メッセージ - 201508のエントリ

あなたがその男です(2サムエル記12:1-7a)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

前章では、ダビデが今までして来た素晴らしい功績や栄誉を、まるでひっくり返してしまうような、罪深い有り様を見た。

ダビデがした悪は、うまく隠しおおせたかのように見えたが、主は全てを見ておられ、その指摘と報いとをされる。

『主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。』(2サムエル記12:1)
預言者ナタンはかつて、ダビデに永遠に続く家を建てる、という主の言葉を伝えたが、今回、ダビデの隠れた罪を指摘しに来た。

『「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。』(2サムエル記12:1-3)
この話中に出てくる富んでいる人は、ダビデの事を指し、貧しい人とその羊は、ヘテ人ウリヤとその妻バテ・シェバを指している。

この話中の、貧しい人の有り様から、バテ・シェバはウリヤと結婚して以来、彼と一緒の器から食物を食べ、一緒の器から飲み、彼の懐で寝て、とても慕わしく過ごしていた様子が伺える。
ウリヤは元々、イスラエルが忌むべき異邦の民・カナンのヘテ人であったのに、まことの神・主に立ち返り、イスラエルの民に加えられ、彼の純粋な信仰と誠実さと、そして、戦士としての有能さの故に、ダビデの三十勇士の一人に数えられた。
以前は暗闇の民であったのに、今は神の民とされ、与えられた恵みの日々に喜びつつ、愛する妻と共に日々を送っていただろう。
しかし、その幸いな日々は、ダビデ王によってある日突然奪われてしまう。

『時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた「人(イシュ:男)」のために調理した」。』(2サムエル記12:4)
ここで「旅人」と訳されているヘブライ語は「ヘイレフ」、流れる、あるいは旅人の意味であり、また、話中ではこの旅人は「男性」である。
ダビデに流れ来た「男の性欲」という旅人を満足させるため、ダビデは、自分の所に大勢いる妻からは取らず、誠実なウリヤが唯一大切にしている妻、バテ・シェバを取って、ダビデの「男の性欲」を満足させた。
ダビデは、この事を隠れて行ったが、覆われているもので露わにされないものは無い。(ルカ12:2-3)

『ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。』(2サムエル記12:5-6)
ダビデは話中の金持ちに、激しく怒り、死刑宣告をし、なおかつ、四倍にして償いをしなくてはならないと宣告した。
律法には、羊一頭を盗んだ場合、四倍にして償うよう記されてはいるが、死刑にせよ、とまでは書いていない。(出エジプト記22:1)

ダビデは、この喩えが自分に向けて語られた事に気付いていなかったように、人はそれ程、自分が神と人との前に犯してきた罪の数々を覚えておらず、それでいて、他人の犯した罪をよく覚えており、その裁きを、主の基準よりも厳しくし、そうして自分自身を罪に定めてしまうのだ。
『だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。わたしたちは、神のさばきが、このような事を行う者どもの上に正しく下ることを、知っている。ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。』(ローマ2:1-3)
人はなぜか、なんとなく思っている。
「自分は、さばきを免れる」と。
それでいて他人の罪はありありと覚えていて、「さばき主」の立場に立ち、相手への仕返しや報いは、大げさに増し加えようとするものだ。

『それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる。』(ローマ2:4-6)
主は、私達が罪を告白し、悔い改め、主に立ち返って救われる事を願っておられる。
悔い改めるなら、神の豊かな慈愛と寛容によって赦してもらえる。
しかし、主に罪を指摘されても悔い改めず、サウル王のように言い訳したり、力づくで自分の罪を覆い隠そうとしたり、あるいは歴代の王たちがしたように、神から遣わされた預言者を迫害したり、抹殺するなら、その人はさばきの厳しさを増し加えるための燃料を、さらに積み上げているのだ。

ダビデに預言者ナタンが遣わされた時、ダビデは悔い改めた。
だから、彼は今も偉大な王として、その栄誉が語り継がれているのだ。
私達にも、罪が指摘された時、悔い改めの道と、自分の好き勝手な道を貫き通す事と、どちらを選ぶだろうか。

不信仰なわたしをお助けください(マルコ9:14-29)
第一礼拝: Youtube動画 / 音声
賛美集会音声
第二礼拝: Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要

