メッセージ - 201607のエントリ
愛、憐れみ、恵みという神のわざを為すために(ヨハネ9:1-5)
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週報/メッセージ(説教)概要
相模原市の障害者施設において、殺人事件としては戦後最悪の19人が刺殺され、26人が重軽傷を負わされるという、未曾有の事件が起きた。今まさに病院で治療を受けている被害者の方々が速やかに回復され、治療や回復の働きに携わっておられる方々の手の技が祝福されるように、また、犠牲者のご家族・友人知人たち、職員たちに慰めがあるように、天声では日毎祈りに覚えている。
植松容疑者は、手紙の中で、「重複障害者に対する命のあり方は未だに答えが見つかっていない」と書いたが、どんな命であれ「命のあり方」は人間が答えを出せるものではないし、また出そうとしてはならない。
命の事は、いのちの君であるイエス様のものであり、彼こそ、全て、人のいのちの答えを握っておられる。
人は問う。なぜあの人は、あのような障害をもって生まれてきたのか。どうして人生半ばでそうなってしまったのか・・・。イエス様の弟子でさえ、生まれつき目が見えない人をさして、誰が罪を犯したからですか、と主に問うた。人は誰しも、罪の刺が刺さっている。起きている事象を手に取って、見定め、あれこれ批評する本人こそ罪があり、「悪い」のだから、誰が悪い・彼が悪いという議論そのものがナンセンスだ。
唯一、イエス様だけが答えを握っておられる。「イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ9:3)
彼がなぜ、生まれつき目が見えないか。その答えは、「ただ神のみわざが、彼の上に現れるため」。
イエス様はさらに言われる。「わたしたちは、わたしをつかわされた方のわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。わたしは、この世にいる間は、世の光である。」(4-5節)
イエス様は「わたしたちは」神のわざをしなければならない、と言われた。「癒し」は神のわざであり、誰も彼もが出来る事ではない。では、「わたしたち」が出来る「神のわざ」とは、何だろう。それは、助けを必要としている人を助け、彼の面倒を見てあげる事だ。それは、世の光であるイエス様を抜きには出来ない。
イエス様抜きにしようとするなら、誰も働けない夜となり、今回の事件のように、底なしの闇へと陥ってしまう。
『わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。・・・、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互に受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。』(ローマ15:1) キリストは、障害だらけ・罪だらけの私達を、なぜ受け入れ、面倒を見てくださったのか。それは「神の栄光」のためだと書かれてある。つまり、たとえ見返りが望めないにしても、それでも弱っている人達のために働く全ての人達は、「神のわざ」の一旦を担っているわけである。
弱さをおぼえている人の面倒は、本来、身内が見るべきであり、それが出来ないなら、強くまた余裕ある人々が担うべきである(1テモテ5:4-16)。だから、福祉施設で働く人は、本来、子育てをしっかり終えて、いのちを育む喜びと達成感を経験した、余裕のある人が、良い待遇の元で為して然るべきである。
しかし現実には、障害を持っている人の身内は、施設に預けっぱなしの事が多く、また、彼らの面倒を見る職員としては、これからいのちを生み、はぐくみ育てる喜びを未来に控えた、未婚の若者達が、安い賃金で働かされてしまっているケースが多く、彼らは自分の家庭を持つ事もできないまま、将来に希望が見出だせず、いのちの喜びを削りながら働き続ける事になってしまう。これは、国の制度が不当であり、それを改善しないなら、このような事件を「正統」と勘違いして起こすような者達があらわれても仕方がない。
今回の犯人は、社会に益をもたらさず重荷になるなら安楽死を、といった「損得勘定」で計算して事を起こしたが、そういう自分が、損得勘定抜きの愛・憐れみによって育み育てられた事を、計算に入れていない。
人はみな、かつては、自分では何も出来ない赤ちゃんだった。なぜ何も出来ない赤ちゃんであった時代が何年もありながら、今、生きているのか。それは、何も要求する事なく、損得勘定ぬきに無条件に受け入れ、はぐくみ育てる存在があったからに他ならない。「恵み」「憐れみ」は神のご性質であり、人はその「神の仕事」を為す者である。それを人がする時、愛・憐れみなる神の仕事をしているわけであり、神から報いを受ける。『宴会を催す場合には、貧しい人、体の不自由な人、足の悪い人、目の見えない人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたは幸いになるであろう。』(ルカ14:13)
この闇の時代にあって、いのちの君である主からいのちの望みと喜びを頂き、この世の全ての死はいのちで飲み込み、光の子として働いて行く皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福します!
