メッセージ - 201706のエントリ

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
アシェル(幸いな人)の3つの法則(ヨシュア記1:5-9)
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主の前に約束し、誰よりも思い切って実行したヨシヤ王(2列王記23:1-15)
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若い時から主の道に歩もうと志し、ある時、主の律法を発見し、それに記された主の道と、それにあまりにも反した道を歩んできた先祖代々の罪とを照らしあわせた時、恐れおののいたヨシヤ王は、早速主に伺った。
主は、御言葉を前に恐れおののいた彼の代には、その災いを降されない、と、約束して下さった。
主からの災いを、自分は免れた、と思ったキリスト者が、それに安んじて、油断し、罪を犯してしまう事はままあるが、ヨシヤはどうだっただろう。

23:1 そこで王は人をつかわしてユダとエルサレムの長老たちをことごとく集めた。
23:2 そして王はユダのもろもろの人々と、エルサレムのすべての住民および祭司、預言者ならびに大小のすべての民を従えて主の宮にのぼり、主の宮で見つかった契約の書の言葉をことごとく彼らに読み聞かせた。

ヨシヤは早速行動した。しかも、大小全ての人々を集め、彼らに主の御言葉をことごとく読み聞かせた。
聞かせた、というだけで終わるのではない。霊の指導者は、ただ聞かせるだけでは十分ではない。

23:3 次いで王は柱のかたわらに立って、主の前に契約を立て、主に従って歩み、心をつくし精神をつくして、主の戒めと、あかしと、定めとを守り、この書物にしるされているこの契約の言葉を行うことを誓った。民は皆その契約に加わった。

ヨシヤ王はさらに、自分のみならず人々にも主の御前に正しく歩む事を約束した。
私達も、人々に主をすすめる時、主の前に歩むか、そうでないかを人の口から告白させる事が重要である。
ヨシヤは、律法の書に次のように書いてある事を心にとめ、それを実行したのだ。

申命記6:1 これはあなたがたの神、主があなたがたに教えよと命じられた命令と、定めと、おきてであって、あなたがたは渡って行って獲る地で、これを行わなければならない。
6:2 これはあなたが子や孫と共に、あなたの生きながらえる日の間、つねにあなたの神、主を恐れて、わたしが命じるもろもろの定めと、命令とを守らせるため、またあなたが長く命を保つことのできるためである。
6:3 それゆえ、イスラエルよ、聞いて、それを守り行え。そうすれば、あなたはさいわいを得、あなたの先祖の神、主があなたに言われたように、乳と蜜の流れる国で、あなたの数は大いに増すであろう。
6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。

そして彼は、約束したならら、それで満足して、何もしなかったというわけではない。
彼は、実に思い切った行動に踏み切る。

23:4 こうして王は大祭司ヒルキヤと、それに次ぐ祭司たちおよび門を守る者どもに命じて、主の神殿からバアルとアシラと天の万象とのために作ったもろもろの器を取り出させ、エルサレムの外のキデロンの野でそれを焼き、その灰をベテルに持って行かせた。

主の神殿の中に、バアルとアシラと天の万象とのために作ったもろもろの器があったのだ。
確かに彼の祖父マナセの代にそれが築きあげられたと、記されているが、それがそのまま主の宮に放置されていたのは、おどろくべき事かもしれない。
しかし読み進めていくと、もっとおどろくべき事が記されている。

23:5 また、ユダの町々とエルサレムの周囲にある高き所で香をたくためにユダの王たちが任命した祭司たちを廃し、またバアルと日と月と星宿と天の万象とに香をたく者どもをも廃した。
23:6 彼はまた主の宮からアシラ像を取り出し、エルサレムの外のキデロン川に持って行って、キデロン川でそれを焼き、それを打ち砕いて粉とし、その粉を民の墓に投げすてた。

当時のエルサレム周辺の町々には「高き所」という、太陽や月や星々や、天のもろもろを神とする神社仏閣のようなものがあり、そこに仕える祭司もいた。
彼はそれを廃止し、また、なんとアシェラ像が主の宮の中にさえあったのだが、それをも排除した。
次にはもっと驚く事が書いてある。

