メッセージ - 201509のエントリ
つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
石女から宝石のような世代へ(イザヤ54章)
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子を懲らさない事は、子を滅びへと導く事(2サムエル記13:20-27)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-9-5 16:17
子を懲らさない事は、子を滅びへと導く事(2サムエル記13:20-27)
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『兄アブサロムは彼女に言った、「兄アムノンがあなたと一緒にいたのか。しかし妹よ、今は黙っていなさい。彼はあなたの兄です。この事を心にとめなくてよろしい」。こうしてタマルは兄アブサロムの家に寂しく住んでいた。ダビデ王はこれらの事をことごとく聞いて、ひじょうに怒った。』(2サムエル記13:20-21)
このわずかな節から、ダビデ王が長男アムノンを普段、どのように扱って来たかが、大体想像できる。
ダビデ王は、この一連の事件を「聞いてひじょうに怒った」事は書いてあっても、その事でアムノンを懲らしたり、責任を取らせたりした記述は無い。
今回の被害者・タマルは、兄アブシャロムの家でわびしく住んでいた、という事は、ダビデは、アムノンが取るべき責任を取らせず、そのままにしていた、という事だ。
つまりアムノンは、普段から、衝動的・突発的に何かをしてしまった時も、大目に見られ、その事の責任を取らされて来なかったと想像できる。
だからあの事をたくらみ、「今回もなんとかなる」「律法にはああ書かれてあるけれど、自分はこれをしても、罰は及ばない」などと思って、事を起こしたのだろう。
確かにダビデも、律法に照らすなら、死ぬべき罪を幾つか犯している。
しかし、ダビデが赦され、生きながらえているのは、少なくとも彼は自分の罪を認め、悔い改め、そして自分が被害を与えたバテ・シェバに対しては、しっかり責任を取ったからだ。
それなのにアムノンは、お咎めなしのまま放置されてしまっている。
とするなら、それはアムノンを滅びへと至らせてしまう事だ。
『むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。』(箴言13:24)
『子を懲らすことを、さし控えてはならない、むちで彼を打っても死ぬことはない。もし、むちで彼を打つならば、その命を陰府から救うことができる。』(箴言23:13-14)
『「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。』(ヘブル12:5-7)
聖書は、子を懲らしたりむちを加える事によって、子から愚かさを削ぎ落とし、悪から救い出すようにと色々な箇所で示している。
しかし現代日本では、懲らしめはタブー視されている。
そのようにして育てられた子は、アムノンのように、激しく思うと歯止めが効かなかったり、何か事を犯しても、それを自分が責任を取る事をすっかり抜かしてしまうようになってしまうものだ。
ダビデは、アムノンを懲らしめたり、責任を負わせたりする事をしなかった。それが為に、彼を滅びと至らしめてしまう。
ダビデは、アムノンと同じような事をした過去を持っているため、うしろめたさがあったのかもしれない。それで強く言えなかったのかもしれないが、相手が自分と同じ罪を犯したなら、なおさら、経験した者としていっそう強く言うべきだった。
ダビデは、姦淫の罪を指摘された時、詩篇51編でこう告白している。
『あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。そうすればわたしは、とがを犯した者に/あなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。』(詩篇51:12-13)
彼は、もし自分を赦して下さるなら、「とがを犯した者に/あなたの道を教え」ましょう、と、この時約束している。
しかし彼はそれをしなかった。
こうして、何も取り扱われないまま、月日が過ぎていく。
『アブサロムはアムノンに良いことも悪いことも語ることをしなかった。それはアムノンがアブサロムの妹タマルをはずかしめたので、アブサロムが彼を憎んでいたからである。』(2サムエル記13:22)
タマルの兄・アブシャロムは、表向き、何もないかのように装っていたが、心はそうでななかった。
