メッセージ - 201609のエントリ
神の子の性質 - 罪を犯しても罪に留まり続ける事ができない(1ヨハネ3:1-12)
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- pastor 2016-9-23 21:30
悪い事をした記憶は無いのに、災いの絶えないという人がチェックすべき項目(1列王記21:17-29)
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- pastor 2016-9-21 17:50
悪い事をした記憶は無いのに、災いの絶えないという人がチェックすべき項目(1列王記21:17-29)
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アハブは再びエリヤと会合する。
『そのとき、主の言葉がテシベびとエリヤに臨んだ、「立って、下って行き、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いなさい。彼はナボテのぶどう畑を取ろうとしてそこへ下っている。あなたは彼に言わなければならない、『主はこう仰せられる、あなたは殺したのか、また取ったのか』と。また彼に言いなさい、『主はこう仰せられる、犬がナボテの血をなめた場所で、犬があなたの血をなめるであろう』」。』(1列王記21:17-19)
エリヤが主から呼ばれ、アハブと会うように言われたのは、アハブとイゼベルが共謀して義人ナボテを殺し、彼のぶどう畑を取り上げるために出かけるタイミングであった。
アハブはそれまで、主から、その身に見合わないほどの憐れみが与えられていたにもかかわらず、主に立ち返らず、また、警告を受けてもなお潔白な人の血を流し、その血塗られた地所を手に入れようとして出たその時、彼に与えられていた「主の憐れみの分量」は尽きてしまったのである。
『アハブはエリヤに言った、「わが敵よ、ついに、わたしを見つけたのか」。』(1列王記21:20a)
アハブ王はエリヤを見た時、会いたくない者に出くわしてしまったかのように、「敵」と評した。
しかしエリヤは別に、アハブに不当に危害を加えようとした訳ではなかった。
エリヤはただ、主の前で悪を行なってきたアハブに、何度も何度も警告して来ただけであったが、アハブは、言われても言われても聞かず、その故に諸々の天的な災難がアハブに起きて来ただけなのだ。
アハブはそんなエリヤを煙たがり、口うるさい男、不思議な奇跡を起こしてまでして自分を悩ます者、と、勝手な評価を下していたのだ。
『彼は言った、「見つけました。あなたが主の目の前に悪を行うことに身をゆだねたゆえ、』(1列王記21:20b)
原文的には、「あなたは、主の目に悪と見られるわざへと、あなた自身を売り渡したゆえ、あなたを見つけました。」となる。
悪のわざへと、自分自身を売り渡す・・・そう、彼はまさに自分自身を、そしてイスラエルの王権とを、イゼベルへと売り渡していた。
彼はイゼベルのアドバイスに従い、卑怯な手を用いてでも得られる「恩恵」に預かるために、彼女に言われるまま実行し続けて来たのだ。
私達も、サタン由来の悪しき意図のほうが御言葉よりも「得」だと思い、その体を売り渡し続けるなら、アハブと同じようなさばきを受ける者となってしまう。
アハブは、イゼベルを拒絶して、主に悔い改める機会は何度もあったのに、彼は結局、不当な利益を得たいがために、イゼベルに自分自身を売り渡してしまったのだ。
エリヤはそれで、主の言葉を伝えに行った。
『あなたが主の目の前に悪を行うことに身をゆだねたゆえ、わたしはあなたに災を下し、あなたを全く滅ぼし、アハブに属する男は、イスラエルにいてつながれた者も、自由な者もことごとく断ち、またあなたの家をネバテの子ヤラベアムの家のようにし、アヒヤの子バアシャの家のようにするでしょう。これはあなたがわたしを怒らせた怒りのゆえ、またイスラエルに罪を犯させたゆえです。
イゼベルについて、主はまた言われました、『犬がエズレルの地域でイゼベルを食うであろう』と。アハブに属する者は、町で死ぬ者を犬が食い、野で死ぬ者を空の鳥が食うでしょう」。』(1列王記21:20b-24)
いよいよアハブに対し、彼の一族郎党は、ヤロブアムやバシャの家同様、皆殺しにされてしまう宣告が下された。
アハブは、預言者に対してもイゼベルに対しても、神に対しても悪魔に対しても、全部「イエス」と言って肯定するような、どっちつかずの態度を続けていた故に、結局、あっちに迷惑をかけ、こっちに迷惑をかけ、主の裁きを先延ばしにし、そうして多くの人々に長時間迷惑をかけた末に、イゼベルに加担して、ようやく滅びの裁きが確定してしまった。
本来なら、もっと前にその宣告が降されても不思議ではなかった。
彼がイゼベルに従った罪ゆえ、全イスラエルに3年半のききんを呼んだ時、彼は立ち返らなかった。
