メッセージ - 201708のエントリ

主が敵を私達の手に渡して下さる時(1歴代誌14:1-17)
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前回の箇所では、ダビデは主に伺わずに御言葉を違反した事をして災いと見れるような事を被った。しかし主は、自信を失っているダビデを力づけられる。

14:1 ツロの王ヒラムはダビデに使者をつかわし、彼のために家を建てさせようと香柏および石工と木工を送った。
14:2 ダビデは主が自分を堅く立ててイスラエルの王とされたことと、その民イスラエルのために彼の国を大いに興されたことを悟った。

主はダビデに、ヒラムの王を通して、彼の王国を確たるものにしておられる事を悟らせた。
主がダビデを王として固く立たせられたのは、ダビデという一人の個人を喜ばせるためでなく、「その民イスラエルのために」、彼の国を大いに興されたのである。
私達も、主に用いられ富においても名声においても祝福されるとするならば、私達個人をを喜ばせるためでなく、神の国がこの地に満ちるためであり、神の民のためである。

14:3 ダビデはエルサレムでまた妻たちをめとった。そしてダビデにまたむすこ、娘が生れた。
14:4 彼がエルサレムで得た子たちの名は次のとおりである。すなわちシャンマ、ショバブ、、ナタン、ソロモン、
14:5 イブハル、エリシュア、エルペレテ、
14:6 ノガ、ネペグ、ヤピア、
14:7 エリシャマ、ベエリアダ、エリペレテである。

子どもたちが多く産まれるのは祝福であるが、妻を多く持つ事は、災いの元である。
事実、ダビデは後に、妻の故に、そしてその子供達のゆえに、多くの苦しい体験をしてしまう事になる事は第二サムエル記で学んだ通りである。

14:8 さてペリシテびとはダビデが油を注がれて全イスラエルの王になったことを聞いたので、ペリシテびとはみな上ってきてダビデを捜した。ダビデはこれを聞いてこれに当ろうと出ていったが、
14:9 ペリシテびとはすでに来て、レパイムの谷を侵した。

神の民・イスラエルにおける戦いにおいて、勝利する事は神の御胸である事は変わり無いのだが、しかし、どのように戦いに出るべきであるのか、そこは自分で勝手に考えて行動するなら、前回の事件のように、散々な目に遭ってしまう。
そこで、私達・神の民にとって重要な事は、主に伺う事だ。

14:10 ダビデは神に問うて言った、「ペリシテびとに向かって上るべきでしょうか。あなたは彼らをわたしの手にわたされるでしょうか」。主はダビデに言われた、「上りなさい。わたしは彼らをあなたの手にわたそう」。

彼が主に伺ったところ、主は「わたしは彼らをあなたの手にわたそう(ナタン)」と言って下さった。
この、敵を「あなたの手に渡す」という主の言葉を引き出す事、それが、神の民が戦う時の勝利の保証である。
ヨシュアの時代も、この宣言を主からいただいた時、イスラエルは戦いに出かけた。

ヨシュア記6:1 さてエリコは、イスラエルの人々のゆえに、かたく閉ざして、出入りするものがなかった。
 6:2 主はヨシュアに言われた、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている(I have given into thine hand : ナタティ)。

このナタティの宣言、これが主の御口から宣言される時、その戦いは100%勝利し、そして敵のものは神の民の手に渡る。
その戦いの仕方は、世の方法とは全く違う。エリコの町の周囲を周りなさい、とか、バルサム樹の林の上で行進の音が聞こえたなら出て行って戦いなさい、とか、世の考え方で見るならあまりに無意味な、愚かな方法に見えるが、しかしそれを人の側が従順する時、目に見えない神の軍勢が進み行き、霊において既に勝利してくださり、結果、人が従順して出て行くときに、実体として勝利がもたらされる。

ダビデはいつも、主に伺い、出て行く事を旨としていた。それは、かなり初期の段階からそうだった。
ダビデがサウル王に追われていた時、彼の所に祭司エブヤタルが逃げて来た時から、早速主に伺う事をはじめた。

1サムエル記23:1 さて人々はダビデに告げて言った、「ペリシテびとがケイラを攻めて、打ち場の穀物をかすめています」。
23:2 そこでダビデは主に問うて言った、「わたしが行って、このペリシテびとを撃ちましょうか」。主はダビデに言われた、「行ってペリシテびとを撃ち、ケイラを救いなさい」。
23:3 しかしダビデの従者たちは彼に言った、「われわれは、ユダのここにおってさえ、恐れているのに、ましてケイラへ行って、ペリシテびとの軍に当ることができましょうか」。

この時、ダビデはまず主に伺った。結果、その言葉は人の常識では考えられない事であり、人をおじけさせる事だった。
神にまず伺い、その言葉が人をおじけさせる事であり、それを聞いた人がそれに反する事を進めて来る時、神の言葉を優先させるべきである。
ダビデは、それをする人だったからこそ、神の民のために大いに用いられたのだ。

23:4 ダビデが重ねて主に問うたところ、主は彼に答えて言われた、「立って、ケイラへ下りなさい。わたしはペリシテびとをあなたの手に渡します」。
23:5 ダビデとその従者たちはケイラへ行って、ペリシテびとと戦い、彼らの家畜を奪いとり、彼らを多く撃ち殺した。こうしてダビデはケイラの住民を救った。


14:11 そこで彼はバアル・ペラジムへ上っていった。その所でダビデは彼らを打ち敗り、そして言った、「神は破り出る水のように、わたしの手で敵を破られた」。それゆえ、その所の名はバアル・ペラジムと呼ばれている。

