・・そこで祭司は彼に聖別したパンを与えた。その所に、供えのパンのほかにパンがなく、このパンは、これを取り下げる日に、あたたかいパンと置きかえるため、主の前から取り下げたものである。』(1サムエル記21:4-6)
この、主の宮に置かれている聖別したパンとは、安息日ごとに主の宮に捧げられるパンであり、アロンとその子以外は食べてはならないはずのもので、女を慎む慎まないは関係ないはずだ。(レビ記24:5-9)
はたして、いいのだろうか。
その事については、イエス様が弁護しておられる。
イエス様の弟子達が麦畑を通った時、ひもじかったので、麦の穂を摘んで食べ始めたところ、それを見たパリサイ人達はイエス様に言った。
「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」(マタイ12:2)
パリサイ人が責めたのは、弟子達が人様の畑のものを勝手に食べたからではない。麦の穂を「摘んで」「脱穀する」という行為は「労働」にあたるものであり、それが安息日にしてはならな事だから、という、少々ややこしい理由からである。
それに対しイエス様は、ダビデがした事を引用して言われる。
『「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。』(マタイ12:3-4)
ダビデは祭司の元に行った時は一人だったが、その後誰かダビデと一緒に行動する人が現れ、おそらく彼にもそのパンを分け与えたのだろう。
イエス様は言われた。
『「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。』(マタイ12:7)
イエス様は他の場面でも、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。
それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」と言われた。(マルコ2:27-28)
安息日の主であるイエス様は、いのちを奪う主ではなく、いのちの君であり、憐れみの主である。
さらにこう言われている。
『また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。・・・人の子は安息日の主である」。』(マタイ12:5-8)
祭司たちは「神の国の公用」を果たす者で、安息日でも宮の中で務めをして働かなくてはならない。
このように、祭司には安息日にも働く事が許されているのだから、ましてや、安息日の主であり、宮よりも偉大なる主であるイエス様の弟子達が、「神の国の公用」を働く事を、どうして何者かが差し止めたりできるだろう。
『聖書は、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」また「働き人がその報酬を受けるのは当然である」と言っている。』(1テモテ5:18)
だから、神の国のために働く弟子達も、そして、キリストに仕える私達も、聖なる食卓から存分に食べてもいい、ばかりでなく、主から様々の特権が与えられている。
私達もキリストにあって、王であり、祭司である故、全て神の国のために働くための必要は備えられ、神の宮からの食料をいただき、食べることを阻む全ての「くつこ」は除かれるべきなのだ。
ダビデは真っ先に主を慕い求め、その宮に助けを求めに行った。
だから主は、ダビデを擁護し、聖なるパンを備え、また、神の戦いを戦っているダビデに組したダビデの「連れの者」にも、そのパンに与ることを、主は許された。
主は、ダビデのように、主を慕い求める全ての魂たちにに、全ての必要を備えてくださり、聖なるパンに与る特権も与えて下さる。
ダビデのように、あらゆる必要が満たされ、心から歓びをもって主に仕える皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
人をとる漁師とは(ヨハネ21:1-14)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
主が復活された日、主は弟子達に「あなたがたに平和があるように(シャローム)」と言われ、ほふられたその手とわき腹とを示された。その時いなかったトマスにも現れ、刺し貫かれた手と脇腹、赤く裂け骨まで見えているその傷跡を示され、「あなたの指を、ここに差し入れてみなさい」と御声をかけられた。
