メッセージ - 201608のエントリ

イスラエルに注いだ3年半ぶりの大雨(1列王記18:36-46)
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バアルの預言者達と、主の預言者エリヤとの戦いは、本人同士の戦いではなく、彼らの背後の神同士の戦いだった。
私達も、人生の戦いの場面で、自分対相手という戦いからは降りて、天地を創られた主を背後につけて戦っていただく事のほうが、断然得である。
いかに、こちらがたった一人で弱くあっても、そして、相手がどんなに大人数で、歴戦の強者で権力や財産があったとしても、主につく側が勝利するのだ。

バアルの預言者達は、朝から踊ったり血を流し合ったりしてまで、バアルを呼び求めたものの、何も答える者は無かった。
それなのにエリヤは、たった一回の祈りで、事を終わらせる。
『夕の供え物をささげる時になって、預言者エリヤは近寄って言った、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ、イスラエルでは、あなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを、今日知らせてください。主よ、わたしに答えてください、わたしに答えてください。主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください」。
そのとき主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした。』(1列王記18:36-38)

主こそ生きておられ、力強き神である事が証明された瞬間だ。
エリヤは、主に定められた時、主の御名を置いた祭壇を築き直し、主に呼ばわって祈った。
主の御旨に適った時、方法、言葉で祈るなら、主は一発でその祈りを聞かれるが、主の御旨に叶っていないものは、何度祈っても、踊り狂って血を流しても、無意味なのだ。

この、3年半も天から雨が降らないという、大掛かりな「しるし」は、何のために起きたか。
それは、人々が主を信じるようになるために他ならない。
人々が主を信じるようになるために、主は、人に望ましくない事を送られる事がある。
それを起こされる目的は、その人を罰して滅ぼすためではなく、その人を永遠に救うためであり、彼がどんなにむなしいものを求めていたのか、彼がどんなに主の前に失礼を犯して来たか、彼がどんなに無力であるのかを、とことん味わわせた後、主へと立ち返らせるためだ。

エリヤが祈った結果、天から火が降ってきて、主の前に置かれたいけにえだけでなく、水さえもその火は焼きつくしてしまった。
これ以上、主が生きておられる事の明確なしるしはない。これを見、また聞いておきながら主に立ち返らず、心頑なにするなら、そのような者は、もう救いようがない。
だから私達も、もし主のしるしを求めるとするなら、気をつけるべきである。

『民は皆見て、ひれ伏して言った、「主が神である。主が神である」。エリヤは彼らに言った、「バアルの預言者を捕えよ。そのひとりも逃がしてはならない」。そこで彼らを捕えたので、エリヤは彼らをキション川に連れくだって、そこで彼らを殺した。』(1列王記18:39-40)
バアルやアシェラの預言者達が除かれた後、恵みの雨が戻って来る。
イスラエルに不信仰を助長させていた者達がいなくなると、恵みの雨が降るのと同じように、私達の生活を主の御前で堕落させるような、有害無益な習慣や言葉が除かれるなら、恵みの雨が近づいて来る。

『エリヤはアハブに言った、「大雨の音がするから、上って行って、食い飲みしなさい」。』(1列王記18:41)
エリヤには聞こえた。雨の音が。
私達も、主の前に、あるいは御言葉を前に、明らかに取り除くべき事を、取り除くなら、それまで何年も降っていなかった恵みの雨音が、聞こえてくるようになるのだ。
そして、その雨が実体となるまでは、なお祈りと行動を続けるべきである。

『アハブは食い飲みするために上っていった。しかしエリヤはカルメルの頂に登り、地に伏して顔をひざの間に入れていたが、彼はしもべに言った、「上っていって海の方を見なさい」。彼は上っていって、見て、「何もありません」と言ったので、エリヤは「もう一度行きなさい」と言って七度に及んだ。七度目にしもべは言った、「海から人の手ほどの小さな雲が起っています」。エリヤは言った、「上っていって、『雨にとどめられないように車を整えて下れ』とアハブに言いなさい」。』(1列王記18:42-44)
エリヤは最後まで、祈りの手を緩めなかった。
私達も、主から確信が与えられても、なお行動し、祈り続けるべきなのだ。
望みをもって為して行く事を続けるなら、最初は手のひら程の小さな雲であっても、やがては恵みの大雨となる。