14:12 彼らが自分たちの神をそこに残して退いたので、ダビデは命じてこれを火で焼かせた。
14:13 ペリシテびとは再び谷を侵した。
14:14 ダビデが再び神に問うたので神は言われた、「あなたは彼らを追って上ってはならない。遠回りしてバルサムの木の前から彼らを襲いなさい。
14:15 バルサムの木の上に行進の音が聞えたならば、あなたは行って戦いなさい。神があなたの前に出てペリシテびとの軍勢を撃たれるからです」。
14:16 ダビデは神が命じられたようにして、ペリシテびとの軍勢を撃ち破り、ギベオンからゲゼルに及んだ。
14:17 そこでダビデの名はすべての国々に聞えわたり、主はすべての国びとに彼を恐れさせられた。

 

ルカによる福音書 講解説教メッセージ
たねまきのたとえの解釈(ルカ8:4-18)
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イザヤ書 講解説教メッセージ
主の救いが明確におとずれるまで為し続けておくべき事(イザヤ62:6-12)
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御言葉ぬきの間違った熱心によって起きてしまった事件 - ペレツ・ウザ(1歴代誌13:1-14)
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前章まではダビデに多くの勇士たち、軍人達がともどもダビデの元に集まって、イスラエルという国の建て上げに必要な人・モノが集まって来た事を見た。
神の国は、ダビデが主人公ではなく、主である。歴代誌にはもろもろの王達が登場するが、全て、主に御胸にかなった事を求めた王は栄え、御胸にではなく自分の好き勝手に行った王達は廃れて行った。
今回、ダビデ王がその王国のはじめに、御言葉にかなわない事を行って、主に戒められた記事が記されている。

13:1 ここにダビデは千人の長、百人の長などの諸将と相はかり、
13:2 そしてダビデはイスラエルの全会衆に言った、「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば、われわれは、イスラエルの各地に残っているわれわれの兄弟ならびに、放牧地の付いている町々にいる祭司とレビびとに、使をつかわし、われわれの所に呼び集めましょう。
13:3 また神の箱をわれわれの所に移しましょう。われわれはサウルの世にはこれをおろそかにしたからです」。
13:4 会衆は一同「そうしましょう」と言った。このことがすべての民の目に正しかったからである。

ダビデの前のサウル王の時代、神の箱はおろそかにされ、神の箱は、長い間、放置状態だった。

この時からさかのぼる事数十年前、サムエルがまだ若かった時、イスラエルは主を軽んじた故に、神の箱がペリシテに奪われてしまう、という事件があった。(2サムエル記4章)
しかし箱は、どの人間の手も借りず、ペリシテの地で多くの災いをもたらし、御者のいない牛車によってひとりでにイスラエルへと戻されたが、その戻された所のイスラエルの人々は、箱の中を見てしまうという「不敬」の故に、大勢の人々が倒れた。(同5-6章)
それ以来、神の箱はずっとアビナダブの家に安置され、そのまま何十年かが経過していた。

それを顧みて、エルサレムへ携え上って来よう、というのは、ダビデの主に対する熱心ゆえにその事を為そうという、正しい動機からである。
しかし、いかに主に対する熱心を動機としていても、正しい方法に基づかないなら、災いしてしまう事がある。

13:5 そこでダビデはキリアテ・ヤリムから神の箱を運んでくるため、エジプトのシホルからハマテの入口までのイスラエルをことごとく呼び集めた。
13:6 そしてダビデとすべてのイスラエルはバアラすなわちユダのキリアテ・ヤリムに上り、ケルビムの上に座しておられる主の名をもって呼ばれている神の箱をそこからかき上ろうと、
13:7 神の箱を新しい車にのせて、アビナダブの家からひきだし、ウザとアヒヨがその車を御した。
13:8 ダビデおよびすべてのイスラエルは歌と琴と立琴と、手鼓と、シンバルと、ラッパをもって、力をきわめて神の前に踊った。

ダビデは、今までにないアイデアを駆使し、盛大に神の箱を運んだ。
新しい牛車に神の箱を載せ、アビナダブの子達にその車を御させ、何万もの選り抜きの兵士と共に、色々な楽器を用いた洗練された賛美とダンスをもって主をほめたたえつつ運んだのだ。
かなり大掛かりで華やかなイベントが進行していたが、その盛り上がりが頂点に達した時、バケツで水をかけられてしまうような、その全部を覆してしまうような事が起こって、イベントは中止に追い込まれてしまう。

13:9 彼らがキドンの打ち場に来た時、ウザは手を伸べて箱を押えた。牛がつまずいたからである。
13:10 ウザが手を箱につけたことによって、主は彼に向かって怒りを発し、彼を撃たれたので、彼はその所で神の前に死んだ。
13:11 主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った。その所は今日までペレヅ・ウザと呼ばれている。

なんと、運んでいた牛が、神の箱をひっくり返そうとし、それをウザが手をもって支えようとして神の箱に触れた途端、打たれて死んでしまったのだ。
「いい事」をしたはずのウザが、主に撃たれ死んでしまう・・・なぜこのような事が起きるのだろう。
かつて、主の箱が、御者のいない牛車に載せられて、ひとりでにイスラエルへと戻るように仕向けて下さった主は、今回、牛がひっくり返さないようにする事など、当然出来たはずである。
それなのになぜ、主は、大勢の人達が集っているイベントの真っ最中、しかも、その熱狂が最高潮に盛り上がっている時に、この事をおこされたのか。
現代の私達は、ここから、重要な主の警告を読み取るべきである。。