相模原の大量殺傷事件について - なぜ障害者がいるのか、なぜ人を殺してはならないか(ヨハネ9:1-5)
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- pastor 2016-7-28 18:00
「恐れるな、わたしがあなたを助ける」主からそのように言われる人とは(イザヤ41:1-16)
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- pastor 2016-7-27 17:00
バシャとエラ - 懲りずに主の忌み嫌われる道を歩み、二代で終わってしまった王朝(1列王記15:32-16:14)
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- pastor 2016-7-27 14:10
バシャとエラ - 懲りずに主の忌み嫌われる道を歩み、二代で終わってしまった王朝(1列王記15:32-16:14)
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主の道に歩まなかったソロモンへの反対勢力として、主はヤロブアムを反逆者として起こし、もし彼が主の道に歩むなら、ダビデの家のような長く続く家とする事を約束されたが、彼は主の道を捨て、不思議なしるしを通して警告を与えられても、頑なにその道を改めなかったため、ついには警告どおりの滅びが追いついてしまい、謀反者バシャによって、一族郎党、全員殺されてしまった。
こうしてヤロブアム王朝はわずか二代で終わり、王朝は、バシャへと移る。
『ユダの王アサの第三年にアヒヤの子バアシャはテルザでイスラエルの全地の王となって、二十四年世を治めた。彼は主の目の前に悪を行い、ヤラベアムの道に歩み、ヤラベアムがイスラエルに犯させた罪をおこなった。』(1列王記15:33-34)
ヤロブアムの統治は22年続であったのに対し、バシャの統治は、それより2年長い。
しかし彼はヤロブアムと同じ道を歩み、そして、ヤロブアムと同じ運命を辿る事になってしまう。
それは、彼も主の言葉を無視し、偶像礼拝に邁進してしまったからである。
「ヤロブアムの道」に歩む者には、ヤロブアムと同じ運命が待っている。これは列王記では何度も繰り返されるパターンである事は前にも見た通りだ。
『そこで主の言葉がハナニの子エヒウに臨み、バアシャを責めて言った、』(1列王記16:1)
バシャを戒める預言者・エフーの父は、ハナニである。
彼はかつて、南ユダの王・アサに警告の預言をしたが、アサ王は悔い改めるのではなくその預言者に怒り、彼に足かせをかけてしまった結果、アサは足の病気にかかり、それでも悔い改めなったので、その足の病が元で死んでしまった。
そのような実績のあるハナニの子、エフーが、バシャに警告する。
『「わたしはあなたをちりの中からあげて、わたしの民イスラエルの上に君としたが、あなたはヤラベアムの道に歩み、わたしの民イスラエルに罪を犯させ、その罪をもってわたしを怒らせた。それでわたしは、バアシャとその家を全く滅ぼし去り、あなたの家をネバテの子ヤラベアムの家のようにする。バアシャに属する者で、町で死ぬ者は犬が食べ、彼に属する者で、野で死ぬ者は空の鳥が食べるであろう」。』(1列王記16:2-4)
王が道を誤る事の何よりも罪深い点は、「わたしの民イスラエルに罪を犯させ」た事である。
もし臣下の民が、何百万かいるとしたら、その何百万全員を滅びへと向かわせてしまうからだ。
つまづきを与える指導者の罪は、重い。
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。」(ヤコブ3:1)
しかし、主の恵み憐れみは、バシャにも注がれていた。
もし、彼が警告に従って悔い改めていたなら、歴史は当然変わっていたであろうが、結局彼は改めなかった。
『バアシャのその他の事績と、彼がした事と、その勲功とは、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。バアシャはその先祖と共に眠って、テルザに葬られ、その子エラが代って王となった。
主の言葉はまたハナニの子預言者エヒウによって臨み、バアシャとその家を責めた。これは彼が主の目の前に、もろもろの悪を行い、その手のわざをもって主を怒らせ、ヤラベアムの家にならったためであり、また彼がヤラベアムの家を滅ぼしたためであった。ユダの王アサの第二十六年にバアシャの子エラはテルザでイスラエルの王となり、二年世を治めた。』(1列王記16:5-8)
バシャの子・エラに王権が移った時、その治世は、わずか二年であった。