復活の主は、私達が見たり触ったりできる訳ではないが、いつも共におられ、私達の事を、いつも見て、聞いて、知っておられ、そして、私達が生活を送るあらゆる場面において、そのご性質を現される。
主がその後、弟子達にご自身を現されたのは、テベリヤの湖畔で、弟子達が漁に行った時だった。
この時、彼らは単に食べ物がなくなったから漁に出たのか、それとも、イエス様があまりにも現れないので、以前の世の仕事である「漁」に戻ったのかは分からない。ともかく彼らは、夜通し働いて、何もとれなかった。
魚を水の中から引き上げる「漁」は、福音宣教に似ている。死という水の中でうごめいている人のいのちを、御言葉の網によって捕らえ、死の中から引き上げる。イエス様を伝える事は、まさに「人間をとる漁」である。
しかし、いかに神の子達が首を揃えて集っても、イエス様抜きで、闇の中を一晩中もがいて「世の漁」をしても、何もとれない。しかし、義の太陽であるイエス様が現れ、その御言葉に従う時、そんな闇雲の虚しい努力は終わりを告げ、安息と喜びの内に、大漁を得る事ができる。
『夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。』(ヨハネ21:4-6)
彼らは、イエス様だとは分からない時に、お言葉に従順し、従順した時、圧倒的な結果が待っていた。
ゆえに大事な事は、イエス様を「知識で知る」以前に、主の言葉を「聞いて実行する」事である。
自然界は、イエス様に服従する。天地は主の御言葉に服すのだが、どういう訳か、人だけが従順でない。
しかし、私達がイエス様の言葉に服従し、その圧倒的な結果を見る時、はじめてイエス様を知るのである。
人間をとる漁師とは、イエス様の言葉に従順し、イエス様が「ここ」と言われた所に、イエス様が示された御言葉の網をおろすだけであって、一晩中「闇雲」に運任せで網を降ろすものではない。パウロも、およそ千キロ以上、霊的収穫も特に無いまま、さまよった末、ようやく御心はアジアではなくマケドニアにある事が分かり、それに従順した結果、ヨーロッパで最初のキリスト教会がピリピに建てられた。(使徒16:6-15)
御胸に従順しないで、ただ自分の好む「大漁」を目指して闇雲に走るなら、網に雑魚が入ってきても、毒魚が入ってきても両手放しで喜んでしまうという、恐ろしい事になってしまう。私達がイエス様のお言葉に従うなら、良質の魚が、自ら御言葉の網の中に入ってくる。だから、人間をとる漁師とは、自分のやりたい事を降ろし、「あなたのお言葉ですから、網を下ろしてみましょう」の連続なのだ。
実際ペテロは、この言葉のゆえに、人間をとる漁師となった。
『イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。』(7節) 御言葉に従順し、圧倒的な御業を見る時、それは「主であった」と知る。そればかりでなく、主は、闇雲に苦労した末に従順した私達に、ごちそうを用意して待っておられる。『彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。』(8-9節)
こうしてイエス様が用意して下さった魚に、主に示されて私達のとった魚も加えられ、宴会が始まるのだ。
『シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。』(11節) かつてペテロが召命される時に彼が降ろした網は、破れてしまった(ルカ5:6 KJV)。しかし今回、こんなにも大漁であったのに、網は破れなかった。
イエス様が十字架で勝利し、復活以降の網は、決して破れない。イエス様に一度捕らえられたなら、決して離れる事なく、見捨てられる事なく、世の終わりまでいつも共にあるのだ。
この主の御言葉の網、愛の網に捕らえられ、さらに多くのいのち達を、死という水の中から引き上げ、救い出し、主の働き人として働く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
異端の見分け方(ユダ1:5-10):右クリックで保存
早天祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
御子にくちづけせよ(詩篇2編):右クリックで保存
マタイによる福音書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
