メッセージ - 201608のエントリ

きよく保つべき「主がおられる所」(申命記23:9-14)
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やもめへと遣わされたエリヤと、エリヤを養うよう命じられたやもめ(1列王記17:7-16)
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不従順なイスラエルへの審判として、主から干魃が送られた時、エリヤは主の命令によって、ケリテ川のほとりに住み、そこでカラスによって養われていた。

『しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。その時、主の言葉が彼に臨んで言った、「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。』(1列王記17:7-9)
シドンといえば、イスラエルに災いをもたらした、あの邪悪な女・イゼベルの出身地である。
しかし、シドンには邪悪な者しかいない訳ではなかった。エリヤを養うようにと、主から命令を受けたやもめもいたのだ。

『そこで彼は立ってザレパテへ行ったが、町の門に着いたとき、ひとりのやもめ女が、その所でたきぎを拾っていた。彼はその女に声をかけて言った、「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください」。
彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。』(1列王記17:10-12)
彼女は、当時の人々の罪の結果のとばっちりを受け、最後のわずかな食料を食べて、彼女も、彼女の子も、死のうとしていた。
そして、その最後の料理するために、薪拾いをしている最中、彼女は偉大な預言者から声をかけられる・・・。

本当に不思議である。
どう見ても、彼女は誰かを養う能力も資力も無い。
なぜ預言者を養うはずのやもめが、こんなにも貧しく、追いつめられているのか。
なぜエリヤが遣わされる先が、イスラエルの誰か、ではなく、シドンのこのやもめなのか。
イエス様はその故郷において、この第一列王記を引用し、メッセージしている。

『「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。』(ルカ4:24-26)
イエス様は「預言者は故郷では歓迎されない」事を伝えるために、イエス様はこの箇所を引用した。
つまり、エリヤの時代、イスラエルにも沢山、やもめはいたものの、この偉大な預言者エリヤを歓迎するやもめはイスラエルの中において、一人もいなかったという事だ。

不信仰な時代、預言者を誰も受け入れようとせず、むしろエリヤは指名手配が出されているような状態で、彼を見つけたなら、即アハブ王に報告するよう命令が出されているような状況であった。
それでエリヤは、イスラエルの誰にも遣わされる事なく、異邦の国・サレプタのやもめへ「遣わされた」のだろう。

主はサレプタの「やもめ女に命じてあなたを養わせよう」とエリヤに言ったが、どうも彼女は、主から命じられたような感じではない。
もし彼女が、主から命じられたという意識があったなら、エリヤを見るなり「お待ちしておりました、さあどうぞこちらへ」と言いそうなものだが、そうではないし、それどころか、彼女にはその能力も持ち物も無い。

主は、当人にその意識があるにしろ無いにしろ、資力があるにしろ無いにしろ、その人の心に、その人の信仰に応じたミニストリーを「命じる」事がある。
なぜなら主は、全世界を見わたし、一人一人の生活の中における主への従順やこころざしを常日頃ご覧になっておられ、それぞれに対し、この時代のこの時、この事をするようにという志を立てさせて下さるのだ。
『あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。』(ピリピ2:13)
その時、たとえ主から命じられた「記憶」は無くても、持ち物や時間、お金が無くても、これこれの主の働きをしなくては、という意識が湧き上がり、その使命感に突き動かされて行く。
そうして信仰によって突き動かされて行った時、必要な志も、持ち物も、時間も、お金も、主が用意して行くものである。
サレプタのやもめには、日頃の信仰や従順から、信仰によって預言者を養う素地が出来上がっていたのであり、決して、宝くじに偶然当選するかのように、ききんの時代に生き残れる事に選ばれたのではなかったのだ。