『すると間もなく、雲と風が起り、空が黒くなって大雨が降ってきた。アハブは車に乗ってエズレルへ行った。また主の手がエリヤに臨んだので、彼は腰をからげ、エズレルの入口までアハブの前に走っていった。』(1列王記18:45-46)
こうして、3年半ぶりに、イスラエルに大雨が降り注いだ。
それまで人々は主を軽んじ、無視していた。
しかしこのききんの3年半、主が遣わされたエリヤの言葉を人々はもはや無視できず、彼を「イスラエルに災いをもたらすもの」と言っていたものだが、結局これら一連の事を通して、イスラエルに災いをもたらしていたのは、実は自分たちであった、自分たちこそ、まことの神である主を退け、主に失礼な態度を取り、自分こそ災いを招いていた元であった事が、否応なく示された。
私達も、災いを招いていた原因が、実は自分の主に対する不従順であったという事は無いだろうか。
私達自身が悔い改め、心をつくし行いをもって立ち返るなら、恵みの雨が戻ってくるのだ。

エリヤは、祈ると天が閉じ、再び祈ると天が開いたが、彼は私達と同じ人間である。
私達も主にあって歩み、主が定められた通りに礼拝し、主に捧げ、祈るなら、主は雨を降らせて下さる。

この干魃のような時代の中、エリヤのように、この時代に対し霊的潤いをもたらす事に大いに用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

イザヤ書 講解説教メッセージ
主の栄光のために創られた、高価で尊い「あなた」(イザヤ43:1-7)
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二人で万を打ったヨナタン(1サムエル記14:1-15)
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無意味なパフォーマンスをするバアルの預言者達と、人々に捧げものをさせたエリヤ(1列王記18:22-35)
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バアルの預言者たちをイゼベルは飼っていたが、結局、長いききんの間、「豊穣の神バアル」はイスラエルに何の豊穣をもたらしてはくれなかった。
エリヤは人々に、主につくのか、それともバアルにつくのかをはっきりさせよ、と言ったが、人々は何も答えられなかった。
そこでエリヤは、具体的な提案を示す。

『エリヤは民に言った、「わたしはただひとり残った主の預言者です。しかしバアルの預言者は四百五十人あります。われわれに二頭の牛をください。そして一頭の牛を彼らに選ばせ、それを切り裂いて、たきぎの上に載せ、それに火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の牛を整え、それをたきぎの上に載せて火をつけずにおきましょう。こうしてあなたがたはあなたがたの神の名を呼びなさい。わたしは主の名を呼びましょう。そして火をもって答える神を神としましょう」。民は皆答えて「それがよかろう」と言った。』(1列王記18:22-24)
人々は「どの神を信じるのか」という言葉には何も答えなかったが、具体的にこれこれの事をして、このようにされる神こそまことの神である、と、具体的に示さると、人々からは「それがよい」と答えがあった。
言葉だけで分からない人々には、行動としるしが必要である。

こうして、聖書の中でも名場面の1つである「エリヤとバアルの預言者との戦い」が始まる。
それは、実に不思議な戦いである。
肉弾戦や兵器による戦いではなく、舌戦でも心理戦でもない。人数は一切関係無く、対戦相手と対面すらしない。
戦いの方法は、ただ自分の神に呼ばわり、その神に動いて頂く、というものである。
そしてそれは、私達が、世に対し、サタンに対して戦う方法でもある。(エペソ6:12-18)
『わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。』(エペソ6:12)

