メッセージ - 201507のエントリ
礼拝説教メッセージ音声:帝王学書の最終章(1サムエル記31:1-13):右クリックで保存
第一サムエル記の最終章は、御声に逆らい続けたサウル王の悲惨な最後で終わる。
最後の夜、サウルは口寄せ女に頼ったが、「明日は死ぬ」という絶望的な示し以外には何物も得られなかった。
そして来たるその日、サウルは何の助けも無いまま、到底勝ち目の無い戦場へと、部下や息子達を率いて進み出ざるを得なかった。
『さてペリシテびとはイスラエルと戦った。イスラエルの人々はペリシテびとの前から逃げ、多くの者は傷ついてギルボア山にたおれた。ペリシテびとはサウルとその子らに攻め寄り、そしてペリシテびとはサウルの子ヨナタン、アビナダブ、およびマルキシュアを殺した。』(1サムエル記31:1-2)
あの素晴らしい信仰者・ヨナタンも、この時殺されてしまった。
2サムエル記1章でダビデが歌っている「弓の歌」では、「ヨナタンの弓は最後まで退かなかった」と記されているので、彼はきっと、父であり油注がれた王であるサウルを守るため、最後まで弓を絞りつつ立派に死んで行ったのだろう。
また、いつもサウルと共にいた精鋭の兵達も、皆倒れた。
サウルがダビデを追う時も、サウルが口寄せに聞きに行こうとした時も、サウルを諌めずに一緒にダビデを追い回し、尋ねられるままに口寄せの所へと導いて行った、あの部下達である。
無情な事であるが、ヨナタンのような素晴らしい信仰者も、権威者におもって何も言えないイエスマンも、共に、主に従わない家族や主君に最後まで従うとするなら、その者が受けるべき災いを等しく受けてしまうのだ。
『そこでサウルはその武器を執る者に言った、「つるぎを抜き、それをもってわたしを刺せ。さもないと、これらの無割礼の者どもがきて、わたしを刺し、わたしをなぶり殺しにするであろう」。しかしその武器を執る者は、ひじょうに恐れて、それに応じなかったので、サウルは、つるぎを執って、その上に伏した。武器を執る者はサウルが死んだのを見て、自分もまたつるぎの上に伏して、彼と共に死んだ。』(1サムエル記31:4-5)
サウルの最後は、矢傷を受けて敵が迫っているのに、介錯をしてもらえず、やむなく、自ら自害するというものだった。
なお、第二サムエル記1章には、サウルは最後の最後、まだ息があるのにひどいけいれんが起こったため、そばにいたアマレクの若者にとどめを刺してもらった、というアマレク人の証言がある。
自刃してもなお死にきれず、最後にアマレク人に止めを刺されたのか、それとも、アマレク人は褒美欲しさに「自分がとどめを刺した」とうそぶいたのか、定かではないが、いずれにせよ、アマレク人がサウルの死に関わったのは確かである。
サウルの死後、彼の王冠と腕輪はアマレク人に盗まれ、ダビデへと渡されてしまった。(2サムエル記1:10)
サウルは、聖絶せよと言われたアマレクを聖絶せずにいて、そのアマレクによって王冠が奪われ、そえれはダビデへと手渡される。
実に象徴的だ。
そして、サウルが恐れていた通り、彼の遺体は無割礼の者どもに、好き放題にされてしまった。
サウルの遺体がペリシテ人によって首を胴体から切り離され、彼の鎧は偶像の宮に安置され、彼とその子達の遺体はベテシャンの城壁にくぎづけに晒されてしまった。(1サムエル記31:8-10)
彼の最後が、このように悲惨なものになってしまったのは、彼は普段から主からの「方向修正せよ」というサインを、ことごとく無視し続けたからだ。
彼は預言者を退け、祭司を虐殺し、油注がれたダビデをも殺そうと執拗に追いかけ、ついには預言者にも祭司からも、油注がれた者からもそっぽ向かれ、そして最後には、主が忌み嫌われる口寄せに頼るという、信仰とは程遠い歩みをして、それを止めなかった。
結局彼は、長い信仰生活の間、「主により頼む」という信仰を育まず、ついには、与えられていた長い憐れみの期間を使い尽くしてしまい、リミットが来て、このような悲惨な最後になってしまったのだ。
ある人は思うかもしれない。サウルをこのような悲惨な死に方をさせた主は、非道い、と。
しかし私達は、サウルの放埒な歩みを長い間忍耐し、方向修正の指示を何度もし、チャンスを何度も与えて下さった主の憐れみと忍耐を思うべきであり、そしてサウルの悲惨な最後から教訓を得て、彼のような頑なさと不信仰を、速やかに捨てるべきである。