なぜこの事が起きたのか。
御言葉を探ってみると、実は、ダビデ達の側に、過ちがいくつもあった事に気づく。
再び1節からじっくりおさらいしたい。

『ここにダビデは千人の長、百人の長などの諸将と相はかり、そしてダビデはイスラエルの全会衆に言った、「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば、われわれは、イスラエルの各地に残っているわれわれの兄弟ならびに、放牧地の付いている町々にいる祭司とレビびとに、使をつかわし、われわれの所に呼び集めましょう。また神の箱をわれわれの所に移しましょう。われわれはサウルの世にはこれをおろそかにしたからです」。』(1歴代誌13:1-3)

ダビデはここで「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば」と言っている。
つまり、「あなたがた」千人隊長や百人隊長が「先」で、「われわれの神、主」が「後」になっている。
人が先で、主の御名が後。この志が、まず一つである。

『会衆は一同「そうしましょう」と言った。このことがすべての民の目に正しかったからである。そこでダビデはキリアテ・ヤリムから神の箱を運んでくるため、エジプトのシホルからハマテの入口までのイスラエルをことごとく呼び集めた。』(1歴代誌13:4-5)
この一大イベント企画は、社会的ステータスの高い軍人たちの賛同が得られ、多くの人達が動員された様子は記されている。

しかし、ダビデが主に伺ったとか、祭司やレビ人に相談を求めた、といった記述は見いだせない。もしも祭司やレビ人に相談していたら、絶対、牛車で運ぶような指示はしないはずである。(後述)
いかに多くの人達の賛同が得られても、また、何万人を動員するイベントが企画され実行されてしまっていても、主の御心を外して突き進んでしまうのは、危険だ。なぜなら、御言葉は「法則」であり、「これをすれば死ぬ」と言われている事をするならば、死んでしまうからだ。

彼らは、神の箱を運ぶ場合、どうするべきだったのだろうか。その場合の作法が、民数記4章に記されている。
『宿営の進むとき、アロンとその子たちとが、聖所と聖所のすべての器をおおうことを終ったならば、その後コハテの子たちは、それを運ぶために、はいってこなければならない。しかし、彼らは聖なる物に触れてはならない。触れると死ぬであろう。会見の幕屋のうちの、これらの物は、コハテの子たちが運ぶものである。』(民数記4:15)
つまり、神の箱は、大祭司の子孫によって梱包された上、レビ人のコハテ族が担ぎ棒で担いで運ぶものであり、この取り扱いを万一間違えるなら死人が出る恐れさえある事が記されている。
つまり、神の箱を、コハテ族以外の者に、それも牛車で運ばせるなど、とんでもない事だったのだ。

ダビデはこの度、主を第一とせず人間やイベント第一にするという間違いをし、祭司やレビ人など御言葉のエキスパートに聞かず、社会ステータスのある人々と合議し、その結果、御言葉ぬきの間違った熱心により、奉仕にアサインされてはならない奉仕者をアサインし、してはならない手段で主の契約の箱を運び、その結果、「ペレツ・ウザ」の事件が起きたのだ。
現代の私達も、よくよく注意すべきである。
イベント第一にしたり、御言葉のエキスパートより社会的ステータスのある人の意見を優先させたりして、御言葉を超えた事をもって、神の国の事業を進めようとするなら、主は何かしらの「ペレツ・ウザ」を起こされるだろう。
ダビデは、それを素直に受け止めて、省みた。

13:12 その日ダビデは神を恐れて言った、「どうして神の箱を、わたしの所へかいて行けようか」。
13:13 それでダビデはその箱を自分の所ダビデの町へは移さず、これを転じてガテびとオベデ・エドムの家に運ばせた。
13:14 神の箱は三か月の間、オベデ・エドムの家に、その家族とともにとどまった。主はオベデ・エドムの家族とそのすべての持ち物を祝福された。

ダビデは手段を間違えたが、しかし神の箱が急遽運び込まれたガテ人オベデ・エドムの家は、祝福を受けた。
つまり神の箱を運び入れる事は正しい事、祝福される事であると、主はサインを送られた。
ダビデの主を思う志は正しかったのだが、しかし、仕方が人間中心の、御言葉を侵犯したやり方だったのだ。

もしもダビデのこの度のイベントが、何の落ち度もなく進んで行っていたとしたら、どうだっただろう。
ダビデ達は確実に、御言葉に聞かない方向へと進んで行っただろう。
「なんとなく主に従っているつもり」と思い込みながら、実は御言葉を知らず、企画したイベントの成功や、人々の盛り上がりにばかり苦心して、突き進んで行く内に、御言葉が「してはならない」と警告している領域を侵犯するなら、滅びへと突き進んでしまうのだ。
これは、現代を生きる神の民である私達がよくよく留意すべき事である。
現代の私達が、クリスチャンイベント、礼拝イベント、伝道イベント、諸々の事を興すとするなら、それは主から出たもの・主を中心とするべきものである。
もし私達も、主が、そして御言葉が置き去りにされたまま、人の祭りに酔いしれるなら、何かしらの犠牲を伴う警告が与えられるものである。

王国を成就するために必要な人、事、モノを次々に備えてくださった主(1歴代誌12:1-40)
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12章は、ダビデが王になる前、まだサウルの勢力が活発だった時にもかかわらず、ダビデについた人達の目録である。
主は、ダビデにとって必要が迫られ時に、彼にとって必要な事、モノ、人を備えられた事が、はっきりと記されている。
集ってきた人達はみな、主の御心を知り、主の時をはかり、主に促されて、ダビデを助けに来た人達である。

12:1 ダビデがキシの子サウルにしりぞけられて、なおチクラグにいた時、次の人々が彼のもとに来た。彼らはダビデを助けて戦った勇士たちのうちにあり、
12:2 弓をよくする者、左右いずれの手をもってもよく矢を射、石を投げる者で、ともにベニヤミンびとで、サウルの同族である。