ヤロブアムと全く同じパターンである。ヤロブアムの子・ナダブの時もまた、統治はわずか二年であった。
されど二年である。
その二年は、父の罪を見て、そこから離れるための猶予としては、充分であった。
しかしエラは、その二年という”猶予期間”を用いて、何をしたか。
彼はその憐れみ期間、あらゆる悪を行う事によって費やし、そうして悔い改めるべき時間を食いつぶし、ついには、滅びが追いついてしまったのだ。
私達も、憐れみの期間が与えられているのであれば、その尊い時間を食いつぶしてはならない。
いくら注意されても、悪事を止めない人がいる。
主の目に悪とされる事をどんなに行っても大きな罰が下った事は無い、と言って、あたかも主がおられないかのように、平気で罪の飲み食いをする。
信仰の人から「そんな事していたらやがて滅びが追いついてしまう」と、どんなに言われても、「今まで滅びなど来なかった、この道を続けても大丈夫だ」と言って、罪のブランコでブラブラと遊んでいるとするなら、やがて必ず、罪の刈り取りをする事になるのだ。
この事は、列王記のみならず、サムエル記でも、いや、聖書全体を通して、そのパターンを見ることができる。
バシャの滅びは、ある日突然来た。
『彼がテルザにいて、テルザの宮殿のつかさアルザの家で酒を飲んで酔った時、その家来で戦車隊の半ばを指揮していたジムリが、彼にそむいた。そしてユダの王アサの第二十七年にジムリは、はいってきて彼を撃ち殺し、彼に代って王となった。ジムリは王となって、位についた時、バアシャの全家を殺し、その親族または友だちの男子は、ひとりも残さなかった。こうしてジムリはバアシャの全家を滅ぼした。主が預言者エヒウによってバアシャを責めて言われた言葉のとおりである。』(1列王記16:9-12)
結局、バシャの王朝はヤロブアムと全く同じ運命を辿ってしまい、謀反によって成り上がったバシャの家は、同じく、自分の家来の謀反によって滅んでしまった。
『これはバアシャのもろもろの罪と、その子エラの罪のためであって、彼らが罪を犯し、またイスラエルに罪を犯させ、彼らの偶像をもってイスラエルの神、主を怒らせたからである。エラのその他の事績と、彼がしたすべての事は、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。』(1列王記16:13-14)
彼らが滅んだ原因は、ヤロブアムと全く同じだ。
主を怒らせる行いを続け、それを指摘されても改めないという、滅びのパターンを歩んだからだ。
こうしてバシャの王朝も、たった二代で終わってしまった。
いのちの道から右にも左にも逸れる事なく、御言葉から離れず、何をしても栄える祝福のパターンを歩み続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
ナダブ - わずか二代で終わってしまったヤロブアムの家(1列王記15:25-32)
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- pastor 2016-7-25 21:02
ナダブ - わずか二代で終わってしまったヤロブアムの家(1列王記15:25-32)
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25節以降は、北イスラエル王国の話に切り替わり、北王国・最初の王朝となったヤロブアムの子、ナダブの話である。
『ユダの王アサの第二年にヤラベアムの子ナダブがイスラエルの王となって、二年イスラエルを治めた。彼は主の目の前に悪を行い、その父の道に歩み、父がイスラエルに犯させた罪をおこなった。』(1列王記15:25-26)
ナダブの父・ヤロブアムは、北イスラエル王国を22年統治したが、彼はたった2年しか統治できなかった。
その理由は、彼が主の目の前に悪を行い、主の道にではなく彼の父の道に歩んだからである。
彼の・父ヤロブアムには、主から何度も預言者が遣わされ、主の道に帰るよう警告を受けていた。それなのに彼も、彼の子も、結局主の道に帰らなかった。
主は侮られる方ではない。
もし、主から御言葉によって警告が与えられているのにそれを無視し、敢えて好き勝手な道を選び歩むなら、遅かれ早かれ必ずペナルティが待っている。
ただ主は、悔い改めの機会を与えずにすぐに滅ぼしてしまわれるお方ではない。
悔い改めて立ち返るための「憐れみの期間」が、必ず与えられる。
その期間は、主が一方的に計り与えて下さるものであり、どのくらいであるのかは人には分からない。
ナダブの場合は、それは2年だった。
もし彼がこの期間、父の悪の道を離れ、主の道に帰っていたなら、当然、歴史は変わっていただろう。
しかし結局、彼は父ヤロブアムの道を改めず、その憐れみの期間を食いつぶしてしまい、滅びの目盛りが満ちてしまった。
