メッセージ - 201510のエントリ

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

鉄面皮の頑なさをも砕く御言葉の養い(イザヤ51:12-16)
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つくばエクレシア礼拝説教メッセージ

イサク - 主と交わり、主と共に歩む祝福の家系(創世記25:19-26)
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純潔を貫き通すダビデと、流血で物事を通すヨアブ(2サムエル記20:3-13)
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いよいよダビデは、再びエルサレムへ入城する。
『ダビデはエルサレムの自分の家にきた。そして王は家を守るために残しておいた十人のめかけたちを取って、一つの家に入れて守り、また養ったが、彼女たちの所には、はいらなかった。彼女たちは死ぬ日まで閉じこめられ一生、寡婦としてすごした。』(2サムエル記20:3)

アブシャロムの場合、エルサレムに王として入城してから、真っ先にした事が、ダビデを辱かしめるために、この十人の妾と寝た事だった。
ダビデはそ全く逆で、彼が王宮に戻って真っ先にした事は、彼女たちとは一生「寝ない事」だった。
ダビデは彼女たちを保護し、一生その家に閉じ込めた・・・それはどういう事だろう。

彼女たちは「一生、寡婦としてすごした」と記されている。寡婦とは、夫に死なれた女である。
つまり彼女たちは「ダビデの妾」としてではなく、「アブシャロムの未亡人」として扱われたという事だが、ダビデはなぜ、彼女を再び自分の妾として戻さなかったのか。
それは、律法では「してはならない事」だったからだ。
『女がその家を出てのち、行って、ほかの人にとつぎ、後の夫も彼女をきらって、離縁状を書き、その手に渡して家を去らせるか、または妻にめとった後の夫が死んだときは、彼女はすでに身を汚したのちであるから、彼女を去らせた先の夫は、ふたたび彼女を妻にめとることはできない。これは主の前に憎むべき事だからである。あなたの神、主が嗣業としてあなたに与えられる地に罪を負わせてはならない。』(申命記24:2-4)

アブシャロムは父ダビデ王を侮蔑し、平気で律法を破ったが、ダビデはその全く逆で、死んだアブシャロムを侮蔑する事も、律法を破る事も、決してせず、自分自身も彼女たちも純潔を貫かせたのだろう。
そもそも、ダビデが彼女達を王宮の留守番にしなければ、そのような事は最初から起きなかったのだろうが、過ぎてしまった以上、もはや、こうする以外には無かったのだろう。
いずれにせよダビデは、バテ・シェバとの一件以降、性的な面において、純潔を貫き通すようになった。(1列王記1:4)

続いてダビデは、王宮に戻ると、シェバの反乱への対応を速やかに取らなくてはならない。
シェバのおかげでイスラエルは再び分裂状態になってしまったため、これは急を要する。

『王はアマサに言った、「わたしのため三日のうちにユダの人々を呼び集めて、ここにきなさい」。アマサはユダを呼び集めるために行ったが、彼は定められた時よりもおくれた。』(2サムエル記20:4)
アマサは、ヨアブに代わって新たに任命された将軍で、彼の初仕事は、三日以内にユダから兵を集め、追撃体制を整える事だった。
しかし彼は慣れていなかったのか、期限内にそれを達成出来なかった。

『ダビデはアビシャイに言った、「ビクリの子シバは今われわれにアブサロムよりも多くの害をするであろう。あなたの主君の家来たちを率いて、彼のあとを追いなさい。さもないと彼は堅固な町々を獲て、われわれを悩ますであろう」。こうしてヨアブとケレテびととペレテびと、およびすべての勇士はアビシャイに従って出た。すなわち彼らはエルサレムを出て、ビクリの子シバのあとを追った。』(2サムエル記20:6-7)
アマサが達成できなかった事のフォローを、ダビデはアビシャイに命じた。
旧知の経験豊かなヨアブであったら、すぐに出来た事であろうが、ダビデは既に彼を将軍の地位から降ろしている。
ところが、である。

