メッセージ - 201511のエントリ
三位一体の神が共同で働かれた最初の場面 - イエスのバプテスマ(マタイ3:13-17)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2015-11-14 17:41
偽りに満ちた裁判で死刑を押し着せられたイエス(マタイ26:57-68)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マタイによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2015-11-14 17:40
ツロの富は積み立てられず、主の前に住む人々へ渡る(イザヤ23:10-18)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2015-11-14 17:38
主、褒め讃えるべきお方(2サムエル記22:47-51)
Youtube動画
メッセージ音声
ダビデの人生を象徴的に表す詩の、最終部分である。
ダビデは詩の最後で、彼をずっと守り、全てを良いほうへ導いて下さった主を褒め称えている。
『主は生きておられる。わが岩はほむべきかな。わが神、わが救の岩はあがむべきかな。
(NKJV: "The Lord lives! Blessed be my Rock! Let God be exalted, The Rock of my salvation!")』(2サムエル記22:47)
主は、まさに生きておられる。
ダビデの時代のみならず、今も生きておられ、そしてダビデのみならず私達を、すなわち、主を「救いの岩」とするすべての人達に対し、生き生きと働いておられる。
この素晴らしいお方を知れば知る程、褒め讃えずにはおられないのである。
『この神はわたしのために、あだを報い、/もろもろの民をわたしの下に置かれた。』(2サムエル記22:48)
ダビデの時代、かつてなかったほどに多くの国々をダビデは平定し、諸々の国民はダビデを恐れ、そしてダビデの背後におられるイスラエルの神・主への恐れが湧き起こり、多くの異邦人たちがダビデの信じる主に立ち返った。
ダビデは、改心した異邦人に対しては隔てをもうけず、彼の周りには、彼を慕って集まる異邦人たちも多かった。(2サムエル記15:18-22)
それで、多くの異邦人達もダビデを助け、ダビデのために戦い、ダビデと共に礼拝し、共に主を賛美し喜び踊ったのだ。
『またわたしを敵から救い出し、/あだの上にわたしをあげ、/暴虐の人々からわたしを救い出された。』(2サムエル記22:49)
主は、主に信頼するすべての人を、敵の手から、ことに「暴虐の人々」から救い出し、彼らの地位を、敵よりも上げさせてくださるのだ。
エレミヤも同じ事を言っている。
『わたしはあなたをこの民の前に、堅固な青銅の城壁にする。彼らがあなたを攻めても、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを助け、あなたを救うからであると、主は言われる。』(エレミヤ15:20)
ここの「敵」とは、預言者エレミヤが主の警告を伝えても主の言葉を軽んじ、かえって彼を迫害する同国人たちの事だ。
同国民であろうと、外国人だろうと、主はいかなる「敵」からも守り、救い出して下さる。
エレミヤもダビデと同じく、主と主の言葉は自分にとって喜びである事を告白した。
『わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもって/となえられている者です。』(エレミヤ15:16)
私達は、御言葉を「喜びの食物」として、進んで摂り入れているだろうか。
そうであるなら、主もまた私達を喜びとし、進んで守り、養い育てて下さる。
私達は、自分自身をきよく保つために、主をないがしろにする人達とは一線を画す事も、また大事である。
『わたしは笑いさざめく人のつどいに/すわることなく、また喜ぶことをせず、ただひとりですわっていました。あなたの手がわたしの上にあり、あなたが憤りをもって/わたしを満たされたからです。・・・それゆえ主はこう仰せられる、「もしあなたが帰ってくるならば、もとのようにして、わたしの前に立たせよう。もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。彼らはあなたの所に帰ってくる。しかしあなたが彼らの所に帰るのではない。』(エレミヤ15:17-19)
主がここで言っているように、世の享楽にうつつを抜かして主を敬わない人々に、私達が合わせたり、彼らに混じりに行く必要は、無い。
つまらない言葉を止め、主の貴い御言葉を口に上らせるなら、その口は「わたしの口のようになる」と、主は言われる。
だから、主に召しだされた私達は、世の人や世の価値観に媚びたり卑屈になったりしてはならない。
むしろ、世のほうを、御国の価値観に染めさせ、御国の救いへと入れさせるべきだ。
そのようにして自らを清く保ち、信仰を貫く人々を、主は、次のように扱って下さる。