『イッサカルの家のアヒヤの子バアシャは彼に対してむほんを企て、ペリシテびとに属するギベトンで彼を撃った。・・・こうしてユダの王アサの第三年にバアシャは彼を殺し、彼に代って王となった。彼は王となるとすぐヤラベアムの全家を撃ち、息のある者をひとりもヤラベアムの家に残さず、ことごとく滅ぼした。
主がそのしもべシロびとアヒヤによって言われた言葉のとおりであって、これはヤラベアムがみずから犯し、またイスラエルに犯させた罪のため、また彼がイスラエルの神、主を怒らせたその怒りによるのであった。』(1列王記15:27-30)
ナダブは、家来の謀反によって殺され、こうしてヤロブアム一族は、郎党もろとも根絶やしにされてしまった。
その事は、あらかじめ前章で預言されていた事だった。
元々、預言者アヒヤを通して主から約束されていた事は、ヤロブアムの家は、ダビデの家にような長く続く家を建てよう、という事だった。
それなのに、たった二代で、滅ぼされ尽くしてしまった。
それは彼らが、祝福を受け続けるための条件を、破り続けたからである。
祝福であれ、呪いであれ、預言には「もし**なら」という条件がつきものである。
『もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。』(1列王記11:38)
主の約束は、一貫してシンプルであり、そして最初から全く変わっていない。
それはすなわち、主の道に歩むなら、必ず祝福される。主を軽んじ主の禁じられた道を行くなら、必ず呪われる、という事である。
しかし主は、コンピュータープログラムのように条件分岐のように、杓子定規に裁かれるお方ではなく、愛、憐れみ、うめきの感情をもって、人を救いたいと願っておられる主である。
『それゆえ、人の子よ、イスラエルの家に言え、あなたがたはこう言った、『われわれのとがと、罪はわれわれの上にある。われわれはその中にあって衰えはてる。どうして生きることができようか』と。
あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。』(エゼキエル33:10-11)
主は、悪人の死を喜ばれるのではない。
悪人が打ち叩かれて苦悶の表情をしている様を見て喜ぶようなお方ではない。
むしろ悪人が立ち返って、いのちの道を歩む事をこそ、喜ばれる。
悔い改めには、遅すぎる事は無い。
十字架という極刑が確定し、それが執行されている真っ最中の凶悪犯でさえも、イエス様を受け入れたなら、パラダイスへ行く事が許されたのである。
主はいつでも、人が悔い改める事をこそ、喜ばれる。
それでは死ぬ間際に悔い改めさえすれば、あとは好き勝手に生きても、強盗さえしてもいいのか、と思うのは、お門違いである。
人は、いつ死ぬか分からないものであり、そして人は、日常的に考え信じ行なっているものがとっさに出てしまうものだから。
御言葉であられる主との交わりは、日毎に、今、この時にするべき事である。
悔い改めも、主の目に適う事をするのも、御前で悪である事を止めるのも、きょう、今、この時に開始すべき事であって、それらは明日あるいは「いつか」に引き延ばすものではない。
信仰生活とは、主と共に歩む「今」という時間の積み重ねなのだ。
羊飼い - 主の働き人が受けるべき必須課程(詩篇78:70-72)
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週報/メッセージ(説教)概要
主はなぜダビデを王として選ばれたのか。また、主から選ばれる人は、どのような性質の人なのか。
そして、主から尊い事に大きく用いられる器となるためには、どのような性質を特に鍛えれば良いのか。
今回は、ダビデが最初に主に選ばれた場面から、そして聖書で重要人物とされている人達から学びたい。
アベル、アブラハム、イサク、ヤコブ、イスラエル12部族の父祖達、モーセ、ダビデ。これら聖書の中で最重要人物である彼らが、共通して従事した職業を、ご存知だろうか。その職業とは…羊飼いである。
復活のイエス様が、失敗したペテロを再び召命する時、3回も命じた事は「わたしの羊を飼いなさい」であり、そして私達の主は、まことの羊飼いである。神の国の働き人を目指す人は、羊を飼う事は、必須科目だ。
羊は弱く、身を守る術が無く、近視眼で迷子になりやすい。自分で食べ物を見つける事が出来ないので、羊飼いは彼らを牧草地や水のほとりへ導く。悪い獣に狙われ易く、現れたなら杖や鞭、石投げで追い払う。
羊はどこでも汚物を垂れ流し、自分の毛につけたまま歩くので、臭い。強情で、時には怒って羊飼いに体当たりして来る。学習能力が弱いので、同じ失敗を何度も繰り返す。思い当たるふしがあるだろうか?
