メッセージ - 201801のエントリ

悪を取り除き御言葉を回復した祭司エホヤダ(2歴代誌23章)
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アタルヤというイゼベルの娘が、神の民イスラエルで好き放題の悪を行っている中、祭司エホヤダは、ダビデの血筋を王国に取り戻すために、一つ一つの手はずを御言葉に適った形で着実に進めて行っていた。

23:1 第七年になって、エホヤダは勇気をだしてエロハムの子アザリヤ、ヨハナンの子イシマエル、オベデの子アザリヤ、アダヤの子マアセヤ、ジクリの子エリシャパテなどの百人の長たちを招いて契約を結ばせた。
23:2 そこで彼らはユダを行きめぐって、ユダのすべての町からレビびとを集め、またイスラエルの氏族の長たちを集めて、エルサレムに来た。
23:3 そしてその会衆は皆神の宮で王と契約を結んだ。その時エホヤダは彼らに言った、「主がダビデの子孫のことについて言われたように、王の子が位につくべきです。

エホヤダが人々を集めた時、ダビデの子孫が王位につくべきだという事を真っ先に伝えた。
それがイスラエルの神・主の正統な契約だからだ。(2サムエル記7:12-16)

23:4 あなたがたのなすべき事はこれです。すなわちあなたがた祭司およびレビびとの安息日にはいって来る者の、三分の一は門を守る者となり、
23:5 三分の一は王の家におり、三分の一は礎の門におり、民は皆、主の宮の庭にいなさい。
23:6 祭司と、勤めをするレビびとのほかは、だれも主の宮に、はいってはならない。彼らは聖なる者であるから、はいることができる。民は皆、主の命令を守らなければならない。
23:7 レビびとはめいめい手に武器をとって王のまわりに立たなければならない。宮にはいる者をすべて殺しなさい。あなたがたは王がはいる時にも出る時にも、王と共にいなさい」。

エホヤダはさらに、この、一人残された王家の血を継ぐ子・ヨアシュが、王として立てられた時に為すべき段取りを、集めた人々に指示した。

23:8 そこでレビびとおよびユダの人々は、祭司エホヤダがすべて命じたように行い、めいめいその組の者で、安息日にはいって来るべき者と、安息日に出て行くべき者を率いていた。祭司エホヤダが組の者を去らせなかったからである。
23:9 また祭司エホヤダは、神の宮にあるダビデ王のやりおよび大盾、小盾を百人の長たちに渡し、
23:10 また王を守るために、すべての民にめいめい手に武器をとらせ、宮の南側から北側にわたって、祭壇と宮に沿って立たせた。
23:11 こうして王の子を連れ出して、これに冠をいただかせ、あかしの書を渡して王となし、エホヤダおよびその子たちが彼に油を注いだ。そして「王万歳」と言った。

王が任職を受ける時、あかしの書が渡されるのは、モーセを通して主から命じられている通りである。

申命記17:18 彼が国の王位につくようになったら、レビびとである祭司の保管する書物から、この律法の写しを一つの書物に書きしるさせ、
17:19 世に生きながらえる日の間、常にそれを自分のもとに置いて読み、こうしてその神、主を恐れることを学び、この律法のすべての言葉と、これらの定めとを守って行わなければならない。
17:20 そうすれば彼の心が同胞を見くだして、高ぶることなく、また戒めを離れて、右にも左にも曲ることなく、その子孫と共にイスラエルにおいて、長くその位にとどまることができるであろう。

こうして、全て律法に適った形で、正統な手段を踏んで、ヨアシュは王とされた。

23:12 アタリヤは民の走りながら王をほめる声を聞いたので、主の宮に入り、民の所へ行って、
23:13 見ると、王は入口で柱のかたわらに立ち、王のかたわらには将軍たちとラッパ手が立っており、また国の民は皆喜んでラッパを吹き、歌をうたう者は楽器をもってさんびしていたので、アタリヤは衣を裂いて「反逆だ、反逆だ」と叫んだ。

アタリヤは「反逆だ」と叫んだが、真理の御言葉に反逆をしていたのは、彼女のほうである。
滅ぼされてしまう人の特徴は、自分を正しいとし、自分を王として、永遠の御言葉を正しくないものとする事だ。

23:14 その時エホヤダは軍勢を統率する百人の長たちを呼び出し、「列の間から彼女を連れ出せ、彼女に従う者をつるぎで殺せ」と言った。祭司が彼女を主の宮で殺してはならないと言ったからである。
23:15 そこで人々は彼女に手をかけ、王の家の馬の門の入口まで連れて行き、その所で彼女を殺した。

まことにダビデが詩篇37篇に書いていた通りである。

ダビデの歌
37:1 悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
37:2 彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。
・・・
37:32 悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。
37:33 主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。
37:34 主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の/断ち滅ぼされるのを見るであろう。
37:35 わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。
37:36 しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
37:37 全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。
37:38 しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。
37:39 正しい人の救は主から出る。主は彼らの悩みの時の避け所である。
37:40 主は彼らを助け、彼らを解き放ち、彼らを悪しき者どもから解き放って救われる。彼らは主に寄り頼むからである。

祭司エホヤダは、ただ悪女アタルヤを排除した事で終えず、しっかりその後のイスラエルをケアする。

23:16 エホヤダは自分とすべての民と王との間に、彼らは皆、主の民となるとの契約を結んだ。
23:17 そこですべての民はバアルの家に行って、それをこわし、その祭壇とその像とを打ち砕き、バアルの祭司マッタンを祭壇の前で殺した。

ゲーム漬けになっていた子に、これから神様の喜ばれる生き方をしていくと決心させた上で、ゲームを破壊するように、エホヤダは、アタルヤを排除した後にした直後、真っ先に人々と「主の民となる」という契約を結ばせ、それまで悪しき事の根源となっていた偶像を破壊した。

23:18 エホヤダはまた主の宮の守衛を、祭司とレビびとの指揮のもとに置いた。このレビびとは昔ダビデがモーセの律法にしるされているように、喜びと歌とをもって主に燔祭をささげるために、主の宮に配置したものであって、今そのダビデの例にならったものである。
23:19 彼はまた主の宮のもろもろの門に門衛を置き、汚れた者は何によって汚れた者でも、はいらせないようにした。

彼はさらに主の宮における祭司とレビ人の仕事のローテーションを回復させ、さらに、律法上汚れた者が宮に入らせないようにした。
律法上汚れた者は、規定に従ってきよめなくてはならない。
私達も、教会をきよく保つため、交わりに汚れを持ち込むような人は戒め、自らをきよくしてから交わりに加わるように、勧める必要がある。

23:20 こうしてエホヤダは百人の長たち、貴族たち、民のつかさたちおよび国のすべての民を率いて、主の宮から王を連れ下り、上の門から王の家に進み、王を国の位につかせた。
23:21 国の民は皆喜んだ。町はアタリヤがつるぎで殺された後、穏やかであった。

まさに書いてある通りである。
箴言11:10 正しい者が、しあわせになれば、その町は喜び、悪しき者が滅びると、喜びの声がおこる。

このように、自分達の集団の中から汚れが取り除かれ、主の御言葉どおり行われるなら、大きな喜びが沸き起こる。
私達もエホヤダのように、自らをきよく保ち、主の御言葉を守り行う者でありたい。