『わたしはあなたを、この民の前に、堅固な青銅の城壁にする。彼らがあなたを攻めても、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを助け、あなたを救うからであると、主は言われる。』(エレミヤ15:20)
ダビデはこの詩の最後も、主への賞賛で満たしている。
『それゆえ、主よ、わたしはもろもろの国民の中で、/あなたをたたえ、/あなたの、み名をほめ歌うであろう。主はその王に大いなる勝利を与え、/油を注がれた者に、ダビデとその子孫とに、/とこしえに、いつくしみを施される」。』(2サムエル記22:50-51)
彼は主に守られ、異邦人はそんな彼を恐れ、そして彼は、そんな異邦人に主を伝えた。
そして彼は、さらに国々の民の中で、主を讃え、主の御名を褒め歌った。
異邦人が主に立ち返り、主を褒め称えるようになるのは、御心に叶った事である事を、パウロも、聖書の色々な箇所を引用して証明している。
『わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、/「それゆえ、わたしは、異邦人の中で/あなたにさんびをささげ、/また、御名をほめ歌う」/と書いてあるとおりである。
また、こう言っている、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。また、/「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。
またイザヤは言っている、/「エッサイの根から芽が出て、/異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みをおくであろう」。どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。』(ローマ15:8-13)
福音はついに、東の果てに住む異邦の国、この日本にも届いた。
私達も、ダビデのように主に望みを置き、大いに主を喜び、共に賛美する特権が与えられたのだ。
ダビデのように、この素晴らしい主をほめ讃え、賛美し、大いに主からの守りと祝福を豊かにいただく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
主が与えて下さる勝利に妥協してはならない(2サムエル記22:38-46)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-11-11 16:52
主が与えて下さる勝利に妥協してはならない(2サムエル記22:38-46)
Youtube動画
メッセージ音声
ダビデは、それまで経験して来た戦いについて、そして敵に対し、主がどのようにされて来たかを、今回記している。
『わたしは敵を追って、これを滅ぼし、/これを絶やすまでは帰らなかった。わたしは彼らを絶やし、彼らを砕いたので/彼らは立つことができず、わたしの足もとに倒れた。あなたは戦いのために、わたしに力を帯びさせ/わたしを攻める者をわたしの下にかがませられた。あなたによって、敵は/そのうしろをわたしに向けたので、/わたしを憎む者をわたしは滅ぼした。』(2サムエル記22:38-41)
もし、敵と言われている相手が、救われる可能性のある人間であるなら、その人のために執り成し祈るべきである。
しかし「敵」が私達の内に潜む罪、愚かさ、自堕落な性質であるなら、ダビデがしたように追いかけ、徹底的に砕き、二度と立つことができないまでに、滅ぼし尽くすべきである。
そうしないと、追い払ってもすぐにまた戻ってきては悩まされ、それを繰り返す内に慣れてしまい、その内、ちょっとやそっとの「追い払い」では出て行かなくなり、ついには居座って出て行かなくなってしまうからだ。
ギデオンは、三百人で十万以上の敵に勝利する、という快挙を成し遂げた直後、それで安住せず、休まずそのまま追撃しに行った。
彼らは疲れていたにも関わらず、また、同国民から気落ちさせるような事を言われたりされたりしたにも関わらず、なお追撃し、川を超え、敵が一息ついている所を急襲し、滅ぼし尽くした。
それで敵は、二度と立ち上がれなくなり、その後の彼の生涯は、ずっと安泰だったし、そして、彼が生きていた間のイスラエルも、ずっと平安が続いた。(士師記6-8章)
私達も、ダビデやギデオンのように、滅ぼし尽くすべき敵、すなわち、罪や愚かさを、徹底的に滅ぼし尽くすべきである。
それをするなら、その後の人生は安泰となるからであり、そして主も、そのような人には惜しまず助けを施して下さる。
しかし、彼が死んだ後のイスラエルは、再び罪の性質に妥協するようになり、滅ぼすべき者達を迎合し、悪い性質や、悪い民族を招き入れてしまった故、敵が力を得て、ほしいままにはびこって蹂躙されてしまう日々が続いてしまった。
士師記はまさに、災いが延々と続いてしまう書であるが、その原因は、滅ぼし尽くすべき敵を、徹底して滅ぼさない事ゆえである。
ヨシュアの場合、邪悪な先住民たちを滅ぼし尽くす事については、主は、太陽や月の動きを止めてまでヨシュア達を助けられた。(ヨシュア記10章)
私達も、自分の肢体に住みついている罪の性質という「先住民」を滅ぼし尽くす努力をし、追撃するなら、主は、太陽や月さえ動かす程の力で助けて下さるのだ!
