メッセージ - 201603のエントリ
神の似姿の回復(創世記1:26-28)
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週報/メッセージ(説教)概要
天声教会設立の節目である今年に入り、設立当初与えられたビジョン「礼拝の再建」について学んでいる。
人は元々、神である主を、「礼拝」する存在だった。なぜなら人は元々、神の形に創られているからである。
だから、神と人との「関係」の回復、すなわち、礼拝の回復は、本来、全人類が取り組むべき課題だ。
礼拝とは、私達のからだ(ソーマ:思い・意志・感情、肉体も含めた全部)を聖なる生きた捧げものとして「捧げる(原意:傍に立つ=差し出す)」事であり、それこそロジコスな(理に適った)礼拝である。(ロマ12:1)
そして、父なる神は、真の礼拝者たちが霊と真理によって礼拝する事を、求めておられる。(ヨハネ4:23)
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。』(創世記1:26)
神は元々、人を神に「似る:ツェレム:影、像(属:男)」ように、神の「かたち:デムース:似ている、類似した(属:女)」に、創造された。人は神の像であり、似姿である。だから、人が神の「像」(偶像)を別個に造るとするなら、それは、自分自身が「神の像」である事、「神の似姿」である事を、破棄する事であり、大きな罪だ。
宇宙がどんなに広いと言えど、また、地球にどんなに多い種類の生物が生きているとしても、神の像、神に似た者として造られたのは、私達人間だ。しかし私達はいかに、その本来の姿から離れてしまっているだろう。その、本来の「人間性」を建て直すべく、神は降りてこられ、その建て直しに入られたのだ。
人は神のかたちとして創られたからには、神のように、「自由意志」が与えられた。そして、海の魚も、天の鳥も、地の家畜も、そして全地を「治めるように」、と。また、全ての地の上を這っているものを。(原語順)
そして神は祝福して、命令して言われた。「産めよ、また増えよ、また満ちよ、地に。」(28節、原語順)
神の祝福であり、神の命令の第一は、産んで増える事、また、満ちる事。だから、地は、神の似姿である人間によって満ちて行かなくてはならない。神は人を、第6日に創られたが、同じ日に、獣や地を這うものも創られた。人は、神の言葉を捨ててしまうなら、いとも簡単に、獣や這う者に似た者に成り下がってしまう。
『そしてそれを「征服せよ(カバッシュ:踏みにじる、征服する)」、また「治めよ(ラダ:支配する、踏む)」』(28節、原語順) つまりここは、足の下にある者が、調子に乗って、あたながたよりも上に上がって来たり、あなた方を支配して来ないようにしなさい、という意味である。天のもの・地のもの、地を這うもの全て、あなたが自由意志をもって従わせなさい、そうでないと、その者達は逆に従わせようとして襲ってくるから、と。
残念な事に、人は、3章で、蛇(サタン)の言葉に従い、神の言葉に背いてしまった。
故に人は、サタンに支配されるものとなってしまった。だから、全て神の言葉を知らない人、神の言葉に従わない人は、自動的にサタンに支配された者となり、罪と死の呪いの下にある者となってしまっている。
しかし、主イエス・キリストが、十字架に至るまでの完全な従順によってサタンに勝利した故に、彼に繋がる人は、神の子とされ、世に対し、サタンに対して勝利者となり、地を正統に支配するべき者とされたのだ。
私達は、神の言葉に服し、地を踏み、その地を支配すべきである。主は御言葉に従ったアブラハムに、東西南北を歩きなさい、と命じられた。その踏み歩いた地を、あなたに与える、と。ヨシュアにも命じられた。
あなたがたが足の裏で踏む所は、モーセに約束したように、あなたがたに与える、と。
私達も、神の子とされたからには、踏んで支配するべきである。キリストを信じる信仰により、神の姿形である事を取り戻した「神の子」は、もはや、海のもの、天のもの、地のもの、地を這うもの、サタンとそれに属する者達を、支配するべきであって、支配されるべきではない。
私達が支配するのは、地の「全ての」ものだ。例えば、キリスト者がお金に平服し、お金がキリスト者支配する、それは本来ではない。それはお金に支配されお金に頭が上がらない、神の似姿から離れた、惨めな生き方だ。キリスト者は神に服従する者であり、結果、お金の側から平服され、お金が従われて来る者だ。
主は私達に、正しい関係の回復を求めておられる。すなわち、私達の全てを主なる御言葉に「捧げる(原意:傍に立つ=差し出す)」事によって、神との正しい関係を回復し、そして真の礼拝者たちが産んで、増えて、地を満たし、地を従える事を。神に従い、神の子として、地の全ての物事を足の下にし、正しく支配する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