救いはどこにあるのか(マタイ21:1-11):右クリックで保存
イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
主を敬わない者へのさばき(イザヤ5:18-30):右クリックで保存
【概要】
イザヤ書5章18-30節を中心に、神の言葉をないがしろにする罪とその結果としての裁きについて語られた説教。
【聖書箇所】
イザヤ書5:18-30、マラキ書3:13-18
【戒めの言葉】
神の言葉をないがしろにし、軽んじることは大きな罪である。神がいないかのように振る舞い、悪を行う者たちに対して、神は必ず裁きを下される。
【励ましの言葉】
神を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前に記憶の書が記される。神は彼らを憐れみ、宝として扱われる。
【***詳細***】
本日の説教は、イザヤ書5章18節から30節を中心に展開されました。この箇所は、神の言葉をないがしろにし、罪を重ねる者たちに対する警告と裁きの預言です。
まず、18-19節では、「嘘を手綱として、とがを引き寄せ、車の手綱でするように、罪を引き寄せている者たち」について語られています。これは、罪に罪を重ね、神の憐れみを踏みにじる者たちの姿を表しています。彼らは神の存在を疑い、挑発的に「彼のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たい者だ」と言います。
説教者は、このような態度が「神はいない」という思いの現れであると指摘します。詩編10:4を引用し、「悪者は、傲慢を顔に表して、神を尋ね求めない。その思いは、神はいないの一言に尽きる」と述べています。
次に、20-23節では、善悪を転倒させ、賄賂によって正義を歪める者たちが非難されています。特に、「酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけて豪の者」という表現に注目し、これが単なる酒の問題ではなく、正しい判断を鈍らせるものの比喩であると解説しています。
説教者は、現代のクリスチャンにも当てはまる警告として、「正しいことを忘れさせる酒、物事を正しく裁くことをやめさせる酒、それは皆さんにとって何でしょうか」と問いかけます。これは、神の言葉や真理を忘れさせ、正しい判断を鈍らせるものすべてを指しています。
24-25節では、神の裁きの描写が続きます。「火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯草を舐め尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も塵のように舞い上がる」という強烈な表現で、神の言葉を侮る者たちの運命が語られます。
特に重要なのは、「彼らが万軍の主の教えをないがしろにし、イスラエルの聖なる方の御言葉を侮ったからだ」という部分です。神の言葉を軽んじることが、すべての罪の根源であることが強調されています。
26-30節では、神が遠くの国々から敵を呼び寄せ、イスラエルを罰する様子が描かれています。「その矢は研ぎ澄まされ、弓はみな張っており、馬のひずめは火打石のように、その車輪はつむじ風のように思われる」という描写は、迫り来る裁きの恐ろしさを表しています。
説教者は、これを現代のクリスチャンへの警告として解釈し、「神様の御言葉を教えられて、それを世と天秤にかけて、世の方をとって、世の方が何か正しい、神の言葉は奇情の空論、夢見事のようにしている」態度を戒めています。
さらに、マラキ書3:13-18を引用し、神を恐れる者たちの態度と、彼らに対する神の約束を対比的に示しています。「その時、主を恐れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された」という箇所は、神の言葉を大切にする者たちへの励ましとなっています。
説教の結びでは、「どうか皆さんは、主の御言葉にしっかりと留まって、そして本当に正しい主の御言葉を伝え、それも主の憐れみ、主を恐れを敬う人に対しては、主は本当に憐れんでくださることを、これを忘れることなく、しっかりと御言葉を伝えて歩む皆さんでありますように」と会衆に勧めています。
【結論】
神の言葉を軽んじることは重大な罪であり、必ず裁きをもたらす。しかし、神を恐れ、御言葉を尊ぶ者たちには、神の憐れみと祝福が約束されている。私たちは常に神の言葉に留まり、それを大切にし、正しく伝えていく者とならなければならない。