23:7 また主の宮にあった神殿男娼の家をこわした。そこは女たちがアシラ像のために掛け幕を織る所であった。

なんと、主の宮の中に、神殿男娼の家があったのだ。男と男が忌み嫌われるべき事をする者の家が、聖なる主を礼拝する所に、あったのだ。
御言葉に立っているキリスト者は、これを驚嘆すると同時に、震えるほど不愉快な思いになるかもしれない。しかし、御言葉を知らず、同性愛をよしとする「キリスト者」は、それをなんとも思わないかもしれない。
しかし聖書は、同性愛は、生きたまま炎に焼かれる滅びに至るような、忌むべき行為である事を示している。(創世記19章、ローマ1:26-28, レビ18:22-30, 1テモテ1:9-10, 1コリント6:9-10, 2ペテロ2:6-10、ユダ1:7)

しかし、なぜこのような忌むべき事が、この箇所に至るまで、気づかなかったのか。
それは、それが習慣化し、まかり通っていたからであり、その存在が「罪」とは思っていなかったからである。
つまり、万物の基準である御言葉が無かったからであり、指摘されるまで気づかなかったのだ。
ヨシヤは、御言葉の基準を知った時、それを取り除いたのだ。

23:8 彼はまたユダの町々から祭司をことごとく召しよせ、また祭司が香をたいたゲバからベエルシバまでの高き所を汚し、また門にある高き所をこわした。これらの高き所は町のつかさヨシュアの門の入口にあり、町の門にはいる人の左にあった。
23:9 高き所の祭司たちはエルサレムで主の祭壇にのぼることをしなかったが、その兄弟たちのうちにあって種入れぬパンを食べた。

高き所は、主を礼拝するのか、偶像を礼拝するのか、あやふやな所であるが、ひとつはっきりしている事は、律法に照らすなら主が定めた所以外で礼拝するのは違反である事である。
ヨシヤはそれをも取り除いた。

23:10 王はまた、だれもそのむすこ娘を火に焼いて、モレクにささげ物とすることのないように、ベンヒンノムの谷にあるトペテを汚した。

自分の息子や娘を火で焼いて邪教の神に捧げるという蛮行を、ヨシヤの祖父マナセは行ったが、彼はもはやそのような事が出来ないようにした。

23:11 またユダの王たちが太陽にささげて主の宮の門に置いた馬を、境内にある侍従ナタンメレクのへやのかたわらに移し、太陽の車を火で焼いた。
23:12 また王はユダの王たちがアハズの高殿の屋上に造った祭壇と、マナセが主の宮の二つの庭に造った祭壇とをこわして、それを打ち砕き、砕けたものをキデロン川に投げすてた。

ヨシヤは、彼の祖父が、そのまたさらなる祖父の代由来の諸々の偶像、すなわち、主に忌み嫌われるべきものを、思い切って破壊した。
そればかりではない。

23:13 また王はイスラエルの王ソロモンが昔シドンびとの憎むべき者アシタロテと、モアブびとの憎むべき者ケモシと、アンモンの人々の憎むべき者ミルコムのためにエルサレムの東、滅亡の山の南に築いた高き所を汚した。
23:14 またもろもろの石柱を打ち砕き、アシラ像を切り倒し、人の骨をもってその所を満たした。

なんと、ソロモンの代から存在した高き所も、ずっとあって、そこで主の目に忌み嫌われる事が行われて来たのだ。
それは数百年の昔から存在し、日本でいえば、国宝級のような史物さえも、ヨシヤは、主に忌み嫌われるものであるからには、破壊した。
まことに生半可な心持ちでは出来る事ではない。今までの王は、できなかった事を、ヨシヤは実行したのだ。

私達も、自分の人生で、あるいは家系で代々持ち続けてしまった、主に忌み嫌われる習慣や思考パタンなどは、気付かされた時には、ヨシヤのように、いさぎよく捨て去るものでありたい。

御前に出る時に用意すべきものと、脱ぎすてるべきもの(伝道者の書5:1-7)
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5:1 神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。
5:2a 神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。

