メッセージ - 201506のエントリ
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世の評価を得ようと奔走する「泥沼」の過酷さ(1サムエル記27:1-28:2)
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- 執筆 :
- pastor 2015-6-5 20:03
礼拝説教メッセージ音声:世の評価を得ようと奔走する「泥沼」の過酷さ(1サムエル記27:1-28:2):右クリックで保存
サウルの殺意に対して憐れみで勝利し、善をもって悪に打ち勝ったダビデだったが、この章では、彼らしくない失敗を犯す。
『ダビデは心にうちに言った、「わたしは、いつかはサウルの手にかかって滅ぼされるであろう。早くペリシテびとの地へのがれるほかはない。そうすればサウルはこの上イスラエルの地にわたしをくまなく捜すことはやめ、わたしは彼の手からのがれることができるであろう」。』(1サムエル記27:1)
ダビデは、サウルから身を守るために、神から与えられた相続地、礼拝する神殿があるイスラエルから離れ、弱肉強食の地・ペリシテへと逃れた。
今回の彼の決断に、祭司にエポデを持って来させて御心を伺ったような形跡は、ない。
わざわざイスラエルから離れなくても、イスラエルの片隅に住むでも良かったであろうに、彼は恐れに支配され、信仰を活用せず、世の解決方法に頼ったのだ。
信仰と忍耐によって大成功して、緊張の糸がほぐれ、気が緩んだ狭間に、ふっと、信仰を働かせずに歩んでいた「楽な」時期を思い出し、しばしそれに浸りたくなる時はある。
しかし、その心の隙に入り込んできたそのような思いは、キリストにあってとりこにし、追い出し、その隙間を賛美と感謝で満たさなくてはならない。
ひと度、礼拝する習慣から離れて、世の価値観に従い、自分の力でやりくりする生き方に入るなら、どんどん泥沼へと沈んで行き、抜け出すのが困難になってしまうからだ。
『こうしてダビデは、共にいた六百人と一緒に、立ってガテの王マオクの子アキシの所へ行った。ダビデと従者たちは、おのおのその家族とともに、ガテでアキシと共に住んだ。ダビデはそのふたりの妻、すなわちエズレルの女アヒノアムと、カルメルの女でナバルの妻であったアビガイルと共におった。ダビデがガテにのがれたことがサウルに聞えたので、サウルはもはや彼を捜さなかった。』(1サムエル記27:2-4)
ダビデは確かに、当初の目論み通り、サウルに追われなくて済むようには、なっただろう。
その方面では、確かに平和は訪れたかもしれない。
しかし、礼拝の無い地、神を敬わない地に住み続けるためには、異邦の習慣に染まり、異邦の価値観での”実績”を挙げ続けなくてはならなくなる。
世の方法に頼って生きる生活は、一方の問題を抑えても、さらなる問題が四方八方から吹出してしまうもので、彼はこれを機に、世の方法で走り続けなくてはならなくなってしまった。
『さてダビデはアキシに言った、「もしわたしがあなたの前に恵みを得るならば、どうぞ、いなかにある町のうちで一つの場所をわたしに与えてそこに住まわせてください。どうしてしもべがあなたと共に王の町に住むことができましょうか」。アキシはその日チクラグを彼に与えた。こうしてチクラグは今日にいたるまでユダの王に属している。ダビデがペリシテびとの国に住んだ日の数は一年と四か月であった。』(1サムエル記27:5-7)
ダビデは、ペリシテの王アキシュに気に入られるために、遠くの街に住まわせて下さい、と、気を遣った。
ダビデは元々、ペリシテの敵側の将だったからだ。
悪徳業者の社員が”良い実績”を上げていくために、騙し、脅し、暴力など血も涙もない性質こそ「良い価値観」として自分に言い聞かせ、訓練して行くように、ダビデはペリシテの王に気に入られようとした時点で、ペリシテ流の、血も涙もない「実績」を上げ続けなくてはならなくなってしまったのだ。
『さてダビデは従者と共にのぼって、ゲシュルびと、ゲゼルびとおよびアマレクびとを襲った。これらは昔からシュルに至るまでの地の住民であって、エジプトに至るまでの地に住んでいた。ダビデはその地を撃って、男も女も生かしおかず、羊と牛とろばとらくだと衣服とを取って、アキシのもとに帰ってきた。』(1サムエル記27:8)