ダビデは特に何もしないまま、アムノンは平然としたまま、そして、アブシャロムは殺意の心を熟成しながら、2年の月日が過ぎて行き、そしてある日、事件が起きてしまう。
一度に強姦加害者の親、強姦被害者の親となってしまったダビデ(2サムエル記13:7-19)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-9-4 1:44
一度に強姦加害者の親、強姦被害者の親となってしまったダビデ(2サムエル記13:7-19)
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アムノンは、彼が恋い焦がれる妹のタマルと、二人きりの状況をつくり出すため、仮病を装い、妹に看護してもらいたいと、父ダビデに要望した。
そして二人きりになった時、彼は、神の国において「あってはならない事」をする。
『タマルが彼に食べさせようとして近くに持って行った時、彼はタマルを捕えて彼女に言った、「妹よ、来て、わたしと寝なさい」。タマルは言った、「いいえ、兄上よ、わたしをはずかしめてはなりません。このようなことはイスラエルでは行われません。この愚かなことをしてはなりません。わたしの恥をわたしはどこへ持って行くことができましょう。あなたはイスラエルの愚か者のひとりとなるでしょう。それゆえ、どうぞ王に話してください。王がわたしをあなたに与えないことはないでしょう」。』(2サムエル記13:11-13)
彼らは、律法を知っていた。
イスラエルの中では、兄妹同士の間は、結婚するどころか、肉体関係を持つなど、もっての外である事が書かれてある。(レビ記18章)
だからタマルは「このようなことはイスラエルでは行われません。この愚かなことをしてはなりません。」と叫んだのだ。
タマルは、王に話しましょう、王がなんとかしてくださる、と話したが、アムノンは聞かなかった。
彼もまた、これはイスラエルの中では叶わない事だと感じていたのだろう、だからこそ彼は策を弄し、人払いをして、強引に事を遂げようとしたのだ。
『アムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、タマルよりも強かったので、タマルをはずかしめてこれと共に寝た。』(2サムエル記13:14)
アムノンは力づくで事を為してしまった。
彼の父・ダビデも、同じように、王権というパワーを用いて、交わってはならない人妻と、事を為した過去がある。
交わってはならない女性に激しい欲情を抱き、力づくで、強引に、その欲求を捌けさせる。
皮肉にも、父ダビデがした罪をそのまま息子が為し、そして、ダビデの娘は強姦の被害者となった。
子供は親の背中を見て育つ。
良い事も悪い事も、親がした事を、子は見習ってするものだ。
『それからアムノンは、ひじょうに深くタマルを憎むようになった。彼女を憎む憎しみは、彼女を恋した恋よりも大きかった。アムノンは彼女に言った、「立って、行きなさい」。』(2サムエル記13:15)
結局これが、彼がずっと抱いていた「恋心」の正体である。
それは「これが欲しい」「あれが欲しい」「何をしてでも手に入れたい」といった、ただの「激しい情欲」だったのだ。
『欺き取ったパンはおいしい、しかし後にはその口は砂利で満たされる。』(箴言20:17)
禁断の木の実をこっそり食べる時、それは甘美な味かどうかは分からないが、一つはっきりしている事は、それは口にした途端「じゃり」に変わり、神経に触るような苦々しい思いに満たされ、取り返しがつかなくなるものである。
『タマルはアムノンに言った、「いいえ、兄上よ、わたしを返すことは、あなたがさきにわたしになさった事よりも大きい悪です」。しかしアムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、彼に仕えている若者を呼んで言った、「この女をわたしの所から外におくり出し、そのあとに戸を閉ざすがよい」。』(2サムエル記13:16)
アムノンは、ただ一度きり、ほんの数分で終わる「欲情の発散」を遂げるため、彼女の一生を台無しにし、そして事を為し終えたら、彼女を捨て去った。
それもまた当然、神の国においては、重大な違反である。
聖書において、肉体関係を結んで良いのは、唯一、結婚相手に対してのみであり、そして結婚とは、相手の伴侶に対し、自分を”唯一の異性”としてコミットする事である。
すなわち、女性は相手の男性に唯一専属的な「女性」となり、男性は相手の女性に唯一専属的な「男性」となり、相手以外に「性」は開放しないのだ。
この聖書の価値観は、以下に定められている律法からにじみ出ている。
