メッセージ - 201606のエントリ
こんこんと湧き上がって来るいのちの水(ヨハネ4:7-15)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ヨハネによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2016-6-13 19:40
エサウ - 一杯の煮物で祝福の権利を売った者(創世記25:23-34)
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週報/メッセージ(説教)概要
今回より、再び聖書の登場人物をテーマに見ていきたい。今回はアブラハムの子イサクの長男、エサウについてである。彼は、神に祝福された家系の長子としての祝福を受け継ぐはずだったのに、取り去られてしまった。また彼の子孫は、一時はエドム人として栄えたのに、今はもう滅んでしまっている。それに引き換え、彼の弟ヤコブは、後に神から「イスラエル」と名付けられ、今なおイスラエル民族は栄えている。
この違いは一体何だろう。どういう人が祝福を勝ち取り、どういう人は、祝福が取り去られてしまうのだろうか。
『エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となった。』(27節)
創世記で「巧みな猟師」は、総じて、主の目には悪い者である。(10:9のニムロデ、21:20のイシュマエル)
彼らは、自分の力強さに頼り、思うままに好きな所へ出て行って、平和に暮らしている他の生物を狩って食いものにし、欲するままに力で周囲を支配する者であり、それは、神に喜ばれない歩み方である。
最近は、肉食系・草食系の仕分けで、草食系を蔑む雰囲気もあるが、主は、肉食系をこそ蔑まれるのだ。
「ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。」(27節) この「穏やか(タァム)」という語は、「正しい」「全き」「無垢」とも訳せる、義人ヨブの品性を表す語である。(ヨブ記1:1)
彼はエサウと違って、好き勝手な所に出歩かず、父の天幕の周りで父の羊の群れをしっかり見守っていた。
父から任された羊をしっかり見守る事こそ、主に祝福される性質だ。主の働き人は、主から任された羊を放置し好き勝手する者になってはならず、しっかり羊達の面倒を見るべきだ。父イサクがエサウを愛したのは、彼が狩って来る獲物の肉を好んだからだが、リベカは、主の祝福の約束があったヤコブの方を愛した。
多くの人は、世の中をうまく渡り合って腕づくで食を確保できる狩人型人間になりたいと願い、その人が好かれるが、兎と亀の競争のように、後で追い抜されてしまう時が来る。主の祝福の約束がある者によって。
彼はある時、獲物を追いかける事に夢中になりすぎて、死にそうになるまで疲れ果てて帰ってきた。
その時、ヤコブはレンズ豆の煮物を煮ていた。『エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの(アドム)、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。』(30-31節)
エサウとしては、いきなり突拍子もない事を要求されたように聞こえたかも知れない。しかしヤコブは、いつも「長子の特権」を狙っていたのだ。母の胎にいた時から兄のかかとを掴みながら出て来た程に、いつも、アブラハムの家系として祝福を受け継ぐ特権を自分のものにしようと、虎視眈々と狙っていたのだ。
しかし、生まれながらに長子として祝福を受け継げる者という座に安住していたエサウは、弟のそんな言葉はどうでも良く、ただ、目の前にあるその「赤いもの」が、今すぐ欲しかった。
『エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。・・・彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。』(32-34節)
彼は、まさかこれで本当に長子の権利が売られてしまったとは思っていなかったかも知れない。
しかし彼は確かに食べ、契約は成立してしまったのだ。結局彼は、長子の特権を軽んじていたのである。
神は、生まれながらに人を差別されるのだろうか?少なくとも私達はそう考える必要は一切無い。なぜならキリストを主として信じる者には全て、天の御父から永遠の祝福を受け継げる特権が与えられるのだから。
それは、エサウの長子の特権と同じで、天の御父から全ての祝福を受け継ぐ事のできる、全特権である。
キリストを主として信じるなら、私達も、その全特権にあずかれて、そこに差別も例外も無い。しかし信じないなら、エサウのように、自分の腕力で他を狩りながら生きて行く他はなく、その行き先は呪いと滅びである。
私達は、エサウのようにその特権を軽んじて売ってはならない。エサウの場合、祝福の権利と引換にしたものはレンズ豆の煮物で、イスカリオテのユダは銀貨30枚だったが、サタンは様々な形にそれを変えて私達に迫り、誘惑して来る。私達はそうした誘惑を断固、イエス・キリストの名によって拒否しなくてはならない。
ヤコブのように、与えられた領分において、与えられたいのちをしっかり養い育て、神の約束をいつも思い巡らし、祝福は貪欲に勝ち取って行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!