メッセージ - 201510のエントリ
つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
愛を伴った権威によって従わせる主(マタイ7:28-29)
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永遠に帰って来なかった放蕩息子(2サムエル記18:19-33)
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- 執筆 :
- pastor 2015-10-2 23:20
永遠に帰って来なかった放蕩息子(2サムエル記18:19-33)
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戦いの結果は、ダビデ王が願った通りではなく、クーデターを起こした王子アブシャロムの死、という形で、決着がついた。
『ツァドクの子アヒマアツは言った。「私は王のところへ走って行って、主が敵の手から王を救って王のために正しいさばきをされたと知らせたいのですが。ヨアブは彼に言った。「きょう、あなたは知らせるのではない。ほかの日に知らせなさい。きょうは、知らせないがよい。王子が死んだのだから。ヨアブはクシュ人に言った。「行って、あなたの見たことを王に告げなさい。」クシュ人はヨアブに礼をして、走り去った。』(2サムエル記18:19-21)
アヒマアツは、この戦いの結果を「主が敵の手から王を救って王のために正しいさばきをされた」と評価したが、きっとそれがダビデの側についた人々の大勢の見方であろう。
なにしろ、謀反しクーデターを企てた者を、討ち取ったのだから。
アヒマアツは、その「戦勝の良き知らせ」を伝えようと意気込むのだが、ヨアブはそれを引き止めた。
ヨアブは、ダビデのことを良く知っていた。
この度の結果は、ダビデにとっては良き知らせではない、と。そして、伝令の報告の仕方次第では、伝令が殺されかねない、とまで思ったのかもしれない。
だから彼は、無名のクシュ人に伝令の役割をさせたのだ。
しかしアヒマアツは、それでも自分も伝えに行きたい、と懇願し、ヨアブは根負けして、行く事を許した。
『ダビデは二つの門の間にすわっていた。見張りが城壁の門の屋根に上り、目を上げて見ていると、ただひとりで走って来る男がいた。見張りが王に大声で告げると、王は言った。「ただひとりなら、吉報だろう。」その者がしだいに近づいて来たとき、見張りは、もうひとりの男が走って来るのを見た。見張りは門衛に叫んで言った。「ひとりで走って来る男がいます。」すると王は言った。「それも吉報を持って来ているのだ。」
見張りは言った。「先に走っているのは、どうやらツァドクの子アヒマアツのように見えます。」王は言った。「あれは良い男だ。良い知らせを持って来るだろう。」』(2サムエル記18:24-27)
ダビデは知らせが届く前から、しきりに「良い知らせ」にこだわっている。
伝令が一人で来たなら「それは吉報」だ、一人ではなく二人だと分かっても「それも吉報」だと、また、あの男は良い男だから「良い知らせ」だ、と。
ダビデにとっての「良い知らせ」とは、息子アブシャロムが無事である事。
その「吉報」が来るのを、ダビデは、今か今かと切望していたのだろう。
あたかも、放蕩息子の父が、息子が出て行った道をはるか望み見、いつ帰って来るだろうかと、待ち望んでいるかのように。(ルカ15章)
『アヒマアツは大声で王に「ごきげんはいかがでしょうか。」と言って、地にひれ伏して、王に礼をした。彼は言った。「あなたの神、主がほめたたえられますように。主は、王さまに手向かった者どもを、引き渡してくださいました。」王が、「若者アブシャロムは無事か。」と聞くと、アヒマアツは答えた。「ヨアブが王の家来のこのしもべを遣わすとき、私は、何か大騒ぎの起こるのを見ましたが、何があったのか知りません。」王は言った。「わきへ退いて、そこに立っていなさい。」そこで彼はわきに退いて立っていた。』(2サムエル記18:28-30)
アヒマアツは、「戦いには勝った」という面だけの「良い知らせ」は伝えたものの、肝心の所を濁した。
言ってみれば、報告する上で「美味しい所取り」をして、ダビデに自分に対する「良い印象」を残したわけである。
ダビデ王は、自分に手向かって来た敵が打ち伏された報告については、目もくれなかった。あたかも、当たり前であるかのように。
彼は今までの経験から、主に対してやましい所が無く、自分主により頼んでおり、そして相手が主に従順していないなら、たとえどんなに不利な戦いでも、主は必ず勝利を下さる、と確信していたのだ。
彼のやましさは、とうの昔に主に告白し、悔い改め、主に”取り扱われ済み”だ。
しかし、アブシャロム達は、明らかに主の前で悪い事をしており、主に守られる分は無い。
だから、ダビデは自分達がいかに圧倒的不利であろうとも、この戦いに勝つ事は、それ程驚く事ではなかったのかもしれない。
それを信じた上で、ダビデは、部下たちにアブシャロムを手柔らかに扱うよう指示したのだろう。
つまり、ダビデにとっての真っ先の関心事項は、戦勝ではなく、アブシャロムが無事かどうか、という事だったのだ。
アブシャロムがこのまま御言葉に逆らうような事をしていたら、主からの懲罰が追いついてしまう事は明らかだ、そうならない内に、何とか救われて欲しい、と。
『するとクシュ人がはいって来て言った。「王さまにお知らせいたします。主は、きょう、あなたに立ち向かうすべての者の手から、あなたを救って、あなたのために正しいさばきをされました。」王はクシュ人に言った。「若者アブシャロムは無事か。」クシュ人は答えた。「王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者のようになりますように。」』(2サムエル記18:31)
クシュ人の伝令は、言ってしまった。
アブシャロムを「王の敵」とし、その「敵」は、主が裁いて下さった、と。
そしてあたかも、ダビデの子アブシャロムが、呪われるべき者の代表格であるかのように、王を害する者は、あの若者のようになりますように、と言った。
『すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」』(2サムエル記18:33)
この王の反応は、人々には理解しがたいものだったかもしれない。実際、アヒマアツも、この度の事はダビデに良い知らせだと思って、最初は伝えたくてうずうずしていた。
王はなぜ、そのような反応をするのか?
