メッセージ - 201607のエントリ
アビヤム - 主の目に悪を行い3年しか続かなかった統治(1列王記15:1-8)
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- pastor 2016-7-13 22:50
アビヤム - 主の目に悪を行い3年しか続かなかった統治(1列王記15:1-8)
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15章では、南ユダ王国・レハブアム王に続く二人の王についての記録があり、1−8節は、レハブアムの次の王・アビヤムについてである。
『ネバテの子ヤラベアム王の第十八年にアビヤムがユダの王となり、エルサレムで三年世を治めた。その母の名はマアカといって、アブサロムの娘であった。彼はその父が先に行ったもろもろの罪をおこない、その心は父ダビデの心のようにその神、主に対して全く真実ではなかった。』(1列王記15:1-3)
アビヤムもまた、彼の父・レハブアムに続いて「悪い王」であった。
彼の治世はわずか3年で終わってしまっている。
法則として、主に従わない王の代は、栄える事はない。
『それにもかかわらず、その神、主はダビデのために、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、その子を彼のあとに立てて、エルサレムを固められた。それはダビデがヘテびとウリヤの事のほか、一生の間、主の目にかなう事を行い、主が命じられたすべての事に、そむかなかったからである。』(1列王記15:4)
南ユダ王国に対し、主が憐れみを注がれた理由は、ひとえに、彼らの父祖・ダビデの故である。
父親がどんなに信仰が立派な、良い人であっても、その子が主に従わないなら、子の代で、速やかに落ちぶれてしまう。
しかし主は、いきなりその子を再起不能な程に懲罰されるという事はない。その子が悔い改めて立ち直るための「憐れみの期間」を設けられる。
それだから、親が子のために祈る事には大きな意味がある。
事実主は、南ユダ王国については、ダビデに免じて、その子の代にも、孫の代にも、憐れみを注がれた。
これは彼らの父・ダビデの「信仰の資産」があったためであるが、主の戒めと懲らしめをあくまで軽んじ続けるなら、やがてはその「資産」が尽きてしまい、災いが下される事になってしまう。
十戒の中で最も重要な「第一戒」は、まことの神である主をさし置いて何者をも神としてはならない、という事であり、その次の「第二戒」は、偶像を作ってはならない、である。
ソロモンも、レハブアムも、早速それらを破ってしまい、そして3代目のアビヤムの統治は、わずか3年で終わってしまった。
『「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:2-6)
親が主に対して犯したそむきの罪ゆえに、子々孫々が呪われてしまう。
それは、本当に防がなくてはならない事である。しかしその呪いは宿命的に回避不可能なものではなく、キャンセル可能なものである。
もしその子が、親の犯した主への背きを捨て去り、主を畏れ敬うのであるなら、彼の真実が自分を救い、主は呪いを取り止め、慈しみを与えて下さる。
事実、アビヤムの次の王・アサの代を見れば、それが分かる。
彼はアビヤムと同じ父・母から生まれたにもかかわらず、彼は主の目にかなう事を行なったため、41年もの間、王として栄える事ができたのだ。
私達も同じである。
いかに代々、偶像礼拝の家系であっても、いかなる呪いを先祖の代で受けてしまったとしても、ただ、その人自身のイエス・キリストを信じる信仰によって、血筋的・霊的呪いはキャンセル可能であり、イエス・キリストを信じた人は、血筋によってでなく人間の欲求によってでもなく、ただ神によって生まれた者である。(ヨハネ1:12-13)
一方は、父の罪にならって、そのまま御前に罪を歩み続けた故に、3年しか王になれなかった。
他方は、同じ父母から生まれたのに、父の罪を捨て去り、主を恐れ敬う者として道を歩んだ故に、41年もの間、王となり続けられた。
同じ親から生まれているのに、こんなにも違う。
まさしく、主の道に歩むか歩まないかによって、祝福とのろいは、はっきり別れるのだ。
私達の前にも、祝福と呪いが置かれている。
主に従うなら、確かに祝福されるが、敢えて主の道を歩まないなら、呪いの縄目が徐々にきつくなって行ってしまい、最後には災いの内に滅ぼされてしまう。
そうならない内に、速やかに悔い改め主に立ち返るべきだ。
神である主を自分の主人とし、主の道に歩むなら、恵みといつくしみが追いかけてくる。
恵みといつくしみを自分で追いかける人生でなく、主を主として、恵みといつくしみから追いかけられる皆さんでありますように。
イエス様のお名前によって祝福します!