テフィリン教育を真っ先に取り入れ実践しているトォビッ教会の先生や働き人に、テフィリン教育で大切な事は何かと尋ねた所、子供たちに御言葉を暗唱させる事は確かに大事だが、それ以前に、まず親が真理の御言葉によって教育されている事こそ大事だ、と言う事だった。
子供を教育するには、まずは父と母が、子供に提供できる正しい「教えと訓戒」を取り入れる所からである。
今日は、主にあって子育てする親は、どのように問題を克服し、どのように変えられるべきかを学びたい。

『さて、彼らがほかの弟子たちの所にきて見ると、大ぜいの群衆が弟子たちを取り囲み、そして律法学者たちが彼らと論じ合っていた。』(マルコ9:14) イエス様が山から降りて来られた時、イエス様の弟子達が一人の悪霊につかれた子供を癒やせなかった事で、律法学者と議論し、群集に囲まれている場面に出会った。
『イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。』
イエス様が嘆かれた真っ先の事は「不信仰」だ。後で分かるが、この子の父親は主の全能である事を信じていなかったし、弟子達にも、祈りが無かった。彼らは、子供の良くない様や悪霊の力は見ていても、主に対する信仰も、祈るというたしなみも無く、ただ議論をしていたのだ。
イエス様は言われる。「その子をわたしに連れて来なさい」と。
『霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。』(マルコ9:22-23)
イエス様はまっすぐ父親に向かった。この、父親の今までの心意気こそが問題だと、見抜いたからだ。
自分自身とイエス様の関係を抜きにして、人に任せっぱなしの状態では、何も起きない。子供の問題、病や悪霊の問題、経済や健康の問題などを主の弟子達や教会に「できるものなら」と丸投げし、それで解決されないなら議論したり人のせいにして、そうして本人自身の信仰は全く放ったらかしにされているからだ。

トォビッ教会でも、テフィリンと出会う前から子供教育に力を入れ、色々な試みをして来たが、やはり壁となったのは「親の信仰」の問題だったという。子供を教会の幼稚園に預かって御言葉に沿った教育をすると、確かに子供達は良い方に変わるのだが、ある子は、家に帰ると悪い状態に戻ってしまい、その悪い状態で戻って来た子が、他の子達にも悪い影響を与え、全体的に悪い方に平均化されてしまうのだ。
そこで親子同時教育をするために、親と子を毎日教会に集め「共同育児」の試みもしたが、今度は教会が色々やってくれるから、教会に任せておけばいい、という雰囲気になってしまった。そこで親の御言葉で教育する事に重点を置き、教会に頻繁に集わせず、自分の子は自分の家でしっかり面倒見るようにさせた。
そうした試行錯誤の中、テフィリンに出会ったという。私達は、この教会の貴重な経験に学ぶべきだ。

『その子の父親はすぐ(KJV:涙と共に)叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。』
父は悟った。子供が助けられる以前に、不信仰な自分こそ、何より先ず助けられる必要があったのだ、と。
私達も、涙と共に、主に心から叫ぶべきである。親として、長として足りていない自分を救って下さい、自分からイエス様と関係を持たずに来て、何もかも誰かに丸投げにしていた、不信仰な私をお救い下さい、と。
イエス様に「救って下さい」と叫ぶ時、諸々の問題が解決する下地が整えられる。

『すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。』 本当に良くなる直前、悪霊やサタンは最後の打撃を与え、最悪の状態になったと絶望させるが、イエス様が手を取って起こしてやったように、私達も手を差し伸べるなら起きるのだ。
マタイの並行箇所(17:21)や、KJVでは、この類は「祈りと断食」が必要だと記している。
自分の好む事を止め(断食)、それと引き換えに、ただ神様に向き合う「祈り」に入る事。それが必要だ。
まずは自分自身が御言葉によって整えられ、自分から主に向き合い、自分で祈り、そうして問題を主と主の言葉に持っていくなら、主の素晴らしい栄光を見るのだ。

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
流された血と涙を覚えておられる主(2サムエル記11:26-27)
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マタイによる福音書講解説教メッセージ
終わりの時のはじまりは(マタイ24:1-14)
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イザヤ書講解説教メッセージ
モアブに対する宣告:親族を救う事へのうめき(イザヤ15章)
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【概要】