御言葉により再建される能力と品性(詩篇19:7-14)
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週報/メッセージ(説教)概要
今年に入って以来、当教会設立のビジョンである「礼拝の再建」についてネヘミヤ記から特に学んでいるが、今回は久しぶりに、テフィリンやユダヤ式教育、すなわち、御言葉教育がどんなに優れているか、御言葉が人に入るなら、いかに人となりが改善され、人生の再建にいかに有用であるか、を今一度確認したい。
御言葉がどれ程素晴らしいものであるか、まさしく以下の詩篇に記されている通りである。
『主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。』(詩篇19:7-9)
主の言葉とはそのようなものであり、人に主の言葉が入るなら、その人はより完全なものへと変えられ、魂は生きかえり、無学な者も賢くなる。また、心は喜びに溢れ、眼も明るくなる。主を恐れる道を歩むなら、決して間違える事が無いばかりか、どんどん清らかになって行く。まさしく、良い事づくしである。
そもそも、なぜ神の似姿として創られた人間の成り立ちは、破壊され崩されてしまったのか。
それは、人が主の言葉から離れ、蛇(サタン)の言葉を信じ、それに従い、騙されるままに「善悪の知識の木」から取って食べてしまったからだ。 このエデンの園の失敗以来、人は神から離れ、自分で善悪判断し、サタンの言葉と混じってしまった故に、妬み、怒り、騙し合い、殺しあったりするようになってしまった。
信仰(サンスクリット語:ビヒド)の元々の意味は、「連合する、結ぶ」の意味があり、人はどの言葉と結び合うかによってその人となりが決定して行く。誰かが何気なく口から出た良くない言葉を、ぐるぐると思い巡らすなら、必ず病んでしまうように、私達はどの言葉と混じり合うべきか、それによくよく気をつけたほうが良い。
だからこそ主は、サタンによって壊されてしまった本来の人間性を回復するために、次のように命じられたのだ。『私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。』(申命記6:6)
ユダヤのハカダ(反復)教育の本質は、この申命記6:6にある。彼らは徹底的に御言葉を反復して心の板刻みつけている。それによって、人に本来与えられていた能力や性質の回復が、進んで行くのだ。
聖書を暗唱する時、性格と品性、脳の3つが開発される。ある人はIQ124の人が164になり、性格も素晴らしくなった。聖書暗唱によって、どんなに曲がった人でも変えられるのだ。
なぜなら、神の言葉がその人に入り、混じり、そうして神の子としての品性が戻って行くからだ。
ユダヤ人の伝統的な教育法に「ハブルタ」というものがある。それは二人がペアになって、ある主題について会話し合う事だ。互いに議論し合う事で、相手の言葉を聞いて理解する能力、会話し意思疎通する能力、人を説得する理論を、向上させるのだ。これらをユダヤ人達は、小さい頃から学んでいるのだ。
人が効果的に物事を覚え、学習するために、有効な方法を、NTL国際訓練研究所が研究した。
それによると、人は講義を「聞く」だけでは、5%しか覚えない。だから100%覚えるには20回聞かなくてならない訳である。しかし「読む」なら、10%覚える。また、目、耳を用いる視聴覚教育は、20%覚えるようだ。
また、ある課題について講壇に出て講義をしたり、集団議論をするなら、50%記憶するようである。
もっと有効なのは、教えられた通りに、実際に自分が実践してみる事である。これは75%覚えるそうである。
そしてハブルタ教育、すなわち、二人が向かい合って、同じ主題を説明し合うなら、90%覚えるそうである。
確かにユダヤ人の教育法は優れているが、完全ではない。なぜなら彼らにはイエス・キリストを信じる信仰が無く、また彼らが心に刻みつけているのは旧約聖書のみで、福音も、救いも、永遠の命も無いからだ。
御言葉教育を、単に頭脳や能力を開発する事に目的を置くなら「有害な天才」を生み出してしまう危険性があり、本人自身を破滅へと導いてしまうものだ。あのソロモンのように。彼は誰よりも頭が良く、金や名誉、女を誰より多く手に入れたが、信仰が破綻してしまった故に、人生の終わりは全てが虚しくなってしまった。
だから教育の本質は、天才や金持ちを生み出す事ではなく、神を恐れ敬う信仰のしっかりした、神の子を育て上げる事である。神は元々、罪なき神の似姿である人に対し、産んで増えて地に満ちていく祝福を与えられた。御言葉によって教育し、教育され、神の子として産んで増えていく皆さんでありますように!