ダビデがチクラグ(ツィケラグ)にいた時といえば、ダビデがサウルを恐れてペリシテ人の地に逃れていた時である。
そのように、ダビデが最も恐れていた時期に、ダビデのもとに、サウルと同族のベニヤミン族の精鋭たちが、ダビデを助けるために来た。

続いて、時期的に少し遡って、ガド族の精鋭たちが、要害にいるダビデの元に来た人達が記されている。

12:8 ガドびとのうちから荒野の要害に来て、ダビデについた者は皆勇士で、よく戦う軍人、よく盾とやりをつかう者、その顔はししの顔のようで、その速いことは山にいるしかのようであった。
・・・
12:14 これらはガドの子孫で軍勢の長たる者、その最も小さい者でも百人に当り、その最も大いなる者は千人に当った。
12:15 正月、ヨルダンがその全岸にあふれたとき、彼らはこれを渡って、谷々にいる者をことごとく東に西に逃げ走らせた。

本当に頼もしい戦士達である。彼らはダビデが要害にいた時、すなわち、ダビデがサウル王に追われているという、情勢的にダビデが圧倒的不利、サウルが圧倒的有利な時期に、ダビデのほうについた。それはまさに、彼らは主の御心と、主がこれからなさる事をわきまえていたからである。

12:16 ベニヤミンとユダの子孫のうちの人々が要害に来て、ダビデについた。
12:17 ダビデは出て彼らを迎えて言った、「あなたがたが好意をもって、わたしを助けるために来たのならば、わたしの心もあなたがたと、ひとつになりましょう。しかし、わたしの手になんの悪事もないのに、もしあなたがたが、わたしを欺いて、敵に渡すためであるならば、われわれの先祖の神がどうぞみそなわして、あなたがたを責められますように」。

サウルに追われて要害にいた時期のダビデとしては、サウルと同族の者達が来た、となると、当然心配しただろう。
普通なら門前払いするか、あるいはサウルのような疑心暗鬼に駆られるとするなら、厳しい追求をするであろうが、ダビデは「われわれの先祖の神」に委ねた。
すると、主が答えてくださる。

12:18 時に霊が三十人の長アマサイに臨み、アマサイは言った、/「ダビデよ、われわれはあなたのもの。エッサイの子よ、われわれはあなたと共にある。平安あれ、あなたに平安あれ。あなたを助ける者に平安あれ。あなたの神があなたを助けられる」。そこでダビデは彼らを受けいれて部隊の長とした。

ダビデは主により頼む者であり、主の霊に導かれる者である。だからアマサイの言葉が、真実であられる主から来たものであり、そして彼らが真実な心をもって来た事を、一瞬で悟った。そこで彼らを受け入れ、要職に就かせる。
霊に導かれる人は、霊によって悟るのだ。

12:19 さきにダビデがペリシテびとと共にサウルと戦おうと攻めて来たとき、マナセびと数人がダビデについた。(ただしダビデはついにペリシテびとを助けなかった。それはペリシテびとの君たちが相はかって、「彼はわれわれの首をとって、その主君サウルのもとに帰るであろう」と言って、彼を去らせたからである。)
12:20 ダビデがチクラグへ行ったとき、マナセびとアデナ、ヨザバデ、エデアエル、ミカエル、ヨザバデ、エリウ、ヂルタイが彼についた。皆マナセびとの千人の長であった。
12:21 彼らはダビデを助けて敵軍に当った。彼らは皆大勇士で軍勢の長であった。

この、マナセ出身の勇士たちが来たタイミングは、ちょうどダビデが流されるままにペリシテ人に味方してイスラエルのサウル王に戦いを仕掛けようとしていた時である。
しかしペリシテ人たちは、このようなダビデ達を信頼できず、一緒にサウル王に対する戦いに出すことをさせなかった。
そのお陰でダビデは、主に油注がれたサウル王に手をかける事から免れ、主の民イスラエルに刃を向ける事をしないで済んだ。
もしかすると、このタイミングでマナセ族の勇士達が来た事もまた、ペリシテ人たちの心にダビデを信頼できなくさせた一因になったのかもしれない。
まことに主のタイミングは、美しいものである。

そうして、ダビデを助ける人達は続々と加えられていく。

12:22 ダビデを助ける者が日に日に加わって、ついに大軍となり、神の軍勢のようになった。
12:23 主の言葉に従い、サウルの国をダビデに与えようとして、ヘブロンにいるダビデのもとに来た武装した軍隊の数は、次のとおりである。
12:24 ユダの子孫で盾とやりをとり、武装した者六千八百人、
12:25 シメオンの子孫で、よく戦う勇士七千百人、
12:26 レビの子孫からは四千六百人。
・・・

この、大勢の勇士たちは「主エホバの言葉に従って」来た。
彼らは主の御胸は何であるのかをわきまえ、今この時、何をすべきかを悟ったから、ある人は時勢的にサウル王が栄えていた時からダビデに仕えるために来た。

12:29 サウルの同族、ベニヤミンの子孫からは三千人、ベニヤミンびとの多くはなおサウルの家に忠義をつくしていた。

ベニヤミン族の中からでも、主の御胸を離れて暴走するサウル王を見限って、ダビデについた人達もまたいた。
最後には口寄せに頼ったサウル王に最後まで一緒にいたベニヤミン族の戦士達は皆、サウル王と共に打たれ死んだが、主エホバの言葉を重んじてダビデの元へ来た勇士たちは、ダビデと共に後の時代を栄光の内に生きた。

