メッセージ - 201511のエントリ
わざと逮捕されたイエス・キリスト(マタイ26:47-56)
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- pastor 2015-11-7 10:39
ツロに対する宣告 - 搾取システムにより富を得た海の商人の災い(イザヤ23:1-9)
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- pastor 2015-11-7 10:37
イザヤ書講解説教メッセージ
ツロに対する宣告 - 搾取システムにより富を得た海の商人の災い(イザヤ23:1-9)
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主に後ろ暗い所が無い人の幸い(2サムエル記22:21-30)
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『主はわたしの義にしたがってわたしに報い、/わたしの手の清きにしたがって/わたしに報いかえされた。それは、わたしが主の道を守り、悪を行わず、/わが神から離れたことがないからである。そのすべてのおきてはわたしの前にあって、/わたしはその、み定めを離れたことがない。わたしは主の前に欠けた所なく、/自らを守って罪を犯さなかった。それゆえ、主はわたしの義にしたがい、/その目のまえにわたしの清きにしたがって、/わたしに報いられた。』(2サムエル記22:21-25)
2サムエル記を読んで来た方なら、よくもダビデは「わたしは主の前に欠けた所なく、自らを守って罪を犯さなかった。」などと言えたものだ、と思われたかもしれない。
ダビデにしても、そして私達にしても、人生トータルで見るなら、誰一人、欠けが無い者はなく、罪を犯さなかった者もいない。
人は誰でも、どこかで悪を行い、その悪を敢えてそのまま留め置いて「呪われモード」となってしまう事がある。
しかしその都度、悔い改め、主に立ち返るなら、恵みと憐れみと赦しに富まれる主は、その人との関係を回復させて下さり、その人を「祝福モード」へと転換させて下さる。(レビ記26章、申命記28章)
ダビデはそれを信じていたから、大胆に告白できたのだろう。
『そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである。
わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。』(詩篇32:1-5)
実際ダビデは、サウル王に追われていた時、状況的にはいつ殺されてしまうか分からない圧倒的不利だったにもかかわらず、ただ主にのみ頼り主にのみ望みを置いていたため、主との関係は絶好調で、実はものすごい「祝福モード」に入っていた。
その時期、主はダビデを二度もサウル王を簡単に殺せるチャンスに置かれたが、ダビデは主の故に敢えてそれをせず、そしてサウル王に次のように言っている。
『ダビデは答えた、「王のやりは、ここにあります。ひとりの若者に渡ってこさせ、これを持ちかえらせてください。主は人おのおのにその義と真実とに従って報いられます。主がきょう、あなたをわたしの手に渡されたのに、わたしは主が油を注がれた者に向かって、手をのべることをしなかったのです。きょう、わたしがあなたの命を重んじたように、どうぞ主がわたしの命を重んじて、もろもろの苦難から救い出してくださるように」。』(1サムエル記26:22-24)
私達も、主に聞き従い、主に対して何ら後ろ暗い所が無いなら、大胆に恵みの座に近づき、折にかなった助けを求める事が出来るのだ。(ヘブル4:16)
そして、もしも何か「呪われモード」に入っているような感じがしたなら、主に伺うべきだ。何が原因でそうなっているのかを。
『忠実な者には、あなたは忠実な者となり、/欠けた所のない人には、/あなたは欠けた所のない者となり、清い者には、あなたは清い者となり、/まがった者には、かたいぢな者となられる。』(2サムエル記22:26-27)
主は、ねじ曲がった者には、ねじ曲げる方である、と、ダビデは言っている。
主に対してねじ曲がった考え方をしている者に、主はどうされるか、イエス様は「ミナのたとえ話」の中で話しておられる。
『イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』』(ルカ19:12-13)
それで、あるしもべは1ミナで商売し10ミナを儲け、別のしもべは、1ミナで5ミナを儲けた。
しかし、主人に対してねじ曲がった考えを向けていたしもべは次のように言った。
