メッセージ - 201506のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:偽りへの暴走を止めて下さる主(1サムエル記29:1-11):右クリックで保存

『さてペリシテびとは、その軍勢をことごとくアペクに集めた。イスラエルびとはエズレルにある泉のかたわらに陣を取った。ペリシテびとの君たちは、あるいは百人、あるいは千人を率いて進み、ダビデとその従者たちはアキシと共に、しんがりになって進んだ。』(1サムエル記29:1-2)

ダビデは、本心に偽ってペリシテの王に取り入り、ついには引っ込みがつかなくなって、神の民イスラエルと戦うために行軍している所だった。

自分の命を狙うサウルを、二度も見逃してやった、あのダビデ。
サウルに追われている中でも、神の民・イスラエルの町をペリシテから救ってやった、あのダビデである。
今までアキシュに、表面上、イスラエルを襲っていたかのように見せかけてはいても、イスラエル人の血は一度も流さなかった、あのダビデが、この度、イスラエルに敵対し、サウルの軍に対して刃を向けなくてはならなくなってしまった。
彼の心に、どれ程の嵐が吹き荒れていただろう。

しかし主は、ダビデに、イスラエルの血を流さなくて済むように計らってくださる。
『その時、ペリシテびとの君たちは言った、「これらのヘブルびとはここで何をしているのか」。・・・「この人を帰らせて、あなたが彼を置いたもとの所へ行かせなさい。われわれと一緒に彼を戦いに下らせてはならない。戦いの時、彼がわれわれの敵となるかも知れないからである。この者は何をもってその主君とやわらぐことができようか。ここにいる人々の首をもってするほかはあるまい。』(1サムエル記29:3-4)
ダビデは、アキシュの元では、本心を偽った行動を突き進むほかに無かったが、主は、ペリシテの領主たちを用い、暴走していたダビデを留めて下さった。
アキシュも、ペリシテの領主達から一斉に反対されてしまっては、従わざるを得ない。

『ダビデはアキシに言った、「しかしわたしが何をしたというのですか。わたしがあなたに仕えはじめた日からこの日までに、あなたはしもべの身に何を見られたので、わたしは行って、わたしの主君である王の敵と戦うことができないのですか」。
アキシはダビデに答えた、「わたしは見て、あなたが神の使のようにりっぱな人であることを知っている。しかし、ペリシテびとの君たちは、『われわれと一緒に彼を戦いに上らせてはならない』と言っている。それで、あなたは、一緒にきたあなたの主君のしもべたちと共に朝早く起きなさい。そして朝早く起き、夜が明けてから去りなさい」。こうしてダビデとその従者たちとは共にペリシテびとの地へ帰ろうと、朝早く起きて出立したが、ペリシテびとはエズレルへ上って行った。』(1サムエル記29:8-11)
このようにダビデは、イスラエル人の血を流さずに済んだ。
しかし主は、本心に偽って突っ走ってしまうダビデを、元の健全な状態へと戻すために、少々の荒治療をされる。

私達も、自分の弱さ、足りなさ、知恵の無さ故に、愚かな道を突っ走り、引っ込みがつかなくなって、兄弟姉妹や自分自身を傷つけてしまう事がある。
怒り、妬み、憤りに支配され、「もう出て行く」などと言って飛び出し、荒んだ生活へとどんどん沈み込んで行き、ある時点で後悔しても、既に勢いがつきすぎて戻れなくなってしまっているような事が、私達にもある。
そんな時、「こんな暴走してしまう、どうしようもない私を助けて下さい」と主に助けを求めるなら、主は思わぬ所から助けを遣わし、止めさせてくださる。
但し、その時、痛みもなく丁重に治して下さる、とは限らない。
ダビデの場合は、荒治療であった。しかしそれもまた、主の憐れみである。
私達は、自分の愚かさ故に暴走している事に気づいた時、まだ軌道修正が簡単にできる内に主に向かい、軌道修正すべきだ。

礼拝説教メッセージ音声:限りない闇と絶望の前夜(1サムエル記28:11-25):右クリックで保存

『女は言った、「あなたのためにだれを呼び起しましょうか」。サウルは言った、「サムエルを呼び起してください」。』(1サムエル記28:11)