早天祈祷会
キリスト者が継続して選択し続けるべき御霊による歩み(ガラテヤ5:16-18)
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聖霊は、人格ある方であり、人と交わり、人とコミュニケーションをとられる、聖なる、神の霊である。
つまり聖霊充満とは、コップのような器から溢れるような状態というより、聖霊という御方によって支配されている状況である。
『わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。』(ガラテヤ5:16-18)
パウロは命じている。御霊によって、歩みなさい、と。
つまり、御霊の歩みも、聖霊充満も、日々の意思決定の問題であり、自動的なものではない事が分かる。
では、意志をどのように用いれば良いのか。
どうしたら、御霊によって歩むのか。
それは自分を降ろし、御言葉に対しイエス様に対して「従う」という意思決定を下す事である。
聖霊を悲しませる、という事もある。
『悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。』(エペソ4:29-31)
ここを見ると、聖霊を悲しませるものは、特に、口から出る悪いことばに影響する事が大きいようである。
悪いことばを口から出さない、無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを捨て去る、という意志決定をする事もまた、聖霊様の宿られる住まいを荒らさないコツだ。
これらの事には、報いがある。
『わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を「捨てた(アペケン:捧げた、犠牲した者)」者はすべて、その「幾倍(ヘブル語原点では、ヘカトン、百倍を手に掴ませてくださる、という意味)も」を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。』(マタイ19:29)
自分の大切なものを、イエス様の故に捧げた人には、100倍(ヘカトン)の祝福が約束されている。
だから、福音とは、死んだ後にようやく天国に行けるといったような、死んでみなければ分からない朧げな希望ではない。
この地上で、100倍の報いを受ける約束を望み求めて良いものであり、そればかりでなく、永遠のいのちをも相続できるのだ。
早天祈祷会
「アドナイ・イルエ」の意味(創世記22:9-14)
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『それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。』(創世記22:14)
アブラハムが大切なひとり子・イサクを捧げた場面も、この「アドナイ・エレ」という言葉は「主の山に備えあり」という意味である事も、クリスチャンの間ではとても有名である。
この「アドナイ・イルエ」の言葉の意味を、今一度よく学びたい。
この言葉を分解すると「エホバ(主)+ラアー(見つめる)」であり、「ラアー(見る)」は、未完成形となっている。
すなわち原意は「主は(ずっと)見つめ(続けて)おられた」である。
つまりアブラハムは、エホバなる主は、自分をずっと「見つめておられた」、と告白しているのである。
彼がイサクを捧げた時に至るまで、ずっと。
人間の、主と共に歩んでいくべき歩みは、いつまで続くかは、分からない。
せっかくひと度、信仰に入っても、途中で脇道に逸れてしまって、そうして人生を終えてしまう人もいる。
アブラハムの父・テラは、カナンへに行くべき道のりの途中で、脇道に逸れ、カランという地でストップしてしまい、目標地点であるカナンに至らないまま、寿命が来てしまった。
それで彼の名は、聖書には、ほんの僅かしか残されなかった。
アブラハムも、12章で主に召しだされて以来、ずっと、脇道に逸れてしまう危険性は、あった。
彼も途中、何度か失敗もし、脇道に逸れそうになったが、その都度、主の望まれる道へと持ち直し、主と共に「継続して」歩みつづけてきた。
私達もまた、アブラハムのように、地上での歩みを全うし、体が贖われる時に至るまで、「継続して」主と共に歩み続ける必要がある。
ヤコブは言う。
『わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ(テレイオー)、こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。』(ヤコブ2:21-23)
アブラハムの信仰は、彼がイサクを捧げた時、全うされた、と書いてある。
つまり、彼がその「行い」を実行するまで、彼の信仰は、全うされていなかったという事だ。
彼がイサクを捧げたその時、創世記15章の「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が、全うしたのだ。
主を信じるなら、確かに、義と認められる。
そしてその信仰は、行いが伴った時、完全なもの(テレイオー)となるのだ。
アブラハムはイサクを捧げた時、神から「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。」と言われ、気づいたのだ。
神は実は、この時までずっと「アドナイ・エレ」しつづけておられたのだ、と。
すなわち神は、アブラハムが神を信じた時からずっと、彼を「見つめ続けて」おられ、彼が「イサクを捧げる」という行いによって、彼の信仰が「完成(テレイオー)」するのを、ずっと見つめ続けておられたのだ。
私達も、信じたなら、神は私達を見つめ続けておられる。
私達の信仰が、私達が行う事よって、全う(テレイオー)するのを、今か、今か、と。
『こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。・・・霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。』(ヤコブ2:23-26)
私達は今一度、この御言葉に立ち、信仰による行いの重要性を再確認したい。
二つのものをひとつにし、隔ての壁を破壊される主(エペソ2:14-22)
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- 執筆 :
- pastor 2016-3-2 23:10
早天祈祷会
信仰 vs 行い(ヤコブ2:19-26)
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ヤコブ書全体の核心は、2章22節にある。
『あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ』
信仰(ピスティス)は、行いと共に働く。
義とされるのは、ピスティスか、エルゴンか。ここはルター以来、500年の神学的論争があった。
救いは、信仰だけによるか、それとも、行いも必要なのか。
私達は、書いてある通り、そのままを受け取るべきである。
すなわち、信仰だけによるではなく、または、行いだけによるのでもない。
2:22にある通り、信仰は「行いと共に働く」のであり、行いによって、信仰は全う(テレイオー:完成される)のだ。
だから、本物の信仰とは、行いによって裏付けされているものであり、行いがセットとなっていないなら、完全な状態の信仰ではないのだ。