ペリシテ流の価値観は、弱肉強食である。弱い者・騙される者が愚かで、強い者・騙してでも奪った者が、勝者なのだ。
ダビデは、相手が異邦人とはいえ、町々を襲い、男も女も生かさずに略奪して生活するという、神の民から程遠い生活、ペリシテ人流の価値観で自活して行く者となってしまった。
ダビデは勇士であり、統率力も、人望も、実績もある。
世に降っても、そこそこの地位へと上りつめる自信は、あったかもしれない。
しかし、神の国から離れ、自分の腕で切り盛りしていこうとする人に対する「世からの要求」は、どんどん過酷になって行く。
礼拝から離れ、主に信頼する信仰生活から離れ、世の王に取り入り、自分の力や知恵、人望、実績などをアピールし、切り盛りして行こうとするクリスチャンは、必ず、このジレンマに陥る。
『アキシが「あなたはきょうどこを襲いましたか」と尋ねると、ダビデは、その時々、「ユダのネゲブです」、「エラメルびとのネゲブです」「ケニびとのネゲブです」と言った。ダビデは男も女も生かしおかず、ひとりをもガテに引いて行かなかった。それはダビデが、「恐らくは、彼らが、『ダビデはこうした』と言って、われわれのことを告げるであろう」と思ったからである。ダビデはペリシテびとのいなかに住んでいる間はこうするのが常であった。』(1サムエル記27:10-11)
ダビデは、カムフラージュの生活、仮面の生活を送らざるを得なかった。
すなわち、表向きはイスラエルの町々を襲っているかのように見せかけ、実は、異邦の町を襲い、かろうじて神の民イスラエルの民に手をかけるという事を避けていた。
ペリシテの王から見れば、ダビデはイスラエルに憎まれる事をしている、と見せているのだが、それを通すために、女子供さえ皆殺しにし、口を封じるようにしている。
一つの嘘をつくと、別の嘘で塗り固め、それをフォローするために、さらに別の嘘をついたり、偽りの行ないをしたり、アリバイ作りなどをしなくてはならなくなり、罪がどんどん重ねられて行ってしまうのだ。
『アキシはダビデを信じて言った、「彼は自分を全くその民イスラエルに憎まれるようにした。それゆえ彼は永久にわたしのしもべとなるであろう」。』(1サムエル記27:12)
ダビデは、確かにペリシテの王アキシュからの信頼を深めたかもしれない。
しかしペリシテの王に「ダビデはイスラエルを平気で襲う」と、ひと度思わせてしまったなら、アキシュはダビデを、イスラエルを襲う事のプロとして見るようになり、さらに要求も過酷になって行く。
私達も、世の上司に気に入られるために、神に喜ばれない行動をし続けるなら、上司はますますそちら方面で評価をし、この者は肝っ玉が座っている、それならもっと高度な事をしてもらおう、と、もっと神に喜ばれない事をさせられるようになってしまうのだ。
そしてついに、ダビデにとって最も望ましくない事を、要求されてしまう。
『そのころ、ペリシテびとがイスラエルと戦おうとして、いくさのために軍勢を集めたので、アキシはダビデに言った、「あなたは、しかと承知してください。あなたとあなたの従者たちとは、わたしと共に出て、軍勢に加わらなければなりません」。ダビデはアキシに言った、「よろしい、あなたはしもべが何をするかを知られるでしょう」。アキシはダビデに言った、「よろしい、あなたを終身わたしの護衛の長としよう」。』(1サムエル記28:1-11)
なんとダビデ、ペリシテの側の軍勢として、一緒にイスラエルの民を襲おう、と持ちかけられ、それに対し「よろしい」と答えてしまう。
この言葉によって、ダビデはますますアキシュの歓心を得、終身雇おう、との確約を得た。
世から見れば、ダビデはわずか一年数ヶ月での大昇進だ、すごい、となるだろう。
ダビデは果たして、ペリシテ王の護衛の長という”終身雇用”の保証を得た事を、喜べただろうか。
ダビデは、サウルに追われながらでも、イスラエルの一つの町・ケイラがペリシテに襲われていると聞いた時、主に伺って、行って、ケイラを救った人だ。
ダビデの心には、とてつもない嵐が吹き荒れていたのではなかろうか。
