メッセージ - 201509のエントリ


マタイによる福音書講解説教メッセージ

タラントのたとえ(マタイ25:14-30)
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イザヤ書講解説教メッセージ

エジプトに対する宣告 - 偶像礼拝者の混乱と搾取の運命(イザヤ19:1-15)
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手練手管で王になろうとするアブシャロムと、油注がれて王になったダビデ(2サムエル記15:7-17)
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アブシャロムは、心で長い間企んでいた陰謀を、ついに実行に移す。

『四年の終りに、アブサロムは王に言った、「どうぞわたしを行かせ、ヘブロンで、かつて主に立てた誓いを果させてください。それは、しもべがスリヤのゲシュルにいた時、誓いを立てて、『もし主がほんとうにわたしをエルサレムに連れ帰ってくださるならば、わたしは主に礼拝をささげます』と言ったからです」。王が彼に、「安らかに行きなさい」と言ったので、彼は立ってヘブロンへ行った。』(2サムエル記15:7-9)

アブシャロムは、主への誓いを果たす為にヘブロンへ行って礼拝させて下さいとダビデに許可を求めたが、それは偽りであった。
彼が「礼拝」を捧げに行くのは、主に誓っていた事を果たすためではなく、あらかじめ設定していた謀反の引き金を引くためであった。
つまり、彼がヘブロンで礼拝をささげる事が、彼が王となる事の合図として用いられたのだ。
『そしてアブサロムは密使をイスラエルのすべての部族のうちにつかわして言った、「ラッパの響きを聞くならば、『アブサロムがヘブロンで王となった』と言いなさい」。二百人の招かれた者がエルサレムからアブサロムと共に行った。彼らは何心なく行き、何事をも知らなかった。アブサロムは犠牲をささげている間に人をつかわして、ダビデの議官ギロびとアヒトペルを、その町ギロから呼び寄せた。徒党は強く、民はしだいにアブサロムに加わった。』(2サムエル記15:10-12)

ここに議官・ギロ人アヒトフェルが登場するが、当時、彼が考え出すはかりごとは、神の言葉のように思われる程、優れたものだった。(2サムエル記16:23)
アヒトフェルはバテ・シェバの祖父にあたり(2サムエル記11:3, 23:34)、ダビデの事を快く思っていなかった可能性は、大いにある。
アブシャロムはそんな彼に、「敵の敵は味方」として、謀反に加わるよう呼びかけたのだろう。
こうしてアブシャロムは、四年の歳月をかけて多くの人の心を掴んで行き、また、アヒトフェルというダビデに敵対的で強力な相談役も得、ぬかりの無い裏工作を巡らして行ったため、ダビデ王権の転覆を成功させるには充分となったが、それに対しダビデ王はどう対応したか。

『ひとりの使者がダビデのところにきて、「イスラエルの人々の心はアブサロムに従いました」と言った。ダビデは、自分と一緒にエルサレムにいるすべての家来に言った、「立て、われわれは逃げよう。そうしなければアブサロムの前からのがれることはできなくなるであろう。急いで行くがよい。さもないと、彼らが急ぎ追いついて、われわれに害をこうむらせ、つるぎをもって町を撃つであろう」。』(2サムエル記15:13-14)
ダビデ王の対応は、一切抵抗する事なく、エルサレムの都を出て逃げる事だった。
その理由も、アブシャロムが剣で攻め入って、エルサレムの中から犠牲者が出るといけないから、であった。

まったくもって、ダビデ王の行動原理と、アブシャロムの行動原理は、逆である。
ダビデ王は、あくまで平和を動機として行動した。
彼は、自分の手練手管を用いず、全て主に依り頼み、それも、かつては自分のいのちを付け狙って来たサウル王を、二度も見逃してやった程だった。
対して、アブシャロムは、主に頼らずに自分の手練手管に頼って世渡りして行く性質で、しかも、「主への礼拝」さえ自分のはかりごとの材料にしてしまう程だった。
彼は結局、天地を創られた主は彼の「主」ではなく、自分のはかりごとのほうが、彼の「主」だったわけである。