『ヨアブはアマサに、「兄弟よ、あなたは安らかですか」と言って、ヨアブは右の手をもってアマサのひげを捕えて彼に口づけしようとしたが、アマサはヨアブの手につるぎがあることに気づかなかったので、ヨアブはそれをもってアマサの腹部を刺して、そのはらわたを地に流し出し、重ねて撃つこともなく彼を殺した。こうしてヨアブとその兄弟アビシャイはビクリの子シバのあとを追った。』(2サムエル記20:9-10)
なんとヨアブは、ダビデが任じた将軍であり、既に彼の上司となったアマサを、殺してしまったのだ。

ヨアブのこのような仲間殺しは、アブネルに続き、二度目である。
最初の時は、サウル家の将軍アブネルの尽力によって、サウル家とダビデ家が平和の内に政権交代しようとしていた所に、ヨアブはアブネルを今回のように殺し、平和な流れを、流血によって染めてしまったのだ。
口づけと平和の安否をしながら近づいて、殺す。このような、イスカリオテのユダのような者は、安らかな死ぬ方はできない。(1列王記2:32)

『時にヨアブの若者のひとりがアマサのかたわらに立って言った、「ヨアブに味方する者、ダビデにつく者はヨアブのあとに従いなさい」。』(2サムエル記20:11)
この若者は、ヨアブのあまりに強引で”わかりやすい”行為に恐れ、思わず叫んだのだろう。
ヨアブこそ、ダビデの将軍としてふさわしい者だ、と。

『アマサは血に染んで大路の中にころがっていたので、そのそばに来る者はみな彼を見て立ちどまった。この人は民がみな立ちどまるのを見て、アマサを大路から畑に移し、衣服をその上にかけた。アマサが大路から移されたので、民は皆ヨアブに従って進み、ビクリの子シバのあとを追った。』(2サムエル記20:12-13)
他の人々も、ヨアブのあまりに強引で力任せなやり方に、誰も逆らうことが出来ず、ヨアブに従って行った。

男性は、このように、ごちゃごちゃした物事を、単純明快な力わざで進める人に頼もしさを覚え、ついて行ってしまう所がある。
しかし、主君を軽んじ、平和ではなく流血で物事を解決して行こうとする人には、平和な最後は無い。
人の血を流す者は、人から血を流される。(創世記9:6)
剣を取る者は、剣で滅びる。(マタイ26:52)
私達は、ヨアブのような怒りと流血によって滅びる者ではなく、ダビデのように平和をつくる柔和な者として、地を相続する者でありたい。

よこしまな一言によって、簡単に分裂してしまったイスラエル(2サムエル記19:41-20:2)
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エルサレムへ帰還するダビデを巡って、既に、色々な人間模様があるのを見ている。
ある人は、保身や命乞いのために、ある人は、本心からダビデの無事を喜んでダビデを迎えに来ていたが、今回見るのは、そのどちらでもない群衆達である。
すなわち、しっかりしたアイデンティティを持たず、ただトレンドや流行を追いかけるかのようにして、ダビデを迎えに来た人達である。

『さてイスラエルの人々はみな王の所にきて、王に言った、「われわれの兄弟であるユダの人々は、何ゆえにあなたを盗み去って、王とその家族、およびダビデに伴っているすべての従者にヨルダンを渡らせたのですか」。』(2サムエル記19:41)
イスラエルの人々がダビデに問い詰めている内容は、ダビデ王が帰還するに当って、なんで自分達を呼ばずにユダ族だけにダビデの帰還を世話させて、ダビデを「盗み去り」「独り占め」にさせたのか、と。

ダビデは、ただイスラエルに平和を戻したかっただけだ。
それまで、全イスラエルが担いでいたアブシャロムが、あっけなく討たれてしまい、右往左往していたイスラエルを、ダビデは一つにまとめるために、まずは、身内のユダ族に「ダビデをエルサレムへと戻しなさい」と指示を与え、そこからイスラエルに秩序を回復させようとしたのだ。
もしダビデが、自分を裏切ってアブシャロムに与した全イスラエルと和解する気が一切無かったとしたなら、アブシャロムの将軍だったアマサを、わざわざ自分の将軍に起用するなぞ、しなかったはずだろう。
ダビデはただ、イスラエルに平和を戻したかっただけなのだが、やましさの残っている群衆達は、別の思惑に流されていた。