主の宮の栄光とは(ハガイ2:3-9)
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ハガイ2:6 万軍の主はこう言われる、しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、かわいた地とを震う。
2:7 わたしはまた万国民を震う。万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家に満たすと、万軍の主は言われる。
2:8 銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。
2:9 主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる』」。

この御言葉は天声教会開拓の根拠となった御言葉である。
「わたしは栄光をこの家に満たす」と、万軍の主は言われたが、教会の栄光とは何だろうか。

ハガイの時代は、バビロン捕囚の後、イスラエルの民がエルサレムに戻って来たが、しかし彼らは神殿が廃墟のままにしておいて、むしろ、自分の家を、生活を、経済を良くしようと走り回っていた。
しかし彼らは、働けど働けど暮らしは決して楽にはならなかった。
その理由は明白である。

ハガイ1:4 「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。
1:5 それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。
1:6 あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。
1:7 万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。
1:8 山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。
1:9 あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。
1:10 それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。
1:11 また、わたしは地にも、山にも、穀物にも、新しい酒にも、油にも、地に生じるものにも、人間にも、家畜にも、手で作るすべての作物にも、ひでりを呼び寄せた」。

主を礼拝する事をおろそかにすると、当然のように、生活は慌ただしく実り少なく、貧しくなる。
だから神の国とその義をまず第一に求めるべきだ。そうすれば、生活の必要は追ってついてくる。
ハガイの言葉を恐れ、主の宮の再建にとりかかった人々が建てた神殿は、かつてのソロモン神殿を見て知っている老人たちには、あまりにおそまつに見えたのだろう。
以前を知っている老人たちはそれを見て泣いた。(エズラ3:12)
しかし、ハガイは言う。

2:3 『あなたがた残りの者のうち、以前の栄光に輝く主の家を見た者はだれか。あなたがたは今、この状態をどう思うか。これはあなたがたの目には、無にひとしいではないか。

しかし万軍の主は言われる。「主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きい」と。(ハガイ2:9)

神殿の栄光とは、一体何だろう。
教会の栄光とは、一体何だろう。
豪華さや高価な器物といった面での栄光は去ってしまった事で人々は泣いたが、神殿や教会とはそもそも、主を礼拝をする所であり、建物や器物など人・モノ・仕組みの素晴らしさを見物しに来る所ではない。
神殿や教会の栄光とは、礼拝されるべきお方・主の栄光であって、栄光の主を仰ぎ、ひれ伏す所なのだ。
豪奢な神殿があった列王記・歴代誌の時代と、神殿よりも粗末な幕屋で礼拝していたモーセやヨシュア、ダビデの時代と、どちらが主の栄光に輝いていただろう。きっと誰もが後者だと答えるだろう。
ダビデは神殿を建てたくても建てられなかったが、ソロモンはそれを建て、そればかりでなく諸々の事業を拡張し、邸宅を建て、畑や庭園や男女の奴隷、多くのそばめを得たが、結局、むなしさだけが残った。
結局、主の栄光は、人々の主に対する愛と、心の純粋さと、主への従順や服従の内にこそ現れるのだ。

主が人に求められるのは、霊とまことによる礼拝だ。

ヨハネ4:21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

サマリヤの女は、礼拝についてイエス様に質問した。どこで礼拝をするべきか。
イエス様は、礼拝は、場所ではない事を言われる。

4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

霊とまこと(真理)すなわち、聖霊と御言葉によって礼拝をする礼拝者を、主は求めておられ、いっさいの事を教えて下さるお方は、メシヤなるキリストだ。

4:25 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。
4:26 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。

ハガイ2:6 万軍の主はこう言われる、しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、かわいた地とを震う。
2:7 わたしはまた万国民を震う。万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家に満たすと、万軍の主は言われる。
2:8 銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。
2:9 主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる』」。

人がひとたび主へと捧げるなら、主は天を、地を震わせ、栄光の富をふるい落として戻してくださる。
そしてその栄光は、以前のものよりもはるかに勝ったものなのだ。

神の国から万全の報酬と保障を得ている主の働き人(2テモテ2:1-8)
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2テモテ2:1 そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。
2:2 そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。
2:3 キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。
2:4 兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。
2:5 また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。
2:6 労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。
2:7 わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。
2:8 ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。

1コリント9:3 わたしの批判者たちに対する弁明は、これである。
9:4 わたしたちには、飲み食いをする権利がないのか。
9:5 わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。
9:6 それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。
9:7 いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。
9:8 わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。
9:9 すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。
9:10 それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。
9:11 もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。
9:12 もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。
9:13 あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。
9:14 それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。


2コリント5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
5:18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。
5:19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。
5:20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。
5:21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

2列王記4:1 預言者のともがらの、ひとりの妻がエリシャに呼ばわって言った、「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ごぞんじのように、あなたのしもべは主を恐れる者でありましたが、今、債主がきて、わたしのふたりの子供を取って奴隷にしようとしているのです」。
4:2 エリシャは彼女に言った、「あなたのために何をしましょうか。あなたの家にどんな物があるか、言いなさい」。彼女は言った、「一びんの油のほかは、はしための家に何もありません」。
4:3 彼は言った、「ほかへ行って、隣の人々から器を借りなさい。あいた器を借りなさい。少しばかりではいけません。
4:4 そして内にはいって、あなたの子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、そのすべての器に油をついで、いっぱいになったとき、一つずつそれを取りのけておきなさい」。
4:5 彼女は彼を離れて去り、子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、子供たちの持って来る器に油をついだ。
4:6 油が満ちたとき、彼女は子供に「もっと器を持ってきなさい」と言ったが、子供が「器はもうありません」と言ったので、油はとまった。
4:7 そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。

マタイ6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

心の覆いを取り除いていただくために(エペソ1:17-23)
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週報/メッセージ(説教)概要

 もし心に「覆い」がかかっているなら、御言葉を理解できないばかりか人の話も理解できず、真理を外した、あさってな事をしてしまう。一体どうすればこの心の覆いを取り除くことができるのか。今日学びたい。
覆いがかかって真理が見えなくなってしまっている状態と、その覆いを取り除く方法は、2コリント3:12-18に記されている。心の覆いを取り除くお方はキリストであり、働かれるお方は御霊だ。そして私達の責任は、心を主に向ける事である。心の覆いが取りのけられる時、雲は去って晴れやかとなり、主の栄光を反射させ、人々に主の栄光を届ける事ができるようになる。だから私達は心を主に向け、祈り求める必要がある。
パウロは祈っている。神の認識をもたらす知恵と啓示の御霊が与えられ、心の目がはっきり見えるようになり 、神の絶大な力を知るようになりますように、と(エペソ1:17-19)。知恵と啓示の霊が与えられると、仕事も人間関係もうまく進む。ただ、真っ先に求めるべきは、「神に対する認識がはっきり見えるようになる事」だ。
人を癒すためには、まず、自分が改善される必要がある。『まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。』(マタイ7:3-5)
「梁」とは家を支える頑丈な横木で、とても目の中に入るような代物ではないが、つまり、それまで神様を抜きに自分を支えるために鍛え上げ、頑丈になってしまった「罪的なものの見方、生き方」とも言えるだろう。
自分を支えて来た「梁」が入ったままだと、頭ごなしに叱ったり、根拠無い言葉で塗りつぶしたりして、人のちりを取る所か、逆に深い傷を与えてしてしまう。だからまず自分の目から梁を取り除く必要があるのだ。
それはキリストによって取り除かれるものである、とコリントに書いてあった。だからこそエペソ1章の祈りが必要である。知恵と啓示の霊が与えられるなら、イエス様がどれほど素晴らしいお方か、自分がキリストにあってどれほど素晴らしい立ち位置にいるかを知り、感動し、健全になって行き、自分自身も癒やされる。