ここは、KJVを直訳するなら、次のようになる。
「愚かないけにえをささげるよりも、聞く準備をせよ。悪とされないために。」

私達は主の御前に出る時、聞く耳の準備をし、そしてそれを聞いたなら守り行うという意志を持って、のぞむべきだ。
聞く準備なしに、礼拝出席するとするなら、それは愚かないけにえであり、聞く準備なしに出席するよりは、むしろ、出席しないほうがいい。
なぜなら、その聞く耳なしの存在は、御前に汚物のような存在となり、主を不愉快にさせ、他の礼拝者を不愉快にさせるからだ。

主の御前に進み出る時に、脱ぎ捨てるべきものがある。

出エジプト記3:4 主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。
 3:5 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。

主は、主の御前だと知らずに来たモーセに、ここに近づいてはならない、くつを脱げ、と命じた。
私達も、主の御前に進み出る時、脱ぎ捨てるべき二つのくつがある。

伝道者の書5:2b それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。
5:3 夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。

脱ぎ捨てるべき二つの靴の一つ目は、私達の口から出てくる言葉であり、ふたつ目は「夢」、それも、仕事の多い事によって来る夢である。
人はみずから、あれをしよう、これをしようとして色々な夢を見るが、礼拝に進み出る時にはそれを置くべきである。
夢が、主の御前に進み出る事をさまたげるものなら、その仕事や夢のほうを捨てるべきなのだ。

5:4 あなたは神に誓いをなすとき、それを果すことを延ばしてはならない。神は愚かな者を喜ばれないからである。あなたの誓ったことを必ず果せ。
5:5 あなたが誓いをして、それを果さないよりは、むしろ誓いをしないほうがよい。
5:6 あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。また使者の前にそれは誤りであったと言ってはならない。どうして、神があなたの言葉を怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてよかろうか。

口、それは災いをもたらすものである。
ツゥムというヘブライ語は、断食を意味するが、元々の意味は、覆うこと、すなわち、口を覆う事であり、それがすなわち食べない事、断食、となった。
食べない断食をするよりも、むしろ、口からむなしい言葉を発しないという断食をこそすべきであると、イザヤ58章に記されている。

サウルは聞く耳持たずして、愚かないけにえをささげた。
1サムエル15:7 サウルはアマレクびとを撃って、ハビラからエジプトの東にあるシュルにまで及んだ。
 15:8 そしてアマレクびとの王アガグをいけどり、つるぎをもってその民をことごとく滅ぼした。
 15:9 しかしサウルと民はアガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した。

彼は、主からの「滅ぼし尽くせ」という言葉に従わず、一部を滅ぼし、一部を惜しんで滅ぼさなかった。
それはすなわち、主の命令を破った、という事である。

 15:13 サムエルがサウルのもとへ来ると、サウルは彼に言った、「どうぞ、主があなたを祝福されますように。わたしは主の言葉を実行しました」。
彼は祝福の元である主の命令を自ら破ったのに主の祝福をいい、実行していないのに、実行しましたと言った。
まさに軽々しくおろかな唇である。

サムエルからなおも指摘されても、彼は言う。
 15:20 サウルはサムエルに言った、「わたしは主の声に聞き従い、主がつかわされた使命を帯びて行き、アマレクの王アガグを連れてきて、アマレクびとを滅ぼし尽しました。
 15:21 しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました」。

主の言葉がそこにあるのに、その周りにたくさんの身勝手な言葉で装飾し、夢を見ると、それは愚かな言葉となる。

伝道者の書5:7 夢が多ければ空なる言葉も多い。しかし、あなたは神を恐れよ。

私達は主の御前に進み出る時、聞くべき耳を用意し、そして脱ぐべき靴である虚しい言葉をぬいで、また、虚しい夢をぬいで、主に喜ばれる礼拝者となるべきである。

ルカによる福音書 講解説教メッセージ
イエス様にあって新しくされた人と、古いままの者との互いに相容れない関係(ルカ5:27-39)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
断食とは(イザヤ58:1-5)
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ヨシヤ王 - 南ユダ王国最後の良い王(2列王記22:1-20)
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22:1 ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年の間、世を治めた。母はボヅカテのアダヤの娘で、名をエデダといった。
22:2 ヨシヤは主の目にかなう事を行い、先祖ダビデの道に歩んで右にも左にも曲らなかった。