12:32 イッサカルの子孫からはよく時勢に通じ、イスラエルのなすべきことをわきまえた人々が来た。その長たる者が二百人あって、その兄弟たちは皆その指揮に従った。

彼らは「よく時勢に通じ、イスラエルのなすべきことをわきまえた人々」と賞賛されている。
私達も、このイッサカルの子孫にならい、今この時、何が主の御胸であるのかを探り、見極め、神の民として今、何を為すべきかをわきまえ知る洞察力が与えられるよう求めるべきである。

12:33 ゼブルンからは五万人、皆訓練を経た軍隊で、もろもろの武具で身をよろい、一心にダビデを助けた者である。
12:34 ナフタリからは将たる者一千人および盾とやりをとってこれに従う者三万七千人。
12:35 ダンびとからは武装した者二万八千六百人。
12:36 アセルからは戦いの備えをした熟練の者四万人。
12:37 またヨルダンのかなたルベンびと、ガドびと、マナセの半部族からはもろもろの武具で身をよろった者十二万人であった。

このように、非常に大勢の軍勢が、ダビデを王にするためにヘブロンのダビデの元に来た。
こうしてダビデが王になるという神の御心は、満を持して成就する。

12:38 すべてこれらの戦いの備えをしたいくさびとらは真心をもってヘブロンに来て、ダビデを全イスラエルの王にしようとした。このほかのイスラエルびともまた、心をひとつにしてダビデを王にしようとした。
12:39 彼らはヘブロンにダビデとともに三日いて、食い飲みした。その兄弟たちは彼らのために備えをしたからである。
12:40 また彼らに近い人々はイッサカル、ゼブルン、ナフタリなどの遠い所の者まで、ろば、らくだ、騾馬、牛などに食物を負わせて来た。すなわち麦粉の食物、干いちじく、干ぶどう、ぶどう酒、油、牛、羊などを多く携えて来た。これはイスラエルに喜びがあったからである。

彼ら勇士たちは「真心をもって」「心をひとつにして」ダビデを王にしようとした、と記されている。
私達も、まことの王、ダビデの子孫であるイエス様を、真心をもって、心をひとつに共に集い、与えられたもろもろの賜物を活用し、時をわきまえ、御心を求めて、王の王であられる主イエス様に仕えるべきである。

もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら(申命記30:11-20)
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全ての闇を払拭する「有りて有られるお方」の御言葉(ヨハネ1:1-14)
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週報/メッセージ(説教)概要

 神は、永遠の昔から永遠の未来で「存在」されるお方、そして私達を存在させ、存続させるお方である。
それ故、信じる私達は「自分は愛なる神に存在させられている」と自信を持ち、そう主張する事ができる。
だから、永遠の御言葉であられるお方イエス様を、私達の内に住まわせるための御言葉を暗唱する事(テフィリン)こそ、人格において、精神において、あらゆる面において安定する秘訣である事を、先週学んだ。
ヨハネ1章からも、御言葉であられるキリストがいかに素晴らしいお方であるかを、見る事が出来る。御言葉なるお方は、永遠のはじめから神とともにおられた(1-2節)。それがキリストのアイデンティティ宣言である。

全てのものは、彼によって創造された(3節)。私達が100年ほどの一生の間に目にするもの、触れる全てのもので、彼によらずして出来たものは一つもない。このお方こそ、有りて有られるお方であり、私達が目で見、手でさわれるお方、そして、死に陥った私達を、命をかけて救う、愛なるお方として、私達に現れた。
彼が、愛の意図をもって計られたタイミングにより、今、こうして私達は愛され、生かされている。息を引き取る時さえ彼の愛のタイミングの中で計られており、その息(霊)は、全能なるイエス様のところに帰って行く。
このお方を信じる人は、自分は神の子であるという、盤石の、安定した生き方が出来るが、彼を認めない人は、自分は偶然に進化した者、脳の電気信号で動く偶然の産物として、自力で生きなくてはならない。
太宰治は、自分は人間失格だ、生まれて来てすみません、と書いて、多くの人の共感を得たが、全存在の源・「有る」お方を持たない人がサタンの言葉に惑わされるなら、そのように考えてしまう。神の敵・サタンが人を破壊させる言葉の、最たるものは、おまえは存在するな、居てはならない、有ってはならないである。
それを打ち消すのは唯一、全存在の根拠なるお方・キリストの言葉である。 『この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。』(4-5節)
光を前にした闇は、消え失せる以外に無いように、キリストが現れたなら、悪魔は消え去る以外に無いのだ。
イエス様は、人が存在する以前から人を愛し、妻として定め、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人が、ご自分を裏切る選択をしたとしても、十字架上で身代わりとなって命を捨てる、という事までして人を救おうという愛の意図を、なんと、永遠の昔から持ちながらにして、人を創造されたのだ。(エペソ1:3-6)

『彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々(現在形能動態:「自ら信じ続ける人々」)には、彼は神の子となる力(権)を与えたのである。それらの人は、「血筋」によらず、「肉の欲」によらず、また、「人の(意)欲」にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(12-13節) つまり、イエス様を信じている人は、血筋や外見、能力や社会ステータスに左右されなくなる。世の人は血筋を重んじるだろう。それは生来の能力や外見、社会ステータスも決定づけるからであるが、彼らは、そうした「血筋」の束縛から開放される。
また、「肉の欲」を根拠とする束縛からも開放される。男女が性欲に身を任せ、彼らが望まぬ命が「できてしまった」、と言う事は多々あるが、自分はそういった人の欲望の産物だという空しさもなくなる。また「人の意欲にもよらず」とある通り、親や誰か人の政略的な操作によって自分は存在する、という空しさもなくなる。
信じた人は、ただ神によって、神の子として完全なる愛に愛される存在として生まれた、と確信するのだ。
『そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。』(14節) 書かれてある通り、肉体となって来られた「言」であられるお方は、神のひとり子であり、御父の栄光に満ちておられ、恵と真理に満ちておられるのだ。
御言葉なるお方を、私達という肉に住まわせる事がここで命じられている。『キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい…キリストの言葉をあなた方の内に豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互に教えまた訓戒し、詩と賛美と霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。』(コロ3:15)
結局、今、わたしがここに存在している理由は、わたしを存在させて下さっているお方、「有る」というお方に由来し、ここに有る。その御方は、天地創造され、わたしが知り得ない全てを、知っておられる。
この御方を豊かに住まわせるなら、もはや自分の存在のあやふやさは拭い去られる。このお方は「言」であられ、私達が目で見、耳で聞き、手で触れる「聖書の御言葉」として、今、ここに現れておられる。御言葉暗唱(テフィリン)によってこのお方を豊かに住まわせ、あらゆる自分のあやふやさ、自分の中にある闇を払拭し、神の子として大胆に、豊かに歩んでいく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
パウロと彼のでこぼこな仲間達からよろしく(コロサイ4:7-18)
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ダビデと共に神の国を建て上げた主の軍の勇士たち(1歴代誌11:1-9)
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11:10 ダビデの勇士のおもなものは次のとおりである。彼らはイスラエルのすべての人とともにダビデに力をそえて国を得させ、主がイスラエルについて言われた言葉にしたがって、彼を王とした人々である。

以降、記される人々は「三勇士」と呼ばれ、また「あの三十人」と呼ばれる勇士たちであり、彼らはダビデの王権を確立させ、神の国であるイスラエルのために多大な貢献をした人達である。
彼らは、単に武功を立てたとか、単に力強く武芸に秀でたという事よりも、イスラエルの主君であるダビデをいかに愛し、そしてまことの主君である「主がイスラエルについて言われた言葉にしたがって」いる事が、評価された者達である。(10節)

11:11 ダビデの勇士の数は次のとおりである。すなわち三人の長であるハクモニびとの子ヤショベアム、彼はやりをふるって三百人に向かい、一度にこれを殺した者である。
11:12 彼の次はアホアびとドドの子エレアザルで、三勇士のひとりである。
11:13 彼はダビデとともにパスダミムにいたが、ペリシテびとがそこに集まって来て戦った。そこに一面に大麦のはえた地所があった。民はペリシテびとの前から逃げた。
11:14 しかし彼は地所の中に立ってこれを防ぎ、ペリシテびとを殺した。そして主は大いなる勝利を与えて彼らを救われた。

このような武芸に秀でた様は確かに目を見張るが、大切な事は「主は大いなる勝利を与えて彼らを救われた」という事である。
彼らのような者が、ダビデ・ソロモンの時代以降にいたなら、確実にその武功と名前が載せられたであろう。
なぜダビデの時代に、このような勇士たちが現れる事が頻発したか。それは、主に従う心が熱い時代だったからであろう。それで主は、彼らに力と勝利を与えられたのだ。詩篇に記されているとおりである。

詩篇18:32 この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。
18:33 彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。
18:34 戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。

そして、この三勇士は以下のいのちがけの誠実をダビデ王に示した。

11:15 三十人の長たちのうちの三人は下っていってアドラムのほらあなの岩の所にいるダビデのもとへ行った。時にペリシテびとの軍勢はレパイムの谷に陣を取っていた。
11:16 その時ダビデは要害におり、ペリシテびとの先陣はベツレヘムにあったが、
11:17 ダビデはせつに望んで、「だれかベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をわたしに飲ませてくれるとよいのだが」と言った。
11:18 そこでその三人はペリシテびとの陣を突き通って、ベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をくみ取って、ダビデのもとに携えて来た。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、それを主の前に注いで、
11:19 言った、「わが神よ、わたしは断じてこれをいたしません。命をかけて行ったこの人たちの血をどうしてわたしは飲むことができましょう。彼らは命をかけてこの水をとって来たのです」。それゆえ、ダビデはこの水を飲もうとはしなかった。三勇士はこのことをおこなった。

ダビデ王は、いのちがけで汲んできてくれたこの水を、一滴も飲まず、主に捧げた。
いのちがけで戦う理由は、主のためであって、ダビデひとりのためではないからだ。それが、ダビデ王のみならず、この三人に徹底されていたからこそ、彼らは三勇士として栄誉を残したのだろう。

11:20 ヨアブの兄弟アビシャイは三十人の長であった。彼はやりをふるって三百人に立ち向かい、これを殺して三人のほかに名を得た。
11:21 彼は三十人のうち、最も尊ばれた者で、彼らのかしらとなった。しかし、かの三人には及ばなかった。
11:22 エホヤダの子ベナヤは、カブジエル出身の勇士であって、多くのてがらを立てた。彼はモアブのアリエルのふたりの子を撃ち殺した。彼はまた雪の日に下っていって、穴の中でししを撃ち殺した。
11:23 彼はまた身のたけ五キュビトばかりのエジプトびとを撃ち殺した。そのエジプトびとは手に機の巻棒ほどのやりを持っていたが、ベナヤはつえをとって彼の所へ下って行き、エジプトびとの手から、やりをもぎとり、そのやりをもって彼を殺した。
11:24 エホヤダの子ベナヤは、これらの事を行って三勇士のほかに名を得た。
11:25 彼は三十人のうちに有名であったが、かの三人には及ばなかった。ダビデは彼を侍衛の長とした。