私達の内におられるキリストは、すべての支配、権威、権力、権勢の上におられ、この世ばかりでなく、来るべき世においても、あらゆる名の上に置かれたお方である(21節)。総理大臣が印を押した文書は、どんな省庁でも通るが、私達はなんと、その遥か上に置かれた権威のハンコを、代理で用いるような事ができる。イエス様の御名によって祈る事によって! ただ私達はこの権威をみだりに乱用できない。
私達は「御国の公務員」「キリストの使節」として、天国の公務に則った動機により、イエス様の御名によって宣言するならば、その宣言は天において受理され、地において莫大な「神の力」が働くのだ。
信仰の先人達は、この「神の認識」を持っていたため、それぞれ与えられた賜物と立場を駆使し、キリストの体の建て上げをして行った。ある人は、神の認識に沿って、お金持ちになって教会の経済を助け、ある人は偉大な政治家となって奴隷解放をした。それぞれが同じ神の認識に沿って行動する時、それぞれがキリストの事業、すなわちこの世を神の国へと変えていく事業に参加するのだ。結局、知恵と啓示の霊は、神の認識を持つために必要であり、それをもって動くなら、全てのものを、全てのものの内に満たしている方が全ての事を満たして下さるのだ!その特権は、教会(エクレシア)である私達に与えられているのだ!

人は、まだ罪を犯す前、エデン(喜びの園)を維持管理するという事業が与えられ、一切のものを一切のものによって満たす方の満ちておられる方の中で健全に生きていた。しかし、人が善悪を知る知識を取り込んでしまって以来、御国の事業から脱退し、神から独立した「小さな神」のようになっておのおの身勝手な事をし初めた。それで被造物はめちゃくちゃになってしまったのだ。
だから私達は、再び本来の立ち位置に戻るために、自分の善悪判断によって生きる「小さな神」を自分の中から捨て去り、まことの神にあって教会へ参加し、おのおの与えられた賜物に従って神の国の仕事をする時、一切のものを、一切のものによって満たす方の満ちておられるパワーを行使できるのである。
まだ罪を犯していない人類に対して与えられた祝福は「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記1:28)であった。この「従わせよ」「治めよ」には、「足の下で踏む」という意味もある。もしサタン(ヘビ)が、ニョロニョロと来たなら、足の下で踏まなければならない。それをせず、サタンの汚れた言葉に聞き入るなら、喜びの園がめちゃくちゃにされ、追い出されてしまう。キリストは今も、踏み続けておられる(エペソ1:22)。もし踏まないなら、キリストの認識に無い事になってしまう。私達は神に逆らう者を踏み続け、キリストの体で有り続けるべきなのだ。

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
物事がはっきりと見えるようになるために(エペソ1:17-23)
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心に黒雲がかかっているような時は無いだろうか。
人と話している時に、話している言葉が理解できなかったり、あさってな事をしてしまって、人に指摘されてしまったり、注意された事が心に残らず、また同じ事をしてしまったり、心にもやがかかっていて現実感が無い。

特に、聖書は霊的書物である。ある人は、読んでみるとものすごく心が引き込まれたり、ある人が読むと、まったくもって理解できなかったり、ある人はとても不愉快になったり。
聖書は剣であり、闇と光を切り分け、信じる人には永遠のいのちへの道だが、信じない人には、裁きに両断される剣となる。
特に、この聖書を読む時、理解できなくて、曲解し、あさってな理解をしてしまう。
かつての使徒パウロがそうだった。パリサイ人として聖書を曲解して理解し、神の御子キリストにある人達を迫害してしまった。目と心に、覆いがかかっていたのである。

2コリント3:12-18、心に黒くもがかかってしまっている場面がある。
 3:12 こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、
 3:13 そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。
 3:14 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
 3:15 今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。

ここの状況は、ユダヤ人が、覆いがかかっていて、状況が理解できない状況である。
何によってそれは取り除かれるのか。それは、キリストによって、と書いてある。キリストが鍵なのである。
16節に、どうすれば心の覆いが取り除かれるかが書いてある。

 3:16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。

主に向くなら、その覆いが取り除かれる。
だから私達の側が、自由意志を用いて、主に心を向ける、という選択を取って、そう行動する。
そこまでするなら、その覆いは取り除かれるのだ。キリストによって。
さらに書いてある。

 3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
 3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

つまり、私達の側が、自由意志を用いて、主に心を向ける、という選択を取って、そう行動する時、働くのは御霊である。私達が主に向く時、その覆いを除いてくださるのは、キリストであり、そしてその働きをするのは、御霊である。

覆いが取りのけられる時、主の栄光がクリアになって、主の栄光の光を見ることが出来る。
主に向くなら、主の栄光を反射させ、人々に主の栄光を届ける事ができるのだ。
そのためには、まず私達が主に向く。そして、心の覆いを取り除く事だ。

そういうわけで、私達は、御霊によって心が晴れやかになるための祈りが必要である。
それが、エペソ1章17節からの祈りが有効なのである。
 1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ(神の認識をもたらす知恵と啓示の御霊)、

黒雲を取り除かれるのは御霊であるが、この、知恵と啓示の御霊が与えラえっるように。
知恵と啓示の御霊が無い状況であるなら、とんちんかんな事をする。覆いに覆われて、自分の中に閉じこもっているから。
ミズを犯してしまう時、自分に黒雲がかかっていないかチェックすべき。その時、17-19節の祈りをする時である。

神様に対する正しい認識ができない人は、あさってな神様像をもって、霊的あさってな事をしてしまう。

 1:18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
 1:19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

確かに、心の目がはっきり見えるようになったら、ビジネスや人間関係がうまく行くようになる。
しかし最も大事なことは、
「神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるか」
つまり、神に対する認識がはっきり見えるように、という事をこそ、真っ先に求めるべきである。
そして、神様の認識で、物事を見なさい、という事である。

知恵と啓示の御霊は、なぜ必要か。それが与えられたら、神の認識で人を見、事を判断でき、そうして、人がなぜその事をするのか、どういう弱さ、傷、本質をもって、そうするのかがわかる様になっていくから。

私達の目がはっきり見えるようにならなければ、霊的な事柄が一切できない。だから、働き人には必須の祈りである。
ただ、人の状態がわかる、までは良いかもしれがいが、ではその人をどう導いて行けば良いかわからない、という所が、問題である。
確かに人の心がわかるとか、ビジネスがうまくいくための知恵と啓示の霊を求める事も重要だが、なにより、”キリストの認識”が与えられるように求める事が、より本質である。

マタイ7:3-5
 7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
 7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

病や悪霊、過去の傷にとらわれている人、その人達の状況はある程度わかるかもしれない。
ただ、分かったとしても、対処の仕方が分からないとするなら、頭ごなしに叱ったり、根拠のない慰め言葉で塗りつぶしたり、あさってな対応をしてしまう。
まず、自分自身の目の中に、梁がある、それを取り除くなら、兄弟姉妹をいやす事ができるのだ。
だから、まず自分自身を改善させる事が必要である。
それはどうやって取り除かれるものか。
それは、キリストによって取り除かれるものである。だからこそ、エペソ1章の、知恵と啓示の御霊を祈り求める事が重要なのだ。
イエス様の認識をもって、兄弟姉妹の目のちりを取り除く、病、悪霊を追い出す事ができるのだ。