エリヤを通して大いなるしるしが起きた時も、シリヤが攻めて来て到底勝ち目が無かったというのにそれでも主の憐れみによって勝利した時も、アハブは主に立ち返らなかった。
主は本当に憐れみ深く、忍耐深い。
しかし、それら全ての主に良くしていただいた事をことごとく無視し、なお、主の目に悪を行なったのだ。
『アハブのように主の目の前に悪を行うことに身をゆだねた者はなかった。その妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。』(1列王記21:25)
アハブの心は、イゼベルよりは悪くなかったかもしれない。自分から進んで悪を行う性質ではなかったかもしれない。
なにしろ、ナボテに語りかけた言い方には、やさしい気配りがみられる。
けれども彼は、イゼベルに選択権や裁量を明け渡した故に、イゼベルの悪の報いはアハブが刈り取る事になってしまった。
「悪を行うことに身を委ねる」、それこそ災いな性質である。
『彼は主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリびとがしたように偶像に従って、はなはだ憎むべき事を行った。』(1列王記21:26)
偶像礼拝を導入するアイデアが思いついたのは、アハブではなくイゼベルだったかもしれない。それでも結局、アハブの罪になってしまう。
歴代の王で、アハブより悪辣な者は、他に幾らでもいたかもしれない。
また、アハブには、民草を気遣う心遣いや、敵をゆるす寛容さも見られた。
しかし、どんなに心遣いや寛容さを為した記憶が、本人自身に沢山あったとしても、また、悪い事を実行した記憶は自身に無いとしても、悪い者に選択権を渡し続け、悪しき意図に同意し続けるなら、その悪辣な者の受けるべき報いは、自分自身に受け、その評判は「最悪」となってしまうのだ。
たとえ、心の中で「自分は悪くない」と思っていたとしても、自分のハンコを、悪用する人に委ねてしまうなら、そのハンコを用いて引き起こされたあらゆる不利な契約や負債は、委ねた本人の責となってしまうのは、この世の常である。
もし「なんで自分は悪い事をした記憶は無いのに、むしろ善良な心を貫いているのに、こんなにも人生、災い続きなのだろう」と感じるなら、自分の人生のハンコを、すなわち、本来自分が持つべき裁量権や選択権を「何者か」に委ねていないかをチェックすべきである。
もしかすると、その「何者か」は、何度も同じ過ちを犯す伴侶かもしれないし、もしかすると、それが「常識」と思っていた程に、無意識に浸透している事柄かもしれない。
たとえ本人自身の記憶に、悪い契約をした、という記憶が無かったとしても、「その者」にハンコを渡し、彼に取引や契約ごとを委ねるなら、悪いわざの報いを受ける事となってしまう。どんなに本人の心や体に、悪い事をした記憶が無いとしても。
『アハブはこれらの言葉を聞いた時、衣を裂き、荒布を身にまとい、食を断ち、荒布に伏し、打ちしおれて歩いた。』(1列王記21:27)
アハブは、エリヤが気に食わない事を言ったから彼を殺せと部下に命じるような事はせず、すぐに自らを低くする姿勢、悲しみを表す姿勢を取った。
彼は、エリヤの言葉を本気で受け止めたのだ。
そして主は、彼が食を断って打ちしおれて歩いた、その、わずかな悔いる行いを見逃さなかった。
『この時、主の言葉がテシベびとエリヤに臨んだ、「アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているゆえ、わたしは彼の世には災を下さない。その子の世に災をその家に下すであろう」。』(1列王記21:28-29)
ああ、主は何と憐れみ深いお方だろう。
ほんのわずかでも、悔いる姿勢を見せただけで、アハブの生きている時にその災いを見るのを免れた。
実際、アハブ一族にそのさばきが行われたのは、アハブの孫の代だった。
結局、アハブのように、誰に対してもイエスしか言わず、ノーを言わない、その「どっちつかず」の性質の持ち主は、長い間周囲の人々に迷惑をかけ続け、最後には「あの人、なんとなく優しくて、特段悪い事はしなかったけれど、結局、最低だったね。」と評価されてしまうのだ。
私達の中から、アハブのような性質を取り除くべきである。
そして主に対してはいつも熱い思いで仕え、たとえ罪を犯したとしても、ダビデのようにすぐに、悔い改める心を持ち、いつも主に直接伺い、何をしても栄える皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
いにしえの昔から私達の事を分かりきっておられた主(イザヤ44:1-8)
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- pastor 2016-9-21 17:40
世の価値観と神の価値観が相対する時(1列王記21:1-16)
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なぜアハブはイスラエル最悪の王と評されるのか。
その主な原因は、誰に対しても「イエス」と答えるけれど「ノー」を言えない、どっちつかずの性質ゆえであるが、そればかりでない。
彼は主から、見合わないほどの憐れみと助けを、何度も頂いておきながら、その時その時で「ラッキー」で終わらせ、学ぶ所が無く、主に恩を報いようとも、誠実に歩んで行こうともしない「恩知らず」であり、それでいて、主から叱責と警告をもらったら不機嫌になってふさぎ込む。
そのように、恩知らずでいい所どりの信仰、行き当たりばったりの信仰の彼であるが、その性質は21章において、ますますはっきりする。
『さてエズレルびとナボテはエズレルにぶどう畑をもっていたが、サマリヤの王アハブの宮殿のかたわらにあったので、アハブはナボテに言った、「あなたのぶどう畑はわたしの家の近くにあるので、わたしに譲って青物畑にさせてください。その代り、わたしはそれよりも良いぶどう畑をあなたにあげましょう。もしお望みならば、その価を金でさしあげましょう」。ナボテはアハブに言った、「わたしは先祖の嗣業をあなたに譲ることを断じて(主エホバにあって)いたしません」。』(1列王記21:1-3)
アハブは一見、何の変哲もない不動産売買を持ちかけているようである。
しかもアハブは、ナボテという平民に、好条件と気遣いを示したのに、それをナボテは断った。
ナボテのほうが不親切で偏屈者に見えるが、実は、御言葉に照らすなら、アハブのほうが悪く、ナボテのほうが正しい。
世の中の常識では、Aのほうが良くてBのほうが悪い、と見える事柄でも、実は神の国においては、Aのほうが悪くBのほうが正しかった、というような事は多々ある。
今回もまた、そうである。
御言葉には、次のように書いてある。
『地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。』(レビ記25:23)
『君たる者はその民の嗣業を取って、その財産を継がせないようにしてはならない。彼はただ、自分の財産のうちから、その子らにその嗣業を、与えなければならない。これはわが民のひとりでも、その財産を失わないためである。』(エゼキエル46:18)
ナボテは、主エホバの御名によって、アハブの申し出を拒否した。
彼は主エホバへの熱心ゆえに、主に対し悪を行なってばかりいるアハブが気に食わなかったという事も、あったかもしれない。
ともかく、御言葉に照らすなら、ナボテのほうが御言葉に適う事をしたのであり、アハブは違った事を行なったのは事実である。
『アハブはエズレルびとナボテが言った言葉を聞いて、悲しみ、かつ怒って家にはいった。ナボテが「わたしは先祖の嗣業をあなたに譲りません」と言ったからである。アハブは床に伏し、顔をそむけて食事をしなかった。』(1列王記21:3-4)
アハブはナボテを王に逆らった科でいきなり死刑にする事はせず、悲しみ怒って、ふて寝した。
もしナボテが、超独裁国に生まれていたなら、すぐに殺され、財産没収されていた事だろうが、それに比べるならアハブは、まだましなようにも見える。
そこをもってしても、なぜ彼は「最悪な王」と評されているのか。
その疑問を持ち、なぜなのかを考え、御言葉から調べる習慣こそ、私達が霊的成長する上で非常に大事である。
『妻イゼベルは彼の所にきて、言った、「あなたは何をそんなに悲しんで、食事をなさらないのですか」。彼は彼女に言った、「わたしはエズレルびとナボテに『あなたのぶどう畑を金で譲ってください。もし望むならば、その代りに、ほかのぶどう畑をあげよう』と言ったが、彼は答えて『わたしはぶどう畑を譲りません』と言ったからだ」。妻イゼベルは彼に言った、「あなたが今イスラエルを治めているのですか。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがエズレルびとナボテのぶどう畑をあなたにあげます」。
彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印をおして、ナボテと同じように、その町に住んでいる長老たちと身分の尊い人々に、その手紙を送った。彼女はその手紙に書きしるした、「断食を布告して、ナボテを民のうちの高い所にすわらせ、またふたりのよこしまな者を彼の前にすわらせ、そして彼を訴えて、『あなたは神と王とをのろった』と言わせなさい。こうして彼を引き出し、石で撃ち殺しなさい」。』(1列王記21:5-9)
権威のある者が、気に食わない無実の人に濡衣を着せ、抹殺し、その財産を取り上げる事は、確かに邪悪であるが、この世では珍しくはないように思えるかもしれない。
しかし十戒に書いてある。
偶像礼拝してはならない、主の御名をみだりに唱えてはならない、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、隣人について偽証してはならない、隣人のものを欲しがってはならない、と。
