メッセージ - 201609のエントリ

主に聞かず、「おだて」に乗って、ほいほいと契約を進めてしまったアハブ(1列王記20:31-43)
Youtube動画
メッセージ音声

主に対し罪ばかり犯してきたイスラエルは、主から保護されるような要素は一切無かったというのに、ただ、主の一方的な憐れみによって、勝てる要素の全く無い戦いに二度も勝利した。
アハブは、主に感謝しても、しきれない筈であり、その後はただ主に聞き従って、何事も主に相談して歩めば良いはずだった。
しかし彼は、自分勝手な道を歩み続けてしまう。

『家来たちは彼に言った、「イスラエルの家の王たちはあわれみ深い王であると聞いています。それでわれわれの腰に荒布をつけ、くびになわをかけて、イスラエルの王の所へ行かせてください。たぶん彼はあなたの命を助けるでしょう」。そこで彼らは荒布を腰にまき、なわをくびにかけてイスラエルの王の所へ行って言った、「あなたのしもべベネハダデが『どうぞ、わたしの命を助けてください』と申しています」。アハブは言った、「彼はまだ生きているのですか。彼はわたしの兄弟です」。』(1列王記20:31-32)
アハブは、「憐れみ深い王」という言葉と、ベン・ハダデの徹底的に低くなった態度に、気を良くしたのかもしれない。
それで彼は、決定的ミスを犯してしまう。

『その人々はこれを吉兆としてすみやかに彼の言葉をうけ、「そうです。ベネハダデはあなたの兄弟です」と言ったので、彼は言った、「行って彼をつれてきなさい」。
それでベネハダデは彼の所に出てきたので、彼はこれを自分の車に乗せた。ベネハダデは彼に言った、「わたしの父が、あなたの父上から取った町々は返します。またわたしの父がサマリヤに造ったように、あなたはダマスコに、あなたのために市場を設けなさい」。アハブは言った、「わたしはこの契約をもってあなたを帰らせましょう」。こうしてアハブは彼と契約を結び、彼を帰らせた。』(1列王記20:33)

アハブは相手を「兄弟」呼ばわりし、その者を連れて来て、自分の戦車に同乗させ、契約を結び、自由にしてしまった。
しかし相手は、そんな事は決してしてはならない相手だったのだ。

今まで悪どい事を繰り返しして来た者が、痛い目にあって、表面上へりくだって来たとしても、すぐさま気を許したり、こちらの懐を見せたりしてはならない。
イエス様が言われた戒め、すなわち、もし兄弟姉妹が一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたに来るなら赦してやりなさい、と言ったのは「兄弟姉妹間の事」であり、なおかつ、相手が「悔い改めます」と言って来た場合の事である。(ルカ17:3-4)
ベン・ハダデは兄弟ではないし、自分が悪かった事を認める言葉も、もう立ち向かう事はしませんという言葉も、一切言っていない。

実際、ベン・ハダデは解き放たれた後、イスラエルに町々を返さなかったし、再び戦争状態となった。
ベン・ハダデは後に、イスラエルを包囲して兵糧攻めにし、その時、イスラエル内は、母達が自分の子を煮て食べる程の飢餓状態に陥ってしまった。(2列王記6:24-25)
ダマスコの市場を解放するとか、契約とか、全くのうそ八百である。
彼は、恩を仇で返す事に何の躊躇もない、主の目に「滅ぼされるべき者」だったのだ。

契約において、買い物において、人間関係において、よく失敗してしまう人の性質は、アハブのように、主に相談しないで、「おだて」に乗せられたなら、ほいほいと契約ごとを進めてしまう人だ。
このように、口八丁手八丁を駆使して、守りもしない約束を連発し、憐れみを受けてもそれを覚えておらず、平気で約束をひっくり返して牙をむくような者は、いつの時代でも存在する。
洞察力のある人でなければ、見抜く事は難しい。
だからこそ私達は、何事も主に伺うべきであって、即答すべきではない。
特に、重要な決断をする時や、大きな買い物をする時、大きな契約をする時などは。