そして、それが与えられたなら、人をいやし改善できるのみならず、自分自身がどのような立ち位置にあるのか、どれほど素晴らしい立ち位置で、イエス様がどれほど素晴らしいお方か、それを知り、感動し、健全になっていくのだ。

主が私達を通して働かれる力が、どれほど偉大であるのか、続く箇所に書いてある。
日本にもアメリカにも、色々な国に、色々な権威がある。しかし、それら全てを凌駕してあまりある力強い権威が、なんと、私達の内にいますキリストにあるのだ。

 1:20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
 1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。

キリストの御名は、内閣権威、大統領権威よりもはるかに上の権威である。
安倍首相のハンコが押された文書は、どの省庁でも、通るが、私達は、なんと、イエス様の名前を用いてハンコを押すのと同じように、その御方の御名によって祈る特権が、与えられているのだ。
ただし、私達がその与えられた御名を、みだりに用いてはならない。イエス様の御名は、神の働きのために行使していくべきものである。
イエス様の御名は、肉欲のためでなく、公務のために、悪霊を追い出し、奇跡を行ったりするべきもので、決して、それらできるゆえに有名になろうとしたり、お金持ちになろうとしたり、するとするなら、それは公務員の公費横領のように、霊的横領になってしまう。
この与えられた特権と力は、御国の公務のために用いるべきなのだ。
かの日、イエス様に、あなたの名によって悪霊を追い出し、奇跡を行ったではありませんか、と言っても、わたしはあなたを知らない、不法をなす者、わたしから離れよ、と言われてしまう。
だから神の国の公務員として、アンバサダーとして、イエス様の御名を用いるべきで,天国の公務に則った動機によってイエス様の御名を用いる時にこそ、この莫大な力が働くのだ。

 1:20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
 1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。

北朝鮮最高指導者の権威は、たとえこの地上のあの領域で権威が通ったとしても、来るべき天国では通らないが、キリストの権威は、この地上でも、かの世でも、いっさいの上にその権威が通るのである。
そしてさらに。

 1:23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

教会はキリストのからだである。そして、その上にキリストがおられるから、イエス様の権威を持つことができる。
逆に、イエス様の認識を持たないなら、キリストのからだとしての機能は無いのだ。
信仰の先人たちは、イエス様の認識を持っていた、ために、それぞれ与えられた賜物を駆使して、キリストのからだの建て上げをした。
ある人は、イエス様の認識に沿って、お金持ちになって、教会の働きを助けた。
ある人は、大いなる政治家となって奴隷解放をした。

だから私達は、もしイエス様の認識がなければ、私達はイエス様のからだにはなれない。
知恵と啓示の御霊はなぜ必要か。それは、イエス様の認識を持つために必要。かしらなるイエス様の認識を持った
このイエス様の認識をもって動く、という事なら、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満たして下さるのだ!ありえない事である。
キリストの権威を帯びて、キリストの御旨をなすために、キリストの御名を用いて宣言するなら、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたの権威において、それが行使されるのだ!それが、教会、エクレシアに与えられているのだ!

エクレシア、それは召し出された者たち。人々。その私達が、キリストのからだであり、ある人には同じ御霊から預言が、ある人には同じ御霊から、施しのできるお金が、与えられ、それぞれが同じキリストの認識に沿って行動する時、それぞれの賜物を行使して、それぞれがキリストの事業、この国を神の国へと変えていく事業に参加するのだ。

エデンにおいて、
まだ人が罪を犯す前、神様から与えられた事業、すなわち、エデンをメンテナンスするという働きを、忠実に行っていた。その時、いっさいのものを、いっさいのものによって満たす方の満ちておられる共同体の中で、健全に、アダムとエバは働いていた。
しかし、神から独立した、神のようになれるという”善悪を知る種”が、彼らの内に埋め込まれてしまった。その時から、神の国の事業に参加する参加者という立ち位置から脱退し、おのおのが独立した、”リトル神”になって、身勝手な善悪判断によって、おのおのが独立的に身勝手な事をし初めた。
だから、被造物はめちゃくちゃになってしまったのだ。
だから、私達が再び本来の人間の状態になるためには、エクレシアである教会につながり、もはや自分の善悪判断によって「リトル神」である事を捨て去って、まことの神にあって教会に参加し、共に与えられた賜物に応じて、おのおのの仕事をする時に、教会はキリストのからだとなって、いっさいのものを、いっさいのものによって満たす方の満ちておられるところのパワーをもって、行使できるのである。
それが、教会に与えられた特権なのだ。

 1:22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
 1:23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

私達の内にいますキリストが、どれほど偉大なお方であり、どれほど素晴らしい事業に参加しているのか、認識できますように。

いっさいのものをキリストの足の下に!
まだ罪を犯していない人類に対して与えられた祝福は、
 1:28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

この、支配せよ、治めよ、とは「足の下で踏む」という意味もある。
だからもし、サタン、ヘビが足の下に、ニョロニョロと来たなら、足の下で踏む!という事を、私達がしなければならない。もしそれをしないで、サタンとの会話にはまってしまったら、エデンがめちゃくちゃにされたあげく、追い出されてしまう。
踏まないとするなら、キリストの認識に無い事になってしまう。
キリストは今も、踏み続けているのだ。神にさからうものは踏み続け、キリストの体で有り続けるべきなのだ。

私達に与えられている特権がどれほど素晴らしいものか。全てにまさる名である。この世でも、かの世でも。
私達がその御国の事業に参加する時、イエス様の御名によって権威を行使しようとするなら、それは受理されて天に届けられる。
しかしもし、身勝手な肉欲の善悪判断に基いてイエス様の御名を行使しようとするなら、受理されない。
だから、御国の事業に参加する、神の国の全権大使として、神の国から遣わされた戦士として、それをなしていくべきである。
もし兵士が、力づくで弱い人からお金を巻き上げるような事をするなら、そのような者は解雇されてしまう。
バプテスマのヨハネが同じ事を言っていた。兵士に対しても、取税人に対しても。
自分の役割を悪用して、奪い取るということを止める、それをすることが、自分の目から梁を取り除く事。
もしそれをしないなら、自分と同じ罪をしている人から、目のちりを取り除く事が出来ない。

梁とははるかに回数を重ねてたくさん過ちをした人。罪を増し加えて、太くなった。
梁は、家をささえる頑丈な横木。それを取り除いていない状態で、私達は、神の認識に立つことはできない。
罪の性質によって自分を支えている梁を、取り除かなくてはならない。

まとめ。今日のメインは、17節から19節の祈り。
1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、
 1:18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
 1:19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

この祈りをメインの祈りとするべき。
目がはっきり見えるようになるために、梁が取り除かれ、人をいやすのみならず、まず自分自身が癒され、神がいかに素晴らしいお方であるのかをますます認識し、神の認識に立って、神の国の事業に参加し、イエス様の御名を行使する時、その力が発揮され、みなさんの人生が変えられ、人の人生をキリストにあって変える事のできる主の働き人となっていくみなさんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