サウルは、敵に見つかるかもしれない危険を犯して20キロも旅してまで、死んだサムエルに事を伺いたかった。
サウルは、サムエルが生きている間は何も伺わず、訪問もせず、死んでからはじめて伺いたいという気が起こった。
このような人が多いから、古今東西・世界各地で口寄せ商売が成り立っているのだ。

闇に伺いを立てに行く人に、跳ね返って来るものは、やはり、闇である。
『人々があなたがたにむかって「さえずるように、ささやくように語る巫子および魔術者に求めよ」という時、民は自分たちの神に求むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるであろうか。ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない。彼らはしえたげられ、飢えて国の中を経あるく。その飢えるとき怒りを放ち、自分たちの王、自分たちの神をのろい、かつその顔を天に向ける。また地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり、彼らは暗黒に追いやられる。 』(イザヤ8:19-22)

女は、自分が呼び出した霊を見た時、「どうしてあなたはわたしを欺かれたのですか。あなたはサウルです。」と叫んだが、サウルは「恐れることはない。あなたには何が見えるのですか」と言った。
『女はサウルに言った、「”神のようなかた(エローヒム、KJV:gods)”が地からのぼられるのが見えます」。サウルは彼女に言った、「その人はどんな様子をしていますか」。彼女は言った、「ひとりの老人がのぼってこられます。その人は上着をまとっておられます」。サウルはその人がサムエルであるのを「知り(ヤーダー:知覚し、判断し。KJV:perceived)」、地にひれ伏して拝した。』(1サムエル記28:13b-14)
サウルは、その「方」の成り立ちを、女から聞いて、それをサムエルであると「判断」した。

さて、ここに出てきたサムエルが、果たして本物かどうかという議論はあるが、これはサムエルではなく別の霊だと私は考えている。
イエス様がラザロと金持ちの話をされた時、憐れみのわざをしなかった金持ちは死んで後、黄泉(ハデス)に降ったのに対し、ラザロはアブラハムと共に「上」のほうにいた事を言っておられた。(ルカ16:23)
それに対し、この霊は「地からのぼって」来たと言っている。
サムエルは当然、アブラハムの側、「上」にいるはずなので、地の下から登ってくる霊は、違うものではなかろうか。
また、この霊はサウルに「あすは、あなたもあなたの子らもわたしと一緒になる(KJV: with me)であろう」(19節)と言っているが、主に従ったサムエルと、主に従わなかったサウルが、果たして共に同じ所に行くだろうか。

金持ちとラザロの間には、大きな淵が横たわっていて、誰も行き来出来ない、と記されている。(ルカ16:26)
だから死んだ人は、生きている人の世界と、行き来出来ないはずである。
つまり、死んだ人の霊と会った、と言っている人は、実は、死んだ人本人の霊と会ったではなく、その人に扮した「悪霊」と会っているのであり、死後の世界について、天国と地獄について、永遠の救いとさばきについての真実を掻き乱そうとするサタンから遣わされた霊であり、その霊と交わるなら、汚されてしまうのだ。
『あなたがたは口寄せ、または占い師のもとにおもむいてはならない。彼らに問うて、汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ19:31)

『サムエルはサウルに言った、「なぜ、わたしを呼び起して、わたしを煩わすのか」。サウルは言った、「わたしは、ひじょうに悩んでいます。ペリシテびとがわたしに向かっていくさを起し、神はわたしを離れて、預言者によっても、夢によっても、もはやわたしに答えられないのです。それで、わたしのすべきことを知るために、あなたを呼びました」。』(1サムエル記28:15)
サウルは、主と心一つになろうとする意図はさらさら無く、自分の導きをしてくれる相手なら、神であろうと、死人であろうと、誰でもよかった。
だから、さっさとそちらに向いてしまったのだ。

私達が神を呼んだのに、何も答えられない、という事があるとするなら、その時は自分を省みるべきである。
自分の中に、主との間に妨げとなっている罪は無いか、まだ悔い改めておらず、取り扱っていない罪がなかったか、と。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。』(イザヤ59:1-2)

