メッセージ - 201602のエントリ
栄華を極めたソロモン、その短かった栄華(1列王記10:14-29)
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前回の所ではシェバの女王が来訪し、ソロモンに与えられた知恵と栄誉、そして、イスラエルの国民が栄えている有様を彼女たちは目の当たりにして息をのんだが、それに続き今回の箇所でも、ソロモンがいかに栄華を極めていたかが記されている。
『さて一年の間にソロモンのところに、はいってきた金の目方は六百六十六タラントであった。そのほかに貿易商および商人の取引、ならびにアラビヤの諸王と国の代官たちからも、はいってきた。ソロモン王は延金の大盾二百を造った。その大盾にはおのおの六百シケルの金を用いた。また延金の小盾三百を造った。その小盾にはおのおの三ミナの金を用いた。王はこれらをレバノンの森の家に置いた。』(1列王記10:14-17)
毎年、膨大な量の金が外国からもたらされ、ソロモンはそれを用いて、宮殿に置くための盾を造った。
本来、盾は武具であるが、純金は重く、また金属として柔らかいので、戦闘では役に立たない。
だから、これらは武器庫にではなく、宮殿のきらびやかさを示す「飾り」として置かれた。
『王はまた大きな象牙の玉座を造り、純金をもってこれをおおった。その玉座に六つの段があり、玉座の後に子牛の頭があり、座席の両側にひじ掛けがあって、ひじ掛けのわきに二つのししが立っていた。また六つの段のおのおのの両側に十二のししが立っていた。このような物はどこの国でも造られたことがなかった。ソロモン王が飲むときに用いた器は皆金であった。またレバノンの森の家の器も皆純金であって、銀のものはなかった。銀はソロモンの世には顧みられなかった。』(1列王記10:18-21)
ソロモンは、かつてどの国にも造られた事の無かったような贅を凝らした王座に座した。
銀は価値なしと見られる程、金の器物が惜しみなく大量に使用された宮殿に住み、どの国も、かつてなかった程のごちそうが毎日宮殿で振る舞われ、そのような豪勢な暮らしをしていた。
ソロモンは、金銀や象牙などの貴重な品々ばかりでなく、珍しい動物も集めて来た。
『これは王が海にタルシシの船隊を所有して、ヒラムの船隊と一緒に航海させ、タルシシの船隊に三年に一度、金、銀、象牙、さる、くじゃくを載せてこさせたからである。このようにソロモン王は富も知恵も、地のすべての王にまさっていたので、全地の人々は神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとしてソロモンに謁見を求めた。人々はおのおの贈り物を携えてきた。すなわち銀の器、金の器、衣服、没薬、香料、馬、騾馬など年々定まっていた。』(1列王記10:22-25)
ソロモンの栄華が極みだった時代、国々の王達が、全世界より、陸路からも海路からも栄光を携え上って来た。
物質的な祝福の、最も与えられたソロモンだったが、ただ、その祝福を継続させるには、「主の御言葉に対する従順」の継続もまた必要だ。
ソロモンは残念ながら、栄えるにつれて、主への従順を失って行ってしまった。
『ソロモンは戦車と騎兵とを集めたが、戦車一千四百両、騎兵一万二千あった。ソロモンはこれを戦車の町とエルサレムの王のもとに置いた・・・ソロモンが馬を輸入したのはエジプトとクエからであった。すなわち王の貿易商はクエから代価を払って受け取ってきた。エジプトから輸入される戦車一両は銀六百シケル、馬は百五十シケルであった。このようにして、これらのものが王の貿易商によって、ヘテびとのすべての王たちおよびスリヤの王たちに輸出された。』(1列王記10:26-29)
律法には記されている。
王たる者は、馬を多く得るために、再びエジプトへの道へと帰ってはならない、と。また、自分のために、金銀を多く蓄えてはならない、と。(申命記17:16-17)
なぜ馬を多く得るために「再び」「エジプトへの道を帰ってはならない」のか。
エジプトはかつて、イスラエルの子・ヨセフによって、世界一の強国となったにもかかわらず、後には、イスラエルの民を奴隷として搾取し、それによって得た富をイスラエルには還元せず、ただ自分のために蓄えた。
エジプトは、馬や戦車などの軍事的強制力でもって他人を抑え、奴隷として搾取し、さらには、イスラエルの民が増えて脅威となったならもっと過酷な労働を課して減らそうとし、それでもだめなら、男子が生まれたらナイル川に捨ててまで、減らそうとした国である。
そのように、馬を増やして強制力を強くする事や、自分のために金銀を増やす事は、エジプトの流儀であり、そのような流儀に「戻って」はならないのだ。
これは、クリスチャンも同じである。
人々を強制力で縛り、搾取し、自分のために富を蓄える事は「世のやり方に戻る事」であり、そこに戻るとするなら、主がエジプトを撃って神の民を救われたように、主は、そのような事をする者達を撃ち、搾取されてあえいで苦しんできた人々を、救って下さるのだ。
だから「その道に帰ってはならない」と言われたのだ。
ソロモンの治世の後半は、残念ながら、「エジプト化」してしまい、重税を課して人々は苦しんでしまった。(1列王記12:4)
人生、いくら生きた所で100年足らずである。
永遠から比べれば遥かに短いその人生の期間である。
その短い人生で、あの手この手を尽くして栄え、たとえ、全世界の富を手に入れたとしても、それで主の御心を損ねて、いのちを損じてしまったら、何もならない。
この章が、ソロモンの栄華の極みであるが、1列王記のこの章を最後に、栄光の記述は終わってしまう。
私達は、金銀を追いかけて滅びる者ではなく、主を追い求め、主に喜ばれ、主の恵みといつくしみのほうから逆に追いかけられる者でありたい。
金を払わないで穀物を買い、代価を払わないでぶどう酒と乳を買うには(イザヤ55:1-3)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2016-2-2 6:35
