メッセージ - 201703のエントリ
踏み歩いた所を自分のものとするために(創世記13:10-18)
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週報/メッセージ(説教)概要
聖書には「約束の地」という言葉はよく出てくる。私たちイエス様を信じる者達が受け継ぐ「約束の地」は天国だが、イスラエルの民がエジプトという奴隷の地を出てから約束の地に入るまでに荒野を通らなくてはならなかったように、私たちもそこに入るまでに、この地上という「荒野」を通って行かなくてはならない。
「民数記(ベ・ミッドバル:荒れ野に)」を読むと、どうやら荒野(ミッドバル)で落伍して約束の地を踏む事ができない人も出てくるようである。約束の地に入れるか入れないかは、ひとえにどの言葉(ダバル)を選択し信じるかにかかっている。すなわち人間言葉か、それとも御言葉か。荒野で人を生かすのは御言葉であって、人間言葉は人を殺す。今回、どんな人が約束の地に踏み入り、どんな人が入れないかを見ていきたい。
本日の箇所は、神がアブラハムに、このカナンの土地を永久に与える、という約束をされた箇所である。
「約束の地」に入るためには、まず御言葉ありき、神の「約束」ありきである。私たちは何かと、ビジョンを思い描いて、自分の判断で「あそこはいい所だ」「あそこに行こう」と行動しがちであるが、それはロトの方法であって、私達の信仰の先祖アブラハムの方法ではない。彼は、ソドムとゴモラという主の御前にはなはだ罪深い町さえ、「よく潤っている」という理由で、「主の園のよう」と判断して、行ってしまった。(10-11節)
ロトはソドムに住処を移したがために、後には、アブラハムと一緒に築いた莫大な財を失い、娘達もソドムの汚れた価値観に染まってしまった。アブラハムがロトと決別したように、私達も、自分の中にあるロトの思考、ただ見た目だけでソドムさえ「主の園」に見てしまうような見方と決別しなければ、約束の地は入れない。
アブラハムが「その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」(17節) と、主から約束が与えられたのは、ロトと別れた直後だった。それで彼は住居をヘブロンに移し、そこに礼拝する所を据え、その後も、天幕生活を続けた。彼は天の故郷を仰ぎ見たので、どんなに祝福されて富が増し加わっても、地上においでは自分の墓の土地しか購入しなかった。私達も、天国こそ真の故郷であり、地上における祝福にじっと目を据えて留まるのではなく、天を見据え、「いかに死ぬか」の準備をする方が良いのだ。
アブラハムの子孫達が、実際にその土地を自分のものとしたのは、さらに数百年後の時代になる。
アブラハムが住んだヘブロンを勝ち得たのは、ユダ族のカレブであった。彼がその土地を偵察部隊としてはじめて足の裏で踏んだのは、彼が40歳の時だった。その時彼は先祖アブラハムゆかりの地に強烈な憧れを抱き、ぜひあの山地を獲たい、と願ったのだが、そこを獲るまでには、さらに45年を経なければならなかった。なぜそんなにも長くかかってしまったか。それは、ロトの価値観を持つ者達の故であった。
偵察にはイスラエル12部族代表の12人が行ったが、ヨシュアとカレブは、そこはとても素晴らしい地だ、主が共におられるなら必ず勝てる、ぜひ進み行こう、という意見だったのに、それ以外の者達は、そこを悪く言いふらした。そこは強大な大勢の者達が城壁の町々を守っている、あそこは自分達を食い尽くす地だ、彼らに比べれば自分達はいなごのようだった、と。(民数記13章)。
ここに、約束の地に入っていける者と、そうではない者とが分かれる。一方は神の約束を信じ、神が共におられるなら、必ずあの地を我がものにする事が出来る、と判断する者。他方は、神を度外視し、ただ相手と自分の力強さや知恵深さ、経験や装備を見比べて判断する。このように、共にいます神を眼中に入れずに、目に見えるもの・数値化されたもので比較し、判断し行動する人は、神の約束の地に入って行けない。
神の言葉を、自分の頑張りや能力で完成させようとする人がいるが、逆である。神の言葉が、人を完全にするのだ。人の頑張りや知恵、能力で神の国の事柄を完成させて行こうとしても、絶対に無理が生じる。
ヨシュアはどのようにして、何世紀にもわたる知恵と力の結集である城塞都市エリコを7日で陥落させたか。
それは100%、主の指示通りに従って行動したからである。それも、6日間は人々の口を閉じさせ、ただ祭司の吹き鳴らすラッパの音だけを響かせて、その城の周りを、足の裏で踏んで回っただけだった。
そして七日目、七人の祭司が七つのラッパを吹き鳴らし、主の民が鬨の声をあげた時、何世代にも渡って築き上げて来た城壁は崩壊し、いともあっさりと勝利できたのだ。そこにはアナク人や筋肉隆々の強者がいたかもしれないが、人間の言葉(ダバル)を閉ざし、神の言葉に従ったからこそ、どんなに経験が無い、弱い人でも、いともあっさりと、ものに出来たのである。沸々と湧き上がって来る人の言葉は閉ざし、ただ御言葉を信じて進み、勝利し、支配する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