ヨシヤは、南ユダ王国最後の「良い王」に数えられた王であり、彼以降は悪い王が続いて、バビロン捕囚への道をまっしぐらに進んでしまう。
彼は8歳で王になった。彼の父アモンが謀反にあって殺されたからであるが、彼は十六歳の若い時から既に主の目に叶う統治をしようと心がけている有様が、2歴代誌に記されている。

2歴代誌34:3 彼はまだ若かったが、その治世の第八年に父ダビデの神を求めることを始め、その十二年には高き所、アシラ像、刻んだ像、鋳た像などを除いて、ユダとエルサレムを清めることを始め、
34:4 もろもろのバアルの祭壇を、自分の前で打ちこわさせ、その上に立っていた香の祭壇を切り倒し、アシラ像、刻んだ像、鋳た像を打ち砕いて粉々にし、これらの像に犠牲をささげた者どもの墓の上にそれをまき散らし、
34:5 祭司らの骨をそのもろもろの祭壇の上で焼き、こうしてユダとエルサレムを清めた。
34:6 またマナセ、エフライム、シメオンおよびナフタリの荒れた町々にもこのようにし、
34:7 もろもろの祭壇をこわし、アシラ像およびもろもろの刻んだ像を粉々に打ち砕き、イスラエル全国の香の祭壇をことごとく切り倒して、エルサレムに帰った。

彼は若い頃から自ら率先して主に喜ばれる道を歩もう、とした。
そうして、彼の父たちの代で汚されてしまった主の宮をきよめている最中に、彼はあるものを発見する。

22:8 その時大祭司ヒルキヤは書記官シャパンに言った、「わたしは主の宮で律法の書を見つけました」。そしてヒルキヤがその書物をシャパンに渡したので、彼はそれを読んだ。
22:9 書記官シャパンは王のもとへ行き、王に報告して言った、「しもべどもは宮にあった銀を皆出して、それを工事をつかさどる主の宮の監督者の手に渡しました」。
22:10 書記官シャパンはまた王に告げて「祭司ヒルキヤはわたしに一つの書物を渡しました」と言い、それを王の前で読んだ。
22:11 王はその律法の書の言葉を聞くと、その衣を裂いた。

この、神殿の中に古く眠っていた書、それは、モーセの律法の書であった。
そして、その内容を知った時のヨシヤの対応は、衣を裂いて、悔い、へりくだり、泣いた事だった。(19節)
それまでヨシヤやその時代の人々は、久しく、モーセの律法の内容を知らず、ただ、預言者の言葉から主の意図を知り、預言がない時は、なんとなく過ごして来たのである。
主の御言葉を知らず、主の基準を知らずに罪を犯して来るという事は、ある。しかし、主の御言葉を知り、基準を知った後に、どう行動するか。それこそ最も大事である。

モーセの律法には、書いてある。主に聞き従って歩む人がいかに幸いであるか、いかに特別扱いを受けて祝福されるか。
それと同時に、主の御声に聞き従わないなら、どんなに災いに遭うか、その災いはどの程度か、それでも聞き従わないなら最終的にはどうされてしまうのか。

実際、ヨシヤは見た。北イスラエル王国が、主の御声に聞き従わない事を続けた結果、彼らは災いに遭い、律法に書いてある通りに、母親が自分の子の肉を食べるほどの飢饉にも遭い、そしてついにはアッシリヤによって滅ぼされ、捕囚として連れて行かれてしまったのを。
御言葉に書いてある事を知り、そして実際にその通りになっている人を見た時、私達も、ヨシヤのように恐れおののきつつ、御声に聞き従う対応を取るべきである。
それでも主を恐れず、聞き従わない事を続けたらどうなったか、ヨシヤはその父アモンがそうだったのを見た。それで彼は、御言葉に対する恐れがあった。

22:12 そして王は祭司ヒルキヤと、シャパンの子アヒカムと、ミカヤの子アクボルと、書記官シャパンと、王の大臣アサヤとに命じて言った、
22:13 「あなたがたは行って、この見つかった書物の言葉について、わたしのため、民のため、またユダ全国のために主に尋ねなさい。われわれの先祖たちがこの書物の言葉に聞き従わず、すべてわれわれについてしるされている事を行わなかったために、主はわれわれにむかって、大いなる怒りを発しておられるからです」。