イザヤ書15章を通して、モアブに対する神の裁きと哀れみについて語られています。

【聖書箇所】

イザヤ書15章1-9節

【戒めの言葉】

神の恵みから離れることは、人を残虐にし、最終的には滅びに至らせます。

【悔い改めの促しの言葉】

神様は長く忍耐されますが、悔い改めないなら最後には裁きが来ます。

【***詳細***】

今日の箇所はイザヤ書15章です。1節から9節までありますが、まず1節を読みます。

「モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅び果てた。」

この章は、イスラエルの南東に位置するモアブの国に対する神の警告の言葉です。前回までのアッシリアやバビロンに対する裁きの宣告とは異なり、モアブに対する神の言葉には悲しみが満ちています。神の哀れみと愛を感じさせる内容となっています。

モアブの起源を振り返ると、モアブはロトの子孫です。ロトはアブラハムの甥であり、ソドムとゴモラから逃れた後、自分の娘たちとの関係から生まれた子がモアブとアンモンの先祖となりました。つまり、モアブはアブラハムの親戚関係にあたります。

しかし、モアブは偶像崇拝に陥り、ケモシュという偶像を拝み、子供を焼いて捧げるような残虐な宗教を行っていました。イスラエルとモアブの関係は、まるで私たちクリスチャンが少数派である日本で、偶像礼拝をする親戚がいるような状況に似ています。

皆さんも、もし偶像礼拝をする親戚や家族がいたら、その人たちが救われることを願うでしょう。どんなに長い間嫌がらせをされても、blood関係の人が救われることを祈り続けるものです。

しかし、何度も悔い改めを促しても悔い改めず、主の御言葉を伝えても受け入れず、イエス様の憐れみを示しても受け取らないなら、やがて主の時が来てしまいます。

モアブは何度も何度も神のイスラエルを攻撃し、嫌がらせを続けました。ついに、アッシリアによってモアブの町々は短期間のうちに滅ぼされてしまいます。

2節を見ると、「モアブは宮に、ディボンは高き所に、泣くために登る。ネボとメデバのことでモアブは泣き喚く。頭は皆丸くなり、ひげは皆切り取られる。」

様々な地名が出てきますが、これらはモアブの主要な町々です。歴史的には、アッシリアによってこれらの町々はたちまちに飲み込まれるように滅ぼされてしまいます。

モアブの人々は、自分たちの偶像の神々に助けを求めますが、それらは何の力も持ちません。たとえ自分の子供を犠牲として捧げても意味がありません。人が作った神は、絶対に応答しないのです。

主は、このモアブのために叫ぶと言っています。神はもともとアブラハムの親族として救われることを望んでいました。アブラハムもロトのために取り次ぎの祈りをしました。しかし、モアブは立ち返ることをせず、ついに滅ぼされるべき時が来てしまったのです。

人は働くと給料をもらいますが、同様に悪いことをすれば、その報いとして災いを受けることになります。ロトはアブラハムと共に出発しましたが、アブラハムから離れて罪の地に住み、ソドムとゴモラから救い出されても、アブラハムのもとに戻ることなく、自分の好きなところに住み、罪の子孫を産みました。

アブラハムから離れれば離れるほど、ロトの子孫は悪くなっていきました。最終的には、自分の欲を満たすために子供まで焼いてしまうほどになってしまいました。これは恐ろしいことです。神の恵みから遠ざかると、人は残虐になっていくのです。

神の恵みを一度味わって、その後恵みから離れた者は、その時間が長ければ長いほど、神に反逆し、残虐な人間になります。モアブがまさにそうでした。

ロトがソドムとゴモラから逃げるとき、神の使いは山、つまりアブラハムの住んでいる方向に逃げるよう指示しました。しかし、ロトは低地の方向に逃げました。これが運命の分かれ道となったのです。

アブラハムと共にいれば、このようなことは起こらなかったでしょう。私たちは、信仰を貫く人々がいるところに自分の身を置くべきです。ロトは助かりましたが、信仰がない場所に行き、そこで罪を犯し、モアブとアンモンという民族が生まれました。その結果、後には自分の子供を焼いて偶像に捧げるまでに堕落していったのです。