生きるにしても死ぬにしてもただキリストのため(ピリピ1:21-30)
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- pastor 2016-7-13 22:50
わたしを誰になぞらえ、誰と比べようとするのか(イザヤ40:12-26)
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- pastor 2016-7-13 18:50
祭司からも預言者からも油注がれた者からも逃げられてしまったサウル(1サムエル記28:3-10)
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- pastor 2016-7-12 11:50
統治わずか5年目にしてソロモンの財を奪われてしまったレハブアム(1列王記14:21-31)
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- pastor 2016-7-11 23:30
統治わずか5年目にしてソロモンの財を奪われてしまったレハブアム(1列王記14:21-31)
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前回の北イスラエル王国のヤロブアム王に続き、南ユダ王国の話に移る。
『ソロモンの子レハベアムはユダで世を治めた。レハベアムは王となったとき四十一歳であったが、主がその名を置くために、イスラエルのすべての部族のうちから選ばれた町エルサレムで、十七年世を治めた。その母の名はナアマといってアンモンびとであった。』(1列王記14:21)
レハブアムの母は、アモン人であった事が特記されている。
ソロモンがイスラエルで王であった期間は四十年(11:42)、その子であるレハブアムは四十一歳で王になった、という事は、ソロモンは、王になってまだ早い時期にアモン人の妻をめり、レハブアムが産まれた、という事であろう。
アモン人は主の集会に加わってはならない、と定められている。(ネヘミヤ13:1、申命記23:3)
ダビデの曾祖母は、モアブ人ルツだったが、それとは全く趣きを異にしいる。ルツはイスラエルの神、主を自分の神として、何もかも捨ててイスラエルに来たのだが、ソロモンは、ただ異邦の女を愛した故で、信仰による動機は一切なかった。
どうして、よりによって、アモン人との間に生まれた者を、王として継がせなくてはならなかったったのかは、書いていないので分からない。
しかし彼は、わなのような女は死よりも苦い事を(伝道者の書7:26)、また、自分の財産を後に来る者に継がせなくてはならないのを絶望している事(伝道者の書2:18-21)からすると、彼はもしかしたら、そのモアブの女に何かしらの形で捕らえられ、縛られ、その子供に王権を継がせなくてはならなくなってしまったのかもしれない。
『ユダの人々はその先祖の行ったすべての事にまさって、主の目の前に悪を行い、その犯した罪によって主の怒りを引き起した。』(1列王記14:22)
レハブアムは、イスラエルの神・主に向かうという所が無く、ただ、ソロモンの不信仰な部分、節操の無い偶像礼拝の性質、だけを引き継いでしまったようだ。
その彼が国のリーダーであるなら、その配下の人々も、総じてそれに習う者となってしまう。
『彼らもすべての高い丘の上と、すべての青木の下に、高き所と石の柱とアシラ像とを建てたからである』(1列王記14:23)
高い丘や青木の下、高き所は、カナン人が偶像礼拝する礼拝場所である。
レハブアムに触発された彼らは、ユダの至る所にそれを作ってしまったのだ。
『その国にはまた神殿男娼たちがいた。彼らは主がイスラエルの人々の前から追い払われた国民のすべての憎むべき事をならい行った。』(1列王記14:24)
神殿男娼は、カナンの異教礼拝で行われていた宗教的淫売で、偶像礼拝・同性愛の二重の罪から、主から特に禁じられている。(申命記23:17)
主が禁じられていた事を敢えてし続けるなら、当然、恵みと憐れみは逃げて行き、呪いに追いかけられてしまう。
その結果、国は衰退してしまう。これは神の国の法則である。
『レハベアムの王の第五年にエジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上ってきて、主の宮の宝物と、王の宮殿の宝物を奪い去った。彼はそれをことごとく奪い去り、またソロモンの造った金の盾をみな奪い去った。レハベアムはその代りに青銅の盾を造って、王の宮殿の門を守る侍衛長の手にわたした。王が主の宮にはいるごとに、侍衛はそれを携え、また、それを侍衛のへやへ持ち帰った。』(1列王記14:25-28)
エルサレムは堅固な要害の町で、そうそう外敵に攻め込まれる所ではないはずなのに、どういうわけか、エジプトにいとも簡単に攻め落とされてしまっている。
こうして、ソロモンがせっかく蓄えた多くの金銀財宝は、彼が政権を退いてから、わずか5年で、エジプトに全部奪い去られてしまった。
レハブアムは、ダビデの孫である。
ダビデからわずか3代目で、こんなにも早く、こんなにも落ちぶれてしまうものか、と思うかもしれない。
そうである。
親がいかに、信仰において優れていても、その子が主を敬わず、主の忌み嫌われる事を続けるなら、あっという間にその人の財は奪われ、落ちぶれてしまうのだ。
しかし、金銀財宝は奪われてしまっても、人命や王国が奪われなかったのは、主の憐れみとしか言いようがない。
それは、レハブアムがこれを機にへりくだり、少しでも、主に立ち返ったからである。(2歴代誌12:12)
