メッセージ - 201701のエントリ

主に直接伺いに行き、主の直接の奇跡を得たシュネムの女(2列王記4:18-37)
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 4:18 その子が成長して、ある日、刈入れびとの所へ出ていって、父のもとへ行ったが、
 4:19 父にむかって「頭が、頭が」と言ったので、父はしもべに「彼を母のもとへ背負っていきなさい」と言った。
 4:20 彼を背負って母のもとへ行くと、昼まで母のひざの上にすわっていたが、ついに死んだ。

せっかく子供が生まれ、まだ小さく、かわいいさかりなのに死んでしまう。母親としては悲しみの極みである。なんで、この子は生まれ、そして死ななくてはならなかったのか、と。

 4:21 母は上がっていって、これを神の人の寝台の上に置き、戸を閉じて出てきた。
 4:22 そして夫を呼んで言った、「どうぞ、しもべひとりと、ろば一頭をわたしにかしてください。急いで神の人の所へ行って、また帰ってきます」。
 4:23 夫は言った、「どうしてきょう彼の所へ行こうとするのか。きょうは、ついたちでもなく、安息日でもない」。彼女は言った、「よろしいのです」。 4:24 そして彼女はろばにくらを置いて、しもべに言った、「速く駆けさせなさい。わたしが命じる時でなければ、歩調をゆるめてはなりません」。

子どもの父親すなわち彼女の夫は、神の人の所に会いに行くのは、ただ安息日や礼拝の日だけだ、と思っていたようだ。しかも、子供に何か良からぬ事があったのか、という察知する心遣いもないようである。

たとえ死んだという事を知らなかったにしても、子どもはあんなに頭が痛かったのだから、神の人のところに癒やしてもらいに行くのだろうか、という発想も沸かない不信仰な彼とは一切会話はせず、議論する事もなく、急いで神の人エリシャの所に向かう。


 4:25 こうして彼女は出発してカルメル山へ行き、神の人の所へ行った。神の人は彼女の近づいてくるのを見て、しもべゲハジに言った、「向こうから、あのシュネムの女が来る。
 4:26 すぐ走って行って、彼女を迎えて言いなさい、『あなたは無事ですか。あなたの夫は無事ですか。あなたの子供は無事ですか』」。彼女は答えた、「無事です」。

「無事」と訳された語、シャロームというヘブライ語は、平安です、という意味のあいさつではあるが、子供は「無事」ではない。彼女は、不信仰な父親はスルーし、ゲハジにもとりあえずシャロームと応え、ともかく彼女は、一切の事を秘め、直接エリシャの所に行ってこの事を解決してもらおうと思っていたようだ。


 4:27 ところが彼女は山にきて、神の人の所へくるとエリシャの足にすがりついた。ゲハジが彼女を追いのけようと近よった時、神の人は言った、「かまわずにおきなさい。彼女は心に苦しみがあるのだから。主はそれを隠して、まだわたしにお告げにならないのだ」。

ゲハジは彼女の尋常ではない行動だけを見て、振り払おうとした。

しかしエリシャは、彼女は何のために通常でない時期にここに来たのか、そして、どうしてこんな尋常ではない行動を取るのかを知ろうとした。彼女は、この事は誰にも告げず、ただ、彼女の胸に秘めており、また、エリシャにも神から何も告げられていない状態だった。


 4:28 そこで彼女は言った、「わたしがあなたに子を求めましたか。わたしを欺かないでくださいと言ったではありませんか」。

エリシャは彼女のその言葉から、はじめて分かった。彼女が来た理由は、子供の問題だった、という事を。

彼女の言葉の「内容」だけ見ると、恩知らず、不信仰、に見えるかもしれない。

しかし、幼い息子が、つい今しがた死んでしまった状況下にある女性から発せられる言葉を、文字通りそのまま受け止めて、ゲハジのように彼女を引き離そうとすようでは、神の国の働き人として失格である。