主の戒めと叱責を軽んじ、キリストの系図から除外されたアマツヤ(2列王記14:1-7)
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- pastor 2017-3-24 6:37
主の戒めと叱責を軽んじ、キリストの系図から除外されたアマツヤ(2列王記14:8-22)
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主の言葉に従ってエドムに大勝利したアマツヤだったが、彼はエドムの偶像を持ち帰りその前にひれ伏した。
そこで神は預言者を遣わし彼を戒めたが、その戒めを彼は蹴ってしまった。
さらに彼は誇り高ぶり、北イスラエルにも戦いを仕掛ける。
14:8 そこでアマジヤがエヒウの子エホアハズの子であるイスラエルの王ヨアシに使者をつかわして、「さあ、われわれは互に顔を合わせよう」と言わせたので、
14:9 イスラエルの王ヨアシはユダの王アマジヤに言い送った、「かつてレバノンのいばらがレバノンの香柏に、『あなたの娘をわたしのむすこの妻にください』と言い送ったことがあったが、レバノンの野獣がとおって、そのいばらを踏み倒した。
14:10 あなたは大いにエドムを撃って、心にたかぶっているが、その栄誉に満足して家にとどまりなさい。何ゆえ、あなたは災をひき起して、自分もユダも共に滅びるような事をするのですか」。
14:11 しかしアマジヤが聞きいれなかったので、イスラエルの王ヨアシは上ってきた。
アマツヤは北イスラエル王ヨアシュから戒められたのに、それをも聞かずに戦争を仕掛けた。
それは、実に、主がそのようにしたからである。
2歴代誌25:20 これは神から出たのであって、彼らがエドムの神々を求めたので神は彼らを敵の手に渡されるためである。
どうしてあの人はあんな事をしようとするのだろう、散々な目に遭う事は確実なのに、と思える事があるが、その本人は100%、自分がこのその道に行けばうまく行くと、信じて疑わないのである。
それはその本人が、主の道に敢えて背き、戒めを聞かないから、主が本人の欲望に任せ、災いに遭わせて立ち返らせるためである。
箴言1:22 「思慮のない者たちよ、あなたがたは、いつまで/思慮のないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけり楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。
1:23 わたしの戒めに心をとめよ、見よ、わたしは自分の思いを、あなたがたに告げ、わたしの言葉を、あなたがたに知らせる。
言っても聞かないアマツヤは、散々な目に遭う事になる。
14:11b そこで彼とユダの王アマジヤはユダのベテシメシで互に顔をあわせたが、
14:12 ユダはイスラエルに敗られて、おのおのその天幕に逃げ帰った。
14:13 イスラエルの王ヨアシはアハジヤの子ヨアシの子であるユダの王アマジヤをベテシメシで捕え、エルサレムにきて、エルサレムの城壁をエフライムの門から隅の門まで、おおよそ四百キュビトにわたってこわし、
14:14 また主の宮と王の家の倉にある金銀およびもろもろの器をことごとく取り、かつ人質をとってサマリヤに帰った。
アマツヤは打ち負かされた挙句、捕らえられてしまい、エルサレムの城壁を180m近くにわたって打ち壊され、王宮の宝物も神殿の宝物もことごとく奪われ、人質もとられてしまった。
これに懲りて悔い改め、主に立ち返って静かに歩めば良かったのであるが、彼の後の人生は、そうではなかった。
14:15 ヨアシのその他の事績と、その武勇および彼がユダの王アマジヤと戦った事は、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。
14:16 ヨアシはその先祖たちと共に眠って、イスラエルの王たちと共にサマリヤに葬られ、その子ヤラベアムが代って王となった。
14:17 ヨアシの子であるユダの王アマジヤは、エホアハズの子であるイスラエルの王ヨアシが死んで後、なお十五年生きながらえた。
アマツヤはヨアシュが死んで後、十五年、生かされたのに、その後なおも主に逆らったようである。
14:19 時に人々がエルサレムで徒党を結び、彼に敵対したので、彼はラキシに逃げていったが、その人々はラキシに人をつかわして彼をそこで殺させた。
14:20 人々は彼を馬に載せて運んできて、エルサレムで彼を先祖たちと共にダビデの町に葬った。
アマツヤは、家来の謀反によって殺された。
なぜ謀反を起こされたのか。歴代誌には書いてある。
2歴代誌25:27 アマジヤがそむいて、主に従わなくなった時から、人々はエルサレムにおいて党を結び、彼に敵したので、彼はラキシに逃げて行ったが、その人々はラキシに人をやって、彼をその所で殺させた。
彼に謀反の企てが起きたのは、「主に従わなくなった時から」である。
主の戒め、主の叱責を軽んじた故である。
