メッセージ - 201708のエントリ

賛美奉仕者の系図(1歴代誌6:31-47)
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モーセの時代、主は礼拝における奉仕を定め、レビ族の子孫、ゲルショム、ケハテ、メラリ族それぞれに、幕屋を運んだり、設営したり、解体したりする奉仕者を定められ、幕屋の奉仕や聖所での奉仕が定められた。
しかしダビデの時代以降、レビ族の奉仕の形態は変わり、神殿において主に向かって賛美の歌を捧げる歌うたいや門衛、また、人々に律法を教える役割を担うようになった。

6:31 契約の箱を安置したのち、ダビデが主の宮で歌をうたう事をつかさどらせた人々は次のとおりである。
6:32 彼らは会見の幕屋の前で歌をもって仕えたが、ソロモンがエルサレムに主の宮を建ててからは、一定の秩序に従って務を行った。

モーセ律法では、もっぱら動物を主に捧げるいけにえについては記されていたが、賛美については記されていない。
せいぜい出エジプト記で、主がエジプトの軍勢を海に沈めた時に、モーセやミリヤム、イスラエルの会衆が主に賛美の歌を歌ったくらいであるが、規定として賛美を捧げるようには、記されていない。
しかし、主に賛美を捧げる事は、御胸にかなった事である。

ヘブル13:15 だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。

今、この時代、イエス様がただ一度、まことの聖所に入り、真に傷のない小羊として捧げられた事により、もはや旧約のような動物のいけにえを捧げる事は不要となった事がヘブル書に記されている。
そして今、私達はそのイエス様ゆえに、このからだを、きよい、生きた供え物として捧げる事、そして、世と妥協せず、心を新たにし、主に捧げられた者として聖なる生活をして行くことが私達・神の民の生き方である。

ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
 12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

天においてはもはや犠牲のいけにえは存在せず、常に、絶えず、永遠に、賛美が主に捧げられている有様が、黙示録に記されている。
だから神の宮において賛美が捧げられる事は非常に理に適った事であり、ダビデは心から主に賛美を捧げる聖歌隊を組織し、ダビデ自ら主に捧げる詩篇を記したのだろう。

神殿において賛美が捧げられていた時代、その奉仕者はレビ人と定められていた。
まずは詩篇でも登場する、賛美を中心的に導いたヘマンの系図である。

6:33 その務をしたもの、およびその子らは次のとおりである。コハテびとの子らのうちヘマンは歌をうたう者、ヘマンはヨエルの子、ヨエルはサムエルの子、
6:34 サムエルはエルカナの子、エルカナはエロハムの子、エロハムはエリエルの子、エリエルはトアの子、
6:35 トアはヅフの子、ヅフはエルカナの子、エルカナはマハテの子、マハテはアマサイの子、
6:36 アマサイはエルカナの子、エルカナはヨエルの子、ヨエルはアザリヤの子、アザリヤはゼパニヤの子、
6:37 ゼパニヤはタハテの子、タハテはアシルの子、アシルはエビアサフの子、エビアサフはコラの子、
6:38 コラはイヅハルの子、イヅハルはコハテの子、コハテはレビの子、レビはイスラエルの子である。

この中に、サムエルがおり、コラがいる。そして、ヘマンはケハテ族の一族である事が、この系図で明らかにされている。
さらに、ヘマンの右に立ってサポートするアサフと、左に立つエタンの系図とが、39節以降に記されている。
それによると、アサフはゲルション族、エタンはメラリ族である事が系図に記されており、こうして、当時の賛美奉仕者がレビの一族、ゲルショム、ケハテ、メラリ族の子孫である事がここに明記されている。
かつては何々族であるかが奉仕者として大事であったが、今や、全てイエス様にあって召し出された者すべてが、主を賛美し、主の奉仕者となり、主にあって祭司のつとめをする事が求められている。

1ペテロ2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
2:6 聖書にこう書いてある、/「見よ、わたしはシオンに、/選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、/決して、失望に終ることがない」。
2:7 この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
2:8 また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
2:10 あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
2:11 愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。

レビの系図 - 主の奉仕者として登録される人と、登録されない者の違い(1歴代誌6:1-30)
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第一歴代誌の系図の第一の主人公は王族であるユダ族であったが、第二の主人公は、神の御前に仕える事を主に定められたレビ族である。それが6章に詳細に記されている。