『ユダの人々はみなイスラエルの人々に答えた、「王はわれわれの近親だからです。あなたがたはどうしてこの事で怒られるのですか。われわれが少しでも王の物を食べたことがありますか。王が何か賜物をわれわれに与えたことがありますか」。』(2サムエル記19:42)
ユダ族は、ダビデが返事する機会を奪って、平和ではない言葉でイスラエルに答えており、肝心のダビデの意図が不在のまま、集団と集団の争いが起こりつつある。

『イスラエルの人々はユダの人々に答えた、「われわれは王のうちに十の分を持っています。またダビデのうちにもわれわれはあなたがたよりも多くを持っています。それであるのに、どうしてあなたがたはわれわれを軽んじたのですか。われらの王を導き帰ろうと最初に言ったのはわれわれではないのですか」。しかしユダの人々の言葉はイスラエルの人々の言葉よりも激しかった。』(2サムエル記19:43)
ここに、イスラエル10部族対ユダ族という構図の分裂が起こっている。
その構図は、ダビデの子・ソロモンの時代が終わって以降、顕著に現れるのだが、この時、この混乱に乗じて人々を自分に引き寄せようとする者があらわれる。

『さて、その所にひとりのよこしまな人があって、名をシバといった。ビクリの子で、ベニヤミンびとであった。彼はラッパを吹いて言った、「われわれはダビデのうちに分がない。またエッサイの子のうちに嗣業を持たない。イスラエルよ、おのおのその天幕に帰りなさい」。そこでイスラエルの人々は皆ダビデに従う事をやめて、ビクリの子シバに従った。しかしユダの人々はその王につき従って、ヨルダンからエルサレムへ行った。』(2サムエル記20:1-2)
シバはラッパを吹き鳴らして人々を引き寄せ、わずか二言三言で、全イスラエルをダビデから引き離れさせてしまった。
この時、ユダ族は最後までダビデに付き従ったのであるが、結局、全イスラエルがいとも簡単に突如現れたシバの言葉になびいて、ダビデから離れてしまったという事は、結局彼らにっとってダビデはどうでも良かったという事だ。

つまり、群衆にとっては、自分の思い通りに行くなら、指導者はダビデでも、アブシャロムでも、シバでも良かったのだ。
いつの時代でも、アイデンティティを持っていない群衆は、浮動する大衆心理の赴くままに流され、自分をそこそこ良い生活をさせてくれるなら別に支配者は誰でも良く、いとも簡単に、ある指導者を持ち上げたり、あるいはすぐに敵対したりするものだ。
イエス様のエルサレム入城の時も、群衆はイエス様を高々と持ち上げたのに、その一週間後には、イエス様を十字架につけろと叫ぶ側に一斉にまわってしまった。

心定まらない群衆が集まって、よく分からない主張で盛り上がったりすると、そのような危うさがつきまとうものである。
こうして、肝心のダビデが一言も発しないままに、ただ群衆のざわめきの波に揉まれるまま、イスラエルは、再び分裂状態へと流されて行ってしまった。
せっかくダビデが建て上げつつあった、尊い和解のわざを、シバはいとも簡単にひっくり返してしまった。

シバのように、人々に混乱させ分裂させている彼らは、結局、自分が目立って、人々を自分のもとに引き寄せたいだけで、ダビデの事も、イスラエルの平和も、全く考えていないのだ。
人々に分裂の兆しを見ると「自分が成り上がるチャンスだ」とわくわくして、いらぬ扇情を煽り立て、そうして人々が分裂している様を見て「自分の思い通りになった」と、ほくそ笑んでいるのだ。
『罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。 これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。』(ルカ17:1-2)

主に属する人は、和解のつとめを為し、いのちを建て上げるが、サタンの意図は、つまづきを起こさせ、分裂させ、尊いものを踏みにじる。
私達はその意中に、はまってはならない。
パウロは言っている。
『兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。・・・平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。』(ローマ16:17-20)