ダビデはきっと、自分はなんという生き方へと、嵌り込んでしまったのだろう、なんという生き方へと、妻たちや部下たちを導いてしまったのだろう、と思っただろう。
こんな事なら、サウルに追われながらでも、いのちの危険がありながらでも、信仰者として恥じない生活をし、神の民として誇りをもって生きていたほうが、どんなにましだっただろう、と。
この大きな後悔は、彼の後の「信仰者としての人生」に、強固な補強剤となっただろう。
『人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。治める者の歓心を得ようとする人は多い、しかし人の事を定めるのは主による。』(箴言29:25-26)
世に妥協し、世に取り入ろうとするクリスチャンは、この葛藤に陥ってしまい、そこから抜け出せないでいると、どんどん泥沼へと沈んで行ってしまう。
しかし、それでも主を求め、自分のどうしようもない弱さ、罪を後悔し、悲しみ、主に助けを求める人は、主が必ず助けて下さる。
もちろん、ただでは済まされず、少々荒治療的ではあるけれど、主は、愛する聖徒を、まっさかさまに倒す、という事はされないのだ。
サウルに槍を返し、逆に槍を封じたダビデ(1サムエル記26:17-25)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-6-4 23:50
礼拝説教メッセージ音声:サウルに槍を返し、逆に槍を封じたダビデ(1サムエル記26:17-25):右クリックで保存
サウルは、またしても自分がダビデから憐れみを受け、殺されても仕方がないのに、見逃してもらった事を悟り、言った。
『「わが子ダビデよ、これはあなたの声か」。ダビデは言った、「王、わが君よ、わたしの声です」。』(1サムエル記26:17)
サウルはダビデを「わが子」と呼びかけた。
2度も、主とダビデからの憐れみを受け、心刺されたのだろう。
『ダビデはまた言った、「わが君はどうしてしもべのあとを追われるのですか。わたしが何をしたのですか。わたしの手になんのわるいことがあるのですか。王、わが君よ、どうぞ、今しもべの言葉を聞いてください。もし主があなたを動かして、わたしの敵とされたのであれば、どうぞ主が供え物を受けて和らいでくださるように。』(1サムエル記26:18-19a
ダビデは、サウルを責めたり、罵ったりする事をせず、主がこの事を判断してくださるように、と言って、物事のジャッジは主に根拠を置くように、サウルに仕向けさせた。
もし、サウルにダビデの命を狙い追わせたのが主から出た事であるなら、主はそれをたやすく成功させて下さったであろう。
けれども現実はそうでなく、逆に、ダビデのほうがたやすくサウルの命を奪える立場へと、2度も置かれた。
最初にダビデがサウルを見逃してあげた時、『どうぞ主がさばきびととなって、わたしとあなたの間をさばき、かつ見て、わたしの訴えを聞き、わたしをあなたの手から救い出してくださるように」。』(1サムエル記24:15)と言った。
それを主は聞き入れて、正しくさばいて下さった。
主の軍配は2回ともダビデの側に上がり、ダビデの命を付け狙うサウルの側には無い事を、誰の目にも明らかにして下さったのだ。
『もし、それが人であるならば、どうぞその人々が主の前にのろいを受けるように。彼らが『おまえは行って他の神々に仕えなさい』と言って、きょう、わたしを追い出し、主の嗣業にあずかることができないようにしたからです。』(1サムエル記26:19b)
サウルをダビデを殺したい気持ちへと突き動かした源が、「人(原文:アダムの子)」からのものであれば、それは呪われるように、と、ダビデは宣言した。
実際、そのような性質は、呪われるべきである。
次のように書いてあるからだ。
『主の憎まれるものが六つある、否、その心に、忌みきらわれるものが七つある。すなわち、高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき人の血を流す手、悪しき計りごとをめぐらす心、すみやかに悪に走る足、偽りをのべる証人、また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである。 』(箴言6:16-18)
