メッセージ - 201612のエントリ
パウロと深く関わりのあった人達 - テキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ(コロサイ4:7-11)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » コロサイ人への手紙
- 執筆 :
- pastor 2016-12-28 21:00
切り倒されたヘロデ - 御言葉に対しかたくなになる人が待っている災い(マタイ2:12-23)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2016-12-28 11:50
私たちがきよく、正しく、恐れなく仕える者とされるために来られたイエス様(ルカ1:67-79)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2016-12-27 17:40
この上もない大きな喜びを頂くために(マタイ2:1-12)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
本日はクリスマス、救い主キリストがこの世にご降誕された事を覚え、祝う日である。世間はきらびやかに輝き、親しい人同士でも、商業でも、大いに盛り上がっているが、それらはつかの間の喜びで、すぐに消えてしまう。実際、12月25日を過ぎると、あのお祭り騒ぎは一体何だったのか、と、虚しさを覚える人は多い。
ご存知だろうか。決して奪い去られない喜びがある事を。その喜びの根源は、クリスマスの主人公・キリストである。キリストに会うなら、その心は喜びに満たされ、その喜びを取り去る者は何も無い。(ヨハネ16:22)
最初のクリスマスの時、世の何にも勝る大きな喜びを得た博士達から、その喜びを受けるコツを学びたい。
キリストがご降誕された当時、東方の博士達がエルサレムの宮廷を訪ねて来た。『「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、その方を拝みにきました」。ヘロデ王はこの事を聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。』(2-3節)
預言されていた真の王が来る。それは多くのユダヤ人が待ち望んでいた事、のはずだったが、いざ、その王がお生まれになった事を聞くと、恐れや不安というリアクションが返って来た。彼らは結局、表向きは御言葉を敬ってはいても、実際は、きらびやかな自分の宮廷の中で、自分が王であり続けたいのだ。
いかに自分で自分をきらびやかに飾っても、神の大きな喜びには、あずかれない。当時、その喜びにあずかれた人は、宮廷には誰もいなかった。あずかれたのは、ただ異邦の博士たちだけだった。
博士たちは、ユダヤ人の王がお生まれになった事のしるし(星)を見て、 東方の遠くから旅をして来た。
その目的は、その方を「拝むため」。彼らはこの時、御言葉は知らないで来た。ただ天のしるしを見て、全世界を治める王がご到来した事を、それとなく知り、旅支度を整えて、贈り物を携えて、遠くから来たのだ。
神は、天から「求める心」「敬う心」「捧げる心」を持つ人をご覧になり、特別に扱われる。
彼らがエルサレム宮廷に行くと、ミカ書の御言葉が与えられ、行くべき場所はベツレヘムだと教えられた。
宮廷の者は御言葉を知っても誰も行かなかったが、博士たちは行った。結果、神の直接的な導きを受ける。
『見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。』(9-10節) 神はなんと、天体を動かして博士たちをキリストの元へと導いて下さったのだ。彼らは甚だ大きな喜びで喜んだ。(NKJV:rejoiced with exceedingly great joy)
私達はどのようにしたら博士たちのように神からの特別待遇を受け、はなはだ大きな喜びを得られるか。
それは、彼らのように、救い主キリストを求める心、敬う心、捧げる心を持って、行動する事である。
彼らはまず、天のしるし(サイン)を見、御言葉を求めてエルサレムへ行く行動に出た。そこで御言葉からベツレヘムであると聞くと、それに従って行った。結果、主ご自身が天を動かし、直接的な導きを得た。
私達も同じである。この時代のしるしを見極め、救い主のご到来が近いと悟ったなら、彼を求め、御言葉に聞き、それに従うなら、神は天を押し曲げて降りて来られ、私達は甚だ大きな喜びを喜ぶのだ。
マタイの福音書はイエス・キリストの系図で始まるが、系図の中には、本来神の民でない者なのに神の民に加えられた者がおり、また、本来神の民であるのに、除外されてしまった者達も、紙面の裏に隠れている。
神の民に入る鍵、また、神の民から除外されてしまう鍵は、「主を求める心」があるか、無いかである。
系図は14代で区切られているが、14はダビデ(דוד)の数字であり、ダビデの意味は「愛された者」である。
バビロン捕囚のような時代に生きていたとしても、預言が断たれてしまった時代であっても、そして、どんな血筋であったとしても、主を求める心を持つ人は、その14代(愛される者ダビデ)の家に、加えられるのだ。
「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。この方こそ主なるキリストである。(ルカ2:11)」 普通、「ダビデの町」と言えば、エルサレムを意味するはずだが、羊飼い達は「ベツレヘムへ行こう(15節)」と言った。羊飼いという卑しい立場でありながら、彼らは預言者ミカの言葉を覚えており、ベツレヘム(パンの家)へ行って、見事、イエス様に辿りついたのだ。主を求める心を持つ人は、全て「主に愛される者(ダビデ)」であり、その人達(ダビデの町)のために、救い主はお生まれになったのだ。
クリスマス、というのに、誰もキリストを求めないような時代の中、博士たちや羊飼いのようにイエス様を求め、神様から素晴らしい特別待遇を味わい、何者も奪えない喜びにあずかる皆さんでありますように!