6:1 レビの子らはゲルション、コハテ、メラリ。
6:2 コハテの子らはアムラム、イヅハル、ヘブロン、ウジエル。
6:3 アムラムの子らはアロン、モーセ、ミリアム。アロンの子らはナダブ、アビウ、エレアザル、イタマル。
6:4 エレアザルはピネハスを生み、ピネハスはアビシュアを生み、
・・・
6:10 ヨナハンはアザリヤを生んだ。このアザリヤはソロモンがエルサレムに建てた宮で祭司の務をした者である。
・・・
6:15 ヨザダクは主がネブカデネザルの手によってユダとエルサレムの人を捕え移された時に捕えられて行った。

1−15節で、族長レビからモーセ・アロンの時代、ソロモン神殿の時代、そしてバビロン捕囚の時代へとつながった。
アロンやモーセに関しては、彼らが為した事からすれば他の誰よりも文面を割くべきと思うかもしれないが、ここでは、名前が列挙されているだけである。
トーラ(モーセ五書)を暗唱するユダヤ人にとって、彼らは書くまでもない存在であり、これら僅かな節の名前の列挙を見るだけで、モーセ五書に記された祭司一族が一瞬で走馬灯のように頭によぎるのである。

6:16 レビの子らはゲルション、コハテおよびメラリ。
6:17 ゲルションの子らの名はリブニとシメイ。
6:18 コハテの子らはアムラム、イヅハル、ヘブロン、ウジエルである。
6:19 メラリの子らはマヘリとムシ。これらはレビびとのその家筋による氏族である。

16節以降は、レビの3人の子達の簡単な系図である。
この3人の子孫達は、神を礼拝する所である幕屋において、いかなる奉仕をするのか。その明確な役割分担や、その人数、また、彼らはどこに住むべきか、民数記3章において、詳細に定められている。

ゲルション族で登録された人は七千五百人で、奉仕内容は主に幕屋の布製品に関わる奉仕が割り当てられており、ケハテ族で数えられた人は八千六百人で、奉仕内容は主に幕屋内の祭具や調度品に関わる奉仕が割り当てられており、メラリ族で登録された人は六千二百人で、奉仕内容は主に、幕屋の板や土台などの骨格部分に関わる奉仕が割り当てられた。

そして、神の幕屋の正面、すなわち、東側に住まう事が出来るのは、モーセとアロン、その子たちのみである。
『また幕屋の前、その東の方、すなわち、会見の幕屋の東の方に宿営する者は、モーセとアロン、およびアロンの子たちであって、イスラエルの人々の務に代って、聖所の務を守るものである。ほかの人で近づく者は殺されるであろう。』(民数記3:38)

主の御そば近くに住まう特権が与えられている人とは、主に捧げている人である。
レビ族が神の幕屋の近くに住まう特権が与えられたのは、前回も見たように、親や兄弟姉妹、友人に逆らってでも、御言葉に従い通したからであり、それ程の主に対するコミットがあったからこそ、その栄誉にあずかったのだ。

教会に住み込みたい、という人がいるが、教会に住めば聖くなるというものではない。
聖なる所にはいたいけれど、俗なる事も手放したくない、という人が、聖なる所に居続けるなら、彼の言動によってその「聖なる空間を食いつぶす」という罪を、増し加える事になってしまう。
モーセやアロンの子達の「ほかの人で近づく者は殺される」と戒められている通りである。
主に捧げる心を育てる人でなければ、教会に何年住み込んだ所で何の変わりは無い。
しかし、「主に捧げられた心」を持つ人は、たとい牢に何年も閉じ込められ、教会通いができなくても主は共におられ、ますます聖められて行くのだ。

『モーセとアロンとが、主の言葉にしたがって数えたレビびとで、その氏族によって数えられた者、一か月以上の男子は、合わせて二万二千人であった。』(民数記3:39)
レビ族として登録された人は、合わせて22000人、と記されているが、実は、22,28,34節で示されているゲルション、コハテ、メラリの数を合計すると、22300人で、この合計数のほうが、上記で記されている数より、なぜか300人多い。