神は平和の神であり、分裂の神ではない。
平和の神は、私達聖徒の足をもって、そのような兄弟姉妹に分裂を促すようなサタンの性質を、踏み砕かせて下さるのだ。
ただし、私達が踏みにじるのは、誰か人間ではなく、サタンである事も、間違えてはならない。

マタイによる福音書講解説教メッセージ

最後の晩餐とつまづきの予告(マタイ26:26-35)
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イザヤ書講解説教メッセージ

幻の谷に対する宣告 - 悲しみ悔い改めるべき時に宴会騒ぎをした都(イザヤ22:1-14)
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バルジライに対するダビデの対応(2サムエル記19:31-40)
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『さてギレアデびとバルジライはロゲリムから下ってきて、ヨルダンで王を見送るため、王と共にヨルダンに進んだ。バルジライは、ひじょうに年老いた人で八十歳であった。彼はまた、ひじょうに裕福な人であったので、王がマハナイムにとどまっている間、王を養った。王はバルジライに言った、「わたしと一緒に渡って行きなさい。わたしはエルサレムであなたをわたしと共におらせて養いましょう」。』(2サムエル記19:31-33)

バルジライは、ダビデ王が都落ちした時から勝利するまで、始終一貫、王への忠誠を示し、ダビデがマハナイムに留まっている間、ずっと王を養っていた。
王について行った人達は、少なくとも2000人以上いたはずである。
彼らを一日養うだけでも、かなりの食料や経費と労力がかかったであろうが、バルジライは全てをまかなっていたのである。
ダビデ王は、そんなバルジライに報いたいと思い、一緒にエルサレムに来るよう申し出たのだ。

人はそれぞれ、主から賜物(ただで受けた贈り物)が与えられている。
それはバルジライのように富であったり、能力であったり、霊的な力であったりするのだが、おのおのに与えられた賜物を用いて、主にある兄弟姉妹の不足を補いあい、そうして互いが一つとなって、キリストのからだを建て上げて行くのである。
バルジライは、主から与えられた「富」を我がものとせず、主にあって戦いを戦っているダビデ達を支えるために、喜んで供与した。このようにして、彼も主の働きに参加したのである。

神の国はこのように、主から「ただで受けたもの(賜物)」を互いに分け合い、補い合い、そうしてキリストのからだを建て上げて行くものである。
『わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。
わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。』(ローマ12:3-8)

ダビデは、自分達を助けてこんなにも良くしてくれたバルジライに、何とか報われて欲しいと願ったのだが、バルジライは、自分は老い先が短く、またあまりに年老いているため、せっかく美味なごちそうを頂いても、あるいは、せっかく男女の美しい歌声を聞いても、自分はもうそれらを味わう感覚が衰えてしまっている、そんな自分を招いてもらっても、ただ王の重荷になるだけです、と言って、丁重に辞退した。
バルジライはなんと慎ましい心の持ち主だろう。

ダビデが落ちぶれていた時は、冷たくあしらっていたのに、いざ、ダビデが隆盛を戻したとたんに、手のひらを返したかのように媚びて来たような人達は、大勢いた。
老い先が短く、味覚も聴覚も衰えているのに、自分ばかりが富をひとり占めにして、味わえもしないグルメ三昧したり、感性も無いのに芸術三昧しているような人は、多くいるかもしれない。
そんな中、バルジライは一切、見返りを期待する事なく、ただ、主に忠実なダビデを助けたい、という一心で、彼に与えられた富を分与し、それの報いを自分自身が受け取る事を辞退したのだ。