大多数の人は、何も抵抗せずに無様に逃げるダビデより、手練手管に長けて地道に裏で準備して行くアブシャロムのほうを、心強いと思うであろう。
しかし、決定的にダビデの方が勝っている点がある。
それは、ダビデは主により頼み、主に信頼している、という点だ。
アブシャロムは、はかりごとや手練手管を用い、偽りの礼拝を引き金にして自分が王だと名乗ったが、それに対してダビデは、羊を飼っていた時に主に見出され、一方的に主から油注がれ、王となった。
主が味方するのは、どちらだろうか。それは、一目瞭然である。

主を除外したはかりごとや手練手管の成果物は、やがてはぼろが出て、そちらを頼りにした人々はやがて恥を見るようになる。
『悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。』(詩篇1篇)

『王のしもべたちは王に言った、「しもべたちは、わが主君、王の選ばれる所をすべて行います」。こうして王は出て行き、その全家は彼に従った。王は十人のめかけを残して家を守らせた。王は出て行き、民はみな彼に従った。彼らは町はずれの家にとどまった。』(2サムエル記15:15-17)
それまでダビデ王が歩んできた、主に対する誠実な歩みを見て、彼について行った人達も、少なからずいた。
こうしてダビデ王は都落ちするのだが、彼はどのような心境で、自分の名がつけられた都から落ち延びて行ったのか。
彼は詩篇3編にて、その心境を記している。

『ダビデがその子アブサロムを避けてのがれたときの歌。主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。』(詩篇3:1-4)
彼の心は、主に向いていた。助けの源を、主へと求めた。
いかに周りの人々が、「彼には助けがない」と言い合っているような状況であっても、それでも彼は主を盾とし、「主がわたしに答えて下さる」と信仰告白した。

ダビデのこのような祈り、久しぶりな気もする。
彼がサウルに追われていた時、よくこういう祈りをしていた。
ダビデ王は確かに一時、罪を犯した。その時、彼の罪は、神との間の隔たりとなって、祈る事もできなかっただろう。
しかし、彼は自分の罪を告白し、悔い改め、そして主が与えられる災いをも甘んじて受ける従順によって、主との交わりを回復した。

『わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。わたしを囲んで立ち構える/ちよろずの民をもわたしは恐れない。主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られるのです。』(詩篇3:5-7)
ダビデは、息子に反逆され都落ちしてしまうような、悲しんで然るべき状況であっても、安らかに眠りにつく事が出来た。
主は、主を愛し、拠り所とする人には、平安と安らかな眠りを与えられる。しかし、悪い事をたくらむ者には、平安も安息した眠りも無いのだ。

『救は主のものです。どうかあなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。』(詩篇3:8)
ダビデは、この詩の最後を、祝福で終えている。
それ程平安でゆとりのある心持ちだったのだ。

嘘をつく人は、その嘘がばれないようにするためにさらに嘘を重ね、誰にどの嘘をついたか色々の事を覚えて行かなくてはならないように、はかりごとをたくらむ人は、一々色々の事を覚え、考え、心配しなくてはならない。
しかし主に信頼し、主が全てを思い図って心配して下さる事を信じている人は、人を祝福するゆとりがあり、そして彼が発した祝福は、本人に返ってくるのだ

ダビデにこの度の事が起きたのは、元々はダビデの弱さ、罪、愚かさゆえだったかもしれない。
しかし、そんな無知、愚かさ、弱さにあっても、それでも主に向ける人は、主が守り、主がそれら全てから救い出し、悪い方向へ動いてしまった物事さえも、主は最善へと転換させて下さるのだ。

つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
主は大いなる事をなされた(詩篇126編)
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火曜早天祈祷会