もし私達に、不義が、罪が示されたなら、ダビデのように、主に正直に告白して取り扱っていただくべきだ。(詩篇51編)
サウルの場合、自分の罪は一切告白せず、何か悔い改めるべき事が自分の側にあるのではと探る事もせず、さっさと主の忌み嫌われる死人伺いに走ってしまった。

『サムエルは言った、「主があなたを離れて、あなたの敵となられたのに、どうしてあなたはわたしに問うのですか。・・・主はまたイスラエルをも、あなたと共に、ペリシテびとの手に渡されるであろう。あすは、あなたもあなたの子らもわたしと一緒になるであろう。また主はイスラエルの軍勢をもペリシテびとの手に渡される」。』(1サムエル記28:16-19)
あす、地の底から登ってきた霊と、一緒になる・・・何か、底知れぬ闇、救いようがない絶望を感じる。
いのちの君であられる主以外の者に伺いを立てるなら、それは死へと通じる道だ。もしいのちを得たいなら、いのちの君である主に伺うべきだ。

『そのときサウルは、ただちに、地に伸び、倒れ、サムエルの言葉のために、ひじょうに恐れ、またその力はうせてしまった。その一日一夜、食物をとっていなかったからである。』(1サムエル記28:20)
サウルはもはや、食欲も、行動意欲も、生気も無くなってしまった。
主を軽んじ続けるなら、いのちを失ってしまうのだ。

『女はサウルのもとにきて、彼のおののいているのを見て言った、「あなたのつかえめは、あなたの声に聞き従い、わたしの命をかけて、あなたの言われた言葉に従いました。それゆえ今あなたも、つかえめの声に聞き従い、一口のパンをあなたの前にそなえさせてください。あなたはそれをめしあがって力をつけ、道を行ってください」。』(1サムエル記28:21-22)
この霊媒女は、サウルに憐れみをかけた。
滅び行く者は、滅び行く者同士で気が合い、同情し合うものである。

『その女は家に肥えた子牛があったので、急いでそれをほふり、また麦粉をとり、こねて、種入れぬパンを焼き、サウルとそのしもべたちの前に持ってきたので、彼らは食べた。そして彼らは立ち上がって、その夜のうちに去った。』(1サムエル記28:24-25)
そしてこの女が、最後に憐れみとしてサウルに差し出したものは、ほふられた肥えた子牛と、種入れぬパンだった。
何か、主への礼拝の捧げ物を思い起こさせる。
サウルはこの最後の晩餐を、どのような思いで食べただろうか。
それは分からないが、サウルは日頃から主を退け、自分の心の赴く事を求めていた。だから、いざという時、彼は主を見いだせなかった。
いつでも主を呼び求め、いつでも主の光の内に導かれ、主の導きの内に守られ歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:サウルからことごとく逃げて行った「主の守りと導き」(1サムエル記28:3-10):右クリックで保存

『さてサムエルはすでに死んで、イスラエルのすべての人は彼のために悲しみ、その町ラマに葬った。また先にサウルは口寄せや占い師をその地から追放した。』(1サムエル28:3)

主は、サムエルが生きている間、ペリシテを防いでおられた。(1サムエル記7:13)
ペリシテはちょくちょく攻め寄せて来る事はあっても、サウルがそれを退ける事が出来たのは、サウルの力でも信仰でもなく、サムエルが年ごとに各所を巡回し霊的指導を続けたからであり(7:16-17)、ダビデが信仰をもって戦ったからだ。
しかし、そのサムエルが死に、ダビデもサウルから逃げてイスラエルを離れた今、イスラエルを守る者は、サウルしかいなくなった。
そのとたんに、ペリシテが攻めて来た。

『ペリシテびとが集まってきてシュネムに陣を取ったので、サウルはイスラエルのすべての人を集めて、ギルボアに陣を取った。サウルはペリシテびとの軍勢を見て恐れ、その心はいたくおののいた。』(1サムエル記28:4-5)
サウルは、ようやく気づいたかもしれない。
今までいかにサムエルやダビデに守られて来たのかを。
しかしサウルは、彼らに、何をして来ただろう。