実は、「数えられる」と訳されている言葉には二種類ある。
一つは「mispar」で、ただ単に数字を数える意味、もう一つは「paqad」で、数える事の他に、登録する、コミットするという意味である。
ゲルション族、メラリ族は「paqad(登録する、コミットする)」が用いられ、39節の合計数もそれが用いられているが、ケハテ族(28節)に限ってはそれは使われておらず、ただ「mispar(数えた)」としか記されていない。
つまり、コハテ族は、8600人「数えられた」けれど、神の奉仕者として登録されたのは8300人、という事になるのだろう。
コハテ族の300人がなぜ登録されなかったのか、それは記されていないので分からない。

民数記16章でモーセに反逆したコラも、コハテ族であった。
彼らはレビの務めが与えられているのに祭司の職を要求し、イスラエル全体を扇動してモーセとアロンに逆らったため、彼は家族や天幕もろとも地に飲み込まれてしまった。
いかに神の民として数えられようと、いかに神の働き人として数えられようとも、主から「登録」されない人もあり、そして、主が立てた権威に逆らうのであれば、災いが下されてしまうという事も忘れてはならない。

歴代誌の系図の中に、知られた名前もちらほら登場するが、その名前の中に、聖書それぞれの場面のドラマがある。

6:22 コハテの子はアミナダブ、その子はコラ、その子はアシル、
・・・
6:27 その子はエリアブ、その子はエロハム、その子はエルカナ。
6:28 サムエルの子らは、長子はヨエル、次はアビヤ。

コラは、レビ族で重要な役割を担っておりながら、神が定めた指導者モーセに逆らい、神が定めた大祭司アロンの職を奪おうと、著名な有力者を大勢従えて反乱を起こした。
しかし彼らが人々の前で尋常ならざる死に方をする事によって、神の定められた指導者や祭司に逆らうとはいかなる事かを、神は示された。

しかしながら、そのコラの子孫からは、あの有名な預言者でありキングメーカーであるサムエルが生まれ、さらには、コラの子達は素晴らしい詩篇の数々を生み出した。
結局大切なのは、どのように生まれついたのかではなく、また、どこに住んでいるのかでもなく、その人がいかに主に従順し、主が定められた指導者に従順し、そしていかに心に主を住まわせているか、である。

主を礼拝すべき時、主を敬うべき場所を軽んじる者に用意されている災い(レビ記26章)
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レビ記26章も申命記28章同様、祝福と呪いの箇所であり、祝福の明細よりも呪われる事の明細のほうがはるかに多い。
レビ記26章の特徴的な事は、主を敬わない事を続けるなら、その刑罰としての呪いがさらに7倍重くなり、それでも主を敬わない事を続けるなら、さらに7倍重くなる、と、段階的に、主を敬わない事の呪いが重くなっていく事である。

その、最も基本的な事は、次の事である。

 26:1 あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。

これは十戒の中でも最も基本的な事である。十戒のうち、第1−4戒は神との関係の戒め、第5-10戒は人との関係であるが、ことばの分量的には、神との関係のほうがはるかに多い。(出エジプト記20章)

偶像礼拝は、神以外のものを神とする事だが、礼拝よりも御言葉よりも、それ以外のものを大事にするなら、それは偶像礼拝となり、呪われるための条件となってしまう。

 26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。
すなわち、主を覚え主を敬うべき時、場所をわきまえ、主を恐れよ、という事である。
列王記を見ると、主を礼拝するべき聖所を軽んじ、主を敬うべき時である安息日や祭りの日を軽んじた王達は、必ず衰退して来た。
しかし、主を重んじて礼拝を守り、聖所を建て直した王は、必ず栄えた。

主の御言葉を守り行う人には、時に叶った雨が与えられ、蒔いた種に対し、大地には産物が、仕事場には勤労の実が、豊かに与えられる。

『あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。』(レビ記26:5)
麦の収穫は春のイースター時期に始まり、ぶどうの取り入れは九月ごろである。つまり、麦打ちが春から秋までずっと続く程の、大収穫が与えられる、という事である。
そんなに大量に穫れてどうするのか、と思うだろうか?
主に従順な世代のイスラエルは、それこそ、ねずみ算式に増えて行くのであるから、主は、食料をそれ程に豊かな実りをもたらして下さるのである。
だから、教会に人数が大いに増えたらどうしよう、食事や集会の場所はどうしよう、などという「嬉しい心配」さえ、無用である。主がその全てをちゃんと備えて下さるから。
主の御言葉を守り行うのであれば、全ての獣の危険から守られ、安息が与えられ、安らかに寝る事が出来るのだ。
また、敵への勝利の約束が与えられている。(7-8)
さらに、子供たちはおびただしく多くなって行く。それでいて、穀物倉から食料が尽きてしまう、という事も、一切無いのだ。(9-10)
そして、何よりの祝福は、主が共におられる事、主が私達のうちに住んで下さる事。それこそ、何にもまさる祝福である。(11-13)