立ち上がって下さい。この事はあなたの肩にかかっています。(エズラ記10:1-5)
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周到な反逆の企みをするアブシャロム(2サムエル記15:1-6)
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アブシャロムは、それまで願っていた父との面会がようやく叶ったのだが、それは非常に儀礼的なもので、アブシャロムは逆に憎しみを募らせるものとなってしまい、彼はこの会合以降、父ダビデの気を引こうとして来たそれまでの心を反転させ、ダビデ王に反旗を翻しクーデターを引き起こす準備を始めてしまう。
『アブサロムは早く起きて門の道のかたわらに立つのを常とした。人が訴えがあって王に裁判を求めに来ると、アブサロムはその人を呼んで言った、「あなたはどの町の者ですか」。その人が「しもべはイスラエルのこれこれの部族のものです」と言うと、アブサロムはその人に言った、「見よ、あなたの要求は良く、また正しい。しかしあなたのことを聞くべき人は王がまだ立てていない」。
アブサロムはまた言った、「ああ、わたしがこの地のさばきびとであったならばよいのに。そうすれば訴え、または申立てのあるものは、皆わたしの所にきて、わたしはこれに公平なさばきを行うことができるのだが」。』(2サムエル記15:2-4)

アブシャロムが父ダビデ王に反逆するためにまず行った事は、人の心を地道に掴んで行く事だった。
通りに毎日立ち、ダビデ王に裁判してもらおうとする人を待ち伏せして、親しげに声をかけ、その人の訴えに耳を傾け同情し、王はあなたの望み通りに動いてくれないが、もし自分なら正しくさばきが出来る、と吹き込んで行く。
こうして、ダビデ王に対する良くない思いと、またアブシャロムに対する好感を植え付けて行く。

人々がダビデ王にさばいてもらいたいと持ち寄る案件は全て、地方の長老では対処できないような難解なものであるはずである。
だから当然、訴えをした人の思い通りには行かない事もあるだろうし、また裁判が長引く事もあるだろう。
そのように、ダビデに訴えるさばきは、ある程度の不自由さを我慢しなくてはならないものであるのだが、アブシャロムは、そこを突いたのだ。

『そして人が彼に敬礼しようとして近づくと、彼は手を伸べ、その人を抱きかかえて口づけした。アブサロムは王にさばきを求めて来るすべてのイスラエルびとにこのようにした。こうしてアブサロムはイスラエルの人々の心を自分のものとした。』(2サムエル記15:4-6)
アブシャロムは、王子という高貴な身分であり、比類なき美貌の持ち主である。その彼が自分から人に手を差し伸べ、抱きかかえて口づけする。
当然、人々は感動し、そして噂するだろう。
あの美しいという噂の王子様・アブシャロムを、私は見た、そればかりでなく、こんな私に自ら近づいて来て、抱き寄せて口づけして下さった。
親しげに声をかけ、わたしの訴えに同情して下さった。
それに引き換えダビデ王は、対応が遅くて随分待たされた挙句、自分の思う通り裁きをしてくれなかった、など。
このように、人々の間では、アブシャロムの美しさと優しさ、有能さが、そして、ダビデの「無能さ」が、広まって行っただろう。

この地道な活動は、ボディブローのように徐々に、そして着実に効いて行く。
アブシャロムは、持て余した時間を、ただ人々に取り入って同調し、ダビデの悪い噂話を流す事に使えるが、ダビデ王は日々、人々のさばきを実際に考え、たとえ訴えに来る人が望まない結果であろうとも公平なさばきをしなくてはならないし、それだけでなく、色々な仕事も同時に抱え持っており、日々その対応に追われている。

会社や教会などの集団の中で、具体的に何か仕事をするわけでもなく、暇を持て余し、ただ上の権威の良くないうわさ話を撒き散らしつつ、自分の所に人々を引き寄せようとする人を放置させておくなら、彼の言葉はがんのように広まって、その組織をどんどん腐らせて行く。
パウロはローマの聖徒たちに、そのような人々について警告している。
『さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。』(ローマ16:17-18)

このように、アブシャロムは周到なはかりごとを巡らし、彼自身の美貌や知恵、能力を駆使して、確実にダビデを貶めようと、また、自分が王になろうと、謀った。
ダビデは、アブシャロムが何をしようと企んでいたのか、感づいていたのかどうかは分からないが、ダビデが取った対応は、やはり「放置」だった。