ともかく彼女は、真っ先に預言者の所に問題を持って行く信仰は、あったのだ。

4:29 エリシャはゲハジに言った、「腰をひきからげ、わたしのつえを手に持って行きなさい。だれに会っても、あいさつしてはならない。またあなたにあいさつする者があっても、それに答えてはならない。わたしのつえを子供の顔の上に置きなさい」。

エリシャがここまで具体的な指示をゲハジにしたからには、主から「そうしなさい」と示されたのだろう。

4:30 子供の母は言った、「主は生きておられます。あなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そこでエリシャはついに立ちあがって彼女のあとについて行った。
 4:31 ゲハジは彼らの先に行って、つえを子供の顔の上に置いたが、なんの声もなく、生きかえったしるしもなかったので、帰ってきてエリシャに会い、彼に告げて「子供はまだ目をさましません」と言った。

言われた通りにしても何も起きない。果たしてエリシャの預言の力が衰えたのだろうか?そうではない。このような場合は、預言が与えられた人の側の信仰に問題がある場合が多い。

ゲハジは、信仰に問題があった。彼女をすぐに振り払おうとしたし、さらにこの後、彼は、彼自身の欲深さと偽りの行動ゆえに、呪いを被ることになる。

イエス様の時代も、弟子たちには悪霊を追い出せなかった事があったが、その時イエス様は「信仰が無いからである」「この種のものは祈りと断食によってでなければ追い出せない」と言われた。(マタイ17:14-21)

エリシャの弟子ゲハジが、杖を顔に置いただけでは、癒やされなかった。そこで彼の主人エリシャは、祈りに入る。

4:32 エリシャが家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので、
 4:33 彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。
 4:34 そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。

二人だけ、つまりエリシャと子供だけ、である。イエス様も、ヤイロの娘の生き返らせる奇跡を行った時、不信仰な者は外に出した。主の御言葉が語られても、何も起きないような状況なら、不信仰な者は外に出すのである。

それにしてもエリシャ、「子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ば」すという大胆な行動に出たものだ。

律法では、死体に触れる事は、汚れを受ける事であり、1週間がかりできよめの儀式を行わなければ、きよめられないという、やっかいな事だった。それでもエリシャは、ここまでした。エリシャに相当の覚悟がなければできない事だ。

まさに「祈りと断食」である。

4:35 こうしてエリシャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた。

死んでいた子どもが、生き返った。これは、当時の周囲の人々にインパクトを与える事だろう。

4:36 エリシャはただちにゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼べ」と言ったので、彼女を呼んだ。彼女がはいってくるとエリシャは言った、「あなたの子供をつれて行きなさい」。
 4:37 彼女ははいってきて、エリシャの足もとに伏し、地に身をかがめた。そしてその子供を取りあげて出ていった。
彼女はこのように良くしていただいた。

彼女は、旅人をもてなし預言者に良くする信仰があったから、そして、問題が起きたら誰よりも何よりも、主の預言者に持っていく信仰があったから、このような幸いを受け、また彼女はその後にもこの事ゆえに幸いを得る。

私達も、全ての問題をまことの預言者・イエス様に直接持っていく信仰があるなら、このような幸いを受けるのだ。

主の「創造(バラ)」の目的(創世記1:1)
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週報/メッセージ(説教)概要

年のはじめより、主の新創造を喜び楽しむようにと、イザヤ65章から示されていた。今回はその「創造」の意味を探って行きたい。「創造」のヘブライ語は「バラ(ברא)」、聖書で最も最初に宣言される動詞である。
『はじめに(ベレシート)神は天と地とを「創造された(バラ)」。 』(創世記1:1) この「バラ」は「創造する」と訳されているが、「切り取る」という意味もある。つまり神は、時の概念の無い「永遠」から有限の「時」を切り出し、無限世界から、「宇宙」という有限世界を切り出して、人が住める秩序のある世界を創られたのだ。
創世記1:1のバラは、宣言型動詞である。神の宣言型動詞は必ず「そうなる」もので、「在り続ける」。
聖書にはもうひとつ、「命令型動詞」というものがあり、それは、人に対して発せられる命令で、人はそれに対しては従う事が要求される。それは、人の自由意志によって破られる事もあるが、もし破るなら、記されている通りの災いが起きてしまう。もし従順するなら、必ず主のわざが為り、祝福される。(申命記28章)

天地創造以来、神のバラの宣言型動詞は生き続けており、維持され続けている。神が「光よあれ」と宣言されて出来た光は、今も存在している。また、神が海の水に対し「ここまでは来てもよい、しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ。」(ヨブ38:11)と宣言された事は、ずっと保たれて来た。
それは、主が人を生かすための恵みの故であったが、人が主の命令に背くなら、秩序は破壊されてしまう。
主のバラ(創造)は、ことごとく良いものだが、人が主の命令を破ってしまった故に、主の良き創造は破壊され、破った人間自身に、死と呪いがもたらされてしまった。しかし神は、憐れみ深い。聖書の大部分、すなわち創世記3章から黙示録までは、人が壊してしまった創造秩序の、神による回復の努力である。
現存している有限の宇宙は、やがて巻き去られなくなり、永遠・無限の新世界が主によって新創造される。すなわち、創世記では、はじめに(ベレシート)神は無限から有限な世界を切り出して「無」から「有」を創造し、しかし、人がその良き創造を台無しにしてしまったが、黙示録では、主がその世界を回復させ、不完全になった「有」を、一旦「無」へと帰し、永遠・無限・完全を新創造するという、壮大なキアズムなのだ。
神ははじめに、全宇宙や天体を創造し、空と海、大地を創り、動植物を創り、それら全ては神の宣言型動詞によって今も生き続け、動き、持続し続けている。しかし人は、自由意志によって神の命令に逆らい、死と呪いを招いてしまった。そこから救われるためには、神の御言葉に従順する事である。
『あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。』(レビ記18:5) 神の命令型動詞に従順する時、その人の中で再び神の「バラ」が起きる。
主は、罪と背きを重ねて、主に打たれ、砕かれ、悲しむ人に、唇の実を「バラ」される。(イザヤ57:15-19)
重大な罪を犯したダビデも、詩篇51篇で祈っている。『わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。神よ、わたしのために清い心をつくり(バラ)、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。・・・主よ、わたしのくちびるを開いてください。わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。・・・神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。 』(詩篇51:8-10,15,17)
つまり、人が自分の身勝手によって、主の良き創造を破壊し、その喜び(エデン)から追放され、苦しみ悲しんでいる人は、砕かれた心従う心をもって主の前に出て悔い改める事によって、その人の中に主の新創造が働き、新しい清い心が、揺るがない新しい霊が、そして喜びの賛美が、主によって創造されるのだ。

祝福の新創造が与えられる条件は、主の命令型動詞への服従である。主は言われた。わたしが聖であるから、あなたがたも聖であれ、と。人は普通に生きているなら、徐々に、堕落へと落ちて行ってしまう。
ちょうど水の中では泳いでいないと、沈んで行ってしまうように。だから、聖となるために、もがくべきだ。
ダビデは、せっかく正しく歩んでいたのに、気を抜いて、忠実な部下の血を流し、その妻を奪うという罪を犯してしまった。しかし彼は、それを主から指摘された時、悔い改め、祈り、正しく在ろうと、もがいた。
もちろん彼は、犯した罪の支払いとして、多くの苦しみを経なくてはならなかったが、主は、彼から恵みを取り上げる事なく、彼の栄光の家系は、保たれた。主の命令形動詞は、私達の従順する行動と関係があり、その実である「新創造」は、御言葉に労苦して従い続ける事によって、結ばれる。主の命令に従い、ますます新創造が形造られて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
落ち穂がたくさん落ちているこの畑に留まりなさい(ルツ記2:1-16)
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主の働き人を助ける人に与えられる報い(2列王記4:8-17)
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主の働きをした人にはその家族も保証を受けられる(2列王記4:1-7)
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主は、主を恐れ敬うしもべを貧しいまま捨て置かれるお方ではない。
邪悪な時代の中で、正統に扱われないとするなら、そして、主に泣きついて主にあるいは主の預言者に求めるなら、主は豊かに助けて下さる事が可能なお方である。

 4:1 預言者のともがらの、ひとりの妻がエリシャに呼ばわって言った、「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ごぞんじのように、あなたのしもべは主を恐れる者でありましたが、今、債主がきて、わたしのふたりの子供を取って奴隷にしようとしているのです」。

奴隷とする、奴隷として虐げる。それはイスラエルの民の間では、あってはならないことである。(レビ記25:39−43)
しかし時代が悪いので、このままだと、主を恐れ敬う人が身売りをして悲惨な目に遭わなければならない。その時、彼女は、主の預言者に泣きついて行った。


 4:2 エリシャは彼女に言った、「あなたのために何をしましょうか。あなたの家にどんな物があるか、言いなさい」。彼女は言った、「一びんの油のほかは、はしための家に何もありません」。
 4:3 彼は言った、「ほかへ行って、隣の人々から器を借りなさい。あいた器を借りなさい。少しばかりではいけません。
 4:4 そして内にはいって、あなたの子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、そのすべての器に油をついで、いっぱいになったとき、一つずつそれを取りのけておきなさい」。

エリシャは、からの器を借りなさい、それも一つや二つではならない、と行った。
彼女は、この言葉に何の言い返しも、混ぜ者もしなかった。
そんな子として何になるのですか、物理的に不可能です、とか。
しかし、そんな言い返しをする人は、主から何ももらえない。
また、エリシャはたくさん借りて来なさい、と言った。
それに対し、へんな謙虚を起こして、隣家に借りに行く時、ひとつだけでいいですから、などとは彼女は借りなかった。エリシャの言葉に望みをもって、たくさん、借りてきた。
結果、彼女は借りた器の分、たくさん油を得る事ができた。

 4:5 彼女は彼を離れて去り、子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、子供たちの持って来る器に油をついだ。
 4:6 油が満ちたとき、彼女は子供に「もっと器を持ってきなさい」と言ったが、子供が「器はもうありません」と言ったので、油はとまった。
 4:7 そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。

神の必要の満たしは、ちょびちょびではない。たっぷり、である。
ただし、それには私達の側の器次第である。
彼女は望みをもって、たくさん、器を借りたからこそ、たくさん、得た。
しかしエリシャの言葉に、預言者の言葉に少ししか信頼せず少ししか借りなかったら、少ししか受けられなかった。
私達は大いに望みを持つべきであり、大胆に恵みの見座に近づき、お理にかなった助けを得るべきである。

うしろの戸を閉じて、とエリシャは言った。主の聖霊のみわざは、ひそかな所の信仰者の集いの中で行われるものである。
うしろの戸を閉じて祈る所に働くものである。
イエス様の復活の日、弟子たちは戸を閉じていたが、主は、聖霊の油を、からの器となった弟子たちに注いで下さり、そこから始まってその聖霊の油は全世界に広まり、今、私達にも届いた。
私達も、器をからにして、主から聖霊の油を注いで頂く望みを持って、御前に進み行くのである。
 

ルカによる福音書 講解説教メッセージ
エゴ、エゴを主張して口を閉ざされたザカリヤ(ルカ1:5-25)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
主からの救いが与えられない理由は、主にではなく自分にある(イザヤ50:1-4)
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三国の王たちに示された主の憐れみ(2列王記3:21-27)
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主は憐れみ深い。イスラエル、勝手に始めた戦争なのに、状況が悪くなると、神のせいにする。

自分にみつぎを収めてくれなくなると、勝手に招集し、勝手に戦いを仕掛け、しかし無計画ゆえに勝手に自滅しそうになると、そこで初めて神の名を出して、神のせいにする。

人間にはそのような所がある。困った時の神頼み、ならまだしも、困った時の神のせいにする、性質が。

しかし主はヨシャパテのゆえに、憐れみをほどこされる。

それはエリヤの時代から、ずっと同じである。神はすぐに滅ぼすような事はされない。

 