ヨシヤは御言葉を知って恐れおののき、早速、主の御心を伺おうとして預言者へと人を遣わした。

22:14 そこで祭司ヒルキヤ、アヒカム、アクボル、シャパンおよびアサヤはシャルムの妻である女預言者ホルダのもとへ行った。シャルムはハルハスの子であるテクワの子で、衣装べやを守る者であった。その時ホルダはエルサレムの下町に住んでいた。彼らがホルダに告げたので、
22:15 ホルダは彼らに言った、「イスラエルの神、主はこう仰せられます、『あなたがたをわたしにつかわした人に言いなさい。
22:16 主はこう言われます、見よ、わたしはユダの王が読んだあの書物のすべての言葉にしたがって、災をこの所と、ここに住んでいる民に下そうとしている。
22:17 彼らがわたしを捨てて他の神々に香をたき、自分たちの手で作ったもろもろの物をもって、わたしを怒らせたからである。それゆえ、わたしはこの所にむかって怒りの火を発する。これは消えることがないであろう』。

ヨシヤがそれまで主に対して示してきた忠実は、確かにあったかもしれない。しかし主が言われた事は、手厳しいものだった。
その内容はヨシヤにではなく、主を怒らせた者達に対して、すなわち、イスラエルに対してのものだった。
イスラエルの歴代の王達や人々は、律法に照らせば災いを受ける他はないことばかりして来たからだ。しかし主は、悔い改める人には憐れみを注がれる。

22:18 ただし主に尋ねるために、あなたがたをつかわしたユダの王にはこう言いなさい、『あなたが聞いた言葉についてイスラエルの神、主はこう仰せられます、
22:19 あなたは、わたしがこの所と、ここに住んでいる民にむかって、これは荒れ地となり、のろいとなるであろうと言うのを聞いた時、心に悔い、主の前にへりくだり、衣を裂いてわたしの前に泣いたゆえ、わたしもまたあなたの言うことを聞いたのであると主は言われる。
22:20 それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖たちのもとに集める。あなたは安らかに墓に集められ、わたしがこの所に下すもろもろの災を目に見ることはないであろう』」。彼らはこの言葉を王に持ち帰った。

主は、悔い改めて御言葉を守り行う本人には、憐れみを注いで下さる。
肝心なのは、御言葉を聞いた後である。
ヒゼキヤは、災いが自分の代に降される事はないと思った時、「その言葉はありがたい」と、他人事のようにして、悔い改める事をしなかった。それで彼の子マナセという非常に悪い王を育ててしまった。
ヨシヤは、悔い改めに相応しい行動をした。
私達は、御言葉が示された時、どう応答するだろうか。
御言葉を聞いて、知ってもなお主の目に悪とみなされてしまう道を改めないなら、通常の人が受けないような災いに遭う事は、ヨシヤが聞いた律法に書いてある。

申命記29:22 後の代の人、すなわちあなたがたののちに起るあなたがたの子孫および遠い国から来る外国人は、この地の災を見、主がこの地にくだされた病気を見て言うであろう。
29:23 ――全地は硫黄となり、塩となり、焼け土となって、種もまかれず、実も結ばず、なんの草も生じなくなって、むかし主が怒りと憤りをもって滅ぼされたソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイムの破滅のようである。――
29:24 すなわち、もろもろの国民は言うであろう、『なぜ、主はこの地にこのようなことをされたのか。この激しい大いなる怒りは何ゆえか』。
29:25 そのとき人々は言うであろう、『彼らはその先祖の神、主がエジプトの国から彼らを導き出して彼らと結ばれた契約をすて、
29:26 行って彼らの知らない、また授からない、ほかの神々に仕えて、それを拝んだからである。
29:27 それゆえ主はこの地にむかって怒りを発し、この書物にしるされたもろもろののろいをこれにくだし、
29:28 そして主は怒りと、はげしい怒りと大いなる憤りとをもって彼らをこの地から抜き取って、ほかの国に投げやられた。今日見るとおりである』。

主の民は、確かに特別扱いを受ける。
御言葉に聞き従う事への幸いは、尋常ならぬ幸いだが、御言葉にあえて反する災いもまた、尋常ならぬ災いである。
私達は、どちらを受けたいだろうか。
そして、次の主の言葉はとても重要である。

29:29 隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。

御言葉の中に、隠された内容と、明らかにされた内容がある。
私達は、御言葉を全て知っている者ではない。わからない御言葉も、意味が隠された御言葉も、ある。
しかし、人生の時々に応じて、理解の光が当てられ示される御言葉があり、それは、まさに我々のものである。
まだ明かされていない事については、私達は知らないゆえに、十字架の主の憐れみを受ける事ができる。
しかし、知って、理解したならば、それは「長くわれわれとわれわれの子孫に属し、われわれにこの律法のすべての言葉を行わせる」ものである。

ヨシヤは、人生の前半、御言葉が隠されていた。
しかし、それが見つけ出され、明らかにされ、その内容を理解した以上、これから彼らが御言葉に対してどうするかによって、幸いに入るか、呪いに入るかは、彼ら次第である。
私達も、御言葉はすぐちかくにある。
私達は御言葉を恐れ敬い、守り行い、あらゆる事に主から特別扱いを受け、祝福の王道を踏み外さずに歩んでいくものでありたい。

災いに遭って悔い改めたマナセの後半人生と、一切の悔い改めをしなかったアモン(2列王記21:1-15)
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マナセは数々の罪を主の御前で犯した。
彼は父ヒゼキヤがせっかくイスラエルの中から取り除いた悪習を、再び復活させ、また主の宮に偶像を配置したり、預言者の言葉を退けたりした。
そればかりではない。

2列王記21:16 マナセはまた主の目の前に悪を行って、ユダに罪を犯させたその罪のほかに、罪なき者の血を多く流して、エルサレムのこの果から、かの果にまで満たした。
21:17 マナセのその他の事績と、彼がおこなったすべての事およびその犯した罪は、ユダの王の歴代志の書にしるされているではないか。

マナセは「罪なき者の血を多く流して、エルサレムのこの果から、かの果にまで満たした。」
きっとマナセに耳の痛い忠言をくれる預言者や、彼の気に入らない人を、そこがエルサレムの端であろうと中心であろうと、かまわず次々と殺して行ったのだろう。
それほどの悪を行ったマナセには、主の直接のさばきが降った事が歴代誌には記されている。

2歴代誌33:10 主はマナセおよびその民に告げられたが、彼らは心に留めなかった。
33:11 それゆえ、主はアッスリヤの王の軍勢の諸将をこれに攻めこさせられたので、彼らはマナセをかぎで捕え、青銅のかせにつないで、バビロンに引いて行った。

彼は、アッシリヤによって捕らえられ、青銅のかせに引きずられ、バビロンに連れて行かれたのだ。
まさに主が預言者の口を通して語られた通り、全くもって改めない彼にはアハブ(北イスラエル王国)と同じ秤で量られ、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされ捕囚されてしまったのと、全く同じさばきにかけられたのだ。
もはや全くの絶望の状況に陥ってしまった彼だが、そのどん底の中から、マナセは主の前に悔い改めた。

33:12 彼は悩みにあうに及んで、その神、主に願い求め、その先祖の神の前に大いに身を低くして、
33:13 神に祈ったので、神はその祈を受けいれ、その願いを聞き、彼をエルサレムに連れ帰って、再び国に臨ませられた。これによってマナセは主こそ、まことに神にいますことを知った。

主はなんと憐れみに満ちたお方であろうか。
あれほどの罪を犯して来た彼なのに、主に悔い改めた事で、彼はいのちを長らえたばかりでなく、エルサレムに戻され、元の王の地位へと戻されたのだ。
それはまさに奇跡である。

33:14 この後、彼はダビデの町の外の石がきをギホンの西の方の谷のうちに築き、魚の門の入口にまで及ぼし、またオペルに石がきをめぐらして、非常に高くこれを築き上げ、ユダのすべての堅固な町に軍長を置き、
33:15 また主の宮から、異邦の神々および偶像を取り除き、主の宮の山とエルサレムに自分で築いたすべての祭壇を取り除いて、町の外に投げ捨て、
33:16 主の祭壇を築き直して、酬恩祭および感謝の犠牲を、その上にささげ、ユダに命じてイスラエルの神、主に仕えさせた。