確かに息子が死んだ事は悲しい事かもしれないけれど、それ以上に、自分の命の危機は去って、再び王国に平和が戻るのだから、そこまで悲しむのはやりすぎでは、と、人々は思ったかもしれない。
きっとダビデは、今までアブシャロムが何かしても放置する事を重ねたため、彼がこんなにも、呪われるような事をしてしまう子へとならせてしまった、という自責の念があったのだろう。
アブシャロムはせっかく「父の平和」という良い名前がつけられたのに、子育てにおいて彼に間違えた対応をし続けてしまった故に、名前とは全くそぐわない子となってしまい、最終的に、彼は自身の罪の故に滅びが追いついて死んでしまった。
またアブシャロムの死は、そればかりの事ではなかった。
これでダビデの子は3人死んでしまったわけだが、彼らの死は、大本を辿って行くと、ダビデ自身が犯した姦淫と殺人の罪へとたどり着くのだ。
ダビデは、自分の息子に王座を奪われ、命を狙われ、自分の妾を公然と寝取られた。
それだけでも苦しいのに、それに積み重ねて、息子が父に復讐したいがために、律法では死罪に当たるような悪どい事を父にし続けて来て、そして、その罪の刈り取りは、息子自身が刈り取らなくてはならなくなり、そしてついに滅びが追いついて、死んでしまう。
これら一連の全ての原因は、結局、ダビデ自身に行き着くのだ。
ダビデが犯したあの罪の故に、そして、ダビデが放置して来たあれらの事どもの故に、既に3人の子がダビデの前で死んで行き、ただ、ダビデだけは生き残っている。
「ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに」とダビデが叫んだのには、それだけの理由があるのだ。
ダビデは自分の罪を認めた故、死ぬ事は免れたものの、むしろ死んだほうが良かったと思う程の苦痛と悲しみを背負って生きなくてはならなかったのだ。
イエス様のたとえ話の放蕩息子は、悔い改めて父の元に帰って来てハッピーエンドとなったが、ダビデの放蕩息子は、永遠に帰って来なかった。
アブシャロムは”放蕩先”で、神と父とに反逆する事を改めなかった故に、呪いが追いついてしまい、滅んでしまった。
父なる神は、罪人がその罪の内に滅んでいく事を、全く望んでおられない。
『悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。』(エゼキエル18:30-32)
神は、いかに人間が反逆しようとも、それであっても立ち返って、救われる事を望まれる。
たとえ、父の財産を散財し、ぼろぼろになって帰ってきたとしても、父は、遠くからその姿をみとめて走り寄り、口付けし、元の地位に戻して、宴会を開いて下さる。
一人の罪人が立ち返って悔い改めるなら、天では大きな喜びが沸き起こるが、罪人がずっと悔い改めず、呪いが追いついて滅んでしまうなら、ダビデが号泣したように、天では深い悲しみが起こるのだ。
『わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。』(2サムエル記18:33)
このダビデの嘆きは、悔い改めないまま、呪いに追いつかれ、滅んで行ってしまった人達に対する、父なる神様の嘆きでもある。
父なる神様は、こよなき愛で、人を愛された。それで父なる神様に対する反逆と罪の故に滅んでいく人を、滅びから救うために、ひとり子を世に遣わされた。
彼を身代わりにして死なせる事によって、人の罪を処罰し、彼を信じる人が、永遠のいのちを持つようになるために。
華々しかったアブシャロムの、実にあっけない、呪われた最後(2サムエル記18:9-18)
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- 執筆 :
- pastor 2015-10-1 23:40
華々しかったアブシャロムの、実にあっけない、呪われた最後(2サムエル記18:9-18)
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アブシャロムは非常に美しく、頭も切れ、人々の人気を得、”華々しく”父ダビデ王にクーデターを起こしたが、その最後は、あまりにあっけなく、実に呪われた有様だった。
『さてアブサロムはダビデの家来たちに行き会った。その時アブサロムは騾馬に乗っていたが、騾馬は大きいかしの木の、茂った枝の下を通ったので、アブサロムの頭がそのかしの木にかかって、彼は天地の間につりさがった。騾馬は彼を捨てて過ぎて行った。』(2サムエル記18:9)
アブシャロムは髪の毛がとても豊富で、彼の美を誇るものであったが、その髪が災いした。
彼は彼の乗っていた動物によって木に吊るされ、ぶら下がったままの姿を、敵の面前に晒す事となった。
木に吊るされた者は「神に呪われた者」と記されている。(申命記21:23、ガラテヤ3:13)
それは、天と地の間に宙吊りにされる事により、天からも地からも見放された者、という意味らしい。
まさに、神がアブシャロムをその状態へと導いた、と言えるだろう。
なにしろ彼は、自分から呪われるべき事をしたからのだから。