サウルは、サムエルからの主の言葉を軽んじて欲しいままに振るまい、自分の気に入らないなら、サムエルさえも殺しかねない者となったため(1サムエル記16:2)、サムエルは二度とサウルに会おうとしなくなった。(1サムエル記15:35)
ダビデに対しては、サウル家の王位を脅かす者として追い回し、殺そうとしたため、ダビデも彼から逃げて国外逃亡した。

サウルは、自分に王としての分が無いと分かった時、ダビデこそ王となるべき者だと悟った時、自分から王座を降りて、新しく油注がれたダビデにゆずるべきだったのだ。
そうしたなら、もっと平和な余生を送って、安らかに人生を全うしたであろう。
しかし彼は、自分が座していてはならなぬ王座にしがみついたが故、とても悲惨な死に方をする。

『そこでサウルは主に伺いをたてたが、主は夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても彼に答えられなかった。』(1サムエル記28:6)
ウリムとは、祭司が御心を伺うためにエポデの中に納められている祭具だが、彼はエポデを着た祭司たちを、どうしただろうか。
『王はドエグに言った。「おまえが近寄って祭司たちに撃ちかかれ。」そこでエドム人ドエグが近寄って、祭司たちに撃ちかかった。その日、彼は八十五人を殺した。それぞれ亜麻布のエポデを着ていた人であった。』(1サムエル記22:18)
またサウルは、預言者をどうしただろう。
実行こそしなかったが、彼は預言者サムエルさえ殺そうとする勢いだった。
それ故、祭司も、預言者も、油注がれた者・ダビデも、ことごとくサウルを拒否し、サウルの周りから逃げられてしまったのだ。

自分が王でありたいが故に、預言者を退け、祭司を除き、油注がれた王を殺そうとする。
そのような者が行く先は、サウルと同じである。
キリストこそ、真の大祭司であり、まことの預言者であり、油注がれた王だ。
この御方を退け、自分が王座に座り続けようとするなら、やがては、自分がしがみつこうとした「王座」が、自分を滅ぼすものとなってしまうのだ。
だから私達は、さっさと自分が「王」である事を降り、自分に関する全ての支配権はダビデの子孫・イエスキリストへとゆずるべきなのだ。

『サウルはしもべたちに言った、「わたしのために、口寄せの女を捜し出しなさい。わたしは行ってその女に尋ねよう」。しもべたちは彼に言った、「見よ、エンドルにひとりの口寄せがいます」。』(1サムエル記28:7)
主に御心を求めても、何も返ってこないのを見て取ったサウルは、いとも簡単に、主が忌み嫌われる「口寄せ」はいないかと部下に尋ねた。
もしこの時、サウルが、かつてイスラエルの民がミツパでしたように、心を主に注いで断食し、「私たちは主に対して罪を犯しました。」(1サムエル記7:6)と悔い改め、主に求めていたらどうだっただろうか。
主は助けて下さった、と私は思う。なぜなら主は、どんなに邪悪な者達(アハブ王、ニネベの住人、十字架上の強盗など)であれ、悔い改めたら赦し、災いを思い直されたからだ。
しかし結局、サウルの心には主は無かったのだ。彼はいとも簡単に、主に忌み嫌われる者に尋ねようとし、部下たちも「王様、主に忌み嫌われる事はやめてください」とは言わず、すぐに「エンドルにいます」とサウルに教えた。
結局、サウルを戒めずに、イエスマンで通して来た彼らが滅ぶとしても、サウルとの共同責任なのである。

『サウルは姿を変えてほかの着物をまとい、ふたりの従者を伴って行き、夜の間に、その女の所にきた。そしてサウルは言った、「わたしのために口寄せの術を行って、わたしがあなたに告げる人を呼び起してください」。』(1サムエル記28:8)
口寄せの女がいるエンドルは、サウル達が陣営を張っているギルボアから20キロほど北にあるが、ペリシテが陣営を張っているシュネムは、エンドルの南西わずか5キロほどの所にある。
彼は夜、変装し、敵に見つかりそうな危険を犯しても、口寄せを求めて20キロの旅をしたのだ。
その労を主に捧げる心があったなら、彼はどんなに変わっていただろう。