彼は、悔い改めに相応しい実を結んだ。
このように、彼は口先ではなく心底悔いて、そして、改めた心を主はご覧になられたから、彼を元通りの地位に戻し、そして彼が悔い改めに相応しい実を結ぶ事によって、主に心から立ち返るものには全てこのように恵みを施して下さるお方だと知らせるために、そのようにされたのだ。

エゼキエル18:31 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。
18:32 わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。

主は、誰が滅ぶのも望んでおられず、悔い改めて命を得る事を望んでおられる。
しかし、彼の子アモンはそうではなかった。

2列王記21:19 アモンは王となった時二十二歳であって、エルサレムで二年の間、世を治めた。母はヨテバのハルツの娘で、名をメシュレメテといった。
21:20 アモンはその父マナセのおこなったように、主の目の前に悪を行った。
21:21 すなわち彼はすべてその父の歩んだ道に歩み、父の仕えた偶像に仕えて、これを拝み、
21:22 先祖たちの神、主を捨てて、主の道に歩まなかった。
21:23 アモンの家来たちはついに彼に敵して徒党を結び、王をその家で殺したが、
21:24 国の民は、アモン王に敵して徒党を結んだ者をことごとく撃ち殺した。そして国の民はアモンの子ヨシヤを王としてアモンに代らせた。

彼の統治は、たった2年だった。
北イスラエル王国のアハブもそうだった。彼は最後、悔い改めたが、彼の子アハズヤはそうではなく、主の前に悪を貫いたため、その統治はアモンと同じ、たった2年であった。

2歴代誌33:22 彼はその父マナセのしたように主の前に悪を行った。すなわちアモンはその父マナセが造ったもろもろの刻んだ像に犠牲をささげて、これに仕え、
33:23 その父マナセが身を低くしたように主の前に身を低くしなかった。かえってこのアモンは、いよいよそのとがを増した。
33:24 その家来たちは党を結んで彼にそむき、彼をその家で殺した。

アモンは、主の御前にへりくだらず、悔い改めず、なおもそのとがを増し加えた、と書いてある。
アモンは父王の悪い所も、良い所も見たはずである。父王が悪い事をした結果いかに災いに覆われたか、そして、その悪から立ち返って主に悔い改めたら、いかに奇跡的に幸いを施して下さったかも、見た。
それにもかかわらず、アモンは主に立ち返らなかった。
主は、一切の隠れた所と、人の心の奥底を、ご存知である。その人がその後悔い改める余地があるか無いかも、全て含めて。
彼の心には、主に心翻す余地が一切無かったのだろう。それで主は、彼をわずか2年で王位から取り除き、この世から取り去ったのだ。

ヤコブ4:6 しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。
4:7 そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。
4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。
4:9 苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。
4:10 主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。

主は、へりくだる者に、近くおられる。
罪の楽しみを楽しんでいる人が、その楽しみを「罪をしない」という苦しみ・悲しみに変えるなら、主は高めてくださる。
ちょうど、悔いてへりくだったマナセを、再び王座へと戻してくださったように。

結婚後に堕落したシンデレラ、それでもなおあきらめなかった花婿(エゼキエル16章)
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「男性と女性」という点から見る聖書(創世記1:1-5)
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週報/メッセージ(説教)概要

 ヘブライ言語はヨーロッパ言語のように、名詞や動詞に「性」の概念がある。創世記1:1-2の名詞や動詞を「性」という面から見ると、神と被造物との間が、男女の人格的なやりとりであるかのように見えてくる。
『はじめ(女)に神(男)は天(男)と地(女)とを創造(男)された。地(女)は形なく(男)、虚しく(男)なってしまい、闇(男)が淵(女)の面(男)にあり、神(男)の霊が水の面(男)を覆って(男)いた。』(創世記1:1-2)
このように「性」という面にスポットライトを当てると、この箇所は、ある男女が織りなすストーリーに見えてくる。
すなわち、ある男性が、ある女性を見初め、一つの家庭を構築しようとした。けれども女性は、別の男に破壊され、虚しくされ、闇の淵に落とされてしまった。それでもかの男性は、女性を覆っていた…というような。