それに対し、当時の南ユダ王国の王・ヨシャパテは、いつも主に伺うたしなみがあった。
アハブはその後、ベン・ハダデに戦いを仕掛けようとして、ヨシャパテ王に一緒に行くように持ちかけた時、ヨシャパテは「まず、主のことばを伺ってみてください。」と勧めた。(1列王記22:5)


『さて預言者のともがらのひとりが主の言葉に従ってその仲間に言った、「どうぞ、わたしを撃ってください」。しかしその人は撃つことを拒んだので、彼はその人に言った、「あなたは主の言葉に聞き従わないゆえ、わたしを離れて行くとすぐ、ししがあなたを殺すでしょう」。その人が彼のそばを離れて行くとすぐ、ししが彼に会って彼を殺した。』(1列王記20:35-36)
「ともがら」を打つ事には、誰でも気が引けるし、憐れみを示したくもなる。
しかし、たとえ相手がともがらであっても、ベン・ハダデであっても、あるいは、自分のかわいい子であったとしても、打たなくてはならない場合がある。
特に、「主が」打てと言われる場合は。
その主の言葉に従わず、「下手な憐れみ」を示してしまうなら、やがて相手は「しし」に変わり、こちらを食い殺しにかかって来るからだ。

『彼はまたほかの人に会って言った、「どうぞ、わたしを撃ってください」。するとその人は彼を撃ち、撃って傷つけた。こうしてその預言者は行って、道のかたわらで王を待ち、目にほうたいを当てて姿を変えていた。』(1列王記20:37-38)
彼は、自分自身に傷を負わせてでも、主の命令ゆえに、王の前に出て主の言葉を伝えなくてはならない事情があった。

『王が通り過ぎる時、王に呼ばわって言った、「しもべはいくさの中に出て行きましたが、ある軍人が、ひとりの人をわたしの所につれてきて言いました、『この人を守っていなさい。もし彼がいなくなれば、あなたの命を彼の命に代えるか、または銀一タラントを払わなければならない』。ところが、しもべはあちらこちらと忙しくしていたので、ついに彼はいなくなりました」。イスラエルの王は彼に言った、「あなたはそのとおりにさばかれなければならない。あなたが自分でそれを定めたのです」。
そこで彼が急いで目のほうたいを取り除いたので、イスラエルの王はそれが預言者のひとりであることを知った。彼は王に言った、「主はこう仰せられる、『わたしが滅ぼそうと定めた人を、あなたは自分の手から放して行かせたので、あなたの命は彼の命に代り、あなたの民は彼の民に代るであろう』と」。』(1列王記20:39-42)
主の御心は、ベン・ハダデおよびアラム(シリヤ)を、滅ぼす事だった、というのに、アハブは彼を手放し、行かせてしまった。

主から、滅ぼし尽くすように、と定められたもの、例えば、自分自身の悪い習慣や、手くせ、悪いつきあいなど、それらを手放さなず、むしろそれらを自由に解き放ち、再契約してしまうようなら、今度は、自分自身が主に滅ぼされる対象となってしまう。
サウル王もそうだった。
主から「滅ぼし尽くしなさい」と言われていたアマレクを滅ぼし尽くさず、一部を惜しんでしまった故に、彼は王位から退けられてしまった。
それでサウル王も、アハブ王も、一致した運命を辿る。
すなわち、自分が滅ぼし尽くさなかったその相手から、逆に滅ぼされてしまう、という運命だ。

『イスラエルの王は悲しみ、かつ怒って自分の家におもむき、サマリヤに帰った。』(1列王記20:43)
アハブの、主からの言葉に対する対応は、不機嫌になって、激しく怒り、自分の所に帰る、というものだった。
これは、滅びが確定してしまう者の性質である。

イスラエルで最も偉大な王・ダビデの場合は、預言者から罪が指摘された時、「わたしは罪を犯した」と言ってすみやかに悔い改め、主に赦しを乞うた。(2サムエル12章、詩篇51篇)
主はそれで、ダビデから死を免れさせて下さり、彼は死なかった。