3:21 さてモアブびとは皆、王たちが自分たちを攻めるために上ってきたのを聞いたので、よろいを着ることのできる者を、老いも若きもことごとく召集して、国境に配置したが、

3:22 朝はやく起きて、太陽がのぼって水を照したとき、モアブびとは目の前に血のように赤い水を見たので、

3:23 彼らは言った、「これは血だ、きっと王たちが互に戦って殺し合ったのだ。だから、モアブよ、ぶんどりに行きなさい」。

 

モアブは、水がないはずの所に、太陽の反射で赤く見える水を、勝手に血だと解釈し、勝手に同士討ちして流された血だと思い込んで、無防備に進み行く。

 

3:24 しかしモアブびとがイスラエルの陣営に行くと、イスラエルびとは立ちあがってモアブびとを撃ったので、彼らはイスラエルの前から逃げ去った。イスラエルびとは進んで、モアブびとを撃ち、その国にはいって、

 

新改訳では攻め入った、と訳されているが、ボウは「入る」の意味。つまりモアブは、無防備に、入って行ったのだ。

のこのことやられに行ったようなものだ。

 

3:25 町々を滅ぼし、おのおの石を一つずつ、地のすべての良い所に投げて、これに満たし、水の井戸をことごとくふさぎ、良い木をことごとく切り倒して、ただキル・ハラセテはその名を残すのみとなったが、石を投げる者がこれを囲んで撃ち滅ぼした。

 

イスラエル達は、何もしていない。向こうから勝利が舞い込んだのだ。

このようにして下さる主を褒め称えるべき、だが、あいにくその後主に栄光を捧げたのはヨシャパテだけだった。

 

3:26 モアブの王は戦いがあまりに激しく、当りがたいのを見て、つるぎを抜く者七百人を率い、エドムの王の所に突き入ろうとしたが、果さなかったので、

3:27 自分の位を継ぐべきその長子をとって城壁の上で燔祭としてささげた。その時イスラエルに大いなる憤りが臨んだので、彼らは彼をすてて自分の国に帰った。

 

このような人身御供は偶像礼拝の土地で行われる。この日本でも。

モアブの神はケモシュで、手を差し伸べたケモシュ像の上に子供を置いて、下から火を炊き、子供の叫び声はドラムでかき消して捧げる。そのような神の下に居たいだろうか。いのちの君なる神は、のような偶像礼拝システムの存在を許さない。

 

かつて太平洋戦争では、神風特攻隊による自分の命もものともしない戦いでアメリカは戦慄したが、しかし実際の戦果は、

正規空母=0/護衛空母=3/戦艦0/巡洋艦=0/駆逐艦=撃沈13/その他(輸送船、上陸艇など)撃沈=31

撃沈の合計は47隻である。1隻沈めるために81人もの兵士が死ななければならなかった、ということだ。しかも戦果のほとんどが、米軍にとって沈んでも大勢に影響のない小艦艇だった。(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50088?page=3)

 

無駄に命を散らしていった命が際立っただけだった。日本はそれを美談にしてしまったが、皆さんは犠牲を強いるような上司の下で働きたいだろうか。

神は、いのちの君である。そんな国は、残念ながら、勝利させない。

神の憐れみは注がれている。立ち返るべきである。

イスラエル、ユダ、エドムはまことの神の栄光を見た。しかし、ユダ以外は立ち返らなかった。

主に立ち返らないなら、ただ、滅びだけが待っている。それは、手を離せば落ちていく法則と同じである。ただ、無意思無情な法則と違う事は、神は憐れみの期間を設けられる所である。

 

エデンに忍び寄る誘惑者を撃退する方法(マタイ4:1-11)
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勝手に行動し勝手に危機に陥って神のせいにした者に、憐れみを施して下さった神(2列王記3:1-20)
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