『どうぞしもべを帰らせてください。わたしは自分の町で、父母の墓の近くで死にます。ただし、あなたのしもべキムハムがここにおります。わが主、王と共に彼を渡って行かせてください。またあなたが良いと思われる事を彼にしてください」。王は答えた、「キムハムはわたしと共に渡って行かせます。わたしは、あなたが良いと思われる事を彼にしましょう。またあなたが望まれることはみな、あなたのためにいたします」。』(2サムエル記19:37-38)
このキムハムは、彼の息子であろう。
ダビデが死ぬ日が近づいた時、彼は跡を継ぐソロモンに、バルジライの子らに恵みを施すように特に指示をしている。(1列王記2:7)
後のバビロン捕囚の時代、ベツレヘム近くに「ゲルテ・キムハム(キムハムの宿所)」と呼ばれる土地がエレミヤ書で出てくるが(エレミヤ41:17)、もしかしたら、キムハムの子たちはダビデの故郷・ベツレヘム近くに土地を得て、その子孫達がバビロン捕囚の時まで生き残っていたのかもしれない。

『こうして民はみなヨルダンを渡った。王は渡った時、バルジライに口づけして、祝福したので、彼は自分の家に帰っていった。王はギルガルに進んだ。キムハムも彼と共に進んだ。ユダの民はみな王を送り、イスラエルの民の半ばもまたそうした。』(2サムエル記19:39-40)
かつては息子アブシャロムに卑しめられ、追われつつ渡ったヨルダン川だったが、今やダビデは栄誉を受け、同行する人数も非常に多くなっていた。

王の王であるキリストも、ダビデ王が経験したように、今は人々から卑しめられているように見えてはいても、やがては全ての敵を滅ぼし、天の軍勢を従えて来られる時が来る。
その時、ダビデの時に起こったのと同じように、人々は地上で為した行いに応じて、それぞれに報いが与えられる。
『人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、
『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。』(マタイ25:31-40)

バルジライは、ダビデが困窮した時、彼を訪ね、賜物として与えられていた富をもってダビデ達に食べさせ、宿を貸し、着るものを与えた。
彼も、メフィボシェテも、地上ではあまり報いられるという事がなかったが、彼の子孫は栄え、そして彼らの栄誉は、永遠の書物に記された。
この地上は、報いられるという事が少ないかのように見えても、主は必ず、永遠において報いて下さるお方なのだ。

火曜早天祈祷会

ステップアップして行く主の祝福とチャレンジ(創世記12:1-3)
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メフィボシェテに対するダビデの対応(2サムエル記19:24-30)
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ダビデ王のエルサレム帰還に伴い、色々な人々の思惑が交錯する中、真っ先にダビデを迎えに出たのは、サウル家に属するシムイやツィバだった。

しかし、彼らが誰より先にダビデを迎えに来たのは、ダビデの勝利と無事を喜んで、という事ではなく、下心を持っての事だった。
そして、彼らの次にダビデを迎えに来たのは、サウルの子、ヨナタンの子、メフィボシェテだった。

『サウルの子メピボセテは下ってきて王を迎えた。彼は王が去った日から安らかに帰る日まで、その足を飾らず、そのひげを整えず、またその着物を洗わなかった。』(2サムエル記19:24)
メフィボシェテは、いつとも知る事の出来ないダビデ達の帰還まで、その足を飾らず(七十人訳による補足:爪も切らず)、ひげも整えず、着物も洗わず、ダビデが苦難を受けている期間、自分自身も、身を悩ませていた。
という事は、彼の爪は、それなりに伸びていただろうし、ひげも、長期間整えていなかった有様であったろうし、着物もそれなりに汚れていた事だろう。
シムイやツィバは、美辞麗句と言葉で下心を隠して来たが、メフィボシェテは、その有様からして、ダビデを心から心配し、帰る日を待ち望んでいた事を、偽りようが無い。

ダビデがアブシャロムに追われエルサレムから落ちのびて行った時、メフィボシェテのしもべであるツィバは、メフィボシェテに与えられているダビデの恵みを横取りしようとしたのか、ダビデが落ちのびて行った事をあたかも喜んでいるかのような、偽りの報告をした。
ダビデはそれを真に受け、真実を確認しない内に「見よ、メピボセテのものはことごとくあなた(ツィバ)のものです」と約束してしまった。(2サムエル記16:1-4)