『彼らは見まわしたが、救う者はいなかった。彼らは主(エホバ)に叫んだが、彼らには答えられなかった。わたしは彼らを地のちりのように/細かに打ちくだき、/ちまたのどろのように、踏みにじった。』(2サムエル記22:42-43)
いざという時に主に助けを叫んでも、何の助けも無く、救い出してもらえないケースは、聖書に何度か出てくる。
主に助けを叫んでも、無視されてしまう人達に共通している性質は、普段から主を敬わず、主を恐れる事を好まず、主の御業を見ておきながらそれを軽んじ、主の叱責をことごとく侮るような人である。
サウル王は、人生最大の危機に面した時、主に伺おうとして祭司や預言者に聞いたのに、主からは何の導きが得られず、そうと見たサウルは、さっさと口寄せに導きを求に行ってしまった。
サウルはかつて、自分の思い通りにならないからと、エポデを着た祭司を85人も殺し、また、実行こそしなかったが、預言者サムエルさえ殺そうとする勢いだった。
彼はそのように、主の代弁者である預言者サムエルの言葉をないがしろにし、神と人との間に立って執り成す祭司を不当に扱い、そうやって主を軽んじて来た。
だから、サウルに恐怖と災難が襲った時に、主を呼んでも主はサウルに答えず、苦難と苦悩が下った時、主を捜し求めても、彼らは見つける事ができなかったのだ。(箴言1:27-30)
しかし、ダビデのように普段から主を恐れ敬う人は、この詩の通りに、主が盾となり、救いの岩となって下さり、彼が主に助けを呼び求める時、主は天を押し曲げて降りてこられ、速やかに救い出して下さるのだ。
『あなたはわたしを国々の民との「争い(競争、コンテスト)」から救い出し、/わたしをもろもろの国民のかしらとされた。わたしの知らなかった民がわたしに仕えた。異国の人たちはきてわたしにこび、/わたしの事を聞くとすぐわたしに従った。異国の人たちは、うちしおれて/その城からふるえながら出てきた。』(2サムエル記22:44-46)
ダビデのように主の栄光のために生きるなら、主は、コンテストなどの仲間内の競争にも勝たせ、かしらとさせて下さる。
実際、スポーツや、あらゆるコンテストなどで、クリスチャンが優勝し、主に栄光を捧げている場面はよく聞くし、よく目にする。
主が彼らを勝利させて下さるのは、彼らが勝利した時に、彼らは主に栄光を捧げるという事を、主が知っておられるからであり、もし、自分の欲や名誉のために「優勝させて下さい」と願うなら、それは虫が良すぎる願いである。
ダビデは主に信頼し、主に守られるたびに主に感謝を捧げ、詩と賛美をつくって主を褒め称えた。
ダビデは、勝利すれば勝利する程、彼は主に栄光をささげ、主の栄光が増し加わって行った。それだから主も、ダビデをもっともっと勝利させて行ったのだ。
そうして、あらゆる外国人はダビデを恐れるようになり、そして、ダビデが仕える主を恐れ敬う心が、国々へと広がって行った。
私達も、主に信頼して歩むなら、相手がいかに強者であったとしても主は勝利させて下さり、まだ見ぬ敵さえ恐れさせ、ますます主の栄光のために用いられて行くのだ。
神、その道は完全。主のみことばは純粋。(2サムエル記22:31-37)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2サムエル記
- 執筆 :
- pastor 2015-11-9 23:32
神、その道は完全。主のみことばは純粋。(2サムエル記22:31-37)
Youtube動画
メッセージ音声
『この神こそ、その道は非のうちどころなく、/主の約束は真実である(the word of the LORD is tried)。彼はすべて彼に寄り頼む者の盾である。』(2サムエル記22:31)
人の意思は移ろいやすく、神様に喜ばれる生き方を守ろうとしても、罪を犯してしまう事があるし、完全さを保とうとしても、どこかしら弱さが出てしまう。
しかし、主の道の完全さ、御言葉の確実さは、決して変わる事ない。それ故、自分に頼る道を捨て、主に依り頼む生き方をして行くなら、決して失望させられる事は無い。
ダビデは、人生を積み重ねていく内に、ますますそれを体験として実証して行ったのだ。
ダビデは、御言葉の純粋さについて、別の詩篇でも表現している。
『主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。 』(詩篇12:6)