シバの女王の来訪(1列王記10:1-13)
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『シバの女王は主(エホバ)の名にかかわるソロモンの名声を聞いたので、難問をもってソロモンを試みようとたずねてきた。』(1列王記10:1)
ここの記事は新約でもイエス様から言及されており、また、様々な芸術でも取り上げられている有名な出来事である。
彼女はソロモンの名声を聞くに及び、試みる(ナーサー:テストする、試す)ために、遠路はるばる来たが、ソロモンに与えられた知恵や富、その栄華の様は、彼女の想像をはるかに超えたものだった。
『彼女は多くの従者を連れ、香料と、たくさんの金と宝石とをらくだに負わせてエルサレムにきた。彼女はソロモンのもとにきて、その心にあることをことごとく彼に告げたが、ソロモンはそのすべての問に答えた。王が知らないで彼女に説明のできないことは一つもなかった。
シバの女王はソロモンのもろもろの知恵と、ソロモンが建てた宮殿、その食卓の食物と、列座の家来たちと、その侍臣たちの伺候ぶり、彼らの服装と、彼の給仕たち、および彼が主の宮でささげる燔祭を見て、全く気を奪われてしまった。』(1列王記10:2-5)
彼女は、何に「全く気を奪われてしまった」か。
ソロモンの知恵と、彼の宮殿、および、彼に仕える家来や侍臣たちの服装や立ち居振る舞いに至るまで、そして、礼拝の捧げものに対して、である。
私達もソロモンのように知恵が与えられ、そして、教会においても、礼拝においても、家においても、また、養っている息子娘の、服装や言葉遣い、立ち居振る舞いにおいても、そして、私達が礼拝するその礼拝においても、主の栄光を豊かにあらわし、証できるようになるために、祈るべきである。
『彼女は王に言った、「わたしが国であなたの事と、あなたの知恵について聞いたことは真実でありました。しかしわたしがきて、目に見るまでは、その言葉を信じませんでしたが、今見るとその半分もわたしは知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄はわたしが聞いたうわさにまさっています。
あなたの奥方たちはさいわいです。常にあなたの前に立って、あなたの知恵を聞く家来たちはさいわいです。あなたの神、主はほむべきかな。主はあなたを喜び、あなたをイスラエルの位にのぼらせられました。主は永久にイスラエルを愛せられるゆえ、あなたを王として公道と正義とを行わせられるのです」。』(1列王記10:6-9)
彼女は、ソロモンの有様を通して、そして、その国イスラエルの有様を見て、「あなたの神、主はほむべきかな」と、主の御名を褒め称えるに至った。
まことに、主に祝福された人は、その祝福された様を通して、主を知らない人が、主に立ち返るのだ。
「もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。」(イザヤ60:3) と記されている通りである。
クリスチャン、と言うと、貧相だけれどなんだか頑張っている、と考える人がいるかもしれない。
病だけれど、貧しいけれど、これだけ私達は頑張っています、といった所に、私達はずっと留まるべきではなく、むしろ神の子である神の民は、もっと健やかに、もっと栄え、富んだ者にされて然るべきである。
確かに自分自身の罪深さや、弱さ、不完全さを見るに、そんな大それた願いを求めるには相応しくない、と思えるかもしれない。
しかし主は言っている。
わたしが贖い主、すなわち、あなたの貧しさを覆い、罪の借金を買い戻す者である、わたしの所に来なさい、と。
『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。――主の御告げ。――あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。』(イザヤ41:13-14)
『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』(イザヤ43:1)
主がそのように言われているからには、私達もルツのように主のご好意にあずかって、大胆に御前に進み出るべきである。
それこそ主の目に「真実な行動」なのだ。(ルツ記3:10)
『ソロモン王はその豊かなのにしたがってシバの女王に贈り物をしたほかに、彼女の望みにまかせて、すべてその求める物を贈った。そして彼女はその家来たちと共に自分の国へ帰っていった。』(1列王記10:13)
こうして彼女は、イスラエルから多くのおみやげを持って帰って行ったが、彼女が持ち帰った何より素晴らしいものは、主の栄光である。
主の御言葉を信じず、主が為された奇跡を見ても信じなかった人々に対し、主は彼女を引き合いに出して次のように言っている。
『南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。』(マタイ12:42)
そう、彼女は、ソロモンを富ませ栄光を与えて下さった「主を信じた」のだ。
彼女は、ソロモンの富と栄光を見て、彼と彼に仕える人達は幸いだ、と言ったが、後から見ると、幸いなのは彼女のほうである。
なぜならソロモンのこの後は、浪費の人生となり、しまいに彼は「むなしい」が口癖のようになってしまったのに引き換え、彼女は、御言葉を聞いても信じない人を「さばく側」になっているからだ。
新約でソロモンについて言及されているのは、この箇所と、もう一つ、「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」という箇所である。(マタイ6:29、ルカ12:27)
結局大事なのは、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、ソロモンよりも美しく装わせて下さる主であり、ソロモンよりもさらに優れた御方、主イエス様を信じる事である。
ソロモンのように、世的な富を追求するあまり、主を忘れてしまうとするなら、本末転倒も甚だしいのである。