14節以降は、主に聞き従わない場合に振りかかる呪いの明細である。
呪いを招いてしまうための条件が、以下の二節である。
『しかし、あなたがたがもしわたしに聞き従わず、またこのすべての戒めを守らず、わたしの定めを軽んじ、心にわたしのおきてを忌みきらって、わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば』(レビ記26:14-15)

第一段階の呪いは、身も心も「病む」事である。
『わたしはあなたがたにこのようにするであろう。すなわち、あなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって、あなたがたの目を見えなくし、命をやせ衰えさせるであろう。あなたがたが種をまいてもむだである。敵がそれを食べるであろう。わたしは顔をあなたがたにむけて攻め、あなたがたは敵の前に撃ちひしがれるであろう。またあなたがたの憎む者があなたがたを治めるであろう。あなたがたは追う者もないのに逃げるであろう。』(レビ記26:16-17)
ここの「肺病」は「憔悴」あるいは「消耗」とも訳せ、「熱病」は「激怒」「興奮」とも訳せる。
御声に聞き従わない者は、まず訳の分からない恐怖に襲われ、諸々の病を患う他、情緒が不安定になって、視力も見識も悪くなり、嫌な敵が栄えて支配するようになり、訳も分からない漠然とした恐怖感に支配され、追われてもないのに逃げるようになるのだ。
あわて者となり、物を落としてこわしたり、なくしやすくなる。
怒りっぽく成り、病がちになる。
いじめられやすくなり、常に何かから逃げる生活となる。
それが第一段階だが、それでも主に聞き従わないなら、さらに7倍罰が重くなってしまう。

「作物の不作」が来(レビ記26:18-20)、「野獣」が横行し(レビ記26:21-22)、戦争と疫病、食料不足の災いが降りかかる。(レビ記26:25-26)
この災いでも、なお懲りずに、主の御声に聞き従わないなら、食料不足は最悪の状態になり、自分の息子や娘の肉を食べるまでになる。(27-29節)

『しかし、彼らがもし、自分の罪と、先祖たちの罪、すなわち、わたしに反逆し、またわたしに逆らって歩んだことを告白するならば、たといわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国に引いて行っても、もし彼らの無割礼の心が砕かれ、あまんじて罪の罰を受けるならば、そのときわたしはヤコブと結んだ契約を思い起し、またイサクと結んだ契約およびアブラハムと結んだ契約を思い起し、またその地を思い起すであろう。』(レビ記26:40-42)

人々はどうして、愚かにも、呪いへとまっしぐらに進む事を止めないか。それは「心に割礼が無いから」だと書いてある。
すなわち、心が「あれをやりたい」「これをやりたい」という肉の思いで覆い尽くされていて、それを取り除ける気が、一切無いからである。

その無割礼の心が砕かれ、取り除かれて、主が与えられた罰を正当とし、その罰を甘んじて受けようとする人達に、主は、彼らの先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こす、と言っておられる。

受けている呪いや罰を乗り越えるには、自分に罪がある事を認め、それを正直に主に告白する必要があるのだ。
そして、その向こう側で、主は、恵みと憐れみをの手を広げて待っておられるのだ。

主はなぜ、この章に記されているほどの災いを用意されるか。
それは、愛しているからであり、死のパターンに陥らないようにと、懲らしめを与えられるからだ。
『「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12:5-11)

はじめから愛しておられた神(第一ヨハネの手紙1:1-4)
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第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要