『そこでエリヤはバアルの預言者たちに言った、「あなたがたは大ぜいだから初めに一頭の牛を選んで、それを整え、あなたがたの神の名を呼びなさい。ただし火をつけてはなりません」。彼らは与えられた牛を取って整え、朝から昼までバアルの名を呼んで「バアルよ、答えてください」と言った。しかしなんの声もなく、また答える者もなかったので、彼らは自分たちの造った祭壇のまわりに踊った。』(1列王記18:25-26)
バアルの預言者達は、先にバアルを呼び出す事を始めたが、何をどう呼びかけても、何の答えもなかった。
彼らはついに、踊り回り始めるのだが、それでも答える者が何もいない。
朝からずっと見物していた人々は、きっとしびれを切らして来た事だろう。

『昼になってエリヤは彼らをあざけって言った、「彼は神だから、大声をあげて呼びなさい。彼は考えにふけっているのか、よそへ行ったのか、旅に出たのか、または眠っていて起されなければならないのか」。そこで彼らは大声に呼ばわり、彼らのならわしに従って、刀とやりで身を傷つけ、血をその身に流すに至った。こうして昼が過ぎても彼らはなお叫び続けて、夕の供え物をささげる時にまで及んだ。しかしなんの声もなく、答える者もなく、また顧みる者もなかった。』(1列王記18:27-29)
エリヤのほうは、自分の神である主に祈り求めたような行動は、一切していない。
なぜなら、「主に定められた時」ではなかったからだ。
身勝手な時に、身勝手な方法で、身勝手な熱心に基づいて行なう礼拝は、全く無駄なのだ。

バアルの預言者達は、叫び踊っていたばかりでなく、互いを刃物で傷つけ、血を流すまでになった。
何百人もの人々が踊り狂いながら、刃物で血を流し合う。
なかなかの壮観だったろう。
見ていた人々は、今度こそ、何か起こるのではないか、という気がしたかもしれない。
しかし、「何もおきない」という事実が厳然と残るのみで、人々のバアルに対する期待は失望に変わり、やがて怒りへと変わっていく。
そうこうしている内に、主が定められた「夕暮れの捧げ物」の時刻が近づき、そして、エリヤが動き出す。

『その時エリヤはすべての民にむかって「わたしに近寄りなさい」と言ったので、民は皆彼に近寄った。彼はこわれている主の祭壇を繕った。』(1列王記18:30)
主の御名は今までずっと軽んじられっぱなしで、その時、主の祭壇は壊れたままだった。
祭壇も、主の家も、礼拝の場である。
生活を良い方に立て直したいのなら、まず、礼拝の立て直しから始めるべきである。

その人の中で、主を礼拝する「祭壇」が壊れたままなら、働いても働いても、なお暮らしは楽にならない状態なのだ。
『「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。
万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。』(ハガイ1:4-8)
礼拝の立て直しを始めるなら、その時から主が動いて下さり、実生活の立て直しが始まるが、礼拝が壊されたまま放置しているなら、どんなに血を流すほどの熱心があっても、バアルの踊りと同じように、何も起きないのだ。

『そしてエリヤは昔、主の言葉がヤコブに臨んで、「イスラエルをあなたの名とせよ」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取り、』(1列王記18:31)
十二の石を取る事は、モーセも、ヨシュアも行なった。(出エジプト記24:4,ヨシュア記4章)
これは、エホバであられる主にあって為している事のあかしとして行なっているのだ。
私達も、どなたを神としているのか、その所在を明らかにしておく必要がある。
一体、今、どなたを礼拝しているのか。「どの神」にあって、今、この事を行っているのかを。

『その石で主の名によって祭壇を築き、祭壇の周囲に種二セヤをいれるほどの大きさの、みぞを作った。また、たきぎを並べ、牛を切り裂いてたきぎの上に載せて言った、「四つのかめに水を満たし、それを燔祭とたきぎの上に注げ」。』(1列王記18:32-33)
雨が降らない時期の水は、とても貴重であるが、エリヤは、それを主の祭壇に注げ、と、人々に言う。
水を注いだら、火がつくのがもっと困難になってしまうばかりでなく、貴重なものを注ぐわけだから、ちょっとやそっとの覚悟では出来ないが、人々はそれをした。
エリヤはさらに、それを2度せよ、3度せよ、と言った。
こうして、イスラエル部族の数と同じ、合計十二杯の水が祭壇に注がれた。