『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。わたしはそれをふくさに包んで、しまっておきました。あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです。』(ルカ19:20-21)
このしもべは、1ミナという大金を主人から預かっておきながら、自分が働かなかった事を棚に上げ、主人を「あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人」と、実際とは違う邪推をし、その邪推を根拠に、主人を「きびしい方」と責め、働かなかった事の言い訳をした。
それに対する主人の評価は次のものだった。
『悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。わたしがきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと、知っているのか。では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに。』(ルカ19:22-23)
このしもべは、主人に対してはわずかな「利息」さえも儲けさせるまいという心だったため、主人は、彼が「さばいた通りに、さばき返した」のだ
主は、ねじ曲がった者に対しては、ねじ曲げる方である。
『あなたはへりくだる民を救われる、/しかしあなたの目は高ぶる者を見て/これをひくくせられる。』(2サムエル記22:28)
これも、ダビデが人生を通して知った、主のご性質である。
ダビデは、別の詩篇で、次のように言っている。
『あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。』(詩篇51:16-17)
『まことに、主よ、あなたはわたしのともし火、/わが神はわたしのやみを照される。まことに、あなたによって/わたしは敵軍をふみ滅ぼし、/わが神によって石がきをとび越えることができる。』(2サムエル記22:29-30)
結局、主こそ私達が助けられる源であり、ダビデの人生、色々な罪あやまちを犯して来たにも関わらず、主に愛され守られて来た秘訣は、ここにある。
主を敬わない東大卒の人と、主を敬う中卒の人と、主はどちらを守られ、どちらが最終的に永遠のいのちを勝ち取るだろう。
それはもちろん、主を敬う人、である。
確かに、勉強や肉体の鍛錬もいくらかは有益であるが、結局、信仰を育み育てる事のほうが、遥かに大事だ。
相手がいかに強くとも、頭が良くても、結局最後に勝利するのは、主に守られる人だ。
私達もダビデのように、主を敬い、主に守られる者として人生の道を歩んでいきたい。
主の助けは遥か上を行っていた(2サムエル記22:10-20)
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『彼は「天(複数形)」を低くして下られ、/暗やみが彼の足の下にあった。』(2サムエル記22:10)
主は、主に助けを叫び求める人を救うために「諸々の天」を押し曲げて、降りてこられる。
天には、三つの種類がある。すなわち、上を見上げると見える天(宇宙)と、暗闇の勢力の悪霊どもが棲家とする「空中」(エペソ2:2)と、そして、「第三の天」(2コリント12:2)すなわち天国である。
主は、主に助けを求める人の叫びを聞くと、諸天を押し曲げて、降りてこられる。しかも、暗闇を足の下にして。
主は天から降りて来られる時、主の敵である闇を足の下に踏みにじって下さるのである。
ダビデの目の前に迫り来る敵は、ゴリヤテのように強大あった事もあれば、サウル王のような国家の最高権威だった時もある。
また、アブシャロムのように愛するわが子だった時もあるし、地を満たすほどの大軍団だった事もある。
しかし主は、それら全ての遥か上を行っていた。
主は、天地を支配しておられる万軍の主である。
その素晴らしい主が、こんなにもちっぽけで取るに足りない自分に関わって下さるとは、なんと恐れ多く、そしてなんと素晴らしい事だろう。
『彼はケルブに乗って飛び、/風の翼に乗ってあらわれた。彼はその周囲に幕屋として、/やみと濃き雲と水の集まりとを置かれた。そのみ前の輝きから/炭火が燃え出た。主は天から雷をとどろかせ、/いと高き者は声を出された。彼はまた矢を放って彼らを散らし、/いなずまを放って彼らを撃ち破られた。』(2サムエル記22:11-15)
敵が矢によって攻撃して来るなら、主は、いなずまの矢を放って敵を撃ち破られる。
主は火も水も操作し、大地を動かし、天を押し曲げ、物理法則をも押し曲げ、助けて下さる。
主の助けは、人間の力の及ぶ範囲や、人間の想像できる範囲の、はるか上を行っている。
『主のとがめと、その鼻のいぶきとによって、/海の底はあらわれ、/世界の基が、あらわになった。』(2サムエル記22:16)
主の息吹は、塵のかたまりにいのちを与えるし(創世記2:7)、死の大水を過ぎ去らせ、全地を覆った洪水の水をも乾かす。(創世記8:1)
主が風を送られると、海は右左に壁となって立ち、神の民にはその間を渡らせ、神の民を追い迫ってきたエジプト軍には、水の壁をその前に砕かせ、彼らを水中へと沈めさせた。(出エジプト記14章)
いかに人が力や権威、技術を駆使しても、到底太刀打ちできないような形で、主は助けて下さるのだ。
『彼は高き所から手を伸べてわたしを捕え、/大水の中からわたしを引き上げ、わたしの強い敵と、わたしを憎む者とから/わたしを救われた。彼らはわたしにとって、あまりにも強かったからだ。彼らはわたしの災の日にわたしに、たち向かった。しかし主はわたしの支柱となられた。』(2サムエル記22:17-19)
私達もいつも主と共に歩み、そして助けを求めるなら、迫り来る敵はどんなものでも、全て、主の御前に無力となる。
鼻で息を吸う人間も、自然環境や社会的環境、物理的な相手でも、霊的な相手でも、そしてまた、私達自身の内に打ち込まれている罪、欲深さ、強情さ、自我なども。
それらは、私にとっては、到底押し倒す事のできない強敵であっても、主を拠り所とし主に助けを求めるなら、主が圧倒的に勝利をされ、その勝利の行列に私達をも連ならせて下さるのだ。
『彼はまたわたしを広い所へ引きだされ、/わたしを喜ばれて、救ってくださった。』(2サムエル記22:20)
主はなぜ、ダビデを喜びとされ、彼を「ひいき」にされたのだろうか。
主はどのような人を喜ばれ、ダビデのように守られるのか。
『主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。主はおのれを恐れる者と/そのいつくしみを望む者とをよみせられる。』(詩篇147:10)
すなわち主は、主を恐れる人(主を敬い重んじる人)、主のいつくしみを望み求める人を、喜ばれ、彼らを助け、ひいきにして下さる。
ダビデはまた、主は自分を広い所へ導き出して下さった、と告白している。
私達も、御言葉を守り行うなら、今まで私達の通った事の無い、「広々とした良き地」を、主は踏みゆかせて下さる。
その「広々とした良き地」とは、実際の土地かもしれないし、社会的なポジションかもしれないし、あるいは、心の領域かもしれない。
いずれにせよ、御言葉を守り行う度に、内側が清められ、力強くされ、開放されて行くため、心の内が、ますます広々となって自由になるのだ。
そして、今まで恐れや未熟さの故に「あれは出来ない」「これも出来ない」と、閉塞していた心が開放され、出来なかった事が出来るようになり、考えもしなかったよう領域へと、踏み込んで行く事が出来るのだ。
『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』(1コリント2:9)
ダビデの人生をあらわす象徴的な詩(2サムエル記22:1-9)
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ダビデ記とも言えるこの第二サムエル記の終わり近くに、サムエル記の筆者は、ダビデの代表的な詩を一つ紹介している。
この詩は、詩篇18編とほぼ一致している。
数多くあるダビデの詩の中から、筆者が特にこの詩を選び、サムエル記に挿入したからには、この詩は、ダビデの人生を象徴的に表す詩とも言えるのだろう。
『ダビデは主がもろもろの敵の手とサウルの手から、自分を救い出された日に、この歌の言葉を主に向かって述べ、彼は言った、』(2サムエル記22:1-2)
ダビデがサウルの手から救われたのは、彼が三十歳の時だったが、それ以降の、彼の王としての四十年、ダビデにはサウル以外にも「もろもろの敵」が立ちはだかった。
ペリシテ人などの外敵はもちろん、自国民から沸き起こる政敵、あるいは、親しい友や肉親からの突然の敵対、そして、悪魔からの誘惑など、内から外から迫り来る敵と相対する都度、彼は主に助けを求め、主はその都度、助けて下さった。
皆さんは、主はどのようなお方ですか、と尋ねられて、すぐに答えられる言葉があるだろうか。
ダビデは、主がどのようなお方であるかを、次のような言葉で表現している。
『主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが岩。わたしは彼に寄り頼む。わが盾、わが救の角、/わが高きやぐら、わが避け所、/わが救主。あなたはわたしを暴虐から救われる。わたしは、ほめまつるべき主に呼ばわって、/わたしの敵から救われる。』(2サムエル記22:2)
主がどのようなご性質であられるか、詩の冒頭から幾つも記されている。
ダビデは様々な敵が立ちはだかる都度、主を土台石とし、城とし、あるいは盾とし、そのように、主により頼む事と主から助けをいただく事とを繰り返して行く内に、この詩篇が練られて行ったのだろう。
ダビデはこれら一つ一つの主の性質に、主は「わが・・・」「わたしの・・・」と宣言し、主のそれらのご性質は、皆「わたしのもの」という告白を添えている。
私達も、それにならうべきである。
主は、アブラハム・イサク・ヤコブの主であるばかりでなく、ダビデの主であり、そして今現在、これを読んでいる「あなた」自身の主でもあるのだ。
主は人類歴史において、主を「私の主。私の神。」と呼ぶ、全ての人にとって「主」となって下さるのだ。(ヨハネ20:28)
『わたしは、ほめまつるべき主に呼ばわって、/わたしの敵から救われる。』(2サムエル記22:4)
ダビデは主を「ほめ讃えられるべき方」としている。
彼は、主を賛美したい心が募るあまり、聖歌隊を編成し、幾つもの詩篇を作って、主に賛美をいくつも捧げさせている。
ダビデが中で多くの苦しみと死の危険を通って来た事は、サムエル記から既に見てきた。
その都度、彼は主に呼び求め、主から助けをいただき、ここまで来れたのだ。
『死の波はわたしをとりまき、/滅びの大水はわたしを襲った。陰府の綱はわたしをとりかこみ、/死のわなはわたしに、たち向かった。苦難のうちにわたしは主を呼び、/またわが神に呼ばわった。主がその宮からわたしの声を聞かれて、/わたしの叫びはその耳にとどいた。』(2サムエル記22:5-7)
ここの箇所は、次のヨナの祈りによく似ている。
『わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか。』』(ヨナ2:2-4)
ヨナは大魚に飲み込まれ、海の底の魚の腹の中、という絶望的な状況から、主を呼び求めた。
彼の場合、その苦しみは、彼の不従順によって来た。
しかし、その自らの不従順の苦しみの中からでも、ダビデのように主の宮を思い焦がれた。そして主はそれを聞いてくださり、魚に命じて、彼を陸に吐き出させ、再び彼のミニストリーに戻して下さった。
人がいかに地の奥底に下り、魚の腹にいても、あるいは、自分の不従順ゆえの苦しみの中にあっても、主は、その人呻きのような祈りさえ、漏らさず聞いて下さるのだ。
主は、待っておられる。私たちが主に立ち返り、主を呼び求める事を。
『それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれると”すぐ”、あなたに答えてくださる。たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。』(イザヤ30:18-20)
ここを見ると、主はあたかも私達に「主よ助けて下さい」と言う事を今か今かと待っておられ、呼び求めるなら、直ぐにでも恵みを与えよう、と、いつでも準備しておられるかのようだ。
主はいつでも、恵もうと待っておられるのだ。
肉体が衰えても全く問題がない人になるために(2サムエル記21:15-22)
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- pastor 2015-11-2 23:00
肉体が衰えても全く問題がない人になるために(2サムエル記21:15-22)
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『ペリシテびとはまたイスラエルと戦争をした。ダビデはその家来たちと共に下ってペリシテびとと戦ったが、ダビデは疲れていた。』(2サムエル記21:15)
ペリシテ人はまたしても巨人を動員してイスラエルに戦争を仕掛けて来たので、ダビデは部下を引き連れて戦いに出た。
ダビデは若い時から戦士であり、戦いが起きるなら、いつも率先して戦いに出て行こうとした。
唯一、あのバテ・シェバの事件の時を除いて。
あの時だけは、ダビデは部下達に戦闘に行かせて自分は王宮に留まり、あの事件を起こしてしまったが、それに懲りて以降、ダビデはまた率先して戦いに出るようになった。
しかし、そんなダビデも歳をとり、昔のようには行かず、戦いに疲れるようになってしまった。
『時にイシビベノブはダビデを殺そうと思った。イシビベノブは巨人の子孫で、そのやりは青銅で重さ三百シケルあり、彼は新しいつるぎを帯びていた。しかしゼルヤの子アビシャイはダビデを助けて、そのペリシテびとを撃ち殺した。そこでダビデの従者たちは彼に誓って言った、「あなたはわれわれと共に、重ねて戦争に出てはなりません。さもないと、あなたはイスラエルのともし火を消すでしょう」。』(2サムエル記21:16-17)
ダビデは若かりし頃、この巨人が持っていた三百シェケルの青銅の槍よりも二倍重い、六百シェケルの鉄の槍を装備したゴリヤテを打ち倒した。
しかしそのダビデも年老いて、敵を倒す事は出来なくなり、逆に危険な目に遭って、部下たちに助けられるようになってしまった。
そして部下たちからは、もう戦いに出ないで下さい、と、強く念を押されてしまった。
ダビデとしては、肉体が衰えて昔のように戦えなくなってしまった事を、情けなく寂しい思いがしたかもしれない。
しかし、ダビデにとっては、それは全然残念な事ではない。
なぜなら彼には、彼を助ける信仰の勇士達がたくさん育ってくれたからだ。
私達も、子育てできる内に、あるいは部下を育てられる内に、しっかりと育てているとするなら、歳を取っても、全く残念な事にはならない。
家庭でも会社でも、いつも自分が活躍の舞台に立ち続け、若者の活躍できる舞台や新人の自主性を取り上げて、何も引き継がない人はいるが、当面はそれで良くても、やがて力を失ってしまった時、その一族は衰え果ててしまう。
どんなに若々しく力強い活躍をしていても、肉体は日々衰えて行くものであり、新しい時代の「戦い」は、子々孫々に順次委ねて行かなくてはならないからだ。
『これらの四人はガテで巨人から生れた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。』(2サムエル記21:22)
ゴリヤテのような体躯や武器を持つ巨人や、イスラエルをそしる巨人達が、合計四回出て来たが、皆、ダビデとその部下達の手によって制覇された。
ダビデは、相手がいかに大人数でも、あるいは巨人であっても、主への従順と信頼によって戦いに飛び込んで行き、勝利を勝ち取って行った。
部下たちは、そんなダビデの背中を追いかけながら戦いに行っていたため、いかに相手が大人数でも、巨人でも、進み出て戦って勝利する信仰を養っていったのだ。
全く、サウルの時代とは比べ物にならない時代になった。
サウルは、巨人の体躯や装備を見て恐れをなし、部下たちも逃げ隠れしていた。
確かに、主を知らない価値観を持った人間なら、そうなってしまうかもしれない。
しかし、主にある信仰者は、巨人さえも、獣の一匹のように主が倒して下さる事を確信し、進み出て、勝利するのだ。
ダビデは若い時から進んでそれを為し、そうして巨人の子孫どもは、ダビデの育てた部下達・信仰の子孫達によって、滅ぼされていった。
私達も今、若者や部下達がついて来れるような、立派な背中を見せてやり、信仰の勇士たちを育て上げて行きたいものである。
キリスト教は、伝道はする事は頑張っても、信仰を子々孫々へと継承して行く事をおろそかにして来てしまったため、せっかくリバイバルが起きたとしても、残念ながら次世代へと中々つながらないケースが、世界各地に見られる。
それに引き換え、ユダヤ人は、離散してから2000年経っても決して信仰は廃れず、およそ二千年ぶりに失った国土を回復するまでになったのは、ひとえに主から頂いた御言葉を大切にし、信仰を子々孫々に継承する事を徹底して守り行って来たからだ。
『イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。』(申命記6:4-9)
私達の戦いは、血肉によるものではない。御言葉や信仰を武具とした、霊の戦いである。
ダビデの体が老いて行ったように、私達の体も、日々衰えるが、主に信頼する者は、力を得、鷲のように登っていく事が出来、内なる人は日々、新たにされて行く。
パウロは最後まで「わたしにならう者となってください」と言って、彼について行った弟子たちに立派な”背中”を見せつつ、信仰の道を走り通し、義の栄冠を勝ち取った。
私達もパウロのように、生涯現役の信仰の勇士として信仰の戦いを果敢に戦い、子々孫々に信仰を継承して行く者でありたい。
十字架を嫌々ながらでも負う事でもたらされる祝福(マタイ27:32)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
この度も、コーヘン神学大学から多くの有益な学びを得た。今、主にある働き人達が世界でいかに福音を伝え、主ご自身がいかに世界各地で働かれておられるか、同時に、悪魔がいかに最後の悪あがきをしているかを知ることが出来た。そして、ヘブル思考による聖書の直接的学びからは、特に「行いを伴った信仰」の重要性を、マタイの福音書やハバクク書、ヤコブ書から学んだ。ルター達の宗教改革以来の500年、教会は信仰義認を全面的に出し、行いを伴った信仰と、それによる祝福を、ないがしろにして来た。
この、「信仰だけで救われる」という教えの無力さに行き詰まりを覚えているクリスチャンは多く、また、行いを軽んじて来たヨーロッパ教会の凋落ぶりも、激しくなって来ている。今回コーヘンで学んだ行いの信仰」の中から、特に、クレネ人シモンの行い、それも、嫌々ながらであっても十字架を負う事の祝福を学びたい。
『彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を「無理に:アンガレオー(徴用する、強制的に使役する。蛇足:韓国語でアンガレヨは「行きたくない」)」負わせた。 』(マタイ27:32)
イエス様は、ゴルゴダの丘の十字架刑場まで、最後まで十字架を負って行く事ができず倒れてしまった。彼は前の晩から、ピラトの前で、釘や石が仕込まれた鞭を打たれ、既に大量の血を流していたからである。
そこを、たまたま通りがかったクレネ人シモンが、ローマ兵の目にとまり、徴用(アンガレオー)されたわけである。彼は、田舎から出てきた(マルコ15:21)、黒人(使徒13:1)であったため、強靭そうに目えたのだろう。
シモンは突然、罪人の死刑道具である十字架を負わされ、彼の妻も、息子・アレキサンデルとルポスも、父そして夫が突然、このような事になってしまったのを見て、どうなるのかと泣きながらついて行った。
しかし、シモンの嫌々ながらのこの徴用(アンガレオー)は、彼と彼の家族に、多くの祝福をもたらした。
彼としては、誰とも知れない死刑囚の十字架を突然、無理矢理負わされ、とんだとばっちりだ、私は違います、一緒に行きたくない、と思ったかもしれない。しかし、この十字架を負っていたイエスという人と同行する内に、この人の趣きは、死刑に当たるような人ではない事に、むしろ、彼の聖なる品性に、気づいて行く。
彼には、大勢の女達が泣きながらついて来ている。イエス様の弟子達は一人残らず逃げてしまった為、無力な女だけが残って、十字架の後を従って来ていたのだ。そんな彼女達は、シモンに声をかけたであろう。
「本当に、ありがとう。」「本当は私達が、あなたの役割を果たしたかった。」「でも、力が無いので出来なかった。」「イエス様の十字架を一緒に負ってくれて、本当にありがとう。」
ゴルゴダの刑場に至った時、シモンは十字架を降ろした。もはや即刻、家族と家に帰っても良かったはずだったが、彼も、彼の家族も、イエス様の十字架上の成り行きに釘付けになり、最後まで見守った。
群衆の罵声の中、彼らはイエス様の十字架上の7つの言葉を聞き、そして、彼が息を引き取った時に起こった色々な天と地のしるし(マタイ27:51-54)を見た。その時、百人隊長が「この方はまことに神の子であった」と言ったが、この時、シモンも、彼の家族も全員、イエス様を信じるようになった。
そしてイエス様の復活以降、彼らは家には帰らず、弟子達と共に120人の集い(使徒1:15)の中でペンテコステを迎え、共に聖霊を受けた。それから彼らは、主と共に生きようと決心し、家に帰って全ての財産を整理して、主のために生きよう、と、パウロと一緒にアンテオケに行く。使徒13:1を見ると、ニゲル(黒人)と呼ばれるシモンが、アンテオケ教会の指導的立場として、礼拝を導いている様が記されており、そして、シモンの息子・アレキサンデルは、クレネの牧会者になり、後の、使徒パウロの後任者になったそうである。
シモンがあの十字架を負ってから30年後、シモンの妻と子のルポスは、ローマ教会の指導者となっている。
シモンの妻は、パウロから「お母さん」とも呼ばれるようになった。 ロマ書16章13節で、パウロは記している。「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とに、よろしく。彼の母は、わたしの母でもある。」パウロに「母」と言わしめるからには、彼女はどれ程、パウロを祈り、パウロの応援者として霊肉共に支えて来た事だろう。
さらには、歴史家ヨセフスによると、彼の11代目の孫は、ローマ帝国においてキリスト教を自由にした、コンスタンティヌス皇帝であるとされている。これが、無理矢理に十字架を背負わされた祝福である。
今、嫌々ながらでも主の仕事をしている時、この内容を思い出すべきだ。たとえ強制的にであっても、後にはこんなにも大きな栄光があるのだ、と。シモンのように、今背負っている十字架によって、自分自身や家族に、子や孫に、大きな恵みをもたらす皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!