火曜早天祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
世と私達を分け隔てる十字架(ガラテヤ6:14-18):右クリックで保存
さんざん破壊しておきながら何事も無かったかのように振舞う人の性質(1サムエル記20:24-42)
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- 執筆 :
- pastor 2015-5-2 8:01
礼拝説教メッセージ音声:さんざん破壊しておきながら何事も無かったかのように振舞う人の性質(1サムエル記20:24-42):右クリックで保存
『さて、ついたちになったので、王は食事をするため席に着いた。王はいつものように壁寄りに席に着き、ヨナタンはその向かい側の席に着き、アブネルはサウルの横の席に着いたが、ダビデの場所にはだれもいなかった。ところがその日サウルは何も言わなかった、「彼に何か起って汚れたのだろう。きっと汚れたのにちがいない」と思ったからである。』(1サムエル記20:24-26)
サウルは、それまで自分がダビデにして来た事、すなわち、ダビデを殺そうとして槍を投げたり、殺意をもって何度も追い回したりした事など、一切無かったかのように、ダビデが自分と食事を共にしないのは、「何か起って汚れたのだろう」と思ったのだ。
自分がしてきた事を一切考慮せず、どうしてそんな脳天気な理由を思い浮かべられるのだろうか。
自分が周りに、どんなにひどく怒りをぶちまけ、破壊し、周囲の人々の心や体を傷つけ、迷惑をかけ、ひどい事をして来たかを、一切、無かったかのようにして、普通に振舞うような人は、確かにいる。
自分が周囲にしてきた行ないが、見事、その人の意識の中から、全く抜け落ちているかのような。
周囲の調和をさんざん破壊しておきながら、それを全部してしまうと、何事も無かったかのように、日常的に周囲の人に振る舞うような人が。
そのような人は、その人が意識的にしている、というより、その人の内に住み着いた悪霊がそれをさせており、その人が悪霊に支配されている間、本人はあまり意識していないものである。
なぜ人は悪霊に意識を乗っ取られてしまうのか。
それはその人が、悪霊の好むエサを常時振り撒いており、寄って来た悪霊の邪悪な思い同意し、自分自身の意識や体の支配権を、悪霊に与えてしまうからだ。
悪霊の好むエサとは、ガラテヤ5章19節以降に記されている「肉の働きリスト」、すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。
宗教やまじない、占いにはまっている人が、そのような、非常人的な振る舞いをよくするのは、そのためだ。
サウルのように、偶像礼拝や殺意、ねたみ、怒りなどを放置しておくと、悪霊に支配されるようになって、無意識的に極端な”発作的行動”をしてしまうのだ。
もちろん、発作的に異常な言動をするすべての人が悪霊に憑かれていると言っているのではない。
しかし、少なくともサウルのように、主と主の言葉にそむく問題をそのまま放置し続けて、そうなってしまったのであるなら、それは明らかに霊的な問題である。
『しかし、ふつか目すなわち、ついたちの明くる日も、ダビデの場所はあいていたので、サウルは、その子ヨナタンに言った、「どうしてエッサイの子は、きのうもきょうも食事にこないのか」。
ヨナタンはサウルに答えた、「ダビデは、ベツレヘムへ行くことを許してくださいと、しきりにわたしに求めました。彼は言いました、『わたしに行かせてください。われわれの一族が町で祭をするので、兄がわたしに来るようにと命じました。それでもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうぞ、わたしに行くことを許し、兄弟たちに会わせてください』。それで彼は王の食卓にこなかったのです」。』(1サムエル記20:27-30)
ヨナタンの言った事、普通に「そういう事もあるだろう」と流せる内容だが、このわずかな言葉によって、サウルは豹変してしまう。
悪霊を宿している者は、通常、普通の人と変わらないように見えても、誰かのちょっとした言葉や行動がきっかけとなって、内に秘めている霊を暴走させてしまうのだ。