銀は、土の炉で何度もためす内に、どんどん純化され、強度も光沢も増して行くように、御言葉を私達という「土の炉」でよく咀嚼し、「ためす」なら、それは私達の内でどんどん光を放ち、強靭さを増して行く。
そのような、信仰のある人が宣言する御言葉には、剣のような鋭さがあり、力と権威と威力がある。
あるいは、そのような人が信仰を混ぜて口から語る御言葉には、癒やしがあり、愛と憐れみが満ち、物事の解決や、必要の満たし、奇跡さえ起こる事もある。
しかし、信仰の無い人が宣言する御言葉には、何の力も無く、かえって、なまくらな御言葉を宣言した故に、火傷を負ってしまう事さえあるのだ。(使徒19:11-17)
『主のほかに、だれが神か、/われらの神のほか、だれが岩であるか。この神こそわたしの堅固な避け所であり、/わたしの道を安全にされた。』(2サムエル記22:32)
ひと度本物を味わってしまったなら、他の偽物は一切受け入れられなくなってしまうものであるが、まことの神である主は、そんな、取り換え可能な存在ではない。
この御方の完全な力と愛、憐れみに、ひと度ひたされてしまったなら、もはや、他に何も頼りにすべきものが必要なくなってしまう。(マタイ13:44)
私達も、主を頼りとするなら、主から守られるばかりでなく、私達自身も、力が増し加わって行く。
『わたしの足をめじかの足のようにして、/わたしを高い所に安全に立たせ、わたしの手を戦いに慣らされたので、/わたしの腕は青銅の弓を引くことができる。』(2サムエル記22:34-35)
雌鹿は、岩山さえも難なく飛び跳ね登って行くが、同じように、主は人生のいかなる岩場をもたやすく乗り越える力を与えて下さり、決して揺るがされない土台に立たせ、高い所へと導いて下さる。
青銅の弓を絞るにはかなりの力が要るが、弓を扱うためには、力ばかりでなくコントロールも必要である。
「罪」(ハマルティア)の元々の意味は「的外し」であるが、主に信頼するなら、私達を力強くして下さるばかりでなく、的を外して来た罪の歩みを卒業させ、的をきれいに射抜くような真実な道を歩ませて下さるのだ。
『あなたはその救の盾をわたしに与え、/あなたの助けは、わたしを大いなる者とされた。』(2サムエル記22:36)
主を頼りとしている人の人生は、救いの盾を得ているようなものであるが、そうでない人は、盾なしの丸腰で人生を戦っているようなものである。
『あなたはわたしが歩く広い場所を与えられたので、/わたしの足はすべらなかった。』(2サムエル記22:37)
御言葉に従順して行くなら、その人生は、広い所へと導かれていく。
なぜなら、その「服従」は、あらゆる敵に対し、要塞をも破る力のあるものであり(2コリント10:4)、そのように日々、御言葉に服従し実行して小さな要塞を打ち破って行くなら、自由な領域はどんどん拡大して行くものである。
私達は、何か狭い領域の中で、窮屈をおぼえて暮らしていないだろうか?
御言葉に記されている通り、主に従って行くなら、あらゆる事から守られ、力が増し加わり、ますます仕事が出来るようになり、それが楽しくなり、コミュニケーションも活発にできるようになって、より広い領域へと踏み出し、そうして、その人の「領域」はますます広く、増し加わって行くものだ。
この世界は、完全で純粋な「御言葉」によって構築された。
だから、私達の内に、その神の御言葉を取り込み、その言葉が私達の内にますます組み込まれて行くなら行くほどに、私達は世界の成り立ちをわきまえるようになり、物事を分別する理解と知恵が与えられ、力が増し加わっていく。
そういうわけだから、銀を求めるよりも、主の御言葉を求めたほうが、はるかに得なのだ。(箴言16:16)
御言葉を蓄え、力も知恵も富も権威もさらに増し加わって行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
大いなるお門違い者、サタン(ゼカリヤ3:1-5)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
悪魔(ディアボロス)は、元々、訴える者・告発・誹謗中傷する者である事を既に学んだが、悪魔のこの訴える性質と、それに対する主の配慮ついて、象徴的に描かれている場面が、ゼカリヤ3章に記されている。