主に嫌われる事をし、主から預言者によって御言葉によって戒められても、それを捨てるなら、主から災いが送られてしまうのだ。
箴言1:24 わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、
1:25 かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、
1:26 わたしもまた、あなたがたが災にあう時に、笑い、あなたがたが恐慌にあう時、あざけるであろう。
1:27 これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む時である。
1:28 その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、しかし、わたしは答えない。ひたすら、わたしを求めるであろう、しかし、わたしに会えない。
1:29 彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、
1:30 わたしの勧めに従わず、すべての戒めを軽んじたゆえ、
1:31 自分の行いの実を食らい、自分の計りごとに飽きる。
アマツヤは、マタイ1章のキリストの系図から、除外されている。
神の国の系図に入れられるのは、血筋によってではなく、信仰によってなのだ。
だから、本来系図に入ってはならないはずのカナンの遊女ラハブや、モアブ人ルツも、マタイ1章の系図に入れられたのだ。
敵に勝利し祝福された後にこそ、真に勝利すべき戦いがある(2列王記14:1-7)
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14:1 イスラエルの王エホアハズの子ヨアシの第二年に、ユダの王ヨアシの子アマジヤが王となった。
14:2 彼は王となった時二十五歳で、二十九年の間エルサレムで世を治めた。その母はエルサレムの出身で、名をエホアダンといった。
14:3 アマジヤは主の目にかなう事をおこなったが、先祖ダビデのようではなかった。彼はすべての事を父ヨアシがおこなったようにおこなった。
14章は再び南ユダ王国の話になる。
ヨアシュの子アマツヤは、父が行ったように行った、とあるが、まさに父ヨアシュが歩んだように、最初は主の御旨に叶う事を行う良い王であったが、それによって祝福され栄えると傲慢になり、主に忌み嫌われる事を行う王となって行ってしまう。
14:5 彼は国が彼の手のうちに強くなった時、父ヨアシ王を殺害した家来たちを殺したが、
14:6 その殺害者の子供たちは殺さなかった。これはモーセの律法の書にしるされている所に従ったのであって、そこに主は命じて「父は子のゆえに殺さるべきではない。子は父のゆえに殺さるべきではない。おのおの自分の罪のゆえに殺さるべきである」と言われている。
主の御旨に叶う歩みをするなら、必ず栄えるのは、列王記を通して聖書が示す法則である。
彼は、モーセの書すなわち神の言葉に従う故に、彼の父の殺害者の子は殺さなかった。
14:7 アマジヤはまた塩の谷でエドムびと一万人を殺した。またセラを攻め取って、その名をヨクテルと名づけたが、今日までそのとおりである。
この出来事は第二列王記ではわずか1節で片付けられているが、この事については第二歴代誌に詳しく記されている。
2歴代誌25:5 アマジヤはユダの人々を集め、その氏族に従って、千人の長に付属させ、または百人の長に付属させた。ユダとベニヤミンのすべてに行った。そして二十歳以上の者を数えたところ、やりと盾をとって戦いに臨みうる精兵三十万人を得た。
25:6 彼はまた銀百タラントをもってイスラエルから大勇士十万人を雇った。
25:7 その時、神の人が彼の所に来て言った、「王よ、イスラエルの軍勢をあなたと共に行かせてはいけません。主はイスラエルびと、すなわちエフライムのすべての人々とは共におられないからです。
25:8 もしあなたがこのような方法で戦いに強くなろうと思うならば、神はあなたを敵の前に倒されるでしょう。神には助ける力があり、また倒す力があるからです」。
彼は栄え、多くの軍隊を得た。そしてエドムに戦いを仕掛ける時、自国の精兵三十万人と、北イスラエルから銀百タラントで雇った兵十万の、合計四十万で戦おうとした。
しかし、そこに神の人が現れる。
戦いを仕掛ける時に、主に喜ばれない者達と同盟を組んで一緒に行ってはならない、というのだ。
私達も、自分の望みを果たすために、悪者と連合したり、邪悪な者にお金を払ってその力を得ようとするなら、主は共に行ってくださらない。
それでも自分の欲望に惹かれて、強引に進み以降とするなら、敵によって、というよりも、神によって倒されてしまう。
神は、敵を倒す事も、敵の手を通して私達を倒す事もおできになり、そのどちらになるかは、私達が神に従順するか、それとも逆らうかにかかっている。
しかし、既に大金を払ってしまった。
主に忌み嫌われる方面へと既に大金を支払ってしまった場合は、どうしたら良いか。
25:9 アマジヤは神の人に言った、「それではわたしがイスラエルの軍隊に与えた百タラントをどうしましょうか」。神の人は答えた、「主はそれよりも多いものをあなたにお与えになることができます」。
預言者は言う。神は、支払ったお金よりも多いものも、与える事がおできになる、と。
従順するなら、実際にそのとおりになる。
25:11 しかしアマジヤは勇気を出し、その民を率いて塩の谷へ行き、セイルびと一万人を撃ち殺した。
25:12 またユダの人々はこのほかに一万人をいけどり、岩の頂に引いて行って岩の頂から彼らを投げ落したので、皆こなごなに砕けた。
預言者の言葉に従順した彼は、余裕の大勝利を得た。
25:10 そこでアマジヤはエフライムから来て自分に加わった軍隊を分離して帰らせたので、彼らはユダに対して激しい怒りを発し、火のように怒って自分の所に帰った。
25:13 ところがアマジヤが自分と共に戦いに行かせないで帰してやった兵卒らが、サマリヤからベテホロンまでの、ユダの町々を襲って三千人を殺し、多くの物を奪い取った。
北イスラエルの傭兵たちは、お金を得てそのまま帰るのでなく激しい怒りを燃やし、このような邪悪な事を行った。
だから神は、このような者たちと一緒に行ってはならない、と預言者を通して言われたのだ。
しかしアマツヤは、戦いに勝利したとたん、さらに悪い事を行ってしまう。
25:14 アマジヤはエドムびとを殺して帰った時、セイルびとの神々を携えてきて、これを安置して自分の神とし、これを礼拝し、これにささげ物をなした。
なんと、彼に勝利をもたらしたイスラエルの神を捨てて、自分に打ち負かされた国の神を持ち帰り、その前にひれ伏したのだ。
私達の中にもあるかもしれない。自分が大いに勝ち得た時、ぶんどった相手の素晴らしく見えるもの、仕組み、力の前にひれ伏してしまうような所が。
勝利し祝福されたその時、私達は気をつけるべきである。
主のボーナスステージの期間を無駄に過ごすなかれ(2列王記13:14-25)
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- pastor 2017-3-22 7:07
主のボーナスステージの期間を無駄に過ごすなかれ(2列王記13:14-25)
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13:14 さてエリシャは死ぬ病気にかかっていたが、イスラエルの王ヨアシは下ってきて彼の顔の上に涙を流し、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と言った。
エリシャが死の病にある時、北イスラエル王ヨアシュは誰を訪れ、涙を流した。
「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」ということばは、エリシャが、彼の師であるエリヤが火の戦車、火の騎兵によって天に上げられたのを見た時に叫んだ言葉だった。(2列王記2:12)
エリシャはなぜ、エリヤの霊のふたつ分を得ることが出来たのか。その理由が2章に書いてある。
2Ki 2:9 彼らが渡ったとき、エリヤはエリシャに言った、「わたしが取られて、あなたを離れる前に、あなたのしてほしい事を求めなさい」。エリシャは言った、「どうぞ、あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください」。
2Ki 2:10 エリヤは言った、「あなたはむずかしい事を求める。あなたがもし、わたしが取られて、あなたを離れるのを見るならば、そのようになるであろう。しかし見ないならば、そのようにはならない」。
2Ki 2:11 彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。
2Ki 2:12 エリシャはこれを見て「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、再び彼を見なかった。
エリシャは、他の預言者達がエリヤの昇天を受け入れ、あきらめたのに、なおエリヤにすがりついて離れなかった。
そして、エリヤが天に上げられる様を見ることが出来たから、その願いが聞き入れられた。
エリシャには、決してあきらめず、求め続け、見続ける忠実さがあったから、願ったとおりに与えられたのだ。
ひるがえって、ヨアシュ王はどうだったか。
13:15 エリシャは彼に「弓と矢を取りなさい」と言ったので、弓と矢を取った。
13:16 エリシャはまたイスラエルの王に「弓に手をかけなさい」と言ったので、手をかけた。するとエリシャは自分の手を王の手の上におき、
13:17 「東向きの窓をあけなさい」と言ったので、それをあけると、エリシャはまた「射なさい」と言った。彼が射ると、エリシャは言った、「主の救の矢、スリヤに対する救の矢。あなたはアペクでスリヤびとを撃ち破り、彼らを滅ぼしつくすであろう」。
預言者は、最後の力を振り絞って王の手を取り、これらの言葉を宣言した。
彼が最後のちからを振り絞って言ったこの言葉には、どれほど重みがあっただろう。