『それゆえ今、主の前を離れて、わたしの血が地に落ちることのないようにしてください。イスラエルの王は、人が山で、しゃこを追うように、わたしの命を取ろうとして出てこられたのです」。』(1サムエル記26:20)
罪なき者の血が流されると、血はその土地の中から叫び、血を流した者は呪われ、さすらい人となってしまう。その事は、アベルの時から今日まで、ずっとそうである。
ダビデは、どうか”イスラエルの王”は、こんな取るに足らぬつまらない者の血を流して、呪われるような事がありませんように、と訴えたのだ。
『その時、サウルは言った、「わたしは罪を犯した。わが子ダビデよ、帰ってきてください。きょう、わたしの命があなたの目に尊く見られたゆえ、わたしは、もはやあなたに害を加えないであろう。わたしは愚かなことをして、非常なまちがいをした」。』(1サムエル記26:21)
サウルは真っ先に「自分が罪を犯した」と認めた。愚かなことをして、非常なまちがいをした、と。
実に大きな前進である。
憐れみは、人を成長させるのだ。
しかし、いかに何度も憐れみをかけて悔い改めを導いても、結局その人が悔い改めに相応しい実を結び続けられるかどうかは、本人次第だ。
悔い改めを告白したその言葉に、相応しい心を継続して保ち、それに相応しい行動を行い続けるなら、その人はさらに、主からの応援と祝福を頂く事ができて、どんどん良くなる。
しかし、その努力をしないで、以前の罪深さに逆戻りし、相変わらず邪悪な行ないをし続けてしまうなら、罪に罪を重ねる事になってしまう。
サタンに責め立てられる機会をさらに作ってしまい、もはや憐れみは届かなくなって、ついには永遠に救いの機会を失ってしまう。
『ダビデは答えた、「王のやりは、ここにあります。ひとりの若者に渡ってこさせ、これを持ちかえらせてください。主は人おのおのにその義と真実とに従って報いられます。主がきょう、あなたをわたしの手に渡されたのに、わたしは主が油を注がれた者に向かって、手をのべることをしなかったのです。きょう、わたしがあなたの命を重んじたように、どうぞ主がわたしの命を重んじて、もろもろの苦難から救い出してくださるように」。』(1サムエル記26:22-24)
ダビデの言うとおり、命を大切にする人は、主が、その人の命を大切にされる。
サウルはその槍で、人のいのちを粗末にしつづけたが、主は、いのちを大切にしたダビデの手に、サウルのいのちを2度も渡された。
ダビデはその槍を、サウルに持ち帰らせた。
これから後、その槍は、すなわち、何度もダビデに向かって投げ、ヨナタンにも投げ、あるいは他にも多くの人に対して投げつけたかもしれない、その槍は、サウルにとって戒めのしるしとなるだろう。
私達も、誰かに槍を投げつけられるかもしれないが、その槍は取り上げるよりも、主にあって諭した後に、本人に返してやるほうが、はるかに効果的である。
『サウルはダビデに言った、「わが子ダビデよ、あなたはほむべきかな。あなたは多くの事をおこなって、それをなし遂げるであろう」。こうしてダビデはその道を行き、サウルは自分の所へ帰った。』(1サムエル記26:25)
こうしてダビデとサウルは、別れ別れになった。彼らにとって、これが今生の別れとなった。
ダビデははその後、神の国イスラエルから離れ、ペリシテへと向かう。
サウルは自分の所に帰ってくるように、と言っているし、万一、サウルが再びダビデの命を狙う事になっても、主はきっと守られるであろうが、ダビデは恐れたのだ。
ダビデは、まだまだこれから整えられるべきところがあり、そのために苦難も待ち受けているが、主にあって整えられ守られていく。
それはやはり、主に愛されているからであり、彼の整えが主の基準に達した時、彼は永遠に名を残す王として、諸々の実績をさらに残して行くのだ。
礼拝説教メッセージ音声:居眠りして油注がれた王を守らず(1サムエル記26:13-25):右クリックで保存
主は再び、サウルを簡単に殺せる立場へとダビデを置かれたのに、ダビデはそれをしなかった。
しかしダビデは、この起きた事を、サウル達に知られずに置くような事は、しなかった。