邪悪な世代を断ち滅ぼし、主の教育を受けた世代を新しく創られる主(2歴代誌22章)
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22:1 エルサレムの民はヨラムの末の子アハジヤを彼の代りに王とした。かつてアラビヤびとと一緒に陣営に攻めてきた一隊の者が上の子たちをことごとく殺したので、ユダの王ヨラムの子アハジヤが王となったのである。
22:2 アハジヤは王となった時四十二歳で、エルサレムで一年の間世を治めた。その母はオムリの娘で名をアタリヤといった。
22:3 アハジヤもまたアハブの家の道に歩んだ。その母が彼の相談相手となって悪を行わせたからである。
22:4 彼はまたアハブの家がしたように主の目の前に悪を行った。すなわちその父が死んだ後、アハブの家の者がその相談役となったので、彼はついに自分を滅ぼすに至った。

イスラエルの神、主を捨てたヨラムは、主に呪われた死に方をし、その子アハズヤが王になる。
彼もまた悪い王として記されているが、それは、彼の母アタリヤが助言していたからである。
アタリヤはイスラエル最悪の王、アハブとイゼベルとの間に生まれた娘である。
こうしてアタリヤは、南ユダ王国に入ってしまった悪い種として、その邪悪な実りを結ばせていくようになってしまった。

22:5 アハジヤはまた彼らの勧めに従って、イスラエルの王アハブの子ヨラムと共にラモテ・ギレアデへ行き、スリヤの王ハザエルと戦ったが、スリヤびとはヨラムに傷を負わせた。
22:6 そこでヨラムはスリヤの王ハザエルと戦った時、ラマで負ったその傷をいやすためにエズレルに帰った。ユダの王ヨラムの子アハジヤはアハブの子ヨラムが病気なのでエズレルに下ってこれを見舞った。
22:7 アハジヤがヨラムを見舞に行ったことによって滅びに至ったのは神によって定められたことである。すなわち彼がそこに着いた時、ヨラムと一緒に出て、ニムシの子エヒウを迎えた。エヒウは主がアハブの家を断ち滅ぼすために油を注がれた者である。
22:8 エヒウはアハブの家を罰するにあたって、ユダのつかさたち、およびアハジヤの兄弟たちの子らがアハジヤに仕えているのを見たので、彼らをも殺した。
22:9 アハジヤはサマリヤに隠れていたが、エヒウが彼を捜し求めたので、人々は彼を捕え、エヒウのもとに引いてきて、彼を殺した。ただし「彼は心をつくして主を求めたヨシャパテの子である」と人々は言ったのでこれを葬った。こうしてアハジヤの家には国を統べ治めうる者がなくなった。

アハズヤの王権は、わずか一年で終わってしまった。
アハズヤがエフーによって殺された次第は、第二列王記9章に詳しく記されている。
主を敬わない世代がはびこりその勢いを増し加えようとするなら、主が許されない。なぜなら、主は主を敬わず偶像に走る者には呪いを3第4代に、しかし主を恐れ敬う者には恵みを千代に施されるお方だからである。

22:10 アハジヤの母アタリヤは自分の子の死んだのを見て、立ってユダの家の王子をことごとく滅ぼしたが、

アタリヤの子は殺されてしまった。
もしダビデの血筋の誰かが、主の道に歩む政治を行うとするなら、自分の身が危うい、という事だったのかもしれない。
彼女は、ユダの家の王子をことごとく滅ぼしてしまった。

当時の時代、主を敬う事を貫く人がいたなら、彼は絶望しただろう。
ダビデの血筋に、アハブの汚れた血が混じってしまい、ヨシャパテの子達は殺されてしまったのみならず、王族の血筋がみな断たれてしまった、と。
しかし神は、敢えて、この事を許されたのだ。
人の目から、いかに絶望に見えるような状況でも、主はそれを用いて、最善へとひっくり返す事がおできになる方である。

22:11 王の娘エホシバはアハジヤの子ヨアシを王の子たちの殺される者のうちから盗み取り、彼とそのうばを寝室においた。こうしてエホシバがヨアシをアタリヤから隠したので、アタリヤはヨアシを殺さなかった。エホシバはヨラム王の娘、またアハジヤの妹で、祭司エホヤダの妻である。
22:12 こうしてヨアシは神の宮に隠れて彼らと共におること六年、その間アタリヤが国を治めた。

主は、次々と殺されていくダビデの血筋の中から、一人の赤ちゃんを保護し、彼を備えられる。
その赤ちゃんは、悪が増大している中、神殿の中に隠され、神殿の中で祭司に育てられていく。
いかに人の悪が増大し、もはや神を敬う人が断たれてしまったかのように見えるような現状でも、主は、全く新しく、主の教育を受けた新しい世代を立てられる。。。
ノアの時代がまさにそうだった。

創世記6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。
6:8 しかし、ノアは主の前に恵みを得た。

主は、ただ悪にのみ染まりきってしまった世界全体から、主を敬うノアの家族を取り分け、残し、古い悪の世代は全部洗い流して、新しい主を敬う世代を通して、世界を救おうとされた。
歴代誌の時代においても、主の方法は、全くそうであった。

こうして、邪悪な母が邪悪な教育をする王宮の中、もはや立ち直れなくなってしまったユダ王国に、ひとりのみどりごを備え、古いものを過ぎ去らせ、全く新しく、神をおそれ敬う全く世代へと導いてくださる。
それは、イエス・キリストにおいても、全くそうである。

イザヤ10:33 見よ、主、万軍の主は、恐ろしい力をもって枝を切りおろされる。たけの高いものも切り落され、そびえ立つものは低くされる。
10:34 主はおのをもって茂りあう林を切られる。みごとな木の茂るレバノンも倒される。
11:1 エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、
11:2 その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。

主は、悪で巨大化した”ネフィリム”を、伐採される。
その代わりに、ひとりのみどりごを備え、彼を通して全人類を救いへと導いていく。
こうして主は、邪悪な世代を断ち滅ぼし、主の教育を受けた世代を新しく創られる。
私達も、汚れた性質、汚れた価値観というパン種を除き去り、バプテスマの水で古いものを洗い流し、全く新しく創り変えられて新しく歩み続け、またそのように新しい世代に教育して行く者であるべきだ。

イスラエルに致命的な災いをもたらしていたヨシャパテ(2歴代誌21章)
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2歴代誌21:1 ヨシャパテは先祖たちと共に眠り、先祖たちと共にダビデの町に葬られ、その子ヨラムが代って王となった。

ヨシャパテという善王の信仰の行いについて、あるいは犯してしまった過ちについて、歴代誌は4章にわたって記して来たが、いよいよ代交代となる。
ヨシャパテは良い王として記録されたものの、この21章を見ると、ヨシャパテは実はイスラエルに最悪な事をしてしまっていた事を知る事となる。
最悪な事とは、忌むべき女を息子の嫁としてしまった事だ。

21:2 ヨシャパテの子であるその兄弟たちはアザリヤ、エヒエル、ゼカリヤ、アザリヤ、ミカエルおよびシパテヤで、皆ユダの王ヨシャパテの子たちであった。
21:3 その父は彼らに金、銀、宝物の賜物を多く与え、またユダの要害の町々を与えたが、ヨラムは長子なので、国はヨラムに与えた。
21:4 ヨラムはその父の位に登って強くなった時、その兄弟たちをことごとくつるぎにかけて殺し、またユダのつかさたち数人を殺した。