イスラエルで最も偉大な王と最悪な王との違いは、罪を犯す・犯さないの違いではなく、神の人から罪を指摘された時、自分の非を認めて悔い改めたか、それとも、怒ってそっぽ向いたかの違いであり、その違いが、私達を偉大にもするし、最悪にもする。
聞き従う事こそ、何にも勝るいけにえである。
そして背く事は、占いの罪であり、強情は、偶像礼拝の罪である。(1サムエル記15:22-23)
主の言葉を聞いて、不機嫌になるなど、とんでもない事だ。

人は罪を犯す。間違いも犯す。何が正しい事であり、どの道を行けば良いのか分からないものである。
だからこそ、主に聞く必要があるのだ。
ダビデのように、主を愛し、いつも主に伺い、罪を指摘されたらすぐ悔い改める、この偉大な王としての性質を身につけ、偉大になっていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ピリピ人への手紙 講解説教メッセージ
思い入れのあるあなた方全てに、よろしく(ピリピ4:14-23)
Youtube動画
メッセージ音声

イザヤ書 講解説教メッセージ
主ご自身の一方的な憐れみ赦し故に、そむきの罪はぬぐい去られる(イザヤ43:22-28)
Youtube動画
メッセージ音声

主の憐れみを受けたときに学ばなくてはならない事(1列王記20:22-30)
Youtube動画
メッセージ音声

イスラエルは本来、主から助けられるには全く値しないような、主に対して不誠実続きだったにもかかわらず、一方的に主からの恵みを受け、到底勝ち目の無いシリヤとの戦いは、勝利へと導かれた。

『時に、かの預言者がイスラエルの王のもとにきて言った、「行って、力を養い、なすべき事をよく考えなさい。来年の春にはスリヤの王が、あなたのところに攻め上ってくるからです」。』(1列王記20:22)
戦いは終わりではない、これからは主にあって何をなすべきか、主にあってどのような心構えでいるべきか、よく考えなさい、と、預言者は言う。
私達も、主に良くして頂いたなら、よく考えるべきである。
今後、自分は主に対しどのように在るべきか。主と共に、いかに歩んで行くべきかを。

いつも主の御前にどうあるべきかを、わきまえ知るために、知恵が必要である。
また、悪魔の攻撃は日々迫り来るものであり、誘惑との戦いも、ひっきりなしに来る。それに立ち向かうためにも、知恵が必要である。
知恵はいかにして見つけるべきだろうか。

知恵は、主を恐れる事から始まる。(箴言9:10)
私達には、主に対する「恐れ敬い」は、あるだろうか?
もし今、目の前に、総理大臣が来たとしたら、普段よりは身と心を引き締めるかもしれない。しかし主は、総理大臣よりもはるかに上に座しておられるお方である。
主を前にして礼拝する時、相応しい畏れ敬いは、あるだろうか?
もし、知恵を頂きたいのであれば、主に対する恐れ敬い、尊敬を、その態度で示すべきだ。

アハブは、「力を養い、なすべき事をよく考えなさい。」と言われたからには、一連の起きた出来事をよく思い返し、主は自分に何を望んでおられるのかを求めつつ、次の年の戦いに備えるべきだった。
主を待ち望む者こそ、新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができるからだ。(イザヤ40:31)

『スリヤの王の家来たちは王に言った、「彼らの神々は山の神ですから彼らがわれわれよりも強かったのです。もしわれわれが平地で戦うならば、必ず彼らよりも強いでしょう。それでこうしなさい。王たちをおのおのその地位から退かせ、総督を置いてそれに代らせなさい。またあなたが失った軍勢に等しい軍勢を集め、馬は馬、戦車は戦車をもって補いなさい。こうしてわれわれが平地で戦うならば必ず彼らよりも強いでしょう」。彼はその言葉を聞きいれて、そのようにした。』(1列王記20:23-25)
シリヤは、自分たちが敗北した戦いを分析し、作戦を練りなおした。これは肉弾戦ではなく、背後にいる神が、勝敗の鍵を握っている、と。
しかし彼らは、イスラエルの神である主を、あたかも、数多ある神々のうちの一つであるかのように見た。
彼らの着眼点は非常に良いのだが、イスラエルの神に対する認識が誤っていた。