主はダビデを守っておられ、サウル達こそ御心を外して行動している、という事を、彼らに分からせるためである。
『ダビデは向こう側に渡って行って、遠く離れて山の頂に立った。彼らの間の隔たりは大きかった。ダビデは民とネルの子アブネルに呼ばわって言った、「アブネルよ、あなたは答えないのか」。アブネルは答えて言った、「王を呼んでいるあなたはだれか」。』(1サムエル記26:13-14)
ダビデは、サウル王ではなく、将軍アブネルのほうを名指しで呼んだのに、アブネルは「”王を”呼んでいるあなたはだれか」と答えた。
彼がサウル王の部下の筆頭であり、代理であるからだろう。
『ダビデはアブネルに言った、「あなたは男ではないか。イスラエルのうちに、あなたに及ぶ人があろうか。それであるのに、どうしてあなたは主君である王を守らなかったのか。民のひとりが、あなたの主君である王を殺そうとして、はいりこんだではないか。あなたがしたこの事は良くない。主は生きておられる。あなたがたは、まさに死に値する。主が油をそそがれた、あなたの主君を守らなかったからだ。いま王のやりがどこにあるか。その枕もとにあった水のびんがどこにあるかを見なさい」。』(1サムエル記26:15-16)
彼らが眠り込んでいたのは、主が送られた深い眠り故であったが、アブネルが自分の立場を王の代理・王の部下の筆頭として自認し、表明したからには、彼がした事、すなわち、眠りこけて、主が油注がれた彼らの主君を守っていなかった事は、致命的なミスである。
実を言うと、私達も、このような致命的なミスをよくしてしまうものだ。
ダビデが16節で言った「油注がれた者」のヘブライ語は「マシヤハ(メシヤ)」、ギリシヤ語の「クリストス(キリスト)」に相当する。
だから16節の言葉は、「おまえのやったことは良くない。主に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、キリストを見張っていなかったからだ。」という事になる。
キリストの命が狙われていて、キリストを守るべき時に、眠りこけて守らず、キリストを死に追いやってしまう・・・。
どこかで聞いた話である。
イエス様の弟子達が、ゲッセマネの園でそれをしたし、私達も幾度、それをしているだろう。
『それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。』(マタイ26:36-38)
イエス様は最初、弟子達に「ここに”すわって(カスィゾー:座る)”いなさい」と言った。
次に、ペテロやヨハネ達に「ここに”待って(メノー:とどまる、座る)”いて、わたしと一緒に「目をさましていなさい(グレゴレオー、見張っていなさい)」と言った。
弟子達は、このイエス様の全存在を賭けたかのような必死の祈りの時、共に「座し」「とどまり」、イエス様と一緒に「目を覚まして(見張って)」いればよかったのだが、残念ながら彼らは、眠り込んでしまった。
困難が迫っている時、私達は「座し(カスィゾー)」「とどまり(メノー)」、イエス様と一緒に「目を覚まして、見張って(グレゴレオー)」いるべきである。
『見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都に「とどまって(カスィゾー)」いなさい」。 』(ルカ24:49)
『わたしに「つながって(メノー)」いなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう(I in you.)。枝がぶどうの木に「つながって(メノー)」いなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしに「つながって(メノー)」いなければ実を結ぶことができない。』(ヨハネ15:4)
『だから、「目をさまして(グレゴレオー)」いなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。 』(マタイ24:42)
『そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。』(マタイ26:39-40)