13:18 エリシャはまた「矢を取りなさい」と言ったので、それを取った。エリシャはまたイスラエルの王に「それをもって地を射なさい」と言ったので、三度射てやめた。
13:19 すると神の人は怒って言った、「あなたは五度も六度も射るべきであった。そうしたならば、あなたはスリヤを撃ち破り、それを滅ぼしつくすことができたであろう。しかし今あなたはそうしなかったので、スリヤを撃ち破ることはただ三度だけであろう」。
エリシャが「矢を取りなさい」と言った「矢」は、複数形である。だから、ヨアシュは、エリシャが最後の力を振り絞って宣言したこの「勝利の矢達」を、本当に勝利できる矢と信じ、期待して、何度でも射るべきだったのに、彼は3度しか射なかった。
三日坊主という言葉がある。せっかく預言者の戒めによって良い行いを続けても3日しか続けない人がいる。
主の時がある。祈り求め続けるべき時、そして、その祈りが報いられる時。
ゲームには大体、ボーナスステージという、得点やアイテムなどを一気に稼げるステージがあるが、主が「しなさい」と言われたその時が、私たちのボーナスステージである。
ゲームをする人は、ボーナスステージの期間になまけるような人はおらず、大体、期間が満ちるまで、時間を惜しんで動き回るものであるが、もし、私たちが主から「滅ぼし尽くせ」と言われたなら、時間を惜しんで滅ぼし尽くすべきであるし、もし、「足の下で踏む所がことごとくあなたのものとなる」と言われたなら、期間が満ちる最後の瞬間まで、縦横無尽に踏み尽すべき時なのだ。
13:20 こうしてエリシャは死んで葬られた。さてモアブの略奪隊は年が改まるごとに、国にはいって来るのを常とした。
当時の北イスラエル王国は、アラムのみならず、モアブにまでも好き放題荒らされていた。
霊的な「怠け」を続けているなら、このように、敵が好き放題になってはびこってしまうのだ。
13:21 時に、ひとりの人を葬ろうとする者があったが、略奪隊を見たので、その人をエリシャの墓に投げ入れて去った。その人はエリシャの骨に触れるとすぐ生きかえって立ちあがった。
エリシャの名の意味は「私の救いなる神」であった。
イエス様の名の意味も、「救いの神」であるが、まさにエリシャは、「信じる者は死んでも生きる」イエス様をあらわす預言者であった。
13:22 スリヤの王ハザエルはエホアハズの一生の間、イスラエルを悩ましたが、
13:23 主はアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約のゆえにイスラエルを恵み、これをあわれみ、これを顧みて滅ぼすことを好まず、なおこれをみ前から捨てられなかった。
イスラエルの歴史は、まことに主に反逆し続ける歴史であったが、それでも主は、彼らの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約のゆえに、彼らに対するあわれみを注ぎ続けて来た。
南ユダ王国の王は、彼らの先祖ダビデの故に、であるが、しかし北イスラエル王国は、さらに何百年も前のアブラハムとの契約を覚え、あわれみを捨てないのだ。
まことに、主を恐れ敬う人には、千代の祝福が約束されている。
もし、義人の子がその世代に主から離れても、親のその信仰故に、主はあわれみを注ぎ、その子の世代に災いを起こしてでも、立ち直らせようと主は為される。
その子にとっては「災い」と見える事でも、それは、主の「あわれみ」が根源にあるのだ。
13:24 スリヤの王ハザエルはついに死んで、その子ベネハダデが代って王となった。
13:25 そこでエホアハズの子ヨアシは、父エホアハズがハザエルに攻め取られた町々を、ハザエルの子ベネハダデの手から取り返した。すなわちヨアシは三度彼を撃ち破って、イスラエルの町々を取り返した。
エリシャの預言どおり、三度、勝利する事は出来た。
北イスラエルはなお、主に立ち返らない事を続けるが、なおも主のあわれみは尽きる事が無い。
足の下で踏んだ土地を自分のものとするための必要条件(創世記13:11-18)
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創世記13:11 そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。
13:13 ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。
13:14 ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。
13:15 すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。
13:16 わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。
13:17 あなたは立って、その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」。
13:18 アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた。