『その時サウルはヨナタンにむかって怒りを発し、彼に言った、「あなたは心の曲った、そむく女の産んだ子だ。あなたがエッサイの子を選んで、自分の身をはずかしめ、また母の身をはずかしめていることをわたしが知らないと思うのか。エッサイの子がこの世に生きながらえている間は、あなたも、あなたの王国も堅く立っていくことはできない。それゆえ今、人をつかわして、彼をわたしのもとに連れてこさせなさい。彼は必ず死ななければならない」。』(1サムエル記20:30-31)
サウルは突然、すごい剣幕で、ヨナタンのみならず、ヨナタンの母でありサウルの妻をも冒涜するような汚し事を叫んだ。
ヨナタンはただ、ダビデには都合あって、この食事の席に参加できない、と言っただけだった。
それが突然すごい勢いと剣幕で、「あなたは心の曲った、そむく女の産んだ子だ。」「自分の身をはずかしめ、また母の身をはずかしめている(原意:母の裸を露わにしている)」など返される。
一体どこをどう連想すれば、母の裸の露わに、という話へ発展するのか理解はできないないが、とにかく、頭の中で悪い思いをぐるぐる巡らしている人は、常人には到底連想できないような考えへと導かれ、それをぶちまけるのだ。
『ヨナタンは父サウルに答えた、「どうして彼は殺されなければならないのですか。彼は何をしたのですか」。ところがサウルはヨナタンを撃とうとして、やりを彼に向かって振り上げたので、ヨナタンは父がダビデを殺そうと、心に決めているのを知った。』(1サムエル記20:32-33)
今度はなんと、自分の跡継ぎである息子にも槍を投げつけた。
つい今しがた、王位継承を危うんでいる言葉を発したばかりなのに、その継承者である息子を殺す衝動にかられてしてしまう。
私達は、悪霊に秩序を求めてはならない。
ただ破壊し、殺し、壊す事が、彼らの衝動なのだ。
『ヨナタンは激しく怒って席を立ち、その月のふつかには食事をしなかった。父がダビデをはずかしめたので、ダビデのために憂えたからである。』(1サムエル記20:34)
ヨナタン自身と、彼の母がはずかしめられたというのに、彼は、ダビデがはずかしめられた事を憂いている。
主にある兄弟姉妹とは、そういうもので、自分の事より、愛する兄弟姉妹のほうを心配し、案じるのだ。
パウロも、自分の身よりも同胞の救いをこそ切望した。
『あくる朝、ヨナタンは、ひとりの小さい子供を連れて、ダビデと打ち合わせたように野原に出て行った。そしてその子供に言った、「走って行って、わたしの射る矢を捜しなさい」。子供が走って行く間に、ヨナタンは矢を彼の前の方に放った。』(1サムエル記20:35-36)
前回見たように、矢を前方に射るのは、サウルがダビデのいのちを狙っていて危険だ、というサインだ。
『そして子供が、ヨナタンの放った矢のところへ行った時、ヨナタンは子供のうしろから呼ばわって、「矢は向こうにあるではないか」と言った。ヨナタンはまた、その子供のうしろから呼ばわって言った、「早くせよ、急げ。とどまるな」。その子供は矢を拾い集めて主人ヨナタンのもとにきた。しかし子供は何も知らず、ヨナタンとダビデだけがそのことを知っていた。』(20:37-39)
ヨナタンは「早くせよ、急げ。とどまるな」と叫ぶ事で、事態の深刻さをダビデに伝えた。
ヨナタンの付き人には分からなかったが、これは、信仰の有志にのみ分かるサインであった。
迫害下にあった初代教会も、表向きは誰にも分からない、しかし、信仰の有志にのみ分かるサインで、互いの信仰を確認し合った。
『ヨナタンは自分の武器をその子供に渡して言った、「あなたはこれを町へ運んで行きなさい」。子供が行ってしまうとダビデは石塚のかたわらをはなれて立ちいで、地にひれ伏して三度敬礼した。そして、ふたりは互に口づけし、互に泣いた。やがてダビデは心が落ち着いた。』(1サムエル記20:40)
こうして、ダビデとヨナタンは、別れる事になる。
ダビデは国から追われる身、これからどうなるか分からない。
だから互いに、今生の別れを覚悟しただろう。
『その時ヨナタンはダビデに言った、「無事に行きなさい。われわれふたりは、『主が常にわたしとあなたの間におられ、また、わたしの子孫とあなたの子孫の間におられる』と言って、主の名をさして誓ったのです」。こうしてダビデは立ち去り、ヨナタンは町にはいった。』(1サムエル記20:41-42)
ヨナタンはこのように、信仰の友・ダビデ真実を尽くした。
私達も真実を尽くし、サウルの道に誰も陥らぬよう、互いに教え、戒めあって、信仰の交わりを健全に行って行きたい。