『ヤベシ・ギレアデの住民たちは、ペリシテびとがサウルにした事を聞いて、勇士たちはみな立ち、夜もすがら行って、サウルのからだと、その子たちのからだをベテシャンの城壁から取りおろし、ヤベシにきて、これをそこで焼き、その骨を取って、ヤベシのぎょりゅうの木の下の葬り、七日の間、断食した。』(1サムエル記31:11-13)
このヤベシ・ギレアデは、サウルが王になった当初、サウルに救ってもらった町である。(1サムエル記11章)
サウルは、最初の信仰の行い故に、そのささやかな報いを受ける事ができた。
そして、ここで第一サムエル記は終了している。
第一サムエル記は、イスラエル最後の士師でありキングメーカーであるサムエルの誕生に始まり、イスラエル最初の王・サウルが立てられたものの、彼の不信仰ゆえに主の御心は彼から離れ、ダビデへと移り、そして、不信仰を続けたサウルの悲惨な死で終わった。
サウルとダビデ、この二人の「王」の対照的な生き様が、際立ったコントラストをもって記されていたが、この書は、ダビデのような信仰者を目指して生きたいという願いを持ちながら信仰をもって読むなら、優れた「帝王学」の書となる。
帝王学とは、将来王となる人が受ける特別教育であり、私達は、ダビデの信仰と寛容、困難に対する忍耐と気高い対応から、そして、彼の諸々の失敗と信仰による立て直しの経験から、神の国において優れた”王”となるための優れた帝王学を、大いに学ぶ事が出来る。
私達はこの書から、二通りの道を見た。
優れた王となって行くダビデの道と、御声に従わずに身勝手な自分の道を貫こうとしたサウルの道を。
そしてこの書の終わりは、身勝手な道を選んだ王の、悲惨な結末で締めくくられていた。
私達はここから戒めを受け、失敗の道を歩まず、ダビデのように優れた「王」となるべき教育を得ようと務めるべきだ。
キリストにあって、神の国の素晴らしい「王」として、人生を、周囲を正しく治めて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
ダビデが愛され祝福された理由と、その彼の性質(1サムエル記30:21-31)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-7-2 17:28
礼拝説教メッセージ音声:ダビデが愛され祝福された理由と、その彼の性質(1サムエル記30:21-31):右クリックで保存
『そしてダビデが、あの疲れてダビデについて行くことができずに、ベソル川のほとりにとどまっていた二百人の者のところへきた時、彼らは出てきてダビデを迎え、またダビデと共にいる民を迎えた。ダビデは民に近づいてその安否を問うた。』(1サムエル記30:21)
ダビデ達が疲れを押して、命がけて戦いに出て行った時、彼らは疲れて、荷物の所に留まっていた。
そんな彼らの所に戻った時、心穏やかにいられないのが普通かもしれない。
しかしダビデは、自ら彼らに近づいて行き、安否を問うた。
ダビデの子孫・イエス様も、弱く疲れ果て主の戦いを戦えない人を、決して責める事なく、自ら近づいて来て、安否を問うて下さる。
『そのときダビデと共に行った人々のうちで、悪く、かつよこしまな者どもはみな言った、「彼らはわれわれと共に行かなかったのだから、われわれはその人々にわれわれの取りもどしたぶんどり物を分け与えることはできない。ただおのおのにその妻子を与えて、連れて行かせましょう」。』(1サムエル記30:22)
ダビデの集団の中には、「悪く、かつよこしまな者ども」もいたが、教会の中にも、信仰が未熟ゆえ、あるいは弱さゆえに、兄弟姉妹を悪く言う人達がいるかもしれない。
私達は彼らに同意したり、染まったりするのではなく、以下でダビデがしているように神の国の基準を示さなくてはならない。
『しかしダビデは言った、「兄弟たちよ、主はわれわれを守って、攻めてきた軍隊をわれわれの手に渡された。その主が賜わったものを、あなたがたはそのようにしてはならない。』(1サムエル記30:23)
ダビデは明言している。
この勝利は、「主が」与えて下さった、と。
実際、その通りだ。主は、どこに行けば分からないダビデ達の前に、エジプトの若者を備えて道案内をさせ、ちょうど良いタイミングの時に到着させ、あり得ない程の大軍に大勝利し、多くの分捕りが出来たのは、明らかにダビデ達の力や器量のゆえではなく、主のお陰だったのではないか。
『あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。』(申命記8:17-18)
『気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。』(申命記8:11-14)
私達は、大成功したり、願っていたものが与えられた時こそ、つとめて気をつけるべきだ。
望んでいたものが与えられたとたんに、主を忘れ、主に祈り親密に交わる事を止めてしまう、というような事が、無いように。
もし今、何か必要を覚えて祈り求めているとするなら、その必要が備えられた時、いかに主に感謝し、その後、いかに主とともに歩む事を続けて行くべきか、その心備えをしっかりしておくべきだ。
『だれがこの事について、あなたがたに聞き従いますか。戦いに下って行った者の分け前と、荷物のかたわらにとどまっていた者の分け前を同様にしなければならない。彼らはひとしく分け前を受けるべきである」。この日以来、ダビデはこれをイスラエルの定めとし、おきてとして今日に及んでいる。』(1サムエル記30:24-25)
ダビデは、まだイスラエルの王ではなかった時から、この事を後々にも守るべき定めとして定めた。
勝利は主のものであり、天地に満ちているものは全て主のものである。主が与えて下さる勝利と全ての良き賜物は、兄弟姉妹でともに分け合う事が、神の民の標準である。
ダビデはその点、非常にクリアであったため、神と人とから愛されたのである。
ダビデはさらに、分捕りものを多くの町々の人々に贈った。
『ダビデはチクラグにきて、そのぶんどり物の一部をユダの長老である友人たちにおくって言った、「これは主の敵から取ったぶんどり物のうちからあなたがたにおくる贈り物である」。そのおくり先は、ベテルにいる人々、ネゲブのラモテにいる人々、ヤッテルにいる人々、・・・ヘブロンにいる人々、およびダビデとその従者たちが、さまよい歩いたすべての所にいる人々であった。』(1サムエル記30:26-31)
これら町々は、ダビデがサウルから逃げ、さまよい歩いていた時、お世話になった人々であり、またネゲブは、アマレクの略奪隊の被害にあった町々だ。
分捕られた彼らのものを返し、そして、お世話になった所にお礼する事を忘れない。その性質だったからから、ダビデは祝福されたのだ。
『神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」/と書いてあるとおりである。
種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。』(2コリント9:6-12)
ダビデのように、信仰によって大胆に勝利し、多くを分捕り、多くを兄弟姉妹達に分け与え、良きものを継がせて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:失ったもの以上を取り戻す転機(1サムエル記30:9-20):右クリックで保存
ダビデは主にあって奮い立ち、主に伺い、主から示された言葉どおり追撃を開始した。
一度はダビデを石打ちにして殺そうとした部下達だったが、主によって奮い立ったダビデの信仰に、彼らも触発されたのだろう。
彼らはダビデを石打ちにするのではなく、彼の指示に従った。
私達も、失ったものを惜しみ、奪われた事を悲しんで泣いているだけなら、さらに周りから石を投げられるような事になるものだ。世は、信じたとおりになるものだから。
そのような時こそ私達もダビデのように奮い立って「エポデを持って来なさい」と指示し、主の御前に進み出るべきだ。
その時、その人は威厳をまとい、周りの人も、状況も、動きだすのだから。
『そこでダビデは、一緒にいた六百人の者と共に出立してベソル川へ行ったが、あとに残る者はそこにとどまった。すなわちダビデは四百人と共に追撃をつづけたが、疲れてベソル川を渡れない者二百人はとどまった。』(1サムエル記30:9-10)
彼らはこの時、体力も気力も消耗し切っていたのだろう。この状況での進撃は、かなり厳しかったようである。
それでも600人中、400人は川を渡り、進撃を続けた。
具体的に何をすれば良いのか、どこへ行けば良いのか、分からない中でも、主の「進め」という言葉だけが確かに響いている時、私達の為すべき分はただ一つ、進み続ける事である。
その私達に与えられた「分」を果たすなら、主は助けを送り、次に為すべき事を示されるからだ。
『彼らは野で、ひとりのエジプトびとを見て、それをダビデのもとに引いてきて、パンを食べさせ、水を飲ませた。また彼らはほしいちじくのかたまり一つと、ほしぶどう二ふさを彼に与えた。彼は食べて元気を回復した。彼は三日三夜、パンを食べず、水を飲んでいなかったからである。』(1サムエル記30:11-12)
主が送られた助け人、それは、一介の、行き倒れのエジプト人であった。
一見すると何の役にも立たないような、行き倒れ。
そんな小さな者さえ、ないがしろにせず助けてやる人に、主は、隠されていた「助け」を現して下さる。
『ダビデは彼に言った、「あなたはだれのものか。どこからきたのか」。彼は言った、「わたしはエジプトの若者で、アマレクびとの奴隷です。三日前にわたしが病気になったので、主人はわたしを捨てて行きました。わたしどもは、ケレテびとのネゲブと、ユダに属する地と、カレブのネゲブを襲い、また火でチクラグを焼きはらいました」。
ダビデは彼に言った、「あなたはその軍隊のところへわたしを導き下ってくれるか」。彼は言った、「あなたはわたしを殺さないこと、またわたしを主人の手に渡さないことを、神をさしてわたしに誓ってください。そうすればあなたをその軍隊のところへ導き下りましょう」。』(1サムエル記30:13-15)
この、一介の行き倒れが、ダビデ達、および彼らの妻子達を救いだす、重要なキーパーソンへと”大化け”した。
私達も、日々のちいさな物事、特に、美徳と呼ばれるものを、軽んじるべきではない。(ピリピ4:8)
主は、幻や奇跡といった「非日常」にしか現れないと思ったら大間違いである。むしろ主は日常の内に、盗人のように、思いがけず現れるものだ。(ヘブル13:2)
私達の信仰の父・アブラハムも、世の美徳と呼ばれる事を忠実に行ったから、知らない間に主をもてなし、主からの養いを豊かに受けた。
『彼はダビデを導き下ったが、見よ、彼らはペリシテびとの地とユダの地から奪い取ったさまざまの多くのぶんどり物のゆえに、食い飲み、かつ踊りながら、地のおもてにあまねく散りひろがっていた。』(1サムエル記30:16)
ダビデ達は、丁度良い時間に、丁度良いタイミングで、略奪した者達の所に到着した。
彼らはすっかり油断し、散開してあちこちで飲み食いし、酔っ払い、行動力も判断力も鈍っているような、攻めこまれたらひとたまりもないような状況だった。
主は実に、時間も空間も支配しておられる方だ。
『ダビデは夕ぐれから翌日の夕方まで、彼らを撃ったので、らくだに乗って逃げた四百人の若者たちのほかには、ひとりものがれた者はなかった。こうしてダビデはアマレクびとが奪い取ったものをみな取りもどした。またダビデはそのふたりの妻を救い出した。そして彼らに属するものは、小さいものも大きいものも、むすこも娘もぶんどり物も、アマレクびとが奪い去った物は何をも失わないで、ダビデがみな取りもどした。』(1サムエル記30:17-19)
彼らは四百人で攻め入り、一昼夜激しく打って、らくだに乗ってようやく逃げたミデヤン人も、四百人だった。
ダビデ達はどれ程、大勢のアマレクを撃った事だろう。そして、その分捕りはどれ程多かった事だろう。
いかに疲れている状態でも、主の故に進み出て行く時、主は力を与え、疲れを吹き飛ばさせ、主の大いなる御業を見させて下さるのだ。
ヨシュアの時代、太陽と月が一日同じ位置に留まって、天がヨシュア達を助けた時も、彼らは、休まずの行軍と戦いで疲れていたはずだった。
しかし主が力を与え、大いなる奇跡を起こし、彼らの疲れを吹き飛ばしてくださった。
私達も時に疲れ、「なんでこんな人のために、休まずに働かなくてはならないのか」と思える時も、あるかもしれない。
しかし、今働いている事が御国の働きであり、着実に御霊の実を結び続けているのであるなら、たゆまずそれを続けるべきだ。
それを乗り越えた時こそ、主は偉大な事をされるからだ。
『ダビデはまたすべての羊と牛を取った。人々はこれらの家畜を彼の前に追って行きながら、「これはダビデのぶんどり物だ」と言った。』(1サムエル記30:20)
ダビデは、つい先日までは妻子も財産も奪われ、何もない、すっからかんの状態だったのに、それが一転して、一気に大物持ちになった。
ダビデ達がサウルを避けてペリシテに来たのも、妻子や家財が奪われたのも、ダビデの不信仰や弱さの故だったかもしれない。
しかし、そんな自業自得的な災いの中にあっても、主に立ち返り、信仰によって進み出るなら、主はそれさえ益として造り変えられる。
主はなんと恵み深いお方だろう。
私達も主にあって奮い立ち、サタンに奪われたもは、きっちりと取り戻すべきである。