全く、バアルの預言者とは違った方法だ。
バアルの預言者達は、朝から熱心に騒ぎ立てながら祈ったのに、エリヤは、定められた時が近づくまで行動を起こさなかった。
バアルの預言者達は、派手なパフォーマンスをして人々にエンターテイメント性を感じさせる事を行なったのに対し、エリヤは人々を楽しませる事は一切せず、むしろ、貴重な水を主の祭壇に注がるという「捧げもの」をさせた。
礼拝とは、人間のエンターテイメントではない。人がサービスを受けるものではない。
礼拝とはサーヴィス、すなわち、仕える事や捧げる事を意味するものであり、主をエンターテインさせる(喜ばせる、もてなす)事である。

このように、人の側が主を敬い、主に捧げる行動をとる時、主は物事を動かされる。

王としての本格トレーニングが始まるダビデ(1サムエル記18:1-16)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

サムエル記は歴史書であるが、同時に非常に優れた「帝王学」の書である。今回もダビデから、また、彼の周辺の人々から、神の国において、王たるに相応しい者の性質と、相応しくない者の性質とを学びたい。
ゴリヤテを倒した事は、終わりではなく、神様による本格的なトレーニングの始まりだった。
ダビデはつい前日まで野における羊飼いだったが、サウルが召し抱えた日以降、彼はそうではなくなり、今までは全く経験した事が無い所を、否が応でも通らされる。主に用いられるなら、その気がなくても否が応でも有名になり、多くの人々から賞賛と寵愛を受け、同時に妬まれ、脅かそうとする者も現れて来る。
ダビデが信仰によって勝利した事を大いに喜んだのは、サウルの子ヨナタンと、イスラエルの人々だった。
ダビデとヨナタンは、生い立ちも立場もと著しく異なる。一方は王子で長男で、時期の王と注目されていたが、他方は末っ子で、羊飼いで、家の中でさえ軽んじられていた。それでもヨナタンは、身分差別とか、自分の将来の邪魔になるのでは、といった「要らぬ心配」など一切無く、貴重な武器も防具も惜しげなくダビデに与え、彼を愛した。それは、生ける神を信じる信仰者は、身分や国籍など関係なく、互いの内におられる主に惹きつけられ、意気投合し、血が繋がった実の兄弟姉妹以上の親しさを覚えるからである。
『ダビデはどこでもサウルがつかわす所に出て行って、「てがらを立てた(セィケル:思慮深くやった、うまくやった KJV:behaved himself wisely)」ので、サウルは彼を兵の隊長とした。それはすべての民の心にかない、またサウルの家来たちの心にもかなった。』(5節) ダビデは若干にして戦闘部隊の長になった。
会社では、上司が著しく年下だと、関係が崩れやすいものだが、ダビデの場合、そうではなかった。
なぜなら彼は羊飼いの心で、部下の面倒を良く見、戦いでもいつも先頭に立って戦い、「思慮深く、うまく」やっていたため、いつも圧倒的な実績を収めていたからだ。それで誰もが安心してついて行けたのだ。
彼はこうして、急速に有名になり、名声を得、誰もが彼を愛し、急速に社会的に地位を得て行く。
それと同時に、今まで経験した事の無い、人間のどろどろした物事も経験して行く事になる。

サウルの部隊が戦いに勝利して凱旋した時、女達はすべての町々から出てきて、喜び歌いながらサウル王を迎えるのだが、その歌った内容は、「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」だった。
ダビデは、羊を飼っていた時、羊達からありがとうの言葉をもらった事は無かったし、命がけで熊を倒した時も、羊達は歌と踊りと華やいだ歓声で迎えてくれなかった。今まで得ていなかった名声を得、異性からもてはやされる事は、大きな誘惑であり、その、「最初の世からの攻撃」によってダメになってしまう人は多い。
しかしダビデは、その点も「うまく」やった。彼があらゆる点でうまくやる事が出来たのは、彼は心を世に向けず、ただ主に向けており、主から知恵と守りを得ていたからだ。そして、羊飼いの心を変えなかった。
名声を得たとたんダメになってしまう人は多いが、ダビデの生涯、誰かに嫉妬した記述は1つも無い。ヨナタンも同じである。彼らはその点クリアだったが、サウルは違った。サウルは女達の歌を聞いて非常に怒り、妬み、不満に思った。部下の活躍を素直に喜ばず、妬み怒るのは、リーダーとしては非常に悪い兆候だ。
ねたみ、怒り、邪推、それらの感情への執念深さ、これらは、最も悪霊が好むものである。
『その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で「狂いわめいた(ナーバー:預言した)」。ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。』(10節) 槍は王宮の中では必要無いはずなのに、サウルは槍を握っており、対してダビデは、主を賛美する楽器を持っていた。
ナイフを持ち歩きたがる人がよく職務質問されるのは、表情が悪いからだが、サウルはもっと悪かった。
 『サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思ったからである。しかしダビデは二度も身をかわした。』(11節) ここで特筆すべきは、二度、それらの事があった、という事である。ダビデは槍を投げられ、それをかわした後、再び楽器を取って賛美を弾き始め、サウルはもう一度槍を投げたのだ。
悪霊は、賛美をする人を極端に嫌い、槍を投げつけるが、主は守られる。サウルが倒せなかったゴリヤテを倒したダビデであるが、彼はサウルに仕返しする事も脅す事もせず、ただ全能者の御手に委ね、賛美による悪霊を追い出すミニストリーをした。まさにイエス様の性質であり、私達も身につけるべきものだ。
キリスト者は、いつも死に渡されているようでいて殺される事は無い。主は、振りかかる全ての困難を通しダビデを守り鍛えられたように、私達をも、王族の祭司として整えられるまで、全てを支配し、守られるからだ。
ダビデのようにただ心を主に向け、あらゆる点で「うまくやる」知恵と力が与えられる皆さんでありますように!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
蔑まれてもなぜか蔑まれない事になる主のしもべのひみつ(イザヤ50:4-9)
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レベルアップの一番の近道:神の国とその義とをまず第一に求める事(マタイ6:31-34)
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指名手配されていたエリヤ、アハブ王と異教の預言者達850人を動かす(1列王記18:16-21)
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いよいよ3年半の沈黙を破って、エリヤが動き出す。

『オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会おうとして行った。アハブはエリヤを見たとき、彼に言った、「イスラエルを悩ます者よ、あなたはここにいるのですか」。彼は答えた、「わたしがイスラエルを悩ますのではありません。あなたと、あなたの父の家が悩ましたのです。あなたがたが主の命令を捨て、バアルに従ったためです。』(1列王記18:16-18)
アハブは、エリヤがイスラエルを煩わせる者だ、と言ったが、真逆だ。
主は、何百年も前から、あらかじめ宣告しておられた。
何をすれば雨が降り、何をすれば、雨が降らなくなってしまうのかを。

『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。
あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう。』(申命記11:13-16)

この申命記の箇所は、メーズーザーと呼ばれ、イスラエル人の家ならどこでも家の柱にこの言葉が打ち付けられているほど、重要かつ有名な御言葉である。
何百年も前から既にあらかじめ主から言われていたというのに、彼らはそれを無視し、自分勝手に迷い出て、その身に災いを招いたのだ
アハブは、家畜を生かすための草を探しに行ったが、そんな事よりも、家畜のために野に草を生えさせて下さる主こそ、求めるべきだったのだ。
私達も、人生にききんや干魃、敵ののさばりによって、苦しめられているとしたら、まずは自分の胸に手を置き、主の言葉を軽んじていないかどうか、点検すべきだ。