彼らは、思っていた。
地方地方には、固有の影響力を持つ神々がいて、それぞれ、得意分野・不得意分野がある、と。
現代日本人も、多くはそう思っているかもしれないが、あいにく、イスラエルの神である主は、「沢山ある神々のうちの一つ」ではない。
全地・全宇宙を創られた全能なる神であり、人の空想の産物である「神々」を、むなしいものとされるお方である。(詩篇97:9)

『春になって、ベネハダデはスリヤびとを集めて、イスラエルと戦うために、アペクに上ってきた。イスラエルの人々は召集され、糧食を受けて彼らを迎え撃つために出かけた。イスラエルの人々はやぎの二つの小さい群れのように彼らの前に陣取ったが、スリヤびとはその地に満ちていた。』(1列王記20:26-27)
再び戦いが起きるが、やはりイスラエルは、数では勝ち目はなさそうである。
しかし、主の言葉は、あらかじめあった。

アハブは、主をわきまえ知る時間が1年与えられていた。
その間、アハブはどんな心備えをしていたのかは書かれていない。もしかすると、全くしていなかったかもしれない。
しかし、この度の戦いも、ただ主ご自身が一方的に働かれる。

『その時神の人がきて、イスラエルの王に言った、「主はこう仰せられる、『スリヤびとが、主は山の神であって、谷の神ではないと言っているから、わたしはこのすべての大軍をあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを知るようになるであろう』」。』(1列王記20:28)
神の人からのこの情報は、イスラエルは別に知っていなくても、勝負の決定には関係無かったかもしれない。
しかし、この情報は、主がどんなお方であり、人はどのように神と関係して行くべきかを知るためには非常に重要な事柄である。
すなわち、神は、山の神や海の神など、人間が限定できるようなお方ではなく、全地を治め、全ての神々を見下ろし無とされる主であり、敵が陣営の中で思い巡らすはかりごとさえ、全て知っておられるお方であるという事、そして、主を見くびる者には主は災いをもって報いられるお方である事だ。

申命記で、モーセは、似た事を言っている。
『あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。
それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。』(申命記9:4-6)

主はなぜ、勝ち目のない敵をイスラエルに渡され、勝利をもたらされるのか。
それは「敵が悪いため」である。
何度も繰り返して言われている事は「あの者達が悪いから」「あなたが正しいからではない」という事であり、もし、イスラエルが勝利した場合は、「自分が正しいから」「自分の知恵や力のおかげだ」などと、思ってもみてはならない。
主はむしろ、あなたがたは頑なだ、主の前に強情だ、と言われる。
ただ、この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前からあの者共を追い払われるのである、と。

モーセの時代も、アハブの時代も、主の御前にイスラエルは、何の益も見いだせなかった。
むしろイスラエルは頑なで、主を煩わせる者達であったが、主はそんな彼らさえ、主の御名を置き、彼らの手を用いて勝利をもたらされるのだ。
だから、もし勝利がもたらされるとしたら、自分には何の誇りも無く、ただ主に栄光を捧げ、これからは主にのみ聞き従いつつ、歩むだけである。

『彼らは七日の間、互にむかいあって陣取り、七日目になって戦いを交えたが、イスラエルの人々は一日にスリヤびとの歩兵十万人を殺した。そのほかの者はアペクの町に逃げこんだが、城壁がくずれて、その残った二万七千人の上に倒れた。ベネハダデは逃げて町に入り、奥の間にはいった。』(1列王記20:29-30)
こうして、やぎの群れのようだったイスラエルは、十万もの相手を打ち破った。
さらには、城壁が崩れて二万七千人を打ったのは、まさに主ご自身だ。
主はこの度も、大勝利を与えて下さった。