主がアブラハムに、具体的に、この地を約束の地として与える、と約束して下さった箇所である。
そこを実際にアブラハムが目で見、そこを縦横無尽に歩きまわり、足の裏で踏んで、自分と自分の先祖のものにしたのは、最後の血縁である甥のロトと別れた後であった。
ロトはアブラハムと違い、自分の目で見、自分で評価し、自分の行きたい所に行く者だった。
ロトはソドムという主の目にはなはだ悪い者達が住んでいる場所を、「主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。」と評価した。
肉の欲に目がくらむと、ソドムさえも主の園と同価に見てしまうのが、肉に従って歩む人間である。
そのロトとの決別がきっかけで、アブラハムは「足の下で踏みゆく所はことごとく与える」という幸いにあずかる事が出来た。
主はまず、御言葉による約束を与えて下さる。
イスラエルの民には既に500年以上前に、彼らの先祖アブラハムに与えられた神の約束がある。その地を既に与えた、と。
私たちにも既に、聖書という、2000年前に与えられた約束の御言葉がある。
神様の約束が与えられたなら、それに対する私たち人間が為すべき評価はただ一つ、「アーメン」、すなわち、そのとおりになります、そのとおりに実行します、それが唯一の正しい神様の御言葉に対する応答である。
私たちも、以前の考え方、肉に従って評価するくせとは決別しなければ、「足の下で踏みゆく所はことごとく与える」という幸いにあずかる事はできない。
アブラハムの子孫のイスラエルの民は、エジプトを出たのち、すぐにこのアブラハムに約束された地に入れるはずだった。
しかし、ロトのような目で見て判断する者達ゆえに、40年、荒野で放浪する事になってしまった。
そのきっかけをつくったのは、ヨシュアとカレブと共に約束の地を探って来た斥候たちであった。
その斥候たちは、実際にかの地を偵察し、その地を見、足の裏で踏み、その地のものを食べ体験して来た。
民数記13:27 彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。
13:28 しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。
13:29 またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」。
以上の3節には、人の評価や感情は一切入っていない。客観的な状況報告である。
その客観的事実に対し、人はどう「評価」するか。それによって、生死の明暗が別れる。
13:30 そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。
カレブは、確かに他の斥候達と一緒に、あの巨大な、力強く戦いに長けたアナク人達を見てきた。その者達が守っている城壁の町々も見てきた。
しかし、カレブの評価は「必ず勝てる」であった。
彼は神がエジプトに対して為された10の災いと、そして紅海の水を割り、イスラエルの民は渡らせ、エジプトの軍隊は水に飲み込ませた様も見た。
その神様と、あのアナク人達を見比べて、必ず勝てる、と評価したのである。
13:31 しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。
13:32 そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。
13:33 わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」。
彼らは、主が約束して下さった地を、悪くいいふらした。
そこは良い地であったのに、なぜ悪く言いふらすのか。それは、自分の思い通りに人々を操りたいためであろうが、主の約束を、主の与えてくださるものを、悪くいいふらすのは、何と災いを招く事だろう。
彼らの評価はカレブとは真逆、「攻め上ることはできない」であった。
彼らは自分と相手を比較し、そこに主は存在せず、彼らをエジプトから導き出し、荒野で食べさせて下さった主を、度外視していたのだ。
主を無視する。それはなんと主に対して失礼な、神の民として、いかに災いな性質だろう。
しかし自分と相手だけを見、そこに私たちの主、万軍の主の存在を度外視して物事を評価し、恐れ、できない、と、御言葉とは真逆の方面に行く時、主を無視してしまっているのだ。
私たちはそのような性質は、切り離し、決別しなくてはならない。
アブラハムがロトと決別してから、主に約束の地を見せられ、歩かされたように、私たちもそのような性質とは決別しなくては、約束の地を手に入れる事はできないのだ。
カレブは斥候としてあの地を探ってから、実際にその地を手に入れるまで、45年、待たなくてはならなかった。
その年月の間に、かの、不信仰な世代が死に絶える期間が必要だったからだが、それでも45年、彼の信仰も体も衰える事はなく、ついに、彼はあの日、希望に胸をふくまらせて足の下で踏みしめたヘブロンの地を見事に自分のものとし、彼の子々孫々にそこを受け継がせた。