『それで今、人をつかわしてイスラエルのすべての人およびバアルの預言者四百五十人、ならびにアシラの預言者四百人、イゼベルの食卓で食事する者たちをカルメル山に集めて、わたしの所にこさせなさい」。そこでアハブはイスラエルのすべての人に人をつかわして、預言者たちをカルメル山に集めた。』(1列王記18:19-20)
イゼベルはなんと、計850人もの偶像に仕える者たちを、国費で居候させ、ききんの時代の貴重な食料を、彼らにやって、飲み食いさせていたのだ。
イスラエルはまさに、イゼベルという一匹の狐によって好き放題荒らされ、その代わり、人々は飢えさせられている状況だったのだ。

ここで興味深いのは、王も、異教の預言者850人も、人々も、皆、エリヤの指示通りに動いた事だ。
3年半もの指名手配して徹底的に探し、ようやく目の前に現れたエリヤなのに。
アハブはどうして彼を見つけ次第、拘束する事なく、彼の言った通りに動いたのか。
それは、エリヤの側に、万軍の主がついておられるからである。

主の側につくたった一人の預言者が、偶像礼拝の者達の場を支配する。
世の中は、そういうものである。
主の御言葉によって創られたこの世は、主の御言葉に従う信仰者一人に対し、恐れをなし、従うのだ。

『そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。』(1列王記18:21)
預言者は訴える。
あなたは、主を神とするのか、それとも、そうでないものを神とするのか。
表明せよ、とのエリヤの叫びに、人々の反応は「沈黙」で返した。
本当に情けない状況である。

神である主こそ万軍の主、力ある神である。
そう聖書に書いてあるのに、現実を見るとあたかも現実のほうが主である神より力を持っているかのように錯覚し、あたかも、聖書に書いてある事のほうが机上の空論であるかのように思えてしまう人は、多い。
なぜなら、主は目に見えないお方であり、このお方にあって歩むには、信仰を働かせる必要があるからだ。

信仰生活は、この世から天の霊的世界へと歩み続けるようなもので、足を使わずにいるならどんどん弱って歩けなくなってしまうように、信仰も、働かせないでいるなら、どんどん弱って、信仰の歩みができなくなってしまう。
信仰生活は、永遠へと通じる霊的生活であるが、目に見える現実に対し信仰を働かせず、自分の肉体や知識をやりくりして生きる「肉的生活」では、自分の力ではどうにもする事もできない現実に対して、対処する術がない。
しかし、信仰を用いて主に委ねるなら、どんな現実も問題も、対処可能だ。なぜなら主は、この現実世界を創造され、全権をもって支配しておられるからだ。
『するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」』(マルコ9:23)
『よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。』(マルコ11:23)

人は、信仰を働かせて御言葉に自分自身を従わせるより、信仰を働かせないで世の諸々をぼんやりながめているほうが、肉的に楽である。
しかし、そのように霊的になまけてばかりいるなら、いざ、自分の目の前に現実の山が立ちはだかった時、何も対処できないままに飲まれてしまう。
『わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。それゆえ、貧しさは盗びとのように、あなたに来、乏しさは、つわもののように、あなたに来る。』(箴言24:30-34)
私達の人生という畑は、夫婦関係が、親子関係が、経済状況といった「石がき」は、崩れ果てていないだろうか。
崩れた防護壁の隙間から、きつねが出入りし放題になって汚されてしまったり、大事なものが奪われ放題にされてしまっていないだろうか。
当時のイスラエルは、まさにその状態だった。
長らく信仰の石垣がくずれたまま放置し、イゼベルというきつねがやりたい放題し、主の預言者が殺され、異教の神々に貴重な食料が食べられっぱなしで何も出来ない、情けない時代だった。
そして当時の人々は、主があらかじめ言っておられた御言葉さえ分からず、よろめいていた。