『男が、人と婚約した女に野で会い、その女を捕えてこれを犯したならば、その男だけを殺さなければならない。その女には何もしてはならない。女には死にあたる罪がない。人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件だからである。これは男が野で女に会ったので、人と婚約したその女が叫んだけれども、救う者がなかったのである。』(申命記22:25-27)
このような強姦事件の場合は、「人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件」に相当すると言われている。
つまり、男が力づくで女性を犯す行為は、その女性を殺したも同然の行為であり、その女性の貞潔や人格、将来を殺すばかりでなく、その女性がコミットした相手の心をも、ぐちゃぐちゃに踏みにじる行為なのだ。
そしてまた、婚約前の状態で肉体関係を持ったとするなら、死刑ではなく、一生涯、相手に対しコミットする責任が生じる。
『まだ人と婚約しない処女である女に、男が会い、これを捕えて犯し、ふたりが見つけられたならば、女を犯した男は女の父に銀五十シケルを与えて、女を自分の妻としなければならない。彼はその女をはずかしめたゆえに、一生その女を出すことはできない。』(申命記22:28-29)
アムノンはようするに、律法に照らすなら、死刑に当たる罪を幾つも犯したわけである。
それを自分は王の長男だという事で、何事も特に罰されないまま、のうのうと暮らしている。
しかし、義が行われる神の国においては、そのまま何事も無く過ごせるという事は無い。
『この時、タマルは長そでの着物を着ていた。昔、王の姫たちの処女である者はこのような着物を着たからである。アムノンのしもべは彼女を外に出して、そのあとに戸を閉ざした。タマルは灰を頭にかぶり、着ていた長そでの着物を裂き、手を頭にのせて、叫びながら去って行った。』(2サムエル記13:18-19)
当時のイスラエルで「長そでの着物」は、日本の「振袖」のように、未婚の処女が着るものである。
彼女はその袖を裂き、泣き叫びながら出て行った。
もはや彼女は、アムノンの一方的な陵辱の故に、処女ではなくなってしまい、一生、ひっそり暮らしていかなくてはならないと絶望したからだ。
こうしてダビデは、強姦被害者の親、強姦加害者の親、近親相姦が起きた家の親、という、実に恥ずかしい立場になってしまった。
ダビデ王の家の中で、このような忌ま忌ましい罪が行われてしまう・・・。いかに栄光の王族の家といえども、肉欲に燃料投下し罪を放置しておくなら、その真っ只中でも忌ま忌ましい事が行われるものだ。
だから私達は、日々霊的に目を覚まして、誰も罪に陥ることが無いよう、聖徒の交わりにおいて互いに励まし合い戒め合う必要があるのだ。
『あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。』(ヘブル3:13)
遂げてはならない欲情が沸き起こる時(2サムエル記13:1-6)
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ダビデは、家の中から災いが湧き起こる事を、主から警告されていた。(12:11)
なぜなら「姦淫」という罪はいのちへの冒涜であり、家系や子孫などの「いのち」から反撃を受けるものだからだ。
『さてダビデの子アブサロムには名をタマルという美しい妹があったが、その後ダビデの子アムノンはこれを恋した。』(2サムエル記13:1)
アムノンも、アブシャロムも、ダビデがヘブロンで王だった時に生まれた子達である。
アムノンはダビデに最初に生まれた「長男」であるため、王位継承の筆頭者ではあったが、彼は良い信仰の持ち主ではなかった。
彼は異母の妹であるタマルに恋をした。
近親者との結婚は、神の民の中では「あってはならない」事である。(レビ記18章)
してはならない事、叶わない事であるなら、その欲求が沸き起こった初期の段階で、思いと意思、感情をコントロールしておけば、何でもなかったが、彼はそれをコントロールせず、情の流されるままに思い巡らし、それを募らせてしまった。
してはならない事への欲情が沸き起こった時、その事を思い巡らす事は、その欲情に対し燃料を投下する事であり、ますます燃え上がって、やがて手がつけられなくなってしまう。
若者が、叶えてはならぬ欲情に焦がれてしまう時、それを消火するために、シンプルかつ強力な方法がある。
それは、御言葉を暗記する事によって、である。
『若い人はどうしておのが道を/清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。』(詩篇119:9)