『『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。・・・『父の妻を犯す者は、父を恥ずかしめるのであるからのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。』(申命記27:16,20)
『ひとりの人がそれを見てヨアブに告げて言った、「わたしはアブサロムが、かしの木にかかっているのを見ました」。ヨアブはそれを告げた人に言った、「あなたはそれを見たというのか。それなら、どうしてあなたは彼をその所で、地に撃ち落さなかったのか。わたしはあなたに銀十シケルと帯一筋を与えたであろうに」。』(2サムエル記18:10-11)
ヨアブに報告をもたらした人は、ダビデの「アブシャロムを穏やかに扱うように」という命令を聞いていたので、当然ヨアブはあの状態のアブシャロムを穏やかに扱うものだろう、と思って報告したのであろうが、ヨアブはあたかも、アブシャロムは殺して然るべしであるかのように答え、しかも「どうしてあなたは殺さなかったのか」とまで言われてしまった。
かの報告した人には、王の命令を聞き従う心はあったが、ヨアブには王の命令を聞く心は無く、血を流すのに早かった。
それ故彼は、人から血を流される者となってしまう。
『そこで、ヨアブは「こうしてあなたと共にとどまってはおられない」と言って、手に三筋の投げやりを取り、あのかしの木にかかって、なお生きているアブサロムの心臓にこれを突き通した。ヨアブの武器を執る十人の若者たちは取り巻いて、アブサロムを撃ち殺した。・・・人々はアブサロムを取って、森の中の大きな穴に投げいれ、その上にひじょうに大きい石塚を積み上げた。そしてイスラエルはみなおのおのその天幕に逃げ帰った。』(2サムエル記18:14-17)
これが、かのアブシャロムの最後である。
彼は木にかけられ、槍で刺され、寄ってたかってなぶりものにされ、その死体は王の墓に丁重に葬られず、誰も通らないような密林のほら穴に投げ込まれ、そこを大きな石くれの山で塞がれてしまった。
いかに若く美しく、はかりごとに長け、華々しく、勢いがあろうとも、主が「これをしてはならない」と言われた事を率先してするような者の最後は、実に呪われたものなのだ。
『さてアブサロムは生きている間に、王の谷に自分のために一つの柱を建てた。それは彼が、「わたしは自分の名を伝える子がない」と思ったからである。彼はその柱に自分の名をつけた。その柱は今日までアブサロムの碑ととなえられている。』(2サムエル記18:18)
14章を見ると、彼には3人の息子がいたはずだった。
彼が畑に火を放ってまで父ダビデと会おうとしていた14章の時は、まだ、子供達は健在であったのだろう。
しかし、父ダビデに反逆をはじめて以降、その3人は、死んでしまったのだろう。
アブシャロムは神の国イスラエルで王を名乗ったからには、率先して父に逆らうという御言葉への反逆をするとしたなら、神が黙っていないのだ。
きっとアブシャロムがした事で神に呪われ、子のいのちまでも呪われてしまった事を、全イスラエルは聞いて、震えおののいただろう。
『もし、わがままで、手に負えない子があって、父の言葉にも、母の言葉にも従わず、父母がこれを懲らしてもきかない時は、その父母はこれを捕えて、その町の門に行き、町の長老たちの前に出し、町の長老たちに言わなければならない、『わたしたちのこの子はわがままで、手に負えません。わたしたちの言葉に従わず、身持ちが悪く、大酒飲みです』。そのとき、町の人は皆、彼を石で撃ち殺し、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば、イスラエルは皆聞いて恐れるであろう。』(申命記21:18-21)
ここの「身持ちが悪い(ザラェル)」の原意は、ぶらぶらする、放浪ぐせがある、おお喰らい、役立たず、の意味があり、また、「大酒飲み(サバァ)」の原意は、がぶがぶ飲む、酔っぱらい、の意味がある。
子がわがままで手に負えず、親の言葉に従わず、あれもこれも自分のものにしようと貪欲で、懲らしても聞かない、という事なら、長老達にこのように報告してから、石て撃ち殺しなさい、そうして、これを聞く人全てが恐るようにしなさい、と、律法に記されている。
私達は、祝福を受けるためにも、父母を敬うべきである。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
従うべき権威には順序があって、ここに記されている通り、「主にあって」両親に従うべきである。
もし父母が、主と主の御言葉に反する事を押し付けて来るなら、敬いの心は持ちつつ、諭すべきである。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
そうした以外の事であれば、両親に服従すべきであり、それをするなら、主が約束しておられる通りに幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。
私達はアブシャロムとは真逆の、祝福の王道を歩んでいきたい。