神は何故、人に、神を裏切る自由さえ与えたのか。こんな罪の苦しみを味わうくらいならいっそ与えなかったほうが良かったのに、と思う方もいるかもしれない。今回、神が人に自由を与えた理由を見ていきたい。
聖書には「はじめに」で始まる箇所は3箇所ある。聖書の最初・創世記1:1と、ヨハネによる福音書1:1、そして今回の、第一ヨハネの手紙1:1であるが、それぞれの「はじめ」は、違う意味を持っている。
神は時間・空間のある宇宙を創造する前から存在された。神の名は「わたしはある(エフエ・アシェル・エフエ)」、エフエは人格的存在を表すBE動詞「ハヤー」で、それが神のアイデンティティであり、名である。
その神が、悠久永遠へ、「時間」という切り身を入れた(バラ)瞬間が、創世記1:1の「はじめ(ベレシート)」である。それに対しヨハネ1:1の「はじめ(アロケー)」は、時が創られる前、永遠という「はじめ」である。ヨハネ1:1で「あった」と訳されている語は、人格的存在をあらわすギリシア語BE動詞「エイミー」で、正確には「おられた」である。第一ヨハネの「はじめ」も、時間が存在する前の「はじめ」であるが、この箇所は「はじめから存在されたお方・キリスト」のご性質で満ち満ちている。すなわち、はじめからおられたキリストは、私達が耳で聞き、目で見、手でさわれる「いのちのことば」、愛なるお方、罪を赦すお方として、私達に現れた。
イエス様は私達を「在らせる(ハヤー、エイミー)」お方であり、人も時間も「在る」前・ベレシートの前から、父なる神は、天のあらゆる霊的祝福で私達を祝福し、御前で清く傷の無き者と「在らせる」ように、キリストにあって選び、神の子という身分を授けようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのだ。(エペソ1:3-6)
父なる神は、世界の創られる前から、私達人間を、他のどんな被造物とも違う「自由意志を持った」「神の似姿」として「人」を創造しようと、念頭に置き、創世のわざを行われた。
キリストは、人が存在する以前から人を愛し、妻として定め、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人が「自由意志」を用いてご自分を裏切ったとしても、十字架上でいのちを捨てて贖うほどの完全なる愛で、人を愛しておられたのだ。先々週のコーエン講義で学んだ通り、創世記の「ベレシート(בראשׁית)」のヘブライ語の中には、「בית ベイト:家」があり、「בר バル:息子」があり、「בראバラ:創造」があり、「שי シャイ:贈り物」があり、「ת タウ:十字架」があり、「ברשיベロシュ:頭」があり、「שיתシット:いばら」があり、「ברית ベリット:誓い」があり、「אשתアシット:妻」がある。主はベレシートの前から、全てを見込んでおられたのだ。
このとてつもない神の愛とご計画は、親と赤ちゃんの関係から、なんとなく理解できるかもしれない。
親は普通、自分の似姿である赤ちゃんが胎に宿ったと知った瞬間、両手放しでその存在を喜び、親や友人達に喜びを言い広め、赤ちゃんのために色々な準備をする。赤ちゃんが宿るためのベビーベッドやベビーカーを買い、赤ちゃんが社会で生きるための諸々の手続きをする。同様に神様も、私達が存在する前から私達を喜び、大切にし、もろもろの法則を定め、人が宿るための壮大なベビーベッド・「宇宙」を創った。
親は飽きもせず赤ちゃんに笑顔を向け、あやしたり、愉快に感じるようベビーカーをゆらゆら揺らしたりする。
神様も、神の子である私達に御顔を向け、宇宙や地球をゆらゆら動かし、あらゆる良いものを周りに配置し、快適に生きられるようにしておられる。 赤ちゃんは、自分をあやしている親が、どんなに自分を愛し、大切に思い、より良く生きられるようにと働いて、あらゆる努力をしてくれているとは、つゆにも思わず、ただ受けているだけだが、神と人との関係もまた、同様である。ただ神は、スケールがあまりに大きいのである。
もし赤ちゃんが機嫌を損ねるなら、親は慌てて、機嫌を損ねる原因を除こうとする。もしわがままになって意図的に悪い事をするなら、心を痛めながらもお仕置きする。そして、いつも心配する。自分の手が届かない所で、危ない事はしまいか、と。神様も、同じである。神様は私達が最善の道に歩めるように、全てを整え、もし、悪の道・滅びの道に行こうとするなら、心を痛めつつもお仕置きする。そして、心配する。ご自身の手の届かない所で、自分を滅ぼすような事はしまいか、と。神は手が短くて救えないのではない。
人の側の反逆と罪が、神との隔ての壁となって、救いを届かなくさせてしまっているのだ。(イザヤ59章)
神は人の自由意志を尊重されるお方であり、人が神に助けを求めない以上、神は助けたくても助けられない。神を求めていないのに助けられているとしたら、それは一方的な恵みであり、一時的である。
その恵みの時に、神を愛し、神と共に歩もうと続けて行くなら、神はその人を愛し、神の子としてますます建て上げ、ついにはキリストの妻として迎えて下さる。それ程までに神は、人を特別扱いしておられるのだ。
神のこよなき愛と、そのご計画の深さがいかほどであるのか、さらに知る事ができる私達でありますように!

怒りを人生の道具とする者の呪いと、その子々孫々の呪い(箴言14:29-30)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

箴言14:29 怒りをおそくする者は大いなる悟りがあり、気の短い者は愚かさをあらわす。
 14:30 穏やかな心は身の命である、しかし興奮は骨を腐らせる。

怒りを支配する人は、英知が増し加わり、怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。(箴言16:32)
怒りや激しい感情は、周囲に本人自身が愚かである事を撒き散らし、本人自身の骨を腐らせるのみならず、本人自身から生まれた子どもたち、子々孫々を呪われた者にしてしまう。

創世記49:3 ルベンよ、あなたはわが長子、/わが勢い、わが力のはじめ、/威光のすぐれた者、権力のすぐれた者。
 49:4 しかし、沸き立つ水のようだから、/もはや、すぐれた者ではあり得ない。あなたは父の床に上って汚した。ああ、あなたはわが寝床に上った。

イスラエルの長子、ルベンは、長子であるにもかかわらず、長子の権は取り上げられ、旧約においてあまりぱっとしない存在となってしまったのは、彼は、奔放で勢いのある性格ゆえに、父に呪われてしまったからである。

創世記49:5 シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。
 49:6 わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。
 49:7 彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。

シメオンとレビも、激しい心のゆえに呪われ、その子々孫々は、ヤコブの預言したとおり、神の民の中で散らされてしまった。
怒りに早い者は、本人の骨を腐らせるのみならず、子孫をも散らしてしまうのである。

「彼らのつるぎは暴虐の武器」とあるが、人生を切り開いていく上での道具を「怒りの剣」にしてしまうなら、散らされてしまうという呪いが降りかかってくる。
カインもそうだった。

創世記4:5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
 4:6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
 4:7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

彼は怒った時、主にアドバイスされた。怒りを、そして待ち伏せしている罪を、「治めなさい」と。
しかし彼は怒りに身を委ねた。

 4:8 カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。
 4:9 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。

彼は怒りを全能者なる神にさえぶつけた。
怒っている間、ある主の爽快感と全能感に駆られるが、それは神への恐れを忘れさせ、地獄永遠の火への恐れをマヒさせるドラッグである。

 4:10 主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。
 4:11 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。
 4:12 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。

人から流された血は、神に対して叫ぶ。
カインは具体的に血を流したが、もし、Aという人が怒りによって口汚く罵ったり理不尽な対応をするなら、それをされたBは、Aに対し何も言えないにしても心で血を流し、言葉にならないうめきが主に立ち上って行く。
そしてその「血」が、Aに対して不利な証言をし、地において呪われ、何をしても実を結ばず、放浪者となってしまう呪いが返ってしまう。

カインは、主のあわれみによって生かされ、彼が殺されないようにと、しるしが与えられたが、カインはその主の憐れみによって悔い改めるのではなく、さらに「怒り」「力」を道具とした。それでカインの子孫は、町を建て、鉄の武器を開発し、文化を発達させるという、マフィアのような暴力集団になってしまった様が4章後半に記されている。
しかし、地を受け継ぐのは、柔和な者であり、平和をつくる者は神の子と呼ばれる。
セツの子孫は主の御名を呼び求め、生きながらえたが、カインの子孫は全部、洪水で洗い流され、滅ぼされてしまった。