いずれにせよ、イスラエルという「神の領域」において王となるのは、人の能力やはかりごとに拠るものではなく、ただ神によってなるものである。
アブシャロムは、生まれ持った美貌や手練手管、知恵と能力を駆使して王になろうとした。
しかしダビデが全イスラエルの王になったのは、主が王として下さるという約束に信頼して、一切自分の手練手管を用いず、ただ主がなされるがままに委ねて、そうして王となった。
人々は、アブシャロムのような人の方が、頼りがいがありそうだ、王としてふさわしい、と考えがちだが、最終的には、ダビデのように主に信頼して自分のはかりごとを捨てる人の方が主に守られ、生き残るのである。
人々は、外見の良さや甘言に騙されやすいもので、そのように外見や甘い言葉につられてしまう人の歩みは安定に欠いている。
しかし、人間の悪だくみやはかりごとに関わらず、ただ主に信頼する人の歩みは、決して揺るがされる事はない。

主は大いなる事をなされた(詩篇126編)
第一礼拝: Youtube動画 / 音声
賛美集会音声
第二礼拝: Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要

『主がシオンの「繁栄(原文:囚われ人)」を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。 』(1節)
イスラエルは神を軽んじた故に、捕囚の憂き目に遭った。主が私達を荒野へと導くのは結局は幸いを与えるためである事を前回学んだが、私達の人生も、敢えて荒野を通らされたり、捕囚の憂き目に遭う事がある。
それは私達の罪が原因である事もあるが、主が敢えて私達を鍛えるために、そのようにされる事もある。
そこで強制的に主と主の言葉に向き合わされ、主でないものに頼る事がいかに愚かで、そして主の支配がいかに素晴らしいかを思い知らされ、結局永遠の幸いへと導くためだ。イスラエルに捕囚先から帰って良いと法令を発布したのは、ペルシヤのクロス王であるが、結局は「主が」した事だと1節にある。
主は素晴らしい事をして下さった!主は私達をも罪の捕縛から開放し、自由にして下さった。とても望めなかった事を、主は奇跡的にして下さった。こんな幸せ、こんな素晴らしい事を、自分は受け取ってもいいのだろうか。主を待ち望む人に備えられている喜びは、そんな「夢みる者」のような、うっとりした幸いなのだ。

『その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時「主(エホバ)は彼らのために大いなる事をなされた」と/言った者が、もろもろの国民の中にあった。』(2節)
主に信頼し続けるなら、私達神の民は夢をみているかのような喜び笑いで満ち溢れ、そしてその有様を見た、神を知らない人々も「主は大いなる事をされた」と言って主の存在を信じ、主の栄光を褒め称える。
だから私達は普段から、神の民として、キリストを明かしして歩むべきだ。「自分は主にあって歩む者です」と普段から証しているなら主は喜んでと栄光をあらわし恵んで下さるが、そうでない人には現わされない。

『主よ、どうか、われらの「繁栄(原文:囚われ人)」を、ネゲブの川のように回復してください。』(4節)
当時帰って来た捕囚の民は4万人程(エズラ記)、囚われ人はまだまだ残っていた。70年という歳月を捕囚先で過ごし、ある程度の生活が進んでいる。それをいきなり止め、イスラエルに戻るのは大変だろう。
だから祈るのだ。ネゲブの流れ(普段は水が無いが雨季には怒涛の流れになる)のように、捕囚先に残っている彼らを帰らせてください、と。私達も、今まさに捕囚と訓練の中にいる人達の為に、祈るべきだ。
捕囚先から解放され、戻ってきても、やるべき事は尚多く、問題も山積みの状態である。当時帰って来た人々も、エルサレムの城壁は崩されたままで、帰ってきた人々も、いつ以前の邪悪な生活に戻るか分からない霊的状態だった。そこを、ネヘミヤが城壁を再建し、エズラが霊的立て直しを実行した。私達自身、壊されてしまった心や体、家、経済の城壁を、助け主・慰め主なる聖霊が立て直して下さるよう、祈るのだ。