私たちもロトのような性質とは決別し、信仰をもって御言葉を握りしめ行くべきだ。
支配者であれ(創世記1:26-31)
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週報/メッセージ(説教)概要
神は元々、人を、神に「似る(ツェレム:影、像)」ように、神の「かたち(デムース:似ている、類似した)」に、創造した。そして海、空、地の全ての生き物を支配するように(創世記1:26)。宇宙広しと言えど、地球にどんなたくさんの種類の生物がいると言えど、神の像、神に似た者として造られたのは、私達人間だけだ。
人は「神のかたち」故に、神のように自由に選択し行動する性質が与えられた。それも、神を裏切る自由さえも。それで人はそれを用いて、神を裏切り、聖なる神とは似ても似つかぬ者に成り下がってしまった。
しかし神は、そんな私たちを簡単に切って捨てるような事はせず、むしろ、私たちを愛し、私たちを神の子と呼ばれるようにするために、どれ程大切な代償を支払って下さか。神は、ひとり子をお与えになった程に私たちを愛された。それは御子を信じる人が一人も滅びる事なく、永遠のいのちを持つためである。
神が本来人に与えて下さった素晴らしい特権を回復するためには、神との「親子関係」を回復する事である。神は、神との親子関係を回復する道を、人に対して開いて下さった。
神の子とは、どういう人か。それはイエス様を自ら受け入れた人、すなわち彼の名を「自分から好んで信じ続ける人々(現在形能動態)」(ヨハネ1:12)であり、自分をきよく保つために汚れから出て行って自らを分離する人であり(2コリント6:14-18)、そして、聖霊に導かれている人である(ローマ8:14,ガラテヤ4:6)。
神の子には、次の命令が与えられた。「生めよ(パラー)、ふえよ(ラバー)、地に満ちよ(マラー)、地を従わせよ(カバッシュ)。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ(ラダー)」(創世記1:28)
ここに幾つかの命令がある。まずは「生めよ(パラー)」、この言葉が派生してエジプトの王の称号「パロ」が出た。エジプト人は産んで増えて行く事を願って、「パロ」を王の称号にした。しかしそのパロが恐れる程に、神は、「神の子」を生んで増やし、地に満たして下さる。
次に「増えよ(ラバー)、地に満ちよ(マラー)」も、命令型動詞である。命が増え広がって行く事が主の命令であるからには、産む事を躊躇したり、間引きしたりするのは主の御旨に反するのだ。
また、「征服せよ(カバッシュ:踏みにじる、征服する)」、「治めよ(ラダ:支配する、踏む)」、これは「本質」を貫きなさい、という命令である。
私達・神の子たちが、世から従わされたり、世からリードされたりする事は、神の本質ではないのだ。
神は私たちに、地の生き物も、海の生き物も、空の生き物も足の下で征服(カバッシュ)せよ!足の下に支配(ラダー)せよ!と命令された。これを、Lordship, Kingship(ロードシップ、キングシップ)命令、と言う。
神の子として尊厳を持ち、貴族的に、優雅に統治し支配する。このロードシップに信仰の先人達は歩んだ。
主と共に歩んだアブラハムに対し、世の王であるパロは恐れ、アビメレクも彼に平伏して「契約を結ぼう」と媚びて来た。イサクに対しても、最初はアビメレクは食ってかかって来たが、彼が柔和に、平和に主と共に歩み、それで何をしても栄えるので、彼は「あなたには神がいる」と言って恐れ、自ら契約を結びに来た。
ヤコブも、当時世界最強の王・パロを、祝福した。霊的に上の立場だからだ。このように、神の子としてロードシップに、キングシップに歩むなら、世の王たちが恐れをなし、宝物や贈り物を携えて平伏しに来るのだ。
この命令に背を向けるなら、世の者たちも自然界も、食ってかかるようになる。私たちは、神の子として歩み続けるべきである。イエス様の「名」を「自ら信じ続けている」だろうか。自らをきよく保っているだろうか。
汚れから出て分離する努力を止めていないだろうか。御霊に歩んでいるだろうか。
それらを怠って神を軽んじ続けるなら、世の側が調子に乗り、リードされ、従わせられてしまう。アブラハムの子孫達さえ、主を軽んじ続けたために敵が調子づいて「ひれ伏せ。われわれは乗り越えて行こう。」と言われ、背中を地面のように、歩道のようにして、敵が踏んで乗り越えて行くのにまかせた。(イザヤ51:23)
神の言葉に服従し、地を踏み、地を支配するのが、神の子の本分である。主は御言葉に従ったアブラハムに、またヨシュアに、命じられた。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、あなたがたに与える、と。
私達もイエス様にあって神の子とされたからには、踏んで、支配するべきである。キリストを信じ、神と親子関係を保ち続ける「神の子達」は、地の全てのものも、サタンとそれに属する者達を足の下で支配するべきであって、支配されるべきではない。神の子としての座をキープし続け、支配する皆さんでありますように!