怒りや憤り、悪を人生を切り開く道具にする者の周りは、その人に対してどう思うのかが、詩篇109篇によく記されている。
109:1 わたしのほめたたえる神よ、もださないでください。
109:2 彼らは悪しき口と欺きの口をあけて、わたしにむかい、偽りの舌をもってわたしに語り、
109:3 恨みの言葉をもってわたしを囲み、ゆえなくわたしを攻めるのです。
109:4 彼らはわが愛にむくいて、わたしを非難します。しかしわたしは彼らのために祈ります。
109:5 彼らは悪をもってわが善に報い、恨みをもってわが愛に報いるのです。
109:6 彼の上に悪しき人を立て、訴える者に彼を訴えさせてください。
109:7 彼がさばかれるとき、彼を罪ある者とし、その祈を罪に変えてください。
109:8 その日を少なくし、その財産をほかの人にとらせ、
109:9 その子らをみなしごにし、その妻をやもめにしてください。
109:10 その子らを放浪者として施しをこわせ、その荒れたすまいから追い出させてください。
109:11 彼が持っているすべての物を債主に奪わせ、その勤労の実をほかの人にかすめさせてください。
109:12 彼にいつくしみを施す者はひとりもなく、またそのみなしごをあわれむ者もなく、
109:13 その子孫を絶えさせ、その名を次の代に消し去ってください。
109:14 その父たちの不義は主のみ前に覚えられ、その母の罪を消し去らないでください。
109:15 それらを常に主のみ前に置き、彼の記憶を地から断ってください。
109:16 これは彼がいつくしみを施すことを思わず、かえって貧しい者、乏しい者を責め、心の痛める者を殺そうとしたからです。
109:17 彼はのろうことを好んだ。のろいを彼に臨ませてください。彼は恵むことを喜ばなかった。恵みを彼から遠ざけてください。
109:18 彼はのろいを衣のように着た。のろいを水のようにその身にしみこませ、油のようにその骨にしみこませてください。
109:19 またそれを自分の着る着物のようにならせ、常に締める帯のようにならせてください。
109:20 これがわたしを非難する者と、わたしに逆らって悪いことを言う者の/主からうける報いとしてください。

ダビデは徹底的に呪っている。本人のみならず、その妻、その子どもたちをも、債権者に追われ、みなしごとなり、子孫が絶えるように、と。
そこまで祈る人はあまりいないであろうが、しかし大体、悪を見の飾りとし「怒り」を不利な条件を打開する道具としている人の周りの人は、これに似たり寄ったりの事を心に描くものである。
もしAという怒る人が10人にいつも怒りをぶちまけているなら、その10人は、Aを祝福するだろうか。むしろ、これに似た呪いをAに対して向けるのではなかろうか。
それは主に届かないだろうか。
こう考えるなら、いかに、怒りを人生の道具としている人が呪われてしまうのか、また、その子孫がいかに呪われてしまうかが分かる。

私達は、柔和を道具とするべきである。
どうしようもなく愚かで、人を怒らせ、諭さなくてはならない人に対しては、パウロは言っている。

2テモテ2:23 愚かで無知な論議をやめなさい。それは、あなたが知っているとおり、ただ争いに終るだけである。
2:24 主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、よく教え、よく忍び、
2:25 反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔改めの心を与えて、真理を知らせ、
2:26 一度は悪魔に捕えられてその欲するままになっていても、目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。

また、怒り狂って槍を向けてくるサウルに平和な素晴らしい対応をして、王を受け継いだダビデは言っている。

37:1 悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
37:2 彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。
37:3 主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
37:4 主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。
37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
37:6 あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。
37:7 主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。
37:8 怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。
37:9 悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。
37:10 悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。
37:11 しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。

神の民の系図に入れられるかどうかの鍵(1歴代誌5:1-26)
Youtube動画
(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

5章はルベン、ガド、マナセの半部族の系図が記されている。
系図と言っても、必ずしも長男、次男の順ではないし、先祖とのつながりが不明なものも多い。
マタイ福音書1章の系図でもそうだが、神の民の系図は、先祖がどのような血筋であるかどうか、長男・次男の順序はどうであるかより、むしろその本人自身が「主の御前に正しく歩む」事が重要であり、そうでないなら、系図から容赦なく除外されてしまうし、また、そうであるなら、いかに先祖とのつながりが不明であろうと、系図に載せられるのである。
以下の御言葉がそれを証明している。

5:1 イスラエルの長子ルベンの子らは次のとおりである。――ルベンは長子であったが父の床を汚したので、長子の権はイスラエルの子ヨセフの子らに与えられた。それで長子の権による系図にしるされていない。
5:2 またユダは兄弟たちにまさる者となり、その中から君たる者がでたが長子の権はヨセフのものとなったのである。――