人々は戻って来ても、暫くの間、貧困にあえいでいた。種を蒔いても乏しい収穫にしかあずかれず、穴の空いた財布に入れるような状況だった事が、ハガイ書に記されている。なぜそうだったか。それは、真っ先に建てるべき神の宮をおろそかにしたまま、自分の生活のために奔走していたからだ。(ハガイ1:1-11)
イスラエルの民が戻った当初、確かに笑いで満たされ、国々も、大いなる事をされたと言って、主の栄光を誉めたたえた。しかし、それで終わりではない。肝心なのは、その後、何を優先して立て直すかである。
主の民は、主の国に帰ってきたからには、しっかり主を敬い、礼拝しつつ歩んで行くべきだが、主を礼拝すべき土台を建てずに奔走しても、種を蒔いてもあまり収穫は無く、穴の空いた袋に入れるような状況だ。
『あなたがたはこの日より後、・・・主の宮の基をすえた日から後の事を心にとめるがよい。・・・わたしはこの日から、あなたがたに恵みを与える」。』(ハガイ2:18-19)

『涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。』(5-6節) 喜びの刈り取りをするために、どこへ種を蒔くべきかが肝心だ。
私達は、世の事柄より、神の国の事柄のほうに優先して蒔くべきである。『自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。』(ガラテヤ6:8-9)
御霊に、御言葉に、主イエスに種をまき、天と地と海と陸とが揺り動かされ、祝福の雨そそがれて、豊かに刈り取る皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
ことばが癒されるには、まず耳から(マルコ7:32-35)
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つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
奴隷の地と祝福の地との中間地帯・荒野(出エジプト記16:1-5)
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子が親のものに火を放つ時(2サムエル記14:18-33)
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『そこで王はヨアブに言った、「この事を許す。行って、若者アブサロムを連れ帰るがよい」。ヨアブは地にひれ伏して拝し、王を祝福した。そしてヨアブは言った、「わが主、王よ、王がしもべの願いを許されたので、きょうしもべは、あなたの前に恵みを得たことを知りました」。そこでヨアブは立ってゲシュルに行き、アブサロムをエルサレムに連れてきた。』(2サムエル記14:21-23)
ダビデは、ヨアブに遣わされた知恵深い女によって、息子アブシャロムが放置されたままの状態にあるのは、良くない、という事を諭された。
ダビデはそれを受け入れ、アブシャロムをエルサレムに連れて来る事を許すのだが、『王は言った、「彼を自分の家に引きこもらせるがよい。わたしの顔を見てはならない」。こうしてアブサロムは自分の家に引きこもり、王の顔を見なかった。』(2サムエル記14:24)
アブシャロムと会っていない3年の間、ダビデの心はアブシャロムへと向いていた(14:1)、はずなのに、彼をエルサレムへ呼び寄せた途端、ダビデはそれとは裏腹の行動を取っている。

『さて全イスラエルのうちにアブサロムのように、美しさのためほめられた人はなかった。その足の裏から頭の頂まで彼には傷がなかった。アブサロムがその頭を刈る時、その髪の毛をはかったが、王のはかりで二百シケルあった。毎年の終りにそれを刈るのを常とした。それが重くなると、彼はそれを刈ったのである。アブサロムに三人のむすこと、タマルという名のひとりの娘が生れた。タマルは美しい女であった。』(2サムエル記14:25-27)
アブシャロムは、類を見ない魅力的な人物だった。
「足の裏から頭の頂まで」非の打ちどころが無く、また髪も豊富で、美しい娘も生まれている。

彼は外見が魅力的だけではなく、非常に有能な人物で、人の心を掴む事に長けており、正しい事を断行する勇気も、決断力も、それを実現させるための知恵も、忍耐力も、全て兼ね備えている。
そのような面を見るなら、彼は、次に王となるに申し分無い器として、人々の目に映っていたかもしれない。
ただ一点、ダビデの長男を謀殺した、という点を除くなら。

『こうしてアブサロムは満二年の間エルサレムに住んだが、王の顔を見なかった。』(2サムエル記14:28)
アブシャロムは父の近くに呼び寄せられたものの、さらに2年、放置されてしまった形になる。
ダビデがどのような心境で、どのように判断して、そのようにしたのかは記されていないため、聖書学者の間でも色々な憶測が為されているが、父親が息子を敢えて放置するなら、息子がどのように出るのか、それは容易に想像できる。