『女は彼に言った、「あなたはサウルがしたことをごぞんじでしょう。彼は口寄せや占い師をその国から断ち滅ぼしました。どうしてあなたは、わたしの命にわなをかけて、わたしを死なせようとするのですか」。サウルは主(エホバ)をさして彼女に誓って言った、「主(エホバ)は生きておられる。この事のためにあなたが罰を受けることはないでしょう」。』(1サムエル記28:9-10)
サウルは、主の忌み嫌われる口寄せに対し、主エホバの名によって、彼女の安全を誓った。
彼は完全に、主の御名を軽んじ、主の御名を誤った用い方をしている。彼がこのように、主を軽んじる者だったからこそ、滅びへの街道がまっしぐらだったのだ。

平素は自分の心の赴くままに生きて、死ぬ直前にイエス様の名を呼び求めれば、世の中も好きに生きれて、死んだら天国に行けるのではないか、と思う人がいるが、果たしていざという時、主を呼び求める心を、保ちつづけていられるだろうか。
人はいざという時こそ、普段から頼っているものに心を向け、普段から頼っていないものをすぐに捨てるものである。
だから私達は、普段から、真に油注がれた王であり、まことの預言者、真の大祭司である主キリストを頼りとし、その守りの内を歩んでいくべきだ。

愛によって働くしるし(ガラテヤ5:6)
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今回の韓国出張では一週間、Great Faith Churchにて交流させて頂いた。御言葉から右にも左にも離れず、ただ真理に留まる事を徹底して教え、また主イエスが確かに生きて働かれておられる事のあかしとしてのしるし、預言や執り成しの祈りのわざを組織的に訓練し、実践し、それを見て信じた人々が集まり、急成長している教会だ。一週間足らずの滞在で、MERSの影響のため多くのスケジュールがキャンセルとなったものの、得たものは実に多かった。その得て来たものを、分かち合って行きたい。
御言葉は、「ただ」伝えるだけでは不十分である。もちろん、混じりの無い御言葉のみによって養われる事は一番の理想形だが、御言葉は固い食物で、良い物と悪い物とを経験によって見分ける感覚を訓練された人達が消化できるものである。(ヘブル5:12-14)
そのため、霊において弱く幼い人にはどうしても、柔らかい食物が必要だ。(1コリント3:2)
そんな彼らへの養いは、「しるし」である。イエス様は、自分が話しているのは自分からではなく御父が語っておられる事を信じなさい、もし信じられないなら”わざ”によって信じなさいと言われた。(ヨハネ14:10-11)
昨今のキリスト教界では、「わざ」「しるし」を求め、それをもって人々を驚かせ、自分の所に引き込もうとし、それで多くの選民が惑わされて来たため、辟易している所は多分にあったが、聖徒達に「しるし」はもう懲り懲り、と思わせるのもまた、サタンの巧妙な策略だ。
御言葉に伴い、しるしもついて行く事は、聖書に記されている。『弟子達は出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かな事をお示しになった。』(マコ16:20)
御言葉を聞いて、それを信じ、造り変えられる、という人は、確かに存在するが、少ない。しかし「しるし」によって信仰に入る人は、御言葉だけで信じる人よりは、多い。ただし、今まで天声で教えて来たように、しるしだけを求め、御言葉なるキリストを求めないとするなら、その人の信仰はすぐに廃れてしまう。
それ故、私達は福音を伝えるにあたり、御言葉を伝える事のみならず、その内にキリストがおられる事を証するための「しるし」も求める必要があり、それがバランス良くできるよう、学びや訓練が必要である。