『レハベアムのその他の事績と、彼がしたすべての事は、ユダの王の歴代志の書にしるされているではないか。レハベアムとヤラベアムの間には絶えず戦争があった。レハベアムはその先祖と共に眠って先祖と共にダビデの町に葬られた。その母の名はナアマといってアンモンびとであった。その子アビヤムが代って王となった。』(1列王記14:29-31)
レハブアムの歴史の最後に、もう一度、彼の母がアンモン人であった事が繰り返されて、この事が強調されている。
男性が、生涯の伴侶とすべき女性を選ぶのは、とても大事な事である。
一時的な情欲に駆られてではなく、将来、自分の子ができる時、その母として適切であるか、よく考えるべきだ。
人を恐れて罠にかかったダビデ(1サムエル記27:1-28:2)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
ダビデはイスラエルでは最も偉大な王であり、神からも「わたしのしもべダビデ」と愛された王である。
今回は、彼が王になる前に犯した失敗から、私達も陥りやすい罠について学び、次回、その失敗からいかに立ち直って前よりも優れた者になるべきか、そして、主はいかに真実なお方であるかを見たい。
ダビデがサウル王の部下として活躍していた時、彼があまりに有能で、神からも人からも愛されていたので、それを妬み恐れたサウル王は、ダビデを殺そうと、彼をつけ狙うのだが、神はことごとくダビデを守られた。
神はダビデに、二度もサウルを殺すチャンスを与えられたが、ダビデは二度とも、主に選ばれた王サウルを殺す事は拒否し、むしろ「憐れみ」「赦し」という、神の前に高貴なわざで、サウルの横暴に勝利した。
その勝利の直後、ダビデは彼らしくない失敗を犯す。彼は思い巡らす。このままではサウルに殺されてしまうから、イスラエルを離れ、敵国ペリシテに逃れよう、そうするなら、自分達は生き長らえるだろう、と。
この決断は、主に伺った形跡は無い。動機はただ将来への不安・恐れである。それで彼は、礼拝する所のあるイスラエルを離れ、弱肉強食の地・ペリシテへ逃れて行った。今風に言えば、将来を不安するあまり、収入は良いけれどいわゆる「汚れた」仕事へ身を投じ、礼拝から離れた生活に入って行くようなものだろう。
ダビデは勇士であり、統率力も人望も実績もある。どこに転職しても、そこそこ上りつめる自信はあっただろうが、神の国から離れ、自分の腕で切り盛りしていこうとする人への「要求」は、どんどん過酷になって行く。
こうしてダビデとその部下600人、そして彼らの妻子全部は、ペリシテの王アキシュの元に身を寄せた。
サウルはそれを聞いて、もはやダビデを追う事を止めた。彼の当初の目論みは「成功」しただろうが、主に頼らない地、弱肉強食の世界で生活し続けるには、その世界の”実績”を上げ続けなくてはならない。
悪徳業者には騙し・脅しなど、暴力的な性質が「価値」であり、それを訓練して行くように、ダビデはペリシテ王に気に入られようとした時点で、その方面の「実績」を上げ続けなくてはならなくなってしまった。
ダビデはそこで「略奪」を”なりわい”とするのだが、彼は表向き、イスラエルの町々を襲っているように見せかけ、実の所、異邦の町を襲って、神の民イスラエルに手をかける事は、かろうじて避けた。
しかし、それを通すためには、女子供さえ皆殺しにし、口を封じていたのだ。偽りと、殺しの生活である。
『アキシはダビデを信じて言った、「彼は自分を全くその民イスラエルに憎まれるようにした。それゆえ彼は永久にわたしのしもべとなるであろう」。』(12節) ダビデは確かにペリシテ王の信頼を得たかもしれない。
しかしひと度、「ダビデはイスラエルを平気で襲う」と思わせてしまったなら、その方面のプロとして見られてしまい、その方面の要求はさらに過酷になって行き、ついには、最も望ましくない事を要求されてしまう。
ある日、ダビデはアキシュから「一緒にイスラエルと戦おう」と持ちかけられ、彼はそれを”快諾”してしまう。
それでダビデは一層アキシュの歓心を得、生涯、護衛長として雇おう、という確約も得た。周りからは、僅か一年数ヶ月での大昇進だ、となるだろうが、彼はは果たしてその”終身雇用”の保証を喜べただろうか。
彼の妻になったばかりのアビガイルは、ダビデは必ずイスラエルの王になると確信していたが、彼女はこんなダビデをどう思っただろうか。とてつもない嵐が、彼の心に吹き荒れていたのではなかろうか。
自分はなんという生き方へと嵌り込んでしまったのだろう、なんという生き方へと、妻子や部下たちを導いてしまったのだろう、こんな事なら、サウルに追われながらでも、神様との健全な関係の内に、信仰者として恥じない生活を、神の民としての誇りをもって生きていたほうが、どんなにましだっただろう、と。
そしてその大きな後悔は、彼の後の「信仰者としての人生」に、強固な補強剤となっただろう。
『人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。
治める者の歓心を得ようとする人は多い、しかし人の事を定めるのは主による。』(箴言29:25-26)
神から離れ、世に取り入ろうとするクリスチャンは、必ずダビデのこの葛藤に陥る。しかし、それでも主を求め、自分のどうしようもない弱さ、罪を後悔し、悲しみ、主に助けを求める人は、主が必ず助けて下さる。
それはもちろん、簡単にではないだろう。痛みを伴った、少々荒治療的ではあるけれど、主は、愛する聖徒を、まっさかさまに倒すという事はされない。次回、主がいかに憐れみをもって導いて下さり、そしてダビデがいかに信仰にあって立ち直り、以前よりもさらに強固になったのかを見て行きたい。
ナバルの犬畜生レベルに堕ちそうになったダビデを救ったアビガイル(1サムエル記25章)
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- pastor 2016-7-8 23:50