これで、イスラエルはわきまえ知るべきだった。
自分はただ、主により頼んでいれば良いのだ、と。

しかしアハブは、残念ながら、主を知ろうという意欲がなかった。

私達は、何にもまして、知恵を得ることを求めるべきである
『それを忘れることなく、またわが口の言葉にそむいてはならない、知恵を得よ、悟りを得よ。知恵を捨てるな、それはあなたを守る。それを愛せよ、それはあなたを保つ。』(箴言4:5-6)
『あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。』(ヤコブ1:5-8)

とがめる事なく豊かに知恵を与えて下さる主に、求め、豊かに与えられ、主の栄光と共に歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

槍を取るサウル、賛美を取るダビデ(1サムエル記19:9)
Youtube動画
メッセージ音声

無謀・無策のイスラエルに助けの手を延べられた主(1列王記20:13-21)
Youtube動画
メッセージ音声

イスラエル最悪の王・アハブは、シリヤという敵に「いいえ」を言えず、部下にも「いいえ」を言えず、確固とした信念なしに、ただ全部にハイハイと答えて行った結果、その煮え切らない態度は、イスラエルという国を、無謀な戦争へと導いてしまった。
試験日を忘れていた生徒が、何の対策もしないまま突然試験に臨まれてしまったように、この圧倒的不利な戦争は、勝つ算段も知恵も何もないまま突然訪れてしまった。
しかし主は、一方的に彼らに助けの手を差し伸べられる。

『この時ひとりの預言者がイスラエルの王アハブのもとにきて言った、「主はこう仰せられる、『あなたはこの大軍を見たか。わたしはきょう、これをあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを、知るようになるであろう』」。』(1列王記20:13)
主は何故に、霊的怠慢と背信続きの彼らに、こんなにも憐れみをかけられるのか。
それは「あなたは、わたしが主であることを、知るようになる」ためである。
ただ、主こそ力強い神であり、憐れみ深く恵みに富んでおられる、という事を彼らにありありと示し、主に立ち返るためだ。

『アハブは言った、「だれにさせましょうか」。彼は言った、「主はこう仰せられる、『地方の代官の家来たちにさせよ』」。アハブは言った、「だれが戦いを始めましょうか」。彼は答えた、「あなたです」。そこでアハブは地方の代官の家来たちを調べたところ二百三十二人あった。次にすべての民、すなわちイスラエルのすべての人を調べたところ七千人あった。』(1列王記20:14-15)
主が示される勝利の鍵は、『地方の代官の家来たち』である。
それは、NKJVでは「By the young leaders of the provinces.」、リビングバイブルでは「外人部隊」と訳されている。
つまり、イスラエルの民の誰かではなく、外部の者達が、勝利の鍵となる。

神の声に久しく聞かず、あれだけ大きなしるしが示されてもなお立ち返らないようなイスラエル。
彼らによっては勝利はもたらされない。むしろ主は、そんなイスラエルの力は敢えて用いられず、外部の者達を用いて勝利がもたらされる。
これは、主は全ての事が可能であり、決してあなどってはならないお方である事を、彼らに示されるためかもしれない。

『地方の代官の家来たち』の数は、二百三十二人であった。それと共に、イスラエルの兵は七千人。
それに対し、相手は、十万以上はいたと推測できる。(29節)
人の目には到底勝ち目の無い、しかし、主からは勝利の約束のある戦いが、こうして始まる。

『彼らは昼ごろ出ていったが、ベネハダデは仮小屋で、味方の三十二人の王たちと共に酒を飲んで酔っていた。地方の代官の家来たちが先に出ていった。ベネハダデは斥候をつかわしたが、彼らは「サマリヤから人々が出てきた」と報告したので、彼は言った、「和解のために出てきたのであっても、生どりにせよ。また戦いのために出てきたのであっても、生どりにせよ」。』(1列王記20:16-18)
完全にイスラエルを見下げた態度である。
しかしイスラエルには、主の御言葉による後ろ盾がある。

『地方の代官の家来たちと、それに従う軍勢が町から出ていって、おのおのその相手を撃ち殺したので、スリヤびとは逃げた。イスラエルはこれを追ったが、スリヤの王ベネハダデは馬に乗り、騎兵を従えてのがれた。イスラエルの王は出ていって、馬と戦車をぶんどり、また大いにスリヤびとを撃ち殺した。』(1列王記20:19-21)
まさに、ギデオンの時のような奇跡が起きた。
なぜ、こんな最低な王・アハブの時代に、そんな奇跡が起きたのか?