Great Faith Churchでは、我々の教会と同じように、御言葉にとどまる事、頑としてそこを離れない事を強調して教えていたが、預言、執り成しの祈りについても、組織的に教え、訓練していた。異言は不信者のためのしるしで本人の徳を高めるが、預言は、信者のための「しるし」で、教会の徳を高める。(1コリント14:22)
そして、それら全てを通して一貫して教えていた事は、預言や癒やしなど「しるし」の根幹に源流として流れるべきは「愛」である、という事ある。(1コリント13章)
最も大切なものは、御言葉の詰め込みでも、知識を蓄える事でも、大々的な預言でもない。「愛」である。
「愛がない人」が、いくら預言しても、癒しをしても、身を切った捧げ物をしても、御言葉の深い奥義をひけらかしても、それはただのやかましい、壊れたシンバルである。私達は壊れたシンバルを演じていないだろうか。預言などの訓練以前に、私達が最も求めるべきは、まず、愛の人となる事だ。
神は、愛である。愛は神のご性質であるため、愛の無い人は、決して神を伝えられない。
しるしは、確かに大事であるが、愛なきしるしは、むなしく、廃れるものだ。実際、愛のないしるしは、廃れた。
だから私達は、行ないにおいても、振る舞いにおいても、神をあらわし表現するために、愛を求めるべきだ。

人はいろいろな不足に嘆く。金銀が、力が、認められる事が、不足している、と。しかし私たちは何より、自分の中に、愛が不足している事こそ、嘆くべきだ。神は全てを満たして余り余らせるお方であり、はじめから何もかも整えようと、愛をもって天で待っておられるのだが、愛が無いとするなら、それを与えられない。
愛なき力は暴力であり、愛なき金銀の満たしも暴力だ。ノアの洪水以前、ネフィリムという力ある有名な者が台頭したが、その世は、ただ神を悲しませる、はなはだ邪悪な世であり、洪水で滅び去るべきものだった。
預言とは何か。それは、愛の神が、愛を持って私達に与えてくださったメッセージである。だから「愛する」事こそ必要なのだ。愛の心が芽生える時、その相手の徳を高める預言のことばが、すなわち、神の言葉を預かって流し出すべきメッセージを、主から見せられる。
福音が伝えられるには、しるしも必要である。そして、しるしは、愛が無ければ何の役にも立たない。
どうか、愛によって歩む皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

いのちの木・いのちの水で初まり、終わる(黙示録22:1-5)
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いのちの君・イエス様を信じる時、腹の奥底からいのちの水が泉のように湧き上がり、根源的な渇きは癒され、潤され、周囲へと溢れ流れ出して周りをも潤す。前回に続いて、今回は、黙示録からそれを見たい。
聖書の最後の書・黙示録の最終章にも、同じく、水晶のように輝くいのちの水が流れる様が記されている。
その両岸には「いのちの木」があり、十二種の実を毎月結び、その葉は諸国民をいやす。(黙示録22:1-2)
エゼキエル書では、川は神殿の聖所から流れ出ていたが、黙示録では神と小羊の御座から流れ出ている。
私達は今、キリストにあって、潤っている。あたかも砂漠を旅してきた人が、水を得て潤うように。
この潤いの水は、天の御座から流れて来ている。はるばる天の御座から、この地上へと流れ、そして今、キリストに直結している一人ひとりに届き、キリスト者を潤しているのだ。今、皆さんは潤っているだろうか。
キリストにあって潤いを感じているとするなら、それは天の御座、イエス様と直結している証拠だ。

聖書が、初めも終わりも、いのちの木・いのちを潤す川で始まり、終わっているのは、主は最初から人をそこに居らせるために創られ、それを失ってしまった人類を、そこへと戻す事を大きな目的としているからだ。
人がいのちの木を、楽園を失ったのは、いのちそのものである主の言葉に、背いたからだった。
人は、水の無い砂漠では生きられないように、霊を潤すキリスト無くしては、永遠のいのちを生きられない。
いのちの木から食べず、善悪を知る木から食べた人は、際限なき善悪判断なる「砂漠」をさまよった末、死んでしまう。それに陥ってしまった人を、主は、捨て去ったりあきらめたりせず、救うための行動を起こされる。
すなわち、まず人類に何が神の基準であるかを教え(モーセ五書)、人類はそれに達し得ない事を徹底的に体験させ(歴史書)、そんな人類を救うお方を示し(預言書)、ついには、その御方・キリストへと導くのだ。
人を救うため神が取られた方法は、神の御子が身代わりとなって十字架上で苦しみ、死なれ、復活する事。
この、キリストを信じる人に、いのちの木への道が開かれ、永遠の楽園への道が開かれる。
信仰は聞く事から始まり、聞く事は、キリストについての御言葉による。つまり救いは、アダムとエバが失敗した事の逆、すなわち、聖書に記されている御言葉の通りに守り行う事によってであり、御言葉に交わり、親しむ事によって、人は清められ、新しく 造り変えられて行くのだ。
人を永遠のいのちへと導く人とは、御言葉を伝え、そこに記されている事を守り行わせる人である。
そのような人になるためには、まず、御言葉で腹ごしらえしなくてはならない。
エゼキエルも、黙示録を記したヨハネも、共通して、主から巻物(御言葉)を食べさせられ、その甘さも苦さも味わったように(エゼキエル書3章、黙示録10:9)、私達も御言葉を食べ、その味を知らなくてはならない。