エリヤが彼女に一口のパンを求めた時、彼女は「あなたの神、主(エホバ)は生きておられます」と言った。
この言葉は、「これから私が言う事は偽りなき真実です」という意味の、イスラエル風の独特の言い回しではあるが、ともかく彼女はエホバなる主の御名を用いている。
つまり彼女は、元々、主を敬う信仰の持ち主だったのであり、だからこそ主はエリヤに彼女の所へ行くように示されたのだ。

『エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。』(1列王記17:13-14)
ある人がここを読むと、エリヤは、とても「人でなし」な事を言っていると見なす。
やもめと子供の最後の食料を、まず自分に差し出せ、と。もしそれでエリヤが食べて終わりなら、それほど酷い話はない。
しかし、信仰ある人は「主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」という言葉に、大きな希望を見出す。
自分も、子も、そして預言者も、主からの直接の養いを受けるのだ、と。
その希望の根拠は、『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』という、イスラエルの神、主の言葉だ。
エリヤの言葉を、非道いと取るか、それとも希望に取るか。
それは、その人の信仰次第である。

彼女はエリヤを通した主の言葉に、ただ、行いをもって答えた。
『彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。』(1列王記17:15-16)
主の偉大な栄光が、ここに現れた。
それは、彼女が主の言葉の通りにしたからだ。
主の偉大な栄光が現れるためにはどうすればいいか。それは単純に、主の御言葉どおりに行動する事であり、それ以上でも以下でもない。
こうして彼女は、エリヤの言葉どおり実行した事で、本当に粉は尽きず、油も尽きず、自身も、子供も、預言者も、ききんの間それによって養われた。

牧師を何年かしていると、彼女のように、最後の粉や油を差し出されるような事がある。
その時、彼らのその状況と心を見るに、人情としては、とても受け取れるような心境にはなれない。
ダビデが、三勇士が命がけで持ってきた水を、自分が飲む事は出来ず、そのまま主へ注いだように(2サムエル記23:17)、ただ主に差し出して「主よ、絶対彼らを養って下さい」と、深く祈る以外には無い。
エリヤはカラスの手で養われていたが、そのように、一人ひっそり養われているほうが、よほど心苦しい思いをしなくて済む、と思った事もあるが、それは間違いであった。

主は、信仰ある彼女が、飢えて死なないようにするために、彼女のために預言者を「遣わされた」のだ。(ルカ4:24-26)
そして預言者からすれば、主は預言者を養うために、彼女を主から命を受けたミニスターとして用意されたのだ。(1列王記17:9)
双方とも、はじめはその事が分からなくても、双方が御言葉どおり行った時、はじめてその事が分かるのだ。
これらの事は、信仰ある兄弟姉妹、共々、主への感謝が増し加わるためであり、互いに与え合う事によって、全てのものを惜しみなく分け与えて下さる方への感謝が、それぞれが捧げる事を通して、増し加わっていき、互いに豊かになって行くためである。
もし、カラスがただ必要を運んで来るだけでは、主の栄光も、信仰者達が受けるべき冠も、決して味わえないままだ。

『神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」/と書いてあるとおりである。種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。
こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。』(2コリント9:8-12)

主に心から捧げる人には、主はこのようにして、決して尽きない主の栄光を見る事が出来、そしてききんの時代にあっても、物質的な養いを受ける事が出来る。
この、霊的ききんとも呼べる時代、働き人を養い、あるいは養われ、こうして双方とも主からの豊かな養いを受け、栄光をあらわす皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

生ける神の陣を呼び込んだダビデ(1サムエル記17:1-37)
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週報/メッセージ(説教)概要