そのような、霊的虚弱状態にある人々に、主はエリヤを送り、奇跡をもってご自身が生きておられる事を示される。
奇跡は、御言葉だけで信じられない、弱い人々のために、起こされる。
それは、主が生きて働いておられる事を示すためだ。
それ故、御言葉に聞こうとせず、奇跡ばかり求める人は、健全な食生活を怠って、モルヒネばかり求める人のようだ。
私達は、特効薬ばかり求めるのではなく、日々、健全な御言葉の食事を噛み締め、味わい続けるべきなのだ。
『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである。』(ヨハネ20:29)

教会が誕生したばかりの時代、聖徒たちは、主の「言葉」だけでは信じ切れない人々が、信じられるようなるために、しるしと奇跡を行わせてください、と祈り求めた。
『主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。』(使徒4:29-30)
信じない世代の中において、私達も、求めるべきである。
「聖なる僕、イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい。」と。
僕とは、気が向いた時だけ従う者ではなく、いつでも、自分がどんな思考を持っていようとも、いつでも御言葉に従う者だ。

この時代、主のしもべとして、信仰を混ぜた御言葉を口から発し、エリヤのように、不信仰な時代の人々を信仰へと突き動かして行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ピリピ人への手紙 講解説教メッセージ
いつも前進して行くべき信仰者(ピリピ3:12-16)
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オバデヤ - 干魃で主に呪われてなお行状を改めない王に仕える信仰者(1列王記18:1-15)
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『多くの日を経て、三年目に主の言葉がエリヤに臨んだ、「行って、あなたの身をアハブに示しなさい。わたしは雨を地に降らせる」。』(1列王記18:1)
主は、不従順なイスラエルに対する審判として、干魃の日々を送られたが、その日々に、終わりを告げられる。
アハブやイゼベルは、この審判を通して悔い改めたかというと、そうではなかった。
なぜその状況で、主は再び雨を降らせて下さるか。
イスラエルには、わずかながらでも主を恐れる人々が残っているが、もし彼らが、霊的にも物質的にもききんの状況があまりに長く続くなら、耐える事は出来ないだろう。
そんな彼らを憐れまれる故であろうし、また、主を軽んじていた者たちに対して、主こそ天地を支配しておられる神である事を知らせるためでもあろう。
イゼベルも、アハブも、そして多くのバアル神(元々はカナンの豊穰神)を信仰するイスラエルの民も、この干魃がやむように祈ったであろうが、まことの神である主を差し置いてそのような偶像の神々に頼る事は、全く愚かである事を、この事を通して思い知らされるのである。

『エリヤはその身をアハブに示そうとして行った。その時、サマリヤにききんが激しかった。アハブは家づかさオバデヤを召した。(オバデヤは深く主を恐れる人で、イゼベルが主の預言者を断ち滅ぼした時、オバデヤは百人の預言者を救い出して五十人ずつほら穴に隠し、パンと水をもって彼らを養った)。』(1列王記18:2-4)
イゼベルは、主の預言者たちを虐殺していた。
神の国であるはずのイスラエルが、国家権力によって主のしもべ達を組織的に虐殺するのは、未だかつて無かった事だ。
イゼベルがいかに邪悪な者であるかを物語っている。

北イスラエル王国では、今まで主を恐れ敬う王が一人もいなかったが(またその後も無いのだが)、そんな中、オバデヤのような主を恐れ敬う高官が存在する事も、特筆すべき事だ。
そのような人達が残っている限り、主は、彼らが耐え切れないような世の中にならない内に手を打って下さる。

『アハブはオバデヤに言った、「国中のすべての水の源と、すべての川に行ってみるがよい。馬と騾馬を生かしておくための草があるかもしれない。そうすれば、われわれは家畜をいくぶんでも失わずにすむであろう」。彼らは行き巡る地をふたりで分け、アハブはひとりでこの道を行き、オバデヤはひとりで他の道を行った。』(1列王記18:5-6)
アハブ王は自ら、馬や騾馬を生かすための草を探しに行った。