それで羊飼いは、エジプトでは嫌われ(創世記46:34)、イエス様がお生まれになった時代も、皇帝アウグストから、住民登録から外されてしまうような、卑しい職業とされていた。私達の信仰の父祖達の輝かしい実績が聖書に記されているが、その陰では、羊を養う事で、人生の大半を費やしていたのだ。
主の目は、弱く愚かな羊たちを養っている羊飼いにこそ、注がれる。イエス様の誕生を真っ先に告げられたのは夜番をしていた羊飼いであった。モーセは前半人生は王子として華々しく過ごしたが、その後、荒野で40年も羊を追う生活をした時、主から召命を受け、その後40年は、イスラエル60万という羊を導いた。
ダビデが主からイスラエルの王として白羽の矢が立ったのは、彼がまだ紅顔の少年で、父エッサイの羊を飼っていた時だった(1サムエル記16章)。
エッサイは、サムエルから子を招くよう言われた時、末っ子ダビデだけは同席させず、羊の番をさせていた。
人は、うわべを見る。その人の容貌や美しさ、年齢、立ち居振る舞いなど。しかし、主は心を見ておられる。
少年ダビデが、誰からも目を留められなかった時、主が彼を「王を捜し得た」と評価したのは、彼は、任された羊たちを、忠実に守り、養っていたからだ。皆さんは、ライオンや熊が吠え猛りながら羊を奪って行ったら、奪い返すために追って行くだろうか。ダビデは、それをしたのだ。そしてライオンも熊も打ち倒し、羊を取り戻していたのである。主は、託された羊を守るために、その人に力を与えて下さる。
ダビデは、人に見られない隠れた所で忠実に、弱く、愚かな羊であっても決して見捨てず、命を賭して守る性質だったからこそ、隠れた所を見ておられる主の目に叶い、主から王として人知れず選ばれたのだ。
人目に隠れた所で忠実に羊を養う性質こそ大事である。偉い人の目がある所では美しく飾っても、去ったとたんに、弱く愚かな羊を軽んじ、打ち叩いたりするなら、主から何も任されない。長男エリアブはサムエルからは「これこそ油注がれる者だ」と思われたが、主は彼を退けた(16:7)。彼は麗しい見た目でも、ゴリヤテを前には何も出来ず、末っ子ダビデが来た時は威張り散らし、彼を「羊を放置した」となじった。(17:28)
皆さんは、主から「羊」を託されているだろうか。主の働き人を目指すなら、「羊」を忠実に養うべきだ。
アブラハムもモーセもダビデも、神学校で訓練したのではなく、羊を飼う事で、訓練されたからだ。
羊は、何度も同じ失敗を繰り返すかもしれない。恩知らずかもしれない。汚い所を転げ回って、臭さを振りまくかもしれない。強情で、自分に突進して来るかもしれない。落ち着かせて、ようやく一息つこうとした矢先、どこかに行って迷子になったり、悪い者にたぶらかされて、連れ去られて行ったりするかもしれない。
全然報われていない、埋もれてしまっている、一体いつまで続くのか、と思えるかもしれないが、その道は、決して間違っておらず、尊い時なのだ。それは主の訓練で、私達の”信仰の”父達、おじいさん・ひいおじいさん達は皆、羊の面倒を見たり、引き戻してやったりしている内に、どんどん整えられて行ったのだ。
私達の羊飼いであられる主は、言われる。「わたしの羊を飼いなさい」と。私達も信仰の父達に習い、今、任されている羊達を忠実に養い、主へと捧げられる立派な羊に育て上げ、モーセやダビデのように立派な働き人として成長し用いられて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!