ルベンは血筋的には長男であるが、その長子の権は奪われ、歴代誌の系図も、わずか10節にも満たない。それはルベンが御前に悪を行い、親を汚すような事をしたからだ。
かといって、父が祝福したヨセフの子ら(エフライム、マナセ)が実際的に祝福されたかというと、そうでもない。
結局のところ、兄弟達の長となり王達が生まれたのは、ユダ族だった。

聖書では、長男が衰え、末っ子が栄える、というパターンが多いが、だからといって、長男は宿命的に祝福を受けられない、とは限らないし、末っ子なら自動的に祝福されるわけでもない。
かといって、父が特別えこひいきして祝福した子が必ずしも祝福されるとも限らない。
結局のところ、その人が実際に祝福されるかどうかは、神の民としてどのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかによりけりなのだ。

5:11 ガドの子孫はこれと相対してバシャンの地に住み、サルカまで及んでいた。
5:12 そのかしらはヨエル、次はシャパム、ヤアナイ、シャパテで、ともにバシャンに住んだ。

ここに出てくる系図は、創世記や民数記のガドの息子たちとはつながらず、むしろ彼らの居住地や有力者たちの情報について記されている。
血筋的な順序や前後関係が重要なのではなく、主の御前に正しく歩んで祝福されたかどうかが、系図に記載される上で重要であるからだ。

5:18 ルベンびとと、ガドびとと、マナセの半部族には出て戦いうる者四万四千七百六十人あり、皆勇士で、盾とつるぎをとり、弓をひき、戦いに巧みな人々であった。
5:19 彼らはハガルびとおよびエトル、ネフシ、ノダブなどと戦ったが、
5:20 助けを得てこれを攻めたので、ハガルびとおよびこれとともにいた者は皆、彼らの手にわたされた。これは彼らが戦いにあたって神に呼ばわり、神に寄り頼んだので神はその願いを聞かれたからである。
5:21 彼らはその家畜を奪い取ったが、らくだ五万、羊二十五万、ろば二千あり、また人は十万人あった。
5:22 これはその戦いが神によったので、多くの者が殺されて倒れたからである。そして彼らは捕え移される時まで、これに代ってその所に住んだ。

ここに、ルベン・ガド・マナセの半部族が信仰をもって戦いを仕掛け、勝利した記述が挿入されている。
彼らはこの時、「戦いにあたって神に呼ばわり、神に寄り頼んだので神はその願いを聞かれた」と、わざわざ記している所に、神の民の歩むべき道筋を歴代誌の記者の意図を伺う事ができる。

5:23 マナセの半部族の人々はこの地に住み、ふえ広がって、ついにバシャンからバアル・ヘルモン、セニルおよびヘルモン山にまで及んだ。
5:24 その氏族の長たちは次のとおりである。すなわち、エペル、イシ、エリエル、アズリエル、エレミヤ、ホダヤ、ヤデエル。これらは皆その氏族の長で名高い大勇士であった。

マナセの半部族の系図も、むしろ氏族の長達についての記述である。
しかし、次に記されている通り、いかに先祖たちが素晴らしい事を行ったとしても、子孫が主に悪である事を行うなら、それらを台無しにしてしまう。

5:25 彼らは先祖たちの神にむかって罪を犯し、神が、かつて彼らの前から滅ぼされた国の民の神々を慕って、これと姦淫したので、
5:26 イスラエルの神は、アッスリヤの王プルの心を奮い起し、またアッスリヤの王テルガテ・ピルネセルの心を奮い起されたので、彼はついにルベンびとと、ガドびとと、マナセの半部族を捕えて行き、ハウラとハボルとハラとゴザン川のほとりに移して今日に至っている。

結局、この章に記されていたルベン、ガド、マナセの半部族は、アッシリアに捕らえ移されてしまった。
今日に至っている、とは、何も歴代誌の時代に限らない。21世紀の現代でも、彼らがどこにいるのか、未だわかっていない。

箴言13:13 み言葉を軽んじる者は滅ぼされ、戒めを重んじる者は報いを得る。

ヨハネ 1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
 1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

主を恐れ敬い、みことばを守り行うかどうかが、結局、神の民の系図に入れられるかどうかの鍵となるのだ。

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