なんと、せっかくヨシャパテに生まれた多くの息子達は、その長男ヨラムの手によって全員殺されてしまった。
その動機は、次の箇所を見れば大体想像できる。

21:5 ヨラムは位についた時三十二歳で、エルサレムで八年の間世を治めた。
21:6 彼はアハブの家がしたようにイスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘を妻としたからである。このように彼は主の目の前に悪をおこなったが、
21:7 主はさきにダビデと結ばれた契約のゆえに、また彼とその子孫とにながく、ともしびを与えると約束されたことによって、ダビデの家を滅ぼすことを好まれなかった。

ヨラムはなぜ兄弟を殺したのか。それは、ヨラムの妻となったアタルヤのそそのかしであろう。
彼女の父は北イスラエル王国最悪の王アハブ、彼女の母は夫アハブを尻に敷いてイスラエルに偶像礼拝と姦淫を持ち込んだ、イゼベルであった。
このアハブ・イゼベルの間に生まれた娘、ヨラムの妻、アタルヤは、自分の王権を保つために身内の者を殺し、自分が南ユダ王国の王にさえのし上がった女である。(2歴代誌22:10-12)
ヨシャパテが自分の子ヨラムにこの女を結婚させた名目は政略結婚だったであろう。それで自分は、北と南を和解させた、と思っていたかもしれない。
しかし、結婚は軽んじるべきではない。
彼はこの結婚により、とんでもない女をイスラエルに持ち込んでしまい、また、王国の血筋に、災いの根となるものを持ち込んでしまったのだ。

21:11 彼はまたユダの山地に高き所を造って、エルサレムの民に姦淫を行わせ、ユダを惑わした。

アハブはイゼベルに尻に敷かれてイスラエルに偶像礼拝と姦淫を導入したのと全く同じように、ヨラムはアタルヤに尻に敷かれてしまったのだろう。
1コリント15:33 まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。
15:34 目ざめて身を正し、罪を犯さないようにしなさい。あなたがたのうちには、神について無知な人々がいる。あなたがたをはずかしめるために、わたしはこう言うのだ。

神の民の間で、このような事がいつまでも続くはずがない。

21:12 その時預言者エリヤから次のような一通の手紙がヨラムのもとに来た、「あなたの先祖ダビデの神、主はこう仰せられる、『あなたは父ヨシャパテの道に歩まず、またユダの王アサの道に歩まないで、
21:13 イスラエルの王たちの道に歩み、ユダとエルサレムの民に、かのアハブの家がイスラエルに姦淫を行わせたように、姦淫を行わせ、またあなたの父の家の者で、あなたにまさっているあなたの兄弟たちを殺したゆえ、
21:14 主は大いなる災をもってあなたの民と子供と妻たちと、すべての所有を撃たれる。

ヨラムの弟達は、ヨラムよりもまさっていた、とエリヤは言った。
しかし、ヨラムが長男であったので彼を王にしてしまい、それ故に彼よりも優れた王子たちは殺され、ヨシャパテはせっかく産んだ子達は絶やされてしまった。

1ヨハネ3:12 カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。

邪悪な者は、自分よりも正しい人を憎み、傷つけ、殺すものである。
自分のわざが悪く、相手のほうが正しいなら、相手が何をしていなくても葬り去りたくなるのは、サタンの衝動だからである。

21:15 あなたはまた内臓の病気にかかって大病になり、それが日に日に重くなって、ついに内臓が出るようになる』」。

エリヤは彼に、災いを預言した。
主は悔い改めて立ち返る人には憐れみを施して下さるが、ヨラムはどうだったか。

21:16 その時、主はヨラムに対してエチオピヤびとの近くに住んでいるペリシテびととアラビヤびとの霊を振り起されたので、
21:17 彼らはユダに攻め上って、これを侵し、王の家にある貨財をことごとく奪い去り、またヨラムの子供と妻たちをも奪い去ったので、末の子エホアハズのほかには、ひとりも残った者がなかった。
21:18 このもろもろの事の後、主は彼を撃って内臓にいえがたい病気を起させられた。
21:19 時がたって、二年の終りになり、その内臓が病気のために出て、重い病苦によって死んだ。民は彼の先祖のために香をたいたように、彼のために香をたかなかった。
21:20 ヨラムはその位についた時三十二歳で、八年の間エルサレムで世を治め、ついに死んだ。ひとりも彼を惜しむ者がなかった。人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓にではなかった。

ヨラムは結局、立ち返る事なく、王国にただ災いを残して、はなはだ痛み苦しみならが死んで行き、誰も彼をいたみ悲しむ者がいなかった。
まさに、箴言5章の通りである。

5:1 わが子よ、わたしの知恵に心をとめ、わたしの悟りに耳をかたむけよ。
5:2 これは、あなたが慎みを守り、あなたのくちびるに知識を保つためである。
5:3 遊女(他国)のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
5:4 しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
5:5 その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
5:6 彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。
5:7 子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。
5:8 あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。
5:9 おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
5:10 おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
5:11 そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
5:12 言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
5:13 教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
5:14 集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。

ヨラムはあまりにひどい事をイスラエルに導入し、あまりにひどい死に方をした。
それはこの箴言にある通り、異邦の女にとりことなり、主の道に歩まず、その道を捨て去ったからだ。
神の子達が、異邦の女が美しいという事で妻に迎える結果、何が起こるか、創世記6章に書いてある。

創世記6:1 人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、
6:2 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。
6:3 そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。
6:4 そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。
6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

異邦の女が、美しいという事で、神の子が結婚し、御言葉を捨て去った子育てをするなら、寿命は縮められ、ネフィリムという化物が生まれ、いつも悪辣な事に傾く者達が子々孫々に増え広がり、ついにはその子孫は全滅させられてしまうのだ。

そのような者を伴侶とするくらいなら、独身を貫いたほうがまだ良い。
ヨシャパテは息子を、全員失ってしまったようなものだからだ。

私達はアブラハムのように、子供の結婚においてはよく吟味し、素晴らしい嫁を探し入れるべきである。

創世記24:1 アブラハムは年が進んで老人となった。主はすべての事にアブラハムを恵まれた。
24:2 さてアブラハムは所有のすべてを管理させていた家の年長のしもべに言った、「あなたの手をわたしのももの下に入れなさい。
24:3 わたしはあなたに天地の神、主をさして誓わせる。あなたはわたしが今一緒に住んでいるカナンびとのうちから、娘をわたしの子の妻にめとってはならない。
24:4 あなたはわたしの国へ行き、親族の所へ行って、わたしの子イサクのために妻をめとらなければならない」。

イサクは40歳になってようやく結婚できた。世の人は、それを遅いと言い、さっさと目の前にいる女と結婚すれば良いのに、というかもしれない。
しかし、もしアブラハムが結婚を焦って、目の前に沢山いるカナンの女の一人と結婚させていたら、その子孫が空の星のように広がる祝福は得られなかっただろう。

私達は結婚相手を、御言葉に従う人として定めて選ぶべきだ。

ヨシャパテの大勝利と、その後の失敗(2歴代誌20:20-37)
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おびただしい大軍がヨシャパテ王の南ユダ王国に攻め込んできた時、ヨシャパテは世の何者かに頼る事なく、ただ一心に主に求めた結果、主は預言者を送り、彼らに「これはあなたがたの戦いではなく、主の戦い」である事を示された。
そこでヨシャパテ王とその民は、大いに主を喜んで賛美を捧げた。
御言葉が与えられたからには、彼らは、その御言葉の通りを行うべき責任が生じる。