 前々回、ダビデや信仰の先人達が皆経験した「羊飼い」という性質の重要性を見たが、今回は、偉大な王とへと成長して行くダビデが、いかに常人とは違った「神の国の考え方」を持っていたかを見たい。
イスラエルにペリシテが攻めてきた時、ペリシテの代表戦士・ゴリヤテが一騎打ちを申し出て来た。
彼は巨人アナクの子孫で、身長286cm、鎧は57kg、投げ槍は穂先だけでも7kg。彼は言った。一騎打ちする者を出せ、自分を倒せたらお前達の奴隷となってやる、もし自分が勝ったら、お前達が奴隷となれ、と。
人々は彼を恐れ、40日間何も出来ず、いいように言われる屈辱の日々を送った。モーセの時代も、アナク人はイスラエルに罠となった。当時もイスラエルはアナク人を恐れ、約束の地に入る事を拒み、40年の荒野生活を強いられたが、今回もサウル王をはじめ、イスラエルの人々は恐れ、40日、右往左往していた。
ゴリヤテは大上段から、一方的に、彼が決めたルールを押し付けているが、世の、主を敬う事の無い「無割礼の」、大上段な力強い言葉を鵜呑みにするなら、意気消沈し、ただなぶりものにされるだけである。
私達も、目の前に立ちはだかる「現実」「世情」といったゴリヤテの巨大さ・力強そうな有り様を見て、恐れたり、無割礼の者が発信して来る諸々の情報に振り回されてなぶりものにされていないだろうか。
ゴリヤテは「お前達はサウルの奴隷ではないか」と言った。イスラエルの戦士達は、万軍の主のしもべであり、主にあって何者にも勝利するはずである。それなのに皆、ゴリヤテの言葉を鵜呑みにして、神のしもべではなく、恐々なサウルのしもべになってしまっている。世に流れている無割礼のことばは、社会やメディアを通じて私達にもレッテルを張ってくる。「おまえは社会の奴隷ではないか、**会社の奴隷ではないか、おまえは年収**になって、あれとこれを手に入れないなら、おまえの人生は終わりだ」などと。
無割礼のことば、無割礼の強大な者に勝利する秘訣は、真理の言葉を、信仰を混ぜて宣言する事である。

ゴリヤテを打ち倒したダビデは、どうだったか。彼は、父の羊を飼う、紅顔の美少年だった。体重はゴリヤテの鎧ほどにも満たなかったろうし、父の家でも、軽んじられていたが、彼がゴリヤテの言動を見た時、憤りに満たされ、言った。「この割礼なきペリシテびとは何者なので、生ける神の軍をいどむのか。」(26節)
他の大人達はゴリヤテの外見や装備を見て恐れたが、ダビデには一切眼中に無く、ただの「無割礼の者」だとし、それに対して自分達は「生ける神の陣」として、「真理の立場」を表明した。偽りの者や割礼無き世の者が大げさに迫って来る時、私達は真理の言葉を信仰を混ぜ込んで宣言するのだ。世の中は、私達神の民が真理を宣言し、真理の御言葉に従う時、霊的世界が動き、そして現実世界も動き出すのだから。
ダビデが宣言した「生ける神の陣」とはどういうものだろう。申命記23:9-13に記されている。
生ける神の陣営は、聖なる所、聖なるお方が歩まれる場所である。『ゆえに陣営は聖なる所として保たなければならない。主があなたの内に汚い物のあるのを見て、離れ去られる事のないためである。』(申23:14)
ダビデは、聖なる主のために清く保つべき所を、汚れた者に好き放題させていた人達にも憤りを覚えただろう。私達も人生の中、家庭の中に、きよい主を呼びこむためには、自分をきよく保つべきだ。そして、聖なるお方が宿るべき所を、無割礼の者が好き放題にして汚しているのを見たなら、大いに憤るべきだ。
ダビデの長男エリアブは、末っ子・ダビデが、陣営の中で色々な人と話しているのを見て、責めた。年長者の身内が、信仰を挫く事を言って来る時、結構、折れやすかったりするが、ダビデは全く動じなかった。
サウル達もエリアブも信仰が無かったため、「神の陣」ですらなかったが、ダビデは信仰によって、たった一人で「生ける神の陣」を張ったのだ。生ける神の陣が一人でも張られるなら、勝利の主が戦われる。