エゼキエルは御言葉で腹ごしらえをした後、鉄面皮で頑なな集団に使わされるが、主は、恐れる事はない、と言われる。『見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔と同じように堅くし、あなたの額を、彼らの額と同じように堅くする。わたしはあなたの額を、火打石よりも堅い金剛石(ダイヤモンド)のようにする。彼らは反逆の家だから、彼らを恐れるな。彼らの顔にひるむな。』(エゼキエル3:8-9)
額は、その人の”人となり”が記される所で、神を礼拝し御顔を仰ぎ見る人には、神の印が押され(黙示録22:4)、獣を拝む者には、獣の刻印が押される。(同13章) 主を仰ぎ見る人は、決して恐れる事は無い。
エゼキエルが遣わされた先は、頑なで鉄面皮の民、火打石のような額の民だったが、主はエゼキエルの額をそれよりもさらに固い、ダイヤモンドの額とされたからだ。ダイヤモンドは、火打石を粉々に砕く。
私達も、いかに相手がコワモテで頑なでも、御言葉で腹ごしらえするなら、恐れる事は無いのだ。
そのためにこそ私達も、聖書の御言葉を食べ、その甘さも苦さも味わい尽くし、腹ごしらえするべきだ。
御言葉を味わえば味わう程、いのちの泉が湧き、敵に対しては、ダイヤモンドのようになれる。

今、世は悲惨と涙で、死の悲しみと絶望で、あふれている。主は人をそこから救い出すために、福音宣教を、人に委ねられた。そして全世界に福音の御言葉が届けられる時、主の救いと正当なさばきが成就する。
その一旦を担うため、私達は主の御座から流れるいのちの水で癒され、潤され、力づけられ、召された。
はびこっている死や悲惨、絶望が、いかに火打石のようであっても、ダイヤモンドのような喜びと希望といのちに塗り替える者として用いられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
あなた達を御言葉に委ねます(使徒20:17-35):右クリックで保存
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賛美と祈りの集会 ヨナ書1-2章

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その他音声
執筆 : 
pastor 2015-6-6 13:24

マタイによる福音書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
王子の婚宴のたとえ(マタイ22:1-14):右クリックで保存

イザヤ書講解説教メッセージ音声(音声のみ)
頑なに主に向かわない人に降る止めどなき災難(イザヤ9:8-21)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存

【概要】

イザヤ書9章8-21節を中心に、主の御声に聞き従わない者への警告と災いについてのメッセージ

【聖書箇所】

イザヤ書9:8-21

申命記28章

【戒めの言葉】

主の御声に聞き従わず、自分の道を行く者には災いが臨む

【勧めの言葉】

主の御声によく聞き従い、その命令を守り行うことで祝福を受ける

【悔い改めの促しの言葉】

御言葉を軽んじる罪を悔い改め、速やかに主の御声に聞き従う生活へと立ち返る

【***詳細***】

今日の箇所は、イザヤ書9章8節から21節です。ここでは、主がヤコブに言葉を贈られたにもかかわらず、イスラエルの民がそれを聞き入れず、高ぶり、思い上がる様子が描かれています。

主がヤコブに一つの言葉を贈られた。それはイスラエルに落ちた。この民、エフライムとサマリアに住む者たちは皆、それを知り、高ぶり、思い上がって言う。」(イザヤ9:8-9)