馬は、戦争で用いる動物で、毎日たくさんの草を食べる。
長い干魃によって苦しんでいる人を生かすためでなく、戦争の動物である馬を生かす目的で、水源や川を査察しに行く所を見るに、彼は、軍事力を強化するためには平気で国民からむしり取り、人民が飢えて死んでもかまわないような王なのだろう。

『オバデヤが道を進んでいた時、エリヤが彼に会った。彼はエリヤを認めて伏して言った、「わが主エリヤよ、あなたはここにおられるのですか」。エリヤは彼に言った、「そうです。行って、あなたの主人に、エリヤはここにいると告げなさい」。』(1列王記18:7-8)
オバデヤは、自らエリヤを「わが主人」と呼んだが、エリヤは彼に、アハブの事を「あなたの主人」と言った。
オバデヤはとてもアハブを恐れているからだ。

『彼は言った、「わたしにどんな罪があって、あなたはしもべをアハブの手にわたして殺そうとされるのですか。』(1列王記18:9)
唐突な反応である。
このように、「えっなんで突然そういう話になるの?」とびっくりするような反応をしてくる人は、圧迫と不安の中を長らく過ごして来た人である事が多い。
彼は高官であっても、アハブにいつ殺されるか分からない恐怖の中を、長らく過ごして来た。

『あなたの神、主は生きておられます。わたしの主人があなたを尋ねるために、人をつかわさない民はなく、国もありません。そしてエリヤはいないと言う時は、その国、その民に、あなたが見つからないという誓いをさせるのです。あなたは今『行って、エリヤはここにいると主人に告げよ』と言われます。しかしわたしがあなたを離れて行くと、主の霊はあなたを、わたしの知らない所へ連れて行くでしょう。わたしが行ってアハブに告げ、彼があなたを見つけることができなければ、彼はわたしを殺すでしょう。』(1列王記18:10-12)
アハブは、エリヤを見つけ出すために、そこまで徹底して来たのだ。
このような時勢の中において、オバデヤは主の預言者100人をかくまうという良い事をしたのだが、彼は、起きてもいない事柄を悪い方へと先回りして考え、いらない恐れに満たされてしまっている。

『しかし、しもべは幼い時から主を恐れている者です。イゼベルが主の預言者を殺した時に、わたしがした事、すなわち、わたしが主の預言者のうち百人を五十人ずつほら穴に隠して、パンと水をもって養った事を、わが主は聞かれませんでしたか。ところが今あなたは『行って、エリヤはここにいると主人に告げよ』と言われます。そのようなことをすれば彼はわたしを殺すでしょう」。』(1列王記18:12-14)
彼はさらに、聞かれてもいない事を、すなわち、今まで自分がして来た良い事を並べ立てる。
これは、いつ下されるか知れない罰が極力減らされるようにと、恐怖政治の下で身に染みてしまった行動パターンなのかもしれない。

主へのあかしをたてる人々を次々と虐殺して行く王の元、主への信仰をかろうじて保ちながら怯えつつ暮らして行くと、心がしなえてしまうものである。
オバデヤは信仰を振り絞って主の預言者100を守り、養ったが、そろそろ限界が来ていたようだ。
主は、そんなわずかな人々を救うために立ち上がり、事を行われる。

『エリヤは言った、「わたしの仕える万軍の主は生きておられる。わたしは必ず、きょう、わたしの身を彼に示すであろう」。』(1列王記18:15)
オバデヤに比べ、エリヤはなんと心強いだろう。
邪悪な時勢では、世の中で高い地位に上って恐々と信仰生活する人よりは、多少貧しくとも、信仰によって世から離れ、主御自身から直接養われている人のほうが、強いのだ。

この終わりの時代、アハブの治世下のように、信仰生活を送るのが困難な時代になって来るかもしれない。
天地を創られた主を無視し、偶像礼拝を推し進めるような国、人を生かす事よりも軍備強化に力を入れるような時勢になるとしても、主への誠実を守り、信仰によって主に養われ、エリヤのように強く凛々しい主の尊い働き人として、大いに用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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