聖霊をまだ受けておらず、自分の力で何とかしようとしていた弟子達は、弱かったのである。
自分の力で霊的な物事を為そうとしても、その意識を覚まし続けている事はできず、眠り込んでしまい、そして、油注がれた方を死へと渡してしまうものである。
だから、イエス様は言われる。
『誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。』(マタイ26:41)
私達も、心は燃えていても肉体は弱い、という事を常に覚えておくべきである。
イエス様には死んでもついて行きたい、と、単発的に熱く思っても、普段から霊に拠って歩まず、肉によって歩んでいるなら、いざという時、ペテロ達のように居眠りしてしまったり、イエス様を知らないと皆の前で宣言してしまったりするものだ。
だから私達は、誘惑に陥らないよう、日々、御言葉を基準に考え行動する事によって、霊的な目を開いておくべきである。
また、肉体は弱いという事を前提に考え、寝るべき時にはしっかりと寝て、与えられている体の体調と時間とを正しく管理すべきだ。
サウルを殺せる二度目のチャンスの時(1サムエル記26:1-12)
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- pastor 2015-6-1 23:50
礼拝説教メッセージ音声:サウルを殺せる二度目のチャンスの時(1サムエル記26:1-12):右クリックで保存
『そのころジフびとがギベアにおるサウルのもとにきて言った、「ダビデは荒野の前にあるハキラの山に隠れているではありませんか」。サウルは立って、ジフの荒野でダビデを捜すために、イスラエルのうちから選んだ三千人をひき連れて、ジフの荒野に下った。』(1サムエル記26:1-2)
ジフ人は、以前もサウルに「ダビデはここにいる」と告げ口し、サウルは「あなたがたはわたしに同情を寄せてくれたのです。どうぞ主があなたがたを祝福されるように。」と言って喜んだ。(23:21)
サウルは一度、主によって、自分のいのちがダビデの手に渡された、というのに、ダビデに憐れみをかけられ命拾いした。
彼はダビデの真実な対応に心打たれ、それに引き換え、自分はずっと悪で返して来た事に号泣し、もうダビデを追わないと、神と人との前で誓ったはずだ。
だから、ジフ人に再び「ダビデはここにいる」と言われた時、もう自分は彼を追わないと断るのが筋のはずなのに、サウルはまたしても、いとも簡単に、その誓いを翻してしまう。
ダビデは、ジフ人にされた事を全て主へ持って行って「彼らは神をおのが前に置くことをしません。」と訴えた。(詩篇54編)
せっかく、ダビデを付け狙うという「罪」をやめたサウルに、再び、いらぬ情欲を燃え立てるよう、そそのかしたジフ人達は、自分の前に神を置くことなどしない者達なのだ。
ダビデはそんな彼らに宣言している。
『見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです。神はわたしのあだに災をもって報いられるでしょう。あなたのまことをもって彼らを滅ぼしてください。わたしは喜んであなたにいけにえをささげます。主よ、わたしはみ名に感謝します。これはよい事だからです。あなたはすべての悩みからわたしを救い、わたしの目に敵の敗北を見させられたからです。』(詩篇54:4-7)
ダビデは、相手が自分を陥れるような事をした時、その相手に自分の手で仕返ししたりせず、相手と自分との間に主を置いて、その相手の事は主に委ねた。
これが聖なる国民、天に属する王族の者のたしなみである。
『サウルは荒野の前の道のかたわらにあるハキラの山に陣を取った。ダビデは荒野にとどまっていたが、サウルが自分のあとを追って荒野にきたのを見て、斥候を出し、サウルが確かにきたのを知った。』(1サムエル記26:3-4)
当時はレーダーも携帯電話も無く、情報は人づてに聞くか、自分の目と足で得るしか無い時代である。
それなのに、ダビデはいつも、サウルの動向を事前にキャッチした。
彼は神から愛され、人から愛され、その両者から守られていたからだ。なぜなら彼が為す事は、いつも「真理」に叶っていたからだ。