いかに、アハブのような者であったとしても、主の言葉どおりに守り行うなら、主のお言葉どおり、なるのだ。
これは、誰でもそうである。

ただ、彼がこの時、主の御言葉通りに行なったのは、彼は主に悔い改めて立ち返ったからではなく、御声に聞き従おうと決心したからでもなく、今までどおり、誰にでもハイハイと言ってその場をくぐり抜けやり過ごして来た、彼の「行動パターンの一環」として、であったようだ。
なぜなら、後の彼の言動からは、この出来事から何かを学んだようなふしが見受けられず、敵に対し再び「ハイ」を言ってしまうからだ。

どういう時にハイを言うべきか、あるいはノーを言うべきか、その判別が分からない、という人がいるが、分からないなら、主に伺えば良いのである。
すなわち、聖書を開いて、御言葉には何と書いてあるのかを調べ、それが分からないなら、祈って主と相談し、祈り方も分からないなら、預言者のような、信仰の先輩に聞くのである。
あるいは、全て真実な事、尊ぶべき事、正しい事、純真な事、愛すべき事、誉れある事、また徳といわれるもの、称賛に値するものにこそ心を留め、それに即する方面を選択し、その通り行動するのが、聖書的である。
『何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。』(ピリピ4:6-7)

もし私達が主の言葉どおりにして助かった時、祝福された時は、それをただ「ラッキー」で終わりにしてはならない。
その場合はしっかり主に感謝し、主に従順する事がどんなに幸いであり、従わない事がどんなにに呪いであるか、しっかりと心に留めて「学習」し、以後は主に従って歩む努力をすべきだ。
日本人は、場の空気を積極的に読んで、他人の心を害さないよう気を遣う事にかけては、世界一だが、それと同じ要領で、聖なる空気を積極的に読み、主の御心を害さないよう「聖なる気遣い」するよう心掛けるなら、誰よりも早く霊において長けた者となれるはずである。

今回、アハブは、預言者の言葉に従った故に、大勝利がもたらされた。
もし彼がそこから学び、その後は積極的に御声を求めて従って行けば、もっと良い王として歴史に名を残したであろう。
しかし彼は、そうではなかった。
アハブのようではなく、積極的に主の御声を求め、従い、祝福され、その祝福の法則をどんどん学んで体得して行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

どんな時にも主に向かい賛美するダビデ(1サムエル記19:1-17)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

先々週のダビデの話のつづきに戻り、私達はいかに主に喜ばれる者として整えられるべきかを学びたい。
 サウルは、自分の娘を道具にしてまでダビデを殺そうと色々企んだが、それらは全て虚しく失敗し、ダビデはことごとく守られた。サウルは、主がダビデと共におられ主が守っておられる事を、そこまで見せられても考えを改める事をせず、ダビデを殺す思いを捨てる事を選ばず、さらに殺意を燃やす方へ進んでしまう。
今までは秘かに殺意を抱いていたのに、今度は、おおっぴらに「ダビデを殺せ」と家来達に言った。(1節)
ダビデは、全ての部下達から愛されていたので、衝撃が走っただろうが、ヨナタンは和解の行動に出る。