それ以降、ダビデはずっとメフィボシェテについて、良くない印象を抱き続けて来たのだろう。メフィボシェテが会いに来た時、ダビデの最初の対応は、そっけなかった。
『「メピボセテよ、あなたはどうしてわたしと共に行かなかったのか。」彼は答えた、「わが主、王よ、わたしの家来がわたしを欺いたのです。しもべは彼に、『わたしのために、ろばにくらを置け。わたしはそれに乗って王と共に行く』と言ったのです。しもべは足なえだからです。ところが彼はしもべのことをわが主、王の前に、あしざまに言ったのです。しかし、わが主、王は神の使のようでいらせられます。それで、あなたの良いと思われることをしてください。』(2サムエル記19:25-27)

ダビデは、彼の伸びた爪、乱雑になったひげ、長期間洗わなかった服を見て、彼の言った事こそ真相だった、と知っただったろう。

『わたしの父の全家はわが主、王の前にはみな死んだ人にすぎないのに、あなたはしもべを、あなたの食卓で食事をする人々のうちに置かれました。わたしになんの権利があって、重ねて王に訴えることができましょう」。』(2サムエル記19:28)
メフィボシェテは、自分のひげや服を見てください、などとアピールする事は一切無かった。
ダビデがそれまで自分に尽くしてくれた真実だけでも十分です、どうして尚、何かを訴える事が出来ましょうか、と、一切の判断をダビデにゆだねている。

『王は彼に言った、「あなたはどうしてなおも自分のことを言うのですか。わたしは決めました(原語:既に言っている)。あなたとヂバとはその土地を分けなさい」。』(2サムエル記19:29)

ツィバは、メフィボシェテよりも一足早く、十五人の息子と二十人のしもべを従えてダビデ達に会いに来ており(17節)、ダビデは既にツィバに約束してしまった。メフィボシェテのものは、ツィバのものだ、と。
事の真相をダビデが知ってから、それを取り消しができなかったのは、もう既に、その方面で諸々の手続きが進んでしまっていたのかもしれない。
足が不自由で、機敏に動けない事を良いことに、ツィバはメフィボシェテを貶め、騙し取るような事をしたが、それでもメフィボシェテは、一切の文句も無しに言う。
『わが主、王が安らかに家に帰られたのですから、彼にそれをみな取らせてください。』(2サムエル記19:30)

ダビデのエルサレム帰還に際し、色々な人々の思惑が交錯する中、一番真実にダビデを思い、待っていたのは、このメフィボシェテだろう。
彼は、彼のしもべの讒言と、ダビデの早まった決断のゆえに、本来自分のものだったものを、半分取られてしまったが、ダビデは彼を憐れみ、守り続けた。(21:7)

人は不完全である。
偽りを見抜けなかったり、偽りの言葉を鵜呑みにして早まった決断をし、尊いものを卑しい者に騙し取られたり、本当に憐れむべき真実な人をぞんざいに扱ってしまったりもする。
体が不自由であったり、言葉達者でなかったり、世渡り上手でない人が、健康体な人や、言葉達者な人や、世渡り上手な人に、出し抜かれてしまう事が多々あるのが、この世である。

人は不完全で判断を誤ってしまう事もあるが、主イエスは全てをご存知であり、全ての偽りを見抜き、そのさばきは真実である。
良い事で報われない人は、必ず報われ、悪を事で報いを受けていない者でも、やがて、相当のさばきをされるお方である。
メフィボシェテはこの時、報われなかったかのように見えても、彼の子孫は、ベニヤミン族の中で栄えて行った。(2サムエル記9:12、1歴代誌8:34-40)
「柔和な人者は幸いである、その人は地を受け継ぐ」の御言葉の通りである。

イサク - 主と交わり、主と共に歩む祝福の家系(創世記25:19-26)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

イサクは、祝福が約束されたアブラハムのひとり子である。アブラハムには、子孫が海の砂粒のように、空の星々のように数多くされる、と主から約束されており、イサクのリベカとの結婚についても、主の奇跡的な導きの元に為され、主が明らか共におられる、はずなのに、イサク夫婦には、肝心の子が生まれなかった。
結婚してから5年、10年経っても、15年経っても。主の約束では、子孫が空の星々のように増え広がる筈なのに、イサクが50代後半になっても生まれない。おかしい事である。
結婚20年目に、ようやく子が生まれるのだが、そのきっかけは、イサクが妻のために主に祈願したからだ。
神の民であるキリスト者には、将来と希望の計画が定められおり、この世でも、来るべき世においても、祝福が約束されている。しかし、主との交わりが全く無いなら、天からの祝福は全く滞ったままになってしまう。
天国は、神が人と共に住み、人は神の民となるという、神と人とが永遠に双方向に交わりを持ちつつ生きていく所である。だから、イエス様を信じ救われたなら、もうそれで終わりというものでは、決してない。
神の民とされた人は、主と積極的に交わって生きるべきであり、主と交わるとは、何かにつけ主に祈り、礼拝し、御言葉に書かれてある通りに歩んで行く事である。そのような主とのコミュニケーションを、人が取らなくなってしまったら、主は、人にとって望ましくない事を起こしてでも、コミュニケーションを回復させる。

イサクが主に祈った事によって、ようやく妻リベカは身ごもるのだが、双子の子が胎内で激しくぶつかり合ってしまう。祝福の家系である筈なのに、こんなに激しくぶつかり合う事では、一体どうなるのか。
彼女はすぐに、主の御心を求めに行った所、2つの国が胎内にあり、兄は弟に仕える、という事だった。
最初に出てきた子・エサウは野性的で強く、後に出てきた子は、兄のかかと(アケブ)を掴んで出てきたためヤコブと名付けられた。ヤコブは生まれた時点から、常々、長男の権利と祝福を掴もうと狙って来たが、引き換えエサウは、長男の座に安住し、主に祈る事も、求める事もせず、野の獣を追い回していた。
長男の座に安住し切って油断していたエサウは、やがて、弟ヤコブに長男の祝福を奪われてしまう。
エサウは、長男の権利を、一杯の食物と引き換えに弟に売ってしまう程、聖なる尊いものを、軽んじていた。
彼は後になって祝福を継ぎたいと願ったが拒絶された。『彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。 』(ヘブル12:17)
ここはKJVでは「for he found no place of repentance」すなわち、彼の心のスペースから、一切「悔い改め」という部分は見つけられなかった、という事だ。彼のように「主に求めない」「聖なるものを軽んじる」「悔い改めない」とするなら、祝福の家系から切り離され、別の者にその座を譲る事になってしまう。(ローマ11:22)

主は、愛する子を、敢えて懲らしめられる(ヘブル12:5-8)。それは、羊飼いが羊達を緑の牧場へと追うように、祝福がもっと植えられている地に行くよう、私達を追いやり、より高い祝福の次元へと登らせるためだ。
自分は祝福の子である、はずなのに、なぜか望ましくない事が起きているという時は、主の御心は何かを求める時である。イサクもリベカも、アブラハムも、望ましくない事が起きた時は、祈った。
『それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。』(ヘブル12:12)
手は主の働きをする部位であり、膝は、ひざまずいて祈るために用いる部位であるが、私達は御心を外した事をする時、やること為す事全て健やかではなくなり、手も足も疲れ弱ってしまう。仕事や人生において、実りなき徒労の日々を演じてしまったのは、祈る膝がなく、身勝手な手を動かし続けてしまった故である。
問題が起きた時、主のために働くべき手、祈るべき膝が萎えていないか、点検するべきだ。
『また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。』(ヘブル12:13) 信仰者の歩みは、道が真っ直ぐになってから歩み出すのではなく、まず私達の側が、主の通られる道を真っ直ぐにする所から、である。どのようにしてか。
荒野で叫ぶ者・バプテスマのヨハネは「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」(マタイ3:3)と叫んだが、彼が説いたように、悔い改める事、以前の自分に死ぬ事(バプテスマ)によって、主の道が整えられる。
天国は、バプテスマのヨハネの時以来、激しく襲われており、激しく襲う者たちが、それを奪い取っている(マタイ11:12)。エサウのように安住して主との交わりを止めたりせず、イサクやヤコブのように祈り、求め、祝福をどんどん奪って行く皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!

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