『時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。』(ゼカリヤ3:1) 大祭司ヨシュアは、イスラエルがバビロン捕囚から帰ってきた時の大祭司で、罪ゆえに落ちぶれてしまったイスラエルを、これから再建しようとしている時の中心メンバーの一人である。
ゼカリヤの幻の中でヨシュアがサタンに訴えられているが、実際的に、バビロン捕囚から帰って来たイスラエルの民は神殿を再建している時、雑多な宗教を信じるサマリヤ人達に妬まれ、訴えられ、再建がストップしていた時期があった。(エズラ記4章) 彼らが時の王に訴えるために書いた訴状内容は、イスラエルの民は王に反逆するためにこの事をしている、実際、この町は反逆して来た歴史があり、この町が滅ぼされたのはそのためだ、調べればすぐに分かる、というものだった。(15節)
残念ながら歴史を紐解くと、イスラエルが反逆して来たのは、事実である。預言者エレミヤは、バビロンには手向かわずに、素直に連行されるよう預言したのに、時の王・エホヤキムも、その次のゼデキヤもそれを聞かず、バビロンに反逆し、結果、エルサレムの都は破壊し尽くされてしまった。(2列王記24章)
過去の悪い行いのゆえに、訴えられる口実を受けても、仕方がない、という事はある。謂れなき罪、ではなく、謂れある罪を持ちだされ、尊い礼拝やミニストリーの立直しが邪魔されたり中止してしまったりする事が。
そのような時は、ただ主の前にへりくだって悔い改め、御言葉を開いて導きを求めながら、主の御旨が明らかにされるまで忍耐するしかない。そして、主のゴーサインが出たなら、恐れなく御旨どおり行うべきである。
当時のイスラエルも、預言者ゼカリヤ達を通して「恐れる事なく神殿を再建せよ」という主の御旨が示された時、彼らは時の権力者や妨害者を恐れる事なく再建を始めた。結果、彼らは逆に時の権力者たちに支持され、神殿再建の費用礼拝のための経費も国庫から捻出され、反対者達は恥を見た。(エズラ記5-6章)
ゼカリヤに与えられた幻の中で、大祭司ヨシュアはサタンに訴えられていた。祭司は神と人との間に立っていけにえを捧げ、罪の清めをや執り成しを祈ったりする聖なる職であるが、彼は、よごれた服を着ていた。
人は誰でも、罪のとげが刺さっており、罪を犯しながら生きざるを得ない。それは大祭司も牧師も人間である限り同じであり、そしてもし、何かしらの罪の行いをするなら、訴える者に告発されても仕方がない。
そこで私達は全て、罪の身代わりとなって死んだ小羊キリストの血によって清められ、そのキリストにあって神の御前に立つ事が出来るのだが、ここで一つ、理にかなっていない事を指摘して置かなくてはならない。
なんで神の敵であるサタンが、大祭司ヨシュアを神に訴えようとして、ヨシュアの右に立っているのだろうか。
私達は罪を犯すゆえ、神に訴えられても仕方は無い。しかし、サタンが私達の右に立つような謂れも、サタンに訴えられるような謂れも、無い。主は、人ではなくサタンを訴えて下さる。主の御前にのこのこ出て行って、人をさばいたり、嘲ったり、中傷したりする者に対し、主は、おまえを咎めている!と。(ゼカリヤ3:2)
そもそもの話である。元々罪が無かった人間をそそのかし、人類全体に罪を導入するきっかけを作ったのは、誰だったか?母の胎に宿った時から罪ある者と定めされなくてはならない不条理を人間に導入したのも、神と人との間に立って執り成す祭司が汚れた服を着て御前に立つよう仕向けたのも、誰だったか?
そう、サタンこそ訴えられるべきである。人ではなくサタンを訴えた主は、非常に理に適っておられるのだ。
私達は自分の犯して来た罪や汚さを見て、自分はだめだ、と考えがちだが、本来主は、人を全く罪なく創られた。そこをサタンが壊してしまった。だから神様は、人を贖い救い出すご計画を立てられたのだ。
なぜ神様は、ひとり子イエス様の命を投げ出してまで、人を救おうとされたのか。
それは、神はひとり子をお与えになる程の価値ある存在として、人を創造されたからである。
どういうわけか、ひとり子の命を投げ出すまでの価値ある者として、神は人を、見なしている!
サタンは、大いなるお門違いを要求して来た。本来訴えられるべき加害者のサタンが逆に訴え、被害者であるほうの人間が逆に訴えられている。だから私達は、サタンを、イエス様の名によって訴えるべきだ。
御言葉の真理によって勝利する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!