いこいの水のほとりに伴われる主 - ジェホバ・シャローム(詩篇23:2)
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週報/メッセージ(説教)概要
聖書には、主のご性質をあらわす呼び名が多数登場するが、ダビデの作った詩篇23篇の中には、それらの代表的な8つのご性質が、練り込められている。今回は2節「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」の中に込められた「ジェホバ・シャローム」の主の名を掘り起こしたい。なお、国や訳によっては「ジェホバ」が「アドナイ」あるいは「ヤーウェ」になったりしているが、いずれも意味は同じである。
この詩篇23篇2節に練り込められた御名「ジェホバ・シャローム」が登場する場面は、主がギデオンを召し出された場面である。どういう時に主は彼に現れたか。それは、彼がミデヤン人という敵に見つからないように、酒ぶねの中に隠れながら麦を打っている場面である(士師記6章)。そんな臆病な、部族の中で最も小さく、最も弱い者に、主は現れて言われた。「大勇士よ、主はあなたと共におられます」(士師記6:24)
この時点、ギデオンは未来が見えていない。彼自身も、彼の父も、部族の人々も、まさかギデオンが大勇士になるとは思ってなかったが、主の目には、将来の彼の大勇士である様が、見えていた。なぜなら彼には、主に従順する性質があったからだ。彼は、主から言われた事を、そのまま実行する人だった。
普通、常識ある人間は、10万以上の敵にたった300人で立ち向かう事はしないが、ギデオンは、主がしなさいと言われたので、した。主が「人が多いから減らしなさい」と言われたら、相応しくない1万や2万をばっさり切ったし、たった300人になっても、10万以上の敵に立ち向かって行った。そのような性質だから、彼は用いられたのであり、この、主に言われたとおりに実行する性質こそ「大勇士」の性質である。
ギデオンは、どういう場面でジェホバ・シャロームを宣言したのだろう。彼が酒ぶねの中で、恐れながら麦を打っている時、主の使いが彼に現れたが、彼は、主の使いと面と面を向かって話していたというのに、実感せずにいた。しかし彼が、相手が本当に主の使いであったと分かった時、死ぬのではないかと恐れた。
しかし『主は彼に言われた、「安心せよ、恐れるな。あなたは死ぬことはない」。そこでギデオンは主のために祭壇をそこに築いて、それを「主は平安(ジェホバ・シャローム)」と名づけた。』(士師記6:23-24)
私達も、主の力強く全く聖であられる有様を知った時、ひるがえって、自分が昨日犯したあの罪、今日犯したこの罪も全部、主がその目でじっと見つめておられた、と知るなら、ギデオンのように絶望するしかない。
ダビデも、主の目の前で他人の妻を奪い、その夫を謀殺するような罪を犯した、にもかかわらず、「あなたは死なない」と言われた。なぜか?それは彼が自分の罪を認め、告白し、罪の報復を受け入れたからだ。
「主は言われた、「悪い者には平安(シャローム)がない」と。」(イザヤ48:22) しかしもし私達が自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、全ての悪から、私達をきよめて下さる。
ユダヤ人は「シャローム」を、挨拶の言葉として使っている。このシャロームの中に込められている最たる願いは「トーブ(良し)」である。主がこの世界を6日に分けて創造された時、一日一日に「良し」(トーブ)と宣言された。そして、人間を創られた第6日目には「はなはだ良し」と評価され、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」と、人間を祝福された。(創世記1章)
この「トーブ」の中には「1,パーフェクト(完全)」「2,ビューティーフル(美しい)」「3,グッド(良い)」の意味が込められており、これら3つを束ねて「シャローム」という。つまり、ユダヤ人がシャロームの挨拶を交わす時、完全でありますように、美しい者であるように、良い者でありますように、という願いを込めているのだ。
ユダヤ人であるパウロも、その書簡の中で頻繁に「平安があなた方にあるように」という挨拶をしている。
イエス様も、恐れて隠れている弟子達の中に現れ、平安(シャローム)があなた方にあるように、と宣言し、その手とわき腹を示された。『弟子達は、主を見て喜んだ。イエス様はもう一度、「平安があなたがたにあるように。」と言われ、彼らに息を吹きかけて、言われた。「聖霊を受けなさい。」』(ヨハネ20:19-22)
弟子達が主を見て喜んだのは、イエス様がその手とわきを示されたからだ。イエス様が私たちの代わりに十字架上で打たれ、罰を受け、死なれた。そして、よみがえられた。これぞ完全なシャロームの根源である。
イエス様こそ、まことの羊飼いであり、備え主であり、そして平和の主である。このシャロームの主であるイエス様が、緑の牧場といこいの水へ導き、生活において、仕事において、いのちの営みにおいてトーブを宣言され、その御言葉どおりに、皆さんの上に成りますように。イエス様のお名前によって祝福します!