5節には、「わたしの心はモアブのために叫ぶ。逃げる者はツォアルまで、エグラテ・シェリシヤまで行く。ルヒトの坂を泣きながら登り、ホロナイムの道で破滅を嘆き叫ぶ。」とあります。

モアブの北から南まで、全土にわたって嘆き叫ぶ声が聞こえてくると預言しています。

神は好んでモアブ人を殺すわけではありません。この15章には何度も「ああ」という言葉が出てきます。神の深いうめきを感じさせる章です。

罪から来る報酬は死です。人が自由意志を持って罪とその報酬である死を選び続ける限り、神にはどうすることもできません。

私たちも、神を知らない人々、伝道しても神を敬わない人々がいるなら、福音を伝え、取り次ぎの祈りをすべきです。モアブはイスラエルを呪いましたが、神の民を呪うことは、神を呪うのと同じです。

モアブに対して神の憐れみがあったのは、アブラハムの取り次ぎの祈りがあったからです。長い間、アブラハムの祈りのおかげで、モアブには猶予期間が与えられていました。取り次ぎの祈りは本当に大切です。

【結論】

私たちは、家族や親族、友人たちのために取り次ぎの祈りを続け、福音を伝え続けるべきです。神の恵みから離れないよう気をつけ、悔い改めて主の御前に立ち返ることが大切です。救いのために祈り、伝道に励む者となりましょう。

つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
いのちと死の二者択一とは(創世記3:6-7)
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火曜早天祈祷会
多くの選択肢から唯一選んではならないもの(創世記3:6-7)
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権力者によって流されて来た血と涙とを覚えておられる主(2サムエル記11:16-27)
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ヨアブが「ウリヤを謀殺せよ」というダビデの手紙を受けた時、彼は特に詮索したり戒めたりする事なく、命令をそのまま実行する。
ヨアブもかつてアブネルを剣で謀殺したので、そのようなはかりごとに対する拒否反応は無かったのだろう。

『ヨアブは町を囲んでいたので、勇士たちがいると知っていた場所にウリヤを置いた。町の人々が出てきてヨアブと戦ったので、民のうち、ダビデの家来たちにも、倒れるものがあり、ヘテびとウリヤも死んだ。』(2サムエル記11:16-17)
あの罪なき誠実な戦士・ウリヤは、死んでしまった。
ウリヤだけでなく、ダビデの家来達の中からも、何名か倒れる者があった。
直接手をかけたのはアモン人であるが、ダビデが指示し、敵の手を利用して、殺させたのだ。
剣を用いる者には剣がつきまとい、罠を張る者は、やがて、自らが張った罠にかかってしまう。

『ヨアブはその使者に命じて言った、「あなたが戦いのことをつぶさに王に語り終ったとき、もし王が怒りを起して、『あなたがたはなぜ戦おうとしてそんなに町に近づいたのか。彼らが城壁の上から射るのを知らなかったのか。』(2サムエル記11:19-20)
ヨアブは、あらかじめダビデが言いそうな事に対してアドバイスをしている。
イスラエルの軍は、敵の城壁に接近し過ぎる事は、禁じ手だった。
その理由は、以下の事があったからだ。
『エルベセテの子アビメレクを撃ったのはだれか。ひとりの女が城壁の上から石うすの上石を投げて彼をテベツで殺したのではなかったか。あなたがたはなぜそんなに城壁に近づいたのか』と言われたならば、その時あなたは、『あなたのしもべ、ヘテびとウリヤもまた死にました』と言いなさい」。』(2サムエル記11:21)

これは士師の時代、エルベセテ(=エルバアル=ギデオン)の子・アビメレクが、敵の城壁に近づいて火をつけている所を、一人の女が彼に石臼を投げ落として頭蓋を割り、それで殺された事に由来する。(士師記9章)
ダビデ自身、戦士であり、聖書にも通じていたので、聖書の記述やイスラエルの歴史を元に、戦いの時はこうしなさい、これはしてはいけない、と、常々指示していたのだろう。
それで、「城壁に近づき過ぎると危険だ」という戦訓は、全兵士が知っている基本中の基本だったのだろう。
聖書の記述を元にして、普段から戦訓や教訓を部下に徹底させる点、ダビデは偉大であるが、今回彼がした事は、決して偉大とは言えない。