これは非常に重要な箇所です。主が御言葉を与えられたにもかかわらず、それを受け入れず、むしろ高ぶる態度をとるイスラエルの姿が描かれています。この態度が、後の災いの原因となるのです。

続く箇所では、イスラエルの民の驕りが具体的に描かれます。

レンガが落ちたから、切り石で建て直そう。一軸杉の木が切り倒されたから、杉の木でこれに変えよう。」(イザヤ9:10)

これは、人間の力や知恵で問題を解決しようとする態度を表しています。主の御声に聞き従うのではなく、自分たちの力で立ち直ろうとする姿勢が見られます。しかし、このような態度は結局のところ災いを招くことになります。

主は、このような態度に対して厳しい裁きを下します。

そこで主は列印に当たる者たちをのし上がらせ、その敵たちを煽り立てる。東からはアラムだ。西からはペリシテ人だ。イスラエルを頬張って喰らう。それでも、御怒りはさらず、なおも御手は伸ばされている。」(イザヤ9:11-12)

ここで重要なのは、「それでも、御怒りはさらず、なおも御手は伸ばされている」という表現です。これは、主の裁きが続くことを意味しています。イスラエルの民が悔い改めない限り、災いは続くのです。

さらに、イスラエルの指導者たちの腐敗についても言及されています。

この民の指導者は迷わせ者となり、彼らに導かれる者は惑わされる。」(イザヤ9:16)

指導者の腐敗は社会全体の腐敗につながります。これは現代の私たちにも当てはまる警告です。私たちは常に、正しい指導者を選び、また自分自身が指導的立場にある場合は、神の御心に従って行動する必要があります。

最後に、この箇所は非常に厳しい言葉で締めくくられています。

それでも、御怒りはさらず、なおも御手は伸ばされている。」(イザヤ9:21)

これは、イスラエルの民が悔い改めない限り、主の裁きが続くことを意味しています。しかし同時に、主の御手が伸ばされているということは、悔い改めの機会がまだ残されているということでもあります。

この箇所から学ぶべき重要な教訓は、主の御声に聞き従うことの重要性です。申命記28章にも同様の教えがあります。

あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が今日命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主はあなたを地上のすべての国民の上に立てられる。」(申命記28:1)

主の御声に聞き従うことで、私たちは祝福を受けることができます。逆に、主の御声を無視し、自分の道を行けば、災いを招くことになります。

しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日命じる主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべての呪いがあなたに臨み、あなたは呪われる。」(申命記28:15)

私たちは常に自分の生活を振り返り、主の御声に聞き従っているかどうかを吟味する必要があります。もし主の御声から離れていることに気づいたなら、速やかに悔い改め、主の道に立ち返らなければなりません。

また、私たちは周囲の人々の影響にも注意を払う必要があります。悪い仲間は良い習慣を損なうからです。ソドムとゴモラの例を思い出しましょう。主はロトとその家族を救うために、彼らをその地から連れ出しました。これは、悪い環境にいると、たとえ自分は悪いことをしていなくても、その影響を受けてしまう可能性があることを教えています。

私たちは、主の御言葉を聞いたなら、それを実行に移す必要があります。御言葉を聞くだけでなく、それを生活の中で実践することが重要です。家庭で、職場で、日々の生活の中で、主の御言葉を実践していく必要があります。

そして、私たちは常に悔い改めの姿勢を持ち続ける必要があります。主の御声に聞き従わなかったことに気づいたら、すぐに悔い改め、主の道に立ち返らなければなりません。悔い改めは、瞬間的な立て直しをもたらします。

【結論】

主の御声に聞き従うことが、祝福を受ける秘訣です。自分の力や知恵に頼るのではなく、常に主の導きを求め、御言葉に従って生きることが重要です。もし主の道から外れていることに気づいたなら、速やかに悔い改め、立ち返ることが必要です。私たちは、イスラエルの民の失敗から学び、常に主の御声に耳を傾け、従順に歩む者となりましょう。

つくばエクレシア礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
いのちの水が川々となって(エゼキエル40:1-5):右クリックで保存

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