実際、謂れのない強烈な情欲や、自己嫌悪感、深い悲しみなど、あらゆる負の思いが来た時、試てみると良い。
箴言のどこかを2,3節も暗記(あるいは暗記する努力)をするなら、その僅かな時間で、そのような思いは消えて無くなる事を体験するだろう。
実際、天声教会の80%以上の聖徒たちはテフィリンを実践し、それによって頭脳が活性化し、どうしようもない傷や性質が改善され、人格も品性も整えられている事を、日々実感している。
(御言葉教育「テフィリン」の効用について: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=2463&cid=3 http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=2493&cid=3 )
『アムノンは妹タマルのために悩んでついにわずらった。それはタマルが処女であって、アムノンは彼女に何事もすることができないと思ったからである。』(2サムエル記13:2)
アムノンが悩んでわずらった理由は、彼女は「処女であって、何事もすることができない」点だった。
つまりアムノンの望みは、処女である彼女に、何事かをしたい、けれども、御言葉を恐れ敬う周囲の環境ゆえに、自分にはそれができない、そのようなジレンマを抱えていたのだ。
アムノンにとって、自分の肉欲のほうが御言葉よりも主人であり、御言葉は彼にとって「足かせ」以外の何者でもなかった。
自分の思いや意思、感情を御言葉の前に平服させるのが神の民のたしなみであるが、彼はそのたしなみを持っていなかった。
肉と御霊、どちらを主人とし、どちらに仕えるか。それによって、いのちを刈り取るか、それとも死を刈り取るかが決まってしまう。
『自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。』(ガラテヤ6:8)
『ところがアムノンにはひとりの友だちがあった。名をヨナダブといい、ダビデの兄弟シメアの子である。ヨナダブはひじょうに賢い人であった。彼はアムノンに言った、「王子よ、あなたは、どうして朝ごとに、そんなにやせ衰えるのですか。わたしに話さないのですか」。アムノンは彼に言った、「わたしは兄弟アブサロムの妹タマルを恋しているのです」。』(2サムエル記13:3-4)
心の思い悩みを何でも打ち明けられる友人を、人は「貴重」「何よりの宝」と言うかもしれない。
しかし、友人関係の平和さを重視するあまり、聞き心地は良くても、御言葉には反するアドバイスをするとするなら、それがかえって滅びの元となってしまう。
『あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる。愛する者が傷つけるのは、まことからであり、あだの口づけするのは偽りからである。』(箴言27:5-6)
事実、この友人の「全く御言葉に基づかない助言」が、アムノンを滅ぼしてしまう事になる。
『ヨナダブは彼に言った、「あなたは病と偽り、寝床に横たわって、あなたの父がきてあなたを見るとき彼に言いなさい、『どうぞ、わたしの妹タマルをこさせ、わたしの所に食物を運ばせてください。そして彼女がわたしの目の前で食物をととのえ、彼女の手からわたしが食べることのできるようにさせてください』」。』(2サムエル記13:5)
賢い彼がした助言は、単なる「彼女とふたりきりになれる妙案」だった。
彼は、アムノンの劣情を遂げさせようとしてこの提案をしたのかどうかは分からないが、ある女性に対して情欲を持った男を、その女性と二人きりにさせるのは、決して良い助言ではない。
神の国に属する人が、結婚してはならないような相手を欲しがり、妙案と力づくでものにしてしまうのは、滅びの元である。
ノアの洪水は、神の子達が、人の娘たちのいかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで妻とした事が発端だった。
それによって生まれた者達が、力づくの原理で地上に悪を増大させ、心に計る事がみな悪に傾くようになってしまったため、人の寿命は引き下げられ、ひいては、大洪水が引き起こさ、その世代の者達は滅びてしまった。(創世記6章)
ダビデも、結婚してはならない女性に欲情をいだき、権力で「もの」にしたが、彼はそれを悔い改めた事によって、死は免れた。
しかし、その罪の刈り取りは、子孫の中にはびこってしまう事になる。
遂げてはならない欲情への対処方法は、ただ、御言葉を摂り入れる事によってである。
私達は努めてそれを実行し、自分の家系に、罪や呪いの入り込む余地が無いようにしたい。