イゼベルの行おうとする事は、それら全てを破る事であるが、アハブは自分が欲しいものを手に入れられるなら、手段が邪悪であっても、御言葉に背いていても、目をつぶろう、と、権威の実印を彼女にわたしてしまう。
本来、神の民であるなら、御言葉に反する事を勧められた来た時には、「御言葉にこう書いてある」と言って、きっぱり退けるべきだが、アハブは、イゼベルという女をなすがままにした。
『あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。』(黙示録2:20-22)
私達は、神の民を惑わすイゼベルを、なすがままにさせたり、ましてや、大切な実印を邪悪な者に明け渡してはならない。
イゼベルがアハブの印鑑を用いて成した事は、世の中では珍しくなくても、神の国では邪悪な事だった。
『その町の人々、すなわち、その町に住んでいる長老たちおよび身分の尊い人々は、イゼベルが言いつかわしたようにした。彼女が彼らに送った手紙に書きしるされていたように、彼らは断食を布告して、ナボテを民のうちの高い所にすわらせた。そしてふたりのよこしまな者がはいってきて、その前にすわり、そのよこしまな者たちが民の前でナボテを訴えて、「ナボテは神と王とをのろった」と言った。そこで人々は彼を町の外に引き出し、石で撃ち殺した。』(1列王記21:11-13)
彼らは、二人以上の証人の証言とか(申命記17:6)、断食を布告するとか、一見聖書的な事を言ってはいるが、結局、彼らがした事は偽証であり、殺人である。
彼らは、二人のよこしまな者を連れてきて、偽りの証言をさせ、ナボテを死刑にしたが、それも明らかに律法に反している事である。
彼らはなまじ御言葉を知っている故に、知らないで犯す罪より、重い。
申命記19章に書いてある。偽りの証人を立てて相手を陥れる事が発覚した場合、手には手、歯には歯、いのちにはいのちで返さなくてはならない、と。
そして彼らは、それに従って裁かれてしまう事になる
アハブは思うかもしれない。
自分は邪悪な心は持っていませんでした、むしろナボテに親切にしました、自分は善良です、と。
しかし、この世の契約ごとにおいても、もし第三者に印鑑を託したなら、彼がその印鑑を用いて為した事、イコール本人の意思決定と見做され、責任がつきまとうのと同じように、アハブがイゼベルに印を渡して委託したのなら、イゼベルがした事は、アハブ本人自身がした事となる。
これは、私達についても全く同じであり、もし私達が、主を知らない者にアドバイスされた通り実行したり、その者に自分の支配権や行動権を託したりするなら、その者の邪悪な価値観に基いて受けるべきさばきを負ってしまう。
こうして、ナボテという義人は、殺された。
義人の血が流されるなら、その血はその土地から主に向かって叫ぶ。
そしてその土地は、血を流した者に対して「不作」を返し、その者は、働いても種を蒔いても実りが無く、呪われた者となってしまう。(創世記4章)
無実ゆえに流されてきた血は、決して虚しく消える事は無い。
その血は主の御前で叫ぶ。主はその人達のたましいに安息を与えられ、そして主の時が来た時、血を流した者達は必ず、その血を飲まされる事となる。(黙示録6:9-11,16:6)
『イゼベルはナボテが石で撃ち殺されたのを聞くとすぐ、アハブに言った、「立って、あのエズレルびとナボテが、あなたに金で譲ることを拒んだぶどう畑を取りなさい。ナボテは生きていません。死んだのです」。アハブはナボテの死んだのを聞くとすぐ、立って、エズレルびとナボテのぶどう畑を取るために、そこへ下っていった。』(1列王記21:15)
こうしてアハブとイゼベルは、せっかく主の憐れみが示されて、悔い改めるべき時期が与えられていたのに、それを無視し、あたかも主がいないかのように、何をしても許されるかのようにふるまい、しまいには、偽証をして無実の血を流し、その持ち物を奪った。
このような、主を敬わない態度を取り続ける者には、やがて滅びが追いついてしまう。
私達は、この世の常識や慣習と神の国の真理との間で、板挟みになる事はある。
しかしその都度、私達御言葉に従う道を選択し、歩んで行くべきである。
聖霊によって軍事力から守られる聖徒達(1サムエル記19:18-24)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
私たちのこの地上での日々には、苦難があるが、それら全ては全能なる主のコントロールの下にある。
主がそれらを許されるのは、それらを通して私達を練り、鍛え、ちょうど良い時に高めて下さるためだ。
今日もダビデが歩んだ苦難の日々から、主はいかに主を頼る人達を守って下さるかを、見ていきたい。