『こうして使者は行き、ダビデのもとにきて、ヨアブが言いつかわしたことをことごとく告げた。使者はダビデに言った、「敵はわれわれよりも有利な位置を占め、出てきてわれわれを野で攻めましたが、われわれは町の入口まで彼らを追い返しました。その時、射手どもは城壁からあなたの家来たちを射ましたので、王の家来のある者は死に、また、あなたの家来ヘテびとウリヤも死にました」。』(2サムエル記11:22-24)
この報告から、ウリヤが死んだ時の様子を伺う事ができる。

敵は、城壁の町から出て来て野に出てきた所を、ヨアブたちは迎え打ち、そこで敵が後退して城壁の中に入ろうとした時、ヨアブはウリヤに追い打ちをかけるよう命令し、彼らが城門に近づいた所を、弓で射掛けられてしまい、それでウリヤは討ち死にして、こうして全て、ヨアブの手はず通りに運んだのだろう。
ヨアブは、このようなはかりごとを巡らす点においてはとても聡いが、そのような彼の死に際は、決して平和なものではない。(1列王記2章)

『ダビデは使者に言った、「あなたはヨアブにこう言いなさい、『この事で心配することはない。つるぎはこれをも彼をも同じく滅ぼすからである。強く町を攻めて戦い、それを攻め落しなさい』と。そしてヨアブを励ましなさい」。』(2サムエル記11:25)
ダビデは、ヨアブが予期した通りに責める事はせしなかった。かえって、「励ましなさい」と伝えた。

ダビデは、ウリヤの死を聞いて、ほっとしただろうか。
自分のした悪が公になる事を防げて、ほっとした気持ちもあっただろう。
しかし、それ以上に、罪の責め苦の嵐が吹き荒れていたのではないだろうか。
なぜなら、彼の罪が全て明らかにされた時、彼は『わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。』(詩篇51:3) と、後になって告白している。
また彼は、詩篇32編で次のように書いている。

『わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。
わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。』(詩篇32:3-5)
ダビデは、罪を犯した事を黙っていた時、苦しみ、うめいたようである。
罪を隠し黙っている時、主の御手が重くのりかかり、骨が疲れ果てるような、夏の日照りで渇ききるような変調を、心にも、そして体にも来らせてしまうのだ。
しかし、主に罪を認めそれを告白する時、罪の代価は支払わねばならないが、それらの責め苦からは解き放たれ楽になるのだ。

『ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のために悲しんだ。その喪が過ぎた時、ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となって男の子を産んだ。しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。』(2サムエル記11:26-28)
ダビデは一時、面目を保てたかもしれない。
その罪はうまく隠しおおせて、これから後、覚えられる事は無いと思ったかもしれない。
しかし主は、一人の義人の不当に流された血を覚えておられ、また、それによって流された全ての涙も、覚えておられる。

主は、ウリヤの死とその妻の涙が忘却の闇へと葬り去られて行く事を、許さない。
主は、不当に虐げられ助けを求める人達には救いであるが、彼らを不当に虐げる側にとっては、恐ろしい主である。

ウリヤ。それは、主の光という名である。
主の光がダビデの闇をあばき、そしてこの事は容赦なく明るみに出され、永遠の書物に記され、新約聖書の最初の章・イエス・キリストの系図には堂々と「ウリヤの妻」の表記が記されている。

王が人妻と寝て、その夫を謀殺する。
それは世では決して珍しい事ではなく、あたかも当たり前のように公然と行われ、それで幾多の人々の命と涙が、闇の中へと葬り去られているかのように見えるが、主は、それら一つ一つの流されてきた血潮と、涙とを、覚えておられる。
さばきは、神の家から始まる。だからダビデは、他のどの王も当然しているかのような事でも、真っ先に光を当てられ、「さばかれた」のだ。
そして実は、王や権力者がその力を利用して強奪するあらゆる搾取についても、ただ、さばきが遅らされているだけで、やがては主の正当な主のさばきが行使されるのだ。