『ヨナタンは父サウルにダビデのことをほめて言った、「王よ、どうか家来ダビデに対して罪を犯さないでください。』(4節) ヨナタンは、何の罪も犯していないダビデを殺す「罪」を犯さないで下さい、と、聖書の真理に従った嘆願をした。聖書には「殺してはならない」とあるし、また本来、罪なき人を殺そうと謀ったなら、「目には目、いのちにはいのち」として、彼がはかった通り、はかり返されるはずである。(申命記19章)
さらにヨナタンは、ダビデがイスラエルに対して為した良き実績と、サウルは実際にそれを喜んだ事実を思い出させた。少しでも霊的良心が残っている人には、切って捨てるような御言葉引用や、感情的な嘆願、責めなじる言葉よりも、愛と憐れみ、真理に基づいた執り成しの言葉のほうが、はるかに効果的だ。
サウルは、この素晴らしい「執り成し」の言葉を聞きいれて、主エホバにかけて誓った。「わたしは決して彼を殺さない」と。こうしてヨナタンはダビデをサウルの元に連れ戻し、元の平和な状態に戻った。(6-7節)
私達も、色々な権威の下にあって服さねばならないものだが、もし、上に立つ人が、御言葉に反する事をするなら、その罪に関わる事なく、ヨナタンのように知恵深く、愛と真理に基づいて対応したいものである。
ヨナタンによる和解は大成功に終わったように見えたが、サウルはいともあっさりと、主の御名によって立てた自分の誓いを破ってしまう。サウルはまたしても、ダビデに槍を投げ、突き刺そうとしたのだ!(8-10節)

サウルは、いつ悪霊が入ってしまったか。それはサウルとダビデが家にいた時、サウルは槍を手にし、ダビデは主を賛美する竪琴を手にしていた時だった。サウルは賛美よりも槍を選び、その槍のたった一投によって、自分が立てた誓いも、ヨナタンの尊い和解のわざも、全て台無しにしてしまった。
サウルに悪い霊が入るきっかけとなったのは何か。それは、ダビデがペリシテとの戦いで大活躍した事が、大いに関係ある。つまりサウルは、ダビデの活躍への「嫉妬」「恐れ」「怒り」という、悪霊が好む「エサ」を放置したままだったために、再び悪霊をおびき寄せ、その侵入をゆるしてしまったのだ。
私達も悪しき者が自分の中から出て行った時、そのまま放置し、悪霊の好むエサを取り扱わずにいるなら、もっと性質の悪いものに入り込まれてしまい、以前よりももっと悪い状態になってしまう。(マタイ12:45)
私達もサウルのように、言葉のたった一投・行動のたった一投によって、神と人の前に積み上げた尊いわざを、積み上げて来た尊厳を、一瞬にして台無しにしてしまう事がある。それをしてしまう原因は、槍をいつも手元に置いて手放さない事、人を傷つける言葉を思いの中にいつも置いて手放さない事だ。
 私達には、理不尽で不可避な誘惑が「いわれ」もなくいきなり襲って来るという事は、無い。襲って来るとするなら「いわれ」があるから、すなわち日々、簡単な誘惑に対抗する心の準備を自分でしていないからだ。

 ダビデは、新妻でありサウルの娘であるミカルのいる自分の新居へと逃げたが、そこもサウルからの追っ手が迫って来る。しかし、ミカルの機転によってダビデは逃げる事が出来、命は守られた。(11-17節)
その時の心の状態と祈りを、ダビデは詩篇59篇に記し、彼はそこで切々と主に訴えている。
その時の恐怖、主から守られる願い、また、敵に対する訴えを(1-7節)。しかしやがて主に対する信頼の告白に変わり(8-15節)、そして主への賛美に終わる。(16-17節) どんな状況でも主に向かって心の内を全部主に言い、信仰の告白をし、そうして、主の平安が与えられ賛美をする。これが、ダビデの性質である。
こうしてダビデは10数年の逃亡生活が、これから始まる。この時点のダビデの状況を見るに、あまりにもアンフェアに思われる。神はなぜそんな事を許されるのか、と。しかし後に分かるが、ダビデのこの10数年の逃亡生活こそ、彼が偉大な王となるための人格形成で重要なイベントが目白押しなのだ。全ての事を益として造り変えて下さる主にあって歩む皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
悪しき者に掴まれなくなるために(詩篇41篇)
Youtube動画
メッセージ音声

賛美と祈りの集会(昼) 2016年9月9日(Fri)

Youtube動画
メッセージ音声

望みえない時に望みを抱く信仰(ローマ4:13-25)
Youtube動画
メッセージ音声

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest