メッセージ - 201512のエントリ
神殿の構成と、私達キリスト者の関係(1列王記6:1-13)
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6章には、ソロモンが建てた神殿の詳細が記されている。
『イスラエルの人々がエジプトの地を出て後四百八十年、ソロモンがイスラエルの王となって第四年のジフの月すなわち二月に、ソロモンは主のために宮を建てることを始めた。ソロモン王が主のために建てた宮は長さ六十キュビト、幅二十キュビト、高さ三十キュビトであった。宮の拝殿の前の廊は宮の幅にしたがって長さ二十キュビト、その幅は宮の前で十キュビトであった。』(1列王記6:1-3)
神殿の機能と構造は、主が荒野でモーセに示された「幕屋」と同じであるが、その寸法は、荒野の幕屋の2倍となっており、また、幕屋よりもさらに尊い素材から造られている。
この「神と人とが相まみえる場」は、幕屋から神殿へと成長し、最後には、神と人とが永遠に共に住む永遠の都として、完成されて行く。(黙示録21章)
『彼は宮に、内側の広い枠の窓を造った。また宮の壁につけて周囲に脇屋を設け、宮の壁すなわち拝殿と本殿の壁の周囲に建てめぐらし、宮の周囲に脇間があるようにした。下の脇間は広さ五キュビト、中の広さ六キュビト、第三のは広さ七キュビトであった。宮の外側には壁に段を造って、梁を宮の壁の中に差し込まないようにした。』(1列王記6:4-6)
ソロモンが建てた神殿が、正確にどのような構造であったのかは、文字での説明しか残されていないため、図解によってはそれぞれに若干の違いは出てくるが、ソロモンが具体的にどんな神殿を立てたのかは、あまり重要ではない。
その事を思い巡らせる事は、知的には楽しい事だが、今、”私達”という「キリストが住まわれる神殿」は、一体どのような特徴を持っているのか、ソロモンが建てた神殿の性質から読み解いて行く事には大いに意義があるので、その観点から見ていきたい。
『宮は建てる時に、石切り場で切り整えた石をもって造ったので、建てている間は宮のうちには、つちも、おのも、その他の鉄器もその音が聞えなかった。』(1列王記6:7)
神殿の建設現場では、一切、鉄器の音が聞かれない程に、材料があらかじめ全て整えられていた。
当時の建築技術水準がとても高かった事を、伺い知る事が出来る。
なお、祭壇を建てる時は素材とする石は鉄器が当てられてはならず、「自然のままの石」を用いるよう、主がモーセに命じられている。
『またそこにあなたの神、主のために、祭壇、すなわち石の祭壇を築かなければならない。鉄の器を石に当てず、自然のままの石であなたの神、主のために祭壇を築き、その上であなたの神、主に燔祭をささげなければならない。』(申命記27:5-6)
『あなたがもしわたしに石の祭壇を造るならば、切り石で築いてはならない。あなたがもし、のみをそれに当てるならば、それをけがすからである。』(出エジプト記20:25)
ところで、ソロモンが石切り場で「切り整えた石」は、ヘブル語では「エベン・シャレーマー」、形容詞シャーレームの女性単数形であり、「自然なままの」「完全な」という意味である。
また、申命記にて、主がモーセに自然のままの石で祭壇を造るよう命じられたその「自然のままの石」は、「アヴェニーム・シェレモート」、これはソロモンの時の石の「エベン・シャレーマー」と同じ意味の、女性複数形である。
神にいけにえを捧げる「祭壇」は、人手が一切加えられない、自然のままの石たち(女性複数形)が用いられるよう命じられているが、ソロモンの神殿は、石切り場で整えられた(あるいは、自然なままの、完全な)、”単数形の石”によって建てられた。
これは、どういう事を意味するのだろう。
預言者ダニエルは、ネブカデネザル王の夢を解き明かした時、その夢の中では、ネブカデネザル王を筆頭とする帝国郡(バビロン、メド・ペルシア、ギリシヤ、ローマ)を象徴する巨大な像があった。
しかしその像は、人手によらずに切り出された一つの「石(男性単数形)」によって粉々に砕かれ、その石は、大きな山となって全土に満ちた。(ダニエル書2章)
この、人手によらずに切り出された(男性単数形の)石、それは間違いなくキリストを表している。
今、教会はキリストの花嫁(女性)であり、キリストこそ、唯一まことの夫(男性)である。
このキリストがあらわれた今、私達・信じた一人ひとり(教会:エクレシアすなわち召しだされた者たち)は、それぞれがキリストを宿す神殿であり(1コリント3:16)、キリストのからだを構成する各器官である。(1コリント12:27)
私達は生物学的には男女はあるが、霊的には、キリストにあって全て女であり、キリストこそまことの男性である。
キリストは私達教会のかしら、すなわち夫であり、私達・信じる者たちの信仰の土台石である。
つまり、主にいけにえをささげる「祭壇」を構成する石が、「女性複数形」であるのは、私達一人ひとりが「生ける石」であり、神によろこばれる霊のいけにえを捧げるためである。
次のように書いてある。
『この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ「生ける石」となって、「霊の家」に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。 』(1ペテロ2:5)
では、何によって神の家へと組み込まれ、建て上げていくのか。
それは、イエスを生ける神の御子とする信仰告白によって、である。
『そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロ(ペトロス:岩盤(ペトラ)から切り離された石ころ、男性名詞)である。そして、わたしはこの「岩(ペトラ、女性単数名詞)」の上にわたしの「教会(エクレシア:集会、集まり、教会。女性単数名詞)」を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。』(マタイ16:15-18)
ペテロは、イエス様を「知らないと言った時、集いから切り離された、自立した、そして心細い一人の男性であった。
しかし彼が再びキリストの集い集まりなおした時、その集いの中に、復活のキリストというまことの夫が入ってきて下さり、その集いは強い岩盤(ペトラ)となって、黄泉の力も打ち勝てないほどの盤石なものとなり、教会は、いかなる迫害にあっても、決して廃れる事は無かったのだ。
そして預言者ダニエルが解き明かした通り、この人手によらず切り出された石は、人間によるローマ帝国を打ち破り、かえってキリスト教国へとしてしまったのだ。
すなわち、私達・キリスト者一人ひとりが、神であるキリストを宿す小さな神殿であり、神の家を築き上げる「生ける石」であり、それぞれが組み合わさって、岩盤(ペトラ)である教会となり、そして教会は、唯一夫なるお方・キリストの花嫁である。
『勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(黙示録3:12)
そして、祭壇の石には、鉄の道具が当てられてはならないのと同じように、キリストのからだを建て上げる私達一つ一つの石もまた、人手によって切り出されたり、加工されたりしてはならない。
誰でも、人間の知恵によってキリストを信じるものではないし、人の努力によって神に受け入れられる器になれるものでもない。
『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。』と記されている通りである。(1コリント12:3)
つまり、教会は、鉄の道具など人間の強制力によらず、自然に、聖霊の思うがままの導きによって、建て上げていくべきものである。
『そこで主の言葉がソロモンに臨んだ、「あなたが建てるこの宮については、もしあなたがわたしの定めに歩み、おきてを行い、すべての戒めを守り、それに従って歩むならば、わたしはあなたの父ダビデに約束したことを成就する。そしてわたしはイスラエルの人々のうちに住み、わたしの民イスラエルを捨てることはない」。』(1列王記6:11-13)
ここの、13節だけをピックアップするなら、神は決して捨てる事は無い、と見えるが、後の歴史を見ると、神に見放され追放された者であるかのような歴史をたどっている。
それは、12節の条件「主の定めに歩み、おきてを行い、すべての戒めを守り、それに従って歩む」事をしなかったからだ。
私達は、主の道を決して外す事なく歩み、神の家に組み込まれ、神殿の柱となるまでに、主と共に歩んで行きたい。
『忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(黙示録3:10-12)
赤ちゃんとなられた御言葉であるキリストに会えた人達(ルカ2:1-38)
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週報/メッセージ(説教)概要
12月24日が過ぎると、世間はクリスマスの音楽や飾りが取り払われ、代わりに正月に向けての飾りがつけられ、今までの1、2ヶ月の間、クリスマス一色だった町の雰囲気が一気に変わり、クリスマスとは一体何だったのだろうかという、一種の虚しさが漂うこの時期であるが、私達は敢えてこの時期、クリスマス(クライスト+ミサ:キリストの礼拝)に目を留め、主イエスキリストがこの世に来られた事の、喜びと感謝を表したい。
『彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。』(ルカ2:6-7)
イエス様がお生まれになった時期は、ちょうど皇帝の住民登録せよという勅令が出た時で、普段は過疎状態のベツレヘムも、人がいっぱい押し寄せる”混雑期”と重なり、宿屋は既に彼らが泊まる部屋が無かった。
イエス様は馬小屋で生まれたというイメージが強いが、聖書には馬小屋で生まれたとは書かれておらず、ただ「飼葉おけ」というキーワードが出てくるだけである。馬は戦争に使う貴重な動物なので、ベツレヘムにはいなかったと考えられており、むしろ、牛やロバ等の家畜が、その飼葉桶から食べていた可能性が高い。
平和の動物が食べる食べ物の器に宿って下さったキリストは、私達の口に入る食物となって下さったのだ。
また当時、ユダヤでは家畜を岩山の斜面の洞窟で飼っており、イエスが生まれたのは洞窟のなかであった可能性が高いそうだ。なお、飼い葉桶と訳された語「ファテネー」は、日本でイメージする飼葉桶のような木箱ではなく、箱型の枠台や、岩の床に掘った溝のようなものである。
想像して欲しい。洞窟の中に、細長い布切れにくるまれ、岩の床に寝かされている、物言わぬ子。まさに埋葬されたキリストの姿と重なる。キリストの埋葬の時、イエスの母マリヤと、アリマタヤの”ヨセフ”が遺体に布を巻いたが、キリストの誕生の場面、キリストを岩窟に寝かし、布にくるんだのも”マリヤ”と”ヨセフ”である。
御使いは羊飼い達に、「布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてある幼子」が「あなた方のためのしるし」であると言ったが、その幼子の有様はまさに葬られたキリスト、私達にとっても「救い主」のしるしである。
幼子キリストは、私達の身代わりとなって死ぬために、この世に来られた。彼の”身代わりの死”によって、私達が代わりに生かされるため。その彼をこそ、私達もほめたたえ、礼拝するのである。
「屠られた小羊こそ、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美とを受けるにふさわしい」(黙5:12)
この、布にくるまって岩窟に寝かされたキリストを訪ねて来たのは、東方の博士たちと、羊飼いたちだった。
主は実に、仕切りの無いお方である。その主がお生まれになった所は、何の仕切りも無く、誰でも、どんな身分の人でも、どんな国の人でも、訪ねて来る事が出来る。
博士たちはとても高貴な身分であった、と言われているが、そんな彼らが主にまみえる幸いにあずかれたのは、彼らは「天を見上げ」て主のしるしを見逃さなかったからであり、生まれたばかりの赤ちゃんを前にしても、ひれ伏して拝む「へりくだった姿勢」と、また、尊いものを「捧げる姿勢」があったからだ。
羊飼いたちが、天の御使い達のお告げを受けて、主の栄光の美しい輝きと、賛美の歌声にあずかれたのは、彼らは羊を、すなわち、誰も面倒を見たくないような愚かで汚い羊を育み、守り、養っていたからだ。
彼らが養っている羊達は、人の食用に、あるいは衣服に用いられ、そして、主に捧げる礼拝に用いられる。
羊飼いは人口調査の対象にはならず、一人の人として認められていなかったようだが、それでも弱く愚かな、そして主に捧げられるべき羊達を、暗闇の中でも誠実に番をしていた。そんな彼らに御使い達が現れ、救い主の誕生を知らされたように、私達も今、闇の時代において、人の世に役に立ち、主に捧げられるべき羊達を養うなら、主は輝かしいおとずれで御旨を告げて下さる。
正統なユダヤ人の中で、幼子イエス様と出会う恵みに与れたのは、イスラエルが慰められ救われるのを待ち望んでいた人達に対してだった。シメオン(「聞く(シャマー)」が名前の意味)は、正しい信仰深い人で主に聞く心のある人であった故に、聖霊の導きによって、イエス様を腕に抱く特権に与れた。
またアンナは、ただ主にだけ望みを置いて宮を離れず、夜も昼も断食と祈りとをもって神に仕えていた。
このような人々が、小さく赤ちゃんとなられた神の子イエス様に、相まみえる特権にあずかれたのだ。
赤ちゃんとなられた、御言葉なるイエス様を、ヨセフとマリヤのように私達もしっかり抱いて離さず、守りぬき、暗闇の世において光の内に導かれていく皆さんでありますように、イエス様の名によって祝福します!
この方はまことに神の子であった(マタイ27:45-56)
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- pastor 2015-12-26 18:08
異邦の王との共同作業により進められた神殿建設(1列王記5:1-18)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1列王記
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- pastor 2015-12-23 23:40
異邦の王との共同作業により進められた神殿建設(1列王記5:1-18)
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『さてツロの王ヒラムは、ソロモンが油を注がれ、その父に代って、王となったのを聞いて、家来をソロモンにつかわした。ヒラムは常にダビデを愛したからである。』(1列王記5:1)
5章には、神殿建設の準備がいかに進められて行ったかが記されている。
その重要な役割を担ったのが、この、ダビデの代から親交のあったツロという国の王ヒラムである。
ツロはガリラヤ湖北西の海沿いにあり、古来より海洋貿易で栄えた。
ソロモン王が建築したエルサレム神殿建設の素材は、主に、このツロからのものであった。
神の民イスラエルの最も聖なる建造物の材料が、異邦の国に由来する、というのは、実に興味深い。
神であられる主は実に、異邦人をも含めた、全世界の主なのである。
『そこでソロモンはヒラムに人をつかわして言った、「あなたの知られるとおり、父ダビデはその周囲にあった敵との戦いのゆえに、彼の神、主の名のために宮を建てることができず、主が彼らをその足の裏の下に置かれるのを待ちました。ところが今わが神、主はわたしに四方の太平を賜わって、敵もなく、災もなくなったので、主が父ダビデに『おまえに代って、おまえの位に、わたしがつかせるおまえの子、その人がわが名のために宮を建てるであろう』と言われたように、
わが神、主の名のために宮を建てようと思います。それゆえ、あなたは命令を下して、レバノンの香柏をわたしのために切り出させてください。わたしのしもべたちをあなたのしもべたちと一緒に働かせます。またわたしはすべてあなたのおっしゃるとおり、あなたのしもべたちの賃銀をあなたに払います。あなたの知られるとおり、わたしたちのうちにはシドンびとのように木を切るに巧みな人がないからです」。』(1列王記5:2-6)
ソロモンはヒラムに、神殿建設のために必要な杉材を輸入したい旨と、その見返りに、望むものは何でも支払う事を申し出たが、彼の申し出の中には、「主(エホバ)」の御名が、頻繁に用いられている。
私達も、主にあって祝福されている事、そして主から知恵が与えられている事を、積極的に世の人にあかしして行くべきであり、そして、彼らも主の礼拝を建て上げるために、主の働きに参加するよう申し出るべきである。
『ヒラムはソロモンの言葉を聞いて大いに喜び、「きょう、主はあがむべきかな。主はこのおびただしい民を治める賢い子をダビデに賜わった」と言った。』(1列王記5:7)
ソロモンのこの申し出に、異邦の王ヒラムは喜び、主(エホバ)の御名を誉め称えた。
これは、ソロモンが主を正しくあかしした故だ。
私達も正しく主の御力と栄光と、そして主が為してくださったあらゆる良き事を人々にあかしする時、人々は喜びをもって、私達と交わりを持ちたいと願うようになるのだ。
『そしてヒラムはソロモンに人をつかわして言った、「わたしはあなたが申しおくられたことを聞きました。香柏の材木と、いとすぎの材木については、すべてお望みのようにいたします。わたしのしもべどもにそれをレバノンから海に運びおろさせましょう。わたしはそれをいかだに組んで、海路、あなたの指示される場所まで送り、そこでそれをくずしましょう。あなたはそれを受け取ってください。また、あなたはわたしの家のために食物を供給して、わたしの望みをかなえてください」。』(1列王記5:8-9)
この異邦の王は、豊かに恵みを下さる主から祝福を受けたソロモンと親交を持つ事が出来る事を、そして、その偉大なる主の事業に共に参加できる事を、とても喜び、ソロモンが受けた莫大な恩恵が、自分達の中に入ってくる事を喜んでいる。
神の民であるキリスト者は、世と分断して生きるべきではない。
主から祝福を受けたキリスト者は、その与えられた祝福を世へと流し出して行き、世も、私達を通して祝福の元なる主に繋げていくべきものなのだ。
『こうしてヒラムはソロモンにすべて望みのように香柏の材木と、いとすぎの材木を与えた。またソロモンはヒラムにその家の食物として小麦二万コルを与え、またオリブをつぶして取った油二万コルを与えた。このようにソロモンは年々ヒラムに与えた。主は約束されたようにソロモンに知恵を賜わった。またヒラムとソロモンの間は平和であって、彼らふたりは条約を結んだ。』(1列王記5:10-12)
1コルは約220リットルだから、その年間に輸出した量はかなり膨大である。
前章でも見た通り、ソロモンの家で消費される小麦や牛、羊は莫大な量であったが、しかしそれでも民は重税で苦しんだのではなく、それだけ貢を収めてなお平和に飲み食いして楽しんだのだ。
民が重い取り立てで苦しみ、王だけがふんだんに飲み食いするとするなら、ただの暴君であるが、ソロモンが健全な信仰に留まっていた時は、民も王も主の祝福で豊かに潤っていたのだ。
こうして主が賜った有り余った富みによって、異邦の杉材を輸入し、そうして神殿が建てられていった。
『ソロモン王はイスラエルの全地から強制的に労働者を徴募した。その徴募人員は三万人であった。ソロモンは彼らを一か月交代に一万人ずつレバノンにつかわした。すなわち一か月レバノンに、二か月家にあり、アドニラムは徴募の監督であった。・・・王は命じて大きい高価な石を切り出させ、切り石をもって宮の基をすえさせた。こうしてソロモンの建築者と、ヒラムの建築者およびゲバルびとは石を切り、材木と石とを宮を建てるために備えた。』(1列王記5:13-18)
木材や石材を切ったり運んだりするのは、確かに重労働であるが、しかし労働条件はなんと、3ヶ月ローテーションの中で1ヶ月だけ働き、後の2ヶ月は休む、というものだ。
日本では、「年間休日数」として120日という数字はよく見るが、当時のイスラエルはそれが逆転して、「年間労働日数」が120日くらいで、それだけ働いても充分労働者の生活が賄われるほどの報酬が払われていたのだろう。
労働条件までも、祝福につぐ祝福である。
異邦人たちは、イスラエルの民が、主に祝福されている有様を見、彼らを祝福してくださった主を誉めたたえ、共に主の事業に参加した。
こうして主に祝福された神の民イスラエルの富は、世界へと流し出され、こうして、全世界に主の栄光と富が、主のおしえと救いが、さらに流れて行くはずだった。
ところがソロモンは途中から主から離れ、女達にそそのかされ、偶像礼拝へと落ちて行ってしまい、主の人類救済のご計画が果たされるのは、もっと後押しになってしまった。
人は何度、主を残念がらせただろう。
元々、ソロモンに祝福が与えられたきっかけは、彼が「聞き従う(シェマー)」心を求めたからだった。
私達は常に主に聞き従う心をキープし、ますます祝福されて行く者でありたい。