『そこでアブサロムはヨアブを王のもとにつかわそうとして、ヨアブの所に人をつかわしたが、ヨアブは彼の所にこようとはしなかった。彼は再び人をつかわしたがヨアブはこようとはしなかった。そこでアブサロムはその家来に言った、「ヨアブの畑はわたしの畑の隣にあって、そこに大麦がある。行ってそれに火を放ちなさい」。アブサロムの家来たちはその畑に火を放った。ヨアブは立ってアブサロムの家にきて彼に言った、「どうしてあなたの家来たちはわたしの畑に火を放ったのですか」。』(2サムエル記14:29-31)
ヨアブは、アブシャロムをエルサレムに引き寄せるよう取り計らった張本人であるが、どういう訳か、彼までも、アブシャロムの2度の呼びかけを放置し、彼がかつてした事とは裏腹の行動を取っている。

アブシャロムに対しては、ダビデも、ヨアブも、なぜか裏腹の行動を取る。
一体何が問題で、アブシャロムはこのようにされてしまうのか。
彼はあまりに有能過ぎる故、危険と判断されたのか、あるいは単に、父ダビデの弱さ故なのか、あるいはもっと他に理由があるのか、それらは分からない。
一つ確かな事は、親はあまりにも子を放置するなら、子から何かの形で火をつけられてしまう、という事だ。

『アブサロムはヨアブに言った、「わたしはあなたに人をつかわして、ここへ来るようにと言ったのです。あなたを王のもとにつかわし、『なんのためにわたしはゲシュルからきたのですか。なおあそこにいたならば良かったでしょうに』と言わせようとしたのです。それゆえ今わたしに王の顔を見させてください。もしわたしに罪があるなら王にわたしを殺させてください」。』(2サムエル記14:32)
ここに、アブシャロムの心の叫びが垣間見える。
アブシャロムは、ずっと父ダビデに会うことも赦されず、何のコミュニケーションも許されず、かといって何の処断も下されず、右に行っていいのか左に行っていいのか分からない状態のまま、ずっと放置されていた。
もし処罰されるべきなら、はっきり処罰してほしい、それがたとえ死刑でもかわない、とにかく、うやむやなまま放置される事だけは、我慢ならない。
それが、子供の本心である。

『むちと戒めとは知恵を与える、「わがまま(シャラーハ:追い遣る、放任する)」にさせた子はその母に恥をもたらす。』(箴言29:15)
子供と正面から向き合わず、子供が望ましくない事をしても、それに対して何も処断を下さず、ただ放置しておくとするなら、子はやがて、親に火をつけるようになってしまうのだ。

『そこでヨアブは王のもとへ行って告げたので、王はアブサロムを召しよせた。彼は王のもとにきて、王の前に地にひれ伏して拝した。王はアブサロムに口づけした。』(2サムエル記14:33)
こうして、父と子の何年ぶりかの再会が実現したというに、ただ儀礼的な挨拶をした以外は、特に記されていない。
アブシャロムが切望して来た、何年ぶりかの父との再会。
それなのにアブシャロムは、「子」として「父」とコミュニケーションが出来なかった。
妹が陵辱されて以来、感じてきた悔しさ、忍耐して来た辛さ、やってしまった事のうしろめたさ、一人放置されていた事の寂しさ、人々に理解されない事の苦しさ、そうした事を打ち明ける事が出来なかった。
あまりにも親子関係の「親しさ」が無い、ただ上下関係だけが強調された、儀礼的な挨拶だけの再会に、アブシャロムはどんなに失望しただろう。

アブシャロムはこの再会の後、父ダビデ王になんとか会って話しあおうとして来た努力の方向性を反転させ、父・ダビデに反逆し、クーデターを起こす準備をするようになってしまう。

この第二サムエル記14章は、ダビデも、ヨアブも、アブシャロムに対して、裏腹な行動ばかりを取ってきた。
人の心も営みも、移ろいゆくものであり、時に裏腹の行動を取り、時に反転するものである。

第二サムエル記13章と14章で、主は全く沈黙しており、主が何かを語られたとか、何かされたといった記事は、一切無い。
ただ人の思い図りと、裏腹さだけが記されている。それらはなんの益ももたらさず、ただ崩壊へと向かうのみである。
『人はみな草のごとく、/その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。』(1ペテロ1:24-25)

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