ウリヤという主の光に照らされて(2サムエル記11:6-15)
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ウリヤの妻と寝たダビデは、その後、彼女を身ごもらせたという事を聞いた。彼はそれを隠蔽する工作に出る。
『そこでダビデはヨアブに、「ヘテびとウリヤをわたしの所につかわせ」と言ってやったので、ヨアブはウリヤをダビデの所につかわした。ウリヤがダビデの所にきたので、ダビデは、ヨアブはどうしているか、民はどうしているか、戦いはうまくいっているかとたずねた。そしてダビデはウリヤに言った、「あなたの家に行って、足を洗いなさい」。ウリヤは王の家を出ていったが、王の贈り物が彼の後に従った。』(2サムエル記11:6-8)
ダビデがウリヤを呼び寄せたのは、彼を、妻が待っている家に帰らせて「妻と寝る」事をさせるためである。
そうすれば、妻が身ごもっている事のつじつまがあい、ダビデとウリヤの妻の情事を、闇に葬る事が出来るからだ。

ウリヤ以外の兵士たちにとって、ダビデがウリヤを呼び出した事は、うらやましがられる事だったろう。
危険な戦線を離れ、王に直接戦況報告をする栄誉が与えられ、そして、妻が待っている家に帰って一緒の時を楽しめるのだから。
戦いの現場から久しぶりに妻の所へ帰った兵士は、当然、妻と愛の交わりをするだろう、、、ダビデはそう目論んだのだが、なんとウリヤは、それをしなかった。

『ウリヤはダビデに言った、「神の箱も、イスラエルも、ユダも、小屋の中に住み、わたしの主人ヨアブと、わが主君の家来たちが野のおもてに陣を取っているのに、わたしはどうして家に帰って食い飲みし、妻と寝ることができましょう。あなたは生きておられます。あなたの魂は生きています。わたしはこの事をいたしません」。』(2サムエル記11:11)
彼はなんと誠実な人だろうか!
同志達も上官も、そして、イスラエルの神・主も、戦いに出て野営している。
それなのに、自分だけ家に帰って妻と楽しむ事など、イスラエルの王であるあなたの前には、決してできない、と言うのだ。
それに引き換え、ダビデ王は一体、何をしたのだろうか。快適な王宮で昼寝をするにおいても、女と情事を楽しむにおいても、ウリヤとは全く逆の事をしていたではないか。
ダビデは、ウリヤ(主の光)が、眩しくて仕方なかったに違いない。

『ダビデはウリヤに言った、「きょうも、ここにとどまりなさい。わたしはあす、あなたを去らせましょう」。そこでウリヤはその日と次の日エルサレムにとどまった。ダビデは彼を招いて自分の前で食い飲みさせ、彼を酔わせた。夕暮になって彼は出ていって、その床に、主君の家来たちと共に寝た。そして自分の家には下って行かなかった。』(2サムエル記11:12-13)
ダビデは今度は、ウリヤを、ダビデの目の前で飲ませ、酔わせた。
もしかすると、”綺麗事”を言っている彼も、酒に酔ったなら、我慢する心を手放して、家に帰り、妻と寝るかもしれない、と思ったのであろう。
しかしウリヤは、酒を飲まされても、主と主君とに対する忠誠を失わなかった。

ダビデはますます主の光に照らされ、さぞ眩しかっただろう。そして、恐れも生じただろう。
主と共に歩んでいる人は、本人にはその気は無くとも、うしろ暗い闇を抱えている人が見るなら、眩しくて、恐れを抱かせるものだ。

もはや、自分の罪を隠す手立てを、失ってしまったダビデ。
全てを告白して赦しを乞うか、それとも、あらゆる力を駆使し、あくまで「光」を覆い隠そうとするかの、二者択一が迫られたが、ダビデは非常に残念な決断をしてしまう。

『朝になってダビデはヨアブにあてた手紙を書き、ウリヤの手に託してそれを送った。彼はその手紙に、「あなたがたはウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼の後から退いて、彼を討死させよ」と書いた。』(2サムエル記11:14-15)
以前のダビデを知っている私達には、到底信じられないような事を、彼はするようになってしまった。
王としての権威を用い、この、有能で誠実な部下を謀殺する指示を、彼自身に持たせてヨアブに届けさせたのだ。