サウルがダビデを呼び寄せた時、ダビデは、自分が行ってあのゴリヤテを討ち取って来る、と言った。
サウルは、羊飼いの少年が根拠の無い全能感に駆られ大ごとを言っている、と思ったかもしれないが、根拠はあるのだ。彼は父の羊を飼っている時、ライオンや熊が、羊をさらって行こうとしたのを追いかけ、撃ち殺したのだ。彼は誰も見向きもしない羊飼いの仕事をしている間、王の性質と力と信仰を学んでいたのだ。
ダビデは、自分には獅子や熊を殺す力があるぞ、ではなく、獅子や熊から羊を救い出す力を与えて下さった主が、勝利をもたらして下さる、と、信仰告白をした。あくまで主の力こそ、勝利の鍵なのだ。
私達も、目の前に、世の強者が立ちはだかる時、真理の立場を表明し、生ける神の陣を張るべきである。
その時、勝利の主が戦いに立たれ、世の無割礼の敵は、この万軍の主の御前に倒されて行くのだ。

神のことばを離れると(民数記11章)
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金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
16万年働いても返せないような罪の借金を帳消しにする秘訣(マタイ18:21-35)
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エリヤ - 最も暗い時代に遣わされた、最も偉大な預言者(1列王記17:1-6)
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北イスラエル王国が主の目の前に悪を行い、それによる諸々の災いによって荒れすさんでいく中、主はなおも、北イスラエル王国を愛され、立ち返らせようと、度々預言者を遣わして来られたが、彼らは尽く、立ち返らなかった。
そして、闇が最も深くなった時、主は、偉大な預言者・エリヤをその時代に遣わされる。

エリヤは、預言者の代表格的存在である。
ユダヤ人達は、以下のマラキ書の預言を元に、エリヤが来るのを今でも待ち望んでいる。
『見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。』(マラキ書4:5-6)

ユダヤ人達は過ぎ越し祭ではエリヤが来た時のための、空の盃を用意し、一連の祭りの最後で皆で盃にあずかる時、外にエリヤが来ていないかどうかを、子供に確認させに行く。
子供が扉を開けて、エリヤが来ていない事を確認すると、祭りの司式者である父親は「来年は必ず来る」と言って、家族皆で、以下の歌を歌うの習わしとしている。
「エリヤが来る。エリヤが来る。来年は必ず エリヤ来る。その後、ダビデの家にメシヤが来る。その後ダビデの家にメシヤが来る。」(キムヒョンジョン博士著 テフィリン P119)この伝統は今日でも続けられている。
それは、エリヤが来て、その後にダビデの子孫であるメシヤが来るとするなら、イスラエルが代々舐めてきた民族的な苦しみから解放される、という、神の約束を信じているからである。
しかし、それらはとんでもない思い違いである。

エリヤも、メシヤも、とうの昔に来たのだ。
『弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。』(マタイ17:10-13)

バプテスマのヨハネこそ、人々の心をメシヤであられるキリストへと向けさせるエリヤの役割を果たした。(マタイ11:14)
そして、メシヤなるキリストが来られたのに、当時の主だった人々は、バプテスマのヨハネも、イエス・キリストも否定してしまったのだ。
それでユダヤ人達は、今でも頑なにキリストがメシヤであられる事を否定し、エリヤの来るのを頑なに待ち望んでいる。

やがて、イスラエル民族は、自分たちが突き刺したお方であるキリストを受け入れる時が、必ず来る。その事も預言されている。
「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」(ゼカリヤ12:10)

その偉大な預言者エリヤはどのような働きをしたのか。
それが、第一列王記17章から、第二列王記の2章に至るまで、詳細に記されている。
この章以降、あたかも物語の主人公の座を彼が奪い、彼を中心にイスラエルの王が、そして王国全体が、彼を通して語られる主の言葉に振り回されて行く展開となって行く。

『ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。』(1列王記17:1)
この言葉が発せられて以降、3年半の間雨は降らないのだが、この時はイスラエル人々も、またエリヤ自身さえ、いつまで雨が留められているのかを知らなかった。
イスラエルの民は、エリヤの言葉どおりに起きた事の実体験をしたが、アハブは悔い改めず、逆にエリヤこそイスラエルに災いをもたらすものとして、彼を見つけ次第、捕らえるようにと、イスラエル全体におふれを出した。

主に失礼を犯した自分が悔い改めるのではなく、悪いのは御言葉を語った者だとし、神に心を向けず、また、自分の悪にも向けない。そのような人からは、災いがいつもつきまとって離れない。
御言葉によって戒めを受け、そして実際に望ましくない状況へ落ち込んでいったなら、その状況は主がご自身の立ち返らせようとして起こされたのであって、自分が悔い改めるべきである。
それをせず、逆に御言葉を伝えた人や、御言葉どおりの事が起きた状況を「逆恨み」するとするなら、それはアハブの道である。

エリヤは、最初から宣言している。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。」と。
つまり、イスラエルに雨が降らないのは、、エリヤのしわざではなく、彼が仕える主が為される事なのだ。
そして主は彼がアハブに捕らえられないように守り、その間の養いを与えられる。

『主の言葉がエリヤに臨んだ、「ここを去って東におもむき、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに身を隠しなさい。そしてその川の水を飲みなさい。わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう」。エリヤは行って、主の言葉のとおりにした。すなわち行って、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに住んだ。すると、からすが朝ごとに彼の所にパンと肉を運び、また夕ごとにパンと肉を運んできた。そして彼はその川の水を飲んだ。』(1列王記17:2-6)
主はエリヤを養うために、まず、ヨルダンの東に行けと指示された。
エリヤは、そこにかくまわれるのだが、この偉大な預言者を養うよう命じられたのは、なんと、カラスである。
カラスは律法では汚れた動物であり、カラスが運んできたものを食べるのは、律法を持たない私達でも嫌だが、それでも主はカラスに命じ、朝夕ごとにパンと肉を運んできた。
こんな時代であるからこそ、主は、その御言葉を忠実に伝える人を「宝」のように守り、カラスを用いられてでも、その人を養われる。
その時、主は、「ちょっとこの人は神様に用いられないだろう」というようなカラスのような人さえ用いられることがあるのだ。

この時代、主の目には、偉大な預言者をかくまい養う為に、不信仰なイスラエルの誰かを用いるよりは、カラスを用いたほうがましだ、と映ったのだろうか。
まさに、当時のイスラエルがどんなに情けない霊的状況であったかを示す、主からの大いなる「皮肉」である。

北イスラエル王国は、この干魃の間も、主に立ち返る事をしない。
しかし、どんな暗黒の時代でも、主は備えておられる。エリヤのような預言者を、そして、バアルに膝をかがめない七千人を。(1列王記19:18)

今のこの暗闇の時代、私達がイエス様を主とし、信仰を保って働くなら、私達こそ、主に備えられた「バアルに膝をかがめない七千人」であり、干魃のような時代であっても、主から養いを頂く保証を頂けるのだ。

 

イザヤ書 講解説教メッセージ
天地を創られた主による、神々に対する訴訟(イザヤ41:17-29)
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ピリピ人への手紙 講解説教メッセージ
テモテとエパフロデト - 主の尊い働き人たち(ピリピ2:19-30)
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アハブとイゼベル - イスラエル最悪の王の時代へ(1列王記16:29-34)
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『ユダの王アサの第三十八年にオムリの子アハブがイスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年イスラエルを治めた。オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。』(1列王記16:29-30)

アハブは、イスラエル最悪の王として有名である。
彼の統治は22年、統治期間としては決して長いとは言えないが、彼の統治中の出来事について、聖書は、詳細に記しており、第一列王記の16章から終わりの22章まで続いている。
それは彼と、彼の妻の悪業にまみれた暗い時代に対し、主が、預言者エリヤを通して為されるめざましいわざを通してイスラエルを立ち返らせようとする重要な出来事があったためだ。

『彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。彼はサマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。』(1列王記16:31-32)
彼が「彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った」と称され、彼に比べればヤロブアムはまだ軽いとまで言われた理由は、彼は、シドンの王の娘・イゼベルをめとった点と、バアル礼拝を導入した点である。

ヤロブアムは、金の子牛を造ったものの、それでもイスラエルの神の御名は保っていた。(12:28)
しかしアハブは、イスラエルの神を退け、全く異教の神であるバアル礼拝を導入した。
サムエルの改革以来、イスラエルの中でバアル礼拝は途絶えていたのに、それをわざわざ復活させたのだ。

アハブ王は、イスラエル全体を、バアルにひざをかがめるようにさせてしまったが、アハブ王をそのように仕向けたのが、彼の妻イゼベルである。
新約には、アハブの名は登場しないが、イゼベルの名は、主のしもべや民を惑わし、偶像礼拝や不品行へと導く女として登場する。(黙示録)

女の惑わしによって破滅してしまう出来事は、聖書でも、世界史でも枚挙にいとまがない。
最初の人・アダムがそうだったし、ノアの時代の神の子達も、サムソンも、ソロモン王も、みんな不信仰な妻によって惑わされ、滅びを招いてしまった。
「あなたの力を女についやすな、王をも滅ぼすものに、あなたの道を任せるな。」(箴言31:3)
どんな人と結婚し、また連合するかについては、よくよく注意すべきである。

『アハブはまたアシラ像を造った。アハブは彼よりも先にいたイスラエルのすべての王にまさってイスラエルの神、主を怒らせることを行った。』(1列王記16:33)
主はあらかじめ言われていた。異邦の神々に従うなら、かならず滅びる、と。(申命記8:19)
『あなたが行く国に住んでいる者と、契約を結ばないように、気をつけなければならない。おそらく彼らはあなたのうちにあって、わなとなるであろう。むしろあなたがたは、彼らの祭壇を倒し、石の柱を砕き、アシラ像を切り倒さなければならない。あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。』(出エジプト記34:12-14)
アハブはアシラ像を造り、主のねたみを引き起こしてしまった。

アハブは確かに主を怒らせる事を行なったが、主はすぐに彼らを滅ぼすわけではない。
「ねたみ」は、愛しているが故に沸き起こる感情である。
主はイスラエルを愛しているからこそ、立ち返るための機会と、そのための期間とを設けて下さる。

『彼の代にベテルびとヒエルはエリコを建てた。彼はその基をすえる時に長子アビラムを失い、その門を立てる時に末の子セグブを失った。主がヌンの子ヨシュアによって言われた言葉のとおりである。』(1列王記16:34)
ここに唐突にエリコが再建された記事が挿入されているが、アハブが行なった事と関連がある。

ヨシュアの時代、主はエリコの町を聖絶し尽くしなさいと言われ、一度、聖絶された。(ヨシュア記6:26-27)
しかしエリコの聖絶すべき物を惜しんで、それを隠し持っていたアカンは、イスラエル全体に災いを及ぼし、彼は家族もろとも滅ぼされてしまった。
主が「滅ぼし尽くせ」と言われたものを、復活させるのは、アルコール依存症だった人が、一度はアルコールを飲むのを止めたのに、再び飲む習慣を復活させてしまうようなものである。
それをするなら、以前よりももっと悪くなってしまう。
滅ぼし尽くす性質のものは、真剣に滅ぼし尽くし、それをしたなら、もうそれを「再建」してはならないのだ。

アハブは、滅ぼし尽くすべきものを再建させ、主のねたみを買い、災いを起こされてしまう。
主は、そんな彼と彼の時代を立ち直らせるために、素晴らしい預言者を遣わされる。

喜んで蒔く人の幸い(2コリント9:6-12)
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