20:20 彼らは朝早く起きてテコアの野に出て行った。その出て行くとき、ヨシャパテは立って言った、「ユダの人々およびエルサレムの民よ、わたしに聞きなさい。あなたがたの神、主を信じなさい。そうすればあなたがたは堅く立つことができる。主の預言者を信じなさい。そうすればあなたがたは成功するでしょう」。
20:21 彼はまた民と相談して人々を任命し、聖なる飾りを着けて軍勢の前に進ませ、主に向かって歌をうたい、かつさんびさせ、/「主に感謝せよ、/そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」/と言わせた。

彼らはなんと、その大軍と自軍との間に、全く武装をしていない、聖なる飾り物をつけた聖歌隊を配備したのだ。
戦術的には全くナンセンスな布陣である。
神を知らない人々は思うかもしれない。地を覆うような敵軍を前に、この聖歌隊は、どれ程の意味があるというだろう、と。
しかしそれは、主の前に何よりも尊かった。
彼らは、この戦いは主が100%戦って下さる、という事を確信した故に、この行動に出たのだ。
主の導きは時に、世の常識から見れば時にナンセンスに見えるかもしれない。しかし、御言葉が示されているなら、その御言葉の通り行う時、世の常識では到底考えられない奇跡を、主は起こされる。

20:22 そして彼らが歌をうたい、さんびし始めた時、主は伏兵を設け、かのユダに攻めてきたアンモン、モアブ、セイル山の人々に向かわせられたので、彼らは打ち敗られた。

一体この伏兵はどこに属し、どのような出で立ちであったのかは、分からない。ただ、それは主が送られた、という事以外は。
伏兵とは、思わぬ所に兵を配備し、敵の意表を突くものだが、主の助けは、私達の思いもしなかった隠れた所から現れ、私達と敵との間に立ちはだかって、戦って下さるのだ。

20:23 すなわちアンモンとモアブの人々は立ち上がって、セイル山の民に敵し、彼らを殺して全く滅ぼしたが、セイルの民を殺し尽すに及んで、彼らもおのおの互に助けて滅ぼしあった。

主は、大軍をもって神の民を飲みつくそうとする者達には、混乱を送られ、悪が、悪同士で共に結託できないようにし(創世記11章)、互いに滅ぼし合うように仕向けられる事は、常套手段である。(士師記7章、1サムエル記14章エゼキエル38章)

20:24 ユダの人々は野の物見やぐらへ行って、かの群衆を見たが、地に倒れた死体だけであって、ひとりものがれた者はなかった。
20:25 それでヨシャパテとその民は彼らの物を奪うために来て見ると、多数の家畜、財宝、衣服および宝石などおびただしくあったので、おのおのそれをはぎ取ったが、運びきれないほどたくさんで、かすめ取るに三日もかかった。それほど物が多かったのである。

一人が一つの死体から分捕るのに多く見積もって1時間かかるとし、それを1日9時間働いたとするなら、3日で27体分の死体から分捕った事になる。
その計算とするなら、敵は、少なくとも自軍の27倍はいた事になる。
それ程多くの敵であっても、主にあって、恐れる必要は一切無いというのは、神の民にとってどれほど素晴らしい特権であろうか。

もちろん、敵を前にしたら戦わずに賛美するというのを、そのままマネしたら必ず勝てるという訳ではない。
一人一人に与えられた戦いと神の救いの方法は違う。しかし、心を尽くしてイエスキリストの名によって祈るなら、人知を超えた平安が与えられ、人の方法ではない救いが来る。(ピリピ4:6-7)

20:26 四日目に彼らはベラカの谷に集まり、その所で主を祝福した。それでその所の名を今日までベラカの谷と呼んでいる。
20:27 そしてユダとエルサレムの人々は皆ヨシャパテを先に立て、喜んでエルサレムに帰ってきた。主が彼らにその敵のことによって喜びを与えられたからである。
20:28 すなわち彼らは立琴、琴およびラッパをもってエルサレムの主の宮に来た。

主を褒め称え喜ぶ事は、私達の力である。(ネヘミヤ記8:10)
彼らの喜びは、敵に勝利したからでなく、分捕りができたからでもない。彼らの喜びは、戦う前からあった。
敵がまさに目の前に迫り来る最中にも、彼らの口には喜びの賛美があった。
それで彼らの主を喜ぶ事が、主の力となって、彼らを救ったのである。

20:29 そしてもろもろの国の民は主がイスラエルの敵と戦われたことを聞いて神を恐れた。
20:30 こうして神が四方に安息を賜わったので、ヨシャパテの国は穏やかであった。

主に信頼し、主ご自身が戦って下さるなら、大いに分捕りができ、周りはそれを見て恐れる。
彼らのように主に信頼して進みゆくなら、主が働かれ、そうして、主により頼むという事がどんなに素晴らしい事かを人々は知り、その主の素晴らしさを味わい尽くして行くものである。

20:31 このようにヨシャパテはユダを治めた。彼は三十五歳の時、王となり、二十五年の間エルサレムで世を治めた。彼の母の名はアズバといってシルヒの娘である。
20:32 ヨシャパテは父アサの道を歩んでそれを離れず、主の目に正しいと見られることを行った。
20:33 しかし高き所は除かず、また民はその先祖の神に心を傾けなかった。
20:34 ヨシャパテのその他の始終の行為は、ハナニの子エヒウの書にしるされ、イスラエルの列王の書に載せられてある。

ヨシャパテの人生はその後、安泰であった事が記されているが、しかしその後、残念な事が記されている。

20:35 この後ユダの王ヨシャパテはイスラエルの王アハジヤと相結んだ。アハジヤは悪を行った。
KJV: And after this did Jehoshaphat king of Judah join himself with Ahaziah king of Israel, who did very wickedly:

20:36 ヨシャパテはタルシシへ行く船を造るためにアハジヤと相結び、エジオン・ゲベルで一緒に船数隻を造った。
20:37 その時マレシャのドダワの子エリエゼルはヨシャパテに向かって預言し、「あなたはアハジヤと相結んだので、主はあなたの造った物をこわされます」と言ったが、その船は難破して、タルシシへ行くことができなかった。

ヨシャパテはなぜ、アハズヤの悪に「join」したのか。
1列王記22:48を見ると、タルシュシュの金を得る事が目的であったと書いてある。
せっかく主の方法で富んだ者、栄誉ある者として周囲から恐れられていたのに、またもや悪しき者と結託してしまい、その尊厳を失ってしまった。
私達は成功した時、富んだ時こそ、心して主から離れないように、高慢になって罪を犯さないように気をつけるべきである。

「理にかなった祈り」とは(2歴代誌20:1-19章)
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ヨシャパテは主に忌み嫌われる事ばかりしていたアハブ王を助けようとした故に災いが下る事が預言されていたが、はたしてその通りになった。

20:1 この後モアブびと、アンモンびとおよびメウニびとらがヨシャパテと戦おうと攻めてきた。
20:2 その時ある人がきて、ヨシャパテに告げて言った、「海のかなたのエドムから大軍があなたに攻めて来ます。見よ、彼らはハザゾン・タマル(すなわちエンゲデ)にいます」。
20:3 そこでヨシャパテは恐れ、主に顔を向けて助けを求め、ユダ全国に断食をふれさせた。
20:4 それでユダはこぞって集まり、主の助けを求めた。すなわちユダのすべての町から人々が来て主を求めた。