聖書はまさに、そういう内容だ。人は本来、神と共に歩み、神の愛の交わりの中で、幸せに永遠に生きていくはずだったが、人はサタンにそそのかされ、神を裏切って虚しくなり、死の淵に落ち込んで、「呪い」と「滅び」という借金地獄に陥ってしまった。聖書の一つ一つの出来事の裏に、多くのうめきと悲しみがある。
裏切られてしまった「神(男性)」の側のうめき悲しみと、裏切ってしまった「人(女性)」の側のうめきが。
全被造物(女性)は、うめいている。全能の神(男性)によって、贖われる事を求めて。(ロマ8:19-23)
それで神は全ての人に「贖い(買い戻し)」の衣を広げ、今なお一人一人を贖い出そうとし続けておられる。
買い戻されて覆われる事こそ、全被造物の切実な願いである。ちょうどルツが、自分を買い戻す責任のある男性、ボアズに願い出たように。『わたしはあなたのはしためルツです。あなたのすそで、はしためをおおってください。あなたは「最も近い親戚(ガアル:家を絶やさない責任のある者)」です。』(ルツ3:9)

主はホセア書を通しても、裏切った女(イスラエル)に対するうめきを表現し、同時に「贖い」を宣言しておられる。主は預言者ホセアに、「姦淫の女をめとれ」と命じ、ホセアはその通りに実行するのだが、その女は、姦淫するために出て行ってしまった。夫に愛され、夫の子を産んでいるというのに。そこで主は言われる。
『「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」と。そこで私は銀十五シケルと大麦一ホメル半とをもって彼女を買い取った。私は彼女に言った、「あなたは長く私の所にとどまって、淫行をなさず、また他の人のものとなってはならない。私もまた、あなたにそうしよう」と。』(ホセア3:1-3)
律法に照らすなら死刑のはずの、姦淫で裏切った女に、やさしく声をかけ、買い戻し、「もう他の所に行くな、いつまでもわたしの所にとどまれ」と言う。これはまさに、イエス様と私達の関係と全く同じだ。
ホセアとイエス様の名前は共に「救い」という意味であり、ホセアは全人類を買い戻すイエス様の雛形だ。
私達の主イエス様は、罪に裏切ってしまった私達人間にやさしく声をかけ、本来私達が受けるべき罪の刑罰を、十字架の上で、身代わりに受け、「神の子の命」という大きな代価をもって買い戻して下さった。
虚しくなってしまった全被造物を買い戻される、唯一のキーパーソンは、まことの光なるイエス様である。

創世記1:2において、虚しくなってしまった地(女)を、神は覆っておられたが、ある時、神は宣言される。
『神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を「見て」、「良し(トブ)」とされた。神はその光とやみとを分けられた。』(創世記1:3) 神はそれまで闇だった世界に光を宣言し、光を見て「よし」とされた。
神は創造のわざを進めて行かれる度に、それを見て「よし」と言われる。主の目に「よしとされる」事こそ、私達の目標だ。神が「ことば」によって創造された全ての御業は、全て「よし」である。いかに滅びの運命を背負ってしまっている人間でも、神と共に歩み、御言葉の通りに行って行くなら「よし」になって行くのだ。
神のご性質は光であって、闇ではない。神の御業は秩序であって、混沌ではない。神は人間と全被造物の秩序を回復させ、人が健全に住めるよう、丁寧に再構築して行く、というのが、全聖書の内容である。
そして聖書の最後・黙示録は、まことの花婿であるキリストと、その花嫁・教会との結婚で締めくくられ、神と人とが永遠に共に生きる事で終わっている。永遠のいのちは存在するし、永遠のさばきも存在する。
私達は、永遠のいのちに入るために、そして今生きているこの人生を、秩序と神の「よし」で満たすために、私達を命がけで愛して下さったイエス・キリストを愛し、彼の御言葉どおりに生きて行くべきだ。それこそ真に理に適った、永遠に至る充実した人生なのだから。その人生を歩んでいく皆さんでありますように!

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