『そしてダビデは立って、サウルが陣を取っている所へ行って、サウルとその軍の長、ネルの子アブネルの寝ている場所を見た。サウルは陣所のうちに寝ていて、民はその周囲に宿営していた。』(1サムエル記26:5)
この陣営は三千人の精鋭の兵達であり、彼らはこぞって、自分を狙っている。
近寄るだけでも危険な筈なのに、ダビデはその陣営を見ると、なんと、もっと近寄って行った。
彼にはきっと、主にあって自分には害は無い、という確信があったのだろう。
『ダビデは、ヘテびとアヒメレク、およびゼルヤの子で、ヨアブの兄弟であるアビシャイに言った、「だれがわたしと共にサウルの陣に下って行くか」。アビシャイは言った、「わたしが一緒に下って行きます」。』(1サムエル記26:6)
ダビデが信頼を置いている側近が、二人いた。
その一人は、ヘテ人アヒメレク。
ヘテ人といえば、カナンの末裔で、ヨシュア記では聖絶の対象の民族であるはずだが、きっと彼も、ラハブのようにイスラエルの神・主に回心したのだろう。
サウルは間違った熱心ゆえに、イスラエルの中に住む異邦人を殺そうとしたため(2サムエル記21:2)、彼も、サウルから逃げてきたのかもしれない。
アヒメレクは、異邦人と言えど、優秀な人材だったのだろうし、ダビデも、主に立ち返った異邦人を差別する事なく、側近として用いていたのだろう。
もう一人は、ダビデの血縁・ゼルヤの子アビシャイで、彼は後に、勇士たちの長となり、槍を振るって三百人を倒すほどの、槍の達人である。(2サムエル記23:18)
『こうしてダビデとアビシャイとが夜、民のところへ行ってみると、サウルは陣所のうちに身を横たえて寝ており、そのやりは枕もとに地に突きさしてあった。そしてアブネルと民らとはその周囲に寝ていた。アビシャイはダビデに言った、「神はきょう敵をあなたの手に渡されました。どうぞわたしに、彼のやりをもってひと突きで彼を地に刺しとおさせてください。ふたたび突くには及びません」。』(1サムエル記26:7-8)
またしても、サウルをいとも簡単に殺せる機会が訪れた。
サウルは前回の警告を無視し、またもダビデのいのちを狙って来た、からには、ダビデは彼に手にかけても、誰も文句を言わなかっただろう。
あるいは、自分は手を汚さず、部下アビシャイに全てを任せる事もできただろう。アビシャイなら音も立てずに殺す事は出来ただろうし、彼も、自信をもって申し出ている。
『しかしダビデはアビシャイに言った、「彼を殺してはならない。主が油を注がれた者に向かって、手をのべ、罪を得ない者があろうか」。ダビデはまた言った、「主は生きておられる。主が彼を撃たれるであろう。あるいは彼の死ぬ日が来るであろう。あるいは戦いに下って行って滅びるであろう。主が油を注がれた者に向かって、わたしが手をのべることを主は禁じられる。しかし今、そのまくらもとにあるやりと水のびんを取りなさい。そしてわれわれは去ろう」。』(1サムエル記26:9-11)
ダビデは、アビシャイにサウルを殺させるとしても、それは「わたしが手をのべること」とした。
自分が行動していなくとも、上の立場である自分が黙認した事は、自分がしたのと同じなのだ。
彼は以前サウルと洞窟で相対した時や、ナバルとの一件で、既に学んだのだ。
自分が仕返しする事は、ただ悪への道であり、この主が油注がれた王については、主に任せる事が一番である事を。
『こうしてダビデはサウルの枕もとから、やりと水のびんを取って彼らは去ったが、だれもそれを見ず、だれも知らず、また、だれも目をさまさず、みな眠っていた。主が彼らを深く眠らされたからである。』(1サムエル記26:12)
主は、彼らを深く眠らせている。
ことごとく主が自分に味方しておられるからには、自分のしている道は正しかった、主はやがてサウルを打たれ、自分は必ず守られるだろう、と、確信したのだ。
主は、サウルはをいつでも打つことは出来たが、憐れみ深いのが主である。
ダビデはサウルを逃す事によって、言ってみれば主の憐れみに「加担」したのだ。
私達もダビデのように、自分で復讐する事なく、全て主に任せ、主の事業に「加担」し、ますます主に用いられ引き上げられて行く者でありたい。