第一サムエル記のダビデ登場から、第二サムエル記の10章までだけを読むなら、ダビデは偉大な王だった。
しかし、この11章1節からの、たった15節を読むだけで、ダビデがそれまでして来た素晴らしい信仰の実績は、全て色あせてしまう。
人は罪と肉に心を許し、その方面に意図して歩むなら、いとも簡単に、なし崩し的に転落してしまう事を、私達キリスト者は、心して気をつけるべきである。

あたかも、仕事から離れてリゾート地で羽を伸ばしたいと切に願うかのように、正しい義の歩み・御霊にある歩みを離れて、肉欲のリゾートで罪の羽を伸ばしたい、と、日々心で願望している人は、ダビデのように、いつ積み上げて来た信頼や名声を失墜してしまっても、おかしくはない。
肉欲の発散はバケーションなどではなく、罪と死に追い使われる過酷で苦々しい奴隷生活の発端である事、そして、御霊にある歩みこそ、罪と死の束縛から開放された真のバケーションである事を、私達キリスト者は真に知るべきだ。

肉欲発散という誤った選択をし続ける事の恐ろしい罠(2サムエル記11:1-5)
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『春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ダビデはヨアブおよび自分と共にいる家来たち、並びにイスラエルの全軍をつかわした。彼らはアンモンの人々を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。』(2サムエル記11:1)
ダビデは、強力なシリヤとの戦いには、自ら全軍を率いて戦い、打ち破って平定したが、残すアンモンとの戦いには自分は行かず、部下たちに任せ、エルサレムの王宮に留まっていた。

ダビデには、少しの「なまけ」が始まっているが、なまけを放置するなら、諸々の良くない物事を呼び寄せてしまう。
『なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。それゆえ、貧しさは盗びとのようにあなたに来り、乏しさは、つわもののようにあなたに来る。』(箴言6:9-11)

『さて、ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、 王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、ひとりの女がからだを洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。』(2サムエル記11:2)
部下たちが命の危険を冒して戦っているのに、ダビデは、日中に寝、夕暮れに起きる、という事をしている。
ダビデの「なまけ」がさらに成長している事がわかる。

さて、ここはダビデが”たまたま”屋上を歩いていると、”たまたま”女が身体を洗っている姿が見えた、と、日本語では受け止められるが、原語を見ると、そういうわけではないようだ。
この「歩く(ハーラフ)」には、ヒットパエル態が使われており、すなわち、彼は「自分から、自覚的に、自発的に」屋上を歩いたのであり、また、美しい女が体を洗っているのを「見た」という言葉は「ラアー」であり、すなわち、ダビデは「心して、楽しみつつ、見た」のである。

ユダヤでは、夕暮れに屋上で水浴びをする、という事は多々ある。
なぜなら律法上の「汚れ」を受ける事は頻繁にあり、その汚れを清めるためには、日が沈むまでに体を洗って清くするべき事が、律法で命じられているからである。
つまり、ダビデが”敢えて”夕暮れ時に、眺めのいい王宮の屋上に出て歩いたのは、もしかしたら、そのような「のぞき」をする意図があった事も、十分考えられる。

あの偉大な王ダビデが、部下たちが皆戦いに出ている時期、昼に寝て、夕暮れ時に起き出し、意図的に宮殿の屋上に登り、女が水を浴びているのを楽しみながら見る。
あのダビデが、そんな事を、と驚くかもしれない。
しかし、昨日まで清く正しく歩んでいた人が、今日、信じられないような不祥事を犯してしまう、という事は、ニュースでは頻繁に流れている。
なぜなら、御霊にある正しい歩みと、肉にある罪の歩みは、日々の瞬間瞬間の決断と選択に依るものであるため、たとえ100日間、御霊にある歩みをしていても、101日目には霊的に怠けて、肉欲の赴くままに罪を犯してしまう、という事は、十分あり得るからだ。

あたかも、仕事という「オンタイム」から離れて、「オフタイム」にリゾート地で羽を伸ばすように、正しい義の歩み・聖なる御霊の歩みを何やら”勤め事”のような「オンタイム」とし、余裕が出来た時には、肉欲のリゾートで罪の「羽伸ばし」を満喫したい、という価値観・世界観で生きているとしたなら、いつ、今まで積み上げてきた信頼や名声を一気に失ってしまう大転落をしても、おかしくはない。
あまたの有名な先生や、偉人聖人と言われている人々が奈落へと転落して行った「夕暮れ時」を、私達も心して取り組まなくてはならない。