ここでヨアブの兄弟アビシャイと、後にヨアブに代わる軍団長になったエホヤダの子ベナヤの名が連ねている。
ベナヤは祭司エホヤダの子で、ヨアブの元では、外国の雇用兵の長であったが、後に王権がソロモンの代になると、彼は、ソロモンの命によってヨアブを殺し、ヨアブに代わって軍団長の座に着く事になる。
ダビデの時代、軍事的な面でもっとも活躍した人といえば、間違いなく、ヨアブであろう。しかし、彼の名は、3勇士にも30勇士にも登録されていないのだ。
この「登録されていない」事は、注目すべきである。

ヨアブは、ダビデに対して度々の命令違反を犯し、ダビデを軽んじていたばかりでなく、後のダビデの後継者争いでアドニヤのほうを支持してたため、ソロモン王の指示により、エホヤダの子ベナヤの手で殺される事になってしまう。(1列王記2:29−35)
確かにダビデの時代、軍事的な面で最も功績を上げたかもしれないが、どんなに活躍しても、主君を軽んじ、不従順を重ね、主の御旨でないなら、特別な地位から降ろされ、抹殺され、王国の勇士達のリストから除外されてしまうのだ。

11:26 軍団のうちの勇士はヨアブの兄弟アサヘル。ベツレヘム出身のドドの子エルハナン。
・・・
11:41 ヘテびとウリヤ。アハライの子ザバデ。
11:42 ルベンびとシザの子アデナ。彼はルベンびとの長であって、三十人を率いた。

26節から47節までに勇士たちの名が書き記されているが、30以上の名前がある。
おそらくダビデの治世中、ヨアブの兄弟アサエルやヘテ人ウリヤのように、途中戦死してしまった所を、補充して行った人達の名前も、加えられたのだろう。

ヘテ人ウリヤは、ダビデの姦淫と殺人の罪の犠牲になってしまった。ダビデとしては、彼の名が記録されるのは恥ずかしかったであろうが、彼は30勇士のひとりとして記録されている。
もし、このリストが、ダビデの栄光のためのリストであるなら、ウリヤは除外され、ヨアブは残ったかもしれない。
しかしあいにく、このリストはダビデ王の栄誉のためではなく、主の御国を建て上げるために貢献した人達のリストである。

私達も、まことのダビデであるキリストに従順し、主が与えて下さるこの霊的武具をよく駆使し、悪しき者に対抗し、よく戦うべきなのだ。
主君を軽んじ、従順しないで、身勝手な王を立てるなら、いかに「出来る人」であったとしても、ヨアブのように立場を追われ、除外されてしまう。
次のように書かれているからである。

2テモテ2:1 そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。
2:2 そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。
2:3 キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。
2:4 兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。
2:5 また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。
2:6 労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。
2:7 わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。
2:8 ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。

ダビデ、王となり、エルサレムを居住とする(1歴代誌11:1-9)
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前回はイスラエル初代の王サウルについてだったが、サウルは主の前に悪く歩んだゆえに、王権から退けられてしまい、主は、王権をダビデに回した。
以降、歴代誌は、ダビデ王家がいかにイスラエルを統治して行くようになったのかという内容と、彼が基礎を築いた神殿礼拝の詳細な成り立ちへと入っていく。

王の中の王として、現代も多くの人達に尊敬されているダビデ。彼はなぜ、神と人とに愛され、そこまで偉大な王となる事ができたのか。
ダビデとサウルの違いは、実は、そんなに多くない。むしろ、わずかである。
ダビデは、事あるごとに主に主に求め、罪を指摘された時は、間髪を入れず悔い改め、すぐ主に立ち返る性質だった。
それに引き換えサウルは、主のことばを守らず、主に求める事をしなかった。(1歴代誌10:13-14)
そして、罪を犯した時、言い訳をしたり、他人のせいにしたりし、結局自分は悪く無いというスタンスを変えなかった。

ダビデとサウルの違いはシンプルである。すなわち、日頃主に依り頼むか、頼まないか。そして罪を指摘された時、すぐに悔い改めるか、悔い改めないか。
それはシンプルであるが、実に、永遠の明暗を分ける。

11:1 ここにイスラエルの人は皆ヘブロンにいるダビデのもとに集まって来て言った、「われわれは、あなたの骨肉です。
11:2 先にサウルが王であった時にも、あなたはイスラエルを率いて出入りされました。そしてあなたの神、主はあなたに『あなたはわが民イスラエルを牧する者となり、わが民イスラエルの君となるであろう』と言われました」。
11:3 このようにイスラエルの長老が皆ヘブロンにいる王のもとに来たので、ダビデはヘブロンで主の前に彼らと契約を結んだ。そして彼らは、サムエルによって語られた主の言葉に従ってダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。

彼が王となった成り立ちは、自分のはかりごとや力に一切依らず、ただ、主の約束を信じて待つ姿勢を貫いた結果、「半自動的に」王とされた。
「自動」ではなく「半自動」である。
ダビデが自ら積極的に行動した事といえば、サウルが死んだ時、ペリシテの地からヘブロンへと移った事くらいで、それについても主に御心を伺い、主のゴーサインがあってから行動した。
サウルが死んだ時、彼はさっさとイスラエルに入って王を名乗る事をせず、サウルの死に対して「追悼の意」を内外に表明し、哀歌をつくった。
ヤベシ・ギレアデの人々がサウル家にした忠誠の行為が伝えられた時、それに対する賞賛の見解を「表明」する事も、忘れなかった。