サウルに追われ、自分の家さえ安全でなくなってしまったダビデが最初に逃げた先は、彼に油を注いだ預言者・サムエルの所だった。ダビデはサウルが自分にした全ての事を彼に告げると、彼らはナヨテに行って住んだ。「ナヨテ」はヘブル語で「住居」、アラム語訳では「教えの家」を意味し、預言者学校という語も、ここから出たらしい。そこには、預言者としての訓練を、サムエルから受けている人々の群れがあった。
預言者学校ではどんな訓練が為されていたのだろう。そこでは日々、主に心を向け、色々な楽器を用いて主をほめ讃えつつ、御言葉を宣言する集会が開かれていたと思われる。なぜなら「預言」は、その漢字の通り、神の言葉を預かって宣言する事であり、また、賛美と預言とは、密接な関係があるからだ。(10:5)
ダビデは暫くそこで養いを受けていたが、サウルはそれを聞きつけ、そこにも追手が迫る。(19-20)
サウルは、思ったかも知れない。ダビデの周りには、預言を学ぶ生徒達がいるだけで、鍛えた体と武器を持った追手を邪魔する者はいない、簡単に捕らえられるだろう、と。しかし、知るべきだ。聖徒達に賛美されるお方は、天地万物を創られた万軍の主。ダビデを囲んでいるのは、軍隊よりも遥かに強力な聖霊だ。
後のエリシャの時代、預言者学校の一人の生徒が、朝早く起きてみると、シリヤの軍隊に囲まれていた。
シリヤがイスラエルに戦いを仕掛けようと策略を巡らしても、預言者エリシャによってことごとく見破られ、先手を打たれる事が続いたので、怒ったシリヤの王は軍隊を差し向け、エリシャ達を滅ぼうそうとしたのだ。
『その若者はエリシャに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちはどうしましょうか」。エリシャは言った、「恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから」。そしてエリシャが祈って「主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください」と言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった。』(2列王記6:15-17)
「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」とは、ダビデが後に詠んだ詩であるが(詩篇34:7)、ダビデは、この預言者学校で守られている時、それを知ったのだろう。
ダビデを捕える使者達が来た時、ちょうどサムエルがリードする預言の集会の最中で、聖徒達はそれぞれ主をほめたたえ、祈り、御言葉を宣言し、あるいは語られる御言葉に耳を傾けていた。「その時、神の霊はサウルの使者たちにも臨んで、彼らもまた預言した。」(20-21)
実にユニークな守られ方である。サウルから遣わされた捕り手達は主の霊に臨まれ、預言し、そしてダビデを捕らえる事を止めたのだ。実際にそのような事は、ある。コロンビアのある教会で、悪霊に憑かれた人が入ってきて刃物を出し、牧師を刺そうとするのだが、人々が祈ると彼は何も出来なくなり、その場で倒れた。
主の霊が満ち溢れる聖なる所では、悪しき者は活動する事が出来なくなるのだ。
この事は、サウルに対する主の明らかな警告である。主はダビデの側についている、サウルのダビデを殺そうとする企みは、完全に御心に反する事だ、サウルはそれを知ってそれをやめ、悔い改めよ、と。
サウルはそれをも心に留めず、再三、捕り手を遣わした挙句、最後にはサウル自らダビデを捕らえに行く。
しかしなんと、サウルにさえも神の霊が臨み、サムエルの前で預言し、王服を脱いで裸で倒れ伏していた。
イスラエルの間では「サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」というい言葉が、ことわざのように言い交された(23-24)。人々は本当に驚いただろう。聖霊充満から程遠いような人が、聖霊に満たされるのだから。
しかし、やがて来る。しもべにもはしためにも主の霊が注がれ、預言する時代が。今が、その時代である。
どんなにつまらない者でも、悪どい事をしていた者でも、主イエスが語られるなら、聖霊によって主を知り、悔い改めるなら、聖霊に導かれる新しい永遠の人生が始まる。
しかしそれでも罪の道を選び、聖霊様を悲しませ続けるなら、やがて救いの道は閉ざされてしまうのだ。
こうして、またしても、サウルの企みは退けられ、ダビデは軍事力によらず、神の霊によって守られた。
私たちを守られる方は、世のあの者よりも強く、賛美は私たちの防護壁となる。いつも主を賛美し、万軍の主に守られつつ安全に歩んでいく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主のしもべ達は食べる。しかし、主に恩知らずの者達は飢える。(イザヤ65:8-16)
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