ヨシャパテ王は、自分にはとうてい、どうにも出来ない敵を前に、恐れた。
私達の人生も、自分の力ではどうにもならない、私達を攻めたてる敵が来る時がある。
その敵は誰か人間であったり、あるいは病であったり、不足であったりするが、ヨシャパテは敵が来た時、ただ主に向けて助けを求め、人々にも祈りに専念するよう要請した。

20:5 そこでヨシャパテは主の宮の新しい庭の前で、ユダとエルサレムの会衆の中に立って、
20:6 言った、「われわれの先祖の神、主よ、あなたは天にいます神ではありませんか。異邦人のすべての国を治められるではありませんか。あなたの手には力があり、勢いがあって、あなたに逆らいうる者はありません。

6節から12節がヨシャパテ王の祈りであるのだが、その祈りの内容は、非常に理にかなった祈りである。
理にかなった祈りとは、御言葉に基づいた祈りである。
異邦人の祈りは、願い事を並べ立てて、ただ何度も繰り返し繰り返しているようなものだが、それには、祈りがかなえられる根拠は無い。
しかし、永遠に変わらない神様の御言葉を根拠としている祈りは、背骨が通ったかのようにしっかりしている。

私達は祈る時は、大抵まず自分の願いを述べるものだが、ヨシャパテ王はまず、主がどういうお方であるかを信仰によって告白し(6節)、主は天におられ全ての異邦の王国、全世界を統べ治めるお方であり、対抗できる者は無い、と、信仰によって宣言した。
主の祈りも、真っ先に「天にましますわれらの父よ」と、どのようなお方に向かって祈るのかを明確にしている。

20:7 われわれの神よ、あなたはこの国の民をあなたの民イスラエルの前から追い払って、あなたの友アブラハムの子孫に、これを永遠に与えられたではありませんか。

続いてに彼は、彼の先祖アブラハムに永遠にこの地を与えて下さったという約束を持ち出し、アブラハムの子孫である自分達がそこから追い出されるのはおかしい、と、告白した。

20:8 彼らはここに住み、あなたの名のためにここに聖所を建てて言いました、
20:9 『つるぎ、審判、疫病、ききんなどの災がわれわれに臨む時、われわれはこの宮の前に立って、あなたの前におり、その悩みの中であなたに呼ばわります。すると、あなたは聞いて助けられます。あなたの名はこの宮にあるからです』と。

これもまた、主の約束の御言葉である。
ソロモンが神殿の奉献の祈りをした時の祈りのことばであるが、主はその時、天から火を降していけにえを焼きつくし、確かにその祈りの通りにしよう、と、答えてくださった。(2歴代誌6章)
主が答えて下さった約束を持ちだされたからには、主はその祈りを成就させてくださる。

20:10 今アンモン、モアブ、およびセイル山の人々をごらんなさい。昔イスラエルがエジプトの国から出てきた時、あなたはイスラエルに彼らを侵すことをゆるされなかったので、イスラエルは彼らを離れて、滅ぼしませんでした。

ヨシャパテはさらに、この今攻めてくる者達が何者であり、そして主はそんな彼らについて、かつてどのように言われか、という事を盾にとった。
主は、アンモン、モアブ、およびセイル山の人々に手出ししてはならないと、申命記2:4-19で命じておられた。つまり彼らが生かされているのは主の憐れみであり、当時、彼らを滅ぼす力がイスラエルにあったにもかかわらず、主がイスラエルに命じられた故、彼らは生かされたのだ。

20:11 彼らがわれわれに報いるところをごらんください。彼らは来て、あなたがわれわれに賜わったあなたの領地からわれわれを追い払おうとしています。

ヨシャパテは、自分達は主の約束ゆえに彼らを生かし、彼らの領土に一切触れる事なく、自分達は主が与えて下さった地に平穏に生きているというのに、このアンモン、モアブ、およびセイル山の人々が、主に対して恩を仇で返してきた事を主に訴えている。

20:12 われわれの神よ、あなたは彼らをさばかれないのですか。われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです」。

ヨシャパテは最後に、自分達の願いを持ってきた。
私達も、御言葉にはこう書いてあります、だから主よ、この事を起こして下さい、と祈るべきであり、決して異邦人のように同じ願い言葉を、何度も何度も唱えるべきでない。
イエス様もまた、まず父なる神様の御心がなる事をまず祈ってから、その上で、日毎の必要や罪の赦し、悪からの救いを祈るようにと、祈る方法を示された。(マタイ6:9-13)

御言葉を盾に取り、主の御旨に適った方法で祈るなら、主は必ず答えてくださる。

20:14 その時主の霊が会衆の中でアサフの子孫であるレビびとヤハジエルに臨んだ。ヤハジエルはゼカリヤの子、ゼカリヤはベナヤの子、ベナヤはエイエルの子、エイエルはマッタニヤの子である。
20:15 ヤハジエルは言った、「ユダの人々、エルサレムの住民、およびヨシャパテ王よ、聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられる、『この大軍のために恐れてはならない。おののいてはならない。これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだからである。

主はヤハジエルを通して、御旨を示された。
すなわち、これはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだ、という事である。
そうである。アンモン、モアブ、およびセイル山の人々が主の示された憐れみを無視し、彼らが攻め入ってはならない領域すなわちイスラエルの民に与えられた地に攻め入り、そして、イスラエルの民が御言葉を盾に取った方法で祈るなら、この戦いは、イスラエルと彼らの戦いではなく、主と彼らとの戦いである、というのは、理に適った事である。

20:16 あす、彼らの所へ攻め下りなさい。見よ、彼らはヂヅの坂から上って来る。あなたがたはエルエルの野の東、谷の端でこれに会うであろう。
20:17 この戦いには、あなたがたは戦うに及ばない。ユダおよびエルサレムよ、あなたがたは進み出て立ち、あなたがたと共におられる主の勝利を見なさい。恐れてはならない。おののいてはならない。あす、彼らの所に攻めて行きなさい。主はあなたがたと共におられるからである』」。

主は具体的に取るべき行動を示されたが、主がどのように救いを与えて下さるかは示されなかった。
それでいいのである。人は、主から示された行動を取るべきであり、その手段を知る必要は無いのだ。人はただ、主が共にいて下さるという事、これに満足して、主が勧めと言われるなら進み、主が留まれというなら留まるのみである。

20:18 ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダの人々およびエルサレムの民も主の前に伏して、主を拝した。
20:19 その時コハテびとの子孫、およびコラびとの子孫であるレビびとが立ち上がり、大声をあげてイスラエルの神、主をさんびした。

こうしてヨシャパテとイスラエルの民は、救いの確信を得て賛美が溢れた。
人は、主に心を注いで祈り続ける時、主が聞いて下さった、という平安と確信を得る事がある。
ハンナはまさにそうだった。彼女は主に心を注いで祈った結果、確信を得て、もはや悲しい顔をしなかった。(1サムエル記1:12-18)

私達も、ヨシャパテのように恐れる時、ハンナのようにいらだちで塞がれた時、心を主に注ぎ出し、御言葉を楯に祈るべきである。
そうするならやがて、「主は聞いて下さった」という、もはや問題や状況に左右されない平安に満ち溢れるようになるからだ。

王達の父・母となるに相応しく整えをなさる主(創世記20章)
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