サウル家の事実上の支配者であり将軍であるアブネルを、ダビデの部下のヨアブが卑劣な手で殺害した時、自分は一切関わりが無かった事を表明し、卑劣な手を用いたヨアブへの非難をし、アブネルのために追悼の歌を作り、人々に歌わせたばかりでなく、断食して悲しんだ。
サウル王家の生き残りであるイシュ・ボシェテが、不当な者の手によって殺害された事に対しても、『彼らを殺し、その手足を切り離し、ヘブロンの池のほとりで木に掛けた。人々はイシボセテの首を持って行って、ヘブロンにあるアブネルの墓に葬った。』(2サムエル記4:12)
ダビデは、アブネルにしたのと同じく、イシボセテをヘブロンに葬って敬意を表し、ここにおいても、神と人との前に義と平和を表明した。

このように、ダビデは王になろうとして自分から進んで行動する事は一切なく、ただ、ダビデが計り知れぬ所で、周りの状況が自動的に動いて行くのだが、その、動いた状況に対してダビデは何らかの表明をする、という事を繰り返して行く内に、「半自動的」に、彼は王となって行った。
祝福は「自動」ではない。私達も、何か物事が起きるならば、それに対し、言葉でもって、内外にいのちの立場に立った「表明」をして行かなくてはならないのだ。

ダビデがイスラエルの王になった出来事は、イスラエルの歴史でも重要な出来事、だが、もう一つの重要な出来事は、エルサレムという都にダビデが入り、そこをイスラエルの王の町とした事である。

11:4 ダビデとすべてのイスラエルはエルサレムへ行った。エルサレムはすなわちエブスであって、そこにはその地の住民であるエブスびとがいた。

ダビデが入る前、エルサレムは「エブス」という町で、エブス人が住んでいた。
ヨシュアの時代、そこはベニヤミン族のものとして割り当てられていたが(ヨシュア18:21-28)、ベニヤミン人はそこを自分のものとせず、ずっと放置してエブスが住むままにしていた。

この都の成り立ちは、私達・キリスト者の成り立ちと、よく共通している。

エルサレムが最初に聖書に登場するのはアブラハムの時代である。
『その時、「サレム(平和)」の王メルキゼデク(義の王)はパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った・・・。』(創世記14:18-20)
この「サレム」が、エルサレムの初期の名である。
そして、そこを支配していた王は、あのアブラハムを祝福した偉大な祭司・義の王であるメルキゼデクだった。
しかし、いつしかエブスという邪悪なカナン人が、この都を占拠し、支配するようになってしまった。

「エブス」の名の意味は「踏み潰す」、「エルサレム」の名の意味は「平和という土台」である。
元々は義の王が支配していた「平和の土台」という都は、やがて、「踏み潰す」者たちに占拠されてしまった。

人もまた、元々は神の似姿として創造され、永遠に、神と共に平和に生きるはずだったが、人はいつしか、邪悪な者に踏みにじられてしまった。
人を不当に踏みにじった者はサタンである。それ以来、人の内側は不法で満ち溢れ、罪によって占拠されてしまった。

時代が降り、ヨシュアの時代、「エブス」となっていたエルサレムの町は、ヨシュアのくじによって、ベニヤミンの地とされたが、ベニヤミン族はその町をずっと放置したままにした。
一時、ユダ族がその町を攻め取ったものの(士師記1:8)、その後もエブス人が住み続けていた、という事は、ベニヤミンはせっかく邪悪な者どもをユダ族に追い払ってもらったのに、そこを神の民で満たす事をせず、空き家のままに放置したのだろう。
それで再びエブス人が来て住むようになって、以前よりももっと攻め落としづらくなってしまった。

同じように、悪しきものが追い出されても、そこを良きもので満たしていないなら、後に、もっとたちの悪い七つの悪霊が来て住みつくようになってしまい、以前よりももっと悪い状態になってしまうのだ。(マタイ12:43-45)

この、長らく続いた邪悪な者による占拠状態から、ようやくエルサレムを救ったのが、ダビデだった。

11:5 エブスの住民はダビデに言った、「あなたはここにはいってはならない」。しかし、ダビデはシオンの要害を取った。これがすなわちダビデの町である。
11:6 この時ダビデは言った、「だれでも第一にエブスびとを撃つ者を、かしらとし、将とする」。ゼルヤの子ヨアブが第一にのぼっていったので、かしらとなった。
11:7 そしてダビデがその要害に住んだので人々はこれをダビデの町と名づけた。
11:8 ダビデはまたその町の周囲すなわちミロから四方に石がきを築き、ヨアブは町のほかの部分を繕った。

偉大な王・ダビデがエルサレムに介入して入り、邪悪な者達をなぎ払い、神の民が住む都とした。
こうしてこの都は、偉大な王・ダビデが名を置く所となり、さらに強固に建て直され、やがては、聖なる神殿がその中に構築されて行く。

私達キリスト者も、同じ事を経験している。
罪の奴隷状態として、邪悪な感情や思いの占拠状態であったこの心と身体に、まことのダビデであるイエス様が介入して入って来られ、罪や汚れをなぎ払い、神のものとして、私達を邪悪な者サタンから分捕り返して下さった。
さらには、私達を聖霊の住まわれる宮とされ、偉大な王・イエス・キリストが住まわれる「神殿」とされた。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。』(1コリント3:16)

エルサレムは今なお、不純なものが混在している状態であるが、将来、主の時に必ず完全で純粋なものへとつくり変えられる。
『また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。』(黙示録21:2)
その時、エルサレムは完全で清いものとなり、キリストの花嫁として、永遠にキリストのものとされる。

エルサレムがまだその途上であるように、今、私達も完成される途上にある。
私達のこの肢体には、相変わらず罪と義が混在状態になっていて、この身体を着ている間、しばし、うめかなくてはならないが、しかし私達がまことのダビデであるキリストを王として迎え入れる時、私達はこの地上の束縛から解放され、天に属するものとして、聖なる栄光の歩みをして行く事が出来、そして、来るべきキリストの花嫁として、ますます整えられて行くのである。

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