人は、肉の体をまとっているため、意識して御霊の歩みをしないなら、自動的に肉の歩みをするものである。そのほうが肉の体はラクだからだ。
日々を御霊にあって歩み続けているなら、その方向性が習慣づけられ、半自動的に御霊の選択と歩むが出来るのだが、ひと度油断し、昔歩んでいた肉の歩みをなつかしんで、そちらに思いを馳せて、実行してしまうなら、そちらの方へと、のめり込んで行ってしまうものであり、やがては、主の介入なしには抜け出し不可能となってしまう。

『ダビデは人をつかわしてその女のことを探らせたが、ある人は言った、「これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありません か」。』(2サムエル記11:3)
ダビデは「見る」だけで終わるではなく、その女について調べさせ、素性を突き止めさせるという、また一歩「誤った方向への選択」をした。
その女は、エリアム(名の意:神の民)の娘であり、ヘテ人ウリヤ(名の意:主の光)を夫に持つ、人妻であった。
エリアムも、ウリヤも、共にダビデ30勇士の一人であり(2サムエル記23章)、ダビデとイスラエルに尽くしている有能な部下である。

『そこでダビデは使者をつかわして、その女を連れてきた。女は彼の所にきて、彼はその女と寝た。(女は身の汚れを清めていたのである。)こうして女はその家に帰った。』(2サムエル記11:4)
なんとダビデ、ついに、「人妻と寝る」という、律法では死罪に当たる罪(レビ20:10)を、選択してしまった。
ダビデは、彼女は神の民(エリアム)の娘、主の光(ウリヤ)の妻であると聞いておりながら、彼女を寝とってしまった。
ひと度、肉欲の暴走に自ら火をつけるなら、歯止めは効かないものだ。

『女は妊娠したので、人をつかわしてダビデに告げて言った、「わたしは子をはらみました」。』(2サムエル記11:5)
ダビデ達は、一夜かぎりのこの逢瀬によって、子を宿す。
日本では、身ごもる事は「おめでた」と言うが、当の男女にとって「めでたくない」身ごもりは、全て、罪の結果だ。

ダビデはこの章で、「聖」か「罪」かを選択する場面で、ことごとく、罪のほうを選択して行った。
最初、夕暮れ時に屋上を自ら進んで歩いたのは、ちょっとしたいたずら心や、ふざけ心の類からだったかもしれない。
しかし、意図して罪の選択をし続けるなら、だんだんその道から離れられなくなり、ついには、王たる者、偉大なものに相応しくない行動へと発展してしまう。

私達はそれを治めなくてはならない。
罪を治める事は、可能である。
どのようにしてか。それは、法則に乗る事によって、である。
「キリスト・イエスにある”いのちの御霊の法則”は、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ8:2)
この”いのちの御霊の法則”こそ、罪と死の法則に対抗する唯一の手段である。

全ての人は、重力の法則に縛られ、地上から離れられない。しかし、飛行機に乗るなら、地上を離れる事が出来る。
同じように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗るなら、罪と死の法則から離れる事が出来るのだ。
飛行機に乗って飛ぶ事には自分の能力や頑張りは関係無いように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗る事も、自分の能力や頑張りは関係無い。
どうしたらこの法則に乗っかる事が出来るのだろうか?
それは「継続的な選択」の問題であり、肉によらず聖霊によって歩み続ける「選択」を日々、し続ける事によって、である。

肉に委ねるのではなく、聖霊に委ねて生きる時、きよい生き方をする事に霊は安息を覚え、罪の生き方をする事に苦しさを覚えるものである。
聖霊にゆだねて生きる時、罪を犯す事や、肉欲を満足させる事はもはや「リゾート」ではなくなり、御霊にあって歩む生き方こそ「リゾート」となって、ますますその方面を生きるようになって行く。
ダビデは早い段階で、肉に生きる選択を止め、御霊にある選択をするべきだった。
それをしなかったため、どんどん、戻る事が困難になってしまったのだ。

御霊にあって歩み、罪や恥、したくない悪から開放された「バケーション」を楽しむ皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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